経営/法人哲学
Corporate Philosophy
Corporate Philosophy
ケースメソッドを用いて経営について深く考えていくと、理論や法律を超えた領域が現実の経営に影響を与えていることを実感することになります。KAXでは個人の信条や方法論を説いた経営哲学ではなく、経営もしくは法人について哲学的に考える講義を用意しています。
経営学を突き詰めていくと、いくつかの哲学的な問いに突き当たります。通常のビジネスでは、その領域まで考えることが無くても業績を伸ばし、事業を拡大していくことは可能でしょう。しかし、これらを考えていくことは、経営者の価値観に大きな影響を与え、どのような会社を目指していくべきかというビジョンを描く上でなくてはならないプロセスです。また経営者個人の生きる意味と価値を考える上でも、拠り所となるものと考えています。
例えば「会社は誰のものか?」という問いがありますが、この問いを「会社の所有者は誰か?」に置き換えてみましょう。確かに、自動車の所有者が、運転したり磨いたり、売却したりできるように、株主も(自分の意に沿う人物を指名する、ときには自分自身を指名することで)経営し、企業価値を高め、売却することも可能です。
「会社を所有しているのは株主」=「会社は株主のもの」であり、車を(法の範囲内で)自由にできるのと同じように、オーナー経営者は会社を自由にしてもいいということになるのでしょうか。
企業において経営者にふさわしい者が代表取締役(社長)になることに反対する人は少ないのではないでしょうか。このことは、ある組織の目的に貢献できる人物が、その組織の責任者になる(人の上に立つ)ことが良いこと、または正しいことと考えられていることを示唆しています。確かに、クラブのキャプテンや、生徒会長などはその相応しさが問われますよね。
一方、ファミリービジネスの経営者は「創業家で生まれた」「長子だった」という偶然的な理由で後継者になることがほとんどです(例にもれず講師も創業家の長男です)。
そんな後継者(オーナー経営者)がいわゆる"ぼんくら息子/娘"だったとしたらどうでしょうか?法律的には何の問題もありません。また「それが嫌なら会社を辞めればいい」という意見もあるでしょう。
仮に「会社は株主のもの」=「会社は(大株主である)創業家のもの」であるとすると、創業家が選んだ代表取締役であれば、どのような人物であっても構わないということになります。
一方、会社は「公(おおやけ)」の側面を有しています。従業員、すなわち国民の生活を支え、国に納税し、国の代わりに源泉徴収を行っています。また、事業が存続しているということ自体、何かしら消費者(=国民)のためになるような貢献をおこなっていることの左証とも言えます。例えば、過疎地に一軒しかないスーパーは周辺住民の生活を便利にしています。もし、そのスーパーが採算が合わないという理由で閉店すれば周辺の住民は困ってしまいます。
このように営利目的で一個人が自己資金で創業したとしても、その会社の事業が発展していくにしたがって「公」の色合いを濃くしていくわけです。
ファミリービジネスの中には、何代にも渡って続いてきた会社も少なくありません。地域に根差し、評判や信頼を得ている会社も多いでしょう。そのような会社も株主の自由にしてよいのかどうか、議論の余地があるのではないでしょうか。
もっと深く考えれば、「自由とは何か?」という問いも浮かんできます。相応しさにかかわらず、どんなオーナー経営者も最終的な意思決定は、彼/彼女の自由選択であるとも言え、一概に「自由はダメだ」ということではないように思えます。
そもそも「相応しさ」とは何でしょうか?経営哲学に終わりはありません。
私たちが生きている意味、経営している価値を科学的に分析していっても、答えは出てきません。私たちは細胞で構成されており、その細胞はタンパク質や水など分子でできています。物質でできた有機体(=生物)の機能は遺伝子(=DNA)をより広く後代に繋げていくこと、という説明されるのが一般的です。そこには幸福や生きがいなどは存在しません。私たちが生きる拠り所としている、大切な価値や生きる意味が説明できるとすれば、それは人間から生み出された何かによってです。
漫然と経営している中では気づくことのできない、事業を続けていく使命やその意味、私たちが暗黙のうちに追っている道徳的な責任について考えをめぐらしてみませんか。