小鳥谷地区で起きた事件・災害
【事件】
● 九戸の乱(美濃木沢の合戦)
天正十九年(1591)の九戸の乱で、最初に戦場となったのは姉帯城であるが、城攻めの前に姉帯側が上方軍に対し奇襲を行ったというのが、美濃木沢の合戦である。小繋から小鳥谷に進んできた上方軍に対し、崖の上に準備していた岩や大石・大木を投げ落としたもので、狭い街道で身動きがとれない上方軍に多くの犠牲者が出たといわれている。
八戸家伝記によると上方軍は、八月十九日に不来方を出立、姉帯城が落城したのは八月二十三日、九戸城包囲は八月二十五日という。浅野氏の書状では姉帯城落城は九月一日、九戸城包囲は九月二日、そして九戸城の落城は九月四日である。九戸城戦では、上方軍が苦戦したため、嘘の助命約束で開城させた経緯があり、九月二日包囲、九月四日落城は戦闘期間が短すぎる。九戸城包囲は八戸家伝記の方が真実に近いのかもしれない。その場合、小鳥谷・美濃木沢の奇襲は、姉帯城落城の前日の八月二十二日か?。
姉帯城攻めの時に蒲生氏郷は仁昌寺地区の観音堂付近(藤島の藤周辺)に陣を張ったといわれている。美濃木沢の奇襲が事実であれば、奇襲を受けた後、仁昌寺で陣を立て直したと推定される。ただし、蒲生氏郷が伊達政宗に宛てた八月廿三日付の書状では、和賀に到着したばかりというので、姉帯城が落城した日に蒲生氏郷が当地にいなかった事になる。伊達政宗と蒲生氏郷はライバル同士であり、蒲生氏郷が伊達政宗を牽制するため、伊達領に近い和賀に滞在しているという偽情報を流したのだろうか?。あるいは、仁昌寺地区に布陣し、姉帯城を攻撃したのは、蒲生本体ではなく、先遣隊なのかもしれない。蒲生軍では、姉帯城戦(氏郷記では穴田井城と記載されているという)で蒲生忠右衛門(谷崎忠右衛門)が一番左組の将として活躍したという。
美濃木沢の合戦が行われた場所は笹目子説、川底説、古屋敷説、五月館手前の崖下説等がある。岩手県管轄地誌(明治18年)では、古戦場として美濃木沢が記載され、古屋敷にあると記載されている。また、邦内郷村志には身野木澤という地名の位置として、玉屋敷から道地路(道地方面に向かう道)があり、道地路から平糠川上流側に行った所としている。玉屋敷は若子内入口付近、あるいはそれよりやや五月館寄りにあったと推定される地名である。その東の平糠川にそって上流に行った所とは、現在の古屋敷や高屋敷のある段丘の下の河岸で、岩手県管轄地誌の古屋敷地内という記述と合致する。ただし、古屋敷説では、戦場が街道から逸れた場所にあるため、上方軍がその場所を通過した事は考え難い。これは五月館手前の崖下説でも言える事である。文化五年(1808)の蝦夷警固に向かう仙台藩の記録では、合戦の場所を笹目子~高屋敷間の難所(川底付近)としている。奥筋行程記(安永四年1775)でも上方勢が多数討ち死にした場所として川底を紹介している。
九戸の乱で、小鳥谷氏(小治谷摂津)は姉帯側に付いて戦ったといわれている。小鳥谷氏の居城である五月館で合戦が行われたという記録は無いが、奇襲の場所が五月館に比較的近いため、美濃木沢の合戦に小鳥谷氏が関与した可能性は高いと考えられる。邦内郷村志によると、中村の熊野神社に慶長十二年(1607)卯月(4月)に再興されたという建立棟札があるという。これは、熊野神社が九戸の乱の被害(焼失あるいは解体)に逢い、16年後に再興されたという事を示しているとも考えられる。目立った合戦が無くても、小鳥谷地区が九戸の乱の被害を受けていた可能性を示す資料ではないだろうか。
