小鳥谷地区に知行地を持っていた武士・寺社
[2023/9/9 加筆]
(1)九戸の乱以前
● 小鳥谷氏
九戸の乱より前に、小鳥谷地区に知行地を有していたと推定されるのは小鳥谷氏である。聞老遺事によると、南部信義が京都からの帰途、新潟港まで迎えに来た家臣の中に小鳥谷安部三郎という名があるという。南部信義は文亀元年(1501)に21代当主となり、文亀三年(1503)に42歳で亡くなっているが、上洛が事実とすれば、当主としての上洛であれば、1501~1503年の間、20代当主南部信時公の時代に信時公の名代として上洛したのであれば、1501年より前という事になる。南部信義が上洛したとき、連歌師宗祇と京都で会ったという。宗祇は明応九年(1500)から越後に旅立ち(九月十六日出立)、文亀二年(1502)に越後から関東に向かい、箱根で亡くなっている。従って、南部信義が宗祇と京都で会ったのであれば、明応九年(1500)以前で、信時公の時代という事になる。また、それより後に会ったのであれば、京都ではなく、京都からの帰途、越後で会った事が推定され、年代的には1500~1502年に絞られる。
一戸町誌によると、小鳥谷安倍三郎の名前から、小鳥谷安倍某と、その三男である小鳥谷安倍三郎の二人の存在が推定されるという。小鳥谷安倍三郎の存在については、他の文献で確認できない人物であり、聞老遺事も江戸時代後半(文政5年1822)に書かれているため、文献としての信頼性について疑う必要もあるが、小鳥谷を含む一戸地域に安倍と名乗る一族がいた事は、別の文献で確認できる。それは、米良文書である。米良文書・天文七年(1538)の記録によると、那智郡実報院檀那交名に一戸の檀那の1人として「安位之丹後守」の名が記載されている。位は倍の間違いで、安倍丹後守が正しい名前と考えられる。当時の「一戸」は現在の一戸町全域に二戸市浄法寺地区、葛巻町の田部地区(旧二戸郡田部村)を含む広域の地名である。米良文書から、この「一戸地域」に安倍を名乗る一族が存在した事が確認できるため、安倍一族のうち、小鳥谷に知行地を持った者が、地名から小鳥谷(小治屋)を名乗った可能性が考えられる。あるいは丹後守自身が小鳥谷氏である可能性も考えられる。
小鳥谷氏の本拠は仁昌寺地区の南側にある五月舘とされる。また、旧仁昌寺があった小鳥谷小学校横の観音堂境内に、過去には宝篋印塔が2基あったとされ、それが小鳥谷氏の墓の可能性も考えられるが、この宝篋印塔は現存していない。仮に宝篋印塔が小鳥谷氏の墓であれば、天台宗時代の旧仁昌寺の創建に小鳥谷氏が関わっていた可能性が考えられる。宝篋印塔は小姓堂地区にも1基ある。小姓堂の宝篋印塔は御小性神社を創建した勢力に関連している可能性が高いが、これが小鳥谷氏なのか、あるいは小鳥谷氏とは別の勢力のものなのかは不明である。米良文書に記載されている安倍(位)丹後守が小鳥谷氏であると仮定した場合、小鳥谷氏による熊野信仰から中村の熊野神社の創建に小鳥谷氏が関わっている可能性が考えられる。
小鳥谷氏は、九戸の乱で姉帯氏とともに姉帯城に篭城した九戸党の武将であったと推定されるが、小鳥谷安倍三郎は三戸南部の家臣として働いている。これは、家督を継ぐ可能性の低い三男という比較的自由な身であったためと推定される。なお、地理的に一戸に近い小鳥谷を本拠とする小鳥谷氏は本来一戸南部家の家臣であった可能性も考えられ、一戸南部氏滅亡後に九戸党に鞍替えした可能性も考えられる。
九戸党として戦い、姉帯城で討ち死にしたと推定される小鳥谷(小治屋)摂津(摂津守)は、小鳥谷安倍三郎の兄(安倍太郎?・安倍次郎?)の子孫であると考えられる。前記のように丹後守も小鳥谷氏と仮定するならば、安部三郎が新潟に行った時期から丹後守が米良文書に登場するまで36年以上経過している事から、丹後守は小鳥谷安部三郎の兄の子供の可能性が考えられる。それから九戸の乱まで53年程経過している事から、小鳥谷摂津は、丹後守の孫か?
