コロナ禍の九州・熊本より
岡部造史
金沢大学の文学部史学科西洋史学履修コースを1991年に卒業し、東京都立大学の大学院に進学した後、2010年から九州・熊本の熊本学園大学の西洋史の教員をしております。2022年になって熊本でも新型コロナウイルスのオミクロン株が驚異的な速さで拡大しており、この原稿を書いている1月下旬の時点で、1日の新規陽性者が最高1300人弱という、九州では福岡県に次ぐ規模の感染状況になっています。私の勤務先の大学では今年度部分的に対面授業をおこなっていましたが、この感染急拡大を受けて1月の授業が急きょ遠隔方式に切り替えられ、私の科目で予定していた筆記試験も1週間前に急きょ中止せざるを得なくなりました。この原稿が掲載される頃には状況が好転していることを祈るばかりです。
ご存じのように、熊本は2016年4月に2度の大地震を経験し、その後も熊本豪雨(令和2年7月豪雨)などの災害に見舞われてきました。これらの災害の被害を軽視するわけではありませんが、今回のコロナ禍は、すべての人々の日常生活を長期にわたって一変させているという点で、影響はやはり群を抜いていると思われます。私もコロナ禍以前は、近辺に専門分野(フランス近現代史)に関する研究会などがないこともあり、東京や京都などの学会・研究会に遠出することが多く、夏休みにはフランスを訪れたりもしていたのですが、そうした生活が文字通り一変しました。学会・研究会はすべてオンラインとなり、海外に行くことも難しくなり、日常生活では熊本県外はおろか市外に出ることすらほとんどなくなりました。両親が京都在住で、これまでは京都の研究会に参加する際に帰省(?)していたのですが、それもここ2年ほどできずにおります。考えてみると、コロナ禍以降、熊本市外に出たのはほとんど数回だけという、いわば「市内引きこもり」の状態が続いています。
職場である大学の方も、いまだ「先が見えない」状態です。さすがに遠隔授業には慣れてきましたが、コロナ禍の状況次第で授業形態を変えなければいけないというのが厄介です。たとえば今年度後期のある担当科目では、最初の3回の授業が遠隔で、その後対面に戻ったのですが、1月の感染急拡大で最終回のみ再び遠隔… ということがありました。授業形態が変わるとそのたびに受講者に連絡することになり、また対面授業の際には教室の換気・消毒など感染防止対策の準備や指導もおこなうので、全体として負担が増えていることは否めません。研究に関しても、西洋史の場合、現地での史料収集ができないことは大きな痛手です。フランス史の場合、刊行史料についてはパリにあるフランス国立図書館の複写サービスを通じて電子データなどを入手できますが、非刊行(手稿)史料についてはどうしても現地の文書館に行く必要があります。また熊本の場合、東京や関西圏の大学図書館への史料収集に行く必要もありますが、コロナ禍で県外出張に規制がかかると、それも難しくなります。ICTによって海外の史料・文献へのアクセスがかなり良くなったと言われてきましたが、それもやはり一定の限界があることがコロナ禍で浮き彫りになったように思います。
とはいえ、この2年あまりの間に、コロナ禍での研究や教育の利点に気づく機会もありました。たとえばオンラインでの研究会はいろいろ不自由ではありますが、時間や費用にとらわれずに多くの会に自由に参加できることは、東京や関西などの大都市圏に居住していない人間にとってやはりひとつの利点と思われます(ただ、開催場所に関係なく参加できるようになったことは、長期的には地域ごとの学会・研究会の存在意義を弱める方向に働くかもしれませんが)。またICTに疎く、これまで授業支援システムの利用に消極的(?)であった私にとって、遠隔授業は、そうしたシステムの長所(受講者への連絡やレポート課題の提示や回収の容易さなど)を知る思わぬ機会となりました。おそらく今回の「非常事態」がなければ、気づくのがだいぶ遅くなっていたかと思います。
