一戸町の奥州街道は国道4号線が奥州街道と別ルートに設置された箇所が多く、旧街道や一里塚が比較的多く残り、平成22年に国の史跡に指定されている。
小鳥谷地区の奥州街道は、野中から仁昌寺までの区間と笹目子以南が概ね国道4号線と同じルート、それ以外の箇所は、女鹿口から野中までの区間と仁昌寺から高屋敷までの区間が町道となり、高屋敷・笹目子間の北側の一部は車の通らない山道として残っている。
(1)小鳥谷地区における奥州街道のインフラ
(1.1)小鳥谷地区の一里塚
江戸時代のインフラである一里塚は、小鳥谷地区内では川底と野中に作られた。川底一里塚は、高屋敷の南の山道に2基現存し、野中一里塚は、国道4号線の拡幅により破壊され現存しない。
その他、小鳥谷地区西側の尾根沿いに「笹目子・上女鹿沢一里塚」と「穴久保・下女鹿沢一里塚」がある。小繋から浄法寺に抜ける巡見道に沿って小繋西側の山に登り、そこから巡見道と分かれて尾根沿いに小鳥谷の西側を通り小姓堂に抜ける通称「小鳥谷長嶺道」に設けられた一里塚で、この道は奥州街道の旧道という説や巡見道説(※前記の浄法寺に向う巡見道とは別)がある。
・野中一里塚跡
←東 南 西→
(2) 川底一里塚周辺の奥州街道
高屋敷南側の川底一里塚周辺の奥州街道は、地形図に記載されていない。簡易GPSや航空写真で推定される街道の位置を地形図に記載したものを以下に示す。
※カシミール3D 山旅地図データ使用。使用したGPS受信機はeTrex 30J、山中なのでGPS+GLONASSモードで受信した。
(3) 奥州街道の利用客
●大口利用客
・参勤交代の御一行様
小鳥谷地区の奥州街道は松前藩と八戸藩の参勤交代に使われていた。盛岡以北ではこの2藩以外に幕末から明治初めにかけて七戸藩と斗南藩が存在した。七戸藩は定府大名であり、参勤交代は行っていないと考えられる。また、斗南藩は参勤交代の制度が消滅した明治に誕生した藩である。従って、参勤交代で小鳥谷地区の奥州街道を利用したのは八戸藩と松前藩の2藩のみである。
八戸藩御一行様:八戸藩が参勤交代で小鳥谷付近の奥州街道を利用するようになったのは、盛岡藩から分藩した寛文四年(1664)以降である。
松前藩御一行様:松前藩が参勤交代で小鳥谷付近の奥州街道を利用するようになったのは、寛文九年(1669)のシャクシャインの乱の後であるという。それ以前は、日本海側にある北津軽の小泊から羽州街道を経由し奥州街道に合流するルートを利用していたため、小鳥谷付近を通らなかったと推定される。乱の後は、津軽海峡沿いの三厩から青森・野辺地を経由して奥州街道を南下するルートに変更されたようだ。なお、幕府は松前氏を陸奥国伊達郡梁川(福島県伊達市梁川町)に移し、一時蝦夷地全域を直轄地とした事もあり、その間は小鳥谷を通る参勤交代が途絶えていたと考えられるが、梁川への国替時および梁川から松前へ復帰した時には移住する藩士による大口の利用もあったと推定される。
・伊勢参り御一行様
小鳥谷以北の民衆や武士が伊勢参りに向かう際に小鳥谷地区の奥州街道が利用されていたと考えられる。
・蝦夷警固団御一行様
幕府が蝦夷地全域を直轄地にした文化四年(1807)以降、東北諸藩は蝦夷地や樺太の警備を目的とした出兵が命じられた。文化四年に出兵が命じられたのは、津軽・南部・秋田・庄内の4藩で、文化五年には津軽と南部の2藩を残し、秋田・庄内の変わりに仙台藩と会津藩に出兵が命じられた。これに伴い、仙台藩や会津藩などの兵が奥州街道を通り蝦夷地に渡った。
・幕府巡見使御一行様
寛永十年(1633)と寛文七年(1667)の巡見使は一戸を経由して小繋や沼宮内に向っているので、小鳥谷地区を通り奥州街道を南下したと推定される。ただし、小鳥谷を通る際に、巡見道説がある小鳥谷長嶺道を通ったのか、通常の奥州街道を通ったのかは不明である。延宝九年(=天和元年 1681)以降の巡見使は浄法寺・天台寺から小繋に向かうので、小鳥谷地区の奥州街道を利用していない。
・蝦夷地探検団御一行様
幕府の蝦夷地支配に前後して北海道・千島・樺太方面への探検団が複数回派遣されている。船で直接蝦夷地へ向かう場合もあったようだが、多くの場合は、陸路奥州街道を北上するルートがとられた。幕府の蝦夷地調査に何度も参加している最上徳内、水戸藩単独の蝦夷地調査に参加し、その後、幕府による蝦夷地調査にも偽名で参加した木村謙次、幕府の樺太調査に参加した長岡藩士・森一馬や佐賀藩士・島義勇なども奥州街道を利用している。
・蝦夷出張の幕臣御一行様
ロシアの南下を警戒した幕府は、寛政十一年(1799)に松前藩から東蝦夷地の一部を上知させ、函館から浦川までを取り上げた。また文化四年(1807)から西蝦夷地を取り上げ、松前藩を陸奥国伊達郡梁川に転封とし、文政四年(1821)まで蝦夷地を直接支配した。この間、蝦夷地には函館奉行や松前奉行が置かれた。文政四年(1821)に蝦夷地一円を松前藩に返還するが、嘉永七年(1854)の日米和親条約により函館が補給港となると、幕府は函館周辺を直轄地として再び函館奉行を設置した。
