小鳥谷地区の神社に関する記録をまとめてみた。
● 八幡神社(字上里45)
創建年代不明。この地方の古社であり、明治ごろまでは若宮八幡宮として崇敬されたが、明治6年(1873)七月、村内神社の合祀により八幡神社と改称、郷社に列したという。新撰陸奥国誌によると、明治四年に焼失しているという。また、相殿・熊野宮とあるので、合祀した一つは熊野宮であると考えられる。「慶長中の勧請の由」とあるので、中村の熊野神社の事であろうか?。
現在の社殿は大正二年(1913)に立てられたもので、昭和51年に社殿の全面改修を行ったという。御神木は小鳥谷バイパス工事のため平成になり伐採。
表のA2が江戸時代の八幡神社か?。北奥路程記には八幡宮の記載はなく、五月館付近に蒼前神社が記載されている(五月館山頂に小さな祠が荒れ果てた状態で現存。明治天皇の東北巡幸では休憩候補地だった)。この蒼前神社は伊達藩の記録にも見られる(K2:正善の社)。小鳥谷八幡神社は街道沿いにありながら、旅日記等にはまったく登場しない。古社というのは本当なのだろうか?
● 御小性神社
小姓堂にある神社で、江戸時代の記録は小鳥谷郷社となった八幡神社よりも多く存在する。表のA7、B6、C1、K1、D1、E2、F1、L1、G5はすべて御小性神社を示している。藩の記録である御領分社堂は小沼明神とし、本地(本地仏・本来の仏)は薬師(如来)としている。享和二年(1802)の東案内記でも「小性薬師」と記載されている事から、ほぼ同じ内容と推定される安永四年(1775)の奥筋行程記も同様の記載があると推定される(地名辞典の引用文にこの部分が無いため確認できていない)。菅江真澄は秀衡を祀っているとし、御小性神社内の石碑には「光枩大明神」(光松大明神)とある。ちなみに、伊能図(地図)には小姓堂(地名)の事を光松堂と記載している。北奥路程記や東山志云では胡四王としている。小鳥谷村郷土資料 大正14年 (1925)によると、「往時ハ北面セル四間四面ノ堂宇アリテ二町ニ余ル参道両側ニ老杉・・・、今ヤ・・・二尺四面ノ小祠ヲ残シテ復昔日ノ面影ヲ留メズ」(花巻市博物館だより 第19号平成20年(2008年)10月 コラムより)とあり、一戸町誌には次のような伝説が記載されている。
「故なき罪にとわれ都を追放された、さるお方の小姓がこの地にたどり着き、病死。里人がその亡骸を葬り、お堂を立てて小姓堂と呼んで祀った。現在でも病気平癒の霊験あらたかな神様」
御小性神社北側の畑の脇に小鳥谷地区で唯一現存する宝篋印塔があり、それが「さるお方の小姓」の墓という話もあるようだ。
御小性神社について最も古い記録は、宝暦十三年(1763)に盛岡藩が作成した「御領分社堂」であるが、元禄四年(1691)にこの地を訪れた丸山可澄の「奥羽道記」に「後生堂村」という地名がある事から、御小性神社が元禄時代には存在していた可能性を示している。小姓堂の地名の由来がこの御小性神社である事を考慮すると、「後生堂村」の記録から元禄当時には既に神社の御堂が地名化していた事になり、小性神社の創建は中村の熊野神社と同様に、江戸時代より前(室町時代)に遡る可能性が考えられる。
一戸町誌によると、御小性神社の分社が野中と穴久保にあるという。野中の大光神社と穴久保の御小性神社の事であると考えられる。
● 熊野神社
天文七年(1538)の米良文書(米良氏は那智の御師)によると,奥州一戸の旦那衆の中に安倍丹後守という名前が記載されている。小鳥谷氏も安倍氏の一族と推定され、当地の熊野信仰は室町時代に遡る事が可能と考えられる。その盛んな熊野信仰の名残なのか、小鳥谷には熊野神社が中村・篠畑・穴久保の3箇所に現存する。
