結論 姉帯・高善寺を襲った山津波の正体は、地すべりにより形成された天然ダムの決壊により生じた土石流(かもしれない)
一戸町誌によると、一戸町一戸字大沢にある曹洞宗の広全寺は、元々天台宗の高善寺として開山し、一戸町高善寺字寺屋敷地内にあったという。天正十九年(1591)三月に九戸勢が一戸を襲撃した際に、寺が破壊され、一戸町姉帯の「舘の下」に小寺を建て、引き継がれた。姉帯への移転時期は不明であるが、一戸町誌は文禄元年(1592)頃と推測している。その後、文禄四年(1595)(異説 正保四年(1647))に山津波により被災し、寺を継ぐ者もなかったため、法系が一時断絶したが、慶安元年(1648)に生室応頓和尚が山津波で破壊された高善寺の遺物を奉じて旧地一戸(現在の一戸駅付近)に寺を再興し、承応二年(1653)に寺を再度移転建立する事になり、その際に、盛岡報恩寺九世蘭翁鈍芝和尚を勧請し曹洞宗の「一明山広全寺」として開山する。
高善寺が姉帯に移った場所とされる「舘の下」という地名は現存しないが、姉帯字門前は、寺の門前に由来する地名とされ、高善寺もその近くにあったと推定される。また、門前地区には「寺屋敷」と呼ばれる畑地があり、一戸町誌には「地形は後ろに山を控え、前方がよく開けており、寺のあった場所としてはうなずけるところである」とある。
下図は、防災科学技術研究所の地すべり地形データベースより姉帯字門前地区と周辺の地形図を表示したものである。赤線は一戸町姉帯字門前のエリアを示している。
「寺屋敷」と呼ばれる畑の位置は不明であるが、「後ろに山を控え、前方がよく開けており」という記載から、図に示す「ア」または「イ」の地点周辺が推定される。
寺の候補地「ア」に近接する谷地形の上流側に地すべり地形「A」がある。また、寺の候補地「イ」に近接する谷地形の上流側に複数の地すべりからなる地すべり地形「B」が存在する。
これらの地すべり地形の形成時期は不明であるが、仮に、文禄四年(1595)または正保四年(1647)に大雨等でこの地すべり地形が動いたと仮定すると、地すべりの土塊は谷を埋めるように堆積したと推定され、その場合、天然ダムが形成され、それが崩壊(決壊)した際に土石流が発生し下流側の地域を襲った事が推定される。これが、高善寺を襲った山津波の正体ではないだろうか?。
図 地すべり地形データベースより、姉帯字門前周辺の地形図(赤線は姉帯字門前のエリアを示す)
なお、姉帯の寺の位置は「舘の下」という地名であったというが、門前地区の北隣には姉帯字舘という地名があるため、「舘の下」は姉帯字舘に近接していると仮定するならば、寺の候補地として「イ」より「ア」の方が可能性が高いと思われる。その場合、山津波の原因となった地すべりは「A」なのではないかと。。。。以上、現地調査無しの推論でござる。
[2019/08/23修正]