幕府の蝦夷地支配に伴い、幕府の役人が多数、江戸と蝦夷地の間を往復した。その中には、遠山景晋(時代劇・遠山金四郎で有名な遠山景元の父)や江戸で羊毛から羅紗織の試作を行った渋江長伯、画家谷文晁の弟の島田元旦、函館奉行や外国奉行を歴任し遣米使節の副使として世界一周した村垣範正、ハイテクラスト奉行・杉浦梅潭などがいる。
・斗南藩(旧会津藩士)御一行様
戊辰戦争後、斗南藩が立藩すると、旧会津藩士の多くが家族を連れて会津から青森県北郡・三戸郡・岩手県二戸郡内の斗南藩領へ移住するため奥州街道を北上した。
●VIPな利用客
・明治天皇 東北地方の巡幸で明治九年(1876)と十四年(1881)の2度小鳥谷を通過し、小鳥谷地区内では仁昌寺・上里邸と小姓堂・日影坂が休憩地となった。「明治天皇巌手乃行幸」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「御巡幸供御清浄水」として上里邸では「篠畑清水」、日影坂では「御野立櫻澤清水」が提供されたという。なお、明治九年の巡行では、当初五月館頂上で景色の良い蒼前神社付近が休憩候補となり、そのための準備も進められたが、急遽上里低に変更されたという。
・堀田正敦 幕府若年寄。鳥マニア。仙台藩出身で、映画『殿、利息でござる!』で羽生結弦が演じた仙台藩の7代藩主伊達重村の弟である。譜代・堅田藩主堀田正富の娘婿となり堀田家を継ぎ、後に幕府・若年寄となる。文化四年(1807)に蝦夷地視察のため奥州街道を往復した。なお、wikipediaによると伊能忠敬による測量と地図作成を幕府側で後押ししたのは正敦だったという。
・松前崇広 蝦夷松前藩の12代藩主。西洋通として知られ、元治元年(1864)に老中に抜擢されるが、同じく老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定した責任を問われ、慶応元年(1865)に解任される。老中就任中は松前には戻らなかったため、崇広が奥州街道を往復したのは、老中就任前および辞任後である。老中解任の翌年、慶応二年(1866)の四月に熱病により松前で急死(享年38)
●外人さん
・李志恒(イ・チハン)一行 元禄九年(1696)に朝鮮国(李氏朝鮮王朝)の下級武官、李志恒(イ・チハン)一行が奥州街道を南下した。李志恒(イ・チハン)一行は釜山(韓国)から嵐により日本海を漂流し、蝦夷地にたどり着き、松前藩により保護されていた。
・ロシア領事一行 安政七年(1860)ロシア領事ゴシケーヴィッチ一行が江戸から陸路で函館に向かうため奥州街道を北上し、三月三日に小鳥谷を通過した。この日、江戸では桜田門外の変により井伊直弼が暗殺されている。
●ハイテクな利用客
・木村謙次 水戸藩が計画した蝦夷地調査に加わり、寛政五年(1793)二月十四日(3月25日)に沼宮内から一戸へ向かう途中、小鳥谷を通過。一戸の宿で天体観測を行い、北極星の角度を測定している。これは、伊能忠敬が測量でこの地を訪れる7年前である。
・堀田仁助 津和野藩出身。幕府天文方で編暦・測量を行った。寛政十一年(1799年)、幕府の蝦夷地直轄に際して江戸からの直通航路を開拓するため測量を命じられ神風丸で品川を出帆し(七月一日)、天文観測によって方位を測定しつつ厚岸(アッケシ)に到達(八月二十九日)、九月五日厚岸出立。帰路は蝦夷地南岸を陸路で松前に至り、その後は三厩へ渡り奥州街道を経て江戸に帰着(小鳥谷通過は十月末~十一月頭か?)。翌年の伊能忠敬の測量は堀田の航路開拓なしには成し得ないものであったとされる。仁助は、測量に使用する機器を自ら開発・作成したといわれる。
・伊能忠敬 測量のため寛政十二年(1800)、奥州街道を往復している。各種測量道具を携え、一戸で天体観測を行っている。また、享和元年(1801)にも奥州街道を南下する途中小鳥谷を通過している。
・杉浦梅潭 函館奉行。奉行に就任した慶応二年(1866)に奥州街道を北上。旅に2個の時計と寒暖計、遠眼鏡を携行し、毎日の発着時刻、気温(※華氏)、沿道の状況を記録したという。
★関連動画
●著名?キャラ
・吉田松陰。ここで説明する必要のない有名人。東北遊学のため脱藩。嘉永五年(1852年)の三月十日(4月28日)、一戸から沼宮内に向かう途中で小鳥谷を通過している。
・斎藤一(藤田五郎)。牙突で有名w?な元新選組三番隊組長。戊辰戦争で会津藩の指揮下に入り、斗南藩成立後に五戸へ移住し藤田五郎と改名したという。戊辰戦争後の謹慎先が越後高田のため、最初に五戸に来たのは陸路ではなく海路の可能性もあるが、明治七年に東京に移住する際は奥州街道を南下し、小鳥谷を通過したと推定される。東京移住後に警視庁に採用されている。
