西野正次(元北陸史学会副会長)
ウィルス流行に負けぬ・日中友好の絆
天安門事件に抗議して1989年から3年間、訪中を中止して以来、約30年ぶりで今年は訪中を中止した。2020年2月10日、僕は日本在住の3名を含む、20数名の中国の友人たちに「コロナ流行であなたと家族や友人たちは御元気ですか」という見舞いと「来年は金沢・蘇州姉妹都市締結40周年なので記念誌を発刊する、あなたにも原稿を依頼する」という内容の鄭重なメールを送った。それに対する返信を紙面の都合で挨拶や個人的なものは省略し、先着順にコロナの状況を伝える本文だけ紹介する。日付と氏名を先頭に移動し、略歴と勤務先は僕が付加した。
2/10 魏敏(男)蘇州の確定患者は77人です。幸いに今まで蘇州大学には確定患者や感染が疑われる患者が一人もいませんし、教職員や学生たちが2月23日までに原則入校禁止やオンライン授業を実施などの対策をしております(元金沢市国際交流員、蘇州大学勤務)。
2/10 秦兆雄(男)小生は武漢の近くの出身です。現段階では、神戸にいる小生も、実家にいる親戚や友人なども大丈夫です(1981年金大入学→東大大学院卒、神戸外大教授)。
2/11 王冬冬(女)情況は非常に厳しいです。でも難関を克服します。日本人の中国の病疫に対する大きな援助に感謝しています(元金大学友会会長、考古学、北京科技大勤務 )。
2/12 趙麗媛(女)全国の自治体は武漢市の湖北省に医療支援隊を派遣し、患者の治療を支援しています。今日まで蘇州の確定感染者は80人に上りました。この困難の時、金沢市がマスクを1万枚蘇州市に寄贈していただき…(元金沢市国際交流員、蘇州市外事弁公室勤務)。
2/12 朴英実(女)延辺はいま新型コロナウィルス肺炎患者は5名、みんな緊張して感染予防に全力を尽くしています(元金大学友会会長、吉林省延辺医科大学勤務・医師)。
2/14 王希亮(男)ハルピンの場合には何百人の感染者が出ていたそうですが、小生などを含める市民たちは、今までも、出かけないように要求されるので、家の周辺にて生活品だけを買いにしかいきませんでした(元金沢大学客員教授、現代史、元社会科学院教授)。
2/18 樊文琼(女)ただ毎日閉じこもり状態です。学校の開校時間はまだわからないで、3月以降になると思います。旦那は先週在宅勤務でしたが、今日から出勤に行きました。今度の新型肺炎は本当にひどく、この数日、日本の感染者数も急増して、本当に申し訳ございません(元金沢市国際交流員、金沢サポーターズクラブ会長、蘇州農業職業技術学院勤務)。
2/26 高彬芳(女)SARSの時期は日本へ留学中で体験しなかったが、今回は、ビル、住宅地など入る度、体温が計られ、外出には必ずマスク着用が義務付けられ、そのためマスク、消毒液とか保護用品の購入ができず、特にマスクは政府よりコントロールし、個人住宅から予約→購入と言うルートになっており…(元北陸大→静岡県立大卒、上海在住会社員)。
河北省邢台の劉江林(男、金大工・院卒)、昆明の江明珊(女、北陸先端大学院大卒)以下は割愛する。4/17、蘇州の樊文琼より「石川県は感染者が140人にもなり、新型肺炎ウィルスで9人が死亡した」ので、友人たちに募金を呼びかけ「金沢市日中へマスクを2千枚送った」と連絡が入った。5月の連休後に届き、そのまま市役所へ「必要な病院や施設で使って欲しい」と寄贈した。6/5、金沢市長から蘇州の友人たちと金沢市日中あてに感謝状が授与され、式典に参列した。コロナウィルスの流行に負けぬ日中友好の絆に深く感謝している。また趙麗媛、王希亮、朴英実、劉江林より、早々に記念誌の原稿が届いたことにも感謝している。
北陸史学会余談 若き日の回想
1955年春、僕は金沢大学法文学部へ入学し、1956年秋、13名の友人と史学科へ進級した。当時、史学科には日・西・東・地理の4研究室があり、僕は東洋史へ入った。史学科には9名の教授・助教授と2名の助手がいた。11月末の日曜日に北陸史学会の発表会と総会があり、僕ら史学科の新入生は、ほぼ全員が参加した。だから僕の同級生は大学2年生の時から、皆、北陸史学会の会員だった。1959年3月、僕は大学を卒業し史学科の助手に就職した。その時、東洋史の増井経夫先生は「助手の任期は2年だけ、君の卒論を法文学部紀要に掲載するから、短縮し書き直すように、また、前助手の後を継いで北陸史学会の幹事の仕事をするように」と言われた。僕の助手生活は1年未満で金沢高校から来て欲しいと頼まれ、教授の許可を得て転職した。1961年秋、恩師慶松光雄先生から手紙が届いた。「来月11/3に京都大学で『東洋史研究』の学会があり、君が研究した糧長の発表もある。参加してみたらどうか」という内容だった。「明代江南の糧長について」という発表は、後に有名国立大学の教授になる若き日のA氏だった。学会の研究発表では発表後、質疑の時間がある。その質疑で北海道大のB教授の質問にA氏は答えられず立ち往生した。僕は挙手して、出身・名前を告げ、質疑に答えた。
