小沢の宿とは
菅江真澄は天明五年(1785)九月六日に「小沢」という村で一泊している。当時、この地域の宿場は一戸と沼宮内で、間の宿は小繋であった。真澄は、小繋の宿を目指していたのかもしれないが、その手前で暗くなってしまったのだろう。「小沢」という所で、民家への宿泊を試みる。だが、民家の主婦に「米を一粒も持たぬので宿をかすことはできない」と断られてしまう。しかし、真澄が「一夜ぐらいは食事をぬいても構わないので」と頼み込み、なんとか宿泊を許される。食事抜きの条件だったが、民家の人は夕食に粟の飯に塩漬けの桃の実を添えて出してくれたという。また、翌日の朝も粟飯を提供している。民家の人達の夕食は「栗」で、朝食は「稗飯」だったという。
真澄は暗い早朝から斧や鉞を研ぐ老人の姿や、山仕事に向かうためこの家に集まった人達を「盗賊」と勘違いしてしまい「自分の心のもち方で鬼や仏を作り出すのは実に容易なものだと、恥ずかしくなって寝た」そうだ(菅江真澄漫遊記1 平凡社より)。無理に頼み込んで宿泊させてくれた家の人を疑うのは確かに失礼な話である。
そもそも小沢ってどこ?
天明五年(1785)九月六日。この日、真澄は金葛(一戸町月館)から一戸に向かい、そこから北上して末の松山(波打峠)に立ち寄り、その後、南下し「小沢」村にたどり着いた。小沢の手前には白子坂、荷坂、宮口があり、翌日は高屋敷、笹目子、小繋、火行を経て中山の宿駅についたという。白子坂、荷坂は北奥路程記にも記載されている坂で、女鹿口の北にあった。従って、小沢の手前の「宮口」とは「女鹿口」の事である。また、小沢の南にあるのは高屋敷なので、小沢とは女鹿口から高屋敷の間で、小鳥谷を指すと推定される。真澄の耳に「小鳥谷」という地名は、「コジャ」あるいは「コンジャ」と聞こえたと推定される。当地では沢という地名を「ジャ」と発音する例がある。例えば「女鹿沢」(めがさわ)という地名を、地元の人は「メガジャ」と発音する。真澄も東北を巡るうちにそれに気付き、この「コジャ」あるいは「コンジャ」という音に「小沢」という文字を当てたのだろう。小鳥谷の地名に小沢という当て字する例は、他にもあり、元禄四年(1691)にこの地を訪れた水戸藩の丸山可澄(水戸光圀家臣)の奥羽道記には、小綱木村(小繋村)、高屋町(高屋敷)、小沢村(小鳥谷村)、後生道村(小姓堂村)という記載があり、小鳥谷に小沢という文字を当てている。また、高山彦九郎の「北行日記」[寛政二年(1790)]でも小鳥谷について「小沢」と記載している。天保元年(1830)出版の十返舎一九の方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)第二十一編「南部路記旅雀」の中に「たか屋敷(=高屋敷)をさは(=小沢)といふ[村]を過ぎて、一之戸の宿」という記述があり、筆者(十返舎一九)が、奥州街道の参考資料として使った文献の中に小鳥谷に対し小沢という字を当てたものがあり、それを見て、「をざわ」と読み間違いした可能性が考えられる。
真澄が宿泊したのは、小鳥谷のどこか?
真澄が家の人を盗賊と勘違いした時、「これは、この離れ家でわが命は失われはしないか」(こはこの離家に在てわか命やほろひん)と書いているので、宿泊した家が集落から離れた場所である事が伺える。また、土地勘がない場合、宿泊先等で、ここが何処なのか、それは、どのような文字で記載するのか確認すると思うので、真澄が小鳥谷に小沢という当て字を使ったという事は、宿泊した家の人たちは、文字の知識が無かったと推定される(南部藩の文書では、小鳥谷又は小鳥屋と記載されている事から、地元の人であれば、小沢という字は用いないと考えられる)。肝煎(=庄屋)の家であれば、代官所からの書状や年貢徴収のための様々な書類作成が行われるので、文字の知識がなければ務まらない。真澄の宿泊した家は、肝煎や老名(肝煎の補佐)を勤めている家ではなかったと考えられる。
真澄が小鳥谷を訪れたのと同時期に作られた邦内郷村志には、当時の小鳥谷地区の集落と戸数の情報が記録されている。この情報を元に、小沢の宿が何処なのか探ってみたいと思う。邦内郷村志に記載された地名と戸数をまとめると、次のようになる。
女鹿口(9)、小沼堂(6)、野中(17)、穴久保(11)、妻鹿澤(2)、野里(6)、仁昌寺(17)、上里(27)、馬淵川岸(1)、稲荷(9)、中村(7)、道地(6)、朴舘(9)、笹目子(3)、高屋舗[敷](28)、若子内(2)、川底(2)、川又(8)、身野木澤(2)、志利引(2)、志利引坂、八役(4)、玉屋敷(2)
このうち、街道沿いの村々を北から順に並べると
女鹿口(9)、小沼堂(6)、志利引(2)、八役(4)、野中(17)、野里(6)、仁昌寺(17)、上里(27)、玉屋敷(2)、高屋舗[敷](28)、川底(2)、笹目子(3)となる。他に、内史略や東遊奇勝によると、小姓堂と女鹿口の間に滝坪村(1)があったようだ。
