小鳥谷地区にある唯一のお寺が曹洞宗の義翁山仁昌寺(にしょうじ)。昭和二十七年(二十六年?)の火災により寺の沿革変遷は不明というが、断片的な資料や伝承から寺の歴史を辿ることが可能である。
一戸町誌に記載されている寺の変遷をまとめると
もと天台寺(二戸市浄法寺町)の集穀所であったらしい。
いつの頃か,天台宗の寺となり,小鳥谷小学校横の観音堂境内にあった。
九戸の乱で焼失(※蒲生氏郷軍の宿営地)
正徳二年(1712)三月、報恩寺十三世「文嶺喬芝」和尚によって曹洞宗として開山。
元禄初年(1688頃)との説もある。
十五世龍谷珠峯和尚の頃(明治初年)に高森沢の奥に寺を移す。
その後、現在の位置に寺を移す(小鳥谷字高森沢57)。
昭和二十七年に焼失。※別文献に昭和二十六年二月二十一日という記録あり
昭和二十八年に仮本堂が建てられる。
昭和五十三年四月現在の本堂が建てられる。
本尊は釈迦牟尼仏であるが、焼失前は十一面観音を本尊としていたらしい。
となる。また、一戸・広全寺の四世了山學心の記録によると
「元禄十(丁丑)年九月二戸郡小鳥谷村従仁昌寺當寺江入院」
とあり、元禄十年(1697)当時に仁昌寺が実在した事を示している。
以下、仁昌寺について書かれた、江戸時代から明治初期の文献
・報恩寺末寺諸留
報恩寺末寺諸留は南部領内における曹洞宗寺院毎の住職の入院・退院時期と入院前の寺・退院後の寺についての記録が書かれている。時期的には元文四年(1739)前後から江戸時代後半までの間で、仁昌寺については延享四年(1747)から天保十四年(1843)までの記録が記載されている。最初に記載されている圓宗という僧の前は「無住」とあり、また、「久々無住に付き延享四年七月永祥院弟子右圓宗看主」とあるので、延享四年より前、長期間住職がいない寺であったようだ。
・邦内郷村志
明和~寛政年間(1764~1800)の記録で、小鳥谷村の仁昌寺について「仁昌寺山号小鳥山。報恩寺末寺。曹洞宗。往古小庵。近年有寺山号伝」とある。現在の山号は「義翁山」であるが、過去には「小鳥山」という可愛い山号を用いていたようだ。また、往古小庵とあるので、「寺」としての体裁が整う前は小さな庵であったようだ。
・奥筋行程記
安永四年(1775)頃の記録で、小鳥谷村(小鳥沢村と誤記)について
「此所大概給所ナリ寺院ハ日勝寺左ノ方観音堂」という記載がある。
日勝寺は仁昌寺の当て字であると考えられる。当時の仁昌寺は現在の小鳥谷小学校近くにあり、奥州街道から見て、寺は左手、観音堂は右手になる。奥筋行程記の記載は逆のような気がするが、寺の本堂が東向きであれば、寺から見て左手は観音堂となり、奥筋行程記の記述と一致する。
・高屋養庵クナシリ警固日記
高屋養庵は仙台藩の医師で、文化五年(1808)の蝦夷警固の日記に小鳥谷地区の記述がある。
「坂を下り仁正村といふ左之方に寺阿り右ニ観音堂阿り」
街道から見た寺と観音堂の配置はこの通りである。
・北奥路程記
北奥路程記は幕末の記録と推定される。小鳥谷村の記載の中で仁昌寺にもふれている。
「小鳥谷 村中よほど長き所也、左に仁昌寺右に熊野堂、また平糠への道もあり」
奥州街道を北向きに進むと、北奥路程記のとおり、仁昌寺は左手、熊野堂は右手になる。
・新撰陸奥国誌
新撰陸奥国誌は、明治5年(1872)から明治9年(1876)にかけて編纂された青森県の官撰地誌である。当時青森県の一部であった二戸郡小鳥谷村の記事の中で、仁昌寺について次のように書いている。
