小鳥谷地区の文献が少なく、ネタに乏しいので奥州街道を通過した人を調べ、まとめてみました。
【宗教関係者】
●遊行上人
諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った遊行上人は、北東北でも遊行を行い、小鳥谷の奥州街道を何度か通過したと推定される。ネットで遊行上人を調べてみると、「時宗の総本山・清浄光寺 (遊行寺) の歴代住職」とあるが、全国を遊行した遊行上人を「住職」と呼ぶのはやや疑問が残る。ちなみに、「遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり、これを『藤沢上人』と呼んだ」そうだ。こっちが住職なのでは?w。なお、明治時代以降は「法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人」となるようだ。
明和九年(1772)二月十三日(3月16日)、沼宮内から一戸に向かっていた遊行上人(第53代 尊如)が御堂観音(岩手町・正覚院)に立ち寄った時に、歴代の遊行上人が御堂観音に御詠歌を奉納した書付を別当が差し出したという。その記録が「遊行日鑑」に残されているという。
・応永廿五年(1418)九月廿七日 遊行十五代上人(尊恵)御詠歌奉納
・大永四甲申年(1524)九月十四日 廿五代上人(仏天)
・慶長十七年(1612)壬子七月七日 三拾弐代上人(普光)
・寛永十五年(1638)七月廿五日 三十五代上人(法爾)
・慶安五年壬辰年(1652) 三拾八代上人(卜本)
・寛文十庚戌年(1670)弥生廿八日 四十弐代上人(尊任)
・貞享四卯年(1687)四月廿六日 四十三代上人(尊真)
・正徳三癸巳年(1713)三月吉辰 四十九代上人(一法)
・延享元甲子(1744)七月廿四日 五十一代上人(賦存)
右皆々御詠歌奉納上来之趣故
※「遊行日鑑」を岩手県内の図書館では見つけられなかったが、「盛岡教浄寺文書について~その三~ 圭室文雄」(PDF)に御堂観音の記録が記載してあるので、それを引用した。
また、盛岡藩の雑書等の資料から、明和九年以降も 寛政四年(1792)八月に遊行上人(第54代尊祐)が盛岡藩に来ている事が確認できる。また、「日本における民衆と宗教 雄山閣出版㈱」によると、第56代遊行上人(傾心)は、天保四年(1833)から東北巡礼を行い、天保六年九月に越後高田で亡くなっているという。この時も盛岡藩を訪れたのかどうかは今のところ未確認である。(現在出版されている雑書が天保より前の時代なので。。)
古い順に小鳥谷通過時期を探ってみよう
・応永廿五年(1418)九月廿七日(ユリウス暦 10月26日) 第15代 尊恵
室町時代中期、南部地方は13代当主南部守行の時代である。また、当時の時宗は時衆と呼ばれていた。江戸時代は、遊行上人が盛岡藩に来る場合、教浄寺に滞在するのが常であったが、この当時は、教浄寺が三戸にあったため、遊行上人は三戸を目指して北上する途中御堂観音に立ち寄ったと推定される。江戸時代と同様の日程で進んだ場合、小鳥谷通過は御堂観音を訪れた九月廿七日の午後、御堂観音あるいは小繋当たりで一泊した場合は、廿八日の朝であろう。
・大永四甲申年(1524)九月十四日(ユリウス暦 10月11日) 第25代 仏天
室町時代後半で、南部地方は第23代当主南部安信の時代である。この年、南部氏は津軽を平定したという。応永廿五年と同様、遊行上人は当時三戸にあった教浄寺を目指して北上したと考えられ、小鳥谷通過は、応永廿五年の場合と同じ推測で、九月十四日午後あるいは十五日朝である。
・慶長十七年(1612)壬子七月七日(以下グレゴリオ暦 8月3日) 第32代 普光
江戸時代初期、盛岡藩は27代当主南部利直の時代である。この年教浄寺は三戸から盛岡に移転しているが、遊行上人来訪はそれに関連したものなのかもしれない。江戸時代中期は盛岡の教浄寺から沼宮内宿・一戸または福岡宿を経由し、八戸へ向かっている。慶長十七年も同様のルートであったと仮定すると、小鳥谷通過は七月七日の午後であると考えられる。
・寛永十五年(1638)七月廿五日(9月3日) 第35代 法爾
この当時の雑書は現存していないため、詳細は不明である。なお、「時宗」の初見は寛永十年の「時宗藤沢遊行末寺帳」であるという。従って、「時衆」から「時宗」になって最初の遊行上人盛岡藩来訪なのかもしれない。慶長十七年と同様の推測で、小鳥谷通過は七月廿五日午後であると考えられる。
・慶安五年壬辰年(1652) 第38代 卜本
この年の雑書は現存し、遊行上人が盛岡藩に来た事は確認できるが、詳細な足取りは不明である。雑書によると、この年の二月十四日に盛岡の教浄寺に「来駕」、六月四日に秋田へ向けて「発足」し、その日は雫石に宿泊とある。盛岡藩には約四ヶ月滞在した事になる。滞在中に八戸等へ行ったのであれば、その途中に御堂観音に立ち寄った事になり、小鳥谷も通過している事になるが、御堂観音の記録には御詠歌奉納日が記載されていないため、小鳥谷通過日は不明である。あるいは、遊行上人本人は御堂観音には向かわずに、使いの者が、先例に従い御詠歌を奉納した可能性も考えられ、その場合は、遊行上人は小鳥谷を通過していない事になる。
・寛文十庚戌年(1670)弥生廿八日(5月17日) 代42代 尊任
雑書によると、この年、遊行上人は二月三日に盛岡へ到着、二月二十八日八戸へ御越披成とあり、八戸到着日から逆算すると、御堂観音および小鳥谷通過は二月廿七日の可能性が考えられる。ただし、御堂観音の記録には弥生(3月)廿八日とあるので、約一ヶ月のズレがある。この年、盛岡藩に来た遊行上人が盛岡藩を離れた時期は不明であるが、八戸や盛岡藩北部を廻った後で再び御堂観音を経由し南へ移動したのだろうか?
・貞享四卯年(1687)四月廿六日(6月5日) 第43代 尊真
南部領宗教関係資料3「寺社記録」の貞享四年四月廿日の記事に四月十九日付で遊行上人の盛岡から八戸までのスケジュールが記載されている。 雑書には四月廿五日に盛岡の教浄寺を発足とあり、御堂観音の記録にある四月廿六日に遊行上人御詠歌奉納と日程の矛盾はない。従って、小鳥谷通過は四月廿六日午後で、この日遊行上人は沼宮内宿から御堂観音を経由し、一戸宿に宿泊している。
・正徳三癸巳年(1713)三月吉辰 第49代 一法
南部領宗教関係資料3「寺社記録」や雑書によると、三月廿三日に八戸へ(教浄寺より)「発足」とあり、御堂観音および小鳥谷通過日は三月廿四日(4月18日)であると推定される。
・延享元甲子(1744)七月廿四日(8月31日) 第51代 賦存
「第五十一第遊行上人賦存の廻国について」(圭室文雄)に記載された日程によると、七月二十三日盛岡出発し沼宮内に宿泊、七月二十四日沼宮内出発し一戸に宿泊、七月二十五日一戸出発し宿坊浄土宗来迎寺(八戸)到着している。この日程は御堂観音の記録「七月廿四日御詠歌奉納」と一致する。また、雑書には七月廿三日に「(教浄寺から)御発駕に付」とあり、盛岡出発日が一致している。従って、小鳥谷通過は廿四日の午後に間違いないと考えられる。
・明和九年(1772)二月十三日(3月16日) 第53代 尊如
「盛岡教浄寺文書について~その三~(圭室文雄)」によると、二月十二日に盛岡を出発し昼に渋民を経由し沼宮内宿泊、二月十三日は沼宮内出発し午後一時頃一戸を経由し福岡に到着、二月十四日福岡を出発し、観音林(軽米?)で馬継・昼食、一ノ沢宿(?)で馬継し夕方八戸に到着したという。出発日は雑書にも二月十二日の記事に「今朝教浄寺出立」とあり確認できる。小鳥谷通過は二月十三日の昼頃であると考えられる。
・寛政四年(1792)八月 第54代 尊祐
雑書によると、遊行上人はこの年の七月に、盛岡藩を訪れている。七月十日に遠野の常福寺、七月十九日には寺林(石鳥谷)の光林寺へ、盛岡の教浄寺到着は七月廿八日、八月十日出立。その後の足取りは不明であるが、北に向かったと仮定すると、八月十一日(9月25日)に小鳥谷を通過した事になる。
※1792年以降については現在調査中
【武家】
●丸山可澄(御老公の手下。助さんでも格さんでもない可[ヨシ]さんだ!!)
丸山可澄(まるやまよしずみ、活堂かつどう)は水戸藩士田代五衛門乗久の次男。母の旧姓丸山氏を称した。字は仲活・雲平。号は活堂・混斎。水戸の彰考館で文庫管理を務め、「大日本史」史料探訪のため日本中を歩いた。残念ながら水戸黄門や助さん・格さんは奥州街道には来ていないようだが、代わりに来たのがこの可(ヨシ)さんで、東北地方を旅した時の記録である「奥羽道記」(奥羽日記)によると、元禄四年(1691)四月十八日(5月15日)に沼宮内から一戸へ向かう途中で小鳥谷を通過した。以下、奥羽道記より。
十八日
沼宮内より
此間村は数々所有候得共駅次ニ馬不自由故八り一次也 一ノ戸へ八里八丁 庄や 米田弥惣兵衛
大山共六ツ七ツ越皆山坂馬一疋此外通ル道無之所四五ヶ所アリ
奥羽ニテ之蜀道也併水石渓谷風景絶勝之所両三所アリ
タヒラケ
平夷村 右方ニ松山アリ
黑金村 左ノ山木立アリ
御堂村 左右皆楢柏木林薪大分出ル所ナリ
北上観音
此村ニアリ四間四面堂別当正覚院ト伝大木杉拾四五本アリ古跡ナリ相傳フ大同二年田村丸建立ト伝書キ物モ観音ト包封シ秘佛トテ別当モ不知之ト云フ
スリヌカ
磨糠村(摺糠) 小村
中山村
家ハ十間斗モ所々ニアリ此所山中ニテ食物葛餅より他無之所男女子十七八斗之者共皆衣服無之者ハ裸ニテ火ヲ燃テ雑居ス男女ノ別モナシト云フ禽獣ニ斉(ひとし)キ見分ナリ
飛行村(火行) 小村
小綱木村(小繋) 沼宮内より此村迄四里旅人ノ食物無之所ナリ
右此村より別テ一ノ戸迄難所左右大山山ノ腰ニ道有右ハ渓谷數十丈左ハ嶮岸細道一轉(転)スレハ絶命ノ所ト云牛馬誤テ落スル事數(数)度アリト云
高屋町(高屋敷か?) 小沢村(小鳥谷か?) 右方ニ間別川ト云アリ此川此辺皆廻リ流ル一ノ戸ヘモ出ル
後生道村(小姓堂) 箕川口村(女鹿口か?)