・幸田露伴。江戸(東京)出身の小説家。電信技師として北海道余市に赴任。文学の道を志し1887年(明治20年)職を放棄し帰京。この時の北海道から東京までの道程が「突貫紀行」の題材である。小説では1887年(明治20年)9月15日に三戸から金田一・福岡・一戸・小繋を経由して沼宮内に移動した事になっている。
・鼻毛延高(はなげのびたか)と千久羅坊(ちくらぼう)。十返舎一九(重田貞一)の道中記シリーズ方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)のキャラ。あまり有名ではないが、金草鞋は膝栗毛に次ぐ一九のベストセラー道中記であるという。鼻毛延高は奥州の狂言師という設定。『うきよのおはなし~江戸文学紹介ブログ~』(http://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2018/09/24/180000)によると、鼻毛延高の名前の元になっている「鼻毛を伸ばす」には「女に夢中になる」という意味があり、「ちくら」には「ニセ」という意味があるため千久羅坊は「ニセ坊主」の意味になるという。
第二十一編「南部路記旅雀」は鶴岡(山形県)から久保田(秋田市)、角館、盛岡と進み、奥州街道を北上して野辺地から恐山へ向かうルートを紹介しているという。作品内には小鳥谷付近の地名として、たか(高)屋敷・をさわ(小沢=小鳥谷)が記載されている。初版は1831年(天保二年)に刊行されているようだ。
(4) 小鳥谷長嶺道の謎
小鳥谷長嶺道とは小繋から小鳥谷集落西側の山の尾根の上を通り小姓堂集落に至る区間にあったと推定されている街道の事である。この区間には「笹目子・上女鹿沢一里塚」と「穴久保・下女鹿沢一里塚」が現存し、その間隔が40町程あるため、慶長一里塚(1里=36町)とは別基準で作られた古い一里塚ではないかという説がある。しかし、奥州街道の一里塚の間隔を地形図で測定すると必ずしも36町の間隔で築かれたわけではないようである。以下に測定結果を示す。なお、メートルから町への換算は、1町=109mとした。
・奥州街道本道(←小鳥谷長嶺道と区別するための仮称です)
馬羽松・御堂一里塚から中山一里塚までは4.38km 約40町
中山一里塚から小繋一里塚までは4.44km 約41町
小繋一里塚から川底一里塚までは4.80km 約44町
川底一里塚から野中一里塚までは3.67km 約34町
野中一里塚から諏訪野一里塚までは4.49km 約41町
平均すると、4.36km、約40町
小鳥谷長峰道と同様に奥州街道から逸れた位置の一里塚として小繋の塚平一里塚が知られている。
中山一里塚から諏訪野平一里塚までの間を、塚平一里塚や小鳥谷長峰道を通るルートで一里塚の間隔を計算すると次のようになる。
中山一里塚から塚平一里塚までは4.05km 約37町
塚平一里塚から笹目子・上女鹿沢一里塚までは4.69km 約43町
笹目子・上女鹿沢一里塚から穴久保・下女鹿沢一里塚までは 4.47km 約41町
穴久保・下女鹿沢一里塚から諏訪野一里塚までは4.76km 約44町
平均すると、4.49km、約41町
このように、奥州街道本道(くどいけどw、仮称)は平均40町間隔で一里塚が築かれ、小鳥谷長嶺道を通るルートも平均41町間隔で一里塚が築かれている。値のばらつきを考慮すると、両一里塚は、別基準ではなく同じ基準(1里=40町)で作られた可能性が考えられる。盛岡藩の一里塚整備が行われたのは慶長期で、中山~一戸間の奥州街道本堂では本来は36町でなければならない一里塚が40町間隔で築かれている。従って、小鳥谷長嶺道の一里塚も同様の基準で築かれたのであれば、奥州街道本道と同じく築かれた時期は慶長期となるのではないだろうか。
小鳥谷長嶺道の正体
奥州街道旧道説
奥州街道旧道説とは、古い時代の奥州街道が、江戸時代の奥州街道とは別ルートにあり、小鳥谷長嶺道はその名残で、小鳥谷長嶺道の一里塚も慶長一里塚より古い時代のものという説である。室町時代に足利義晴が一里塚の整備を諸国に命じたという説があり、それに対応するものであれば、一里塚の築造時期が室町時代まで遡る事になる。足利義晴の時代は、南部晴政の時代と重なる。南部晴政の晴は、将軍義晴より1字を拝領したともいわれている(他に武田晴信からという説もある)事から、足利義晴の命令に南部晴政が従った可能性も考えられるが、戦国時代真っ只中で街道を一元的に管理する事ができない時代に南部氏が一里塚の整備をしたとは考え難い。(※戦国時代の場合、そもそも何処を基準点にして一里塚を作るのか?という問題が発生する)
プチ旧道説(私説1)