「仁昌寺 境内四百四十坪 本村の西側にあり正徳三年癸巳(みずのとみ・きし)三月の草創なり盛岡報恩寺末寺曹洞宗義翁山と号す開山は報恩寺十三世喬志と伝る僧なりと云ふ
本堂 東西六間三尺南北九間東向釈迦を本尊とす 庫裡 東西九間南北三間本堂の北にあり」と記載されている。
正徳開山説はこの記録が元になっているようだ。新撰陸奥国誌によれば「釈迦を本尊とす」とあるので、一戸町誌の「焼失前は十一面観音を本尊としていた」という説は否定される。また、山号が小鳥山ではなく義翁山と記載されている。
・岩手県管轄地誌
明治政府の皇国地誌編集方針にのっとり、岩手県が編集した地誌で、明治9年から編集が始まり、青森県から編入された二戸郡については、明治18年(1885)に作成されたという。仁昌寺について次のように記載されている。
「仁昌寺 本村ノ中部字高森沢ニアリ境内三百零九坪曹洞宗字陸中国岩手郡三ツ割村報恩寺末創立年月及び開基僧名詳ならす」
新撰陸奥国誌に比べ、明らかに手抜き調査であるが、高森沢に移転した事が確認できる。
一戸町誌に歴代住職の記録がある。一部加筆して次表に示す。
表-1 仁昌寺歴代住職(一戸町誌下巻より 一部加筆・修正)
このうち,十五世中興龍谷珠峯以前の住職について,報恩寺末寺諸留や雑書、市町村誌等で経歴を調べた結果を表-2に示す。
表-2 江戸時代の仁昌寺住職(報恩寺末寺諸留・その他より)
表-2を時系列にまとめ、表-3に示す。
表-3 江戸時代の仁昌寺住職の足跡(時系列)
(1)開山時期の謎
一戸町誌や他の書籍から仁昌寺の開山時期についてまとめると次のようになる。
元禄開山説
元禄元年(1688)説 一戸町誌下巻より。正しくは元禄初年と書いてある。
元禄二年(1689)説 いわてのお寺を巡る
正徳開山説
正徳二年(1712)説 一戸町誌下巻より。正徳二年三月。
正徳三年(1713)説 新撰陸奥国誌(明治九年出版)に正徳三年癸巳三月草創とある。
※1713年は癸巳(みずのとみ・きし)で間違いない
元禄初年説の矛盾
仁昌寺を開山した文嶺喬志和尚の経歴をみると、文嶺喬志和尚は元々仙台藩佐沼の瑞興寺の僧で、報恩寺に入院したのは元禄九年である。報恩寺十二世玉峰巨函が元禄九年8月25日に亡くなり、その後、住職就任のため越州香積寺や関東の古刹を巡る旅に出るのだが、そのための資金が不足していたためか、藩から融資を受けた事が雑書に記載されている。ちなみに、盛岡藩では元禄八年(1695)と元禄十五年(1702)に飢饉が発生している。元禄九年の資金不足は、前年の飢饉が発生する程の収入(米)不足が原因なのかもしれない。
雑書によると、旅から帰った文嶺喬志和尚が藩にその報告を行ったのが11月24日なので、文嶺喬志和尚が報恩寺住職に就任したのはその後の元禄九年・年末か元禄十年・前半ではないかと推定される。元禄元年~二年当時は報恩寺に文嶺喬志和尚が入院すらしていない時期であり、文嶺喬志和尚によるこの時期の開山はありえない。
ただし、一戸・広全寺の記録によると、広全寺四世・了山學心和尚が、元禄十年(1697)九月に仁昌寺から広全寺住職に就任している事から、元禄時代には仁昌寺が存在していたと考えられる。従って、元禄元年・二年開山というのは、寺受制度にともなう宗門人別帳作成や証文発行等の寺務を行うため、無住であった仁昌寺に広全寺から了山學心和尚が最初に派遣された年を示すのではないだろうか?
