「居場所」の心地悪さ

「居場所」の心地悪さ(1/3)


今このコラムの原稿を、浜松へ向かう新幹線で書いている。ちまた公民館を訪ねるのは今回で3回目。行くたびにだいたい1日半ほど滞在するので、そろそろ慣れてきた…と言いたいところだが、実は毎回少し緊張している。誰もが自由に過ごせる「居場所」というだけあって、実際自分もかなりくつろいでいる部分はあるのだが、知らない人と同じテーブルで向かい合う時、やってきた人に声をかける時、何もせずぼんやり座っている時、いつもちょっとだけぎこちない感じがして、帰る頃には少し疲れている。「次のコラムでは何を書こう」とソワソワしているのもあるけど、それだけが理由ではない気がする。言ってしまえば、居場所特有の「心地悪さ」のようなものを感じているのだと思う。


 以前もこのコラムシリーズで触れたが、私は人見知りだ。そう見えないと言ってくれる人もいるけど、人と会うときは内心ドキドキしている。前職では一種の「鎧」をまとわないと仕事ができず、人に会う前は「よしっ」とスイッチを入れていた。相手が仕事関係の人や初対面の場合はなおさらだ。

 でも、ちまた公民館へ行く時はそのスイッチをあえて入れないでおこうと意識している。みんなの居場所に「仕事で来ました!!!」というテンションで入るのには違和感があるし、周りの人も嫌なんじゃないかな、というのが1つ目の理由。2つ目は、取材者としてだけでなく、一利用者としてちまた公民館で過ごすことがみそではないかと思っているからだ。肩の力を抜いてみて、初めて見えることもあるかもしれないと思う。


 とはいえ、実践は想像よりはるかに難しい。正直取材という名目があってよかった、と思うことは多々ある。こんなにも穏やかで自由度が高い空間なのに、他人と一つの場所で過ごすのは、やはりどこかわずらわしい。正解なんてないと頭ではわかっていても「この過ごし方で合っているのかな」と不安になる瞬間がある。

 まず、相手と何を話すか少し悩む。相手がどんなきっかけでやってきたのか、普段は何をして過ごしているのか、近所のオススメのお店など、話題の候補が頭に浮かんでくる。そこで気軽に話しかければ良いのは分かっているんだけど、根暗な性格が顔を出し、「あまり話したくないと思っていたら申し訳ないな…」などと迷う。であれば、持ってきた本でも読もうかな。でも、それだと周りを遮断するようで感じが悪いかな……。いま自分で書いていてイラついてくるぐらい、毎回ウジウジしている。もちろん、ちまた公民館ではどう過ごしても自由だし、誰もとがめない。でも私の場合、未だに逡巡してしまう。


 実はこの心地悪さを感じているのは、私だけではない気がしている。初めて訪ねてきた人は所在なさげにキョロキョロした後、スタッフさんに促されて腰を下ろす。コーヒーやお菓子が出されると、少しほっとしたような表情をする。手元に何かあると安心するのだと思う(私もそうだ)。明確な目的がない場所って、最初は結構怖い。会話を重ねて少しずつほぐれていく人が多い印象だけど、そうなる前に出ていってしまう人がいてもおかしくないと思う。


 実はスタッフさんも悩みながら過ごしている。ある人は、はじめて訪ねてきた人との距離感をはかるのが難しいと打ち明けてくれた。相手が静かに過ごしたいのか、それとも会話がしたくて来たのかを見極めるのは簡単ではない。「お店での接客とはまたちょっと違うし、なれなれしいのが嫌な人もいるだろうし。自分がどのあたりに座って、どんな様子で過ごせばその人の邪魔にならないかな、とか考えちゃうんですよね」。別のスタッフさんは「仕事だからちまた公民館で過ごせているけど、そうでなかったらどう過ごせば良いか分からないかも」とこぼす。それだけ「ただその場にいること」って難しいのだなあと思う。