プチ旧道説は、小鳥谷長嶺道が、古くから(室町時代)使われていた奥州街道の旧道ではなく、江戸時代初期に整備された道で、江戸中期~後期には使われなくなった旧道ではないかという説。
南部氏の居城は元々三戸であったが、九戸の乱の後、蒲生氏郷によりリフォームされた福岡城(九戸城)に移り、その後、盛岡城に移った。盛岡城全城が完成したのは寛永十年(1633)であるが、完成した翌年に火災にあい、藩主の重直は一時福岡城(九戸城)を居城にしたという。
盛岡城の機能が中途半端な江戸時代初期は、藩主が三戸や福岡に向う機会も比較的多かったと推定され、移動時には盛岡以北の奥州街道が利用された。その際に藩主の安全確保のため、九戸の乱の時に、奇襲が行われた崖下の道がある川底・笹目子間を回避する目的で小鳥谷長嶺道が整備されたのではないだろうか。一里塚が築かれたという事は、慶長期には、後の時代より小鳥谷長嶺道を使う機会があった事が推定されるが、藩主が盛岡に定着し、福岡や三戸を訪れる機会が減ると、近隣の集落と集落を結ぶ奥州街道本道(仮称)の方が遠回りになる小鳥谷長嶺道より利用されるようになり、八戸藩や松前藩の参勤交代ルートも小鳥谷長嶺道ではなく奥州街道本道(仮称)を通るようになったのではないだろうか。元禄四年(1691)にこの地を訪れた水戸藩の丸山可澄の記録によると、小綱木(小繋)から一ノ戸(一戸)までは「難所左右大山山ノ腰ニ道有右ハ渓谷數十丈左ハ嶮岸細道一轉スレハ絶命ノ所ト云牛馬誤テ落スル事數度アリト云」とあり、「高屋町(高屋敷)」、「後生道村(小姓堂)」を経由して一戸に向っている事から、当時(元禄期)の旅人は、小鳥谷長嶺道ではなく奥州街道本道(仮称)を通っていた事がわかる。
木材運搬路説(私説2)
二戸市の福岡城(旧九戸城)は、寛永十三年に廃城となった。南部史要によると、福岡城の木材を用いて盛岡城西に新邸を造営したとあり、福岡城の木材は奥州街道を使って運搬したと考えられる。その際に急峻な崖下の道が続く笹目子・高屋敷間を避けるために小鳥谷長嶺道が作られたのではないだろうか?。長峰道から小繋集落に向かう道は、急峻な坂道であるが、福岡から盛岡へ向かう場合は下り坂のため、上り坂とは異なり、資材運搬は比較的容易であったと考えられる。
巡見道説
巡見道説は、小繋から小鳥谷長嶺道に到るルートの一部が、後の巡見道と重なっている事から、小鳥谷長嶺道が巡見道と誤解されて生じた説のようである。上記の大口利用客に記載したように、延宝九年(=天和元年 1681)以降、七回訪れた巡見使は小鳥谷地区を経由していない。ただし、初期の2回、寛永十年(1633)と寛文七年(1667)の巡見使は小鳥谷地区を通り奥州街道を南下したと推定される。この時、小鳥谷長嶺道を通ったのか、奥州街道本道(仮称)を通ったのかはわからない。寛永十年(1633)の巡見使の目的の一つに、慶長日本図の校訂があり、一里塚の位置確認や地図に記載された地名(村々)の確認などが行われたと推定される。一里塚については、小鳥谷長嶺道と奥州街道本道の両方にあるため、どちらを通った場合でも巡見使は一里塚を確認したはずであるが、小鳥谷長嶺道を通った場合、小姓堂から小繋までの間に集落は無く、奥州街道本道(仮称)を通った場合は、小姓堂・小繋間にある小鳥谷地区の集落を通る事になる。慶長日本図校正版の国絵図(現存しない)の写しである「日本六十余州国々切絵図」(秋田県公文書館)や池田家文書の陸奥国絵図(岡山大学付属図書館)には一戸と沼久内(沼宮内)の間に「こちや」(=小鳥谷)という地名が記載されている。仮に小鳥谷長峰道を通った場合であれば、小鳥谷地区は女鹿口と小姓堂集落以外は通らないため、地名としては女鹿口や小姓堂集落より戸数が多く、藩の番所もある小繋を記載すると思うのだが、こちや(小鳥谷)を記載したという事は、寛永十年(1633)の巡見使は小鳥谷集落を通る奥州街道本道(仮称)を通った可能性が考えられ、その場合、「小鳥谷長嶺道=巡見使のための街道」という説は当てはまらない事になる
(5)宿場と茶屋
小鳥谷周辺の宿場町は南側が沼宮内、北側が一戸で、間の宿は小繋であった。奥州街道を利用する旅人の多くが沼宮内と一戸に宿泊している。また、一戸と福岡(二戸)が比較的近い距離にあるため、沼宮内と福岡に宿泊する例もある。他に、間の宿である小繋や菅江真澄のように御堂観音や、民家に宿泊した例もあったようだ。また、宿場でない火行や中山で宿を営むものがいた。これらは旅人の他に馬の商いを行う馬喰が利用していた。「北行日録」(木村謙次)によると、中山・火行・小繋には「鍋ヲナキ(或いは鍋タナキ)」という飯盛女がいて馬喰の相手をしていたようで、菅江真澄の「岩手の山」にも中山で「くぐつ(遊女)のような」女が登場する。