右ハ沼宮内より一ノ戸迄之内ノ村也
十九日
一戸より 此間蕎麦名物一戸尤好ゝ 福岡ヘ一里三十一丁 麻別地川 橋十三四間
ヲリツメカタチ
〇折爪嶽 一戸より東方へ二里ト云大山頂上は如屋-頭ノ平ノ所下よりハ八九十間ニ見ユル
カフトゲー
ナミヲリ
波折坂 一戸より北へ四五丁大道筋也坂上リ十丁下リ六丁ト云フ難所ナリ左右山欝(しげ)タル松樹也
以下略
古典文庫第五八三冊 「都のつと・奥羽道記・はなひ草大全」(編者 村松友次、発行所 古典文庫)より。奥羽道記の原本は山形大学が所有。中山についての記載が酷い。元禄年間は、不作や凶作が連続し、飢饉になった年もあったという。中山のこの状況は、その影響なのだろうか?。また、当時小繋の宿では食事がでない事や、一戸の名物が蕎麦と記載している事も興味深い。小繋一戸間にある難所の事を記載しているが、これは笹目子から川底に至る街道の難所の事であると考えられる。波折(なみおり)坂とは波打峠の間違いであるが、波打峠について末の松山説を記載していない。この当時は浪打峠を末の松山とする説が無かった可能性が考えられる。この文献は小鳥谷を小沢と記載した最も古い例の一つ。高屋敷や小姓堂、女鹿口について記載した文献としても、最も古いかもしれない。
奥羽道記の中で岩手山に関する次のような記録があるので、ついでに紹介する。
岩端山(イワハシサン) 城より子丑ニ當ル南部中ノ大山富士ニ彷彿タリ雪腰迄埋ム烟常ニ生ス十里前より見ユル
岩手山は貞享三年(1686)に噴火しているが、その5年後に丸山可澄が見た岩手山は烟(噴煙?、水蒸気?)が常に上がる山だったという。
【参考】茨城県立歴史館の丸山可澄紹介ページ
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/maruyamakatudou.htm
● 島田元旦(谷文晁の弟)
安永七年(1778年)~天保十一年六月十三日(1840年7月11日))。江戸時代後期の日本の絵師であり鳥取藩士。谷文晁の実弟。しばしば谷元旦とも紹介される。寛政十一年(1799年)松平忠明が蝦夷地取締御用掛として蝦夷地警備に赴いた際、蝦夷地の産物調査の一員として同行した。元旦の一行は植物調査を主体としたもので、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦は絵図面取りを担当し、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を北海道の太平洋岸一帯で、4ヶ月に渡って調査した。享和元年(1801年)に鳥取藩士 島田図書の養子となりその娘を妻として島田姓となる。島田家の家督を継いだのは養父が没した文政二年(1819年)で、晩年は江戸詰めを解かれ鳥取で過ごした。
「蝦夷蓋開日記」は寛政十一年(1799)の蝦夷地調査の日記で、四月十一日(5月15日)と九月十日(10月8日帰路)の2回小鳥谷を通過している。四月十一日の記録は、渋江長伯の「東遊奇勝」の内容と酷似しているが、詳しくみると、「蝦夷蓋開日記」と「東遊奇勝」には共通の文章と、異なる文章が織り交ぜられている。四月十一日の記録には高屋敷村、わさと(上里)の坂、コシヤム(小鳥谷村?)、鷹見山、小姓が坂等の小鳥谷付近の記録が多数あるが、九月十日の記録には小鳥谷についての記載はない。
●遠山景晋(桜吹雪のパパ)
遠山景晋(かげくに/かげみち)は時代劇で有名な遠山景元(かげもと)の父。江戸時代後期の江戸幕府の幕臣。天明七年(1787年)、小姓組番に就任、寛政十一年二月十日(1799年3月15日)西丸小姓組のまま蝦夷地御用を命じられ蝦夷地・幌泉まで検分。同年冬、蝦夷地御用を離れる。この時の紀行『未曾有之記』を著わす。寛政十二年一月二十五日(1800年2月18日)西丸小姓組番頭松平図書頭忠命組衆から十三番徒頭に異動。時に金四郎を称す。享和二年三月十七日(1802年4月19日)、徒頭から目付に異動。在職中、金四郎から左衛門に改称する。文化元年(1804年)十二月、ロシア船来航につき長崎に出張御用。『続未曾有之記』を著す。文化二年(1805年)再び蝦夷地御用を命じられ西蝦夷から宗谷岬までの海岸を巡り『未曾有後記』を著した。文化四年六月三日(1807年7月8日)、異国船来航により蝦夷地へ出張御用。同日、従五位下に叙し左衛門少尉に任官。『続未曾有後記』を著す。文化九年二月十七日(1812年3月29日)、目付から長崎奉行に異動。文化十三年七月二十四日(1816年9月13日)、長崎奉行から作事奉行に異動。文政二年九月二十四日(1819年11月11日)、作事奉行から勘定奉行・公事方に異動。文政三年六月二十四日(1820年8月2日)、公事方から勝手方に異動。文政十二年二月七日(1829年3月11日)、勘定奉行を辞す。(wikipediaより)
未曾有記によると、寛政十一年(1799)四月六日(5月10日)と八月二十二日(9月21日帰路)の2回小鳥谷を通過している。四月六日の記録には「小しや村(小鳥谷村)」、「小しや山(小鳥谷山)」、「高屋村(高屋敷村?)」などの記載がみられるが、八月二十二日の記録には小鳥谷地区についての記載はない。どちらも沼宮内~福岡間の通過で、小繋で休息をとっている。
寛政十一年四月六日の記事に「高屋村、此辺より津軽迄も、二月朔日を老人の年取るとて、古稀の翁ある民家には門松を立る俗の由。いかなる故やらん。」とある。
帰路八月二十二日の記事では御堂観音の弓弭の泉についての疑問を住職に質問している。
「近世紀行集成」(国書刊行会) 未曾有記より
寛政十一年の蝦夷地御用は、盛岡藩にも記録があり、雑書・寛政十一年(1799)四月四日(5月8日)に、盛岡に宿泊する幕府関係者の名前として『西丸御小性(姓)組・松平図書頭組 遠山金四郎様』という記事がある。蝦夷地御用の時には既に「金四郎」と名乗っていた事がわかる。なお、雑書には帰路の宿泊記録は掲載されていないようである。
未曾有後記によると、文化二年(1805)九月二日(10月23日)と文化三年(1806)七月十七日(8月30日帰路)の2回小鳥谷を通過している。どちらも沼宮内~一戸間の通過で、小繋で休息をとっている。小鳥谷地区の記載はない。
文化二年九月二日の記事によると、景晋は御堂観音で、前回(※6年前)立ち話をした僧と再会しようとしたが、息子の若い僧に、三年前に亡くなっていた事を告げられる。御堂観音の僧侶について「農業も兼ねてする家宅僧(肉食妻帯の僧)也」と記載している。また、翌日(三日)、一戸から北上し、福岡で、鹿角(秋田県)の狭の里の名物である細布を注文している。この細布は、幕府巡見使の鹿角通行の際には献上されるのを通例としていた。菅江真澄の「けふのせば布」(狭布の細布)というタイトルの元ネタとなった品である。
翌年文化三年の七月十六日。帰路、金田市(金田一)から一戸へ向かう途中、福岡で注文していた細布を受け取り、一貫文(銭1000文だが、960文の可能性あり)支払う。本来は売り物ではなかったようで、「価に非ず。其労を慰るなり」とある。また、浪打峠では「浪打坂に杭を建て、『末松山』の三字出す。去冬領主の封内を巡行せられしと云時、此所末松山に決定して此杭を建られしと云」という記録を残している。南部利敬が浪打峠・末の松山説を宣伝するため、杭を建てたという記録であり、文化五年(1808)に蝦夷警固の途中で浪打峠を通った仙台藩の医師、高屋養庵の日記にも「此峠を越る道左に末松山といふ印棒杭阿り」とある。
「近世紀行文集成 蝦夷篇」(葦書房) 未曾有後記より
文化二年の蝦夷地御用は、寛政十一年と同様に雑書に幕府関係者が盛岡宿泊した記録が掲載されている。雑書の文化二年八月晦日の記事に「公義(儀)御目付遠山金四郎様、~略~、今晩爰元御止宿ニ付~」とある。寛政十一年の場合と同様に文化三年の帰路の宿泊記録は雑書には無いようである。景晋が金四郎から左衛門に改称したのは目付在職中で、目付在職期間は1802年~1812年であるが、雑書の記録から、1805年時点では金四郎であった事が確認できる。
文化四年(1807)、異国船(ロシア)来航により幕府若年寄の堀田正敦に同行し再び蝦夷地へ出張。盛岡大学紀要 第35号「遠山景晋がみた南部領-未曾有紀から-」(上白石実)によると、続未曾有後記には文化四年七月一日(1807年8月4日)に一戸泊とある事から、この日、沼宮内から一戸まで移動し、その途中小鳥谷を通過したと推定される。また、遠山景晋は、文化四年の蝦夷出張が決まった時に、幕府から金四郎では(若年寄の堀田正敦に同行者として)威厳に掛けるから名を変えるように命じられ、名を佐衛門に改める。なお、翌年対馬で朝鮮通信使と対応するにあたり、諸太夫従五位下に叙任され官途名を佐衛門尉としている。文化四年の蝦夷出張は、蝦夷地からの帰路、九月十五日(10月16日)の野辺地到着まで堀田正敦に同行。堀田正敦はそのまま江戸に向かったが、遠山景晋は太平洋岸視察の指令を受け、海岸沿いに南下したため、小鳥谷を通過しなかった。ちなみに、堀田正敦の帰路の小鳥谷通過は九月廿一日(10/22)と推定される。
●田井仲(谷文晁じゃねぇよ!!)