そもそも「居場所」ってよく言うけど、本当に良いものなの?本音では「家のソファで寝ているほうが心地いいな」と思っているんじゃないの?じゃあ、何で居場所って必要なの?私自身、ちまた公民館で素敵な出会いに恵まれながらも、そんな自問自答を繰り返している。ここまであけすけに書いて良いものか悩んだけど、この際、きれいごと抜きで考えてみたいと思う。

 

「居場所」の心地悪さ(2/3)


 9月末から10月にかけて2日間、正式オープンを迎えるちまた公民館を取材した。滞在1日目は色々な人と話し、夜は「たくさんの人と楽しく過ごせたなあ」と満ち足りた状態で布団に入った。だが翌朝起きると、なんだか体が重い。気分は少し憂うつ。どうやら人に疲れてしまったようだった。もちろん関わった人たちが嫌だったわけではない。ただ私はいっぺんに色々な人と会うと、どんなに楽しくても疲れてしまう体質のようだ。ちまた公民館は楽しい場所だけど、人と話すにはエネルギーがいる。


そこで、2日目は昼前にちまた公民館を抜け出し、歩いて10分ほどの場所にある浜松城公園へ行ってみようと思い立った。自然が豊かで、園内のスタバも過ごしやすいらしい。なんだか取材をサボるようで申し訳ないけど、いったんそこで息抜きしよう。「そもそも居場所で過ごしていたのに息抜きが必要になるって、少し矛盾しているな」などと思いながら、公園への道のりを歩き始めた。


 もう10月になるというのに日差しが強く、背中に汗がにじんでくる。途中、キャップをかぶりリュックを背負った70代ぐらいの男性がこちらを振り返り、道を聞いてきた。見覚えがあると思ったら、どうやら先ほどちまた公民館の前を行ったり来たりしていた人のようだ。旅行で来ているのだろうか。県外の人かな。ここで色々質問してみれば会話が生まれるのだろうけど、何せ絶賛「人疲れ」状態だったので、行き先を地図アプリで調べ「ここを真っ直ぐ行くと右側にありますよ」とだけ伝える。男性は「どうもありがとう」と会釈し、また前を歩き始めた。ちょっとだけ良いことをした気分になる。


でかでかと「大河ドラマ館関連施設 建設工事中」と書かれた横断幕を横目に進んでいくと、公園全体を見下ろせる場所へたどり着いた。だだっぴろい芝生では子どもがフリスビーやブランコで遊んだり、家族連れがピクニックしたりしている。日陰にはベンチが横一列に並べられていて、1台につきおじいさんが1人ずつ座っている。何をするわけでもなく、前方をぼんやり見つめて涼んでいる。近くには犬とじゃれる女性や、おしゃべりしながら弁当を食べる学生もいる。


私も空いているベンチに腰掛けてみる。さわやかな風が吹き抜け、思わずふぅと息を吐く。心が落ち着き、疲れが和らいでいく。一人でぼんやり過ごすのも良いなあ。そう思いながら周りの人たちを眺めていると、「ここも一つの居場所なんだなあ」と思えてきた。それぞれが違うことをしているけど、同じ空間を共有している。ちまた公民館より物理的にひらけていて、公共性がより高いのが公園だ。

でもきっと、ちまた公民館との大きな違いは「屋外かどうか」だけではない。誤解を恐れずに言うと、公園では視界に入る他人が風景の一部。「人格」がないのだ。遊ぶ子どもやピクニックする家族を眺めて、「のどかだなあ」と思う。それ以上も、以下もない。あの人は普段何をしているのかな、なぜ今日は公園に来たのかな、と思っても、想像の範疇を出ない。


理由は明白で、コミュニケーションがないのだ。こちらに飛んできたフリスビーを拾って投げ返したり、「まだまだ暑いですね」と話しかけたりした時、初めて相手が人格を帯びる。公園への道のりで出会った男性も「前を歩く通行人」に過ぎなかったけど、道を聞かれて初めて「腰が低い旅行者のおじさん」に変わった。