● 九戸の乱(川向の合戦)
岩手県管轄地誌に、九戸の乱の古戦場として美濃木沢とともに川向が記載されている。詳細は不明。
● 三吉事件
承応二年(1653)に小鳥谷地区で14人が斬罪(死刑)になる事件が発生したが、雑書にはどのような罪で死刑になったのか記載されていない。雑書の記載内容を要約し順に示す。
承応二年
三月十四日 藩重役の定例会議で小鳥谷村の丹波・三吉達の件が話し合われた。
※丹波はハイタカの巣探索の名人。この時点で容疑者の一人であったようだ。
三月十九日 藩重役の定例会議で小鳥谷村の三吉達の件が話し合われた。
五月廿七日 藩重役の定例会議で小鳥谷村の三吉達の件が話し合われた。
六月十七日 閉伊河榊・早池峰両山のハイタカの巣探索に小鳥谷村「丹波の子」が一人派遣される。
※丹波ではなく息子が派遣されている事から、この時の丹波はまだ容疑者なのか、もしくは取り調べで体調を崩した可能性が考えられる。
閏六月十六日 藩重役の定例会議で小鳥谷村の三吉達の件が話し合われた。
閏六月廿六日 小鳥村下谷地の右衛門太郎が罪を犯し、舅の惣左衛門とともに逃走。
※右衛門太郎が何らかの罪を犯し、舅とともに逃走したという記事である。舅の惣左衛門は無罪であったが、一緒に逃走したという。時期から見て三吉事件の関係者か?。右衛門太郎は処刑された衛門太郎の事か?。
八月廿八日 小鳥谷村の三吉他に対する判決が決まる。
判決内容
三吉、助五郎、善右衛門、助兵衛、助左衛門、長三郎、甚内、衛門五郎、衛門三郎、孫三郎
三十郎、衛門太郎、新兵衛子衛門太郎、与五郎
以上14名が斬罪(死刑)
治部(治郎?) 牢屋から出され、財産・身分取上げ、追放
藤五太郎 赦免、牢屋から家に帰される。
三吉下人 二郎 御台所へ上がる(=身寄りがないため城へ下働きに出される。)
善右衛門子 長二郎 御台所へ上がる
助左衛門子 彦三郎 御台所へ上がる
八月晦日 死刑執行
九月二日 盛岡に報告(雑書記載日)
『九月二日 雨 去月廿八日ニ小鳥屋村三吉類之過人十三人、岩間左市助付遺候所ニ、去月晦日ニ三戸籠は右之過人内衛門五郎親右京・子右衛門五郎一所ニ罷候付、以上十四人於小鳥屋村成敗仕候由、右之左市助申上、一方井刑部御状ニて今日披露之』
※衛門五郎は三戸で捕らえられていた所を親の右京とともに小鳥谷に連行されてきた。
※岩間左市助はこの当時、花巻代官であったとする記録がある。なぜ、小鳥谷の死刑執行に立ち会っていたのだろうか?
十月廿七日 孫三郎子うし、治部子杢 御台所へ上がる
承応三年二月十八日 ハイタカの巣探索に小鳥谷村の人達が派遣される。
岩手より口郡山中へ右京之助、中山より奥郡中へ丹波、彦太郎
※丹波が現場復帰する。
三吉事件の関係者をまとめると次のようになる。
1 三吉-死刑 (下人の二郎、御台所行き)
2 助五郎-死刑
3 善右衛門-死刑 (子の長二郎、御台所行き)
4 助兵衛-死刑
5 助左衛門-死刑 (子の彦三郎、御台所行き)
6 長三郎-死刑
7 甚内-死刑
8 (右)衛門五郎-死刑 (父右京とともに三戸から連行)
9 衛門三郎-死刑
10 孫三郎-死刑 (子のうし、御台所行き)
11 三十郎-死刑
12 衛門太郎-死刑 (舅の惣左衛門とともに一時逃走していた右衛門太郎か?)