今回の新型コロナ禍を歴史研究者としてどのように考えるべきかという問題については、すでに多くの議論がなされているように思いますが、私の専門である西洋史研究との関連で言えば、たとえば歴史学研究会編『コロナの時代の歴史学』(績文堂出版、2020年)の中で、コロナ禍によって「包括的なモデルとしての西欧諸国という考え方」が「日本にとって最終的に失墜」し、あらためて西洋史研究のありかたが問われていると述べられています(池田嘉郎「コロナ禍と現代国民国家、日本、それに西洋史研究」85頁)。このことに加えて私個人としては、今後もしばらくコロナ禍によって西洋史研究の実証面での制約が続く場合、研究の問題意識の側面がいっそう強く問われるのではとも思っております。しかしながら当面は、コロナ禍による制約の中で、とにかく今できることをするしかない、というのが個人的な状況です。
最後に、話は変わりますが、熊本では2月1日から「くまもと春の植木市」が開催されます。440年以上続くとされる熊本の早春の風物詩で、今回はまん延防止等重点措置の最中ではありますが、少しでも明るい話題になればいいと思っております。何ともとりとめのない近況報告になってしまいましたが、今後ともどうかよろしくお願いします。(2022年1月31日寄稿)
明るい光に導かれて
池端明日美
「じゃあ、次、滑舌やるよー!」
「はい!」
「せーの!」
「せっせんさせささ、せっせんさせささ・・・」
放課後、午後4時すぎの空き教室。いつものように演劇部の練習の声が反響している。
この7年間、就職先の星稜高等学校において、演劇部の顧問を受け持っている。県大会での優勝はこの7年間で計3回。受け持ち当初は数名しか部員がおらず、優勝どころか県大会にすら出ていない廃部寸前の状況だったことを考えると、我ながら良い戦績だと自画自賛している。今や常時30名以上いる県内で最大規模を誇る大所帯となった。
高校演劇の大会において、キャスト(演者)のみが審査されるわけではない。制限時間60分の戯曲を作り、照明や音響、美術装置作成や幕の操作指示に至るまで全てのスタッフワークを顧問と生徒とでこなす。初年度以来、何となく脚本を書くのが私の役割になり、今や毎年大会にあわせて1本、劇を生徒ともに創作することが、ライフワークになりつつある。
私たちの創作活動は、ちょっとした井戸端会議から始まる。「今年、どんな劇したい?」「好青年役に飽きたので狂気的な役をやってみたい」「最後にセットをぶっ壊したい」「社会問題を問いかけたい」・・・生徒の夢は果てしない。最終的に、それを半ば強引に繋ぎ合わせ、もちろん脚本家である私の願望も入れつつ、台本化していく。自分の中でぼんやりテーマや起承転結が見えてからいつも書き始めるが、描き始めてから約1週間で(ほぼ土日の2日間で)書き上げる。それ以上の時間はかけられない。教員はただでさえ忙しいのだ。
これまでの作品を振り返ると、あまり一貫性がないなと思う。全国の強豪校だと、「必ずミュージカル調の劇をやる」とか「必ず古典劇をやる」など、非常に明確な共通点があるのが一般的だ。私の思いとして、その時々の部員がやりたいものをやるべきで、顧問の色に染める必要がないと思っているので、毎年テイストが違う。ただ、そこはやはり執筆者が一緒なので、少しばかりの共通点はあるようで、最近他校の顧問に言われて気づいたことがある。「星稜の劇は、毎年「愛」がテーマだね」――。並べてみると、確かにその通りである。
2015 「明日という日があるかぎり」
・・・星稜演劇部再興の実話をもとにした物語。部員愛がテーマ
2016 「小さな希望のうた」
・・・病院ものでコメディ要素強め。ちょっとした隣人愛がテーマ
2017 「オデュッセイア〜はるかなる旅路〜」
・・・シリアスもの。本家・オデュッセイアと東日本大震災とを絡めた父子愛の物語
2018 「Our history」
・・・時代もの。星稜高校(稲置学園)創設の物語。師弟愛がテーマ
2019 「またこの空の中で」
・・・女子高校生グライダーパイロットの冒険物語。姉妹愛がテーマ
教員としての職業柄か、文学部出身者としての特質なのか、人間に対する興味が深いのかもしれない。いずれにしても、「そうか、私たちが作っている劇は、いずれも愛を描いているのか・・・そういう作品をみんなで作りたい、みんなに見てもらいたいと思っているのか」と、何となく腑におち、納得したのを覚えている。そして、「温かい気持ちになれました」「感動しました」という感想を聞くたびに、人の心を動かす劇を今後も作りたいという創作意欲にかられた。
