感染症と研究者のネットワーク
本康宏史
コロナ禍の下、このエッセイを脱稿した時点で第5波は収まってきたが、冬場にかけてまだまだ感染状況は予断を許さない。この間、本会会員の多くが関わる学術・教育の現場でも一気にオンライン化が進み、学会や研究会、日々の授業も遠隔での開催・実施が席捲しつつある。長くアナログに浸りきっていた筆者などには、まさしく「右往左往」「四苦八苦」の連続で、ITCスキルの習得に追われる毎日である。
さて、そのような感染禍の夏休みの後半、何とか、恒例の3年次専門ゼミの合宿を福井県内にて決行することができた。実は、この研修も当初は下呂温泉で宿泊し、飛騨高山の町並みを見学する計画だったのだが、直前に岐阜県下にも「緊急事態宣言」が発出され、急遽変更せざるを得なくなってしまったのである。結局、研修地は一乗谷の朝倉氏遺跡、福井市歴史博物館(養浩館庭園)、そして越前大野の旧城下町となった。
このうち大野は、近年「天空の城」越前大野城が人気スポットで、観光地としても注目されているが、蘭学・洋学史研究者にとっては北陸の蘭学拠点の一つとして知られる。幕末の藩主土井利忠は「蘭癖大名」の典型とされ、安政3年に洋学館(蘭学館)を設置。緒方洪庵門下の伊藤慎蔵を招聘し翻訳教授にあたらせている。藩校での洋書翻訳本の出版や内陸藩でありながら洋式帆船「大野丸」を建造したほどである。
今回、越前大野の地域史を説明すべく、大野市歴史博物館を見学。博物館学芸員として、数十年前、特別展で借用した洋書や地球儀が展示してあり、実に懐かしかった。その際、特別展「科学技術の19世紀」でも紹介した越前の種痘伝播の経路がパネルに示されており、現下の感染状況や医学者・科学者の奮闘を髣髴とさせ、ある種の感慨を抱かずにはおられなかった。
というのも、金沢への種痘の伝播は、蘭学医・黒川良安の使者、明石昭斉による伝苗(人痘法)によるもので、この伝播ルートの開拓者が、越前の町医・笠原良策白翁だったのである。白翁の伝苗記録『戦競録』によれば、嘉永2年(1849)11月に福井にもたらされた種痘は、その後、武生、鯖江、敦賀、大野から、金沢、富山に分苗され、さらに江戸、そして良安の友人佐久間象山によって信州松代藩にまで伝播される。ちなみに、白翁は江戸の医師磯野公道について古医方を修め、福井で開業しているが、西洋医学の優秀さを学んだのは、加賀江沼郡山中の蘭医大武了玄からであったという。なお、黒川良安は越中新川郡の町医者出身、長崎留学を経て加賀藩を代表する蘭学医となり、種痘所頭取、卯辰山養生所主附、金沢藩医学館主任などの重職を歴任している。その系譜を引く金沢大学医学部(医学類)の創設者と言ってもよい。
こうした蘭学や洋学の実態に関しては、洋学史学会が総力をあげて編纂した『洋学史研究事典』(思文閣出版)がこの10月中に上梓される。筆者も北陸関連の数項目を担当させてもらったが、ちょうど最終稿のチェックをこの夏にかけて行い、それもあって、研究者のネットワークに改めて思いを致したしだいである。なお、天然痘と闘った笠原良策の生涯と、幼児に植え付けた種苗を命がけで繋いでいく「種痘伝播」の(まさにアナログな)ネットワークを描いた佳作、吉村昭著『雪の花』(新潮文庫)の一読もお薦めしたい。(2021年10月13日寄稿)
コロナ禍での金沢大学考古学研究室 ―オンライン研究発表の確立―
足立拓朗
2020年初頭にコロナ禍という現象が徐々に認識されて以来、瞬く間に日々が過ぎてしまい、そろそろ2021年も終わりに近づいている。本報告では、金沢大学の考古学研究室で私が主に運営している研究会、シンポジウムについて記させていただく機会を得た。研究室にとっても大きな変革の時期だったと考えられ、本報告が数十年後に研究室史を振り返った時、有意義な記録になることを期待している。変革とは研究発表のオンライン化である。今後はオンライン上での口頭発表が研究者にとって肝要となるだろう。
2020年の1月末には、ウィーン大学のマルタ・ルチアニ教授を東京文化財研究所に招聘して、国際シンポジウム(英語)を実施した。今、思い返せば、外国人研究者を日本に招聘するタイミングとしてはギリギリであった。この段階ではオンラインによるシンポジウムという発想はまったくなかった。