13 衛門太郎-死刑 (新兵衛子)
14 与五郎-死刑
15 治部(治郎?) 追放(子の杢、御台所行き)
16 藤五太郎(赦免)
17 丹波 当初は容疑者の一人だった。無罪。
処刑された14人のうち三吉には「下人」がいるため、農民でも人を使う立場の身分であった事が推定される。
追放された治部(治郎?)の子は杢というが、55年後に「杢」という名の農家で火災が発生している。同一人物なのかどうかは不明。
そもそも、処罰された人たちが何の罪を犯したのかは不明であるが、三吉事件の最初の容疑者にハイタカの巣探索名人である丹波がいる事や、死刑執行時に三戸から連行されてきた衛門五郎が「右京の子」とあり、これがハイタカの巣探索名人である川底の右京と同一人物と仮定すると、三吉事件関係者はハイタカの巣探索名人と係りが深い人達であった可能性が考えられる。また、承応二年三月十九日に行われた藩重役の定例会議では、雑書に「たか子姉そ(訴)人につき公事」とある。盛岡藩雑書は、原本の他に写本版もあるという。従って、書き写す際に、誤字脱字が発生した可能性がある。承応二年の記事は原本なのか写本なのか不明であるが、仮に写本されたものと仮定すると、「たか子姉そ(訴)人につき公事」は、意味が通じないため、写本ミスの記事の可能性が考えられる。
私は、「姉」とは「姉帯村」の事ではないかと推測している。つまり、「たか子姉そ(訴)人につき」とは「たか子(鷹の雛)について姉帯村の者から訴えがあった」というような事ではないだろうか。これに関連し、前年の雑書に興味深い記録がある。それは、承応元年九月に姉帯村でハイタカの巣が紛失し、山守が処罰されているのだ。この承応元年の事件は、三吉達による犯行で、三吉達は、組織的なハイタカの密売人だったのではないだろうか?。というのが私の推測である。
他に、宗教弾圧説(隠れキリシタンあるいは隠し念仏教徒に対する処罰)も考えてみたが、処罰されたのが全員男性である事から、宗教弾圧の可能性は低いと考えられる。処罰されたのが男性のため、一揆説も考えられるが、後の一戸一揆や横間の一揆等と比べ、処刑者数が極端に多く、一揆が起きたという記事も見当たらない事から、一揆説の可能性も低いと考えられる。
★関連動画
● 天和四年(1684)殺人事件
雑書の天和四年二月廿日に小鳥谷で発生した殺人事件の記事がある。天和四年二月十六日に小鳥屋村の孫四郎が乱心し、昼七ツ時に母を切り殺し、女房と下女に手傷を負せ、自害したという。当時の福岡通代官は矢羽場治助(介)と苫部地弥七郎。二月廿日に福岡通り代官の矢羽場治助(介)から報告され、孫四郎弟・肝煎・五人組の口上書が提出された。
● 文化五年(1808) 御用状紛失事件
文化五年閏六月四日(1808/7/26)、八戸(八戸藩)から志和(八戸藩飛地)へ送られた一里状(公文書専用メール便)が小繋の一里所(中継局)から紛失。この日、小繋村の円之助が当番であったが、不在のため、妻の「たつ」が代わりに受け取り、中山の知人に運送を依頼するが、その知人が酔っていたため、書状を紛失。
同年十一月十七日(1809/1/2)に判決が出され、たつは、入牢を免れ、今後一里状に関わらない事、一里状の関係者である小鳥谷村横浜氏知行所百姓の亀松と伝之助が組合預かり五日とする事、福岡通代官に対し、一里状の管理を徹底する事などの文書が発送される。
● 文化九年(1812)街道松無断伐採事件