九戸の乱以後、小鳥谷氏の消息は不明であるが、一戸町誌には小鳥谷氏が次のように続いたとする出典不明の説が掲載されている。
小鳥谷摂津 → 越中 → 丹波
この系図に前記仮説を加えると次のような系図となる。
安部(安倍)氏・・・・・・・小鳥谷安部某(三郎の父)→小鳥谷安部[太郎?](三郎の兄)→(小鳥谷)安倍丹後守→某→小治屋摂津 → 越中 → 丹波
小鳥谷氏が安倍姓であると考えられるため、その出自が奥州安倍氏の可能性も考えられる。奥六郡を本拠とした奥州安倍氏は前九年の役で亡びるが、前九年の役で源氏に寝返った釶屋・仁土呂志・宇曽利の俘囚長・安倍富忠の一族はその後も存続したと推定される。小鳥谷は糠部郡にあるため、小鳥谷氏は安倍富忠に繋がる家系の可能性も考えられる。ただし、安倍富忠の家系についての記録は現存しないという。それは安倍頼時の娘を母に持つ藤原清衡を祖とする平泉政権下では冷遇されたためではないだろうか。奥州藤原氏滅亡後の鎌倉政権下では地頭・地頭代が現地に派遣され、南北朝時代以降には南部氏やその一族が台頭するが、そのような中で細々と続いたのが小鳥谷氏ではないだろうか。
九戸の乱では美濃木沢が戦場となるのに対し、小鳥谷氏の居城である五月館に関する戦いの記録や伝承がない事から、九戸の乱の時、小鳥谷氏は五月館を捨てて戦に挑んだ事が推定される。あるいは、五月館は城として機能に乏しかったのかもしれない。
● 姉帯氏
小鳥谷氏とともに、小鳥谷に知行地があった可能性があるのは姉帯氏である。姉帯氏の先祖は三戸南部十六世南部助政の次男、何某の嫡流という説もあるが、通説では九戸政実の四代前、九戸築後守連康の次男である姉帯蔵人兼実が姉帯を知行したのが始まりとする。兼実は九戸の乱で姉帯城に籠城した兼興・兼信兄弟の父である。また、近年公開された秋田県大館市の小林家文書によると、小林家の先祖は姉帯城落城時に乳母とともに姉帯城から金田一村に逃げた兼信の子(当時二歳)で、その先祖は畠山重忠(平安時代末~鎌倉時代初期の御家人・執権北条時政により謀反の疑いをかけられ子とともに討たれる)の家臣であった恩田六郎安時で、恩田野大学兼興(姉帯大学兼興)と五郎兼信(姉帯兼信)は安時の嫡子から十九代目になるという。これが事実であれば、姉帯氏は南部氏でも九戸氏でもなく恩田氏という事になり、元々は畠山氏を先祖とする浄法寺氏に近い一族だった可能性も考えられる。なお、姉帯氏=恩田氏説が事実と仮定し、九戸築後守連康の次男兼実が姉帯を知行したのも事実と仮定するならば、兼実は姉帯氏(恩田氏)に婿入りした可能性があり、九戸氏による浄法寺氏や一戸南部氏に対する牽制・九戸氏の勢力拡大が目的であったと推定される。
九戸の乱前の姉帯氏の知行地は1500石であり、そのうち1000石は現在の盛岡市太田にあり、残りの500石が姉帯周辺にあったという。江戸時代の姉帯地区の石高は200石程度なので、姉帯周辺の500石には小鳥谷地区の一部が含まれていた可能性がある。地形的に見れば小鳥谷川向地区などは姉帯氏の領地でもおかしくないように思える。なお、姉帯に近接する村々の江戸中期の石高は、田野と冬部(現在の葛巻町田部地区)の合計が300石程度、小鳥谷は350石である。江戸時代以前の石高はこれより少なかったと予想される。
(2)九戸の乱直後
九戸の乱の後は、九戸党の武将が排除され、その知行地は勝者である南部信直についた武将に配分されたと推定されるが、詳細は明らかでない。唯一確認できるのは目時氏である。また、二戸市浄法寺町里川目の屋号「こんじゃ」(小鳥谷の意)という旧家の家伝から、浄法寺氏の領地が小鳥谷にあった可能性が推定され、その領地を得た時期は目時氏と同様に九戸の乱の後が考えられる。
● 目時氏(目時良八家)
目時甚五郎忠昌は、南部信直公に仕え、小鳥谷村に42石の知行地を与えられたという。目時氏は、元々津嶋を名乗る一族であった。津嶋弥三郎政秀二弟の正朝は、南部信直より三戸郡目時村を知行地として与えられ、在名により目時氏を称したという。目時良八家はその支族であるといわれるが、目時肥前正朝の家から分かれた時期は不明である。小鳥谷村は九戸党の領地のため、小鳥谷村の42石を信直公(1599没)から与えられたのであれば、その時期は九戸の乱後の1591~1599年の間に絞られる。江戸時代(1603~)より前から小鳥谷に知行地を有する事が確認できるのは、今のところ目時氏のみである。雑書には、宝永五年(1708)二月六日、目時孫左衛門による五年の御暇願(知行所の小鳥屋村で不作が続き収入が無いため?)の記事がある。目時氏の知行は、幕末まで続く。