正徳開山説の矛盾
前記のように元禄初年説を否定したので、正徳開山説の方が正しいかといえばそうでもない。文嶺喬志和尚が亡くなるのは享保五年(1720)で、正徳二年(1712)・三年(1713)当時は健在であったが、すでに報恩寺住職を引退・隠居の身であった。また、仁昌寺二世了山學心和尚は、元禄十年(1697)九月に仁昌寺を離れ、宝永元年(1704)に亡くなっているので、正徳年間に開山した寺の二世が了山學心和尚というのはタイムマシンがなければ不可能な事である。
仁昌寺開山元禄十年説(筆者私説1)
仁昌寺開山を文嶺喬志和尚が報恩寺住職に就任し、了山學心和尚が仁昌寺から広全寺住職に就任するまでの間と仮定すれば、元禄九年末から元禄十年九月までの間となる。ただし、文嶺喬志和尚は住職に就任のため元禄九年末は多忙であったと想定されるため、仁昌寺開山は、元禄十年の九月より前の時期に絞られるのではないだろうか。
正徳開山説の再考
新撰陸奥国誌は仁昌寺が焼失する前に書かれたものであり、「正徳三年癸巳三月」とわざわざ干支をつけている事から、仁昌寺に伝わっていた記録に基づいたものである可能性が高い。正徳開山説が正しいのであれば、了山學心和尚没後であるが、名誉住職として二世に名を連ねたのではないだろうか。
以下筆者私説2
了山學心和尚の前歴から、当時の仁昌寺は広全寺から僧を度々派遣してもらい、寺受制度に伴う寺務を行っていた可能性が見えてくる。そしてそれは広全寺にとって負担となっていた可能性がある。仁昌寺が報恩寺末の曹洞宗の寺となれば、他の曹洞宗の寺から住職が派遣されるようになり、広全寺の負担が軽減される事になる。したがって、仁昌寺が曹洞宗の寺として開山するために、広全寺から報恩寺へ何らかの働きかけがあった事が予想される。
文嶺喬志和尚の次に報恩寺住職に就任するのは全補密山和尚であるが、全補密山和尚は一戸広全寺出身で了山學心和尚の弟子であった。広全寺にとって、仁昌寺を開山させる絶好の機会が到来した事になる。しかし、全補密山和尚により仁昌寺を開山させるためには障害があった。事実上の仁昌寺初代である了山學心和尚は全補密山和尚の師匠のため、全補密山和尚開山・二世了山學心和尚という順序にする事ができなかったのではないだろうか?。しかし、全補密山和尚が早く亡くなったため、全補密山和尚より上の立場で且つ健在だった隠居・文嶺喬志和尚を担ぎ出す事により、仁昌寺開山が実現したのではないだろうか。
(2)曹洞宗開山前の仁昌寺
曹洞宗として開山する前の仁昌寺には、「もとは天台宗の寺」「九戸の乱で焼失」などの伝承がある。南部領内には江戸時代初期に天台宗から曹洞宗に転宗した寺は数多くある。それは、寺受制度に伴う寺務増大で住職不足となり、それを利用して曹洞宗が布教拡大に努めたためであろう。九戸の乱で焼失という伝承は文献で確認する事ができないが、小鳥谷地区には室町時代に遡る可能性がある木仏が伝わっているため、これらが、旧仁昌寺のものであれば、仁昌寺が九戸の乱より前から存在していた事を示す資料となる。小鳥谷地区に伝わる木仏とは、小鳥谷小学校横の観音堂に伝わる観音菩薩坐像と仁昌寺(高森沢)横にあった阿弥陀堂(小鳥谷バイパスの建設に伴いその後移動)に伝わる阿弥陀如来像である。なお、九戸の乱における小鳥谷地区の古戦場は美濃木沢(あるいは川底)と川向の2箇所であり、旧仁昌寺付近は、蒲生軍が陣を張った所とも伝わっているため、ここが戦場になった可能性は低い。旧仁昌寺は焼失したのではなく、豊臣軍の燃料(薪)として解体されたのではないだろうか?。もし、寺が焼失したのであれば、阿弥陀像や観音像も焼失していただろう。
