戦国時代、小鳥谷には小鳥谷氏が居住していた事は知られているが、それ以外の武士についての記録はない。しかし、江戸時代に小鳥谷に居住していたハイタカの巣探索名人(農民)の名前が武士のような名前である事から、その先祖は九戸の乱等で改易された家の家臣であった可能性が考えられる。戦国末期から江戸時代の情勢から、それぞれの家の歴史を妄想・考察してみます。
妄想対象
・小鳥谷氏
・上里の左京の家(以後、上里氏=現・上里家? )
・臼子屋敷の丹波の家(以後、臼子屋敷氏=現・臼ヶ敷家? )
・朴舘源内の家(以後、朴舘氏=現・朴舘家)
・川底右京・左京の家(以後、川底氏=現・川底家? )
・里川目(二戸市浄法寺町) 屋号こんじゃ家(以後、こんじゃ家)
妄想 スタート()
(1)一戸南部氏滅亡以前(~1580年)
・小鳥谷氏 : 一戸南部氏の家臣か? ※五月館居住
・上里氏 : 小鳥谷氏の家臣か?
・臼子屋敷氏 : 小鳥谷氏の家臣か?
・朴舘氏 : 一戸南部氏の家臣か? ※朴館居住?
・川底氏 : 朴舘氏の家臣か?(地理的に近いため)
・こんじゃ家 : 浄法寺氏家臣野月氏の家臣
戦国時代後期の小鳥谷周辺は、北の一戸南部氏、西側の浄法寺氏、東側は九戸氏に近い姉帯氏に囲まれていた。小鳥谷地区は一戸に近接している事や、経済的な理由から一戸南部氏の勢力圏内であったと推定される。一戸南部氏は一戸産のブランドで馬を出荷していた。一戸産の証は、一戸城で発掘された雀文印の馬印による焼印である。この焼印の有無で馬の価値が大きく変わった事が想定され、小鳥谷地区の武士は自領で育てた馬に、この焼印を押してもらうため、一戸南部氏に従っていたと推定される。
小鳥谷地区の武士団の中では五月館に居住していた小鳥谷氏がリーダー的な存在であったと推定される。上里氏、臼子屋敷氏は五月館の周辺に居住している事から、小鳥谷氏の家臣であった可能性がある。漆沢(二戸市浄法寺町)の墓碑に源内という名が刻まれている朴舘氏は、先祖が朴舘という「館」に居住していたと仮定するならば、小鳥谷氏と並び立つ存在であった可能性があり、その場合、小鳥谷氏の家臣ではなく、一戸南部氏の家臣と考える事ができる。朴舘に地理的に近い位置に住む川底氏も小鳥谷氏ではなく朴舘氏の家臣の可能性が考えられる。
こんじゃ家は、家伝によると、浄法寺氏家臣の野月氏の家臣である。
(2)一戸南部氏滅亡(1581年)
・小鳥谷氏 : 姉帯氏を頼り、九戸方に付く
・上里氏 : 小鳥谷氏に従う
・臼子屋敷氏 : 小鳥谷氏に従う
・朴舘氏 : 姉帯氏を頼り、九戸方に付く
・川底氏 : 朴舘氏に従う
・こんじゃ家 : 浄法寺氏家臣野月氏の家臣
一戸南部氏の滅亡で、浄法寺氏と九戸氏の勢力に挟まれた小鳥谷地区の武士は、どちらかの勢力に加わる道を選んだ事が想定される。大半の武士は、地理的に近い姉帯氏を頼り九戸方に付いた事が想定される。
(3)九戸の乱発生時(1591年)
・小鳥谷氏 : 姉帯氏とともに、参戦 (美濃木沢奇襲に関与か?)