田井仲(元陣)は、白河藩士。当時の白河藩主は幕府の元老中・松平定信。定信は寛政五年(1793)の老中失脚後は白河藩の藩政に専念していたという。田井は藩主からの特命で白河藩お抱え絵師の大野文泉(後に巨野泉祐)とともに八戸へ向かう途中小鳥谷を通過した。婦登古路日記(懐日記)によると、文化四年(1807)九月七日(10月8日)の渋民の宿から一戸に向かった事が記載されている。この日は終日大雨で小繋・一戸間は、乗った馬が病のため、「大ニ難渋ス」とある。「一戸前の大道二里ハカリ(川底付近か?)、日既暮ニ及ヒ此辺所々景アレトモ不見。一戸ニ臨テ坂、右方谷アリ。瀧音ノミ(小姓堂・女鹿口付近か?)」
小鳥谷を過ぎ一戸・大黒屋茂八(金子家)に宿泊、翌日の記事に茂八について「奇其多商人也。誠ノ石癖ト見。」とあり、様々な奇岩を主人(茂八)から見せられた事が記載してある。また「蝦夷器ト云素焼ノ器物、形様々、文彫刻色々、考ノ外ノ文様也。何レモ主人甚珍蔵ニテ全キ物は呉ザル故、追テ送リ呉候事強テ約ス」とある。この蝦夷器とは縄文土器の事で、大黒屋に縄文土器のコレクションがあったようだ。翌年、一戸を通過した仙台藩の記録にも一戸で蝦夷器が登場する。
岩手県立博物館研究報告 第29号「松平定信による盛岡藩領内の古鎧調査(斎藤里香)」によると、婦登古路日記(懐日記)は谷文晁のものと云われていた。日記の中に文泉が登場するため、その師である文晁が作者とされた事が原因という。ただし、日記の巻末近くに田井氏の署名があり、別文献に記載された旅の行程や旅の途中に寄った八戸弥六郎家の記録などから、婦登古路日記の著者は田井仲とみて間違いないという。
田井仲と大野文泉は、松平定信の命により古鎧調査(絵図作成)のため南部藩を訪れ、遠野の八戸弥六郎家や貴重な古鎧が多数奉納されている八戸の櫛引八幡宮を訪れたという。松平定信は「ふるきもの」が失われることを危惧し、記録保存に力を注いだという。これは、文化財のデジタルアーカイブの先駆けなのかもしれない。ちなみに櫛引八幡宮の古鎧は、国宝に指定されている。
【参考】
岩手県立博物館研究報告 第29号
松平定信による盛岡藩領内の古鎧調査(斎藤里香)
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu29/no29p53.pdf
● 吉田松陰(大作ファン)
長州藩士で思想家・兵学者・教育者。明治維新の精神的指導者として知られている。嘉永五年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。嘉永五年(1852年)の三月十日(4月28年日)、一戸から沼宮内に向かう途中で小鳥谷を通過している。日記には小鳥谷地区の描写は無い。
●村垣 範正(むらがきのりまさ) (アイヌを救ったボンクラ?高官)
文化十年(1813)旗本・村垣範行の次男として誕生。天保二年(1831)小十人格御庭番となり、天保八年(1837)に大塩平八郎の乱の調査を行う。嘉永七年(1854年)に勘定吟味役に抜擢。海防掛・蝦夷地掛として同年三月より蝦夷地・樺太巡視を行う。安政三年(1856年)七月には箱館奉行に昇進し、先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。安政五年(1858年)外国奉行に任命され、翌年には神奈川奉行を兼務する。安政七年(1860)遣米使節の副使となり渡米、世界一周して帰国。帰国後、プロシア(プロイセン)との日普修好通商条約締結交渉において裏交渉疑惑で自害した堀利煕に代わり交渉を引き継ぎ、日本側全権として調印。文久元年(1861年)ロシア軍艦対馬占領事件に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。文久三年(1863年)六月・作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年(1868年)に隠居、明治維新後は官職に就かず、明治13年(1880年)に東京にて没した。享年68。(wikipediaより)。司馬遼太郎は村垣を「封建的ボンクラ」と評価しているらしい。
村垣範正は嘉永七年の蝦夷地巡視の再に奥州街道を往復している他、安政三年の函館奉行赴任時にも奥州街道を北上している。
函館市中央図書館デジタル資料館 公務日記2より
嘉永七年四月十六日(1854/5/12)
村垣範行(勘定吟味役。海防掛・蝦夷地掛)が沼宮内から一戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
この日の朝は曇りで、八時頃(14:00)より小雨
御堂・中山で休憩
小役原村(小繋村)で昼休み
小鳥谷で休憩
一戸駅本陣に宿泊
「小鳥谷立より一りほと(一里程)小雨に成」とあり、14:00頃小鳥谷で休憩後に雨になったと推定される。
帰路 函館市中央図書館デジタル資料館 公務日記3より
嘉永七年九月廿六日(1854/11/16)
一戸から沼宮内に向かう途中小鳥谷を通過
この日は 快晴で、早朝七時(4:00)一戸を出立
小鳥谷村で小休、「爰(ここ)ニて夜明る」とある。
小繋村長樂寺で昼休、中山村と御堂村で小休
夕七時(16:00)沼宮内駅着
範正は、安政三年(1856年)に函館奉行に就任し、再び蝦夷地へ
函館市中央図書館デジタル資料館 公務日記8より
安政三年十月十九日(1856/11/16)
沼宮内から一戸に向かう途中小鳥谷を通過。
この日は快晴、六時(6:00)に沼宮内を出立し小斐原村(小繋)で昼休
一ノ戸駅には七半時(17:00)着
函館奉行就任後で、宿泊先では函館や江戸から届くメールの確認で忙しかったようだ。そのためか
旅の途中で通過した村々の記載は嘉永七年の日記より簡略である。
この後、村垣は蝦夷地を巡回視察し、アイヌの間で蔓延していた天然痘対策のため幕府に対しアイヌへの強制的種痘を建言。翌年幕府は種痘医を雇い蝦夷地へ派遣し、アイヌ人に対し大規模な種痘の実施を行う。当時のアイヌ人の半数が種痘を受けたといわれ、江戸幕府が正式に認めた初の種痘であるとともに、世界初の、ある地域を対象とした天然痘根絶のための強制・義務による一斉種痘施術とされる。
帰路
安政五年(1858)に江戸に戻る。帰路は陸路ではなく船により太平洋廻りで帰ったという。
参考・引用文献
wikipedia
函館市中央図書館デジタル資料館 公務日記(2,3,8)
新出の平沢屏山のアイヌ種痘図に関する一考察(日本医史学雑誌 第56巻第3号 2010)
幕末フォーラム
●島義勇(リアル-シム札幌)
文政五年(1822)九月十二日(10月26日)~ 明治七年(1874)4月13日。幕末から明治にかけての佐賀藩士、官吏。佐賀の七賢人の一人。また、札幌市の都市開発に関わり、北海道開拓の父(開拓の神)と呼ばれ顕彰されている。天保十五年(1844)に家督を継ぐと諸国を遊学。帰国後藩主・鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。安政三年~四年(1856~1857)に直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査。「入北記」という記録を残す。当時の日記「奥州行日記」は安政三年十二月七日(1857年1月2日)から安政四年(1857)二月十三日(3月8日)の日記で、安政四年二月十一日(3月6日)に小繋から福岡に行く途中小鳥谷を通過した事が記載されている。奥州行日記より二月十日から十一日の記事を以下に示す。
十日 路傍を始、山々野々にうるしの木多し、沼宮内迄四里有餘、三里の山越ニて、間ニ中山抔ト申民家有り、小繋村に宿す、此所に落人等調子候ため、士分より之番所あり、寒郷なり、
十一日 小茶屋抔ト申村家をへて、三里程にて一ノ戸驛なり、漆ノ木盛に仕立大木多し、桂ノ木トて香木抔あり、其外異なる木多し、民家四百軒計市ノ最中なり、二里程ニて福岡驛、呑香稲荷社、小保内常陸宅ニ宿ス、風流人なり、三十石の知行と云、福岡の手前に、真の末の松山、浪打峠あり、天然の貝其外時々白石、今に澤山あり、三葉の松もあり、
※肥前史研究(三好不二雄先生傘寿記念誌)より
小茶屋が小鳥谷の事であると推定される。盛岡以北の奥州街道は、通常は盛岡、沼宮内、一戸(または福岡)と進むのが一般的であるが、二月九日の記事に「犬塚風邪気ゆへ」とあり、随行者である犬塚与七郎が体調を崩したため、盛岡を出立後、沼宮内手前の「間の宿」である渋民に宿泊し、その結果、十日も一戸・沼宮内間の「間の宿」である小繋に宿泊する事になったようだ。
後に義勇は、蝦夷開拓御用掛として札幌の建設や、秋田県の初代権令(知事)となるなど活躍するが、明治七年(1874)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こし、斬罪梟首となる。明治二十二年(1889年)、勅令第12号により大赦となり、大正5年(1916)、生前の勲功に対し従四位を贈られた。
●森一馬(毛利一馬、春成) (校長先生、弟も先生)
越後長岡藩士・毛利忠平治の長男。初め毛利と名乗り、後に森に改姓。韮山代官江川太郎左衛門に砲術とフランス式調練を学び、藩の西洋式軍隊の創設に貢献した。
長岡藩第10代藩主、牧野忠雅が幕府の老中に就任中[天保十四年(1843)~安政4年(1857)]の嘉永七年三月(1854年3月)に日米和親条約が、次いで安政二年十二月(1855年2月)に日露和親条約が締結され、函館港が開港されると、渡島半島南西部を除き、松前藩から蝦夷地が召し上げられ蝦夷地の大半と樺太が天領となる。それに伴い、老中 ・阿部正弘は1856年と1857年の2度にわたって家臣を蝦夷地探検に派遣し、老中・牧野忠雅もこれにならって自藩の藩士、森一馬と高井佐藤太を蝦夷地(および樺太)に派遣した。その時の日記が罕有日記である。
罕有日記によると、森一馬は奥州街道を往復し安政四年(1857)四月廿二日(5/15)に沼宮内から福岡へ向かう途中で小鳥谷を通過している。小繋の長楽寺で昼食し、その先は「狭路郷の湯谷に彷彿たり」とある。舅ころハし阪、高屋敷村、ワンジヤトウ(上里)、小シヤ村、馬別川(馬淵川とも)等の地名を記載している他、馬夫の談として、二月朔日年取りの風習等が記載されている。
以下に沼宮内~福岡間の日記を示す(素人がくずし字解読したため訳ミス多数あり)
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[安政四年(1857)]四月廿二日[5月15日]快晴 泊福岡 十三里余
沼宮内
六ツ時過発途数日の雨後にて道あしく河原木津金[府金]水堀之諸村を経て小坂を登り御堂(ミタウ)村立場道の左り小き嶝道を上りて観音堂あり本尊弐丈三尺聖徳太子の彫像にて大同二年田村将軍の再興なり御手洗しは堂後囲中なり前九年の役に頼義朝臣弭にて岩を穿チ清水湧出之古跡なりと此水北上川之濫觴なりといふ(此山号を北上山といふ華表に北上山の扁額あり)堂の右に釜堂あり古き陣釜を納む義家朝臣之奉納なり又小堂ありて神楽を納む慈覚大師之作なり此邊獅子神楽を権現と賞するか権現堂といふ鐘楼の鐘は龍宮より納ると俗伝へり皆古代之品可見の器物なり是より一小坂を昇り白糠(シラヌカ)村軽井澤村峠あり(中山峠ともいふ平山にて芝生え)左右山間遠し空しく荒蕪に委す轎夫に問へば秋末より雪深く作物實のらすと雪は五六尺積るといふ嶺上長く黒不古にて道阿しく上州[現在の群馬県]中山嶺に似たり(此地邊まで岩鷲山うスみ西山岳の裾長し左後に見ゆ)中山村立場(沼宮内より三里)商賈の往来は止宿するよしなり前に同じく芝山道下り緩かにして長し奇観なし
小繋(沼久内より四里半 案内人)
山間の小村なり休泊の家なし下之端天台宗長楽寺にて午食す(公儀吏人の往来皆此寺にて休息し由)慈[※ここ]より牛行す一里許之間山間の狭路郷の湯谷に彷彿たり渓流を右にし行く西より東に流るを送となすのみ(此水馬別川の濫觴にて八ノ戸に至り海に入るといふ)此間中シス(紛音未詳) 舅こ路ハしの二阪あり此余小阪多し高屋敷村立場家立悪し馬夫の談に此邊男は二歳より二二之数に當[※当]る年女子は九々に當[※当]るの年 二月朔日を以て年取とするよし北邊の風習奇事なり一小阪あり上を横葉阪下りをワンジヤトウといふ紛音又分チ難し小シヤ村長し馬別川(或は馬淵川とも)稍廣し山間も緩くなりホソノ嶺立場北地を下し臨めバ小山左右に並ひ澤間一大流を通し遥に一ノ戸辺まで見下し風光の佳景なり夫より二三の阪を昇降し馬別川に添行両岸之木立河中の岩石に目を転し[※じ]て疲労を忘る
一之戸(沼宮内より大道八里八丁 三六十里丗二町小繋は間之宿にて継立なし十里餘の馬継は諸道に珍らし)
宿よき方なり市中馬別川通す土橋三十間渡て家作よし本陣に入て暫時休息(茶菓子等出す丁寧なり但し人馬の継立に隙取あり)宿端小阪を登り平地となる此邊山之姿和らかに木立も優なり小井田橋小流渡りて阪路次第に登て嶺上なり打浪嶺といふ(一之戸より三十丁)末之松山波越さしとはの旧跡なり(嶺上切通しの如く四方共に山深く海上まては五里余なりと切通しには貝殻多く波浪の容をのこす)慈より下り急にして長し村松五日町村を過て前駅に達す此邊山を緩々にして畑を作りたり
福岡(一之戸より一里丗町三六道二里六町) 案内人検断伺宿札
入口馬別川之両涯奇岩なり入て右之方より渓流来る此岸に大窟阿り観音を安置す通路より前岸に梁をかけて参詣道とす慈より屈曲阪を昇て福岡町なり河邊総て厓趣あり宿は一之戸より優なり七ツ半時過米屋忠七に宿る好家新しく麗なり
今日も又風呂敷包眉毛判らす衣類はむさし商人之野辺地より古着を駄し送るに逢ふ事数廻なり此辺之者着するよしなり途上桜鳥[?]川雀[セキレイ]の二鳥を見る文鮮頗る美鳥なり会津以北此辺まで手球か如く味噌を丸にし屋内に下る事多し其制煩(炊)しかるへし今終日の所観田畑墾開に心を用ひて荒地なし南部領中十二月小之節毎に正月元日年取りの祝ひありと
※桜鳥 コムクドリをサクラドリと呼ぶ地方があるようだが、「すこぶる美鳥」とは言えない鳥なので、別の鳥の可能性がある。アカショウビンか?