元文三年(1738)「諸士知行所出物諸品并境書上」によると、当時の目時氏の知行地の石高は42.000石、知行地内にある山の名前に「駒作保山・わりこ山・水なし山・目ヶ沢山・小繋境うつの」がある。目ヶ沢山は女鹿沢山あるいは時ヶ沢山の事であると推定される。女鹿沢山は小鳥谷地区の西側に、時ヶ沢山は小鳥谷地区の南西にある山である。駒作保山は、御旧領之内福岡通繪図によると若子内の近くに描かれている。これらの事を考慮すると、目時氏の知行地は小繋との境を含む小鳥谷南西側の地区であると推定できる。
一戸町誌(下巻)によると、幕末・嘉永五年(1852)の目時領肝入は七助という人物が務めている。
● 浄法寺氏(浄法寺氏家臣 野月(野続)氏)
「陸奥の名族時浄法寺氏研究」というサイトによると、二戸市浄法寺町里川目に屋号「こんじゃ」(小鳥谷)という旧家があり、その先祖は浄法寺氏の家臣である野月(野続)氏の家来で、江戸時代初期に小鳥谷から里川目に移り住んだという。浄法寺氏は岩崎一揆出陣時の不手際から江戸幕府がスタートする慶長八年(1603)に改易となっている事から、「こんじゃ」家の里川目移住は浄法寺氏が領地を失った事が原因であろう。つまり、慶長八年(1603)以前には野月(野続)氏が管理する浄法寺氏の領地が小鳥谷地区内にあった事が想定され、「こんじゃ」家は野月(野続)氏により小鳥谷に派遣されていた一族と考えられる。浄法寺氏がいつ頃から小鳥谷に領地があったのかは不明であるが、小鳥谷は一戸に近く、一戸南部氏が滅ぶ前は、一戸南部氏の影響が強いエリアであったと推定され、九戸政実の乱より前から浄法寺氏の領地が小鳥谷にあった可能性は低い。浄法寺氏は九戸政実の乱において九戸城攻略の先鋒として活躍した事から、九戸政実の乱の後に目時氏とともに小鳥谷地区内の領地を得た可能性が考えられる。その場合、「こんじゃ」家が小鳥谷にいた時期は、1591年~1603年の12年程であるが、たった12年住んでいただけで「こんじゃ」が屋号になるものなのか?という疑問が残る。
(3)江戸時代以降
江戸時代初期の詳細は不明であるが、ハイタカの巣探索の熟練者に対し、70石を越える領地のうち、50石前後に御免地を設定している。御免地は知行地から割り当てる事は考え難いので、70石を越える領地が御蔵入高として設定されていた事が推定される。
江戸時代中期は、目時氏の他に、西海枝氏、飯富氏、毛馬内氏の知行地があった他、寺社領として桂寿院の領地があった事が確認できる。このうち、西海枝氏と飯富氏は、当主の出奔や自殺により知行地が没収されている。代わりに下斗米氏、原氏、横浜氏に知行地が与えられ、幕末には御蔵入高の大半が法倫院に与えられている。
● 西海枝氏
元文三年(1738)「諸士知行所出物諸品并境書上」によると、小鳥谷に129.876石の西海枝氏の知行地が記録されている。
西海枝氏の初代である四郎兵衛一明(四兵衛・勝次)は、肥前(現在の佐賀県と長崎県の一部)出身で、南部利直公の時代・寛永四年(1627)に江戸で召抱えられ、寛永五年 (1628)より紫波郡和味村(矢巾町)に70石を知行し、後に130石加増され200石となる。この130石は、小鳥谷の知行地129.876石とほぼ一致する。また、寛永二十一年(正保元年)(1644)の支配帳に200石と記載されている事から、130石の加増(=小鳥谷)は、寛永年間(五年~二十年の間)に行われた事が推定される。 元文三年(1738)「諸士知行所出物諸品并境書上」によると、小鳥谷129.876石以外に、志和和味村に59.946石、志和北伝法寺村に19.014石の知行地があった。
四郎兵衛一明以降は次のように続く。
・安勝(助九郎・八郎右衛門)
・勝阜(助九郎、八郎右衛門、後毛馬内左膳)
勝阜は養子で、毛馬内三左衛門次自の四男である。寛文四年(1664)に家督を相続し、元禄十六年(1703)六月に藩命により長男勝睦に家督を譲り、自らは新たな毛馬内家(小鳥谷に100石を有する毛馬内名張家)を起こす。
