ウィーンのコロナ禍?
上田長生
なぜ、コロナ禍に?が付くのか。
筆者は、2022年8月26日から9月16日までオーストリアの首都ウィーンで研修する機会を得た。そこで経験したのは、新型コロナウィルス感染症が過去のものになる、あるいは既にウィズ・コロナに移行しきった光景で、日本で延々と続くコロナ禍とは全く異なる日常であった。日本とのあまりの違いに、これをどう理解すればいいのか、未だに明確な答えは見つからない。しかし、海外から日本を見る視点を得たことは、やはり極めて大きな収穫であった。
従って今回は、ウィーンでの日本近世史研究、厳密にいえば神道史研究の紹介も兼ねて、オーストリアをはじめとする中欧(筆者がごく短期に滞在して見聞した限りではあるが)のコロナ禍の状況を報告と考え、寄稿させていただいた。ヨーロッパの状況は、日本での報道で知られている部分もあり、また私よりも長く国際交流を続けられ、海外の事情に通じた会員諸士には既知のこともあるだろうが、ヨーロッパと日本の違いについて感じた素朴な感想を記してみたい。
まず、そもそも筆者が、感染リスクがあり、日本への帰国にも困難が予想されるコロナ禍に、何故ウィーンに渡航したのか説明が必要だろう。筆者が勤務する金沢大学では、サバティカル(研究休暇)中に、日数は問わないものの、海外に渡航して研修することが義務づけられている。前学長の主導で押し進められた大学のグローバル化の一環である。筆者は、日本史学研究室を含む人文学類の教育も準専任として担当しているが、専任として所属しているのは国際学類である。国際学類では、できる限り所属教員が毎年サバティカルを取得し、1年を上限として研究に専念する体制をとっている。そうした中で、2021年度にサバティカル取得の様々な条件をクリアしたのが筆者であった。学類の同僚たちの許しを得て、大変ありがたいことに研修を取得することになったが、多くの日本史研究者が海外の調査や学術交流に取り組むようになる中でも、筆者は相変わらずの「鎖国」状態であった。さてどうしたものかと考えた末、先輩である埼玉大学の井上智勝氏にオーストリア科学アカデミーアジア文化・思想史研究所(Institut für Kultur- und Geistesgeschichte Asiens 略称IKGA)を紹介していただいたのである。
IKGAは元々インド学から出発した研究機関で、現在でもインド・チベットの研究者が多く、中国研究者はいない。研究費を獲得して組織全体が拡充され、日本研究では現在、Bernhard Scheid先生、Stefan Koeck先生、Brigitte Pickl-Kolaczia先生の3名の研究者が所属している。中国研究者がいないのは、研究者個人あるいはグループが自らの力でポジションを確保・拡充してきた結果で、たまたまのようである。インド・チベットの研究者が中心だという事情から、日本研究の3人の先生は自分達の存在意義をアピールすることが必要とのことで、日本からの研究者の招聘や編著の刊行などに積極的に取り組まれている。2021年には、日本の研究者3名の論文英訳を含むReligion, Power, and the Rise of Shinto in Early Modern JapanがBLOOMSBURYから刊行され、私のウィーン滞在中には、国際日本文化研究センターのJAPAN REVIEWに研究所の3先生と日本人研究者の論文を掲載する準備(英訳作業)が進められていた。そして、おそらく日本人研究者の受け入れも、研究所内での必要性が強かったのだろう。コロナ禍によって日本などからの研究者の受け入れが途絶えていた中で、久々に受け入れられたのが私だったという。
本来は2021年度中の渡航を考えていたが、日本のコロナの第5波・第6波で2度延期することになり、サバティカルは終了してしまった。事情が事情だけに、海外渡航ができなかったことを勤務先で咎められることはなかったが、受け入れを依頼して以来、窓口のステファン・ケック先生をはじめ、親身になって対応していただいた先生方との研究交流への期待から、第7波が猖獗を極める中、渡航を決意した。ケック先生とは渡航に向けて、1年半にわたって断続的にZoomでの相談を行った。そのため、いつ渡航できるかという課題を共有し、私はある意味戦友のような思いを持つに至り、むしろ渡航後の交流をスムーズにしたように感じている。
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さて、ウィーンへの渡航は、ロシア上空を飛行できないために直通便がなく、ドバイを経由することになった。さすがに成田からドバイ、ドバイからウィーンへの密な機内ではマスクの着用が義務づけられており、またウィーン国際空港からウィーン市外への鉄道の中でも多くの人はマスクをしていた。迎えに来ていただいたケック先生に色々と教えてもらいつつ、まずはウィーン中心部(旧市街)に向かい、シュテファン・プラッツ駅から地上に上がった。そこでは、まず壮麗なシュテファン大聖堂の大きさに息をのんだが、もう一つ、街路を行き交う数え切れない人々が誰もマスクをしていないことに戸惑った。渡航前からニュースなどでそうした情報は得ていたが、実際に目にすると、驚きと恐さが混じった不思議な感覚でもった。
それは、アパートに入居し、スーパーマーケットに行っても同じであった。一応、店内ではマスクをした方が良いとされているようで、用心深いケック先生はマスクをしているとのことだったが、私が利用したいくつかのスーパーマーケットでは3週間の間にマスクをしている人を見ることはなかった。また、日本では習慣と化した入館時のアルコール消毒であるが、そもそもウィーンの多くの店舗・施設にはアルコール噴霧器がなかった。それはほとんどの博物館・資料館で同じあった。つまり、ウィーンの場合、電車・バスの中以外はマスクをする人はいなかったのである。ケック先生によると、コロナ禍開始直後はマスクが不足して大変だったが、よく知られているように、オーストリアでもマスクを強制されることが自由をめぐる政治的対立となったという。ウィーンの街中では何か所かの簡易検査場を見かけたが、無料で検査を受けられることが多く、また多くの人が毎週簡易キットで検査を受けているようだった。病院を訪れると検査を受ける必要があるようで、それが面倒だとも聞いた。滞在中に、1日のうちでテレビを見たのは1時間前後なので、確かなことは言えないが、感染者数はおろか、コロナ関連のニュースを見たのは1~2回だった。
ところで、今回の滞在中には、高速バスでチェコを経由して、ポーランドの古都クラクフも訪れた。クラクフからバスで1時間半のところにあるアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡を見学したいと考えたからである。クラクフは世界遺産に登録された大変美しい街で、万を超えるかと思われる観光客が溢れていたが、2泊の滞在中に見たマスクをしている人は1人だけだった。収容所の案内をお願いした現地在住の日本人案内者の方に尋ねると、ポーランドでも政府が意図してか、意図せずかは分からないが、感染者数も報道もされないし、コロナがニュースで取り上げられることもほぼないという。ポーランドではバスや電車の中でもマスクをする人はいなかったが、「強制されると抵抗したがる人達だから」とのことだった。「感染・症状悪化した場合、すぐ入院できるのか」と尋ねると、「分からないが、病院は空いているようだし、大丈夫ではないか」との回答だった。なお、クラクフではウィーン以上にウクライナ国旗を目にした。戦争勃発後、大量にやってきた難民であるが、その少なくない人々がウクライナに帰国したという。ただ、現在でも公共交通の中などでは、必ずウクライナ語で話す人を見かけるので、多くの難民を受け入れていることは間違いないとのことだった。
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さて、ウィーンでの研修は、平日午前にケック先生たちと神道史に関わる近世の藩政文書・地方文書を読解するというものだった。ケック先生たちは、日本近世の神道を藩ごとに強い特色を持つDomain Shintoとみる視点から共同研究をされている。ケック先生は岡山藩、ピクル先生は水戸藩といった具合である。そのため、岡山大学附属図書館所蔵の池田家文庫や村方文書や、茨城県立歴史館所蔵の寺社文書などを読んだ。難解な部類の近世文書を、独学で8~9割読解されていることに驚いたが、その読みが正しいか、さらに口頭での読み上げ方を知りたいということであった。一緒に読解した上で、私が加賀藩の事例を紹介したり、文書の理解や読み取れることを議論した。
岡山藩の場合、取り上げられたのは、1669年(寛文9)に江戸幕府が日蓮宗不受不施派を最終的に禁止した際の領内同派寺院の具体的対応や、1680年(延宝8)に領内の神職惣頭が初めて京都の神道本所(幕府のバックアップを受けて、全国の神社・神職身分の多くを編成した)である公家吉田家を訪れ、神道裁許状を出してもらった際の緊迫した駆け引きの一件史料などであった。いずれも大変興味深い事例で、その着眼点の鋭さに学ぶことが多かった。近年の日本での近世神社・神職研究では、各地での吉田家の統制とそこから逸脱・自立する地方神職の姿を描かれてきたが、確かに藩ごとの特色を踏まえて近世神道を捉えるという視点は弱い。近世神道史を構築する際の一視点として興味深いと感じた。なお、平日午後は市内の見学をし、週末はケック先生に車で農村部の修道院などに連れていっていただいた。最終日には、私が加賀藩研究とともに取り組んできた、幕末から明治期の天皇陵に関する研究報告をする機会を与えられた。ハイブリッドで開催されたため、オーストリア以外の日本研究者の参加も得た。ケック先生たちがハイブリッドで、所外にも開かれた研究会をするのは初めてとのことで、これもコロナの副産物といえる。
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以上、とりとめなくウィーン滞在記を書いてきたが、中欧で見たコロナ禍?をどう考えるのか。日本に帰国した当初、私はウィーンでの体験から、日本でも規制を早く大幅に撤廃した方が良いのではないかとも考えた。何よりも、私自身がこの2年半の窮屈な生活に疲れており、ウィーンで短期間ながら解放感を得たからであろう。しかし、再び日本での日常に戻ってみると、相変わらず行き当たりばったりで根拠薄弱の日本政府のコロナ対策では、規制を緩和すると感染が拡大するだけだと思い直した。現実には、政府は取り立てた対策や目途もなく、規制緩和に舵を切っており、なし崩し的に国民の自己責任に押し込めようとしているようだ。
確かに、ウィーンでは公共交通機関・病院などの他ではマスクはしなくなり、手指消毒もしていなかったが、PCR検査は容易に受けられるようだった。既に言われていることではあるが、そこが大きな違いではないかと思う。一方で、日本のように同調圧力で惰性的にマスクをするのではなく、市民個々の判断でマスクをするのか、しないのか、どのように振る舞うのか主体的に判断しているように見えた。ヨーロッパでも再び感染者が増加傾向にあるようだが、彼の地の人々は過度に恐れずに、状況に応じて、自ら判断していくのだろうと思われる。それが、ウィズ・コロナへの移行ということなのかもしれない。感染リスクを重視し、マスクをすることは合理的だと私も考えるが、一方で、日本では1人1人がこれからどうしていくべきかあまり考えられずに、社会全体で足踏み状態が続いているのではないか、ウィーンでの見聞に照らしてそのようにも感じている。
最後に、世界史的な事件として叙述されるだろうコロナ禍であるが、中欧の状況を見ると、後世の歴史叙述において、地域・国によってコロナの「収束」の時期・あり方も相当異なって記述されるのではないかと感じた。そして、良かれ悪しかれ、そこにもその国・社会の特質が刻印されていることだろう。(2022年10月24日寄稿)
“ウクライナ戦争”と「満州」の歴史体験
小林信介
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、「満州」(以下、カギ括弧を省略する。)の歴史体験を有する方々に、当時の記憶を改めて想起させるに充分な出来事であった。これは前号にご寄稿なさった北陸満友会の宮岸清衛会長に限る話ではない。そして、その回顧にロシアに対する強烈な敵愾心を伴うことが多いことも、宮岸会長に限る傾向ではない。
これは、いま体験談を語ることのできる満州体験者の多くが、いわゆる「逃避行」を幼少期に実体験したことに起因しているといえよう。「逃避行」が日ソ中立条約の一方的破棄による1945年8月9日のソ連の満州侵攻に端を発していると認識されていること、8月15日以降もソ連兵による暴行を「逃避行」の過程で見聞きしたこと、関東軍による「根こそぎ動員」の果てに父兄がソ連によってシベリアに抑留されたこと、これらが、満州体験者にとってのソ連像構築に決定的な影響を与えている。
その結果として、“ロシアの「特別軍事作戦」の発動”が“ソ連の満州侵攻”に、そして、“ロシア兵によるウクライナ市民への戦争犯罪”が“ソ連兵による自分たち(日本市民)への戦争犯罪”に直結しているのであろう。なお、ソ連にロシアはおろかウクライナも含まれている事実を指摘することで、こうした直結に対して疑義を唱えたとしても、満州体験者の記憶と認識にさしたる変化を与えることは期待できそうもない。
以上を踏まえたうえで、日本近現代史研究の問題関心のひとつである戦争体験の継承について、私見をまとめていきたい。
日本近現代史研究が戦争体験の継承を問題関心のひとつとしている証左として、蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編『なぜ戦争体験を継承するのか:ポスト体験時代の歴史実践』(みずき書林、2021)を挙げることができる。同書は、「なぜ戦争体験を継承するのか」という主題に対しての“答え”を明示していないという特徴がある。判断材料の提供に留め、“答え”の構築を読者に委ねているのである。ただし、丸投げしているわけではない。例えば、副題「ポスト体験時代の歴史実践」が、重要な指針を読者に与えている。すなわち、非体験者による“継承”を如何に実現するのかを問うているのである。その点において、本会事務局の能川泰治氏が教育活動の一環として行っている、石川県在住者から戦争体験を聞き取りとそのアーカイブ化は、まさに「ポスト体験時代の歴史実践」として位置づけられる。
さて、宮岸氏の尽力によって2013年12月に設立された北陸満友会は、会則によってその活動目的を「旧満州地区等からの引き揚げ者の経験を後世に引き継ぐ会であること」と規定している。実際に、小学校などでの体験談の語り聞かせや、年10回程度の市民向け講座を実施しており、“継承”を実践している団体である。
こうした北陸満友会の語り手によるそれも含め、いま私たちが直接聞くことのできる体験談について、特に留意すべき事項がある。それは、いまの“日本人”が語り得る体験談が、もはや被害体験にほぼ限定されていることである。加害そのものを体験談として語ること自体、大きな壁が存在している。しかしそれ以前に、現在の語り手たちにとっては、幼少期の体験であるがゆえに、そこで加害を認識することは極めて困難であり、加えて満州体験者にとっては“逃避行”にはじまる苦難の体験が上書きされている。
日本社会がようやく認識するに至った加害について、それを体験談として語ることができる“日本人”の多くは、すでに鬼籍に入っているのが現実である。すなわち、すでに私たちは、加害体験を直接聞く機会を喪失しているのである。とはいえ現在において加害が語られず被害のみ語られるからといって、アジア太平洋戦争における日本の加害認識が薄れることがあっては、戦後の日本社会における戦争認識が、極めて望ましくない形で後退することとなる。