「小沢の宿」は、女鹿口~高屋敷間にあったので、「小沢の宿」があった集落は、次の9箇所に絞られる。
滝坪村(1)、小沼堂(6)、志利引(2)、八役(4)、野中(17)、野里(6)、仁昌寺(17)、上里(27)、玉屋敷(2)
このうち、「離れ家」に相当するのは、戸数が少ない集落であると考えられる。従って、「滝坪」、「志利引」、「玉屋敷」が「小沢の宿」の有力候補となる。
なお、邦内郷村志に記載されている街道沿いの集落には中屋敷や篠畑が抜けている。篠畑は上里や仁昌寺に含まれているのかもしれない。中屋敷が抜けている理由はよくわからないが、「滝坪」、「志利引」、「玉屋敷」より戸数が多かったと考えられる。
3つの候補地の詳細な位置
・滝坪(瀧坪)
女鹿口と小姓堂の間にあったようだが、詳しい位置は不明である。前記のように内史略と東遊奇勝に記載が見られる。
・志利引
志利引より尻引という書き方の方が一般的である。今は尻引という集落はないが苗字として残っている。現在の野中地区の北端付近に相当し、ここから小姓堂地区に続く坂道を尻引坂という。邦内郷村志、内史略、福岡通絵図、北奥路程記に記載が見られる。
・玉屋敷
玉屋敷も現存していない集落である。邦内郷村志によると、高屋敷の北10丁(約1090m)、小鳥谷村(本村・現在の仁昌寺・上里地区)の南7~8丁(約760~870m)にあったという。現在の若子内入口より少し北のあたりと推定される。玉屋敷は、奥筋行程記や東案内記にも記載され、幕末に作成された福岡通絵図には位置は間違っているが、「玉ヤシキ」という記載が見られる。
この3つの候補の中で最も有力なのは何処だろう。菅江真澄は、神社・仏閣マニアで、天明八年(1788)に再び小鳥谷を訪れた時には、小姓堂(御小姓神社)について記載しているが、天明五年の記録には小鳥谷地区の神社について何の記載もない。九月六日の時点では、暗くなり宿へ急いでいたため、神社に立ち寄る余裕は無かったと考えられるが、翌日は、時間的な余裕が少しはあったと推定される。九月七日に小姓堂(御小姓神社)の記載が無いのは、前日に通り過ぎたためと考えれば、御小姓神社より北に位置する滝坪村も通り過ぎていたはずなので、「小沢の宿」滝坪(瀧坪)説は否定される。
九月七日の記事が高屋敷から始まる事から、「小沢の宿」より南には高屋敷以外に大きな集落が無かったと推定される。仮に「小沢の宿」が尻引であれば、九月七日の記事として「高屋敷、笹目子、小繋」ではなく、「野中、仁昌寺、高屋敷、笹目子、小繋」のように、高屋敷より手前の集落や寺社等を記載したのではないだろうか。以上のように考えると、「小沢の宿」尻引説も除外され、残るのは「小沢の宿」玉屋敷説となる。
「小沢の宿」玉屋敷説推し
玉屋敷は、高屋敷と仁昌寺・上里地区の間に位置しているため、玉屋敷から街道を南下した場合、最初の集落が高屋敷となる。これは、真澄の九月七日の記事と一致する。 また、玉屋敷が山中にあり、耕地が少なく、住民の仕事の主体は山仕事であったと考えられ、戸数も少なく、「離れ家」という条件にも適合する。そのほか、肝煎・老名は村の中心にあったと考えられ、玉屋敷の人はそのような役職とは無縁であり、文字を書けなかった可能性が高い。
以上のように、真澄が宿泊した「小沢の宿」は玉屋敷が最有力候補であると考えられる。
ちなみに、私の父の実家の屋号は玉屋敷という。「小沢の宿」で食事抜きの条件で宿泊した真澄に食事を提供した「お人好し」は、先祖かもしれないのだ。という妄想で「小沢の宿」玉屋敷説を推すのである。
↓解説図(国土地理院・ウォッちずデータ使用)
菅江真澄が小沢の宿に宿泊した87年後の明治三年、会津から斗南藩へ移住するため会津藩士が多数奥州街道を通過した。戊辰後雑記(間瀬みつ著)によると、間瀬家が沼宮内から一戸へ向かう途中、日が暮れてしまい、暗い夜道を松明をつけて進むが、風雨により松明が消え、道がわからなくなり、道沿いにニ・三軒の家があったため、宿を貸してくれるように頼んだという。ところが、「唯今、夜なべを終わって寝るところだ」と断られてしまう。それは「起きもしないでの挨拶」だったという。
この日、夕刻になったのは中山付近で、そこで馬をたのみ、松明を準備して夜道を進み、途中の村では十八人程(会津関係者か?)が宿泊し、間瀬家一行も一泊するように誘われたが、それを断って一戸へ向かう途中、道に迷ってしまったのだという。この十八人が宿泊していた村とは沼宮内・一戸間の「間の宿」である小繋であると考えられる。従って、宿泊を断ったニ・三棟の家とは、その先にある小鳥谷地区内の集落である可能性が高い。「ニ・三棟の家」とあるので笹目子・川底・玉屋敷が候補地になるだろう。この戊辰後雑記の記録は、天明の飢饉の最中に真澄を宿泊させた87年前とは民家の対応が真逆であるが、「一夜ぐらいは食事をぬいても構わないので」と、粘り強く交渉をした真澄と、武家であった間瀬家との交渉力の違いなのかもしれない。
動画作りました
小沢の宿を推理してみた(youtube)