そんなライフワークとなっていた活動が、昨年度1年間にわたってストップした。部活動の指導は、「教員=ブラック業態」論者にとって、もっともブラックな側面である。正直、部活動がない日は少しほっとした気分になる時もある。だが、劇団四季や宝塚歌劇などが軒並み休演に追い込まれ、高校演劇も追随するように全ての活動を自粛する中、「そうか・・・演劇は人前で大きな声を出すから不衛生なのか・・・芸術は不要不急な活動ではないのか・・・」と、ぼんやりとした寂しさと、何だか世間に取り残されてしまったような不安感に押しつぶされそうになった。
今年度に入り、8月、ようやく演劇部の県大会が復活した。ただし無観客での開催という条件付き復活である。2年ぶりの県大会、3年生以外は舞台に立ったことのない状態だったが、何よりも私自身が、「果たしてこの状況の中、台本を書くだけの気力があるだろうか。愛のある作品を書けるだろうか」と心配だった。しかも、感染リスクを避けるための工夫も必要となり、「できるだけキャスト同士が接近しないような内容」でかつ「誰かが当日欠けたとしてもカバーしやすいキャスティング」の劇にする必要があった。
いつも以上に執筆に時間がかかったが、何とかできたのが、
2021 「神様の放送室」
・・・感染症が蔓延する世の中、学校の放送室を舞台に「放送への政治介入」を風刺した物語。先輩と後輩の愛がテーマである。
8月、無観客の野々市文化会館フォルテ。わずか3名の審査員が見守る中、ダンスあり、サックスの生演奏あり、回転するセットありの、政治風刺の効いた古代ギリシア風コロス現代劇は、無事上演を終えられた。2年ぶりの県大会でやるにしては極めて挑戦的な内容の演劇であったと思う。結果として優勝をすることができたが、そんなことより何より、無観客であったにもかかわらず、「この劇のテーマを伝えたい」「このセリフを届けたい」という思いのこもった部員たちの熱演に、脚本を書いた私自身が心を鷲掴みにされ震わされた。相手に届けたいという思いの純粋さ、それを一心不乱にやることの崇高さの一端に触れた心地だった。
県大会で優勝すると、中部大会(ブロック大会)への出場が決まる。12月27日、大雪の中、名古屋市公会堂に向かい、再び審査員しかいない静かな客席に向かって上演を行った。相変わらずの無観客芝居。それでも部員たちは満足そうで、終始、楽しかった!と口々に言い合っていた。高校生はタフである。
ところで、中部大会で上位2位までに入ると、全国大会に出場できる。だが中部ブロックには演劇大国・愛知県及び岐阜県が組み込まれており、石川県勢は全く歯が立たない状況が続いているため、この時、私も部員たちも、実は勝つことを全く想定していなかった。なので金沢に帰ってきた翌日にオンラインの閉会式及び審査結果発表があったのだが、「結果はメールするね」と言い、セットを星稜に搬入したのち部員を帰してしまった。誰もおらず冷え切った年末の職員室で、たった一人で第2位となったことを知り、そして石川県勢として35年ぶりの全国大会出場が決まったことを知り、私は初めて職員室で泣いた。
「何が不衛生だ。劇は紀元前から続いてきた必要不可欠な活動だわ!」
それは世間に対して狼煙を上げたような痛快さだった。
「次、体幹トレーニングやるよ。って、ちゃんと見えるようにタブレット置いてよね」
「先生、無理です。部屋狭いんで全身写らないっすよ」
「あらそう。じゃあしょうがないわね。せめて足の部分だけ写しておいて。苦しんでる顔を見せつけないで」
「先生、ひどすぎる・・・笑」
放課後、午後4時すぎの空き教室。いつものように演劇部の練習の声が反響している。
そこには私しかいない。
タブレットの向こう、画面越しに生徒たちの自室が映っている。
感染状況はいまだ悪く、中部大会以降まだ一度も全員で集まって練習できていない。
授業もオンライン形式で何とか継続している。
「なら部活動もオンラインでできますね!」
高校生はタフで前向きだ。