そのため、いま聞くことのできる体験談を「ポスト体験時代の歴史実践」として“継承”していくためには、語られない加害への意識を常に抱いておくことが求められる。いま聞くことのできる体験談をそのまま継承するだけに留まらず、日本による加害の被害者のそれも含め、個人的実体験の集積である“歴史体験”を、社会の“歴史経験”に昇華して次世代に継承する責任を、いまの私たちは負っているのである。
最後に、ウクライナ戦争に関して、金沢大学の共通教育科目である「日本史・日本文化」を担当するなかで実感した受講生の反応、とりわけ軍事費(防衛費)増額に対する肯定的意見についても整理するべきと考える。しかしながら、紙幅も尽きつつあるため、同授業を担当している他の会員による寄稿に委ねたい。(2022年10月24日寄稿)
趣旨説明
2022年2月24日、ロシアは突如としてウクライナへの軍事侵攻を開始した。この趣旨説明文を書いているのは8月26日なので、つい2日前に軍事侵攻開始から半年が経過したことになる。戦闘は膠着状態に入ったように見えるが、ロシアにはウクライナへの侵略行為をやめようとする気配はなく、停戦交渉も棚上げ状態が続いている。その間にロシアが占領した地域では、老若男女を問わない市民の殺戮や、文化財も含めた市街地の破壊も行われていることが、メディアによって報じられている。
しかしながら、この事態に対する世界の動きに目をやると、必ずしもロシアに対する国際的な非難と反戦平和の世論が盛り上がっているとは言えない。それどころか、世界的に新たな軍事的緊張の種がまかれつつあるように思われる。そして日本の国内では、日本の核武装やアメリカとの核兵器共有を主張する声が上がるなど、あたかも戦争に備えることが必要であるかのような雰囲気が徐々に醸成されつつあるように感じる。これを座視してよいのであろうか。そもそもなぜこのような事態に至ったのであろうか。歴史学に携わる者として何ができるのであろうか。
北陸史学会では、運営委員有志(能川泰治、古畑徹、小林信介)からの上のような問題提起を経て、5月の運営委員会で議論した結果、会報に新たな特別企画を設け、ロシアによるウクライナ侵攻が惹起した問題について、歴史学に携わる者として何ができるのかを考える場を設定することとした。まず手始めに、石川県内で引揚げ体験を語り継ぐ活動に取り組む宮岸清衛氏と、金沢大学の教員でロシア・ソヴィエト文学を専門とする平松潤奈氏に、「ロシアによる軍事侵攻をどうみるか」という問題についてのご寄稿を依頼した。お二人からは、自己の戦争体験にもとづく切実な危機感と、専門的見地にもとづく鋭い考察を語っていただいている。会員諸氏のご味読を乞うとともに、各自がこの問題をどう考えるのかということについての、積極的なリプライを期待したい。(文責 能川泰治)
ウクライナが心配
宮岸清衛(北陸満友会会長、1935年生)
ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始したとき、私は、80年以上前の満州国建国の時代と、ソ連が1945年5月にヒットラー率いるドイツを破り、さらに8月には日ソ中立条約を破棄して満州等を侵攻したときのことを思い出した。それは略奪、収奪、強姦、惨殺の惨劇だった。
そんな私の歴史認識と現状認識を重ね合わせると、クリミヤ半島が満州国で、東部ウクライナは中国本土北部にあたる。クリミヤ併合以後現在に至るまでのロシアの動向は、満州国誕生後の日本の動向とよく似ている。当時の日本は、国際連盟各国からABCD包囲網を敷かれて石油や物資の供給を絶たれていた。今はロシアが、2014年のクリミヤ併合により国際連合から経済制裁を受けてじり貧に追い込まれ、ウクライナへの特別軍事作戦を開始した。さらにロシアは、この作戦行動を戦争ではなくネオナチ撲滅の特別軍事作戦だと言い張っている。
21世紀の時代にこんな戦争が起こるとは民主主義教育を受けた我々日本人には考えられないことである。聞くところによれば、ウクライナは、15世紀以降にロシアをはじめとする封建国家による抑圧を嫌って辺境に逃れ、そこで軍事共同体を組織したコサックが集住した地域でもあるという。そして、ロシア帝国の統治下に入ったあとも、大規模な反乱を繰り返していたらしい。そのような歴史的経験があるからこそ、ウクライナは、今回のロシアによる侵略に対して勇敢に迎え撃っているのだろう。それに対して日本には、かつて大和魂が強調されていたが、今回と同じような事態を迎えたときに、ウクライナのように立ち迎えるか疑問だ。
プーチン大統領は、「ウクライナはロシアの歴史的領土であり、それが反ロシア的になることは許されない」と主張して軍事侵攻を進め、そしてロシア軍はウクライナ領土内で破壊と強奪と殺戮を繰り返している。それに対して西欧等自由民主主義諸国は経済制裁を加えているが、世界全体を見渡すと、支持や中立も多い。何故なんだろう。どうやら国どうしの経済、軍事上の利害関係が関係しているらしい。
問題はロシアが核を使わないように、使えないようにすることだ。経済制裁を加えることで和解に導こうとしているが、もしも現在のロシアの体制がそのまま引き継がれたら大変だ。自由民主主義の敗北になる。すると世界は、かつての明治期日本のように、自由民権運動を通じて自由と民主主義を要求しなければならない時代に逆戻りしてしまうだろう。
侵略が利益になるようなウクライナ戦は絶対に認められない。ロシアに得をさせてはならない!
“戦争をしてはいけない”という思想を世界に広げるにはどうすればよいか!(2022年7月30日寄稿)
ウクライナとしてのロシア:辺境における小さな差異について
平松潤奈(金沢大学国際基幹教育院外国語教育系)
私は金沢大学でロシア語を中心に授業を担当している。本年2月末にロシアがウクライナに侵攻し、停戦する気配を見せないなか、ロシア語を教えることの難しい立ち位置を感じている。だが他方で、起こっている出来事を批判的に理解するためにこそ、当該の言語や文化の理解が必要だという思いもある。そのような立場から、言語の問題を糸口にロシアとウクライナの問題について少し書いてみたい。
ロシア語の辞書を引くと、「ウクライナ」は、大文字で始まる国名だけでなく、「辺境」という意味の小文字で始まる普通名詞としても立項されていることがわかる(ただしアクセントの位置が違い、また現在では「辺境」という意味では、「ウクライナ」ではなく「オクライナ」という一文字違いの語を使う)。「ウクライナ」のもととなる語「クライ」には「端」「辺境」ととともに「地方」「国」という意味があり、ウクライナ専門家によれば、この地にあった中世の国家キーウ・ルーシの12-13世紀の年代記には、「ウクライナ」が、キーウ・ルーシを構成する「諸地方」の意味で使われているという(原田義也「ウクライナとは何か――国名の由来とその解釈――」服部倫卓・原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店、2018年)。だが14-17世紀にこの地域を支配下に置いたリトアニア大公国とポーランド王国は、この地域を「辺境」という意味で「ウクライナ」と呼んだ。そして17世紀半ばからモスクワ国家がこの地域を保護下におき、次第にその自治を奪っていくにつれ、今度はモスクワがこの地を自らの「辺境=ウクライナ」とみなしはじめる。逆に言えば、この地域がモスクワに対する「辺境=ウクライナ」となることによってこそ、モスクワ国家はルーシを支配するロシア帝国だと名乗る基盤を得たのである。
21世紀の現在においてもロシア人がウクライナを自国の「辺境」とみなしていることを示す事例は、身近な言語表現にも見出せる。大学1年次の初級ロシア語で扱うロシア語の前置詞 「ヴ」と「ナ」は、それぞれ英語の in と on にあたり、どちらも 「〜で」と訳せるが、国名と組み合わせるときは、ふつう「ヴ」を使う。「日本で」は 「ヴ・ヤポーニー」であり、「ロシアで」は「ヴ・ロッシーイ」となる。だが「ウクライナで」と言うときには「ナ・ウクライーネ」というふうに、「ナ」を使うロシア人が非常に多い。この「ヴ」と「ナ」 の違いは、その地をれっきとした主権国家として扱っているか、国家とはいえない辺境として扱っているか、という点にある。「ナ」は、なんらかの領域の端や辺境に関して使われる前置詞なのである。ロシアでもたとえば政府の公式文書においては「ヴ・ウクライーネ」と記されるが、ロシア人の多くは日常的・無意識的に「ナ・ウクライーネ」 と言う。これは単なる伝統や習慣にすぎないともいえるが(ウクライナ侵攻に反対するロシア知識人でさえ、「ナ・ウクライーネ」と言う人がいるし、私の使っている露和辞典にも「ナ・ウクライーネ」という記載がある)、ロシアの帝国意識が自然化され、固定化されているのだと見ることもできよう。プーチン大統領が2021年の論文において主張した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」 は、ウクライナを自らの内部の辺境の地位におしとどめ、その自立性を認めない日常的な言語習慣をグロテスクに誇張したものだといえる。「ヴ」と「ナ」の違いは、第2クォーターの初回あたりの授業で扱うが、大学の安全な教室と、遠いウクライナの殺戮現場が重なり合い、苦しい気分になる本年である。このような状況にもかかわらずロシア語を履修してくれた学生たちには、「ナ・ウクライーネ」ではなく「ヴ・ウクライーネ」と言ってください、と例年以上に強調した。
このように、ロシアの帝国的無意識から見るとウクライナはいまだにロシアの「辺境」である。しかしながら実は、11-12世紀のキーウ・ルーシ時代には、のちにモスクワが現れロシア帝国の中心となっていく北東地域こそが、ルーシの中心たるキーウにとっての「ウクライナ=辺境」だった。モスクワ方面は「森の向こうのウクライナ」などと呼ばれ、南西ルーシの人々の植民先だったのである。
モスクワやロシアは、このようにキーウ・ルーシにとっての「ウクライナ=辺境」であっただけでない。13-15世紀にルーシの地を支配したモンゴルにとっても、近代以降ロシアの憧憬対象となったヨーロッパにとっても、モスクワやロシアはやはり「ウクライナ=辺境」であった。ロシアの「ウクライナ性=辺境性」は、単に地理的なものにとどまらない。近代ロシアは、近代世界システムの中心たる西欧に対する周縁国家、原料供給国として圧倒的な劣位にとどまり、経済的には半植民地の境遇にあったといっても過言ではない。しかしながら少なくとも政治的にはウクライナやポーランドが経験したような国家消滅を免れるため、集権体制を敷いて強大な軍事国家となり、ナポレオン戦争や、(ソ連として)第二次世界大戦に勝利し、一時はアメリカと並ぶ二大超大国の一つにまでなった(そのために犠牲になったのが、国内植民地=辺境にされたウクライナなどである)。
2022年にロシアがウクライナに侵攻したのは、一度は世界の中心にまでのぼりつめたモスクワ・ロシアが、ふたたび「ウクライナ=辺境」になってしまいつつあることを感知し、恐れ、否認したいからであろう。ロシアの「辺境」として、ロシアの帝国的地位を可能にしてきたウクライナが欧米(EUやNATO)の側につくことは、ロシアがキーウ・ルーシ時代のように再びウクライナに対する「ウクライナ」となることを意味するのである。「ウクライナ」とはこのように、小文字の辺境概念としても、大文字の国家としても、ロシアが世界のなかで自己定位しようとするときの鏡であった。
ジェノサイドは、大きな差異ではなく、小さな差異から生じる、という理論がある(Alexander Etkind (2022): “Ukraine, Russia, and Genocide of Minor Differences,” Journal of Genocide Research, DOI: 10.1080/14623528.2022.2082911)。自分と違うからではなく、よく似ていてすぐ隣にいる他者であるからこそ、その他者のもつ小さな差異が、愛憎をかきたてる巨大な意味をもちはじめ、ジェノサイドの口実となるのである(ユーゴスラヴィア内戦やルワンダ虐殺はその典型例であり、東アジアについても似たような問題が見出せるかもしれない)。言い換えれば、差異の小さな他者は、自己のもつ欠点や不安や憧憬をより拡大して見せてくれる鏡なのであり、この似かよった自己と他者は、なんらかのきっかけで立場が反転しうる関係性にある。ロシアは、「ウクライナ性=辺境性」を乗り越えようとしている主権国家ウクライナへの嫉妬と、自らが「ウクライナ性=辺境性」を帯びはじめたことへの不安から、この小さな差異をもった自己像たるウクライナを打ち砕こうとし、ジェノサイドと言われかねない生物学的・文化的抹殺を開始した。「ヴ」と「ナ」の反転を押し留めようとするこの暴力的な試みが一刻も早く終わり、対等な「ヴ」の関係でウクライナとロシアが向き合える日が来ることを、不安な思いで待ち望んでいる。(2022年7月31日寄稿)
新型コロナウィルスの流行と〈発病占〉研究
佐々木聡
2020年4月1日、新型コロナウィルスへの対応をめぐり、国内外の教育機関・教育関係者が右往左往する中で、科研費の採否が通知された。筆者も慣れない形態での授業準備に追われており、前年に申請した若手研究「〈発病占〉についての社会史的研究:近世以降を中心に」が採択されたことを確認できたのは夕方になってからだった。さっそく採択の手続きを済ませたものの、しばらくの間はオンライン授業などの準備に手一杯で、ようやくまともに研究に着手できたのは、夏季休暇に入る頃だったかと思う。
「発病占」とは病気うらないの一種である。病を発症した日時により、病気の経過や快癒するか否か、病の原因となっている鬼神・モノノケなどをうらなうことから、筆者はこのように呼んでいる。『易』のように確固とした経典があるのではなく、様々な占辞(うらないのことば)が作られながら一つの類型として受け継がれてきた占法である。古くは戦国末期まで遡り、20世紀に入ってからも使用された。その歴史は優に二千年を超える。
近年、陳于柱『敦煌吐魯番出土発病書整理研究』(科学出版、2016年)に代表されるように、中世もしくは古代の発病占が注目されている。これは出土資料や敦煌文献として「発見」されたことが殊更に大きい。その一方で、近世以降の伝本は、ほとんどが研究の対象とは見なされず、所謂「俗書」として捨て置かれてきた。しかし社会史や文化史の観点から見れば、発病占は前近代を通じて継承・発展してきた術数文化の一つであり、断代的な研究だけでは不十分である。経典という権威を持たない発病占が、一つの類型を持つ占法として二千年以上も命脈を保ってきたという事実は、歴史学的に考えても決して軽くはない。
しかし実は今、近世以降、とりわけ清末・民国期に撰述された発病占書が散佚の危機にある。これらの多くは、今日なお中国の古書市場に流通しており、研究者や研究機関による収集がほとんど進んでいないからである。古典籍としての価値を持たない「俗書」――それが現在の発病占書が置かれている立場である。既に宋代以降の発病占書は大部分が散佚してしまい、わずかに日用類書や通書の中に引用された占辞から、そうした書物がかつて存在したことを窺えるにすぎない。清末以降の発病占書も、このままでは同じ道をたどることになる。そこで筆者は、これらの発病占書を収集して保全するために、冒頭の科研費を申請したのであった。しかし順調に採択されたものの、コロナ禍の影響により、この計画は思わぬ停滞を余儀なくされることになった。