積極的に話しかける人でない限り、見知らぬ人とのやり取りが生まれることはまれだと思う。一方、ちまた公民館ではどうだろう。普段職場や学校では出会わないような初対面の人と、約10坪の場を共にする。属性も世代もバラバラだ。たとえ直接話さなくても、視界に入ったり、他の人との会話が聞こえてきたりして、その人の人格が垣間見える。公園より関わりが濃い分、少しの緊張感と面倒くささが伴う。でもだからこそ、心が癒えたり、救われたりする瞬間が生まれやすくなる…のかもしれない。


公園とちまた公民館、どちらで過ごすのが良いかを考えたいわけではない。ただ取材をさぼって一歩外へ出てみた結果、なぜちまた公民館での居心地が悪いのか、少しわかった気がしたのだ。人と過ごすのにはどうしても気遣いが不可欠で、そこには大なり小なり緊張感が伴う。でもその緊張感には、きっと大きな意味がある。家族でも友人でも恋人でもない、赤の他人とのかかわりが、その日に彩りを与えてくれたり、ちょっと救ってくれたりすることがきっとあるからだ。実際、私自身がそうだった。

「居場所」の心地悪さ(3/3)


 毎度私自身の話になって申し訳ないが、昨年秋にうつ状態になり、数か月間休職した。ただでさえ人見知りなのに、この頃はいつも以上に殻に閉じこもっていた。静かに過ごしたいけど一人きりになるのは嫌で、毎日家族かパートナーと一緒にいた。うつ状態になった経緯をよく知る友人らとは、時々ランチに出かけた。でも、それ以外の人と会うのには何となく抵抗があった。とにかく体力と気力がなくて、いわゆる「ホーム」と思える空間で過ごすしかなかったのだと思う。


 だがそうやって過ごしていても不安や悩みは消えず、思考は同じところをグルグルするだけで、体調が治るどころか日に日に眠れなくなっていった。家族もパートナーも友人もたくさん支えてくれるのに、思うように回復できない。「このままではどんどん沈んで、いずれ浮上できなくなる」と危機感を覚えたとき、友人の紹介でレッツの障害福祉施設「アルス・ノヴァ」と「たけし文化センター連尺町」を訪ねた。完全に初めまして状態の他人がたくさんいる場所に、えいやと飛び込んだことになる。


当然、ストレスは大きかった。レッツに訪問したい旨をメールする時は緊張で手が震えたし、滞在している間も、他者と過ごすのに疲れて何度も抜け出した。ただレッツのメンバーが各々自由に過ごしている様子を眺めていると「ああ、私ももっと自由になりたい」と思えた。スタッフさんとの会話の中には、自分の不器用さと向き合うためのヒントがたくさん隠れていた。日常やテリトリーから一歩踏み出し、初対面の彼らと接する中で、回復に必要な考え方にようやく少し気づけた気がした。1週間ほど過ごした後はヘトヘトで、家に帰ってから3日ほど寝込んだけど、あれは浮上するのに必要なプロセスだったと思える。


 ちまた公民館へ行くのが日々のルーティンになっている人もいれば、偶然ふらっと立ち寄ってみたら楽しかった、という人もいるだろう。一方、「居場所」と呼ばれる空間に抵抗感を抱く人もきっと少なくないと思う。家で過ごしたり、心許せる仲間と過ごしたりしたほうが何倍も楽だからだ。でも、「日々にちょっと新しい風がほしい」と思った日。「家にいるだけではもうどうにもならない」と思うぐらい、気分が暗い日。心地悪さや面倒くささを少しだけ我慢して、ちまた公民館にえいやと足を運んでみたら、初対面の誰かから素敵な言葉をもらったり、ふと視界が開けたりする瞬間がある…かもしれない。もちろん、保証はない。「やっぱり私には合わなかったな」と思う人もいると思う。その時はまた別の場所を探してみれば良い。ひとまず私は3月末まで、時々公園などで息抜きしながら、ちまた公民館の「心地の悪さ」に向き合ってみようと思う。