文化九年四月九日、強風により小姓堂地内の街道並木の松が1本倒れ、それを「幸之助」が燃料(薪)として無断で伐採し処罰される(過料銭御取上とあるので罰金刑か?)。幸之助は毛間内岩治知行所の肝入「長治」の息子。
● 天保七年(1836)一戸一揆
天保七年(1836)十二月十日。連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法に抗議して、百姓が蜂起した。首謀者は女鹿・沢内の職人佐吉で、福岡代官栃内定之丞が一戸に来る機会を利用して陳情するのが目的だったという。佐吉は、高善寺村の理兵エ、女鹿舘の又市や熊と話し合い、女鹿村、中里村、月舘村、出ル町村、小友村、楢山村、小鳥谷村、姉帯村、田部村の数十人と未明、白子坂に集結する予定であったが、定刻に集まったのは女鹿村の者だけで、他の者は約束の時間に集まらなかった。一戸の商人の家に行き乱暴を働き、御番所で狼藉をしたが、御番所役人にはばまれて目的を達する事ができなかったという。佐吉と万吉が捕らえられ、盛岡に送られ取調べを受け、十一月七日に関屋の川原で打首となった。
● 嘉永六年(1853) 横間の一揆
嘉永六年(1836)八月下旬、 荒屋村の横間に三~四人の旅人が投宿し、三日動かず地元民と凝議。八月二十三日の真夜中、同所から一揆勃発。一揆勢は、石神→中佐井→浄法寺→似鳥→一戸と進み、白子坂(小鳥谷・一戸間)で喜代松が福岡代官所の役人に願書を差し出そうと前に進み出た所で、役人の木刀で後頭部を割られ、鮮血がほとばしり、それを見て驚いた一揆勢は蜘蛛の子を散らすようにばらばらになって逃げ失せた。一揆の主謀者喜代松は盛岡鉈屋町の商人だった。(一戸町誌上巻)
【災害】
● 宝永四年(1707)火災
雑書の宝永四年三月九日に小鳥谷の火災の記事がある。小鳥谷村惣次郎従家出火、毛馬内左善領百姓の家に延焼、家七棟焼失。三月九日は火災が盛岡に報告された日なので、火災の発生はこの数日前と考えられる。
● 宝永五年(1708)火災
雑書の宝永五年閏一月十四日に小鳥谷の火災の記事がある。火災が発生したのは閏一月九日、小鳥屋村百姓惣右衛門の名子、杢の家より出火、同所三九郎の家類焼、人馬怪我なし。火元の杢は、三吉事件で御台所に上がった杢か?(三吉事件から55年経過、事件当時10歳位であれば、火事発生時は65歳位となる)
● 享保十四年(1729)火災
雑書の享保十四年四月三日に小鳥谷の火災の記事がある。毛馬内左膳知行所の小鳥屋村百姓次郎三郎の家で自火にて焼失、家数三軒焼失。四月三日は火災が盛岡に報告された日なので、火災の発生はこの数日前と考えられる。
● 元文二年(1737)火災
雑書の元文二年三月廿一日に小鳥谷の火災の記事がある。火災が発生したのは三月十五日昼で、7棟焼失。火元は西海枝与次郎知行所の小鳥屋村助五郎名子三四郎の家。人・馬に怪我無し。
● 寛延元年(1748)火災
雑書の寛延元年(延享五年)十月三日に小鳥谷の火災の記事がある。九月廿七日夜、小鳥谷村桂清水別当領の三右衛門名子左衛門四郎の家を火本に火事が発生し三軒消失。人馬への被害無し。この記事から、この時代に天台寺別当・桂寿院の領地が存在した事がわかる。十月五日に火元となった左衛門四郎に対する沙汰が下される。(御免=無罪か?)。
● 安永八年(1779)火災
雑書の安永八年(1779)三月十九日(5月5日)に小鳥谷村の火災の記事がある。火災発生は三月十六日(5月2日)、火元は御蔵入領の三太郎宅で、類焼三棟。人・馬に怪我無し。火元の三太郎は組合預けとなる。