そもそも中国では、2007年以降、清朝以前の文物を国外に持ち出すことが禁じられている。そのため中国の古書市場から発病占書を収集したとしても、そのまま中国国内で保管しなければならない。そこで筆者は、中国在住の術数学研究者大野裕司氏(大連外国語大学)に協力を依頼し、購入して順次データ化を進めて頂き、それを元に研究を進める予定であった。筆者と大野氏はかれこれ10年以上オンラインで研究会を行っており、こうしたリモート環境で共同研究を行う下地も整っていた。したがって、科研費採択時にも新型コロナウィルス流行の影響は既に深刻化していたが、研究計画の遂行については、比較的楽観視していた。しかし実際には、厳格なコロナ対策により大野氏は一時帰国を余儀なくされ、長らく中国に戻ることができなかった。結局、新たに収集活動を開始できたのは、二年目の夏になってからである。
こうして計画は大きく遅れることとなったが、大野氏の手厚い御協力もあり、二年目に史料収集を開始すると、ネット上の古書市場から7部の新出抄本を収集し、電子データ化や基礎的な書誌整理を進めることができた。この成果は近々研究会などで発表する予定である。また既に論文で紹介した伝本から、影印を付した校訂本を作成し、ウェブ公開にもこぎ着けた(https://researchmap.jp/sasaki_satoshi/「研究ブログ」「資料公開」参照)。こうして基礎研究の枠組みは出来上がりつつある。今後継続して発病占書の収集・整理・検討を進められれば、一定の成果が期待できるだろう。
このように、元々リモートでの共同研究が前提だったため、コロナ禍の下でも研究を軌道に乗せることができた。ところが、ここに来て新たな問題が持ち上がってきた。現地調査の見通しが立たないことである。本来であれば、ネット上の古書市場だけでなく、各地で開催されている古玩(骨董)市などでも収集を行う予定であった。これまでも陳于柱氏が山東省、筆者が湖南省でそれぞれ入手した例があるからである。くわえて宗教者や占術家の利用実態も調査する必要があった。例えば、清初の小説である『醒世姻縁伝』には、役人の家族が道士から発病占書を借りて病をうらなう場面が描かれる。こうしたイメージを裏付ける史料は見つかっていないが、現在も寺廟やその周辺で実際に用いられている可能性がある。既に20世紀後半に用いられた痕跡のある発病占書も見つかっているから、そうした可能性も十分首肯できよう。
また、現在流布している発病占書の抄本には、表紙に個人名が見えるものが多い(下図参照)。これらは発病占書を抄写した人物や撰述した人物であり、発病占の実践者にほかならないが、言うまでもなく史書に名を残すような人物ではありえない。したがって、「彼らがどのような人々であったか」という問いに対し、文献史学的アプローチはほとんど無力と言ってよい。これもまた現地調査が必要となる所以である。
光緒23年(1897)の紀年と「郭洪興号」の署名を持つ発病占書(2021年収集)
むろん、フィールドワークが本業ではない筆者が現地調査を行ったところで、直ちに答えを得られる訳ではないだろう。それでもやはり現地調査は必要である。筆者にとって、歴史人類学的研究方法の導入は、当初からの課題であった。しかし新型コロナウィルスの流行により、現地調査、ひいては現存史料と現代文化の繋がりを考究する機会が奪われてしまった。ここにきて筆者も、オンラインやリモートでの研究の限界を切実に痛感しはじめている。
とはいえ、こうした苦境はあくまで一時的なものだろう。思えば、発病占の二千年史においても、悪疫の流行は幾度となくあったはずだが、それほど変容することなく現代まで受け継がれてきた。筆者もわずか数年の疫禍に倦むことなく、やがて可能となるだろう現地調査に向けて、今しばらく文献屋の仕事に専念することとしたい。(2022年5月13日寄稿)
コロナ禍の下、変わったこと、変わらないこと
竹松幸香
金沢大学大学院社環研を2002年に修了した竹松です。修了直後の2002年4月より金沢市長町武家屋敷界隈にある前田土佐守家資料館という小さな博物館で学芸員をしております。おかげさまにて今年で勤続20年を迎えました。学芸員の配置が少ないのは「小さい博物館あるある」ですが、「学芸員1名限り」というのは全国見回してもあまりないのではないでしょうか。ちなみに金沢市が設置した博物館は金沢21世紀美術館を除き、皆「1名限り」です。一人なので係も担当もありません。企画展や講座、その他イベントごと、資料の保存管理、果ては建物管理まで全部一人でやります。2020年春から感染拡大した新型コロナ感染症の影響で、当館も1か月以上の長期休館が3回あり、それにともない、企画展やその他の事業の変更・中止を余儀なくされました。では長期休館中はさぞかし時間がたっぷりあったでしょうと思われるかもしれませんが、その間は、結果的に20年近く放置となった所蔵資料の点検、整理、確認をようやく行い、それに終始しました。2021年秋以降は、少々状況の改善がみられ、長期休館することもなくなりましたが、感染拡大防止、密を避けるため、定数を半分に、回数を倍にして各種講座等実施しているので、コマネズミ状態に拍車がかかっております。
そして新型コロナウイルス感染症が流行して3度目の夏を迎える今年、偶然重なっただけともいえなくはないのですが、我が身上にも大きな変化がありました。
一つめ。金沢市設立の博物館(一部除く)では2021年7月より週1回の定休日が設けられました。以前は定休日なしで、加えて当館は2002年4月の開館以来ずっと、年末は大晦日まで、年始は元旦からと、文字通り「年中無休」で開館しておりましたが、新型コロナ流行から二度目を迎える昨年度の年末年始より人並みに年末年始休館となりました。新型コロナ流行のためというわけではないですが、きっかけの一つにはなったのではないかと思います。流行がなければおそらく、ずっと年中無休で働き続けたことでしょう。博物館での活動をいろいろ制限され、予定が狂い、モヤモヤが残るコロナ禍の下でしたが、立ち止まって考える時間が与えられたことは幸いでした。
続いて学芸員「1名限り」の配置に奇跡! 2022年4月よりもう1名学芸員が採用され、着任しました!! これまで同職種の人と一緒に働くという経験が皆無だったので、もう、それだけで嬉しい! 史料の解釈なども二人で話をしながら「こういう解釈もあるのだな、こんな考え方もあるのだな」と気づかされること多々、これまでいかに一人の思い込みでいろいろなことを書いたり話したりしていたかと足りない自分を思い知らされ、ぞっとしておりますが、日々と新しい発見があり楽しいです。このように毎日が嬉しい!楽しい!一方、実際は学芸員2名配置など許されるはずもなく、これまで金沢市職員OBが担っていた副館長職の兼務を命じられました(身上変化二つめ)。事実上、学芸員業務からの撤退勧告です。学芸員という職が向いているとも天職とも到底思えませんでしたが、撤退勧告は存外辛く、この仕事、結構好きだったのだなと改めて気がつきました。今後コロナ感染拡大の状況がまた酷くなれば、管理責任等、気を回さなければならないことも多々あるのだろうな(本当に向いていません)。お題がコロナ禍の下での近況報告なのに、自身の愚痴とも何ともつかぬ話となっている感もありますが、どうかご海容ください。これが小さい博物館の現状です。
そして、館へ足を運んでくださる方々について、コロナ禍を経験して変わったと感じることを。新型コロナ流行前にはあまり足を運んでいただけなかった、比較的若い方々(20代?30代?)を最近、館内でよく見かけるようになりました。しかも熱心に、それこそ食い入るように展示資料を見てくださる方が多いです。当館、SNSの活用などはあまり取り組んでおりませんが、それを駆使するような年代で熱心に見てくださる方々も増えたように思います。以前は、古文書ばかり並ぶ地味でマニアックな展示に「紙モノばっか、しょぼい、つまんねー、金返せ」と捨て台詞を吐かれることが度々ありましたが、近頃は、そんなことも少なくなり(全体的に来館者が減っているせいかもしれませんが、ともあれ)、「みんな、本物を見ることに飢えているのだなあ」という印象をうけます。
最後に、当館は開館以来「地道に粛々と」がモットーです(私が勝手に決めたものですが)。1名限りの学芸員が大半は古文書という地味な所蔵資料を使って、前田土佐守家というマイナーな家を紹介する館で、それなりに博物館らしい活動を続けていくには、「降りかかってきたことを淡々と受け止め、できることを地道に粛々と続ける」ことが大事と思い、やってまいりましたが、方向性としては間違っていなかったと思います。コロナ禍の下では、ますますこのモットーが活きてくるのではないかと、手前味噌ながら思っております。会員のみなさま、お近くにお越しの際はどうか当館にもお立ち寄りくださいませ。(2022年7月31日寄稿)
コロナ禍の活動ノート
宮下和幸
COVID-19の感染拡大以降、自身がどう活動してきたかを思い出しながら書いてみるが、個人的な備忘録になることをご容赦いただきたい。
私は学芸員として金沢市立図書館近世史料館に勤務しているが、緊急事態宣言が出された2020年の4月から当館は1ヶ月程度休館している。ただ、職員は出勤しており、自宅勤務ではなかったと記憶している。開館すると他の施設と同様、館内入口を一ヶ所にして検温の機械を設置し、史料館でも閲覧室の座席数を減らすなどの対応をとった。その後、まん延防止措置によって金沢市内の博物館は幾度か休館したが、当館は図書館附属施設との位置付けもあって、図書館と連動して開館し続けた。業務内容に大きな変化があったかと聞かれれば、人数制限によって古文書講座を分割開催したことなどが挙げられるが、何かしらの業務を停止するといった大きな影響はなかったといえる。理由としては、当館が他館から史料を借用して展示する施設ではないことや(博物館などは展示にかかる借用・運搬体制など大幅な変更を余儀なくされている)、史料の収集・保存・閲覧に制限がかからなかったことがあるだろう(閲覧は若干かかってはいた)。そして遠隔勤務については、史料館の勤務は傍らに史料があってはじめて業務になることから、とかく相性が悪いという実感がある。
また、私は2020年度から大学で非常勤をしているが、むしろこちらの方が影響は大きかったと感じる。2021年夏にデルタ株が蔓延したが、そのときは対面→オンデマンド配信→対面と講義の形式がかわり、対面も受講者が多かったことから幾度も講義室が変更になった。また、冬の講義も年末までは対面だったが、年明けからは配信に変更となり、非常勤の立場としてはやや困惑した感は否めなかった。そのなかで、対面は勿論のこと、配信であっても受講する学生の意欲・熱量が感じられたことが救いだった。講義ごとにコメントを提出してもらっていたが、(対面のときも書かれていたが)配信になると入力できるためか、総じて長文になった。学生が講義を踏まえて何を感じて考えたのかが伝わるため、こちらのモチベーションに繋がったことは間違いない(ただし、そのリプライに時間をかけたことで、講義時間を相当圧迫して学生に迷惑をかけた)。
あと、ここで書くことでもないのだが、講義によってネット配信のスキルがそれなりに身に付いてしまったことは想定外だった。2020年度は当初からオンデマンドを想定したため、PowerPointで作成し、それに音声をつけて動画を作成、動画サイトにアップロードしていた。しかし、2021年度は対面を想定してWordで配布資料を作成していたため、途中で配信に切り替わったときにどう対応しようかと悩み、結果としてPDFに音声を付け、それを圧縮して動画を作成することで対応した。加えて、デルタ株が蔓延しはじめた頃には、対面で講義した自身の音声を録音し、それに画像を付けて動画を作成、その動画をアップすることで講義に出席できなかった学生にも対応を試みた。私自身、そもそも動画サイトに動画をアップした経験がなかったため、その手順も含め、思わぬ理解が進んでしまったが、それ自体楽しめた面もある。しかしながら、この作業にはかなり時間をとられたため、自身の研究活動にも影響が出てしまった。
このことは不手際でしかなく、ここで書くのも恥ずかしいが、拙著刊行後一息つこうとした頃からいくつかお話しをいただいて複数の原稿執筆を抱えた矢先にコロナが蔓延し、その対応などですべてが後ろにずれ込んでしまった。また、オンラインでの学会開催が浸透したことで、これまで参加していなかった学会にも自宅から参加できるようになり、学ぶ機会が確実に増えた一方、コロナ前に比べると慌ただしくなった。また、科研費への参加や中央学会の委員になり、打ち合わせに参加することもオンラインで容易になったが、それらの活動も結果的に(自身の遅筆を前提にして)原稿の遅れに繋がってしまった。
私のような研究費がない人間にとっては、交通費や宿泊費の負担は大きいため、オンラインが普及することでかなり助かっていることは間違いないが、一方でその費用面を自分なりの理由にして、(とくに意識することなく)研究活動の量的バランスを図ってきたことも事実だろう。あまり熟考せずに行動する私のようなタイプだと、それが良い意味での枷にもなっていたのだろうが、オンラインにより枷が外れたことで、自身の能力と研究活動の量的バランスが難しくなっている気がしている(気がするだけなら良いが、実際に現在進行形でご迷惑をおかけしている)。
正直、コロナ禍での研究活動について大きな視点で考えることはできておらず、むしろ自身の研究活動のあり方自体を問わなければいけなくなってしまった。オンラインがなくなることはないだろうし、併用が浸透していくものと思われるが、周囲に感謝しながらどのようにバランスをもって研究活動を続けていけば良いのか、模索が続きそうな気がしている。(2022年8月3日寄稿)
コロナ禍の九州・熊本より
岡部造史
金沢大学の文学部史学科西洋史学履修コースを1991年に卒業し、東京都立大学の大学院に進学した後、2010年から九州・熊本の熊本学園大学の西洋史の教員をしております。2022年になって熊本でも新型コロナウイルスのオミクロン株が驚異的な速さで拡大しており、この原稿を書いている1月下旬の時点で、1日の新規陽性者が最高1300人弱という、九州では福岡県に次ぐ規模の感染状況になっています。私の勤務先の大学では今年度部分的に対面授業をおこなっていましたが、この感染急拡大を受けて1月の授業が急きょ遠隔方式に切り替えられ、私の科目で予定していた筆記試験も1週間前に急きょ中止せざるを得なくなりました。この原稿が掲載される頃には状況が好転していることを祈るばかりです。
ご存じのように、熊本は2016年4月に2度の大地震を経験し、その後も熊本豪雨(令和2年7月豪雨)などの災害に見舞われてきました。これらの災害の被害を軽視するわけではありませんが、今回のコロナ禍は、すべての人々の日常生活を長期にわたって一変させているという点で、影響はやはり群を抜いていると思われます。私もコロナ禍以前は、近辺に専門分野(フランス近現代史)に関する研究会などがないこともあり、東京や京都などの学会・研究会に遠出することが多く、夏休みにはフランスを訪れたりもしていたのですが、そうした生活が文字通り一変しました。学会・研究会はすべてオンラインとなり、海外に行くことも難しくなり、日常生活では熊本県外はおろか市外に出ることすらほとんどなくなりました。両親が京都在住で、これまでは京都の研究会に参加する際に帰省(?)していたのですが、それもここ2年ほどできずにおります。考えてみると、コロナ禍以降、熊本市外に出たのはほとんど数回だけという、いわば「市内引きこもり」の状態が続いています。