茶屋についての記録は少ないが、安政四年(1857)の「罕有日記」(森一馬)には、中山に「見苦しき茶屋あり」とあり、明治四年の「陸奥紀行」(上原和兵衛)では沼宮内の宿が準備した朝食用の弁当を中山の茶屋で食べた事が記載されている。その後、小繋で昼飯を食べるため茶屋を探したが、小繋には茶屋が無いため、宿で食事をし、宿の主におかずの「しび」・味噌・漬物を提供してもらった事が記載されている。
一戸町郷土史によると、浪打峠の南側数町(数百メートル)の所に慶応初年に開業した茶屋があったという。しかし、明治二年の秋に強盗に襲われ廃業した。当時は戊辰戦争直後で治安が悪かったようだ。「陸奥紀行」(上原和兵衛)にこの強盗被害にあった浪打峠の茶屋の事が以下のように書かれている。
「末の松山を往来の右に詠め、浪打峠へそ掛りける。扨、登りて峯に茶屋壱軒在て、然るに近年物騒にて盗賊這入て、家内の者を殺し、金銀をうばゐ取り、依而茶屋ハ家をこぶちなかりしに、又小家掛ケして住める者在り」
一戸町郷土史によると、茶屋の主人は普段は朝出勤し夕方店を閉じて帰宅していたのだが、事件のあった当日は、会津戦争の落武者など、客が多かったため、妻とともに茶屋に宿泊したという。亥の刻(21~23時)頃、覆面の浪人に切りつけられ、夫妻共に深い傷を負ったが、致命傷ではなったため、二人は大声で叫びながら一戸の自宅に駆け下り、近所の人々が一団となって茶屋に向かったが、賊の姿はなかったという。(「陸奥紀行」の「家内の者を殺し」は、当時のうわさ話を記載したものだろう)。茶屋の主人は明治四十年頃まで生きていたが、人前で裸体になる事はなく、事件当時の事も語らなかったという。
島義勇の奥州行日記には「小茶屋」という地名が登場する。これは茶屋の事ではなく、小鳥谷の地名に対する当て字である。
(6)街道の難所と名所?・名物
●難所
・笹目子~高屋敷間
笹目子と高屋敷の間の街道は、小繋川により形成された渓谷の脇を通る山道であり、多くの旅日記に記載されている難所である。
奥羽道記(丸山可澄)[元禄四年(1691)]の記録には「右此村(※小繋村)より別テ一ノ戸迄難所左右大山山ノ腰ニ道有右ハ渓谷數(数)十丈左ハ嶮岸細道一轉(転)スレハ絶命ノ所ト云牛馬誤テ落スル事數(数)度アリト云」とある。
北行日録(木村謙次)[寛政五年(1793)]の記録にも「林谷岨隘、風景勝絶ナリ」とある。
東遊奇勝(渋江長伯)[寛政十一年(1799)]の記録には「小繋坂の嶮岨(けんそ)は石斗(ばかり)にて路曲り、左は山にて大石に跼(せぐく)める処もあり、又は路を失たるもあり、右は深き谷にて急なり」とある。小繋付近の坂道として小繋と火行の間にある「ヨノ坂」が知られているが、北行日録にある小繋坂は「左は山・・・右は深き谷にて」とあり、ヨノ坂ではなく、渓谷沿いの笹目子~高屋敷間の事を示していると考えられる。同文献には他に「川そふ坂」があり、「川底坂」の事ではないかと推定される。川底は笹目子と高屋敷の間にある集落の地名である。
函館日記(三田花朝尼)[安政三年(1856)]には小繋坂の由来として「谷深けれは。落もせはとても引上ることもむつかしあれは。親のこしへ(腰へ)子供をつなき(繋)てとほれ(通れ)といふをしへ(教え)の名也」と記載している。これも、ヨノ坂ではなく笹目子~高屋敷間の事であると考えられ、「谷深けれは。落もせはとても引上ることもむつかし」は奥羽道記(丸山可澄)の「牛馬誤テ落スル事數度アリト云」を連想させる。
安政七年(1860)に江戸から函館を目指して奥州街道を北上したロシア領事・ゴシケーヴィチの随行員であるアルブレヒト夫人の手紙に奥州街道の興味深い描写がある。
『函館へ近づけば近づくほど、よりしげく高い山々に出くわし、雪が一層深くなり、静かに前進するばかりでした。高い山の辺を通った狭い山道をやっと通過しながら、私は恐る恐る視線を上から断崖に投げ掛けました。その断崖の上に私たちの駕篭がぶらさがっていたのです。息が止まりそうになり、恐ろしくて山の小川か湖のせせらぎの音が聞こえる深い断崖の絵のような景色から顔をそむけました。私たちが曲がり角で振り返った時、ずっと後ろに遠く離れた駕篭が玩具の駕篭のように、またかつぎ人夫が小人のように思われました。雪や死んだような自然にも関わらず、山からの景色は見事なまでの美しさでした。鳴り止まぬ滝の音だけがこの冬の光景の静寂と平穏を乱していました』
この断崖を通る狭い山道の様子は、笹目子~高屋敷間の状況を示している可能性がある。
笹目子~高屋敷間には「舅ころばし」あるいは「舅転がし」と呼ばれる坂の地名が残っている。棄老伝説を連想させる地名であるが、奥北地理分見略記(塩隆好)[文化四年(1807)]、クナシリ警固日記(高屋養庵)[文化五年(1808)]、罕有日記(森一馬)[安政四年(1857)]などに、この坂の名称が記録されている。