なお、この阿弥陀像と観音菩薩坐像が天台宗時代の仁昌寺を起源とするものと仮定すると、当時の仁昌寺では阿弥陀三尊を安置していた可能性が考えられる。つまり、阿弥陀像を中尊とし、左脇侍の観音菩薩、右脇侍の勢至菩薩という配置である。このうち、勢至菩薩が九戸の乱の混乱時に失われたのだろう。
(3) 天台寺集穀所説
江戸時代の小鳥谷地区には天台寺別当桂寿院の領地があった。天台寺の領地は118石ほどあり,このうち88石程は天台寺別当の桂寿院と五つの坊に分割されていた。残りの30石は桂寿院の領地で,そのうち18石が小鳥谷地区にあったという。小鳥谷地区の18石は桂泉観音社領ともいわれているが,桂寿院が支配していた事にかわりない。従って,小鳥谷地区に天台寺(江戸時代には桂泉と呼ばれた)の別当である桂寿院の集穀所があったのは不自然な事ではない。天台寺集穀所とは桂寿院の集穀所という意味ではないだろうか。
邦内郷村志に、「往古小庵。近年有寺山号伝」とあり、寺が整備される前は小庵であったとう。無住で本尊を祀るだけであれば、小さな祠のようなものでもよかったはずだが、わざわざ集穀所を寺の代用にしたのは、「小さな祠」では済まない事情が生じたためと考えられる。その事情とは、住職が宗門人別帳作成や証文発行等の寺務を行うのに必要なスペースを確保する事ではないだろうか。つまり、集穀所を寺の代用としたのは、住職のいる寺としての機能を有していなかった仁昌寺に住職を迎い入れるために行われたもので、了山學心和尚が最初に仁昌寺に来た当時の様子を伝えているのではないだろうか。なお、報恩寺末寺諸留によると、延享四年(1747)当時で「久々無住に付き」とあるので、開山後も住職のいる寺としての機能が整わない状態が長く続いた事が推定できる。
(4) 寺院位置の変遷
開山当事の仁昌寺は,小鳥谷小学校北側の観音堂境内にあったという。文化五年(1808)仙台藩蝦夷地警固記録集に「仁正村といふ左之方ニ寺阿り右ニ観音堂阿り」とある事から、当時の仁昌寺は観音堂の南側、現在の小鳥谷小学校付近にあった事になり、藤島の藤が仁昌寺境内にあったという伝承とも一致する。
十五世 中興龍谷珠峯により,明治初年に高森沢の奥に移転する。明治十年に開校した小鳥谷小学校は、開校当時仁昌寺堂内にあったと記録されている。ただし、この時期の仁昌寺は高森沢に移転しているので、開校場所は仁昌寺の寺院跡を利用したものと推定される。その後,現在の位置に移転するが,昭和27年に火災で焼失、昭和28年に仮本堂が、昭和53年4月に現在の本堂が建てられる(小学校の窓から本堂が建つ様子を見ていた事を思い出したw)
(5)消された住職
報恩寺末寺諸留に記載されている住職の中には、仁昌寺に伝わる歴代住職のリストに記載されていない者がいる。それは、圓宗・鉞体・雷堂・大光の4人である。
4人のうち圓宗と雷堂は仁昌寺で病死している。また,鉞体は辞職している(還俗して蝦夷に行った?)。大光については,仁昌寺住職就任後の経歴が記載されていない。前例からすると,死亡説と辞職説の2通りが考えられる。
江戸時代の仁昌寺住職の特徴は,新人が採用される例が非常に多い事である。別の寺の住職経験者が就任するのは,大光(仁昌寺住職就任前は五戸の儒童寺住職,その前は十和田市の法性寺住職)以外にはない。つまり,仁昌寺で死亡した圓宗と雷堂は二人とも若くして亡くなった事になり,法灯を伝えるにはキャリア不足という事で歴代住職として記録されなかった可能性が考えられる。寺務が嫌で辞職した鉞体は論外という事であろう。大光の場合は,仁昌寺に来る前に2つの寺で住職を経験していたので,仁昌寺住職に就任した頃は既に若くはなかったと思われる。