さらに別の質問にもA氏は答えられず、また僕が答えた。結果として、僕はA氏の助っ人の役割を果たした。学会の後で立食だが懇親会があり、僕は友人もいないので帰ろうかと思ったら、後に名古屋大学の教授になる若き日の森正夫氏が近づいて来て「私のテーブルでA氏や仲間が待っていますから、良かったら来ませんか」と誘ってくれた。
皆、まだ若い大学院生か助手時代の、後に国立大学の教授になる寺田隆信氏や谷口規矩雄氏らだった。彼らはいずれも明清時代の研究者仲間だった。A氏は「勉強不足で…」と頭をかいていたが、仲間たちは「君はよく勉強している。助けて貰ってありがとう」と口々に自分が助けて貰ったように感謝した。ビールを飲みながら、話は弾んだ。誘ってくれた森氏は、1年前に僕が金沢大学法文学部紀要に発表した糧長に関する処女論文を読んでいた。僕には同年代の研究仲間がいることが羨ましかった。僕は安月給では生活が出来ず、金沢で自炊しながら、家庭教師をして、やっと往復とも鈍行の夜行列車で京都へ来たが「来て良かった」と感じた。
立食の懇親会が終わりに近づいた頃、富山大学の佐口透先生が「西野君、お茶を飲みに行こう」と誘いに来た。北陸史学会では何度も顔を合わせているが、個人的には話をしたことがない西域史・シルクロード史の研究者である。佐口先生は、後に金沢大学の教授、北陸史学会の会長になる。僕は佐口先生の参加に気づかなかったし、声をかけられてとても嬉しかった。
佐口先生から京都大学の羽田明先生を紹介され、3人でコーヒーを飲みに行った。羽田先生とは初対面だったが、父親は西域史の研究で有名な京都大学の羽田亨名誉教授である。
佐口・羽田両先生からも「君の発言は筋が通っていて、分かりやすかった」と褒められた。
僕は嬉しかった。だが、浮かれた気持ちはなかった。学校の給与だけでは生活できず、家庭教師で不足分を補っている環境を改善しなければ、そのためには学校に組合を作り、給与を改善し、教育や研究に打ち込める環境を作り出さなければと、僕は金沢高校へ勤めはじめて間もなく行動を開始していた。帰りの夜行列車の固い座席で眠れぬままに考えていた。その40日後、僕は金沢高等学校労働組合を結成し、県高校教職員組合が加盟している県評に加盟した。
若き日々の僕は賃上げ闘争、教育条件の改善、クラス定員を60名から公立高校並みの45名を達成するまでに、約10年の歳月を要した。仲間の教師の意識改革が一番困難だった。
1970年春、僕は中央アジアのシルクロードを旅した。タシケント・サマルカンド・ブハラ等である。1972年に中国と国交が回復し、日中友好協会会員は訪中できたので入会し、文化大革命末期の1976年以来、毎年訪中した。この1970年代から僕の軸足は、ようやく歴史へ戻った。
「明の海商王直」の発表など数回、北陸史学会で発表したが、論文は失礼ながら金沢高校の紀要に発表した。34歳で教務主任になった僕は教師と生徒の質の向上を目指し努力していた。仲間の教師に最低、教科やクラス運営の成功や失敗の実践記録を執筆して貰い、僕も実践記録を執筆する一方で紀要の品格を高めるために論文を掲載した。五学会連合でもよく発表した。 学校関係の諸研究会、県社会科教育研究会、私学教育研究会、中部地区私学教育研究会は、文部省管轄の教研だが、同時に日教組関係の全私研でも、また、公私立の有志の世界史研究会でも何度も発表をした。その発表や訪中の記録を例えば「中国における教育革命」「歴史紀行泰山登高記」「歴史紀行 洛陽・西安の旅」等を、僕は金沢高校の研究紀要に毎年執筆した。1978年には県教委から依頼されて『石川県教育史』第3巻の「私学の部」を執筆した。1979年には校長から頼まれ『金沢高等学校五〇年史』を仲間の教師の協力を得て執筆・刊行した。
1980年、元金沢市長の徳田与吉郎を団長とするシルクロード訪中団でウルムチ・トルファン・石河子など中国領のシルクロードを旅した。MROの撮影スタッフが同行した。NHKがテレビで、シルクロードの放映をしたのは2年後のことである。シルクロードの旅の後、徳田団長から「先生、中日新聞からの依頼なので何か書いてよ」と頼まれ「天山のふもとで」と題して、「ウルムチの子供たち」「砂漠の情景あれこれ」「ブドウの街トルファン」を連載した。北陸史学会の元会長の恩師に頼まれて、スライドを使って金沢大学の大教室で講演もした。