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帰路は同年の九月十日(10月27日)に福岡から沼宮内へ向かう途中で小鳥谷を通過している。日記にはコシヨト村(小姓堂)、シヒキ阪(尻引坂)、野中、ニソシ(仁昌寺の事か?)、小取屋(コジヤ)村(小鳥谷)、ワンジャトウ(上里)坂、高屋敷村、ワラタマ阪等の地名が記載されている。ちょうど紅葉の時期で、「紅葉たのしみ昇降して高屋敷村」とある。小鳥谷を小取谷と記載しているのは、漢字の「鳥(とり)」と「取り(とり)」の間違いではないかと推定される。小取谷について「毎家柱を堀込て作る茅屋なり」という注釈があり、小鳥谷の民家は、柱を礎石の上に乗せるのではなく、直接土に埋め込んで作られているという意味だろうか?。ちなみに、Wikipediaで礎石を調べてみると、「民家に広く礎石が使われるようになったのは江戸時代以降で、18世紀までは東日本では掘立柱建物が一般的であった」という記載があった。帰路でも高屋敷手前、上里坂の途中で休憩した時の風景を湯(の)谷を引き合いに出して記載している。森の記載している湯谷は地元越後の地名なのかもしれないが、何処の事なのか不明である。
以下に福岡~沼宮内間の日記を示す(素人がくずし字解読したため訳ミス多数あり)
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[安政四年(1857)]九月十日[10月27日]快晴 泊沼久内大道八里
福岡
発暁[※暁発の間違いか]に発途岩谷の観音は暗くてみへす白鳥川(板橋坂下りて馬別川に合す)越て山に添ふて馬淵川岸上を行く五日町曲打長し村松村を経て波打嶺登り長く急なり頂きには貝殻多し名所なれとも眺望なし海邊[※辺]遥か遠しといふ(海に近き所東にして五里余といふ)下り又長くして峻しからす
一戸村(福岡より大道壱里半三六壱里三十町
戸数三百棟宿中馬別川板橋(三拾間余)宿場より坦夷之山路シワノ」[※諏訪野]セキヤ」[※関屋]二村を過て馬別川を左りに添ふ小き坂三ツを越しコシヨト村[※小姓堂村](紛音末詳)シヒキ阪[※尻引坂](不詳) 下て■[※土偏に巳]橋[※土橋の意味]あり野中村慈[※ここ]より平地ニソシ[仁昌寺?]日前[?]小取屋(コジヤ)村[※小鳥谷村](毎家柱を掘込て作る茅屋なり) ワンジヤトウ[上里](紛音末詳)坂ありて立場す風色湯の谷に似たり紅葉たのしみ昇降して高屋敷村ワラタマ坂を下て小繋(コツナギ)村(一ノ戸より大道二里八町なり)又長楽寺にて午飯す半里余にて火行(ヒキャウ)村又高低の地を行き中山村立場見苦敷茶屋店あり(此村旅籠屋あり茅屋なり)慈より中山嶺緩くなり岩鷲山をみる旧に依て好嶺秋来三度雪を戴と白糠村[※摺糠]一小阪を越して馬羽松村北上川土橋(慈より日々北上川を渡る)御堂水堀津金[※府金]河原木諸村を經て
沼宮内(一之戸より大道四里八町)
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長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、戊辰戦争に参戦、砲術師範であった森一馬は草生津方面(長岡市)で砲台の守護にあたり、慶応四年六月二十二日に負傷したという。戦後は明治七年(1874)長岡千手小学校の校長となる。一馬の弟の森源三も江川の塾で学び、後に札幌農学校(現北海道大学)の二代校長や北海道で初めての衆議院議員の一人となっている。
●杉浦梅潭(旅に時計と寒暖計を持参したハイテク奉行)
杉浦梅潭[正一郎(幼名)、勝静(初)、誠、梅潭(号)、求之(字)、官位 従五位下、兵庫頭(ひょうごのかみ) 文政九年(1826)~明治三十三年(1900)]は江戸時代後期の旗本、明治初期の官僚。最後の函館奉行を務めた人である。
「最後の函館奉行の日記(田口英爾)」新潮選書によると、慶応二年(1866)一月十八日、江戸城西の丸芙蓉の間で、老中水野和泉守忠精から函館奉行に任命する旨を申渡され、三月二十六日出発。出発当日の早朝、江戸詰の函館奉行支配組頭三田喜六が来訪し、打ち合わせを行ったという。(三田喜六は三田花朝尼の息子、函館勤務のため、安政三年(1856)に函館に向かっているが、この当時は江戸にいたようだ)
四月十三日(5月27日)に江戸から函館に向かう途中で小鳥谷を通過している。この日は沼宮内から一戸までの旅で、「最後の函館奉行の日記」には
『気温も下がって四十八度(摂氏9度)、満開の桜や桃に出会う。屈曲した山路が続き「木曾山中ノ想」があるが、「此辺ヨリ風俗殊ニ鄙陋ヲ極メ、一看ニテハ男女ヲ弁ジ難キ程ナリ」とも記されている。一戸は「此駅極メテ寒賤ナレドモ本陣ハ可ナリ」である。』
とある。
杉浦は、この旅で二個の時計と寒暖計、遠眼鏡を携行し、毎日の発着時刻、気温(※華氏)、沿道の状況を記録したという。従って、上記の気温は、沼宮内出発時のものか?
慶応四年(1868)三月、朝廷に奉行所を明け渡すよう江戸から指令が届き、閏四月二十七日、箱館裁判所総督清水谷公考に箱館奉行所を引き渡し、六月に江戸へ戻る。その後、十二月に駿府藩公儀人に任命され、翌年八月には外務省に出仕、開拓使権判官に任命され再び函館へ赴任(明治二年十二月)、明治五年(1872)開拓使判官、 明治九年(1876)明治天皇の函館行幸の先導を務める。明治十年(1877)退官、退官後は向山黄村・稲津南洋と共に晩翠吟社を創立し詩作で余生を送ったという。明治三十三年(1900)死去。
【文化人】
● 小磯逸子(松前で失業した京都の御嬢さん)
小磯逸子は、京都出身。小磯平左衛門の娘である。父、平左衛門は早くに亡くなり、母に育てられたという。右大臣花山院常雅(ときまさ)の娘、敬姫(知子)の侍女となり、敬姫が松前藩八代藩主道廣の元に嫁ぐとそれに従い松前に渡る(明和八年 1771 十月)。30人もの女中が従う盛大な輿入れだったという。松前藩は江戸時代の初め、朝廷内のスキャンダル事件により松前に流刑となった花山院忠長を厚遇した事を切っ掛けに、京都の公家と関係を結び、小藩でありながら歴代藩主やその子息のうち6人が京都の公家と婚姻している。安永五年(1776)、敬姫が出産(死産)後に亡くなると、大半の女中は松前藩の家臣や町屋に嫁いだが、逸子は同僚二人と任を辞して安永六年(1777)に江戸を経て京都へ帰る。この時の日記が「奥の荒波」で、安永六年八月十五日(9月16日)に三戸から沼宮内へ移動する途中小鳥谷を通過したと推定されるが、「奥の荒波」に小鳥谷についての記載はない。以下、「奥の荒波」八月十五日の記事
十五日。例の事ども仕果て出つ。野山打過ぎ。みの坂といへるを越え。この険しきを越果れば。金田市と伝る里ありて。長瀬川を舟にて渡る。福岡。一の戸など伝る里を過ぎて。今宵は沼宮内の駅に泊る。端近く円居して。今宵の月従に見過さんも本意なし。人々折に合たる言の葉詠出てなんと聞えあへるに。割れは句も出こず打詠むる月の光はいたう哀れに照増たる。唯来し方行末をのみ思ひ出る中にも。果敢なき女君の御事の怪しう慕はれて打泣かれつゝ。人々の言の葉書も留めずして止みぬ。
散りうせし一葉の陰ぞ慕はるゝ名に負ふ月の盛りみるにも
小鳥谷とは無関係なので詳細は省略するが、この後、金精神を祀る巻堀神社(盛岡市玉山区)について「此神男子の性を祭りて。あらぬ様なる捧物など。旅の憂さを暫し忘れて笑ひあへり」と記載している。
逸子は、後に河内の岡田士聞(岡田鶴鳴 1750~1800江戸時代中期-後期の儒者)の妻となる。岡田家は代々河内片野神社(※現在の片埜神社)神職を務める家で、岡田士聞は寛延3年(1750)岡田正時の3男として生まれ、早くから領主水野忠敞[ただたか]に仕え、19歳のとき江戸詰めを命じられ35歳で家老となる。帰郷後は河内・大和・近江に散在する水野領の代官として坂村の水野家陣屋で執務するが、長兄・次兄の死去により片野神社の神主を継ぎ、両務を兼職たという。[大阪府枚方市 コラム「あのひと このひと」 その5 岡田本房 より]。寛政12年死去。名は皐。字(あざな)は士聞。通称は本房,幸之允,治右衛門。著作に「鶴鳴文鈔」などがある。
「奥の荒海」は、明治三十四年発行の「続々紀行文集」や、大正七年~八年発行の「女流文学全集」の第3巻などに収録され、「続々紀行文集」はGooglePlayで無料入手可能。また、「女流文学全集」は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料閲覧可能。
大名の妻・子は通常江戸に滞在しているが、敬姫が松前に嫁入りしたのは、松前藩の参勤交代が五年に一度であるため、特別扱いのためなのだろうか?。また、敬姫嫁入り時期の盛岡藩雑書に敬姫一行通過に関する記事を見つけられなかったので、京都から日本海回りで松前に向かったのではないかと推定される。
※参考・引用文献「近世の女旅日記辞典(柴桂子著)」(東京堂出版)
大阪府枚方市 コラム「あのひと このひと」 その6 岡田逸も面白いのでリンク張っておきます。ところで、逸子じゃなくて逸が正しい名前なのか??