・勝睦(助九郎・八郎右衛門):勝阜の長男
・勝治(勝躬・与次郎・八郎右衛門)
寛延元年(1748)十二月に勝治が出奔(家出・失踪)し、小鳥谷を含む家禄は没収され断絶する。※西海枝氏はいくつか分家があり、幕末まで続いた家もある。
西海枝氏の知行地には、唐松山、米田山、おそらく山、長坂山、道丸沢山、りせり沢山、水野清山、め鹿山、外山があり、平糠川や小繋山の記載もある。米田山は、北奥路程記の絵図で高屋敷の東側に描かれている前田山に、道丸沢山は、北奥路程記の絵図の笹目子の東側に描かれている土間沢山に相当すると推定される。また、唐松山(駒木・上平地区の裏山)、平糠川、小繋山などの記載から、小鳥谷南部一帯に知行地があったと推定される。
● 飯富氏
元文三年(1738)「諸士知行所出物諸品并境書上」によると、小鳥谷に25.153石の飯富氏の知行地が記録されている。
飯富家初代の飯富良通(義昶・義辰・義房・始め勝田三郎兵衛)は筑前(現在の福岡県西部)出身で、はじめ勝田三郎兵衛と称していた。長崎で医学(外科)を学び、この頃に飯富に改める。後に江戸に住み、寛文七年(1667)に江戸で外科医として南部重信公に仕官し、合力金若干を支給される。寛文十一年(1671)十五人扶持、寛文十三年(1673)六十石が加増され百五十石となった。延宝元年十二月(1673)に前禄の代わりに地方百五十石を拝領し、宝永元年(1704)八月に畑返新田四十五石を拝領し、合計二百石となる(五石分不詳)。小鳥谷25石は、延宝元年の地方百五十石を拝領時に得たと推定される。良通以降は、次のように続く。
・義昌(良伍):良通嫡子、享保八年(1723)繋薬草園を建設
・義根(玄亀):義昌嫡子、幕府医師上領玄碩に師事
・義翰(義昭・後に義意・良哲・良伍):良通の四男・嗣子、義根の叔父
・義敷(良碩):小寺玄仲顕房の四男・養嗣子
寛延三年(1750)三月に義敷(良碩)が自殺し、家禄は没収され、小鳥谷の知行地を失う。
飯富氏の知行地には野里向山、中屋敷向山がある。この向山が、野里や中屋敷から見て平糠川の対岸に当たる姉帯との境にある山を意味しているのであれば、飯富氏の知行地は、小鳥谷地区東縁部、現在の小鳥谷字川向地区にあったと推定される。
● 毛馬内氏(毛馬内名張家)
毛馬内名張家初代の勝阜(助九郎、八郎右衛門、後毛馬内左膳)は、毛馬内三左衛門次自(毛馬内伊織家)の四男で、始め西海枝八郎右衛門安勝の養子となり西海枝家を継ぐが、元禄十六年(1703)六月に南部信恩公の命により西海枝家を長男に譲り、新たに毛馬内家(毛馬内名張家)を創設。300石10人扶持(高360石)を知行した。小鳥谷100石の知行地は、この時に得たと推定される。勝阜の以降の毛馬内名張家の家督は次のように続く。
・長隆(権七・左膳)
勝阜の次男、長男が西海枝家を継いだため、毛馬内名張家の家督は次男が200石十人扶持(260石)で継いだ。長隆は正徳元年(1711)十月、朝鮮通信士の 来訪に伴い伊豆で迎馬の使節を勤めるが、十月十六日三嶋駅(静岡県三島市)で急死(31歳)している。
・勝美(助松・弥惣・左善)
・賀高(義高・愛八郎・文内・彦四郎・中館氏・名張)
・高義(直高・虎太郎・虎之進・甚五左衛門・名張):賀高の長男。
なお、賀高の次男、盈次は高知毛馬内九左衛門家を継ぎ、盛岡藩の家老職を務めている。
・権七(甚五左衛門)
・岩治賀次
家老の毛馬内三右衛門盈次の次男。岩治は持病の癲癇により隠居し(雑書)、隠居後は知行地の穴久保で寺子屋の師匠を務めていた事が知られている(一戸町誌)。
・金蔵次胤(名張)
・雄八(名張)
・宮橘賀来
元文三年(1738)「諸士知行所出物諸品并境書上」によると、小鳥谷に100.033石の知行地が記録されている。他に三戸梅内村に52.786石、三戸玉懸村に47.216石の知行地があった。天保三年(1832)の福岡代官所文書でも小鳥谷の知行地は100.033石である。一戸町誌の100.303石は間違いか?。毛馬内名張家の知行地は、小鳥谷が最大であった。そのためなのか、権七が毛馬内家を相続すると(宝暦六年 1756)、隠居した祖父(賀高?)とその従者が小鳥谷に派遣されている。また、岩治賀次は隠居後に小鳥谷の穴久保で寺子屋の師匠をしていたといわれている。小鳥谷は毛馬内名張家の当主の隠居先であったのだろうか?