他に、この区間の坂名として、東巡録(宮内省)[明治八年(1875)]に赤羽根坂と荒戸花坂が記載されている。荒戸花坂は、クナシリ警固日記にも「荒戸鼻」と記載され、舅ころばし(坂)より南にあったと推定される。また、罕有日記(森一馬)[安政四年(1857)]にはワラタマ坂という坂も登場する。荒戸花(あらとばな)が「ワラタマ」と聞こえた可能性もあるが、自分は別の説を考えている。それは、「名所? わらだ松」の方で解説する。
・上里坂
高屋敷~仁昌寺間の地名として東遊奇勝(渋江長伯)[寛政十一年(1799)]に「わさとの坂」、罕有日記(森一馬)[安政四年(1857)]に「ワンジャトウ坂」が登場する。この坂道は五月館の横を通る街道の坂道で、峠付近に文久元年(1861)に設置された「左ハもり岡、右は山道」と書かれた追分石が現存する。現在の仁昌寺地区の東側に上里という地名があり、地元では「ワジャト」と発音する事から、「わさとの坂」・「ワンジャトウ坂」は共に「上里坂」の意味であると推定される。難所という程きつい坂ではないが、比較的長くダラダラと続く坂道である事から、上記文献に記録されたのであろう。
・尻引坂
野中地区の北端(尻引)から小姓堂集落に上る坂道を尻引坂という。幕末に作成された北奥路程録(漆戸茂樹)に尻引坂が記録されている他、罕有日記(森一馬)[安政四年(1857)]に記載されている「シヒキ坂」も尻引坂の事であると考えられる。また、東遊奇勝(渋江長伯)[寛政十一年(1799)]の「小性と坂」、奥北地理分見略記(塩隆好)[文化四年(1807)]とクナシリ警固日記(高屋養庵)[文化五年(1808)]に記載されている「小性坂」は、小姓堂集落近くの坂道という意味で、尻引坂の事を指している可能性が考えられる。奥州街道を北上する場合、仁昌寺から野中までは概ね平坦であるが、その平坦な道が2km程続いた後に来る最初の坂道が尻引坂であり、距離は短いが傾斜がやや急なため、平坦な道に慣れた足には堪える坂道であったと考えられる。
・鍋割坂
東案内記[享和二年(1802)]、奥北地理分見略記(塩隆好)[文化四年(1807)]、クナシリ警固日記(高屋養庵)[文化五年(1808)]に記載されている坂道で、位置は不明であるが、尻引坂より北にあったと推定される事から、明治天皇巡幸の際に休憩した日影坂(小姓堂~女鹿口間)あるいは、女鹿口の雷電神社横の坂道等が考えられる。
●名所?
・わらだ松
仙台藩の記録である奥北地理分見略記(塩隆好)[文化四年(1807)]とクナシリ警固日記(高屋養庵)[文化五年(1808)]に記録されている松で、笹目子~高屋敷間にあったと推定される。奥北地理分見略記には「左方ニ藁圃松ト云松アリワラダノ形ニ似タリ」とあり、街道を北上する途中の左手なので、街道の山側にその松があった事が推定される。クナシリ警固日記では「わらだ松といふ名木あり」と記載している。
ワラダをネットで調べてみると、「養蚕に使うワラを円形に編んで作ったお盆のような物の事」、あるいは「ワラ製の円形のせいろ敷き」、「マタギが使うワラを使った円形の猟具」などが「ワラダ」と呼ばれているようだ。これらに共通するのは、「藁を編んで作った円形の形状のもの」である。従って、わらだ松は、円形に湾曲した松の木の事であったと考えられる。仙台藩の記録から約50年後の安政四年(1857)に書かれた罕有日記には「わらだ松」は登場しないが、高屋敷~小繋間に「ワラタマ坂」という坂がある事を記録している。この「ワラタマ」はわらだ松を意味していると推定され、安政四年当時は、わらだ松は失われ、わらだ松のあった付近の坂の地名として「ワラタマ坂」という名称のみが残った可能性がある。
●名物? New
・蕎麦
丸山可澄の「奥羽道記」(奥羽日記)(元禄四年(1691))に、「一戸より 此間蕎麦名物一戸尤好ゝ」とあり、当時は蕎麦が名物だったようだ。
・化石
幸田露伴の小説、突貫紀行に明治二十年(1887)に、福岡から一戸に向かう途中「貝の化石は ~略~ 処々に売る家あり」、「一戸駅と云える標杭にあいぬ。~略~ ふたたび貝石うる家の前に出で」とあり、福岡~一戸周辺では化石が販売されていたようだ。明治四年(1871)の「陸奥紀行」(上原和兵衛)には金田一の茶屋に地元名物の貝石を並べている様子が書かれている。成石修の東徼私筆(安政四年(1857))には「一ノ戸を出て ~略~ 駅、貝類の入りて化したる石を売れり」とある事から、江戸時代から貝化石の販売が行われていたようである。また、複数の旅日記に波打峠(末の松山)の貝化石について記載され、それを土産にする人の様子が、菅江真澄「けふのせば布」(天明五年(1785))や「岩手の山」(天明八年(1788))、高山彦九郎「「北行日記」(寛政二年(1790))、遠山景晋「未曾有後記」(文化二年(1805))等の文献で確認できる。
・縄文土器