従って,歴代住職として記録されなかったのは,鉞体の場合と同様に,何らかの事情で寺を辞めてしまった(=還俗した)可能性が考えられる。報恩寺末寺諸留に,その後の経歴が何も記載されていない事は,何らかの不祥事を起こし,記録が消されたのではないだろうか。ちなみに,大光の次に住職に就任したと考えられる十世の禅明不遷の名が報恩寺末寺諸留の仁昌寺の項には無い。ただし,常泉寺(花巻市東和町)の項に不遷が仁昌寺から来た事が記録されているため,不遷が仁昌寺から常泉寺に移った時期は把握できる。それは文政9年(1826)の11月である。しかし,報恩寺末寺諸留の仁昌寺の項に十一世仙山泰明(泰門)が就任した時期として文政9年(1826)3月という記録があり,不遷と泰門の住職就任期間が3月から11月までの8ヶ月間重複してしまう。大光が仁昌寺住職に就任した文化六年(1809)四月から泰門が仁昌寺住職に就任した文政9年(1826) 3月までの17年間の間に,大光が寺を辞め,代わりに不遷が何処からか仁昌寺にやって来て,不遷と重複するような時期で泰門が住職に就任し,不遷が常泉寺に移るのである。当事の仁昌寺に何があったのだろうか?
(6)仁昌寺出身の僧
報恩寺末寺諸留には,一つだけ仁昌寺歴代住職以外の仁昌寺に関係する情報が記録されている。それは,禅瑞という僧が安政五年(1858)正月に仁昌寺衆寮から松尾村鷲蓮寺の住職となった記録である。当時の仁昌寺住職は,明治の始めに仁昌寺を高森沢の奥に移した事でも知られる十五世中興龍谷珠峯和尚(天保十四年1843~明治)なので,禅瑞は珠峯和尚の弟子であると推定される。幕末の頃,仁昌寺にも修行僧がいた事を示す貴重な記録であり、龍谷珠峯和尚が優秀な人物であった事が伺える。
(7) 菅江真澄と仁昌寺
菅江真澄の紀行文には仁昌寺は登場しない。しかし、仁昌寺関係者についての記録を残している。
「けふのせば布」天明5年(1785)9月5日
~略~ 保登沢,石神,中佐井(以上安代町 ※現八幡平市),駒が嶺をへて浄法寺村にはいると,ここでは椀,折敷などといったものを作りだすことを生業としていた。むかし浄法寺某という方が知行された縁によって住まわれたと語っていた。吉祥山福蔵寺にはいって活竜上人と物語して,今夜はこの寺に泊まったらとすすめられたが,心がせくので(※真澄は早く末の松山に行きたかった)この寺を辞して,石淵,岡本などという村々を過ぎていくと,老いた法師がうしろから突然声をかけて,「旅人はどこに行かれるのか」という。答えて「この世にありとあらゆる霊地や名所古蹟を尋ね奉っているのです」と返事すると,老法師は,「それでは,ここにも桂清水(天台寺)といって尊いところがある。さあお教え申そう」と,案内してくれた。~以下 略~
菅江真澄に寺へ宿泊するように勧めた活竜上人とは、浄法寺の福蔵寺十五世・霊渕活龍和尚で、仁昌寺四世として記録されている人物である。報恩寺末寺諸留等の記録によると、一戸・広全寺で修行し、宝暦十年(1760)仁昌寺住職となり、明和五年(1768)には田山の地蔵寺住職となり、明和八年(1771)に福蔵寺の住職となった。菅江真澄と会った3年後、天明八年(1788)に隠居し、寛政十二年(1800)に病死している。なお、浄法寺の福蔵寺は「猫檀家」伝説で有名な寺である。【参考】
(8) 師弟関係
仁昌寺七世・嵩山寛中和尚は、浄法寺の福蔵寺出身で、1778年(安永七年)に仁昌寺住職に就任した。福蔵寺は、仁昌寺四世であった霊渕活龍和尚が1771年(明和八年)から隠居する1788年(天明八年)まで住職を務めていた事から、嵩山寛中和尚は霊渕活龍和尚の指導を受けていたと考えられる。