諸士知行所出物諸品并境書上によると、知行地にある山は川疵山、峠山、なもみた山、もせか沢山、しのはた山、三本松山、穴久保山、女鹿沢山、小姓堂山である。川疵山は川底山か?。三本松山は北奥路程記の絵図に小鳥谷東側の低い山として描かれている。知行地は、小鳥谷北部(小姓堂・穴久保など)から中部(篠畑)・南部(川底)・西部(女鹿沢)など広範囲にあった事が推定できる。また、野中家文書によると文久三年(1863)に野中村・女鹿口村・小姓堂村・穴久保村・女ヶ沢村の五村で取り交わされた村の掟の記録が残っている。毛馬内岩治賀次は穴久保で寺子屋を行っていた事から、穴久保が毛馬内領であると推定され、その穴久保と同一行動を取っていた野中・女鹿口・小姓堂・女ヶ沢の村々も毛馬内領の可能性が高い。
日本山林史 保護林篇 資料によると、文化九年(1812)の文書に「毛間内岩治知行処 肝入長治子 幸之助」という文言が見られる。当時の肝煎は長治で、その子供は幸之助であるが、幸之助は台風で倒れた小姓堂の街道並木の松を無断で伐採し罪に問われている。
一戸町誌(下巻)によると、嘉永五年(1852)の毛馬内領肝煎は甚右ェ門という人物が務めている。
図-毛馬内氏と西海枝氏の家系図
● 下斗米氏
天保三年(1832)の福岡代官所文書によると、小鳥谷地区に下斗米氏の29.312石の知行地が記録されている。下斗米氏は、古くから南部家に使え、多数の分家がある一族である。このうち、小鳥谷に知行地を得たのは相馬大作の実家である。
相馬大作の祖父宗兵衛常高は福岡給人下斗米想右衛門常宜の三男で、分家し商売を始め、紙蠟漆を中心に事業を展開、江戸方面まで販路を拡大し、「平野屋」を一代で大店に成長させた。宝暦六年(1756)寸志金を献上100石の福岡給人となった。親戚・下斗米惣七家家財冨覚の宝暦六年の記事に『・惣之進常高も金五百両指上、身帯百石頂戴、同日御礼申上候』とある。(二戸史料叢書 第五集 町のくらし)。安永年間、数度の献金により200石となり盛岡支配福岡居住(盛岡給人)となる。下斗米惣七家家財冨覚によると
安永四年(1775)正月の記事に※安永三年(1774)の出来事を記載
・下斗米宗兵衛二男惣次郎新地五拾石願上、金二百五十両上納被仰付
・下斗米宗兵衛足高四拾石願上、金百六拾両上納被仰付。右足高、三男喜吉ニ分地末々仕度由ニ而願上候
安永九年(1780)の記事(安永十年正月記載)に
・此節、御金方六拾石下斗米宗兵衛頂戴、永盛岡御支配被仰付
とある事から、盛岡給人となった時期は安永九年のようである。安永四年に100石から140石になり、安永九年の60石加増で200石になったようだ。
小鳥谷は福岡通に属しているため、小鳥谷の知行地は福岡給人となった宝暦六年(1756)に得た可能性が考えられる。なお、当時の小鳥谷村は、漆木の一大産地であった。その後、勝之助宗倫(宗兵衛 将信)・平九郎昌宜(平九郎・※相馬大作兄)・深昌常(小六 知幾)・知幾昌高(明治11年死去)と続く。
一戸町誌(下巻)によると、嘉永五年(1852)の下斗米領肝煎は長四郎という人物が務めている。
● 原氏
天保三年(1832)の福岡代官所文書によると、小鳥谷地区に原氏の38石の知行地が記録されている。
原家の先祖、三田村平兵衛政澄は、筑後(現在の福岡県南部)に生まれ、のちに奈良・大和郡山藩主松平忠明に仕えて20石4人扶持を録し、その小姓を務めた。寛永十年(1633)に南部家に100石で召抱えられ、妻の原姓を名乗ったのが原家の始まりである。その後、禄の増減があり、第五代・原直記芳忠の時代、享和三年(1803)に37.935石加増され、併せて200石となる。この時の37.935石が、小鳥谷38石の可能性が高い。第七代の原直記芳隆は盛岡藩の家老職を務めている。芳隆は平民宰相原敬の祖父である。