● 菅江真澄(民俗オタ)
江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡吉田付近と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。他に知之(ともゆき)、白超とも名乗ったという(wikipediaより)。なお、菅江真澄という名を使い始めたのは文化七年(1810)以降のようである。江戸時代の東北・北海道を旅行し,土地の民族習慣,風土,宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。晩年は秋田藩で藩主の佐竹氏とも親交を持ち,秋田藩の地誌の作成に携った。
真澄は小鳥谷は2度通過している(「菅江真澄」と名乗る前の時代である)。1度目は天明五年(1785)。秋田領から蝦夷地(北海道)を目指して日本海沿いに北上し、津軽領内で飢饉の惨状を目の当りにして、蝦夷地行きを断念。鹿角から南部領に入り、奥州街道を南下する途中で小鳥谷を通過した。菅江真澄遊覧記1(平凡社)「けふのせば布」によると、九月六日(10月8日)に現在の一戸町月館の金葛の宿を発ち、末の松山を見学後に奥州街道を南下、小沢(=小鳥谷)の離れ家で1泊した。当時の食事の様子や、暗い早朝から山仕事に向かう人々の様子など、貴重でユニークな記録を残している。翌日(九月七日(10月9日))、高屋敷・笹目子・小繋と、奥州街道をさらに南下し、最終的には仙台藩に2年滞在する事になる。
なお、小鳥谷で宿をとる前日の九月五日(10月7日)、真澄は、浄法寺の吉祥山福蔵寺に寄り、活竜上人と会話した事が「けふのせば布」に記載されているが、この活竜上人とは、当時の福蔵寺住職霊渕活龍の事である。活龍は一戸・広全寺で修行した僧で、福蔵寺住職の前に田山の地蔵寺住職、その前は、小鳥谷の仁昌寺住職を経験している。仁昌寺の住職をしたのは宝暦十年(1760)~明和五年(1768)の9年間である。
菅江真澄遊覧記2(平凡社)「岩手の山」によると、真澄が再び小鳥谷を通過したのは天明七年(1787)七月二日(8月3日)である。再度蝦夷地を目指し、奥州街道を北上する途中で小鳥谷を通過した。御堂観音(正覚院)で一泊し、一戸までの行程で、途中中山で「くぐつ(遊女)のような」女と子供・母親、老女の方言による会話の様子を記録している。この「くぐつのような者」とは、木村謙次の『北行日録』にある「鍋ヲナキ」なのかもしれない。小鳥谷では昼食と小休憩をとっている。また、小姓堂の御小性神社について、祀られているのが「秀衡(藤原秀衡)」という記録を残している。
●木村謙次(水戸藩のエージェント)
宝暦二年(1752)~文化八年8(1811)。江戸後期の北方探検家。名は謙,字は子虚,号は酔古堂,酔古山館など。常陸国久慈郡天下野村(茨城県常陸太田市)の農家に生まれ。若くして才能を認められ水戸の学者立原翠軒について学ぶ傍ら、谷田部東壑について医術を修めた。その後、京都や水戸藩の名医について修業を積む。34歳のときに松島、仙台に旅したのち、東北と蝦夷地を幾度となく調査する。
寛政五年(1793)、水戸藩が計画した蝦夷地調査のエージェントとして水戸を出発し、蝦夷地に1週間程滞在。この時の日記が『北行日録』で、当時の東北地方や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。寛政十年(1798)には幕府の蝦夷地探検に参加した近藤重蔵に「下野源助」と名を変えて同行。久奈尻島(国後島)、択捉島への渡海。久奈尻島では「喜晴軒」と名づけた小屋を建て、滞在しながら島のようすを調査し、択捉島では謙次の筆による「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。寛政十一年(1799)二月末、謙次は江戸に帰り、調査結果を藩主に報告。調査は「酔古日札」という書物にまとめられた。
北行日録によると、寛政五年(1793)二月十四日(3月25日)に沼宮内から一戸へ向かう途中、小鳥谷を通過している。以下に二月十四日の記事を示す。
十四日陰 カイラキ(川原木?)村、北上川土橋ヲ渡ル。右にフカネ(府金)村アリ。是レヨリ野田ェ四日路ナリ。久慈、八ノ戸(八戸)ェ通路アリ。又北上川ノ土橋ヲ渡リ、三ツ堀(水堀)村ニ至ル。此ノ辺、奴婢ノ価、男廿貫、女三貫文、稗粟等ヲ食トス。御堂村、北上山観音アリ。別当天台僧火宅僧ナリ。額ハ猿橋義近草書、印ニ字子仁トアリ。塚ノ台村、此ノ所、北上川ト真別(馬淵)川トノ水源ナリ。此ノ辺ノ地、主ナ高キ所ニテ雪尤深シ。尻糟(摺糠)村、真別(馬淵)川コレヨリ出テ八ノ戸(八戸)ニ流ル。ブナノ木台、四方皆山ニテ、此ノ所ハ山上ノ原野ナリ。雪ヲ蹈ミテ行ク。目中人烟ヲ見ズ。山谿ノ間、往々人家アリトキク。中山村、人戸十五、六。此ノ所、水田ナク陸田ノミナリ。夏ニ至レバ馬商多ク集リ、馬ニ草飼スル所ナリト云フ。正月、山入リトテワラヲ結ビ、木ニ結付ケヲクナリ。飛行(火行)村、人戸四、五軒。漆木多シ。元日草満地ニ花を開ク。中山、飛行(火行)二村、トモニ雪多クシテ居住ナリガタキ故、人戸甚ダ乏シ。サレドモ、夏ニ至レバ馬商多ク留宿ス。故ニ鍋ヲナキ 土妓ノ方言。ナドアリ。垢面、破レ衣服ニ博帯ヲ用ヒズ。前垂ノ紐ニテ腰ヲ纒フ。醜態悪ムベシ。盛岡、八ノ戸(八戸)等ノ馬商馬ヲ牽来リ、一夜ニ宿スルコト二百疋ホドナリ。小繋村、此ノ所、真別(馬淵※正しくは小繋川)川ノ水源漸ク大ニナリ、一ノ戸(一戸)ニテハ舟ヲ泛ブベキホドナレドモ、急流ナレバ通船ナシ。コレヨリ八ノ戸(八戸)ニ流ル。此ノ村ニモ鍋ヲナキアリ。林谷岨隘、風景勝絶ナリ。笹見子(笹目子)村、川ノ向フ、ホウノゴ台(朴舘?)ト云ヒ人家アリ。漆木多シ。川下ヲ中村ト云ヒ人家アリ。川東村、此ノ村ノ頂キ、百丈余ノ絶壁ナリ(駒木付近の事か?)。高屋敷、小鳥谷、野中、小姓堂、小姓ノ宮(御小姓神社)アリ。イワレアルコトナルベシ。 目ガ打(女鹿口)村、川アリ。シカロ(女鹿口か?)川ト云ヒ土橋アリ。ミサアカ(荷坂か?)峠ト伝フアリ。ミカロ(女鹿口か?)川ノ上、左ニミイナ村アリ。ミサアカ(荷坂か?)峠ヨリ下ル坂を白坂ト伝ヒ、白土灰ノ如シ。関屋河原、此ノ向フニ竹畑村アリ。竹屋鼻、川岸ヲ過グ危路ナリ。一ノ戸(一戸)入口、真別川土橋、幅六、七間、長サ廿四間アリ。一ノ戸中町、甲州屋弥総次ガ家ニ宿ス。沼久内ヨリ小道五十里四十九町、一里ニテ八里八町廿四間也。町中ニ真別川土橋アリ、長サ四十間。此ノ夜、天度ヲ窺フニ四十度ナリ。
上記のように、中山、火行、小繋に「鍋ヲナキ」という土妓がいた事を記載している。「飯盛女」の事だろうか?。 木村謙次の著書に征北窺管というものがあり、北行日録の上巻にあたるが、かなり差異があるという。この征北窺管(大正15年井上村司写)では「鍋タナキ」とし、賣女と注釈があり、中山村の所に、鍋タナキ花代二百文とある。木村謙次以外の文献では、菅江真澄の「岩手の山」に中山で「くぐつ(遊女)のような」女の記載がある。
小鳥谷付近の地名や神社として真別川(馬淵川)、笹見子(笹目子)、ホウノゴ台(朴館か?)、中村、高屋敷、小鳥谷、野中、小姓堂、小姓ノ宮(御小姓神社)、目が打村(女鹿口)、シカロ川・ミカロ川(女鹿口川の事か?。ちなみに、女鹿口を流れる川の正式名称は女鹿川)などを記載。また、「川東村、此ノ村ノ頂キ、百丈余ノ絶壁ナリ」とあり、中村と高屋敷の間で記載している事から、街道から見た駒木付近を描写したものであると考えられる。その他、この夜一戸で天体観測を行い、「天度ヲ窺フニ四十度ナリ」と記載している。北極星の角度を測定したものと推定され、一戸付近が北緯40°である事を示している。なお、国土地理院の地形図によると、一戸本町付近の緯度は、北緯40°13分である。伊能忠敬も一戸で天体観測を行っているが、木村謙次による観測は、伊能忠敬が測量でこの地に来る7年前である。
寛政十年(1798)、老中の戸田氏教が立案した蝦夷地調査に木村は幕臣の近藤重蔵の配下として医師・下野源助という偽名で参加。雑書の寛政十年(1798)五月一日(6/14)の記事には「公儀御役人様方今晩爰元止宿」とあるが、具体的な氏名の記述はない。一行が小鳥谷を通過したのは、五月二日(6/15)で、この日は盛岡から一戸まで移動し、翌日は一戸から七戸まで移動した。1日当たりの移動距離が他の旅日記に比べて長い事から、馬による移動か?。木村の蝦夷日記には
五月二日 晴靄風 盛岡発 ~略~ 御堂村(北上山観音則河原) また田 しるぬか(※摺糠) 中山 日行(ヒキャウ)(※火行) 小繋(小繋山ノ向ふ横浜や半兵衛休 盛をか(盛岡)より七里道八十五里) さゝよこ(※笹目子か?) 高屋敷 向ふ童子厚扑代(※道地、朴館?) 小島谷(コシヤ)(※小鳥谷) 小性堂 目か打(※女鹿口) 二坂(※荷坂) 関屋 諏訪野 市ノ戸(※一戸) 沼宮内より大道八里八丁余 伊セや庄司泊 盛岡ヨリ大道十六里五十丁 小道七丁百八里暮六ツ時着
木村謙次集 上巻 蝦夷日記(山崎栄作)
とある。「扑」や「小島谷」の「島」は山崎栄作氏により活字化する時の間違いかもしれない。仮に扑が朴の間違いと仮定すると、「向ふ童子厚扑代」は、「向ふ童子厚朴代」となる。童子は地名の「道地(どうじ)」、朴代(ほおのきだい)は「朴館(ほおのきだて)」の事だろう。では、厚とは?。道地と朴館は共に奥州街道沿いの村ではない。ここに書かれているのは高屋敷周辺から見えた風景を示したものだ。ガイドの人(たぶん地元の馬夫・馬方)が『向こうにあるのは道地(村)、あっち(あちら)にあるのは朴館(村)』という意味で説明したつもりが、訛っていたため「あっち」を「あっつ」と発音し、それを木村が「あちら」の意味と気づかなかったため「厚」と表記したのでは?。ちなみに朴館の館を「代」と記入してるが、寛政五年(1793)の旅でも朴館の事と推定される地名を「ホウノゴ台」と表記している事から、地元の人による「館」の発音が木村の耳には「ダイ」という音に聞こえていた可能性がある。
この時の蝦夷地探検で近藤重蔵やその配下として参加していた最上徳内は、択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建立するが、その文字は木村謙次によるものであるという。
● 伊能忠敬(地図の人)
江戸時代の商人・測量家。下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、伊能家を再興。隠居後に江戸で幕府天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。後に私財を投じて測量を行う。目的は、江戸・蝦夷間の距離と緯度を測定し、地球の大きさを推定する事であるが、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援が増強され、国家的事業に育っていった。
小鳥谷の通過は、寛政十二年(1800)の第1次測量で往復2回。翌年の第2次測量で1回の計3回である。
寛政十二年(1800)
五月五日(6月26日) 小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)
国立国会図書館近代デジタルライブラリ「伊能忠敬 」の測量日記より↓
五月五日朝小雨夫より止又七ツ頃迄度々小雨其後少晴六ツ頃より又曇る朝六ツ半頃出立八里八丁一ノ戸宿
【此間小股糸村(※小繁村=小繋村)高屋敷村両宿の馬継をするなり】一里三十一町福岡宿に七ツ頃着【福岡の前に末の松山あり】止宿
九月廿九日(11月15日) 小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
国立国会図書館近代デジタルライブラリ「伊能忠敬 」の測量日記より(天気の様子がわかるので、前日分から抜粋)↓