・上里氏 : 九戸方として何らかの関与 (関与小? )
・臼子屋敷氏 : 九戸方として何らかの関与 (関与小? )
・朴舘氏 : 九戸方として何らかの関与 (関与大? )
・川底氏 : 九戸方として何らかの関与 (関与小? )
・こんじゃ家 : 浄法寺氏に従い、三戸南部方として参戦
姉帯氏を頼り九戸方についた小鳥谷地区の武士は、九戸方として九戸の乱に関わった事が容易に想像できる。ただし、姉帯城籠城に加わった小鳥谷氏が、姉帯氏とともに滅亡したのに対し、上里氏、臼子屋敷氏、川底氏などは、帰農し存続した事から、九戸の乱への関与は小さかった事が想定される。朴舘氏も帰農し存続しているが、江戸時代中期まで小鳥谷から離れた漆沢(二戸市浄法寺町)に居住している事から、九戸の乱への関与は、やや大きかった可能性がある。こんじゃ家は、浄法寺氏に従い、三戸南部方として参戦したと推定される。
(4)九戸の乱後(1591年~)
・小鳥谷氏 : 滅亡
・上里氏 : 帰農
・臼子屋敷氏 : 帰農
・朴舘氏 : 逃亡・浄法寺氏を頼る? (漆沢に移住)
・川底氏 : 帰農
・こんじゃ家 : 浄法寺氏が、小鳥谷に新領地を得て(推定)、それに伴い小鳥谷に移住
九戸の乱で、小鳥谷氏が滅亡、上里氏・臼子屋敷氏・川底氏などは帰農したと考えられる。朴舘氏は漆沢(二戸市浄法寺町)に移住(逃亡?)した事から、浄法寺氏を頼った可能性が考えられる。こんじゃ家は、家伝によると里川目に来る前は、小鳥谷に居たとされる。これは、浄法寺氏が九戸の乱後に、小鳥谷に新領地を得て、その管理のため野月氏の家臣であった「こんじゃ家」が小鳥谷に派遣された事を意味するのではないかと考えられる。
(5)浄法寺氏改易(1603年)
・朴舘氏 : 漆沢で帰納
・こんじゃ家 : 里川目に移住(帰還?)。屋号こんじゃ(小鳥谷)となる。
浄法寺氏が改易された事により、浄法寺氏を頼り漆沢に移住(逃亡?)した朴舘氏は帰農した事が推定される。こんじゃ家も小鳥谷の領地が失われたため、里川目に移住した(あるいは帰還した)。
(6)江戸時代初期
・上里氏 : 藩のハイタカの巣探索で活躍。一戸代官所へ粟餅献上
・臼子屋敷氏 : 藩のハイタカの巣探索で活躍。一戸代官所へ粟餅献上
・朴舘氏 : 何らかの方法で蓄財
・川底氏 : 藩のハイタカの巣探索で活躍
雑書に、上里の左京、臼子屋敷の丹波、川底の右京・左京などが藩のハイタカの巣探索のため、盛岡藩領内各地に派遣された事が記載されている。また、上里の左京や臼子屋敷の丹波は藩に対し、毎年粟餅の献上を行っていたようである。詳細は不明であるが、粟餅は一戸代官所に献上した事が想定され、小鳥谷氏が一戸南部氏の家臣であった頃の年中行事がその起源ではないかと考えられる。
朴舘氏は、後に積極的に小鳥谷の山林を購入する事から、江戸時代初期は何らかの方法で蓄財していた事が推定される。
(7) 生類憐みの令(1687)
・上里氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事激減
・臼子屋敷氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事激減
・朴舘氏 : 何らかの方法で蓄財
・川底氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事激減
生類憐みの令により、鷹狩に規制がかかり、ハイタカの需要が大幅に減少した事が想定され、これが小鳥谷地区の人たちのハイタカの巣探索の仕事が無くなる原因となった事が想定される。
(8)江戸時代中期(1700年~)
・上里氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事が無くなり、普通の農家へ
・臼子屋敷氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事が無くなり、普通の農家へ
・朴舘氏 : 小鳥谷地区の山林買取、漆沢から朴舘へ移住。
・川底氏 : 藩のハイタカの巣探索の仕事が無くなり、普通の農家へ
江戸時代中期になると、藩のハイタカの巣探索に小鳥谷の人々が関わらなくなり、上里氏、臼子屋敷氏、川底氏は「普通の農家」となる。朴舘氏は西暦1700年代に積極的に小鳥谷地区の山林を購入し、漆沢から小鳥谷の朴舘に移住する。
End 妄想
[2023/3/14] 生類憐みの令追加