職場である大学の方も、いまだ「先が見えない」状態です。さすがに遠隔授業には慣れてきましたが、コロナ禍の状況次第で授業形態を変えなければいけないというのが厄介です。たとえば今年度後期のある担当科目では、最初の3回の授業が遠隔で、その後対面に戻ったのですが、1月の感染急拡大で最終回のみ再び遠隔… ということがありました。授業形態が変わるとそのたびに受講者に連絡することになり、また対面授業の際には教室の換気・消毒など感染防止対策の準備や指導もおこなうので、全体として負担が増えていることは否めません。研究に関しても、西洋史の場合、現地での史料収集ができないことは大きな痛手です。フランス史の場合、刊行史料についてはパリにあるフランス国立図書館の複写サービスを通じて電子データなどを入手できますが、非刊行(手稿)史料についてはどうしても現地の文書館に行く必要があります。また熊本の場合、東京や関西圏の大学図書館への史料収集に行く必要もありますが、コロナ禍で県外出張に規制がかかると、それも難しくなります。ICTによって海外の史料・文献へのアクセスがかなり良くなったと言われてきましたが、それもやはり一定の限界があることがコロナ禍で浮き彫りになったように思います。
とはいえ、この2年あまりの間に、コロナ禍での研究や教育の利点に気づく機会もありました。たとえばオンラインでの研究会はいろいろ不自由ではありますが、時間や費用にとらわれずに多くの会に自由に参加できることは、東京や関西などの大都市圏に居住していない人間にとってやはりひとつの利点と思われます(ただ、開催場所に関係なく参加できるようになったことは、長期的には地域ごとの学会・研究会の存在意義を弱める方向に働くかもしれませんが)。またICTに疎く、これまで授業支援システムの利用に消極的(?)であった私にとって、遠隔授業は、そうしたシステムの長所(受講者への連絡やレポート課題の提示や回収の容易さなど)を知る思わぬ機会となりました。おそらく今回の「非常事態」がなければ、気づくのがだいぶ遅くなっていたかと思います。
今回の新型コロナ禍を歴史研究者としてどのように考えるべきかという問題については、すでに多くの議論がなされているように思いますが、私の専門である西洋史研究との関連で言えば、たとえば歴史学研究会編『コロナの時代の歴史学』(績文堂出版、2020年)の中で、コロナ禍によって「包括的なモデルとしての西欧諸国という考え方」が「日本にとって最終的に失墜」し、あらためて西洋史研究のありかたが問われていると述べられています(池田嘉郎「コロナ禍と現代国民国家、日本、それに西洋史研究」85頁)。このことに加えて私個人としては、今後もしばらくコロナ禍によって西洋史研究の実証面での制約が続く場合、研究の問題意識の側面がいっそう強く問われるのではとも思っております。しかしながら当面は、コロナ禍による制約の中で、とにかく今できることをするしかない、というのが個人的な状況です。
最後に、話は変わりますが、熊本では2月1日から「くまもと春の植木市」が開催されます。440年以上続くとされる熊本の早春の風物詩で、今回はまん延防止等重点措置の最中ではありますが、少しでも明るい話題になればいいと思っております。何ともとりとめのない近況報告になってしまいましたが、今後ともどうかよろしくお願いします。(2022年1月31日寄稿)
明るい光に導かれて
池端明日美
「じゃあ、次、滑舌やるよー!」
「はい!」
「せーの!」
「せっせんさせささ、せっせんさせささ・・・」
放課後、午後4時すぎの空き教室。いつものように演劇部の練習の声が反響している。
この7年間、就職先の星稜高等学校において、演劇部の顧問を受け持っている。県大会での優勝はこの7年間で計3回。受け持ち当初は数名しか部員がおらず、優勝どころか県大会にすら出ていない廃部寸前の状況だったことを考えると、我ながら良い戦績だと自画自賛している。今や常時30名以上いる県内で最大規模を誇る大所帯となった。
高校演劇の大会において、キャスト(演者)のみが審査されるわけではない。制限時間60分の戯曲を作り、照明や音響、美術装置作成や幕の操作指示に至るまで全てのスタッフワークを顧問と生徒とでこなす。初年度以来、何となく脚本を書くのが私の役割になり、今や毎年大会にあわせて1本、劇を生徒ともに創作することが、ライフワークになりつつある。
私たちの創作活動は、ちょっとした井戸端会議から始まる。「今年、どんな劇したい?」「好青年役に飽きたので狂気的な役をやってみたい」「最後にセットをぶっ壊したい」「社会問題を問いかけたい」・・・生徒の夢は果てしない。最終的に、それを半ば強引に繋ぎ合わせ、もちろん脚本家である私の願望も入れつつ、台本化していく。自分の中でぼんやりテーマや起承転結が見えてからいつも書き始めるが、描き始めてから約1週間で(ほぼ土日の2日間で)書き上げる。それ以上の時間はかけられない。教員はただでさえ忙しいのだ。
これまでの作品を振り返ると、あまり一貫性がないなと思う。全国の強豪校だと、「必ずミュージカル調の劇をやる」とか「必ず古典劇をやる」など、非常に明確な共通点があるのが一般的だ。私の思いとして、その時々の部員がやりたいものをやるべきで、顧問の色に染める必要がないと思っているので、毎年テイストが違う。ただ、そこはやはり執筆者が一緒なので、少しばかりの共通点はあるようで、最近他校の顧問に言われて気づいたことがある。「星稜の劇は、毎年「愛」がテーマだね」――。並べてみると、確かにその通りである。
2015 「明日という日があるかぎり」
・・・星稜演劇部再興の実話をもとにした物語。部員愛がテーマ
2016 「小さな希望のうた」
・・・病院ものでコメディ要素強め。ちょっとした隣人愛がテーマ
2017 「オデュッセイア〜はるかなる旅路〜」
・・・シリアスもの。本家・オデュッセイアと東日本大震災とを絡めた父子愛の物語
2018 「Our history」
・・・時代もの。星稜高校(稲置学園)創設の物語。師弟愛がテーマ
2019 「またこの空の中で」
・・・女子高校生グライダーパイロットの冒険物語。姉妹愛がテーマ
教員としての職業柄か、文学部出身者としての特質なのか、人間に対する興味が深いのかもしれない。いずれにしても、「そうか、私たちが作っている劇は、いずれも愛を描いているのか・・・そういう作品をみんなで作りたい、みんなに見てもらいたいと思っているのか」と、何となく腑におち、納得したのを覚えている。そして、「温かい気持ちになれました」「感動しました」という感想を聞くたびに、人の心を動かす劇を今後も作りたいという創作意欲にかられた。
そんなライフワークとなっていた活動が、昨年度1年間にわたってストップした。部活動の指導は、「教員=ブラック業態」論者にとって、もっともブラックな側面である。正直、部活動がない日は少しほっとした気分になる時もある。だが、劇団四季や宝塚歌劇などが軒並み休演に追い込まれ、高校演劇も追随するように全ての活動を自粛する中、「そうか・・・演劇は人前で大きな声を出すから不衛生なのか・・・芸術は不要不急な活動ではないのか・・・」と、ぼんやりとした寂しさと、何だか世間に取り残されてしまったような不安感に押しつぶされそうになった。
今年度に入り、8月、ようやく演劇部の県大会が復活した。ただし無観客での開催という条件付き復活である。2年ぶりの県大会、3年生以外は舞台に立ったことのない状態だったが、何よりも私自身が、「果たしてこの状況の中、台本を書くだけの気力があるだろうか。愛のある作品を書けるだろうか」と心配だった。しかも、感染リスクを避けるための工夫も必要となり、「できるだけキャスト同士が接近しないような内容」でかつ「誰かが当日欠けたとしてもカバーしやすいキャスティング」の劇にする必要があった。
いつも以上に執筆に時間がかかったが、何とかできたのが、
2021 「神様の放送室」
・・・感染症が蔓延する世の中、学校の放送室を舞台に「放送への政治介入」を風刺した物語。先輩と後輩の愛がテーマである。
8月、無観客の野々市文化会館フォルテ。わずか3名の審査員が見守る中、ダンスあり、サックスの生演奏あり、回転するセットありの、政治風刺の効いた古代ギリシア風コロス現代劇は、無事上演を終えられた。2年ぶりの県大会でやるにしては極めて挑戦的な内容の演劇であったと思う。結果として優勝をすることができたが、そんなことより何より、無観客であったにもかかわらず、「この劇のテーマを伝えたい」「このセリフを届けたい」という思いのこもった部員たちの熱演に、脚本を書いた私自身が心を鷲掴みにされ震わされた。相手に届けたいという思いの純粋さ、それを一心不乱にやることの崇高さの一端に触れた心地だった。
県大会で優勝すると、中部大会(ブロック大会)への出場が決まる。12月27日、大雪の中、名古屋市公会堂に向かい、再び審査員しかいない静かな客席に向かって上演を行った。相変わらずの無観客芝居。それでも部員たちは満足そうで、終始、楽しかった!と口々に言い合っていた。高校生はタフである。
ところで、中部大会で上位2位までに入ると、全国大会に出場できる。だが中部ブロックには演劇大国・愛知県及び岐阜県が組み込まれており、石川県勢は全く歯が立たない状況が続いているため、この時、私も部員たちも、実は勝つことを全く想定していなかった。なので金沢に帰ってきた翌日にオンラインの閉会式及び審査結果発表があったのだが、「結果はメールするね」と言い、セットを星稜に搬入したのち部員を帰してしまった。誰もおらず冷え切った年末の職員室で、たった一人で第2位となったことを知り、そして石川県勢として35年ぶりの全国大会出場が決まったことを知り、私は初めて職員室で泣いた。
「何が不衛生だ。劇は紀元前から続いてきた必要不可欠な活動だわ!」
それは世間に対して狼煙を上げたような痛快さだった。
「次、体幹トレーニングやるよ。って、ちゃんと見えるようにタブレット置いてよね」
「先生、無理です。部屋狭いんで全身写らないっすよ」
「あらそう。じゃあしょうがないわね。せめて足の部分だけ写しておいて。苦しんでる顔を見せつけないで」
「先生、ひどすぎる・・・笑」
放課後、午後4時すぎの空き教室。いつものように演劇部の練習の声が反響している。
そこには私しかいない。
タブレットの向こう、画面越しに生徒たちの自室が映っている。
感染状況はいまだ悪く、中部大会以降まだ一度も全員で集まって練習できていない。
授業もオンライン形式で何とか継続している。
「なら部活動もオンラインでできますね!」
高校生はタフで前向きだ。
その明るい光に導かれ、有観客の希望をまだ捨てていない3月の全国大会に向けて、演劇の灯を消してはいけないという謎の使命感を持って、「新しくて新しくない日常」を過ごしている。(2022年2月1日寄稿)
コロナ禍の初期と回想
橋本治
コロナ禍のひどい時期を脱したかのような昨今だが、逆にドン底の頃が思い出される。命綱の図書館の休館が続き、そこに寄生している(?)身は大損害を被る。まるで手も足も出ない。一方スーパーは客が減っても開店しているのに。聊かやり過ぎではないのかな。やっと開館しても、予約だの一時間で退館をと求められ貸しボートのような慌ただしさよ。椅子も減って立ち読みしかない。意を決して半日居座ったが放逐はされず。各図書館の厳格さに却ってコロナ禍の恐怖が倍加した。金沢は密だと言われ、出かけるのも止められ潜行するしかなく図書館へ通うのも命がけだとか。ああ、今日も無事だったなあ。その一方で今も尚外部者の利用を制限する、つまり利用不可、の図書館があり残念に思う。
目先のテーマや手持ちの本を読むのにも飽きて、ふと思った事が二つある。若い頃にやっていたが長期間休止しているあれを再開しようか、コロナ禍の影響がないネットで閲覧できる文献の画像やテキストを活用しようかなと。隘路を前にするといろいろと知恵が湧いてくる。一時のつもりで始めたのが思わぬ展開となった顛末の一斑を記そう。
学生の頃、ある年の春に若い二人の東洋史の先生方が着任され演習が始まり、正規とモグリで二つを履修する。一つは『大唐西域記』講読で訳経僧への関心から参加した。暫くして先生は予習の質を確かめられ使った辞書を問われた。某君が何々と答えると、言下に「そんなんじゃ駄目だ。」と叱責され、一同は奮え上がった。何かと「モロハシでは…。」と仰るので、その辞書一揃いを身近に置くべく、高価なのは無理なのでふと閃いて古書店三軒の端本で揃えた。版もサイズも異なる珍妙な物。図書館のは利用者が多く自在に使えず、バイトに忙しい身ではやむを得なかった。三畳間では本棚の前を占め布団を敷くのにも困ったが恩恵は大きかった。これも今ではデジタル版が出たとか。笑うばかり。お陰で御下問にも答えられた。しかし、後で先輩から語釈・用例語彙に得意・不得意分野があると聞き慌てた。昨今のネットでは漢文語彙についての調査がし易く、往時と全然違う環境なのは衝撃的だ。あの辞書の用例より拡張できる。が、一方で困難を伴う。
演習は慣れるに従って色々な参考文献を調べ入手した。『西突厥史料』『西域地名』『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』などで、その後も演習と別な関心が生じて今日に及んでいる。唐代の西域経営についての引用史料が東方との関わりで興味を引き、後には『渤海国志長編』総略や東アジア古代の史料の読解へと進む。中でも『冊府元亀』からの引用が目立つので、調べるとデジタル版で明版(清代の翻刻か)の画像と四庫全書本の画像と翻字が公開されているのを知った。デジタルテキストは自在に検索できるのが良い。
後に二つの演習のから発展して中国正史へ接近したのは奇縁だが、やがて休止してしまった。しかし、近年はそれらの抄録の塊でもある『冊府元亀』との出会いで復活した。感心した『通典』『文献通考』の斜め読み以来だ。日本と違い、こういう通時的な大型の類書他が継続して編纂されたことのへの驚きは大きい。過去と当代の政治・制度への関心の違いだろうか。
ところで、デジタルリソースは利用するのに便利だが、パソコンの電源を落とすと消えてしまうように儚いのが難点だ。そんなもの印刷すればよいのにと言う仁がいるが、量が凄いので憶してしまう。なるだけペーパーレスでいきたいものだ。剳記は別に作ろうか。小字なので悩んだが、幸運にも古書で金沢出物の明版縮印四冊本を入手できた。大改編されたのを元のと対照する作業を進めている。開けばいつでも目の前にあるのは良いものだ。時々印刷不良で読めない箇所があるのには困ったが、デジタル版等を頼って書込をしてはやり過ごす。遅々たる歩みだが、時に日本古代史料で見かける語彙と出会う。
『西突厥史料』については、E.シャバンヌ著フランス語原書を馮承鈞が漢訳したものと知れるが、編成上奇妙な点があるのを感じ半世紀を経ていた。訳書によくある書誌に丁寧な言及はなく、訳者が原著の誤りを如何によく訂したかを記すばかり。今までこれに目を向ける余裕がなかった。が、コロナ禍という隘路を生かして、欧文に閉口しながらも調査を進めると、この原拠は初編と続編とをただ順に排列合編したものだと分かった。しかも初編(表紙他のロシア語部分は代替)と続編の合編版の画像・翻字が共にデジタル化されている。更に戦前の漢訳の出版は戦後の合編版よりも早いのに驚いた。既に訳者はこういう事をやってのけていたのだ。フランスに留学し語学に堪能、この地の東洋学に通じていたというその生涯が偲ばれた。東洋史を学ぶ上でヨーロッパ東洋学への関心・親近感は以前からあったし、洋書目録法演習での遠い記憶が役にたった。
昔の記憶から、つい突厥史料集成書に目が向くが歳のせいか細部についてはすぐに忘れてしまう。広く浅く時に深くは狭く深くの仁から非難されたが身に合っている。
これらの先生方は、今は共に亡い。間近くはコロナ禍の最中に。君でさえ七十(歳)を越えたのだからなと知人は言う。今は皆様の温顔を想い頭を垂れるのみ。仰げば尊し。
この他にも収穫があったが、コロナ禍でなかったならば決して出会えず到達できなかっただろうと考えると、何やら複雑な思いがする。近時は無理をせず入手し難い論文・著書は諦め、専らコピーや入手できたのと史料集成物を読む事が多い。