同(※九月)二十八日朝六ツ半出立五ツ過より雪降る三里五丁○九間金田市に到る雪彌降積至五六分此所にて中食雨止宗平秀像道を差へて不来仍て待こと
久し金田市村役人を頼み置て門倉氏と立出ぬ此所より福岡へ一里○四丁二十一間夫より一ノ戸迄一里三十二丁余七ツ後に着無程宗平秀蔵も来夜も雪少降る
雲間に測量
同二十九日朝六ツ後出立五ツ頃雪降る七ツ頃又降る一ノ戸より八里八丁二十一間【一ノ戸より三里程にて小股原(小繋?)にて中食雪降る】
七ツ半後沼宮内へ着夜測量止宿
※宗平=平山宗平、秀蔵=伊能秀蔵(忠敬の次男)
享和元年(1801)
十一月十四日(12月19日) 小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
伊能図(地図)には、小鳥谷付近の地名として、小鳥谷村・野中村・穴窪村(=穴久保)・笹目子村・高屋敷村・川股村(=川又)・光松堂(=小姓堂)が記載されている。
● 渋江長伯(江戸の羊飼い)
渋江長伯は戸時代中期~後期の医師・本草家である。幕府の薬草園であった巣鴨薬園の総督を兼ね、薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った人物としても有名である。(巣鴨薬園は当時「綿羊屋敷」と呼ばれていたという)
寛政11年(1799)、幕命により幕府の蝦夷視察団に参加し、江戸から厚岸(釧路管内)まで往復した際の記録を紀行文「東遊奇勝」にまとめている。「東遊奇勝」の寛政十一年(1799)四月十一日(5月15日)の小鳥谷付近の記録を以下に示す。
「小繋坂の嶮岨は石斗にて路曲り、左は山にて大石に跼める処もあり、又は路を失たるもあり、右は深き谷にて急なり、川そふ坂(川底坂か?)より高屋敷阪を超えて高屋敷村に至る、わさとの坂(上里の坂)、山崖の道にて漸緩めり。こしやむ長坂を経て有り。鷹見山あり、離山にて其腰を麻別川(馬淵川)、さし廻り、山の形飯盛に似たり。小性と坂、瀧坪村、めへか(女鹿?)川・・・」以下略
「こしやむ長坂を経て有り」とは、「小鳥谷村(こじやむら)長坂を経て有り」という意味であろうか?。。「小性と坂」は小姓堂地区入口にある尻引坂の事であると推定される。他の文献にも記載されているが、笹目子~川底付近の街道は、難所であった。
渋江長伯一行の盛岡藩通過は、雑書でも確認できる。雑書四月九日(5月13日)の記事に「奥詰御医師渋江長伯様今朝六日町御止宿」とあり、九月十一日(10月9日)の記事には「公儀御医師渋江長伯様御帰府に付今日爰元御止宿」とある。
● 福居芳麿(謎の国学者)
江戸の国学者。詳しい経歴不明。滕(とう)知文、藤はらの芳麿、士興、蠏谷、竹陰亭、東山人などと称した。享和元年(1801)と文化四年(1804)の二度にわたって蝦夷を訪れ、天保の初め頃に歿したという。著書の「蝦夷の嶋踏」によると、享和元年(1801)三月十九日(5月1日)に蝦夷に向かう途中、小鳥谷を通過している。この日、沼宮内の宿から御堂観音に立ち寄り、小繋で昼食。その後、高屋敷、小鳥谷、女鹿口を通って一戸で宿泊している。帰路も奥州街道を通ったと考えられるが、省略されている。
十九日。つとめてやどりを出たつ。けさはまた雪のけはひ、たゞならねば、其こゝろしていづ。はたして山中にかゝる頃、雨降きて霰(あられ)などもふれり。 ~略~
小繋といふ所にひるげす。高屋敷、小鳥谷(コジヤ)、女麿(メカクチ)などいふ村々を過て一戸宿何がしにやどる。
「近世紀行文集成 蝦夷篇」(葦書房) 蝦夷の嶋踏より
● 滑稽舎語佛(今は無き船遊亭)
滑稽舎語佛は一般には2代目船遊亭 扇橋として知られている落語家である。本名は鈴木十蔵。初代船遊亭扇橋の弟あるいは麻布の茶漬茶屋の息子とも言われている。並木吾市という名の狂言作家としてデビュー。初代扇橋の門下で船遊亭新橋・扇蝶・初代入船扇蔵を経て、師匠の死後の文政十二年(1829)に2代目扇橋を襲名した。天保十二年(1841)、門下に扇橋の名跡を譲り、同年十二月(10月)、陸奥への興行に旅立つ。仙台から塩釜・松島・石巻を巡り仙台に戻り、それから奥州街道を北上し盛岡・福岡(二戸市)へ。ここから観音林(軽米町)を経由する「八戸街道」を通り八戸へ。八戸から三戸・田子・来満峠を越え鹿角へ進み、その後は秋田藩領や津軽藩領内を巡る。この時の旅の様子を記録したのが「奥のしをり」である。語佛が小鳥谷を通過したのは天保十三年五月十一日(1842/6/19)である。
十一日 一ノ戸と申所へ泊り申候、此邊ハ七町を小道一里と申四十八丁を大道一里又ハ一ト塚ととなへ申候て眞事に遠き道に御座候、十二日福岡と申所より末の松山を越シ申候、古しへ浪の越しと申跡有り、此邊の松不残三葉にて御座候、いかさまにも浪のこへし跡と相見へ申候、是より八ノ戸入口観音林と申所迄片登りにて眞事に難渋之道に御座候、末のまつ山より観音林の間に清水一ツ無之、此邊にてわらびの根をほり根花と申者を製し申候
〇波こへし昔に今はひきかへて清水たになき末のまつ山
沼宮内より一ノ戸へ参り候間ニ小繋と申番所御座候
十三日八ノ戸へ着致候(以下略)
小繋や一戸の事は記載しているが、残念ながら小鳥谷についての記載はまったくない。この地域が小道一里と大道一里を使い分けている事は、他の文献でも記載され、明治の小説・突貫日記(倖田露伴)にも一戸から南下途中小繋手前で『余は今日二時間ばかりにて十五里歩みぬ、またおかしからずやと伝えば、亭主、我等老いたれども二時間に三十里はあゆむぺしと云う。だんだん聞くに六町一里にて大笑いとなりぬ。』とある。
江戸に戻った語佛は、弘化五年(1848)に「落語家奇奴部類」執筆。文久元年(1861)に75歳で亡くなる。船遊亭扇橋の名跡は七代目まで続き、八代目からは系統が変わり亭号も入船亭になったという。
秋田の無明舎出版から「奥のしをり」の現代語訳版が出版されているようです。その解説サイトに旅の概要が記載されています。
http://www.mumyosha.co.jp/topics/rensai/shiwori/backnumber.html
●三田花朝尼(息子夫婦の出張先についていった迷惑ババァ?)
三田(さんだ) 花朝尼は、本名みを子(美保子)。寛政九年(1796)~明治二十一年(1888)。江戸時代後期の歌人、香川景樹の門人である。安政三年(1856)60歳の時に、息子の喜六(礼本)が函館奉行所勤務となり、その一行に従って江戸から函館まで行き、さらに、復路江戸へ帰った道中記が函館日記(※帰路の日記は、函館かへさ日記というが、函館日記とセットで出版されている)。函館日記によると、安政三年(1856)二月二十六日(4月1日)と四月十七日(5月20日)に小鳥谷を通過しているが、函館日記に小鳥谷についての記載はない。
函館日記(山崎栄作)より、二月二十六日(4月1日)と四月十七日(5月20日)の記事を以下に示す。
二月二十六日 曇。沼宮内を暁に立。雪とけにて道わろ(悪)く。かこ(駕篭)かつく(担ぐ)をのこ(男)あなくるし。くるしといふも耳に付て心くるし。あゆみて(歩みて)ゆ(行)かまほしうおもへと。それもむつかし。をのことを少しの小川にあしいれて。ぬけぬぬけぬといひさわく(騒ぐ)もおかし。谷水の音はるか(遥に)に聞ゆれと。雪の下なれはさらに行来しられす。すはの湖の氷さへとくるときく頃なるに。氷をわたる人もある物かなと。ひとりこちつゝ。かろうしてやうやう小家はるか(遥に)にみいたしぬ。こゝにしはし休みて。また五台といふにのほる見おろさは。千尋も有へくおもふ。雪村消たる木のまのまにこちとおほしきか有。みな五台の山の根也。かたへは深谷也。すへてこゝら行ときは。生きる心もせす。たゝことなきを祈りつゝ行。俄に風吹いてゝ。山もうこくかとおもふ。
風のまにまにみね(嶺)より雪くつれ(崩れ)落来りて。乗たるかこ(駕篭)もくたくるかとおもふ。此わたりはふたゝひ(再び)くへき所と思はれす。此所のふりにて女あまた(数多に)いてきて物もつ。かろうして子つなき(小繋)坂にいつ。何故の名にやと聞は。谷深けれは。落もせはとても引上ることもむつかし(難し)あれは。親のこしへ(腰へ)子供をつなき(繋)てとほれ(通れ)といふをしへ(教え)の名也と。女とも口々にいふもをかし。一ノ戸に着。
(函館からの帰り)
四月十七日 晴たり。一ノ戸をいてゝ。又峠へ子つなきといふに(つ)く。又こゝに中山み堂観音有。此地内に大杉有。此杉のくちたる(朽ちたる)あな(穴)より。いさゝか水いてゝ(出て)。ちいさき池のやうなる有。是なん北上川の水上也。此御山の杉。南部一の大木也といふ。
【歌が数首あり。省略】
日暮れに沼宮内に着く
小繋という地名について、「親の腰へ子供を繋で通れという教えの名也」と記載しているが、険しい谷があるのは、笹目子~川底間のため、「女共口々に言ふもをかし」とは、笹目子~川底間での体験だったのだろう。
なお、松前へ向かう時は、花朝尼の他に・息子の三田喜六・安子(喜六妻)・松浦武四郎・三田用人の木村為蔵・新助等が同行。帰路の同行者は不明であるが、息子夫婦や松浦武四郎等はいなかった。
北海道大学 北方資料データベースの解説に、「三田喜六とその身重の妻に同行した喜六母の道中日記」とあるので、 花朝尼が物見遊山で息子夫婦についていったわけではなかったようだ。上記タイトルの「迷惑ババァ?」は訂正w。息子の喜六が函館にいた期間は不明であるが、杉浦梅潭(※ハイテク奉行w)の慶応二年(1866)三月二十六日の日記に江戸で喜六と打ち合わせした事が記載されているので、慶応二年(1866)三月より前に江戸に戻っていた事がわかる。
【外人さん】
● 李志恒一行(迷子の朝鮮国下級武官)
李志恒(イ・チハン)は朝鮮国(李氏朝鮮王朝)の下級武官。元禄9年(1696)4月13日、用務で李志恒ら8人が乗った船が釜山を出航。その後、強風にあおられて操船不能に陥り漂流、5月12日に『山の中腹から上に雪がある高い山のある島』に漂着した。松前藩や対馬藩の記録では漂着したのは礼文島とされているが、礼文島には高い山がないため、現在では、利尻富士が聳える利尻島ではないかと考えられている。アイヌ人の援けを受けながら沿海を南下し5月末に松前藩士に出会い、江差を経て松前に送られ(7月27日)、その地で50日近く藩の保護を受け、その後、松前藩の一行とともに江戸に向け出発し、江戸には9月27日到着、朝鮮外交專担の対馬藩に移管された。そしてその保護のもと、10月初めに江戸を出立、大阪には17日に着き、順路を経て12月14日対馬に至った。一行が釜山に無事帰還できたのはほぼ1年後の翌年の3月5日であった。この間の出来事は李志恒の記録「漂舟録」に記録されているという。
盛岡藩の雑書にも朝鮮人一行が南部領内を通過した記事が残っている。それによると、松前藩に朝鮮人の舟が漂着した事について、野辺地代官から藩に報告された事が元禄九年七月丗日の記事にある。その記事には8人の名前が記されているが、李志恒と推定される人物の名は「大将 李先達」と記載されている。なお、漂舟録には「李先達名志恒字茂卿」とある。
八月十八日の記事には、朝鮮人一行の領内通過に対応する南部藩側の役人が記載されている。九月六日の記事には
一 朝鮮人明日御城下到着ニ付、何も見物ニ罷出候者猥無之、尤下々辻々立不申不行義ニ無之様ニと、盛岡中へ御目付より申触之
とあり、城下での混乱がおきないように配慮したようである。
翌日の九月七日に松前藩の関係者とともに朝鮮人一行が盛岡に到着。九月八日盛岡を出立、その際に朝鮮人と盛岡藩家老の間で漢文の書簡が交わされ、その内容と、朝鮮人一行が御堂観音の絵馬板に書いた書の写しが雑書に記載されている。九月九日に一行を仙台領に送り、九月十一日に担当役人(御目付 松田与左衛門)より家老への報告が行われた。