田井仲(元陣)の婦登古路日記(懐日記)(文化四年(1807))によると、一戸の宿泊先・大黒屋茂八(金子家)宅で「蝦夷器」を見せられた事が記載されている他、高屋養庵のクナシリ警固日記(文化五年(1808))にも「蝦夷器」が登場する。この「蝦夷器」とは縄文土器の事であるという。婦登古路日記には「蝦夷器ト云素焼ノ器物、形様々、文彫刻色々、考ノ外ノ文様也。何レモ主人甚珍蔵ニテ全キ物は呉ザル故、追テ送リ呉候事強テ約ス」とあり、クナシリ警固日記には「一ノ戸駅に蝦夷器と云有り往古之作物と見得薬をかけざる瀬戸焼と見得当世之道具とハ一円見得不申我々眼前に為取寄見候誠に奇妙之者なり市中商売物に何好事之者調可得者也」とある。「呉候事強テ約ス」とした田井仲は「好事之者」(好事家)なのだろう。
(7) 今日は何の日?
小鳥谷地区年表から小鳥谷地区の奥州街道関係の出来事を抜き出し、グレゴリオ暦の月日順にまとめてみました。
小鳥谷地区の奥州街道「今日は何の日?」 (グレゴリオ暦月日順)
1月
1月4日 明治四年(1872)十一月二十四日 公事師(くじし)の上原和兵衛が貸金取立のため東京から七戸へ向かう途中小鳥谷を通過(陸奥紀行より)
2月
2月21日 寛政五年(1793)正月十一日 最上徳内ら一行、松前から江戸に戻る途中小鳥谷を通過
2月21日 慶応二年(1866)一月七日 鳥越川原田平(一戸町)の栄太他伊勢参り一行小鳥谷を通過(鳥越→小繋)
2月27日 文化五年(1808)二月二日 会津藩兵一行小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)
3月
3月6日 安政四年(1857)二月十一日 佐賀藩士島義勇が藩命により蝦夷地探索に行く途中小鳥谷を通過
3月16日 明和九年(1772)二月十三日 遊行上人(第53代尊如)が沼宮内から福岡へ向かう途中小鳥谷を通過
3月19日 文化五年(1808)二月廿三日 北方地理録筆者小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)
3月24日 安政七年(1860)三月三日 ロシア領事ゴシケーヴィチ一行、小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)。 ちなみに、この日大老・井伊直弼が暗殺される。
3月25日 寛政五年(1793)二月十四日 水戸藩士の北辺探検家木村謙次、水戸藩の内命を受けて蝦夷地の海岸を踏査に向かう途中小鳥谷を通過。
3月25日 文化五年(1808)二月廿九日 仙台藩・高屋養庵小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)クナシリ警固日記より
4月
4月1日 安政三年(1856)二月二十六日 三田花朝尼函館に向かう途中小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)
4月10日 元禄五年(1692)二月二十四日 松前藩の参勤交代一行、江戸から松前に向う途中小鳥谷を通過(沼宮内七ツ時過発、一戸泊)『松前主水廣時日記』より
4月17日 文久四年(1864)三月十二日 江戸詰となった箱館奉行支配調役並の加藤善太郎(知章)が函館から江戸へ向かう途中、小鳥谷を通過(福岡→沼宮内)
4月17日 安政四年(1857)三月二十三日 関宿藩(千葉県)の藩士、成石修が老中で藩主の久世広周の命により蝦夷地・樺太を巡見する途中小鳥谷を通過。(渋民→一戸) New
4月18日 正徳三年(1713)三月二十四日 遊行上人(第49代一法)が盛岡から八戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
4月28日 嘉永五年(1852)三月十日 吉田松陰小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
5月
5月1日 享和元年(1801)三月十九日 蝦夷地御用掛下役、福居芳麿小鳥谷を通過 (沼宮内→一戸)
5月10日 寛政十一年(1799)四月六日 幕府の役人遠山景晋(かげみち)、江戸から蝦夷地に向かう途中小鳥谷を通過
5月13日 嘉永七年(1854)四月十七日 蝦夷地巡検の堀織部一行小鳥谷を通過(沼宮内→一戸)
5月14日 嘉永七年(1854)四月十八日 蝦夷地巡検の堀織部に随行していた豊前出身の横井豊山(忠規)、小鳥谷を通過(沼宮内→三戸)
5月14日 安政四年(1857)四月廿一日 長岡藩士・森一馬(春成)、蝦夷地に向かう途中小鳥谷を通過(沼宮内→福岡)
5月14日 文久元年(1861)四月五日 仙台藩の前沢信濃隊が択捉(エトロフ)島警備に向かう途中小鳥谷を通過
5月15日 元禄四年(1691)四月十八日 水戸藩士 丸山可澄、小鳥谷を通過。