デジタル化は論文にも及んでおり、各機関のリポジトリを通して無料なのがネットでかなり読めるのも大きな恩恵となっている。更には、これと付随して文献目録や検索ツールの進化も著しく、この企画二報目の某研究会大会でのやりとりの回想で書かれなかった部分が気になったので調べてみた。すると物の数分で、質問に立ち往生したとある発表者のご尊名・経歴・業績等について分かってしまう凄さを体験した。某国立大学教授を歴任されたとある、その後の発表者の奮励ぶりを知りホッとした。これでは発表者は浮かばれないなあとの読後感よりのリアクション。尚、同執筆者への敬意により子細は記さない。
道草と彷徨はまだ続く。肝心の論文は目下熟成中、史料翻録は進行中。独自な媒体で何れお目にかけたいものだ。
youtubeでマルタが歌うhei jude(チェコ版!)を聴く。圧政への抵抗歌はウクライナ侵攻でも登場するだろうか。昨今の、とても悲しい報道はプラハの春への軍事介入と、〇洲の野で避難民に襲いかかる△国の戦車の群れとついダブってしまう。歴史はくり返すという。前には----、次には----。(2022年3月31日寄稿)
コロナ禍の下での学術交流-オンラインに向くこと・向かないこと―
古畑徹
中国で新型コロナウィルス感染症(covid-19)がまん延し始めた2019年12月、私は2回にわたって中国に渡航していた。1度目は12月初旬のオファーを受けての浙江大学訪問と講演、2度目は年末の南開大学でのワークショップへの参加・報告である。2018年のサバティカル以来、中国の研究者との往来が急速に増えていたが、その頂点のような状況がこの時であった。3月には延辺大学等から研究者が来日して金沢で「高句麗・渤海史に関する日中研究者会議」(2020年度日本学術振興会「二国間交流事業」)を開催する予定であったこともあり、私の定年までの4年間は、国際的な学術交流中心の研究生活が送れるのではないかといった、少しわくわくした予感があった。
年明け1月からの、covid-19の世界規模での急速拡大は、そんな私の予感をあっという間に吹き飛ばしてしまった。3月開催予定の「日中研究者会議」は一旦延期、そして結局は中止となった。4月には科研費基盤研究(B)採択の朗報があったが、そこで私たちが予定していた海外調査はことごとく実施できなくなった。おまけに、私は国際学類長に選ばれ、人間社会学域研究域の副域長も断り切れずに引き受けた。任期スタート直後の1か月は超多忙でほとんど記憶がない。その後もコロナに加えて、入試改革・組織改革・カリキュラム改革・人事等々でオーバーワーク状態の連続となったが、これについて書き出すと切りがないので、ここまでにしておく。
学術交流に話を戻す。コロナ禍により国や地域を超えた人の往来は大きく制限されることになり、海外だけでなく、国内でも実地調査や他機関での研修が難しくなった。そんな中でとりわけ目立ったのが、2020年前半における国内外の多くの学会・シンポの延期や中止だったと思う。私たちの「日中研究者会議」の延期もその一つである。ところが後半になると、様相は一変する。それがオンラインによる国内外の学会・シンポの実施である。コロナ禍に対応して全国の大学で導入された遠隔授業やオンライン会議が、多くの研究者にzoomやwebex等を普及させ、それによって可能になったことでもある。私自身も、学類で購入したzoom educationライセンスの「オーナー」になり、約40のライセンスを管理している。2年前までは夢にも思わなかったことである。
そして2021年になるとオンラインの学会・シンポは普通になり、昨年の北陸史学会のように会場でもオンラインでも参加できるハイブリッド型の学会も開かれるようになった。おそらくこれからはこの形が主流になるように思う。この形でありがたいのは、同じ日に2つの学会・シンポが重なっても、どちらにも出席でき、時間さえ重ならなければ、異なる場所の報告をともに聞けることである。既にそんなことを2回ほど行った。おかげで、超多忙ななかでも学会・シンポ等の参加回数は増え、思わぬ刺激も随分もらった。オンライン上での質疑応答も、会ごとに出来不出来はあるものの、十分に行い得ることもわかった。回数を重ねるうちに慣れてきたためか、最近では質疑応答・総合討論がうまくいかなかったという会にはほとんど出会わなくなった。報告を中心に議論をし、問題を深めるという点では、従来の人々が集まる学会・シンポと遜色がなくなりつつあるように思う。
しかし、オンラインでできることはそこまでのような気がする。対面の学会・シンポが持っている最も重要な機能は、それを介して新たな人間関係が生まれる点にあると思う。報告に対して手を挙げて質問をし、休憩時間に名刺交換をして知り合いになり、さらに突っ込んだ意見交換をし、新たなことに気が付く。あるいは懇親会で偶然近くになり、あるいはある人に紹介されて知り合いになり、気になっていたある問題を質問し、そこから話が展開して、新しい研究のヒントが得られる。そんな「化学反応」(金大の和田新学長がよくいう「雑談の力」と近い)が、オンライン学会・シンポでは起こりにくい。よく観察してみると、オンラインの質疑応答・総合討論で話が深まっているのは、旧知の間柄の人たちのやりとりがほとんどである。そんなふうに見てくると、ポストコロナ時代において、対面による学会・シンポは必ず復活するし、その意義は改めて見直されるように思うのである。
先にも触れたが、ポストコロナ時代の学会・シンポの主流は、おそらく会場とオンラインを併用するハイブリッド型(最近はハイフレックスともいうが)だと思う。特に国際学会・シンポにおいては、オンラインの威力は明瞭なので、この形が好まれるように思う。しかし一方で、オンラインに向かない国際シンポというのもある。政治問題に関わる場合である。研究者が学会に来てその場で話すのと比べ、オンライン上のやりとりは傍受される可能性が極めて高い。そしてその分、迂闊なやりとりができない。冒頭で述べた「高句麗・渤海史に関する日中研究者会議」について、延期後にオンライン開催を選ばず、中止を選んだのは、そんな理由によるのである。
最後に、「日中研究者会議」の顛末を記して、この雑駁な小稿を閉じたい。「日中研究者会議」は開催予定1か月前まで準備していたため、先にコロナがまん延した中国側の原稿は届かなかったが、日本側報告者の原稿は集まっていた。中止に当たって、これをどうするかが問題となった。結論をいうと、日本側原稿に、会議の開催に関係する中国との学術交流での報告論稿を加え、1冊の本として刊行した。それが、拙編『高句麗・渤海史の射程―古代東北アジア史研究の新動向―』(汲古書院、2022)である。「日中研究者会議」の諸報告はもともと出版予定だったが、中国との学術交流のなかで書いた論稿の日本での公表予定はなかった。それが突然公表となったのだから、コロナ禍の思わぬ「副産物」とでもいえようか。(2022年4月5日寄稿)
「人とのつながり」の大切さを感じて―「コロナ禍」での一学会委員の雑感―
濱田恭幸
2019年12月に最初の感染者が確認されて以来、彼是2年もの間、私たちは新型コロナウイルス感染症(以下、「コロナ禍」)と生活の至るところで向き合っている。その向き合い方は個々人の人生・生活によって勿論様々であり、それぞれの「コロナ禍」が現在進行形で存在している。筆者は2019年10月~2021年10月までの約二年間、まさに「コロナ禍」の真っ只中で日本史研究会近現代史部会という学会の研究委員を務めた。従来と全く異なる形式で学会活動を運営せざるを得なかったが、それは学会活動という学問的営為を「人とのつながり」という点から根本的に変化させるものであったと、委員を終えて感じている。この小稿では、「コロナ渦」での学会活動という点から、一個人の雑感を、今後の学会活動への些細な備忘録になればという思いで記してみたい。
「コロナ渦」での学会活動の変化を端的にまとめると、大会・例会・部会・書評会・研究会などが従来の対面形式での開催が困難となり(報告後の懇親会は勿論不可)、Zoomなどインターネットを利用した形式(以下、ネット形式)に転換したとまとめることができるだろう。言い換えれば、パソコンの画面の中で学会活動を行うことになったのである。足をのばして参加するのが当たり前であった従来をふまえると、これは大きな転換であろう。
ただ、この転換は何も悪いことだけではない。自らの足ではなくネット環境が学会への参加方法となったことで、仕事の合間・家事の合間といったように、学会への参加が格段に容易になったのである。これは学会への参加層にも如実に現れている。日本史研究会近現代史部会は機関紙会館(京都市上京区丸太町)で学会を開催することが慣例であったが、筆者が住む阪神地域からはなかなか遠く、参加層は主に大学院生が中心であった。しかしZoomによるネット形式となったことで、大学にポストを持つ有職者の参加が明らかに増加したのである。また、参加地域も東北・関東・九州などの遠方、他時代の部会では中国・韓国など国境を越えることもあったという。これはネット形式ならではの現象といえよう。報告者にとってみれば、より多様な参加者から意見・指摘をもらうことができ(逆に言えば「鍛えられる」)、学会活動としては活発化したといえるだろう。
しかし、筆者は、ネット形式による学会活動を約2年間実施して、途中からある危機感を抱くようになった。それは、「顔」が直接見えないために「人とのつながり」が希薄化することから生まれる危機感である。
まず、学会の参加者とのコミュニケーションが取りづらい。パソコンによるネット形式の学会の場合、報告者以外の参加者は基本的にカメラをoffにすることが多く、参加者の「顔」が見えないことがほとんどである。参加層が多様化したこともあり、特に、初めての参加者とのコミュニケーションがなかなか上手くいかないのである。報告する・聞くが学会活動の基本であるが、筆者は、報告を通して交友が広がること、学会が「人とのつながり」の場となることも大きな魅力であると思っている。大学院に入学したての修士の頃は、名刺を片手に研究室の先輩に連れられて学会に初めて参加し、緊張しながら初対面の参加者ととりあえず名刺交換を重ねたものである。そのよくある光景も、パソコンの画面上ではなんとも味気ない。
加えて、「顔」が直接見えないことは、研究行為にも影響を与えているようにも思う。第一に、ネット形式による学会が定着してくると、画面上に名前は表示されるが、カメラがonになることもなく、質疑応答でやり取りすることもなく、ただ「いる」だけという参加者が見られるようになった(パソコンの前にいるかも分からない、小稿では「名も無き参加者」と表現したい)。ネット形式では、レジュメを当日会場に持参するのではなく、前日までに配信することが多い。「名も無き参加者」がちらほらと見受けられるようになり、筆者は、レジュメの獲得のみが学会参加の目的になっているように感じたのである。ただし、仕事・家庭・その場の状況で、カメラのon・発言ができない場合もあるので、一概に「名も無き参加者」が悪いともいえない。しかし、報告者からすれば、ただレジュメだけ持っていかれるというのは心地よい気分ではない。筆者は、研究倫理上に強い危機感を抱き、この対策として、部会案内の末文に「レジュメの受取のみを目的する参加はご遠慮ください、討論への積極的なご参加をお願いします」という一文を挿入するようになった。
第二に、「顔」が直接みえないために、質疑応答で質問が出づらいのである。これは、大会など学会の規模が大きくなると顕著に現れた。例えば、日本史研究会の2020年度・2021年度大会は、Zoomウェビナーを用いたネット形式で開催した(2021年度は対面も一部取り入れたハイブリット形式)。ウェビナーは通常のZoomとは異なり、参加者は一視聴者として設定され、パソコン画面上に報告者・司会のみが映り、誰が参加しているか分からない。そのため、通常のZoom形式の学会よりも、さらに質問が出にくく、なかなか議論が活発にならないのである。従来の対面形式で、「あ、あの人今日来ているのか」、「あの人とあの人が激しくやり合っているなあ」と横目で見ながら、活発な議論の場に参加するのも大会の醍醐味の一つである。2021年度大会の司会を担当した筆者は、報告者・コメント・その他の研究委員・参加者から多大な協力をいただきながらも、「顔」が直接見えないためにフロアとの距離を少し感じた。
以上、とりとめも無く一個人の雑感を書き連ねてしまった。「コロナ禍」によって、学会活動は大きな変化を遂げた。従来の形に完全にはなかなか戻れないかもしれないが、これまでの学会活動のあり方を見直すきっかけにもなっている。「コロナ禍」で学会の研究委員を務めることができたのは、自身にとってかけがえのない経験である。それでも、筆者は、「古くさい」と言われるかもしれないが、従来の対面形式での学会を好んでいる。大会前日の部会の懇親会で、気心の知れた研究者・先輩・後輩、初対面の方々との「人とのつながり」を一度は直接感じてみたかったものである。今は、「Zoomとか使って学会やってたね」、「司会やりづらかったわ~笑」と、お酒の席で昔話のように語り合える日が来ることを楽しみに待つこととしよう。(2021年12月20日寄稿)
COVID-19の感染拡大と「若手研究者」―自身の経験から―
高田雅士
COVID-19の感染拡大がはじまってから、もう2年近くが経とうとしている。私は、2019年10月に一橋大学大学院社会学研究科に博士論文を提出し、翌年3月に博士号を取得することができた。つまり、その直後にCOVID-19の感染拡大に直面することになったといえる。博論の執筆自体は感染拡大前に終えていたため直接的な影響を受けることはなかったが、仮に提出をもっと先に予定していたとすれば現状は大きく異なっていたように思う。私自身の研究テーマは戦後日本の地域史でもあるので、現地での調査がこの2年間ほとんどまともに実施できなかったことを考えれば、もしかするといまだに博論は提出できていなかったかもしれない。一昔前とは異なり、博士号の取得が若手研究者のキャリア形成を大きく左右するものとなっている現在、そうした不測の事態による研究計画の混乱は、日々の生活を支える基盤をも脅かすことにつながってしまう。
博士号取得後の2020年4月からは、運良く、一橋大学大学院社会学研究科の特任講師(ジュニアフェロー)として採用されることとなった。ジュニアフェローは2年間の任期付きポストである。しかし、COVID-19の感染拡大にともなって、授業の開始はゴールデンウィーク明けとなり、さらにはオンラインでの授業の実施を要請されることとなった。それまで、対面での授業さえもまともに担当したことがなかったため、そもそも授業をおこなうことにも心理的な負担を感じていたが、オンラインで問題なく実施できるのかどうかという不安が当初は常につきまとった。また、緊急事態宣言が発令されてしまうと、同僚や知人とも顔を合わせる機会がほとんどなく、そうした不安や悩みを直接相談することができなかったのも孤独を感じる要因となった。
また、オンライン授業ゆえの悩みにも直面することとなった。自宅では同居しているパートナーがリモートで仕事をおこなっていたため、私は大学の研究室からオンラインで授業をおこなう必要があったが、大学から与えられていた研究室は同僚3人での共同利用となっていた。従来であれば共同利用でもなんら問題はなかったのだろうが、授業が基本オンラインとなるとその時間帯は共同利用者との調整をはからなければならないなどこれまで想定し得なかった新たな問題が生じることになる。もちろん研究室を与えられているだけ恵まれているともいえるが、これは個別の研究室を与えられている常勤の教員であれば直面しない悩みでもあり、オンライン授業の導入が常勤と非常勤との間に存在するさまざまな待遇格差を浮き彫りにさせたともいえる。