一戸町誌(下巻)によると、嘉永五年(1852)の原領肝煎は与五郎という人物が務めている。
● 横浜氏
天保三年(1832)の福岡代官所文書によると、小鳥谷地区に横浜氏の50石の知行地が記録されている。
横浜氏の先祖は、七戸右近朝慶の四男兵三郎慶則で、北郡(青森県)横浜村に居住した事から、在名により横浜氏を名乗った。幾つかの支族のうち、小鳥谷に知行地持つ横浜七郎家は、横浜(永之助家)左近慶勝の子横浜半平慶親(寛蔵家)の三男横浜九郎左衛門茂慶を祖とする。
・茂慶(慶知、平八、縫殿右衛門、横浜九郎左衛門)
南部重信の代に世子行信の料理方に召し出され、その後丹後田辺藩主牧野英成の正室鎮姫(南部行信四女重子)付末料理方として田辺藩の江戸橋屋敷で勤務。晩年は妻子を牧野家江戸橋屋敷に移し享保十一年(1726)に死去。金方250石。その跡を栄治兵衛慶通が継ぐ。
・栄治兵衛慶通(資慶、慶臺、与市、半三郎、九郎右衛門、官左衛門)、享保十三年(1728)に江戸から盛岡に移る。明和元年(1764)、藩命により幕府与力安富軍八元的に入門し日置流道雪派弓術を学び免許皆伝となり盛岡藩初代師範となる。明和七年(1770)死去。その跡を慶政が継ぐ。
・慶政(慶良、与市、官左衛門、縫右衛門)、父から学んだ日置流道雪派弓術の師範となる。天明九年(1789)死去。その跡は与市慶宝が相続する。
・与市慶宝(縫太、帯刀)、用人上席格広間番頭を勤め、その功により文化三年(1806)金方10両加増で地方150石30両(高300石)となる。地方は100石を大迫通亀ケ森村(花巻市大迫町)、残りの50石が福岡通小鳥谷村の知行地である。また、父の弟子から日置流道雪派弓術を学び師範となる。文化十二年(1815)死去。その跡を常治(英治)が継ぐ。
・常治(英治)、文化十四年(1817)死去。その跡を姉婿の七郎源慶が継ぐ。
・七郎源慶は用人などを務め、慶応二年(1866)にその勤功により現米5駄加増で地方250石10両5駄(高310石)となる。慶応三年(1867)死去。その跡は慶宝の子官平慶頼が継ぐ。
・官平慶頼(正己、持筒頭)、日置流道雪派弓術を学び師範となる。盛岡藩覚書・文政十三年(1830)二月十二日の記事に、脚気を患った父を介抱するため、十三歳で父に付き添って登城した事が記録されている。明治十二年(1879)死去。
一戸町誌(下巻)によると、嘉永五年(1852)の横浜領肝煎は喜太郎という人物が務めている。
(4)寺社の知行地
● 桂寿院
桂寿院は、天台寺の別当で、小鳥谷に約18石の知行地があった事が知られている。「二戸史料叢書 第一集 福岡通代官所文書 上」によると、天保三年(1832)当時の小鳥谷・桂寿院知行地の石高は18.047石である。また、一戸町誌上巻・天明四年(1784)の記録によると、天台寺(桂清水)別当領の肝煎は勘作という人物が務めている。この小鳥谷の知行地が何時からあったのかは不明であるが、雑書の延享五年(1748)の記事に、小鳥谷村桂清水別当領で発生した火事の記事がある事から、江戸時代中期まで遡る事が可能である。また、小鳥谷村の石高の推移から、桂寿院領が1683年には存在していた可能性がある。以下に、その根拠を示す。
平凡社 岩手県の地名によると、元文四年(1739)の小鳥谷村の御蔵入高は36石である。
元禄十六年(1703)年に毛馬内氏が小鳥谷地区に100石の知行地を得る事から、元禄十六年以前の御蔵入高は約136石(100+36)であったと推定される。
天和三年(1683)の検知で、小鳥谷村の石高は約352石である。ここから御蔵入高136石を差し引くと、小鳥谷村の知行地の合計は216石であると推定される。
天和三年当時、小鳥谷村内に知行地があったと推定されるのは、目時氏(42石)、西海枝氏(130石)、飯富氏(25石)で、合計すると約197石となる。
