5. 月

5. 月 (月の唄が聴こえる)


最後は月のお話です。


今回、お月様のちいさな絵を数点展示していますが、

これは一番近作であり、今までとは使っている紙が違うので

そのことに少し触れたいと思います。





今までの絵は、全て滲み止め加工をされた紙を使って描いていました。

いわゆるドーサ引きの紙です。

ドーサとは膠と明礬を水に溶かしたもので、それを紙に塗布することにより、

滲み止めの効果がもたらされます。


ドーサが効いた状態になると、水や墨が紙の途中でとまり

(どのくらい滲むかはドーサ液の加減によります)

下まで染みていきません。


今まではその滲み止めを施した紙をパネルに張り込み、

田んぼに水引きをするように、水をたっぷり塗布します。

そうすると、下まで染み込んでいかないので、湖のように水が溜まります。


そこに墨を垂らしたり流したりして、

パネルを動かして雲や水面や雨の表現をつくっていました。





新たに描いている紙は、漉いたままの紙「生紙」(きがみ)です。

水を塗布すれば下まで染みていきます。


ところで私たちのまわりにある印雑物などは

ほとんどが滲み止め加工がなされていると思います。

滲み止め加工のない紙を例えていうならば、

身近なところでは、障子紙や、小学生の時に習った書道の紙、などでしょうか。

染みていきますから下に毛氈(フェルトのようなもの)を敷きますね。





この生紙を使うようになったきっかけですが、

近年、紙の保存の問題が浮上してきていると思います。


このことについて触れるととても長くなってしまうので省きますが、

「より長持ちする紙で絵を描きたい」と思い始め、

二年程前から紙の探索をはじめました。


遅いかもしれませんが、

絵を描いていると、常に「描く」ということに全部の気持ちが集中していて、

なかなかそれ以外のことには気持ちが向きません。


問題が浮上したときが自分の転換期であり、

そのときに全てを注いで勉強するのが一番のタイミングなのだと思っています。





それで日本画材店、紙の専門店、また紙漉き職人さんにお話を伺い、

遠いところだったらお電話で伺い、

幸いにして様々な紙に触れることが出来ました。


その中でようやく、自分の好みと用途にあう楮紙を

いくつかピックアップすることが出来ています。





そして漉いたままの紙の美しさを知りました。


しなやかであり、薄いのに大変強度があり、

素朴な懐かしいような楮の風合い、天日干しの板目の心地よさ、

そして楮の産地により、

または楮のへぐり具合というのか、

様々な紙の色の違いがあります。


そして気に入った紙にドーサを塗布して描こうと思ったのですが

そうしたところ、

せっかくの風合いがいくらか損なわれると見てとりました。

もったいないなと思いました。

それで、これは生のままで使いたい、と思うようになりました。





生紙に描きたい、と思ったものの、いままで全く経験がありません。

自然から直接教わるのが良いだろうと思い、

自然の中でそのまま描くことにしました。


つまり、今までは

「風景→スケッチする→アトリエで描く」でしたが、

「風景→そのまま見て描く」になったわけです。





紙は薄くて早く乾きやすく、風に飛んでいってしまうので、

具体的な方法としては

車で水辺のぎりぎりまでつけることの出来る場所を探し、

車の中で墨や紙を広げて描いています。


または、窓から海や湖沼の見える民宿を探してそこで描くことも度々あります。





最初に「生紙に親しめたかもしれない・・」と思ったのは、

月を描いたときでした。


やはり熊本の、東シナ海につきでた天草という大きな半島があります。

その先端に、牛深という場所があり、

そこで海に面した高い場所にある民宿を探しました。


その夜はちょうど満月でした。


満月のときは、月は宵に東の海から登り、

明け方に西の海に沈んでいきますね。

部屋には東と西に大きな窓があり、

月の出から入りまで一晩中眺めることが出来ました。





「月の呼吸」17.5x25(cm) 2016年



一晩中お月様を描けるなんてなんて幸せな状況だろう!と思い、

窓から一晩中お月様を描いていました。


ずっと月を眺めて描いていると

その光の粒子が大気をゆっくりと広がっていくのがわかります。


そして、海、山、私達のからだ全体に・・・