2020年4月を迎えた時点で、研究室の最大の課題は、日本考古学協会2020年度金沢大会の開催であり、日程も10月2、3日と決定していた。会場も予約済みであり、資料集の原稿も依頼ずみという状況であった。しかし、この時点でコロナ禍は深刻になっており、半年後の終息は見通せない状況であった。そのため、この2020年度の大会は延期にすることとなった。様々な準備がふりだしに戻った形になったが、この時点でもオンライン化ということは全く考えていなかった。
4月中は授業をできなかったが、5月に入ると大学授業をコロナ禍の中でも進行せねばならばならなくなり、オンデマンドの動画配信に着手することになった。ただ、あくまでも授業のためであり、研究発表をオンラインで行うことなど思いもよらなかった。ただ、ZoomやWebExを利用した会議には参加せざるを得ない状態になっていった。
しかし、7月にイラン大使館から連絡が入り、例年、大使館で一般向けに行っている「イラン考古学セミナー」をオンラインで開催して欲しいという依頼を受けた。文化担当官からは、日本人向けのセミナーではなく、世界中の研究者に英語でオンライン発信してはどうか、その際はZoomを使うのがよいだろう、という相談だった。そのように勧められれば、断る理由もなく、またイラン大使館はZoomに詳しいだろうと誤解してしまった。
8月から本格的な準備に入り、11月28日にはイラン人発表者4名、日本人発表者4名による「Online International Conference for the Iranian Archaeological Webinar, 2020」(英語)を開催した。準備しながら明らかになったが、イランではZoomを公式には使用することができない。そのため、イラン人発表者はZoomの取り扱いは初めて、イラン大使館もZoomの使用に慣れているわけではなかった。この会を成立させるため、オンライン研究会の勉強をする羽目になってしまったが、これが後々役立つことになった。そして、この会は何とか成功したので、一挙にオンライン研究発表会に自信はついたのだが、大学院生諸氏の協力によるところが大きかった。
2021年の年が明けてもコロナ禍は収まる気配がなく、日本考古学協会2021年度金沢大会が心配になってきていた。ただ、日程は10月16日、17日と決まり、金沢大学の共催も決まっていた。共催が決まらないと会場の使用費を支払わなければならなくなるため、この決定は重要だった。
2月にはいると、オンラインでの開催も視野に入れた準備を本格的に進め、各会場のWifiの感度などを計測したり、新たにZoom Webinarの契約方法について学び始めた。新年度に入り、ハイブリッド型の開催を念頭に置くことになった。まだ、この時点では対面型とオンライン型の併用で考えていたわけである。しかし、7月に入ってからのコロナ第5波は深刻であり、9月初旬に大会実行委員会は大会の完全オンライン化に舵を切ることになった。
9月4日に本番を想定した4会場同時並行のZoom Webinarのリハーサルを行ったが、全く接続できず、大失敗した。Zoom Webinarの契約と運用方法の理解を間違えており、実行委員会全体に迷惑をかけることになってしまった。ただ、この時も大学院生諸氏の活躍により、早期に原因を究明することができた。その後、改善を重ね、9月23日に再度全体リハーサルを行い、本番を迎えた。
本会準備における最大の見込み違いは、視聴会場を設けたことであった。会場内は厳格なコロナ対策をした関係者だけが入室できるように運営しており、来場者を会場内に受け入れることができない。そのため別の講義棟に視聴会場を設定して、来場者をお待ちしていた。しかし、来場者は1名だけであった。少なくとも考古学の学界ではオンライン研究発表がほぼ完全に認知されている、ということが明らかになったわけであり、今後はオンラインの研究発表が普遍的なものになることも確実になった。このような現象は、日本考古学協会2021年度金沢大会で初めて成立したとも言えるかもしれない。今後のオンライン研究発表の推移を注目していきたい。(2021年10月25日寄稿)