B4は中村の熊野神社である。江戸時代初期の慶長十二年(1607)に再興されたという建立棟札から、16年前に起きた九戸の乱で被害に遭い、慶長十二年に再興されたという可能性も考えられ、最初の建立は、室町時代まで遡ると推定される。御領分社堂に記載されている熊野堂のうち、A14とA15のどちらかが中村の熊野堂と考えられるが、建立棟札の内容がB4と一致しない。
A13とB2、G3は篠畑の熊野神社で、宝永七年(1710)に建立されたという。宝暦十三年(1763)当時の別当は孫十郎である。
B5は穴久保にある熊野堂と考えられる。延宝五年(1677)に建立されたという。御領分社堂に記載されている熊野堂のうち、A14とA15のどちらかが穴久保の熊野堂と考えられるが、建立棟札の内容がB5と一致しない。
● 稲荷神社
邦内郷村志によると、稲荷に享保十四年(1729)三月建立の稲荷神社があったという(B3)、建立棟札の内容が一致する事から、A4も稲荷地区の稲荷神社であると推定される。この稲荷神社は、稲荷地区の地名の起源とも考えられるが、ゼンリン住宅地図を見ると、現在の稲荷地区に神社は見当たらない。
稲荷神社は、勧請の方法が容易な申請方式となったため、江戸時代、全国に多くの稲荷神社が建てられた。現在の小鳥谷地区には、駒木、篠畑などに稲荷神社がある。L4の明神社は、駒木の稲荷神社か?。
● 観音堂
B1、E1、L2、G4、H2は、小鳥谷小学校の北側にある観音堂を示している。当時は、観音堂の横に仁昌寺があり、藤島の藤は仁昌寺境内にあったという。小鳥谷地区には天台寺別当の桂寿院の知行地18石があり、仁昌寺はもともと天台寺の集穀所であったともいわれる。仁昌寺が天台宗から曹洞宗に転宗した後も、小鳥谷における桂寿院配下の寺社として祀られていたのが観音堂ではないだろうか?。
● 雷電神社
女鹿口に雷電神社がある。御領分社堂のA9もしくはA12の雷神社が、女鹿口の雷電神社を示していると推定される。
A12の俗別当は与八というが、小鳥谷村の歴史には「与八」という名前が4回登場する。
①1781(天明元年)一戸町人の与八(与八郎)が甲州川普請手伝に伴う献金により33石で福岡給人となる(夏井家)。
そのうち7石は女鹿口の持地であったという。
②1810(文化七年) 小鳥谷村の与八が小鳥谷村畑はぶに杉を100本植樹
③1826(文政九年) 小鳥谷村の与八が小鳥谷村小姓堂沢に杉を200本植樹
④1843(天保十四年) 小鳥谷村の与八に1.5石の御免地が一戸村に与えられる。
②~④は同一人物あるいは親子の可能性がある。小姓堂沢に杉を植えている事、一戸村に御免地が与えられている事から女鹿口を含む
小鳥谷村北部に住んでいた人であると推定される。
①は、一戸町人であるが、女鹿口に土地を所有していたようである。
A12の俗別当「与八」が①の先祖あるいは②~④の先祖であるならば、A12が女鹿口の雷電神社を示している可能性がある。
● 御滝大明神
「奥州街道 むら 高屋敷」(高屋敷町内会)によると、川底に川底本家所有の「御滝大明神」の石碑が現存し、H1の滝ノ明神に対応すると推定される。また、A3の滝明神もこれに該当する可能性も考えらられる。
● 滝壺大明神
