【2019-12-14加筆】
歌枕の「末の松山」。宮城県多賀城市が本家本元であると思われるが、なぜか一戸町と二戸市の境にある浪打峠を末の松山とする説が昔からある。この浪打峠を末の松山とする説は、何時頃生まれたのだろうか?。小鳥谷地区を通過した旅人を調べる過程で集めた、旅日記・道中記等の記録から探ってみたいと思う。また、多くの旅日記・道中記に浪打峠の三葉の松についての記載が見られ、三葉の松の存在が末の松山の証拠とする文献も見られる事から、三葉の松についての記載の有無についても調べてみた。
【末の松山の記事 有り◎、無し×】
【三葉の松についての記載 有り□、無し■】
×■ 1660年(万治三年) 「八戸紀行」(渡部盆庵) 浪打(坂・峠)についての記載があるのに、末の松山ついての記載なし。
×?■ 1688~1704(元禄年間) 「吾妻昔物語」(松井道円) 奥州の名所旧跡について、複数の説があるという例として「壷の石碑」と「野田の玉川」について記載しているが、末の松山については取り上げられていない(この当時は末の松山の所在地に複数の説が無かったのでは?)
×■ 1691年(元禄四年) 「奥羽道記」(丸山可澄) 浪打坂についての記載があるのに、末の松山についての記載なし。ちなみに、仙台~塩竃では、野田玉川や壷石文(碑)について記載しているが、こちらでも末の松山の記載はない。
×■ 1698年(元禄十一年) 「奥羽永慶軍記」(戸部正直) 九戸の乱に関する記事の中で波打峠の記載あり。「絶頂左右の岩には貝殻多し。故に波打山とは云ふなり」とあるが、末の松山についての記載はない。
◎■ 1764~1800(明和~寛政年間)「邦内郷村志」に「末松山」の記事あり。
◎■ 1775年(安永四年) 「奥筋行程記」 末の松山説記載。清原元輔が亡くなってから安永四年までの年数記載。
×■ 1775年(安永四年) 小山田家文書の江戸から八戸までの駅・駄賃の書上(青森県史 資料編 近世5 p.524~525)に「市戸(一戸)より福岡迄~略~此間ニ波打坂ト云難所有」とあるが、末の松山の記載は見られない。
×■ 1777年(安永六年) 「奥の荒海」(小磯逸子) 途中歌を詠みながらの旅であるが、浪打峠や末の松山についての記載なし。仙台では末の松山の歌を詠む。
◎■ 1778年(安永七年) 「漫遊文草」(平沢旭山) 沼宮(内)から金田市(一)に向かう途中、浪打坂を通過。「相伝古昔所称末松山即此山腹頗似水痕」とある。三葉の松の記事はなし。
◎■ 1785年(天明五年) 「けふのせば布」(菅江真澄) 浄法寺から一戸経由で南下する途中、末の松山へ寄り道。
◎■ 1790年(寛政二年) 「北行日記」(高山彦九郎) 九戸から一戸経由で北上し、末の松山で貝(化石)を拾う。
×■ 1793年(寛政五年)「北行日録」(木村謙次) 浪打坂の記事はあるが、末の松山についての記載なし。
×■ 1798年(寛政十年) 「蝦夷日記」(木村謙次)「浪打坂ヲ越二戸郡福岡」とあるが、末の松山についての記載なし。
◎■ 1799年(寛政十一年) 「未曾有記」(遠山景晋) 末の松山の記事あり。
◎□ 1799年(寛政十一年)「蝦夷蓋開日記」(谷元旦)、「東遊奇勝」(渋江長伯) 波打峠と末の松山の記事あり。
◎■ 1801年(享和元年)「蝦夷の嶋踏」(福居芳麿) 「さと人はこれをすゑの末山の跡などいへり。あるはかせ(博士)の道の記にもかくぞしる(せ)し」とあり、浪打峠を末の松山とする説が掲載された道の記が出版されていたようだ。福居芳麿本人は、宮城説の方が正しいとする説を記載している。
◎■ 1801(寛政十三年)「大日本國東山道陸奥州驛路圖」の「浪打峠」付近の絵の横に、「野翁末の松山といへり 化石種々出る」と記載。
◎□ 1802年(享和二年)「東案内記」に末の松山説記載。※奥筋行程記とほぼ同じ内容。清原元輔が亡くなってから享和二年までの年数記載。
◎□ 1806年(文化三年)「未曾有後記」(遠山景晋)蝦夷からの帰りの記事に「浪打坂に杭を建て、『末松山』の三字出す。去冬領主の封内を巡行せられしと云時、此所末松山に決定して此杭を建られしと云」とある。藩主自ら、浪打峠・末の松山説を宣伝したようだ。