仮に桂寿院領18石があったと仮定すると、197+18=215石となり、前記の知行地合計である216石と極めて近い値となる。
以上のように、石高の推移から、間接的にではあるが、桂寿院領が天和三年(1683)まで遡る可能性が見えてくる。
桂寿院にとって、小鳥谷は「格別の御寄付地」として、重要視したようで、小向文書に次のような逸話が残っている。
小鳥谷で「百姓出入り」(百姓一揆のようなもの)があり、年貢納入の見込みが立たないため、藩の好意で、一戸に領地変更の措置をとったが、寺側(桂寿印院)はこれに難色を示したという。天台寺(桂寿院)にとって小鳥谷の知行地は「格別の御寄付地」として、あくまで小鳥谷保持に固執したという。一時本寺(盛岡法輪院)預かりとしても出入りのおさまるのを待ち、「格別の御寄付地」の知行地を全うしようと願い出たという。(年代不明 天台寺研究より)
嘉永二年(1849)から小鳥谷に法輪院の知行地が追加されるが、上記の事件と何か関係があるのだろうか?。
池本坊文書に南部利直による慶長六年(1601)の寄進状写が残っている(寄進されたのは4.405石)。また、南部領宗教関係資料3寺社記録によると、元禄十二年(1699)に十二月、桂清水(天台寺)別当衆(80石余)が、本来年貢上納や諸役御免であったのが守られていない事に対し、利直公の証文の写しを付けて、諸役御免の確認を藩に願い出ている。天台寺に対する厚遇が利直の時代に遡る事が確認できる。続いて、南部重直の時代、明暦三年(1687)から伽藍の整備が行われ、万治元年(1658)に観音堂(本堂)を再興。南部重信の時代、元禄三年(1690)に大修理が行われたという。このように江戸時代初期の盛岡藩主は天台寺の保護に力を注いでいる事から、小鳥谷18石の寄進者の候補といえる。特に利直公は有力候補であり、慶長六年(1601)の池本坊に寄進したのと同じ時期に、桂寿院領や他の坊にも寄進した可能性が考えられる。前記のように、桂寿院領が天和三年(1683)より前から存在していると仮定すると、天和三年(1683)当時の藩主は南部重信である事から、重信より後の藩主が寄進した可能性は無いと判断できる。小鳥谷18石が利直より古い時代まで遡れる場合、寄進者は利直の父信直の可能性があり、それよりも古い時代であれば、小鳥谷氏(安倍氏)・姉帯氏(九戸氏)の可能性も考えられる。
明治の廃仏毀釈の影響で天台寺は衰退した。wikipediaの天台寺の記事によると、「明治3年12月(西暦1871年)、当時の青森県官吏が実地調査に入ると、山内20ヘクタールに末社27社が散在していたにもかかわらず、官吏はこれを無視して、天台寺境内周囲約1ヘクタールのみとし、他の末社をことごとく廃止した」とあり、桂寿院の小鳥谷領もこの時に、廃止された可能性が考えられる。桂寿院は明治15年の火災後で仏像・仏具・古記録をすべて失い、その後再興される事はなかった。
● 法輪院
法輪院(広福寺)は南部領内天台宗48ヶ寺の惣禄寺院であり、盛岡藩の祈祷寺であった。江戸時代の天台寺(桂泉観音)、鳥越観音、小繋長楽寺(延命地蔵尊)などは法輪院の配下にあった。幕末の嘉永二年(1849)に小鳥谷地区の御蔵入高74.711石のうち、 56.468石が法倫院の知行地となった。どのような経緯で小鳥谷の知行地が与えられたのかは不明である。法輪院は明治3年に廃寺となる。これは、明治2年の盛岡藩の白石転封や明治3年の廃藩置県で最大のスポンサーである盛岡藩が消滅した事や、盛岡藩の祈祷寺として藩の行事に特化した寺のため、一般庶民の檀家がいなかった事、あるいは廃仏毀釈の影響等が考えられる。法輪院広福寺に伝わる絵や仏像などの一部は、盛岡市鉈屋町にある千手院が引き継いでいる。
図にまとめてみた↓
(5)御免地・御免高