その明るい光に導かれ、有観客の希望をまだ捨てていない3月の全国大会に向けて、演劇の灯を消してはいけないという謎の使命感を持って、「新しくて新しくない日常」を過ごしている。(2022年2月1日寄稿)
コロナ禍の初期と回想
橋本治
コロナ禍のひどい時期を脱したかのような昨今だが、逆にドン底の頃が思い出される。命綱の図書館の休館が続き、そこに寄生している(?)身は大損害を被る。まるで手も足も出ない。一方スーパーは客が減っても開店しているのに。聊かやり過ぎではないのかな。やっと開館しても、予約だの一時間で退館をと求められ貸しボートのような慌ただしさよ。椅子も減って立ち読みしかない。意を決して半日居座ったが放逐はされず。各図書館の厳格さに却ってコロナ禍の恐怖が倍加した。金沢は密だと言われ、出かけるのも止められ潜行するしかなく図書館へ通うのも命がけだとか。ああ、今日も無事だったなあ。その一方で今も尚外部者の利用を制限する、つまり利用不可、の図書館があり残念に思う。
目先のテーマや手持ちの本を読むのにも飽きて、ふと思った事が二つある。若い頃にやっていたが長期間休止しているあれを再開しようか、コロナ禍の影響がないネットで閲覧できる文献の画像やテキストを活用しようかなと。隘路を前にするといろいろと知恵が湧いてくる。一時のつもりで始めたのが思わぬ展開となった顛末の一斑を記そう。
学生の頃、ある年の春に若い二人の東洋史の先生方が着任され演習が始まり、正規とモグリで二つを履修する。一つは『大唐西域記』講読で訳経僧への関心から参加した。暫くして先生は予習の質を確かめられ使った辞書を問われた。某君が何々と答えると、言下に「そんなんじゃ駄目だ。」と叱責され、一同は奮え上がった。何かと「モロハシでは…。」と仰るので、その辞書一揃いを身近に置くべく、高価なのは無理なのでふと閃いて古書店三軒の端本で揃えた。版もサイズも異なる珍妙な物。図書館のは利用者が多く自在に使えず、バイトに忙しい身ではやむを得なかった。三畳間では本棚の前を占め布団を敷くのにも困ったが恩恵は大きかった。これも今ではデジタル版が出たとか。笑うばかり。お陰で御下問にも答えられた。しかし、後で先輩から語釈・用例語彙に得意・不得意分野があると聞き慌てた。昨今のネットでは漢文語彙についての調査がし易く、往時と全然違う環境なのは衝撃的だ。あの辞書の用例より拡張できる。が、一方で困難を伴う。
演習は慣れるに従って色々な参考文献を調べ入手した。『西突厥史料』『西域地名』『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』などで、その後も演習と別な関心が生じて今日に及んでいる。唐代の西域経営についての引用史料が東方との関わりで興味を引き、後には『渤海国志長編』総略や東アジア古代の史料の読解へと進む。中でも『冊府元亀』からの引用が目立つので、調べるとデジタル版で明版(清代の翻刻か)の画像と四庫全書本の画像と翻字が公開されているのを知った。デジタルテキストは自在に検索できるのが良い。
後に二つの演習のから発展して中国正史へ接近したのは奇縁だが、やがて休止してしまった。しかし、近年はそれらの抄録の塊でもある『冊府元亀』との出会いで復活した。感心した『通典』『文献通考』の斜め読み以来だ。日本と違い、こういう通時的な大型の類書他が継続して編纂されたことのへの驚きは大きい。過去と当代の政治・制度への関心の違いだろうか。
ところで、デジタルリソースは利用するのに便利だが、パソコンの電源を落とすと消えてしまうように儚いのが難点だ。そんなもの印刷すればよいのにと言う仁がいるが、量が凄いので憶してしまう。なるだけペーパーレスでいきたいものだ。剳記は別に作ろうか。小字なので悩んだが、幸運にも古書で金沢出物の明版縮印四冊本を入手できた。大改編されたのを元のと対照する作業を進めている。開けばいつでも目の前にあるのは良いものだ。時々印刷不良で読めない箇所があるのには困ったが、デジタル版等を頼って書込をしてはやり過ごす。遅々たる歩みだが、時に日本古代史料で見かける語彙と出会う。