5月15日 寛政十一年(1799)四月十一日 幕府の蝦夷視察団、蝦夷地に向かう途中小鳥谷を通過(渋江長伯、谷元旦他)
5月19日 文化九年(1812)四月九日 毛馬内岩治知行処の肝煎 長治の息子幸之助が、強風で倒れた小姓堂の街道並木の松1本を無断で燃料用に伐採。罪に問われる。
5月20日 安政三年(1856)四月十七日 三田花朝尼函館から江戸に戻る途中小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
5月22日 文政元年(1818)四月十八日 嶽丈央斎一行、蝦夷に向かう途中小鳥谷を通過
5月27日 慶応二年(1866)四月十三日 函館奉行に就任した杉浦梅潭、函館に向かう途中小鳥谷を通過(宮内→一戸)
6月
6月5日 貞享四年(1687)四月廿六日 遊行上人(第43代尊真)沼宮内から一戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
6月22日 文政元年(1818)五月十九日 嶽丈央斎一行、蝦夷からの帰路、小鳥谷を通過
6月26日 寛政十二年(1800)五月五日 伊能忠敬小鳥谷を通過(沼宮内→福岡)
7月
7月22日 明治十一年(1878) 明治天皇巡幸。小鳥谷を通過。
7月26日 文化五年(1808)閏六月四日 八戸(八戸藩)から志和(八戸藩飛地)へ送られた一里状(公文書専用メール便)が小繋の一里所(中継局)から紛失。
8月
8月3日 慶長十七年(1612)七月七日 遊行上人(第三十二代普光)、御堂観音に御詠歌奉納。そのまま北上し小鳥谷を通過か?
8月3日 天明八年(1788)七月二日 菅江真澄(白井秀雄)小鳥谷通過(南から北へ)小鳥谷で昼食をとる(岩手の山)
8月22日 明治十四年(1881) 明治天皇巡幸。小鳥谷を通過
8月30日 文化三年(1806)七月十七日 幕府役人遠山景晋蝦夷からの帰路小鳥谷を通過 (一戸→沼宮内)
8月31日 延享元年(1744)七月廿四日 遊行上人(第51代賦存)が沼宮内から一戸へ向かう途中小鳥谷を通過。
9月
9月3日 寛永十五年(1638)七月七日 遊行上人(第三十五代法爾)、御堂観音に御詠歌奉納。そのまま北上し小鳥谷を通過か?
9月15日 明治二十年(1887) 東京出身の電信技師、幸田成行(後の幸田露伴)が赴任先の北海道から職場放棄し帰京。途中小鳥谷を通過。 ※小説。実話かどうか不明。
9月16日 安永六年(1777)八月十五日 小磯逸子小鳥谷を通過(三戸→沼宮内)
9月21日 寛政十一年(1799)八月廿二日 幕府の役人遠山景晋(かげみち)蝦夷地から江戸に戻る途中小鳥谷を通過
9月23日 寛永十年(1633)八月廿日 巡見使小鳥谷を通過 前日十九日浄法寺に宿泊、廿日は、御物頭は福岡で、下々は一戸で昼食、宿泊は沼宮内。
9月25日? 寛政四年(1792)八月十一日? 遊行上人(第54代 尊祐)、小鳥谷を通過か ?
10月
10月1日 元禄九年(1696)九月六日 松前藩に保護された朝鮮人漂流民一行小鳥谷を通過。
10月8日 天明五年(1785)九月六日 菅江真澄(白井秀雄)、小鳥谷(小沢)に宿泊(けふのせば布)
10月8日 寛政十一年(1799)九月十日 幕府の蝦夷視察団、江戸に戻る途中小鳥谷を通過(渋江長伯、谷元旦他)
10月8日 文化四年(1807)九月七日 白河藩士・田井仲、八戸へ向かう途中小鳥谷を通過 (渋民→一戸)
10月9日 天明五年(1785)九月七日 菅江真澄(白井秀雄)、小鳥谷(小沢)を出立(けふのせば布)
10月13日 万延元年(1860)八月廿九日 南部利綱公、領内巡回で一戸から沼宮内に向かう途中小鳥谷を通過
10月23日 文化二年(1805)九月二日 幕府役人遠山景晋(かげみち)小鳥谷を通過 (沼宮内→一戸)
10月27日 安政四年(1857)九月十日 長岡藩士・森一馬(春成)、蝦夷地から江戸に戻る途中小鳥谷を通過(福岡→沼宮内)
11月
11月2日 文化五年(1808)九月十四日 仙台藩クナシリ勤番の山崎源太左衛門が帰国途中小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
11月15日 寛政十二年(1800)九月廿九日 伊能忠敬小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
12月
12月7日 文化五年(1808)十月廿日 仙台藩・高屋養庵小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)クナシリ警固日記より
12月19日 享和元年(1801)十一月十四日 伊能忠敬小鳥谷を通過(一戸→沼宮内)
[2022-05-22 一里塚写真追加]