◎■ 1807年(文化四年)「恵登呂婦紀行」(藤原清澄) 浪打坂・末の末山の記事あり。また、「村松といへる処に末の松山とかい付たる文(条)在りて垣し渡したるいとあらたニ見へけれハ里人に尋ねけるに此処昔より浪打坂と申侍るニ文化二のとし当侯の出馬の折此所を末松山と云伝へと在りけるによりかく名付けたるよし」とあり、「未曾有後記(遠山景晋)」の文化三年の記事にある「昨冬(=文化二年)」南部侯が「末松山」の杭を建てた内容と一致する。
◎■ 1807年(文化四年)「松前紀行」(堀田正敦)に「なみ打峠・末の松山」の記事あり。「一の戸のやどりをいづれば。なみ打峠とて。岩根白く。松のむら立ちたる坂をこゆ。名にしおふ末の末山なりといふ。仙たい(台)のやはた(八幡※多賀城市八幡)といへる里にも。松山の名をのこしたるが。いづれの波やたちこえぬらん」。堀田正敦は幕府若年寄
◎□ 1808年(文化五年)「唐太土産 二」(会津藩 山東賢隆) 「末松山 波打峠 此山上ニ末松山と印?し木表(標の間違い?)アリ」この「末松山と印し木表」は遠山景晋の未曾有後記に記録されている南部利敬が立てさせた杭の事であると考えられる。
◎□ 1808年(文化五年)「クナシリ警固日記」(仙台藩 高屋養庵) 浪打峠、末松山の記事あり。「此峠を越る道左に末松山といふ印棒杭阿り」とあり、これは、遠山景晋の未曾有後記に記録されている南部利敬が立てさせた杭の事であると考えられる。
◎■ 1808年(文化五年)「終北録(一名戌唐太日記)」(高津泰[平甫])蝦夷地警固のため奥州街道を北上した会津藩士の漢文の日記より、「一戸初三日踰末松山盤折而上絶頂曰波打坂路旁崖石間潮痕現存往往含蠣殻要是滄桑以前之者而其形末壊則覚天地開闢末久矣亦可以證邵子元會之説也~」とある。末松山やら波打坂、崖に潮痕(クロスラミナの事かな)、含蠣殻(貝の化石の事かな)と、部分的にはわかるが、文全体の意味わからんw。
◎□ 1818(文政元年) 陸奥日記(嶽丈央斎)に「波打峠に貝がらつきてあり。爰が末の松山なり」とある。
◎■ 1830(天保元年)十返舎一九(重田貞一)の道中記シリーズ、方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)の第二十一編「南部路記旅雀」に『斯くてたか(高)屋敷をさは(小沢)といふを過ぎて、一之戸の宿、此の間末の松山といふ坂路あり、そこを過ぎて、福岡の駅に至る』とある。
◎□ 1842年(天保十三年) 「奥のしをり」(滑稽舎語佛=二代目船遊亭扇橋) に「(五月)十二日福岡と申所より末の松山を越シ申候、古しへ浪の越しと申跡有り」とある。波打峠や波打坂の記載は無い。
×■ 1854(嘉永七年) 「公務日記2、3」(村垣 範正) 江戸から函館に向かう途中「浪打峠 野立」「浪打峠の貝を拾ふ」等と記載されているが末の松山についての記載はない。仙台領内でも末の松山に関する記載は無い。函館から江戸へ戻る際にも「浪打峠 野立」の記載はあるが、末の松山の記載は無い。
◎□ 1856年(安政三年) 「函館日記」(三田花朝尼) 行きと帰りの両方で末の松山の記事あり。帰路に三葉の松の記事あり。
×■ 1856年(安政三年) 「公務日記8」(村垣 範正) 函館奉行に就任した村垣が、江戸から函館むかう途中、浪打峠を通った。嘉永七年の日記では「浪打峠」の記載があるが、安政三年は「浪打峠」の記載は無く、末の松山についての記載も無い。仙台領内でも末の松山に関する記載は無い。
◎□ 1857年(安政四年) 「奥州行日記」(島義勇) 「福岡の手前に眞の末の末山、浪打峠あり、~略~ 三葉の松もあり」
◎■ 1857年(安政四年) 「東徼私筆」(成石修) 「一ノ戸を出て里ばかり、末の松山あれども筆とるべき所もなし」NEW
◎□ 1864年(文久四年) 「江戸詰旅日記」(加藤善太郎) 福岡から一戸へ向かう途中に「末の松山」「三葉之松」の記載あり。
末の松山についての記載が現れるのは1700年代後半で、邦内郷村志や奥筋行程記、漫遊文草などが浪打峠を末の松山とする初期の文献のようだ。また、三葉の松はそれより少し遅く、1799年以降のようだ。1801年、「蝦夷の嶋踏」(福居芳麿) に「あるはかせ(博士)の道の記にもかくぞしる(せ)し」という記事は、奥筋行程記の事なのだろうか?。それとも漫遊文草の事だろうか?。漫遊文草の著者である平沢旭山は儒家であり、「あるはかせ」とは平沢旭山なのかもしれない。浪打峠末の松山説は、その「道の記」で広まったのかもしれない。