2021年度からは、他大学での非常勤の授業もいくつか掛け持ちするようになったが、そこでもさまざまな問題に直面した。たとえば大学によって使用しているLMS(学習管理システム)やWeb会議システム(ZoomやGoogle Meet)がそれぞれ異なることで、一からその操作方法などを習得しなければならなかった。また、学期中にも感染状況によって授業形態がオンラインから対面に切り替わったり、あるいはハイブリッドでの授業実施を求められたりと突然の対応を迫られることも多かった。これも大学によって対応がまちまちで、それらを個別に対応しなければならなかったこともさらなる負担となった。
しかし、この間のさまざまな状況の変化が、決して悪い方向にだけ進んだわけではなかったとも感じている。たとえば、大学のオンライン授業のノウハウが、学会の会議やイベントなどにも持ち込まれ、定着してきていることは重要であろう。個人的に関わっている学会の委員には子育て世代が多く、それまで会議を事務所でおこなっていた時にはなかなか参加しにくかった委員もかなり参加しやすくなった。また、オンライン配信によって実施された大会企画の参加者アンケートでは、年輩の参加者からも好意的な意見が多かったことが印象的であった。かつて、家事や育児によって土日の昼間に開催される学会のイベントへの参加を泣く泣く断念せざるを得なかったという女性の参加者からは、オンラインで誰でも気軽に参加できる仕組みがもっと早く定着していれば良かったのにという感想をいただいた。これまで家事や育児によって研究活動を制限せざるを得なかった人びとの存在に思いをめぐらせることになったと同時に、そうした研究者の状況がこの間、少しでも改善されたとすれば、それはオンライン化の普及がもたらした重要な功績だといえるだろう。
近年、日本歴史学協会の若手研究者問題特別委員会や歴史学研究会などが率先して「若手研究者」問題に取り組んできた。そこでは「若手研究者」の置かれている厳しい現状が報告・共有されることで、少しずつ議論が前に進んでいるようにも感じられる。しかし、COVID-19の感染拡大は「若手研究者」たちに新たな困難をもたらした。実際に私の周りの友人でも博士論文の提出を延期せざるを得なかった者、海外への留学や調査を断念せざるを得なかった者、そしてそうした事情によって研究計画やキャリア計画そのものを大きく変更せざるを得なかった者など多様な影響を被った「若手研究者」が存在した。さらに問題なのは、不要不急の外出や仲間との接触を制限されてしまったことによって、そうした「若手研究者」の間に「分断」がもたらされたことであった。たしかに、メールやSNSなどを通じて連絡を取り合うことは可能だろうが、実際に顔をつき合わせて「雑談」をすることと、それはまた異なる交流のあり方といえる。
次第に感染状況も落ち着きつつあり、仲間とも顔を合わせる機会が徐々にではあるが増えてきている。そうしたなかでこの2年間のそれぞれの経験を持ち寄り、いかにして状況を改善していけるのかを、今後、足元から考えていく必要があると感じている。(2021年12月23日寄稿)
コロナ禍の下の和歌山城
大山僚介
私は2007年度から2009年度まで金沢大学文学部史学科の日本史学研究室に所属し、能川泰治先生の指導の下、日本近現代史を専門として歴史学を学んだ。その後大学院は別の大学に進学し、現在は和歌山市の和歌山城整備企画課で学芸員として、史跡整備等に関する業務を担当している。今回、能川先生から「コロナ禍の下での近況報告」への寄稿をお誘いいただいた。拙い内容ではあるが、和歌山城を取り巻く環境がコロナ禍で大きく変化していったなかで、感じたこと・考えたことを述べてみたい。
和歌山城は、和歌山県和歌山市の中心市街地に位置する近世城郭である。1585 (天正13)年、羽柴秀吉が紀州を平定した後、弟の秀長に命じて築城されたのが始まりである。その後、城主は桑山氏、浅野氏と移り変わり、1619(元和5)年には徳川家康の十男頼宣が、紀伊・伊勢(一部)・大和(一部)の55万5千石を領して和歌山城主となった。以後約250年間、和歌山城は御三家の1つ、紀州徳川家の居城であった。江戸時代の建造物は明治維新以降、ほとんど失われてしまったが、石垣や内堀は良好に残されており、各城主の築城の過程を物語ってくれる。国の史跡に指定されており、和歌山市を代表する文化財の1つであるが、和歌山市民にとっては緑豊かな都市公園として憩いの場となっているとともに、多くの観光客が訪れる観光地としての側面も持っている。
和歌山県の観光といえば、高野山・白浜・パンダ・世界遺産熊野古道・那智の滝などなど、パッと思い浮かぶキーワードがたくさんあると思う。しかし、残念ながら「和歌山市の」観光地は?と聞かれても、特に何も思い浮かばない方が多いのが現状だろう。2017(平成29)年度に日本遺産に登録された和歌の浦や、由良要塞跡の一部として砲台跡等が現在も残っている友ヶ島など、いくつか代表的な観光地があるが、やはり和歌山市の最も代表的な観光地は和歌山城であると言ってよいだろう。
1958(昭和33)年に鉄筋コンクリート造で再建された天守閣には、年間約20万人の人が訪れていた。2019(令和元)年度の天守閣入場者数はまだ209,866人と20万人以上の水準を保っていたが、本格的にコロナ禍に突入した2020年度の入場者数は、99,543人と激減した(『市政概要 令和3年度版』和歌山市議会事務局発行)。国内の観光客数が減少したのはもちろんだが、海外からの観光客が全く来なくなってしまった影響も大きいだろう。関西国際空港から比較的近い和歌山城には、コロナ禍となる前は特にアジア圏からの団体観光客が非常に多かった。今年度はようやく国内の観光客が戻りつつあるが、当然ながら海外からの観光客は少ないままであり、20万人の水準へと戻るまでにどれほどかかるのか、まだ先は見えない。「文化財の観光資源としての活用→観光客数増加→文化財への再投資」といった理想像を文化庁が喧伝し始めて久しいが、そういった観光に依存したシステムの脆弱性がコロナ禍で露呈したように思う。だからと言って、例えば1つの石垣修理工事に数千万円、規模が大きければ億単位の事業費を要するように、城郭という文化財を後世に確実に伝えていくためには、莫大な費用がかかることも事実である。保存だけを声高に叫んでもなかなかうまくは進まないことは理解しつつも、ではどうすれば良いのか、私のなかでいまだに答えは出ない。
観光客が激減するなかでその大事さを改めて認識したのが、コロナ禍の下でも変わらず和歌山城を訪れてくれる市民の存在である。莫大な費用がかかる和歌山城の保存・整備を行っていくためには、その前提として市民と行政が和歌山城の文化財的価値とその重要性について意識を共有し、莫大な費用がかかることに関して市民の理解を得なければならない。では、コロナ禍に入る前を含め、和歌山城の学芸員として市民の理解を得るための取り組みを十分行ってきたかと自問すると、不十分であったように思う。出前講座のような市民からの申し込みがあれば出張する制度はあるが、このような受け身のものだけでなく、もっと積極的に和歌山城の魅力を発信し、市民とともに和歌山城の今後について考えていけるような取り組みが必要であると強く感じる。
再建からすでに60年以上が経過している和歌山城天守閣は、2017年度に実施した耐震診断で、震度6強から7の地震で倒壊する恐れがあることが判明した。それを受けて、これまで木造再建の可能性も含めて天守閣整備の方向性について市では検討してきた。ただ、どのような整備の方向性になったとしても、多額の費用がかかることは明らかであり、和歌山城の象徴的な存在である天守閣の未来は、行政のみで決めるのではなく、市民とともに考えていく必要がある事柄であろう。そこで、まだ計画段階ではあるが、2022年度には和歌山城天守閣の今後のあり方を考えるワークショップやシンポジウムの開催を予定している。「観光資源としての磨き上げ」と言う前に、まずは基本に立ち返り、国民ひいては人類の共有財産である和歌山城全体の将来を市民と一緒に考える良い機会とすることができればと願っている。(2021年12月23日寄稿)
一地方のコロナ禍そして震災―福島県郡山市より―
菊池和子
2021年の年の瀬にコロナ禍の福島県郡山市より身の回りの様子を二点書いてみようと思う。
新型コロナウィルスの蔓延から全国で stay home の状態が良しとされる期間が続いている中、家の整理に取り組んだご家庭も多いかと思う。私の住む福島県は2021年2月13日深夜に3.11東日本大震災の余震と評価された福島県沖地震(M7.3、最大震度6強)が発生し、罹災証明が発行される規模の被災があった。このコロナ禍の最中の余震は重層の打撃を与え旧家を含め商いを閉じるところが散見している。私のところも昔でいうところの奥州街道沿い二本松藩領内郡山宿の宿駅の一角で茶商として細々と商いを続けているが、周りのいくつかの家が廃業や更に取壊しに至っている。近所の馴染みの方であれば、歴史資料館に古い品々を照会するようお願いしたりするのだが、実行されることは少ない。確認作業に時間がかかる、うちにはたいした物はない、借金証文ばかりだ、と言うことを話されるのであるがその根底にはそれらの品々が生々しいものという感じ方がある。「おらげのじさまがこさえた借金や騒動のことを人さまの目に晒すのは忍びない」と考えるし、文書内の人名が〇〇屋の先代・先々代とリアルに結び付くため外に出すのを躊躇うようだ。このことから歴史資料の保全を進めるには地縁から離れたところの研究者という立場にいる人たちが保全活動のメンバーに加わってもらえるとまた違ってくるのではないかと個人的に思うことがある。
今回の余震による歴史資料の保全活動は10年前の大震災の際の動きと比べて鈍い様に感じた。緊急事態宣言などを中心に全国で様々な活動制限が強まっていたように郡山も保全活動は思うようにできていなかったと思う。実際、私がこちらで所属している郡山地方史研究会は郡山市文化振興課と連携しながら市内の各家々に残る史料の確認を通年で断続的に行ってきたが、この2年は満足な活動は出来ないでいる。訪問確認作業ができない分を画像データのやり取りで間に合わせることはできないかと検討し始めたが、活動の主要メンバーにしろ、訪問先の家人も高齢者であることが多く、デジタル化は田舎では難しいと痛感している。
話は変わり、コロナ禍と子供の話をしたい。約2年前に政府が一斉休校を宣言して子供たちが家に居続けるようになり、私も含めて周囲の大人たちの頭に過ぎったのは10年前の震災のことである。見えざるものから身を守るために10年前も今も外へ極力出さないように行動制限がかかる日々。同じようでいて違うと、ここにきて思いはじめている。
10年前被災地では自分たちの生活の再建はもちろん、学校も再開も不透明になっていた。加えて福島県の多くの人たちが目に見えない放射能と対峙しなければならない事態に陥ったのである。当時7歳の娘、5歳と3歳の息子と瓦礫と放射能から遠ざけ安全に過ごせるよう新潟市の祖父母に預けた。そこから子供たちをどのタイミングで呼び戻すのか、そもそもここ福島に居てよいのかを毎日のように夫と話し合ったことを覚えている。壊れた家財家屋を片付け、近所知人の安否を尋ね励ましあい、原発のより正確な情報を求めていた。しばらくして学校も再開するというのでそれを契機に子供を呼び戻したが、見えざる放射能による制約と付き合わざるを得ない日々が始まった。目に見えない放射能がどのような性質をもっているのかをかみ砕いてかみ砕いて漸く理解し、実際に周囲にどれほどの放射能が存在するのかを計測し、それを少しでも体内に取り込まないようにする方法を探し、その方法で私たちが特に子供たちが安全に至るのかを判断する作業が続いた。混乱し途方に暮れ、毎時選択に迫られているようなヒリヒリとした感覚があったことを今でも思い出す。そのような中で、より安全な(線量のより少ない)エリアで屋内で大半を過ごす暮らしが始まり、見えざるものの蓄積をできるだけ少なくするために屋外活動を制限した。
翻って現在の行動制限は新型コロナウィルスが伝染するものであるため、マスク着用とソーシャルディスタンスが求められている。ソーシャルディスタンスと呼ばれ他者との接触が極端に制限されることでこんなにも精神の均衡が保てなくなるのかと、このコロナ禍で初めて思い知ったような気がする。去年の春高校に進学した息子は新しい環境の中で踏み込んだ人間関係を築けず、モチベーションが上がらないまま苦しんでいる。ソーシャルディスタンスが人と人との喜怒哀楽の分かち合いを難しくし、無味乾燥の中で疲弊させていくように思えてならない。コロナ禍であっても心身共に健やかにしてられるよう、あなたのことを気に掛けていますと互いに周囲に意識して発信することが必要なのかもしれない。(2021年12月30日寄稿)
私のニュー・ノーマルでの教え方・生き方
フィリップス・ジェレミー
新型コロナウィルスのワクチン接種率が日々右肩上がりに進んでいる中、まだまだ常態に戻る日は遠いようである。ただし、少しずつ近づいているのは間違いないだろう(と願いたい)。2020年初頭から、世界共通の感染禍の中、運よく、私自身も、家族や友人たちも、無事に乗り越えてきた。また、会員の皆様のご無事も祈っている。
こうした状況のもと、仕事を失った、あるいは大幅に削減された方も大勢いるなか、運よく、個人的に、コロナの影響はそれほどなく、おおむね、従来の仕事をそのまま継続できた。ただし、やはり変化はあった。
恩師である中野節子先生のおかげで、金沢大学国際基幹教育院において共通教育科目(GS科目)「日本史・日本文化」を担当する専任教員に採用されてから、もう6年目となっている。採用された理由は、英語でも授業を担当できるためであった。金沢大学の授業の英語化が進む中、授業の一部もしくは全部を英語で行える立場である。日本の大学において、日本人の学生に、日本の歴史を英語で教える意味は果たしてあるか、と疑問に感じている方もいらっしゃると思うが、英文史料のみならず、英語で講義の一部をすることによって、学生にとって新鮮な目線で自国の歴史や文化を見ることができる(のが理想である)と思う。
担当する授業は全学類の学生が対象となるので、受講生の基礎知識にはばらつきがある。誰でも楽しく受講できる講義にするため、試行錯誤ながら、反省点を踏まえて少しずつ教員として成長できるように努力してきたが、ようやくちょっと慣れたころ、コロナ禍で急遽、オンデマンド型という、まったく新しいスタイルの教法に余儀なく取り組む必要があった。どのようなフォーマットの講義がいいか、どうすればいいか、分からない点も多かった。結局、最も単純に、パワーポイントにナレーションを付けることにしたが、やはり学生に教員の顔が見えるように、場合によっては自分の話している姿を撮影して挿入して、少しでも「顔が見える講義」にしようとした。ただし、やはり学生とのコミュニケーションがほとんどとれない状態であった。アクティブラーニングをどうすればいいか、かなり迷った結果、学生から質問・感想を寄せてもらって、全員で共有する、ということにした。ただし、これで十分にアクティブラーニングになっているとは少しも思っていない。やはり、学生同士の対話が大事であると思うので、今年度からは人数が少ない「日本史・日本文化(英語クラス)」で20-30分ほどのディスカッションも行っている。
また、文化庁の依頼で、2018年から多言語解説整備支援事業の内容監修も担当している。訪日外国人旅行者が地域を訪れた際、観光資源の解説文の乱立や、表記が不十分なため、観光地としての魅力が伝わらないとの声があることから、観光庁が関係省庁等と連携して多言語解説の専門人を選定して、旅行者にとって分かりやすく、地域の面的観光ストーリーを伝える魅力的な解説文を整備し、魅力的な多言語解説文が各地で整備されることが目的である。例えば、日本人なら当たり前のことをそのまま書いたり、専門性の高い内容や細かいことを網羅的に述べたりすると、海外観光客にとって、不便を感じさせるだろう。
