新キャラ!! 安部五月(以下の文で蝦夷はエミシと読んでね)
小鳥谷氏の居城とされる五月舘は、蝦夷の酋長遠田公五月により築かれたという伝承があるというが、いまの所、江戸時代の文献で小鳥谷の五月舘について記したものは見当たらない。五月舘について最初に書かれた文献は、二戸郡が青森県に属していた頃に出版された新撰陸奥国誌(明治9年)で、この中では五月館という名称ではなく、「館跡」と紹介され、姉帯籠城戦に参加した「小治屋摂津の居りし所か」と書かれている。
次に古いものは、岩手県管轄地誌(明治18年)で、ここで初めて五月舘という名称が登場し、「往古五月ト云ヘル蝦夷人之レニ住居セリト土人口碑ニ傳ヘリ」とあるが、遠田公五月の事は書かれていない。遠田公五月は、日本後記に登場する平安初期の人物で、陸奥国遠田郡、つまり宮城県北部の俘囚(大和朝廷に帰属した蝦夷)であるが、岩手県管轄地誌の「五月」・「蝦夷人」というキーワードから、明治以降にどこぞの知識人が、「遠田公五月」と「五月ト伝ヘル蝦夷人」を結び付け生まれたのが「蝦夷の酋長遠田公五月の館」という伝承であろう。ちなみに、岩手県史談(明治32年)では「往古五月と云へる、蝦夷之に住居せり」とあり、岩手県管轄地誌の内容と一致。糠部五郡小史 上巻(明治36年)も「徃古五月といへる蝦夷の曾此の處に住居せり」とあり、何れも遠田公五月の記載は無いが、九戸戦史(明治40年)では二戸ノ古城跡として「小鳥(※谷抜け)ノ五月館帰順夷酋遠田公五月居」という記載が見られ、二戸誌(明治42年)には「館主五月遠田公ト號シ~」とある。この九戸戦史と二戸誌は共に二戸郡福岡町(現二戸市)の岩館武敏氏の著書であり、この人物が「どこぞの知識人」の容疑者となる。
上記の文献を時系列にしてみた↓
・明治九年 新撰陸奥国誌
「館跡」「小治屋摂津の居りし所か」
・明治18年 岩手県管轄地誌
「往古五月ト云ヘル蝦夷人之レニ住居セリト土人口碑ニ傳ヘリ」
・明治32年 岩手県史談
「往古五月と云へる、蝦夷之に住居せり」
・明治36年 糠部五郡小史 上巻
「徃古五月といへる蝦夷の曾此の處に住居せりといふ」
・明治40年 九戸戦史
「小鳥ノ五月館帰順夷酋遠田公五月居」
・明治42年 二戸誌
「館主五月遠田公ト號シ~」
岩手県管轄地誌には小治屋摂津は登場しないが、岩手県管轄地誌の五月舘と新撰陸奥国誌の館跡が同じものを指しているとすれば、五月舘は小治屋摂津の館跡という事になる。小治屋摂津(=小鳥谷摂津)の出自は不明であるが、同族と思われる人物の名が南部叢書第2冊「聞老遺事」に見られる。その名は小鳥谷安部三郎である。小鳥谷安部三郎は、京都に赴いた南部信義が三戸へ帰る際に、新潟まで迎えに行った家臣の一人という。この小鳥谷安部三郎という名から、小鳥谷氏は元々安部を名乗っていた一族である可能性が考えられる。安倍氏といえば、前九年の役で源氏と対立した安倍氏(頼時、貞任の一族)が有名であるが、岩手県北部から青森県にかけての地域は、前九年の役で源氏側についた安倍富忠の勢力下にあったと推定され、小鳥谷氏は、安倍富忠と同族の安倍氏の末裔である可能性が推定される。小鳥谷周辺の戦国武将は、南部氏の一族である一戸氏、畠山氏に繋がる浄法寺氏、近年畠山氏家臣恩田家の末裔という新説が出ている姉帯氏など、糠部に移住した関東武士を先祖に持つものが多い中、小鳥谷氏は数少ない在地勢力の生き残りなのかもしれない。
安倍氏は、俘囚(大和朝廷に帰属した蝦夷)という説と、奥州に下った中央豪族である安倍氏の末裔という説などがあるが、北辺に近い地域に勢力があった安倍富忠の一族は俘囚であった可能性が高く、元々は「蝦夷」であると考えられる。つまり、小鳥谷氏の先祖は蝦夷であり、五月舘の名の本となった「五月ト云ヘル蝦夷人」は小鳥谷氏の先祖なのかもしれない。とすれば、その名は「安部五月」か?(www)
2024.11.19、2025.02.06追記