雑書より、家老と朝鮮人の間で交わされた漢文の書簡の写しは次のとおりである。
朝鮮国漂人等告辞
我等以朝鮮微氓、因往江原道、逆風漂流止泊於松前海境、得免海中之揜(滝)死、天助罔極之沢、松前救活之恩不可尽記、以賀第我国之於貴国係是交隣相敬之道、且有自江戸王命之招而、至本州境、已過六七日、則連以松前之物供饋云主客相敬之道、何其薄甚耶、一行之人皆労病未去、欲留今日以此意替告於太守前下命護饋伏望南部家老閣下
丙子九月初八日
返簡
今早行装之後、以書被告於吾儕等、先是漂流止泊松前海境而、漸所救死件々如所告、且依有帰国交隣之好、卿等将得帰于本州、欣幸々々、又有労病之人告供饋之事、然而以自松前伝来不過其縡故無奈何卿等思焉
九月初八日 南部家老等
報
朝鮮国漂泊人
牀下
雑書によると、御堂観音の書は次のとおりである。
一 朝鮮人沼宮内之内御堂観音堂絵馬板ニ書付候写
朝鮮漂人東■(莱か)府中居武科出身永陽後人李宮恒、自松前過去時参謁翫覧
随来人 孔重哲
金海邦
船人四名
大慈大悲南無観世音二
ここでは、李志恒が李宮恒となり、船人四人に李氏・孔氏・金氏を加えて七名で数字が合わない。
一行が御堂観音に立寄っている事から、南部領内の奥州街道を松前藩の参勤交代と同じルートで通過したと推定される。盛岡到着が9月7日なので、同日朝沼宮内を出立した事が推定され、小鳥谷を通過したのは前日の9月6日と推定される。漂舟録には江戸送還途中の事は詳しく書かれていない。「所経一路所邑。津軽郡南部縣仙台府奥州牧信友郡五邑也」と書かれているだけである。※漂舟録は「朝鮮群書大系」に収録され、国立国会図書館サイト内の近代デジタルライブラリーで無料閲覧可能。
御堂観音は宝暦8年(1758年)と昭和43年(1968年)に火災で焼失している。1700年代後半から蝦夷地に向かう旅人が多くなり、御堂観音について事細かに記載している例もあるが、その中に朝鮮人の絵馬に言及したものが見当たらない事から、李志恒一行が書いた絵馬板は宝暦8年(1758年)の火災で焼失した可能性が高い。
【参考】
利尻町ホームページ 文化・歴史 朝鮮人、泰山を目指す!!
http://www.town.rishiri.hokkaido.jp/rishiri/item/1373.htm#itemid1373
★関連動画
●ゴシケーヴィチ一行(おろしあ国領事)
ロシア領事のゴシケーヴィチ一行が、安政七年(1860)三月三日小鳥谷を通過した(三日朝に沼宮内を出立、一戸に宿泊)。この地方にやって来た最初の白人の可能性が高い※。ちなみに、この日(安政七年三月三日)は、桜田門外の変が発生した日として、日本史に記録されている。
※秀吉時代~江戸初期にキリシタンの宣教師が当地に来ているのかは不明。他にロルテスというイタリア人が蒲生氏郷の家臣となり、山科勝成(山科羅久呂左衛門勝成)と改名してるため、仮に九戸の乱に従軍したとすれば、小鳥谷を通過した可能性もあるが、山科勝成は実在性そのものが疑われている人物であるという。
ゴシケーヴィチ(Иосиф Антонович Гошкевич ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ)は、ベラルーシのミンスク郊外出身のベラルーシ人。ロシアの初代日本駐在領事である。
安政元年十二月二十一日(1855年2月7日)の日露和親条約締結後、ロシア領事館は、横浜ではなく函館におかれ、初代ロシア領事であるゴシケーヴィチは函館に駐在した。安政七年(1860)、用務で江戸に行き、同行した妻の病気を理由に、函館への帰還は船ではなく陸路を希望したため、奥州街道を通り函館に向かうこととなったが、陸路を希望した本当の目的は日本国内の偵察であったともいう。なお、ゴシケーヴィッチの妻は、4年後函館で病死しているため、当時体調が悪かったのは本当の事かもしれない。一行のメンバーは、ロシア領事ゴシケーヴィッチ、妻のエリザヴェータ、息子ウラジーミル、函館ロシア領事館の医師アルブレヒトの夫人、下女の5名(男性2名、女性3名)である。なお、アルブレヒトの夫人はスウェーデン人であるという。他にペットの犬が2匹いたというが、毒見役でもあったとか。以下に「アルブレヒト夫人の手紙」の一部を紹介する。
『地域史研究はこだて』第19号 1994.4
安政七年のロシア領事奥州街道通行に関する三つの史料(清水恵)より
「アルブレヒト夫人の手紙」(抜粋)
私たちの旅の後半は、前半よりもゆったりと進みました。ここでは山岳地や深い雪の中を横断しなければなりませんでした。函館へ近づけば近づくほど、よりしげく高い山々に出くわし、雪が一層深くなり、静かに前進するばかりでした。高い山の辺を通った狭い山道をやっと通過しながら、私は恐る恐る視線を上から断崖に投げ掛けました。その断崖の上に私たちの駕篭がぶらさがっていたのです。息が止まりそうになり、恐ろしくて山の小川か湖のせせらぎの音が聞こえる深い断崖の絵のような景色から顔をそむけました。私たちが曲がり角で振り返った時、ずっと後ろに遠く離れた駕篭が玩具の駕篭のように、またかつぎ人夫が小人のように思われました。雪や死んだような自然にも関わらず、山からの景色は見事なまでの美しさでした。鳴り止まぬ滝の音だけがこの冬の光景の静寂と平穏を乱していました。日本では駿馬で有名なナシブ[南部か―編者]地方は本州の北東沿岸に位置し、領主に属しています。そこが函館への最後の通過点でした。本島沿岸、ほぼ函館の反対側に位置する「佐井」湾に海峡横断用クリッパーが待っていました。 旅の二四日目に私たちは佐井へ到着し、自分たちの駕篭と一緒にクリッパー(※快速帆船)に乗り移りました。そして四時間後函館へ着岸しました。
※アルブレヒト夫人の手紙はロシア海軍の機関紙「モールスコイイ・ズボルニク(1861年第7号)」に掲載されたものであるという。
この手紙に記載されている断崖の曲がりくねった道や滝の音の様子などの描写は川底付近(笹目子~高屋敷間)の街道の事を指しているのかもしれない。
小鳥谷の五月館の追分石(左ハもり岡、右は山道)は、文久元年(1861)に設置されたもので、ロシア領事一行が通過した翌年にあたる。
ロシア領事一行通過に関する盛岡藩内の記録として、三戸代官所に書役として出仕していた太田弘三の「魯西亜人通行之節見聞書」が残されているという。それによると、三戸では三戸代官所の客間が宿泊先として準備され、ロシア領事一行が出立後、客間は「獣類の生皮をはぐときと同様の臭い」が残り、その後三日間、臭気を取り除くため沈香や抹香などの香を焚いて燻らしたという。
魯西亜人通行之節見聞書には沼宮内で出された食材のリストがあり、その中に「太白 盛岡箱菓子」(砂糖菓子のようなもの?)、「津かる浪花せんべい 但し石焼せんべいともいふ 太白衣のせんべい也(砂糖の衣がついた煎餅か?)」、「麦せんべい」、「麦饅頭」などが記載されている。「麦せんべい」は南部煎餅の事か?。この中でロシア人一行に好評だったのが麦饅頭のようで、「御好ミニ付又々御注文之事」とある。なお、アルブレヒト夫人の手紙には「日本の食事は、薬のように苦くて不味い」とある。
ゴシケーヴィッチの妻・エリザヴェータはこの旅行の4年後、1864年の初頭病死。遺骨は函館の外人墓地に埋葬されているという。医師のアルブレヒト(ロシア人の見た幕末日本・吉川弘文館ではアリブレフトと音訳)は、エリザヴェータの診察に対し、ゴシケーヴィッチと確執があり、1863年函館を離れた。ゴシケーヴィッチは1865年に帰国した。
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●エドワード・S・モース(ついでに考古学してみました)
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は、アメリカの動物学者。進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、腕足動物の種類が多い日本に標本採取のため来日し、東京大学のお雇い教授を2年勤めた。日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介した。また、大森貝塚の発見・発掘でも知られている。(Wikipediaより)
明治11年(1878)、二度目の来日で、採取のため横浜から汽船により北海道に渡り、帰路は青森から陸路東京へ戻った。著書「日本その日その日」には詳しい日程が記載されていないが、8月17日に青森に到着し、そこから東京までは15日の日程(モースの希望は10日)という事であり、小鳥谷通過は、8月20日頃か?。青森~盛岡間では、福岡(二戸市)が「町が清掃されてあって極めて美しかった」とあり、ある宿場では、酔っぱらった複数の村人と遭遇した事(たまたま相撲興行があり、そこから帰る途中の見物客)、モース一行が宿場に到着する少し前に200名の兵士が宿場に到着したため、宿泊先の確保に苦労した事が書かれている。これらは盛岡到着前のため、一戸あるいは沼宮内での出来事か?。盛岡からは船で北上川を下ったようだ。
青森・盛岡間では、途中「ぬるでの一種の種子」を木の槌を使って叩いている民家の事を記載している。この種子は蝋の原料とあるので、「ぬるでの一種」とはウルシの事である。ちなみにヌルデはウルシ科の植物である。また、温暖な西国で蝋の原料にしていたハゼノキ(ハゼの実)もウルシ科の植物である。小鳥谷はウルシの産地であり、ウルシの実を叩いていた民家は小鳥谷付近で目撃したのかもしれない。当時日本から米国に植物蝋が大量に輸出され、米国では弾薬筒にそれを塗り、ロシアやトルコ(当時はオスマン帝国)の陸軍に輸出していたという。
【その他】
● 文化年間の蝦夷警固団
蝦夷地で発生したロシアによる襲撃事件に対応し、幕府は、奥州諸藩に蝦夷地警固の命令した。文化4年(1807)に津軽・南部・秋田・庄内4藩で3,000名が出兵、文化5年(1808)には津軽250名・南部250名・仙台藩2,000名が箱館・国後・択捉警固、会津藩1,633名が樺太・宗谷・利尻・松前の警固を行った。奥州街道を通り北上した太平洋側諸藩(南部藩・仙台藩・会津藩)の部隊が小鳥谷を通過している。南部(盛岡)藩は、地元のため、日記・日誌に小鳥谷付近の記載はない。仙台藩関係の記録を以下に示す。
文化五年仙台藩蝦夷地警固記録集成より
北方地理録 P.316
(二月)
一 廿三日沼宮内出立小繋迄廿五里此間ニ中山ト云有辺罷通り候砌抔者左右ニ見切無之大原栢山也往来四里程間ニ四尺以上の栢生有五里之程長大坂有余野坂と云沼宮内之観音有り但シ北上川之かつ地ニ而みたらせ池より落ル右者北上川之みながみ也
一 中山福岡之内中村と云所深林海(街カ)道両側ニ三里程犇と有渡沢云所も右同断但ま屋川と右川有り程なく壱ノ戸長子屋大助所所ニ而宿付申候事
高屋養庵クナシリ警固日記(P.338~)※(原文の「より」の記号を仮名に修正した)
※高屋養庵は仙台藩の医師
(二月)廿九日
此間山坂也土橋有橋脇に番所阿り行過而小つなき之宿ニ着家数丗七八軒此れ所昼休処也町ノ中頃に川有土橋阿り此所に地蔵堂阿り是も聖徳太子之作也別当小繋山長楽寺といふ寺也雅楽殿昼所ニ成侯寺領廿五石之御免地之由我等休所昼所半兵衛と申者之由夫(それ)より笹目子村といふ由家壱軒坂所々阿り荒戸鼻といふ左者岩石也右ハ谷也下川在険阻の処なり道筋至而狭く舅ころばしと云所也川底村往古南部一家九戸左近将監政実と申者有爰に南部倍(信)直私に国中千戈を動すも恐ありと太閤秀吉公へ右之段奏聞に及しかハ蒲生飛弾守氏郷浅野弾正長政等倍(信)直江為加勢下向也政実之長臣姉帯大学其子兼仲と申合此所取合之山といふ山頭に兵を伏置長政之両勢半過るを待受て大木大石を投落志(し)大二敗軍しけりと也わらだ松といふ名木あり行過高屋敷村家数三十軒斗夫(それ)より坂を下り仁正村といふ左之方ニ寺阿り右ニ観音堂阿り所々ニ小村あれ共略之平中といふ塚有夫(それより壱丁斗行ハ姉帯村と云村あり是ハ姉帯大学古城阿り舘之下に川有此川を馬渕川といふ次に大成橋阿り日影ノ坂といふ坂あり女鹿口村と云ニ橋有ニノ坂を通り過舘越坂ニ至り九戸木戸口成るよし白子坂関屋村家数十軒斗行鼻坂左ニ諏訪大明神社阿り諏訪野村と云に至り坂橋阿り一戸町ニ着候