そのような問題点を改善するため、英語ネイティブのライターたちが書いた解説文を、歴史専門家の立場から、専門的知見を持ったエグゼクティブ・エディターとして必要に応じて歴史的事実・誤解を確認して、文章を修正する作業である。場合によっては、ライターと同行して現地を訪問することもある。自分の目で確認して、施設管理者のご説明を聞く機会があれば、より充実したリライトは可能であるが、最近のコロナ禍で現地訪問がほとんどできないため、文章のみのチェック作業になっている。
同様に、文化庁以外にも、石川県や加賀市の観光案内の監修も務めたこともある。石川県の場合、観光ウェブサイト作成業者を選定する委員会に参加させていただき、加賀市の場合、たとえば北前船に関する施設の案内版を自ら書き下ろすこともあった。分かりやすくその施設の位置づけを述べるため、当然であるが全体像や背景をしっかり把握する必要がある。その地域の歴史もしっかり確認する必要がある。そうして学んだことの中には、できれば講義内容に反映させたいと思うことも多々あった。
また、最後に個人的なことであるが、2020年末に伝統的な「アズマダチ」形式の古民家を購入して、仕事の合間を縫って、少しずつセルフ・リフォームに挑戦している。「体験型建築史」の感じで、昔の人びとの建造物・住宅に対する知恵や想いに少しでも触れることができて、伝統的な構造や建設方法も勉強できるきっかけでもある。コロナ禍のなか、このように混乱する世の中を忘れて、自分だけの世界に入り込む何かを持つ必要性がより鮮明になってきたと感じる。(2021年11月5日寄稿)
「命と暮らしを守る」とはどういうことか
能川泰治
2020年の正月以来大阪の実家には帰省していない。それ以降現在に至るまで、富山の自宅と金沢大学をひたすら往復するだけの日々を過ごしている。両親は幸にして元気でいるが、二人とも後期高齢者なので、両親の身に何か不測の事態が起きた場合どうすればいいのか、そんなことを気にかけながら毎日を過ごしている。
ただ幸いにして、私自身も家族も身内も、新型コロナウィルスに感染していないし、コロナ禍のあおりで職を失ったわけでもない。その意味では、コロナ禍によって私の暮らしが受けた打撃は軽微なものであるとしなければならない。しかし、第一波の最中に出された緊急事態宣言の下で、子どもがお世話になっている保育園から、警察や医療関係従事者のようにテレワークが不可能な家庭以外は保育園利用を自粛するように依頼する通知が届けられた時は、正直言って困った。当時私は自宅でのテレワークを余儀なくされていたが、私の仕事は子どもの相手をしながらこなせるものではない。ただし、妻が育児を交代で担当するためのシフト表を作成し、さらに妻が育児を担当する時には休暇を取得してくれたおかげで、お互いが仕事と育児を両立させることができたし、休日以外にも子どもと過ごす時間を作ったことによって、子どもと一緒に過ごすことの楽しさと大切さを再認識できた。そして、ようやくワクチンが普及するようになり、不安と緊張を極限まで高めた第五波もピークを過ぎ、各方面で規制や警戒レベルの緩和措置が進んでいる。しかし、いずれ第六波が到来することが予測されているし、海外では感染再拡大が進行している。それに、第五波の下では医療体制が崩壊寸前まで逼迫していることが報じられていたが、それに対して何か有効な対策は講じられているのだろうか。ワクチンを接種したといっても100%感染しないわけではない。もしも私が感染して重症化したら…。ウィルスが子どもにも重症化をもたらす毒素を帯びたものに変異したら…。心配の種は尽きない。
上に述べたような私の不安は、感染症がもたらす社会問題に起因するものであると同時に、現在の日本の政治が私たちの暮らしに根差した不安に向き合おうとしないことを如実に見せつけられたことにも起因している。
新型コロナウィルスが日本国内で猛威を振るうようになって以来、安倍晋三・菅義偉の両首相は、ことあるごとに「国民の命と暮らしを守ることを最優先する」という趣旨のことを公の場で発言してきた。しかし、そうは言いながらも実際に優先してきたのは、かねてからの政権の悲願であった東京オリンピックの開催とGo To トラベルキャンペーンを実現することであり、国民と感染拡大に関する危機感を共有している様子はなかった。
もちろんコロナ禍によって逼塞させられた経済活動を再開させることは大切である。それに、オリンピックを中止してしまえば、そのことによって様々な混乱がもたらされるだろう。そして何より、ワクチンの普及が菅政権の実績であることは認めねばならない。しかしそれでも、安倍・菅両政権の感染拡大問題に臨む姿勢は楽観的で、実際に感染した人びととその家族の声や、医療・教育・福祉の現場と専門家の声を聞くことよりも、オリンピック開催と経済活動再開を重視していた感は否めない。また、緊急事態宣言にしろ、飲食業界への休業要請にしろ、具体的な感染予防対策は、オリンピック開催への影響を最小限度にとどめることや、政権与党としての選挙対策や東京都とのかけひきなど、「命と暮らしを守る」のとは別次元のことが決定要因になっているとしか思えなかった。
さらに、そうした姿勢を批判されたときの両首相の対応もひどかった。今次の第五派で医療が崩壊寸前にまで追いやられていることを指摘されても、菅首相は、なぜこのような状況下でもオリンピックを開催しなければならないのかを説明しようとはしなかった。また、首相退任後の発言であるが、安倍前首相はオリンピック開催に反対する人びとを「反日的」と述べたと聞いたので、どういうことかと思って発言の出どころ(『月刊Hanada』2021年8月号に掲載された櫻井よしことの対談)を見てみたら、それは文脈としては、“野党は五輪開催問題を菅内閣攻撃のために政治利用している”とか、“反対の論陣を張るメディアが一方で開催スポンサーを降りないのはいかがなものか”というもので、反対意見に対して揚げ足取り的な議論のすり替えで対応するものであった。反対論者を「反日」扱いするのとは別次元の稚拙さが垣間見られた。
以上のように、感染症の恐怖という深刻な問題に私たちが直面しているときに、政権担当者は私たちの暮らしに根差した不安を共有しようとしなかったし、批判や異論が出たときに自らが是とする対策についての説明責任を果たそうとはしなかった。それだけ、民主主義の国であるはずの日本で、政権担当者の資質の劣化が進んでいることを、あらためて思い知らされたように思う。そうした中で、今後も感染症がもたらす不安に向き合い続けねばならないことを想起するたびに、憂鬱な気持ちにさせられるのである。
現実の政治にそのような思いを抱いていただけに、たまたま2020年度のゼミでは大正デモクラシーにテーマを定めて勉強してきたので、「命と暮らしを守る」とはどういうことなのかということについて、様々な示唆を与えられた。
例えば、授業の準備のために吉野作造が書き残した民本主義に関する複数の評論をあらためて読み直したが、論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』1916年1月号)で民本主義を提唱してから以後の吉野は、1933年にその生涯を終えるまで、『中央公論』に評論を書くというかたちで政党政治を監視し続けていたことに気づかされた。つまり、民意を尊重する政党による政局運営および政治腐敗の一掃とクリーンな政治の実現を期待しつつ、なかなかそうならない現実の政局運営を吉野は厳しく批判し続けていたのである。その意味では、吉野は民本主義を提起しただけではなく、その後の政局運営を監視し続けることによって、模範的有権者たらんとしていたのではないかと思った。
また、最近は100年前のいわゆる「スペイン・インフルエンザ」の流行について示唆的な評論を書き残していたということで、与謝野晶子が注目されつつある。そこで私も与謝野が書き残した評論に目を通してみた。その中で特に私の目を引いたのは、官公私の衛生機関と富豪とが協力して、中流以下の患者にも薬を廉売するという方法でもって、貧しいがゆえに有効な薬を入手することができず、むざむざ助かるはずの命を落としてしまうことがないようにするべきだと主張していたこと、いわば治療と投薬の格差是正の必要性を提言していた点である(「感冒の床から」『横濱貿易新報』1918年11月10日)。それは、実際に家族の罹患とその介護という苦境を経験した立場からの、まさに生活者としての批判と提言というべきものであろう。
「命と暮らしを守る」とはどういうことか。コロナ禍の下での政治を見つめながら考えてきたこの問題については、私はまだ定見を持てていない。しかし、大正デモクラシーの時代を生きた人びとの批判と提言からは、今を生きる私たちが、有権者として生活者としてどうあるべきかということを考えさせられる。(2021年10月30日寄稿)
感染症と研究者のネットワーク
本康宏史
コロナ禍の下、このエッセイを脱稿した時点で第5波は収まってきたが、冬場にかけてまだまだ感染状況は予断を許さない。この間、本会会員の多くが関わる学術・教育の現場でも一気にオンライン化が進み、学会や研究会、日々の授業も遠隔での開催・実施が席捲しつつある。長くアナログに浸りきっていた筆者などには、まさしく「右往左往」「四苦八苦」の連続で、ITCスキルの習得に追われる毎日である。
さて、そのような感染禍の夏休みの後半、何とか、恒例の3年次専門ゼミの合宿を福井県内にて決行することができた。実は、この研修も当初は下呂温泉で宿泊し、飛騨高山の町並みを見学する計画だったのだが、直前に岐阜県下にも「緊急事態宣言」が発出され、急遽変更せざるを得なくなってしまったのである。結局、研修地は一乗谷の朝倉氏遺跡、福井市歴史博物館(養浩館庭園)、そして越前大野の旧城下町となった。
このうち大野は、近年「天空の城」越前大野城が人気スポットで、観光地としても注目されているが、蘭学・洋学史研究者にとっては北陸の蘭学拠点の一つとして知られる。幕末の藩主土井利忠は「蘭癖大名」の典型とされ、安政3年に洋学館(蘭学館)を設置。緒方洪庵門下の伊藤慎蔵を招聘し翻訳教授にあたらせている。藩校での洋書翻訳本の出版や内陸藩でありながら洋式帆船「大野丸」を建造したほどである。
今回、越前大野の地域史を説明すべく、大野市歴史博物館を見学。博物館学芸員として、数十年前、特別展で借用した洋書や地球儀が展示してあり、実に懐かしかった。その際、特別展「科学技術の19世紀」でも紹介した越前の種痘伝播の経路がパネルに示されており、現下の感染状況や医学者・科学者の奮闘を髣髴とさせ、ある種の感慨を抱かずにはおられなかった。
というのも、金沢への種痘の伝播は、蘭学医・黒川良安の使者、明石昭斉による伝苗(人痘法)によるもので、この伝播ルートの開拓者が、越前の町医・笠原良策白翁だったのである。白翁の伝苗記録『戦競録』によれば、嘉永2年(1849)11月に福井にもたらされた種痘は、その後、武生、鯖江、敦賀、大野から、金沢、富山に分苗され、さらに江戸、そして良安の友人佐久間象山によって信州松代藩にまで伝播される。ちなみに、白翁は江戸の医師磯野公道について古医方を修め、福井で開業しているが、西洋医学の優秀さを学んだのは、加賀江沼郡山中の蘭医大武了玄からであったという。なお、黒川良安は越中新川郡の町医者出身、長崎留学を経て加賀藩を代表する蘭学医となり、種痘所頭取、卯辰山養生所主附、金沢藩医学館主任などの重職を歴任している。その系譜を引く金沢大学医学部(医学類)の創設者と言ってもよい。
こうした蘭学や洋学の実態に関しては、洋学史学会が総力をあげて編纂した『洋学史研究事典』(思文閣出版)がこの10月中に上梓される。筆者も北陸関連の数項目を担当させてもらったが、ちょうど最終稿のチェックをこの夏にかけて行い、それもあって、研究者のネットワークに改めて思いを致したしだいである。なお、天然痘と闘った笠原良策の生涯と、幼児に植え付けた種苗を命がけで繋いでいく「種痘伝播」の(まさにアナログな)ネットワークを描いた佳作、吉村昭著『雪の花』(新潮文庫)の一読もお薦めしたい。(2021年10月13日寄稿)
コロナ禍での金沢大学考古学研究室 ―オンライン研究発表の確立―
足立拓朗
2020年初頭にコロナ禍という現象が徐々に認識されて以来、瞬く間に日々が過ぎてしまい、そろそろ2021年も終わりに近づいている。本報告では、金沢大学の考古学研究室で私が主に運営している研究会、シンポジウムについて記させていただく機会を得た。研究室にとっても大きな変革の時期だったと考えられ、本報告が数十年後に研究室史を振り返った時、有意義な記録になることを期待している。変革とは研究発表のオンライン化である。今後はオンライン上での口頭発表が研究者にとって肝要となるだろう。
2020年の1月末には、ウィーン大学のマルタ・ルチアニ教授を東京文化財研究所に招聘して、国際シンポジウム(英語)を実施した。今、思い返せば、外国人研究者を日本に招聘するタイミングとしてはギリギリであった。この段階ではオンラインによるシンポジウムという発想はまったくなかった。
2020年4月を迎えた時点で、研究室の最大の課題は、日本考古学協会2020年度金沢大会の開催であり、日程も10月2、3日と決定していた。会場も予約済みであり、資料集の原稿も依頼ずみという状況であった。しかし、この時点でコロナ禍は深刻になっており、半年後の終息は見通せない状況であった。そのため、この2020年度の大会は延期にすることとなった。様々な準備がふりだしに戻った形になったが、この時点でもオンライン化ということは全く考えていなかった。
4月中は授業をできなかったが、5月に入ると大学授業をコロナ禍の中でも進行せねばならばならなくなり、オンデマンドの動画配信に着手することになった。ただ、あくまでも授業のためであり、研究発表をオンラインで行うことなど思いもよらなかった。ただ、ZoomやWebExを利用した会議には参加せざるを得ない状態になっていった。
しかし、7月にイラン大使館から連絡が入り、例年、大使館で一般向けに行っている「イラン考古学セミナー」をオンラインで開催して欲しいという依頼を受けた。文化担当官からは、日本人向けのセミナーではなく、世界中の研究者に英語でオンライン発信してはどうか、その際はZoomを使うのがよいだろう、という相談だった。そのように勧められれば、断る理由もなく、またイラン大使館はZoomに詳しいだろうと誤解してしまった。
8月から本格的な準備に入り、11月28日にはイラン人発表者4名、日本人発表者4名による「Online International Conference for the Iranian Archaeological Webinar, 2020」(英語)を開催した。準備しながら明らかになったが、イランではZoomを公式には使用することができない。そのため、イラン人発表者はZoomの取り扱いは初めて、イラン大使館もZoomの使用に慣れているわけではなかった。この会を成立させるため、オンライン研究会の勉強をする羽目になってしまったが、これが後々役立つことになった。そして、この会は何とか成功したので、一挙にオンライン研究発表会に自信はついたのだが、大学院生諸氏の協力によるところが大きかった。
2021年の年が明けてもコロナ禍は収まる気配がなく、日本考古学協会2021年度金沢大会が心配になってきていた。ただ、日程は10月16日、17日と決まり、金沢大学の共催も決まっていた。共催が決まらないと会場の使用費を支払わなければならなくなるため、この決定は重要だった。