「奥州街道 むら 高屋敷」(高屋敷町内会)によると、古屋敷に近い上里地内に滝壺大明神があるという。この付近は若子内から平糠川に流下する沢が滝となっている所である。現存の滝壺大明神との関連や正確な位置は不明であるが、この付近には昔大きな祠があり、飢餓の年には流人が住み着いたという。K1の明神ノ社やL3およびG1の明神が「昔あったという大きな祠」の可能性が考えられる。地形状況と位置から、その当時の明神も「滝」を祀ったものである可能性があり、A3の滝明神が該当する可能性もある。
● 天魔山神社
「奥州街道 むら 高屋敷」(高屋敷町内会)によると、若子内に天魔山神社があるという。表A1の天摩社がこの神社に対応する可能性が高い。
修験道(山伏)
山伏に関する記録は断片的にしかないため詳細は不明である。小鳥谷を含む一戸地域の山伏は一戸向町にあった一戸年行事・吉祥院を頭とし、本山派(天台宗系)に属していた。本山派は熊野三山を拠点とし京都・聖護院を本寺としたが、米良文書に記載された室町時代の一戸地域の熊野信仰と関連しているのだろうか?。小鳥谷地区の山伏関連の記録を時系列にして以下に示す。なお、小鳥谷地区の神楽は山伏神楽で、三明院が起源であるという。神楽関係の事項も併せて記載する。
小鳥谷の山伏および神楽関連の記録
・元文五年(1740) 小鳥谷村大蔵院弟子正覚坊(23歳)出奔(雑書)
・延享四年(1747) 小鳥谷村三明院が霞(支配区域)の一部を岩舘田中の誠昌院へ売却(一戸町誌下巻)
・宝暦年間(1751~1761) 「御領分社堂」に吉祥院配下の山伏の記録があるが、小鳥谷地区の山伏の記載は無い。
※この記録に、一戸の伊豆権現の別当院坊として志円坊という記載がある。(一戸町誌下巻)
・江戸時代後期 「御旧領之内福岡通繪図」の小鳥谷村地久保(穴久保の間違い)と観音(仁昌寺)の間の地名として「般若坊」とある。
・天保二年~三年(1831~1832) このころ三明院・第13代誕生か(墓碑からの逆算)
・天保年間(1830~1843) 小鳥谷の舞太夫・松之助が上北郡切田村(現青森県十和田市切田地区)の神楽指導(数年滞在)
・弘化二年(1845) 吉祥院箇条書文書内に小鳥谷村大学院が登場する。(一戸町誌下巻)
・弘化・嘉永年間(1844~1853) 小鳥谷村の山伏として無量院(恵日山)、大福院(三観山)が記載されている。※()内は山号
※この記録に一戸村伊豆大権現の別当院坊として三明院(柏松山)がある。(一戸町誌下巻)
・安政五年(1858) 五月館墓碑に「権大僧都本覚士応法印位」とある。山伏の墓か?(一戸町誌)
・明治半ば 小鳥谷の野里藤蔵、青森県下北郡東通村に獅子舞を伝える。
・明治40年(1907) 修験三明院(岡山家)墓碑銘「明治40年1月7日13代76歳」
(「南部藩領内における死者祭祀に関わる神楽の事例(中嶋奈津子)」)
・一戸町誌下巻によると、三明院(明楽院)は女鹿沢にあったという。後の岡山氏(青森)である。墓碑銘によると、明治40年に76歳で亡くなった当主が13代目になるという。また、大学院は小鳥谷向ノ(川向か?)にあったという。
「三明院」と称する修験の記録は延享四年(1747)まで遡る事ができるが、弘化・嘉永年間(1844~1853)の記録では、一戸の伊豆権現の別当院坊として三明院が登場し、小鳥谷地区の山伏としての三明院の記載が無い。ちなみに、伊豆権現の別当院坊は、宝暦年間(1751~1761)の記録では志円坊となっている。
天保年間に小鳥谷村出身の松之助が十和田市切田の神楽を指導しているが、明治40年に亡くなった三明院(第13代)が子供の頃に当たるため、松之助は第12代あるいは第11代の三明院の関係者か?