『西突厥史料』については、E.シャバンヌ著フランス語原書を馮承鈞が漢訳したものと知れるが、編成上奇妙な点があるのを感じ半世紀を経ていた。訳書によくある書誌に丁寧な言及はなく、訳者が原著の誤りを如何によく訂したかを記すばかり。今までこれに目を向ける余裕がなかった。が、コロナ禍という隘路を生かして、欧文に閉口しながらも調査を進めると、この原拠は初編と続編とをただ順に排列合編したものだと分かった。しかも初編(表紙他のロシア語部分は代替)と続編の合編版の画像・翻字が共にデジタル化されている。更に戦前の漢訳の出版は戦後の合編版よりも早いのに驚いた。既に訳者はこういう事をやってのけていたのだ。フランスに留学し語学に堪能、この地の東洋学に通じていたというその生涯が偲ばれた。東洋史を学ぶ上でヨーロッパ東洋学への関心・親近感は以前からあったし、洋書目録法演習での遠い記憶が役にたった。
昔の記憶から、つい突厥史料集成書に目が向くが歳のせいか細部についてはすぐに忘れてしまう。広く浅く時に深くは狭く深くの仁から非難されたが身に合っている。
これらの先生方は、今は共に亡い。間近くはコロナ禍の最中に。君でさえ七十(歳)を越えたのだからなと知人は言う。今は皆様の温顔を想い頭を垂れるのみ。仰げば尊し。
この他にも収穫があったが、コロナ禍でなかったならば決して出会えず到達できなかっただろうと考えると、何やら複雑な思いがする。近時は無理をせず入手し難い論文・著書は諦め、専らコピーや入手できたのと史料集成物を読む事が多い。
デジタル化は論文にも及んでおり、各機関のリポジトリを通して無料なのがネットでかなり読めるのも大きな恩恵となっている。更には、これと付随して文献目録や検索ツールの進化も著しく、この企画二報目の某研究会大会でのやりとりの回想で書かれなかった部分が気になったので調べてみた。すると物の数分で、質問に立ち往生したとある発表者のご尊名・経歴・業績等について分かってしまう凄さを体験した。某国立大学教授を歴任されたとある、その後の発表者の奮励ぶりを知りホッとした。これでは発表者は浮かばれないなあとの読後感よりのリアクション。尚、同執筆者への敬意により子細は記さない。
道草と彷徨はまだ続く。肝心の論文は目下熟成中、史料翻録は進行中。独自な媒体で何れお目にかけたいものだ。
youtubeでマルタが歌うhei jude(チェコ版!)を聴く。圧政への抵抗歌はウクライナ侵攻でも登場するだろうか。昨今の、とても悲しい報道はプラハの春への軍事介入と、〇洲の野で避難民に襲いかかる△国の戦車の群れとついダブってしまう。歴史はくり返すという。前には----、次には----。(2022年3月31日寄稿)
コロナ禍の下での学術交流-オンラインに向くこと・向かないこと―
古畑徹
中国で新型コロナウィルス感染症(covid-19)がまん延し始めた2019年12月、私は2回にわたって中国に渡航していた。1度目は12月初旬のオファーを受けての浙江大学訪問と講演、2度目は年末の南開大学でのワークショップへの参加・報告である。2018年のサバティカル以来、中国の研究者との往来が急速に増えていたが、その頂点のような状況がこの時であった。3月には延辺大学等から研究者が来日して金沢で「高句麗・渤海史に関する日中研究者会議」(2020年度日本学術振興会「二国間交流事業」)を開催する予定であったこともあり、私の定年までの4年間は、国際的な学術交流中心の研究生活が送れるのではないかといった、少しわくわくした予感があった。
年明け1月からの、covid-19の世界規模での急速拡大は、そんな私の予感をあっという間に吹き飛ばしてしまった。3月開催予定の「日中研究者会議」は一旦延期、そして結局は中止となった。4月には科研費基盤研究(B)採択の朗報があったが、そこで私たちが予定していた海外調査はことごとく実施できなくなった。おまけに、私は国際学類長に選ばれ、人間社会学域研究域の副域長も断り切れずに引き受けた。任期スタート直後の1か月は超多忙でほとんど記憶がない。その後もコロナに加えて、入試改革・組織改革・カリキュラム改革・人事等々でオーバーワーク状態の連続となったが、これについて書き出すと切りがないので、ここまでにしておく。