その光の粒子がゆっくりと染み込んでいきます。


そして、紙の上にもゆっくりと月の光が広がっていきました。

それは、紙の繊維の自然な滲みに寄り添っていました。

そのときはじめて、

「生紙に親しめた」と思ったのです。





このとき初めて月の音も聴きました。


唄といってもいい、細い細い銀色の旋律でした。


まるでアジアの弦楽器のような、ふるえるような細い音。


耳でなく、胸の中心か、皮膚に触感的に聴く感じ。


そして、ああやっぱり月は唄うんだなと思ったのです。


(月の音は、聴く人それぞれに、違う音で聴こえるのではないかと思います。)





「月と呼吸」12.5x35(cm) 2016年



「遠い日の子守唄」12.5x35(cm) 2016年



月の光の広がりを追っていると、

たとえば、紙の上に墨が二重に広がったとします。

そうしてふと空を見上げると実際にも光の環が二重に広がっています。


そんな、月との呼応(対話)も楽しみながら描きました。





今は、神奈川県西の自宅の近くである丹沢湖や富士五湖に

月夜には車で湖のそばに行って描いています。

人のいない湖のはじっこの場所を選んでこっそりと描いているので、

「怖くない?」と言われることもあります。


最初はちょっと怖かったのですが・・・


慣れてくると、夜の山が両手を広げ迎え入れてくれるのを感じるようになります。

むしろ、お帰りなさい、と家に帰るような気持ちです。

そんな温かく見守ってくれる山の懐で、

神の懐で、守られ安心しながら、描いているような気がします。





「月の呼吸」25x35(cm) 2017年



やがて、自分の胸の中にも月があることに気付きます。

やさしい光で心の中の暗闇をすみずみまで照らしているのです。


人と話していて、この人は山のようだなあ・・とか、

野原の匂いや、

ふと、その人の中に青い水脈を感じたり、

そんなことがありませんか?


人には誰しも

心の中に、草木、川の流れ、海、空、山、太陽や月をもっており、

それが、外の世界の風景に呼応するのだと感じます。

お互いが呼び合うから、

私たちは自然に惹かれるのではないでしょうか。





最後にお月様を照らしている太陽のことについて

少し触れさせてください。


やはり熊本の川です。

この場所は寒い時期になると、大変濃い霧が発生します。


このように、川を辿って霧がやってきて、川を辿って去っていくのです。

その中で、どんな風景が見えるかというと・・・





こんな風景です。


霧の中を太陽が登ってくるその姿を見つめることができます。


普段はまぶしくて直視できないお日様も、

霧のなかではその輪郭をくっきりと現します。





「たまゆら」12.5x35(cm) 2017年



そして、光の粒子が霧の中をゆっくりと広がっていくのがわかります。

その粒子は一粒ひとつぶが生きていて、

生命を持っていると感じます。





「命の鼓動」12.5x35(cm) 2017年



それを著した短い文章を引用します。


「私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。

降り注ぐ陽射しの中に無数の光輝く泡、

エーテルの波を見る事が出来たものだ。」


(坂口安吾 風と光と二十の私より)


私たちは太陽から様々な恩恵を受けていますが、

その光からも、直接生命の源を

受け取っているのではないでしょうか?





●おわりに


私は風景の中で絵を描いたりスケッチをしているとき、

意識が自分の枠から抜け出てどんどん広がっていくのを感じます。


わたしは目前のみなもであり、遠くの木々であり、

彼方の山であるように感じます。


大地はわたしであり、わたしたちは大地であると感じるのです。


しかし当初はそのような感覚は、

スケッチをしている時だけの瞬間的な特別なものだと感じていました。

本当は私たちは沈黙したバラバラの存在であると・・。


しかしそのつながりの瞬間を何度も感じ、

雲と対話し、雨音や冬の枯れ枝が語りかけ、

月が古今東西の物語を語ります。


本当は、自然界のすべては生きて魂を持ち鼓動しつながっているのではないでしょうか?

私たちは自然の一部分である。

私は世界をこういう様に感じ、絵を描いています。



ありがとうございました。