(P.415~)
(十月)廿日
朝より小雨ふり道筋至而悪敷候暁七時出立候段々来て諏訪野三百坂関谷河原同所手前に竹之鼻といふ渕有奇石あり夫より荷坂小川鍋割坂小性坂同所に小性立と云阿り高屋敷笹目子両所共ニ険阻之山路街道ハ右ハ岩山左ハ道脇より直ニ屏風之如き切岸立たる山にて数十丈之谷底眼下ニ見落風情也
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この仙台藩の文書では、行き帰りともに笹目子~高屋敷間の難所について記載している。また、ここを九戸の乱で姉帯氏による奇襲が行われた地として紹介している。これは、「美濃木沢の奇襲」として知られている合戦で、場所については川底付近以外にも幾つかの説がある。また、この付近に「わらだ松といふ名木あり」とある。文化五年の蝦夷警固に備えるため、仙台藩は南部鬼柳より松前・箱館に至る地理・里程を調査させ、その記録は、文化四年に「奥北地理分見略記(塩隆好)」にまとめられた。その記録にもこの松の事が記載され「左方ニ藁圃松ト云松アリワラダノ形ニ似タリ」とある。「わらだ」とは、養蚕に使うワラを円形に編んで作ったお盆のような物の事で、その「わらだ」に似た松という事なので、根本付近が湾曲したような松だったのだろうか?。約50年後の安政四年(1857)に書かれた罕有日記には「わらだ松」は登場しないが、高屋敷~小繋間に「ワラタマ坂」という坂がある事を記録している。これは、わらだ松のある(あった?)付近の坂道つまり「わらだ松坂」という意味ではないかと推定される。松の記録がないため、安政四年当時は、わらだ松は失われ、坂の地名のみが残った可能性が考えられる。
「仁正村」は仁昌寺地区、「左之方ニ寺」は現在の小鳥谷小学校付近にあった当時の仁昌寺、「右ニ観音堂」は小鳥谷小学校北側にある観音堂である。
高屋養庵クナシリ警固日記には一戸について、次のような興味深い記載がある。
「一ノ戸駅に蝦夷器と云有り往古之作物と見得薬をかけざる瀬戸焼と見得当世之道具とハ一円見得不申我々眼前に為取寄見候誠に奇妙之者なり市中商売物に何好事之者調可得者也」
江戸時代に弘前藩で出土した縄文時代の土器や土偶が「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ、一部はオランダに売られたという。高屋養庵が一ノ戸駅で目撃したこの蝦夷器も、縄文土器の事であると推定され、前年に一戸を通過した白河藩・田井仲の日記にも蝦夷器が登場する。
● 漆戸茂樹
盛岡藩士。藩内の地理案内書「北奥路程記」を残した。北奥路程記は街道沿いの絵図と村々の地名や戸数等の解説が記載され、絵図には地名・山名等が記載されている。小鳥谷地区は街道沿いにあるため、詳細に記載されている。
上で紹介した旅人(漆戸茂樹を除く)の小鳥谷通過時期を時系列で示す。
・1418/10/26(応永廿五年九月廿七日) 第15代遊行上人尊恵、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過か ?
・1524/10/11(大永四甲申年九月十四日) 第25代遊行上人仏天、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過か ?
・1612/8/3(慶長十七年壬子七月七日) 第32代遊行上人普光、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過か ?
・1638/9/3(寛永十五年七月廿五日) 第35代遊行上人法爾、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過か ?
・1652(慶安五年壬辰年) 第38代遊行上人卜本、盛岡藩滞在中に八戸へ向かう途中小鳥谷を通過か ?
・1670(寛文十庚戌年) 代42代遊行上人尊任、八戸へ向かう途中小鳥谷を通過か ?
・1687/6/5(貞享四卯年四月廿六日) 第43代遊行上人尊真、沼宮内宿から一戸宿へ向かう途中小鳥谷を通過。
・1691/5/15(元禄四年四月十八日) 丸山可澄(水戸の御老公の使者)奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1696/10/1(元禄九年九月六日) 松前藩に保護された朝鮮人漂流民一行が奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1713/4/18(正徳三癸巳年三月廿四日 第49代遊行上人一法、盛岡から八戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
・1744/8/31(延享元甲子七月廿四日) 第51代遊行上人賦存、沼宮内宿から一戸宿へ向かう途中小鳥谷を通過。
・1772/3/16(明和九年二月十三日) 第53代遊行上人尊如、沼宮内宿から福岡宿へ向かう途中小鳥谷を通過。
・1777/9/16(安永六年八月十五日) 小磯逸子、蝦夷松前で失業し奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1785/10/9(天明五年九月七日) 菅江真澄(民俗オタ)、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1787/8/3(天明七年七月二日) 菅江真澄(民俗オタ)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1792/9/25(寛政四年八月十一日) 第54代遊行上人尊祐、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過か?
・1793/3/25(寛政五年二月十四日) 木村謙次(水戸藩のエージェント)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1798/6/15(寛政十年五月二日) 蝦夷地調査の近藤重蔵隊(北村謙次参加)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1799/5/10(寛政十一年四月六日) 遠山景晋(桜吹雪のパパ)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1799/5/15(寛政十一年四月十一日) 島田元旦(谷文晁の弟)・渋江長伯(江戸の羊飼い)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1799/9/21(寛政十一年八月二十二日) 遠山景晋(桜吹雪のパパ)、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1800/6/26(寛政十二年五月五日) 伊能忠敬、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1800/11/15(寛政十二年九月二十九日) 伊能忠敬、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1801/5/1(享和元年三月十九日) 福居芳麿(謎の国学者)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1801/12/19(享和元年十一月十四日) 伊能忠敬、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1805/10/23(文化二年九月二日) 遠山景晋(桜吹雪のパパ)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1806/8/30(文化三年七月十七日) 遠山景晋(桜吹雪のパパ)、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1807/8/4(文化四年七月一日) 幕府若年寄 堀田正敦、蝦夷地視察のため奥州街道北上する途中小鳥谷を通過。遠山景晋(桜吹雪のパパ)同行。
・1807/10/8(文化四年九月七日) 白河藩士田井仲一行、八戸櫛引八幡宮に向かう途中小鳥谷を通過。
・1808(文化五年) 仙台藩蝦夷警固部隊小鳥谷を通過
・1808/3/19(文化五年二月二十三日) 某仙台藩士、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1808/3/25(文化五年二月二十九日) 高屋養庵(仙台藩医師)、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1808/12/7(文化五年十月二十日) 高屋養庵(仙台藩医師)、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1842/6/19(天保十三年五月十一日) 落語家 滑稽舎語佛(2代目船遊亭扇橋)が沼宮内から一戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
・1852/4/28(嘉永五年三月十日) 吉田松陰、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1854/5/12(嘉永七年四月十六日) 村垣範正、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1854/11/16(嘉永七年九月廿六日) 村垣範正、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1856/4/1(安政三年二月二十六日) 三田花朝尼、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1856/5/20(安政三年四月十七日) 三田花朝尼、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1956/11/16(安政三年十月十九日) 函館奉行 村垣範正、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1857/3/6(安政四年二月十一日) 島義勇、奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1857/5/15(安政四年四月廿二日) 長岡藩士森一馬、蝦夷地探検のため奥州街道を北上する途中小鳥谷を通過。
・1857/10/27(安政四年九月十日) 長岡藩士森一馬、蝦夷地探検の帰路、奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過。
・1860/3/24(安政七年三月三日) ロシア領事ゴシケーヴィッチ一行、江戸から函館に向かう途中小鳥谷を通過。
・1866/5/27(慶応二年四月十三日) 函館奉行に就任した杉浦兵庫頭誠(杉浦梅潭)、江戸から函館に向かう途中小鳥谷を通過。
・1878/8/20頃(明治11年) 動物学者のエドワード・S・モース、北海道から東京へ向かう途中小鳥谷を通過。
[令和6年9月12日 罕有日記 修正]