残念ながら江戸時代以前に書かれた文献の中で「小鳥谷」あるいは小鳥谷地区内の地名が記載されている例は未確認である。ただし、九戸の乱関連の文書に記載された小鳥谷摂津守の存在から、間接的に戦国時代には小鳥谷という地名が存在していた事が推定され、幕末に書かれた聞老遺事の記述が正しければ、小鳥谷という地名の存在は室町時代中頃まで遡る事が可能となる。なお、現在は「小鳥谷」を「コズヤ」と読むが、江戸時代の文献には「こじや、こしや、こちや」等の記載が見られる。「こしや」は濁点を省いただけと考えれば、「こじや」または「こちや」が当時の読み方であると推定される。元々「こちや」であったものが、「ち」が訛り「こぢ(じ)や」となり、東北弁の「ヂ・ヅ(ジ・ズ)」の区別が曖昧になる特性から「コズヤ」という読み方に変わったのではないだろうか?。また、古老は小鳥谷を「コンジャ」などと呼ぶ場合があり、これは「コジヤ」から派生した発音であると考えられる。なお、これらの発音に「小鳥谷」あるいは「小鳥屋」という文字を当てた原因は不明である。
江戸時代の文献には、現在は失われた地名が幾つか見られる。邦内郷村志によると、玉屋敷は若子内入り口と五月館頂上の間にあったようだが、江戸時代の文献に古屋敷はほとんど登場しないので、古屋敷が昔は玉屋敷であった可能性も考えられる。ただ、現在の古屋敷の位置は邦内郷村志による玉屋敷の位置とやや異なる。御旧領之内福岡通繪図には高屋敷の西側に「古ヤシキ」という地名が登場し、こちらには玉屋敷の記載は無い。美濃木沢(身野木澤)は古屋敷地内の平糠川沿いの地名である。また小姓堂と女鹿口の間に滝坪という地名があった。江戸時代初期にハイタカの巣探索名人の住む臼子屋敷という地名が現れる。臼ヶ敷という苗字の起源と推定され、現在の仁昌寺地区内にあった地名であると推定される。他に、地名としては失われているが、苗字として残っているものに、尻引、八ツ役、谷地などがある。前記の玉屋敷は苗字ではなく屋号として残っている。仁昌寺地区は、小鳥谷の中心的な集落であるが、江戸時代の文書では記載が少ない。小鳥谷村本村という扱いのためであろう。
盛岡藩の資料では小鳥谷の地名を「小鳥屋」あるいは「小鳥谷」と記載するが、旅人による記録では小沢、小シヤ、小茶屋、小取谷等の記載がみられる。十返舎一九の方言修行金草鞋に出てくる「をさわ」は「小沢」の読み間違いであると推定される。小取谷の取は、鳥と取の「取り違え」によるものであると考えられる。
文献に記載された小鳥谷地区の山名についてまとめ、以下に示す。
土間沢山と西海枝知行地にある土丸沢山と同じ山である考えられる。
前田山は西海枝知行地にある米田山と同じ山である考えられる。
唐松山は駒木・朴舘地区の南側にある山で、駒木・朴舘地区の子供会は昔「唐松子供会」といった。
唐松山や周辺の土地を、朴舘伊太郎が嘉永三年(1850)に姉帯村の駒木治右衛門に売却した記録があり、嘉永三年以前は朴舘家が所有していた。
新撰陸奥国誌の唐松山=朝鮮岳という記載は間違っている可能性が高い。ちなみに朝鮮岳は北緯40度7分45.0秒、東経141度20分45.1秒付近、葛巻町と一戸町の境界にある標高744.5mの山の事であると推定される。
岩手県管轄地誌の「滝ヶ平山」と北奥路程記の「竹ヶ平山」は同じ山の可能性がある。朴舘家の地券に記載された記録によると、朴舘家の先祖、惣右エ門が、享保十年(1725)に小鳥谷村の左京から滝ヶ平山を購入したという。範囲は、「東ハ川切、西ハ久保切、南ハ上ノ大岩切川前迄、北ハ作助畑境」である。
朴舘家の地券に記載された山に「水墅仕山」あるいは「水野し山」という山が記載されている。この山は、朴舘家先祖の惣右エ門が享保四年末(1748)に惣十郎から購入した山で、西海枝氏知行地の「水野清山」と同じ山の可能性がある。
岩手県管轄地誌の「大カクラ山」は西海枝氏知行地の「おそらく山」と同一か?
北奥路程記で高屋敷~川底の横に書かれている日向山と山井山は、御旧領之内福岡通繪図の日向、山井という地名に相当すると推定される。
東遊奇勝の鷹見山は、川又の裏山か?。ただし、川又の裏山は山頂部は丸みがあり、飯を盛ったような形ではあるが、離山と表現するような形状ではない。
御旧領之内福岡通繪図に、川向付近に■(鷹?)盛山があり、小鳥谷・姉帯境の尾根の先端付近に記載されている。ここは、砕石採取のため山が削られてしまったため、現在は平坦な地形であるが、昭和23年の米軍による航空写真を解析すると、尾根線より少し高い小山があった事が確認できる。この小山が鷹見山(あるいは鷹盛山)の可能性も考えられる。
目時氏知行地にある駒作保山は、御旧領之内福岡通繪図の駒作ホ山の事であり、若子内近隣が目時氏の知行地であった事が推定される。