学術交流に話を戻す。コロナ禍により国や地域を超えた人の往来は大きく制限されることになり、海外だけでなく、国内でも実地調査や他機関での研修が難しくなった。そんな中でとりわけ目立ったのが、2020年前半における国内外の多くの学会・シンポの延期や中止だったと思う。私たちの「日中研究者会議」の延期もその一つである。ところが後半になると、様相は一変する。それがオンラインによる国内外の学会・シンポの実施である。コロナ禍に対応して全国の大学で導入された遠隔授業やオンライン会議が、多くの研究者にzoomやwebex等を普及させ、それによって可能になったことでもある。私自身も、学類で購入したzoom educationライセンスの「オーナー」になり、約40のライセンスを管理している。2年前までは夢にも思わなかったことである。
そして2021年になるとオンラインの学会・シンポは普通になり、昨年の北陸史学会のように会場でもオンラインでも参加できるハイブリッド型の学会も開かれるようになった。おそらくこれからはこの形が主流になるように思う。この形でありがたいのは、同じ日に2つの学会・シンポが重なっても、どちらにも出席でき、時間さえ重ならなければ、異なる場所の報告をともに聞けることである。既にそんなことを2回ほど行った。おかげで、超多忙ななかでも学会・シンポ等の参加回数は増え、思わぬ刺激も随分もらった。オンライン上での質疑応答も、会ごとに出来不出来はあるものの、十分に行い得ることもわかった。回数を重ねるうちに慣れてきたためか、最近では質疑応答・総合討論がうまくいかなかったという会にはほとんど出会わなくなった。報告を中心に議論をし、問題を深めるという点では、従来の人々が集まる学会・シンポと遜色がなくなりつつあるように思う。
しかし、オンラインでできることはそこまでのような気がする。対面の学会・シンポが持っている最も重要な機能は、それを介して新たな人間関係が生まれる点にあると思う。報告に対して手を挙げて質問をし、休憩時間に名刺交換をして知り合いになり、さらに突っ込んだ意見交換をし、新たなことに気が付く。あるいは懇親会で偶然近くになり、あるいはある人に紹介されて知り合いになり、気になっていたある問題を質問し、そこから話が展開して、新しい研究のヒントが得られる。そんな「化学反応」(金大の和田新学長がよくいう「雑談の力」と近い)が、オンライン学会・シンポでは起こりにくい。よく観察してみると、オンラインの質疑応答・総合討論で話が深まっているのは、旧知の間柄の人たちのやりとりがほとんどである。そんなふうに見てくると、ポストコロナ時代において、対面による学会・シンポは必ず復活するし、その意義は改めて見直されるように思うのである。
先にも触れたが、ポストコロナ時代の学会・シンポの主流は、おそらく会場とオンラインを併用するハイブリッド型(最近はハイフレックスともいうが)だと思う。特に国際学会・シンポにおいては、オンラインの威力は明瞭なので、この形が好まれるように思う。しかし一方で、オンラインに向かない国際シンポというのもある。政治問題に関わる場合である。研究者が学会に来てその場で話すのと比べ、オンライン上のやりとりは傍受される可能性が極めて高い。そしてその分、迂闊なやりとりができない。冒頭で述べた「高句麗・渤海史に関する日中研究者会議」について、延期後にオンライン開催を選ばず、中止を選んだのは、そんな理由によるのである。
最後に、「日中研究者会議」の顛末を記して、この雑駁な小稿を閉じたい。「日中研究者会議」は開催予定1か月前まで準備していたため、先にコロナがまん延した中国側の原稿は届かなかったが、日本側報告者の原稿は集まっていた。中止に当たって、これをどうするかが問題となった。結論をいうと、日本側原稿に、会議の開催に関係する中国との学術交流での報告論稿を加え、1冊の本として刊行した。それが、拙編『高句麗・渤海史の射程―古代東北アジア史研究の新動向―』(汲古書院、2022)である。「日中研究者会議」の諸報告はもともと出版予定だったが、中国との学術交流のなかで書いた論稿の日本での公表予定はなかった。それが突然公表となったのだから、コロナ禍の思わぬ「副産物」とでもいえようか。(2022年4月5日寄稿)