多賀城市史に『明治九年、明治天皇の東北御巡幸の折、この附近(※浪打峠)で「末の松山」の所在を御下問あったことから、より浪打峠の「末の松山」が強調されるようになったと言われる』とあるが、江戸時代中頃以降の旅日記は浪打峠を末の松山とする記載が数多く見られる事から、この当時から「浪打峠・末の松山説」はある程度定着していたと考えられる。これは浪打峠が街道沿いにあるため、一般の旅の途中でも立ち寄ることができるという利点があるためなのだろう。領内巡行でこの地を訪れた南部利敬は、この浪打峠末の松山説に便乗し「末松山」という杭を設置したようで、文化三年(1806)の夏、蝦夷からの帰りに、浪打峠を通った遠山景晋(桜吹雪のパパ)が未曽有後記に「去冬~略~此所末松山に決定して此杭を建られしと云」と記録している。この杭は、文化五年(1808)、蝦夷地警固の途中、浪打峠を通過した元祖?末の松山がある仙台藩の一行や会津藩の一行も目撃したようで、仙台藩の「クナシリ警固日記」(高屋養庵)に「此峠を越る道左に末松山といふ印棒杭阿り」とあり、会津藩の「唐太土産(山東賢隆)」には「此山上ニ末松山と印?し木表(標?)アリ」とある。
【「末松山」の杭は何時設置されたのか?】
上記のように、盛岡藩主南部利敬は波打峠末の松山説を後押しするため、「末松山」の杭を設置した。設置時期は、遠山景晋による文化三年の記録では、「去冬」とあり、これは文化二年(1805)の年末から1806年の始めに相当する。遠山景晋が目撃したのは蝦夷からの帰り道であり、蝦夷に向かう途中で波打峠を通った文化二年九月三日の時点では「末松山」の杭は無かったようだ。しかし、雑書には南部利敬(雑書には屋形様と書かれている)が、文化二年から三年にかけての冬の時期にこの地を訪れたという記録は見当たらない。それより少し前の、文化二年の閏八月三日から九月七日にかけて、盛岡から下北半島までの巡行に出ていた事が雑書に書かれている。雑書にある断片的な「屋形様(=南部利敬)」の足取りから、南部利敬の波打峠通過時期を推定すると、次のとおりである。
波打峠通過前後の日程(下北に向かう途中)
閏八月三日 盛岡→沼宮内
閏八月六日 三戸で一日逗留
九月三日 遠山景晋、波打峠を通過。
閏八月六日に一日逗留しているので、三戸到着は、前日の閏八月五日と考えられる。閏八月四日に沼宮内を出発したと推定すると、その日のうちに一戸か福岡に到着し、そこで一泊して、翌閏八月五日に三戸まで移動したと推定される。従って、盛岡から下北に向かう途中、南部利敬が波打峠を通過したのは閏八月四日(福岡宿泊の場合)あるいは閏八月五日(一戸宿泊の場合)であろう。代官所があるのが福岡のため、宿泊は一戸より福岡の可能性が高いのかもしれない。どちらにしろ、遠山景晋が蝦夷地に向かう途中、波打峠を通過した九月三日より前である事から、南部利敬が下北に向かう途中で「末松山」の杭を建てたとは考えにくい。
帰路の日程は次のとおりてある。
波打峠通過前後の日程(帰路)
閏八月廿八日 三戸で一日逗留
九月三日 遠山景晋、波打峠を通過。
九月六日 今晩沼宮内宿泊
九月七日 御帰城(沼宮内→盛岡)
閏八月廿八日に三戸で一日逗留している事から、三戸到着は前日の廿七日、出発は翌日の閏八月二十九日(※月末、翌日が九月一日)であると推定される。その場合、波打峠通過は閏八月二十九日か九月一日になるが、遠山景晋が波打峠を通過した九月三日より前である事から、この場合の日程で「末松山」の杭は建てた事は考えにくい。沼宮内到着日から逆算した場合の南部利敬の波打峠通過日は、九月五日または六日であり、遠山景晋が波打峠を通過した九月三日より後となる。しかし、北に向かう遠山景晋の日記に南部利敬の一行とすれ違った事が記載されていない事や、南部利敬一行が三戸から沼宮内到着まで六日もかかっている事から、南部利敬の一行は奥州街道を南下したのではなく、三戸から鹿角方面に向かった可能性が考えられる(元々鹿角地方も巡検予定であった)。その場合、鹿角から田山・浄法寺・桂清水(天台寺)と進み、そこから小繋(一戸町)に抜ける街道(通称巡見道)を通って沼宮内に到達した可能性があり、そのルートでは波打峠を通過していない事になる。
このように、南部利敬が、「末松山」の杭を建てたのは領内巡行時とは考えにくい。盛岡帰城後に「末松山」の杭建設の命令が盛岡から発せられ、実際に建てられた時期が遠山景晋の記録にある「去冬」だったのではないだろうか?
※ 現在も調査中