翌1981年、中部地区私学教研集会が静岡県の日本大学三島校舎で開催され、僕は「近現代のシルクロード」と言う題で研究発表を行った。僕は県内各地や中部地区の各都市で10数回の研究発表を行ったが、校長が参加したのは、この時だけだった。当時は南俊郎校長時代で、仲間の教師と一緒に開会式から参加した。記念講演は日大三島校舎の蔵並省自学長が行った。東京の日大本部には総長がおり、地方校舎には学長がいる。それがマンモス大学日本大学の組織である。記念講演が終わり、僕らが席を立とうとした時、壇上から直接、蔵並省自学長が左前方に座っていた僕らの席へやって来て「西野先生!」と声をかけた。北陸史学会でよく会っている加賀藩の研究者で天保改革や海保青陵の研究者である。僕の禿げた頭を壇上から見つけたのだろうが、僕は「三島で午後発表予定です」と挨拶し立ち話をした。驚いたのは南校長だった。「どうして学長を知っているのか」と質問された。返事の全ては北陸史学会である。
北陸史学会の総会・発表会の会場は、初めは金沢城大手門に近い金沢大学法文学部の旧木造兵舎のオンボロ校舎だったが、1963年から二の丸広場の法文学部新校舎20番教室に替わった。1989年に城内の全学部が角間へ移転して、会場は歴史博物館学習ホールへ替わる。2014年には現在の西町の金沢大学サテライトプラザへ移った。ステイ・ホームで、僕は若き日の回想を執筆した。雑誌『北陸史学』で記録に残るのは約10編の書評だけである。了
パンデミックと国際秩序の変容
永田伸吾(金沢大学人間社会研究域法学系客員研究員)
筆者は大学院博士課程以来、1970年代後期米国の東南アジア政策について外交史的アプローチから研究をしている。2019年の第61回北陸史学会大会では、その一端を報告した。他方で、在京研究コミュニティとの関係から、国際政治の現状分析にも従事している。そこで、新型コロナ・パンデミックと国際政治の現状分析を関連づけながら、筆者の近況を報告する。
歴史的にみて、感染症は国際秩序の変容に大きな影響を与えてきた。例えば、約100年前に世界で猖獗を極めたスペイン風邪は、第一次世界大戦の終結を促すことで、ヴェルサイユ体制という新たな国際秩序を生み出す一因となった。
しかし、理想を追求するあまり国際政治の厳しい現実を軽視したヴェルサイユ体制は、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができず約20年の短命に終わった。そこで、米英両国は、大戦中からより現実に基づいた戦後国際秩序を構想した。そのような米英主導の戦後国際秩序は、米ソ冷戦の終焉に伴い、「自由と民主主義」や「法の支配」などの価値に基づく道義的正統性と普遍性を獲得したかにみえた。しかし、この現行国際秩序は、近年の中国の現状変更の試みと、それに伴う米中冷戦の激化により黄昏を迎えつつあるかにみえる。
他方で、米中冷戦は、国際政治学者の間では、古代ギリシアのアテナイとスパルタの覇権戦争であるペロポネソス戦争との歴史のアナロジーから考察される傾向にある。ペロポネソス戦争では、疫病の流行がアテナイの力を削いだことが、後年のスパルタの勝利の遠因となった。そして、武漢に端を発した新型コロナ・パンデミックは、米中冷戦に拍車をかけることで、現行国際秩序の変容に大きな影響を与えている。
ここで、「コロナ禍の下での近況報告」に話を移すと、筆者は2020年の春から夏にかけて、1971年の「スエズ以東からの撤退」以来とされる、近年の英国の「アジア回帰」政策についての現状分析を行った。英国の「アジア回帰」政策については、安全保障・経済面での日英関係強化に伴い関連報道が増えていることからご存じの方も多いと思われる。しかし、それら報道の多くは、ブレグジット後の対外構想である「グローバル・ブリテン」の文脈で捉えるなど近視眼的であり、政策の背景を掘り下げたものではない。これに対して筆者は、歴史的視点を取り入れつつ、各種政策文書や指導者の言説を分析することで、英国の「アジア回帰」政策は、英国の国際秩序観(現行国際秩序の維持)に基づく長期的な政策であり、米中冷戦の先鋭化を受け、コロナ禍においても着実に進められていることを論証した。
その成果は、論文「英国の国際秩序観とそのアジア太平洋戦略」(査読有)として、台湾国立政治大学国際関係研究センター発行の『問題と研究』49巻3号(2020年7・8・9月)に掲載された。同誌は、アジア太平洋研究専門誌であると同時に台湾で発行される唯一の日本語学術雑誌である。そして周知のように、台湾は新型コロナの感染制御に成功する一方で、米中冷戦という国際秩序をめぐる戦いの地政学的最前線と化している。新型コロナ・パンデミックが米中冷戦に拍車をかける中で、奇しくも国際秩序をテーマにした拙論が台湾の学術雑誌に掲載されたことは、国際政治学者として率直に感慨深いものがある。
もっとも、上記拙論は国際政治の現状分析であることから、早晩修正を要する部分がでてくることは避けられない。それでも、拙論が一人でも多くの読者を獲得することで現行国際秩序の変容をめぐる学術的・政策的な議論を喚起するものになれば幸いである。