仁昌寺十四世・雲音白林和尚は、渋民の宝徳寺出身で、1840年(天保十一年)に仁昌寺住職に就任した。宝徳寺は、仁昌寺九世であった大雄白峯(白峰)和尚が1818年(文政元年)から住職を務めていた。隠居時期は不明であるが、亡くなった時期は雲音白林和尚が仁昌寺に来た2年後の1842年(天保十三年)であり、名前の「白」の字が共通している事から雲音白林和尚は大雄白峯(白峰)和尚の弟子であると考えられる。
二十二世祖堂仙法和尚(佐々木仙法)が野辺地の常光寺で一年程修行をした時の師匠である対月和尚(葛原対月)は石川啄木の父、石川一禎の師匠であり、啄木の母の兄(=啄木の伯父)である。従って、仙法和尚は啄木の父の弟弟子となる。
(9) 伝説の和尚
霊渕活龍和尚の次に仁昌寺住職となった五世・月泉眠峯和尚は三戸林泉寺に「あずきぼうず」伝説が伝わっている。詳細はこちら。
(10) 謎の尼ちゃん
「地底からのうた声 ふるさとは亡びない(一条ふみ編)」p.134~148 「村に生きる - 私の歩んだ道 佐々木仙法」によると、
『仁昌寺は私で二十二世目である。この間資格をとらないでそのまま終わっている人もあり、石碑は四本建立されていた。その中に「当山十世 祖竜和尚弟子尼」とある石碑が建立されている。尼さんが一人いた事になる。』
とある。ただし、仁昌寺十世は禅明不遷和尚であり歴代住職に祖竜の名は見当たらない。
(11) 巨樹
国の天然記念物「藤島のフジ」は小鳥谷小学校の東側にあるが、ここは、仁昌寺が高森沢に移る前の旧境内であるという。藤島のフジが巻き付いていた桂の木はフジに絞殺されたため現存しないが、これも大木であった。また、近くにある現在一戸町の天然記念物に指定されている観音堂のフジが巻き付いてる桂の木も大木である。
「藤島のフジ」が天然記念物に指定されたのは昭和13年であるが、その25年前の大正二年に発行された「大日本老樹名木誌」には藤島のフジの記載はなく、「仁昌寺ノ桂」(岩手県二戸郡小鳥谷村 仁昌寺境内)が記載されている。地上五尺の幹周りが二丈(3.6m)、樹高八間(14.5m)、樹齢二百後十年余(※100年前の書籍なので、今では樹齢350年程)とある。この木が藤島のフジに巻き付かれ枯れて現存しない桂の木なのか、現在観音堂のフジに巻き付かれている方の桂の木なのかは不明であるが、当時は藤島のフジよりも天然記念物候補であったという。その後、雷に打たれ幹が折れ、国の天然記念物には指定されなかった。
【追記】-NEW-
一戸町の「広報いちのへ」2020年9月号『文化財巡り「観音堂のフジ」』によると、旧仁昌寺境内参道に桂の大木が2本あり、「仁昌寺の二本桂」と呼ばれていたという。このうち一方は「観音堂の老かつら」として「藤島のフジ」とともに国指定の天然記念物指定する準備が進められていたが、申請直前に幹が倒れてしまい申請できなかったという。従って、「大日本老樹名木誌」にある「仁昌寺ノ桂」が「観音堂の老かつら」であり、現在「観音堂のフジ」に巻き付かれている桂である。
(12) 飢饉の供養?-NEW-
仁昌寺墓地内に天明三年七月八日(1783/8/5)と記載された「三界萬霊塔」があった。天明の飢饉の供養塔か?。この三界萬霊塔は、新設された無縁塔に他の古い墓石とともに積み上げられている。
(13)ポルターガイスト ? -NEW-
昭和50年代頃、仁昌寺内の人気のない所で物音がする事があり、その少し後に檀家が亡くなるという事が何度かおきたという。【当時の住職は、このポルターガイストが起きると、葬式の準備をしていたというオチの、オバから何度か聞かされたお盆の定番怪談より】
2020/02/17 記事追加
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