江戸時代初期のハイタカの巣探索名人に対する御免地
雑書より
●慶安四年(1651)十月廿日
上里 左京 27.72石
(臼子屋敷?)弥五郎 23.36石
合計 51.08石
※ 年貢は納めるが諸役銭は免除された。
●承応三年(1654)七月廿六日
小鳥沢(谷) 彦太郎 20.58石
川底 右京 4.15石
合計 24.73石
※彦太郎と右京は丹波並みの能力が認められ諸役御免となった。つまり、丹波自身も御免地があったと推定される。丹波の石高は寛文十年の記録から、推定20.478石。これに上記の合計24.73石を加えると、御免高の合計は45.208石となる。彦太郎は雑書・万治四年の記事から中屋敷に住んでいたと推定される。
●寛文十年(1670)一月廿四日
この年、諸役御免の優遇措置は上限を10石に限定した。
小鳥や村 丹波 20.478石 御免高10石 非御免高10.478石
上里 五郎 19.079石 御免高10石 非御免高9.079石
中屋敷 式部 18.322石 御免高10石 非御免高8.322石
小鳥や川そこ 左京6.835石 御免高6.835石 非御免高0石
同村穴久保 兵部 9.52石 御免高9.52石 非御免高0石
合計 74.234石 御免高46.355石 非御免高27.879
※川底の左京は、右京(右京進・右京之助)の間違いであると推定される。諸役御免となる人の数が増えたのに対し、御免高の上限を10石に抑えたため、総御免高46.355石で、承応三年(1654)の推定値45.208石との差があまりない。
以上のように、御免地は50石前後(45.208~51.08石)の範囲で設定されている。これら御免地は、御給人や寺社の知行地をあてる事は考えにくいので、代官所の直轄地から割り当てられたと考えられる。
●江戸時代後半
「一戸町誌上巻」によると天保十四年(1843)六月廿九日、一戸村に小鳥谷村与八の御免地1.5石が与えられた。「福岡通代官所文書 上」によると、この御免地は、弘化三年(1846)の文書でも確認できる。
江戸時代初期のハイタカの巣探索名人に対する御免地は、江戸時代後半には失われたようだ。
(6)大肝入(肝煎)
肝入(肝煎)は村の代表者で、藩の地方行政における末端の組織である。小鳥谷村肝入は一戸村肝入とともに福岡通り(福岡代官所管内)に属し、現在の一戸町から葛巻町田部地区の複数の村々の代表として、代官からの上意を村々に伝えた。
小鳥谷村肝入が所管していた村は、小鳥谷村、平糠村、小繋村、火行村、中山村、摺糠村、馬羽松村、宇別村、面岸村、楢山村、女鹿村、小友村(以上は現一戸町)、冬部村、田野村(以上は現葛巻町)である。小鳥谷村に隣接する姉帯村が一戸村肝入に属し、その奥にある面岸村・冬部村・田野村や一戸村に隣接し、小鳥谷村から離れた位置にある楢山村がが小鳥谷村肝入に属しているのは興味深い。
表 文献で確認されている小鳥谷肝入(および一戸村肝入)
小鳥谷肝入を勤めた左次兵衛は一戸町人(高村家先祖)。「福岡通代官所文書 中」によると嘉永二年(1849)正月(一戸町誌に正月廿七日付けの証文掲載)に福岡給人となり、高橋加右衛門と名乗る。また、「一戸の古文書(二)」の高村家所蔵古文書目録によると、「高橋」という苗字の他に、高村屋という屋号を用いていたようだ。
(7)領地肝入
領地肝入は、各給人や寺社の知行地の代表である。
西海枝領肝入 不明
飯富領肝入 不明
目時領肝入
嘉永五年(1852) 七助
毛馬内領肝入
文化九年(1812) 長治
嘉永五年(1852) 甚右ェ門
下斗米領肝入
文化九年(1812) 長四郎
原領肝入
文化九年(1812) 与五郎
横浜領肝入
文化九年(1812) 喜太郎
桂寿院領肝入
天明四年(1784) 勘作
法輪院領肝入 不明
御蔵入
享保四年(1720) 惣右エ門(朴舘家先祖)