2月にはいると、オンラインでの開催も視野に入れた準備を本格的に進め、各会場のWifiの感度などを計測したり、新たにZoom Webinarの契約方法について学び始めた。新年度に入り、ハイブリッド型の開催を念頭に置くことになった。まだ、この時点では対面型とオンライン型の併用で考えていたわけである。しかし、7月に入ってからのコロナ第5波は深刻であり、9月初旬に大会実行委員会は大会の完全オンライン化に舵を切ることになった。
9月4日に本番を想定した4会場同時並行のZoom Webinarのリハーサルを行ったが、全く接続できず、大失敗した。Zoom Webinarの契約と運用方法の理解を間違えており、実行委員会全体に迷惑をかけることになってしまった。ただ、この時も大学院生諸氏の活躍により、早期に原因を究明することができた。その後、改善を重ね、9月23日に再度全体リハーサルを行い、本番を迎えた。
本会準備における最大の見込み違いは、視聴会場を設けたことであった。会場内は厳格なコロナ対策をした関係者だけが入室できるように運営しており、来場者を会場内に受け入れることができない。そのため別の講義棟に視聴会場を設定して、来場者をお待ちしていた。しかし、来場者は1名だけであった。少なくとも考古学の学界ではオンライン研究発表がほぼ完全に認知されている、ということが明らかになったわけであり、今後はオンラインの研究発表が普遍的なものになることも確実になった。このような現象は、日本考古学協会2021年度金沢大会で初めて成立したとも言えるかもしれない。今後のオンライン研究発表の推移を注目していきたい。(2021年10月25日寄稿)
(会報54号の内容を転記いたしました)
ウィズ・コロナ時代の歴史研究
北川千恵
COVID-19(新型コロナウイルス)によるパンデミックに翻弄された2020年は、研究だけでなく生活全体にさまざまな制約が課せられた年だった。しかし、誤解を恐れずに言えば、2020年は、歴史研究・教育に携わる者にとって、歴史的転換期の始まりを同時代的に自分自身の体験として得ることができた貴重な一年であった。私の研究対象地域はアメリカであるが、国内各地で再燃した人種問題、ジェンダーや文化的マイノリティなどの諸問題(それらの多くはアメリカ史を貫く諸問題である)をめぐり対立する知性主義と反知性主義の相克を、メディアやネットを通して「目撃」した。トランプ政権末期の歴史的事件(連邦議会への不法侵入)やバイデン政権への移行プロセスを目撃し、そしてグローバル世界におけるアメリカの位置づけが変わりつつあることを実感した一年だった。
また2020年は、自分が研究してきた時代・地域への考察をじっくり掘り下げていく時間が与えられた年でもあったと感じている。17~18世紀英領植民地時代における天然痘、19世紀アメリカを見舞ったコレラ禍において、ピューリタン植民地の聖職者はどのような解釈を行なっていたのか、19世紀アメリカ文学にコレラ禍がどのように描かれているのか、これまで留意していなかった視点をもつことができた。
ウィズ・コロナ時代、歴史研究において、何が変わるのか、変わらないのか。2020年度末(2021年3月)時点での私の近況報告と所感を、以下に述べたい。
私の研究は、17世紀北米英領植民地におけるピューリタニズムに始まる。北陸史学会では、金沢大学大学院文学研究科在学時より大会発表と論文掲載の機会をいただいてきた。その後、ピューリタンが用いた賛美歌集についての考察を『北陸史学』に掲載していただいた(「十七世紀における『ベイ詩編歌集』」『北陸史学』第59号、2012年10月)。研究対象をアメリカにおいて賛美歌が果たした社会的文化的役割に移し、それを博士論文とし(「H.B.ストウの『アンクル・トムの小屋』における賛美歌研究」2015年、聖学院大学大学院)、最近はアメリカの賛美歌集出版史に注目している。いずれ北陸史学会で発表の機会をいただきたいと思っているが、成果をまとめるにはまだ時間がかかるだろう。
私の研究を顧みると、資料のデジタル化、オンライン化の恩恵を受け続けてきたことに気づかされる。まず、17-18世紀アメリカの一次資料は、Early American Imprints, Series 1: Evans, 1639-1800によって収集できる。これは17~18世紀アメリカで出版されたほぼ全ての印刷物-植民地特許状、商取引時の契約書、地図、聖書、賛美歌、説教集、小説、個人の日記など-が網羅的に収集されマイクロフィルム化されたコレクションである。国内では東京大学アメリカ太平洋地域研究センターが所蔵しており、必要な資料はほぼ入手できる。また、賛美歌については、アメリカ・カナダ賛美歌学会が主体となって運営するウェブサイトHymnary.org が、アメリカで出版された膨大な数の賛美歌集、楽譜を公開している。歌詞検索や、用いられている韻律(meter)による分類、作詞者および作曲者別検索、著作権の有無など、論文作成のために必要な情報の多くを得ることができる。現在私は、研究環境において「アンテ・コロナ」(アメリカ史において南北戦争前を表す「アンテ・べラム(Antebellum)」になぞらえて)とほぼ同じ状態を保つことができている。古代中世をもたないアメリカ合衆国史の特殊性による恩恵である。
ウィズ・コロナ時代、世界各地の歴史資料のデジタル化、古墳や埋蔵品や建築物など立体資料のデジタル化が、急速に進められると期待している。コロナ禍の正の遺産であると考えたい。しかし、資料の公開性が保たれているか、資料閲覧に政治的経済的格差が生じないシステムになっているか、歴史研究者の一人として常に目を光らせ続けなければならないと感じている。
ウィズ・コロナ時代は、留学や在外研究のための移動が制限される状況に否応なくおかれることになる。私たちはそれぞれの現場で、歴史認識を研鑽し、研究の質を高めていく時代になるだろう。近代史を見続けてきた私にとって、実体験的な異文化理解が困難であった時代、つまり近代以前における異文化理解のプロセスがどのようなものであったのか、比較史的視野をじっくりと広げていくチャンスが到来したのである。(2021年3月30日寄稿)
211勉強会に寄せて
大木紗英子
2021年2月11日、人間社会第一講義棟において211勉強会が開催された。211勉強会とは、能川泰治先生が近現代史ゼミの課外授業の一環として毎年行っている勉強会であり、歴史学が直面する現代的課題について考え、議論する場として設けられている。今年は、「石川の『スペイン・インフルエンザ』流行から考える―コロナ時代の歴史学―」と題し、約100年前のいわゆる「スペイン・インフルエンザ」の流行を事例に、「コロナ禍の時代に歴史学には何ができるのか」考えることを目的として行われた。
勉強会は、大きく3部に分かれており、「スペイン・インフルエンザ」の史実を再確認するパート、石川県における「スペイン・インフルエンザ」の影響について新聞史料を用いて検討するパート、そしてこのコロナ禍において知識人たちが発表してきた評論を読み、歴史学にできることを考えるパートである。
この勉強会の中で、過去から現在を考えるためのヒントとして示唆的であった点を三つあげたい。二つは、私自身が報告担当であった識者たちの提言から考えたことである。まず一つ目は、知識人たちは現在が感染症の流行によって生命が脅かされるという危機的状態であることを踏まえた上で、コロナ後の世界がどう変わるかというところに注目していることである。毎日の感染者数の増減に一喜一憂してしまいがちであり、また、コロナ対策か経済対策かというわかりやすい二項対立の構図で今を理解しようとしていた私にとって示唆的な内容であった。特に彼らが注視しているのは、民主主義の危機である。緊急事態に乗じた国家権力の拡大とそれを無批判に支持してしまう国民に懸念の声が集まっており、これは現在進行形で注視しなくてはならない点である。
二つ目は、グローバル・ノースの立場から我々は世界を、そして歴史を見ているという指摘である。感染症によってもたらされる死がもともと身近であったグローバル・サウスとそうではないグローバル・ノースという構造的な格差がコロナによって露呈したと今回取り上げた小沢弘明氏の評論では述べられている。この発言から、知らず知らずのうちに自分の視点が偏っているということに気付かされた。また、過去から現在を考えるためには、自分が世界や歴史をどのような立場から見ているのかを知ることも重要である。
最後は、能川先生から話題提供として述べられた「スペイン・インフルエンザ」が記憶されなかった理由についての考察である。多くの犠牲者を出したにもかかわらず、「スペイン・インフルエンザ」が記憶されなかったのは、第一次世界大戦が勃発していた最中のことであったからという分析が先行研究においてなされている。しかしながら、能川先生は「スペイン・インフルエンザ」が記憶されなかった理由をそのような外的要因にばかり求めるのではなく、当時の死生観といった内的要因に目を配る必要があるのではないかと問題提起を行った。このような指摘から、過去から教訓を学ぼうとするときには、単純に現象を比較するのでは十分ではなく、当時の人々の声を具体的に拾い上げる必要があると言える。
今回の勉強会は、歴史を学ぶことによって今がどのような時代なのかを考える実践的な試みであった。識者たちの提言からは、過去から現在を考えるためには大きな社会の仕組みがどう変化しようとしているのか見通す広い視野と自分がどの立場から世界を見ているのか客観的に捉える力が必要であるということが伺えた。また、過去と現在を比較する際、当時を生きた人々の声にまで目を配り、当時と現在の違いに留意する必要があるということも重要な指摘であった。今回の勉強会で得たヒントを2年目に入ったコロナ禍という現在を過去から考えるために、それから進学先での研究に活かしていきたいと思う。(2021年6月17日寄稿)
ミュージアムの可能性 ―ポストコロナを見据えて―
塩崎久代
オリンピックイヤーのはずだった2020年。新年を迎えた時には、まさかこんなにも世界が大きく変わるとは思ってもみなかった。
2020年4月に発令された緊急事態宣言により、筆者が勤務する石川県立歴史博物館も突然の臨時休館を余儀なくされた。普段であれば児童・生徒の春の遠足でにぎわう博物館はひっそりとし、4月中旬から予定されていた春季特別展はもちろん、夏・秋の特別展も翌年以降に延期となった。教育普及を担当する部署に所属する筆者は、広報や友の会・ボランティア運営などを担当していたが、2020年度の年間スケジュールはすべて狂い、状況がめまぐるしく変化する中、イベントの中止・延期の対応や人数制限といった感染防止策を検討し、決定した方針をホームページ等で発信することが業務の中心になってしまった。さらに、友の会やボランティアのメンバーも高齢者が多いことから活動停止、学校団体や中学生の職場体験もキャンセル、前年まで増加傾向にあった外国人入館者も当然ながら激減し、予定されていたインバウンド事業も取りやめとなった。「不要不急」の外出を控えなければならない=来館者がほとんどない中、自分たちに何ができるのか。そんなことを考えながら、歯がゆい思いをしていた。石川県よりも早く感染が拡大していた北海道では、北海道博物館が学校休校により家で過ごすことが多くなった児童・生徒向けに「おうちミュージアム」というオンラインコンテンツを配信していることを参考にし、これと連携してSNS(Twitter)を用いて「おうちで楽しむ石川れきはく」という取り組みを学芸員全員で行うことになった。緊急事態宣言解除後も「おうちミュージアム」には全国200余りのミュージアムが参加しており、2021年1月にはZoomでの交流会を行い、課題を共有しながら新しい生活様式の中での活動のあり方を模索している。
その後、5月はテレワークを導入し隔日出勤となったが、6月からは通常勤務に戻った。再開後の展示室では、部屋ごとに人数制限を設けるとともに、タッチパネルを用いた展示やハンズオン(触れてみる)展示、映像スタートスイッチは感染拡大防止の観点から定期的に消毒を行うことになり、映像シアターは密閉空間として中止あるいは人数制限を設けた。7月には冬に予定されていた企画展を急遽前倒しして行い、講座などもコロナ対策を徹底した上で定員を減らして再開し、春に行うはずだった特別展は10月にようやく会期を短縮して開催することができた。
誰もが経験したことのない混乱・危機に直面し、ミュージアムも大きな転機を迎えている。すなわち、これまでは入館者数(集客力)が展覧会やそのミュージアムの一つの大きな評価基準となっていたように思うが、大行列ができて混雑するような展覧会はコロナの時代には社会的に受け入れられなくなったのである。何か人智を超えた大きな存在にガツンと頭を叩かれたかのような、従来の常識・価値観を根底から揺るがす変化であった。こうした中、例えば、ルーブル美術館は所蔵する48万2000点以上のコレクションをオンラインで無料鑑賞できるデータベースを開設し、企業とコラボしてオンラインストアを拡充するよう迅速かつ戦略的に方向転換を進めており、日本でも東京などの大都市を中心にオンライン展覧会や動画配信に注力する動きが広がっている。これからは、オンラインである程度のサービスを提供できるミュージアムでないと生き残っていけないのではないかと考える。
また、展覧会・イベントさえやっていればいい、というような消費型の活動や観光客を重視するような風潮が見られるが、地元の方に愛され、求められるミュージアムであることの価値を今一度見直す必要があるのではないだろうか。感染防止策を講じた上で講座を再開した際、「こんな大変な時に、講座を開いていただき感謝します。」といった受講者の声が寄せられた。歴史を学びたい、あるいは歴史を通じて仲間や来館者と交流したい方々のニーズに応えることも大切である。展示はミュージアムの「顔」ともいえる重要な事業であり、収益・採算を度外視してもよいと言うつもりはないが、学芸員の調査・研究活動や未来を担う子どもたちの教育に資する活動はもちろん、レファレンスサービスやオンラインコンテンツの拡充、データベース構築による館蔵品情報の発信といった基盤事業を地域と連携しながら厚くし、ブランド力を高めることがポストコロナ時代のミュージアムに求められているように思う。
今年は春季特別展を予定通り開催できたが、4月30日の午後3時頃、5月1日から5日まで予定されていた体験型イベントの中止が決定し、参加者への連絡等に追われた。想定していたこととはいえ、楽しみにされていた参加者、とくに子どもたちに申し訳ない結果になってしまった。後日、体験キットをお届けすることになったが、人と人との交流の場としてのミュージアムの機能は今年も十分に発揮できずにいる。毎日マスクを着けるのが当たり前になり、最近は仕事やプライベートでPC・スマホの画面越しの「交流」をすることにも慣れてきたが、同じ空間を共有していないことが、これほど味気ないものだとは思わなかった。人と人が真の意味で交流できなくなっていることは本当に残念である。私たちが研究している歴史も、先人たちが生きた交流の中で紡いできたものなのだから。(2021年5月2日寄稿)
(会報53号の内容を転記いたしました)
パンデミック元年、史料の遺し方を考える
木越隆三
昨年の2月21日(金曜)、近所の研究仲間と会食した折、「石川県でも、ついにコロナ感染者」というニュースに接した。それからちょうど1年。パンデミックに翻弄され、様々な自粛あるいは「新生活様式」を模索する日々が今も続く。
2020年、身辺でおきたコロナに起因する生活変容、政府や自治体が繰り出した感染対策や市民の反応など、できるだけ丁寧に記録し、残せるものは残しておくべきと1年前の4月、自粛中に考えついた。
1年たって、どこまでそれができたかとなると怪しい。自粛に慣れてきたこと、記述すべきことが余りに多く、しかも不確かなことばかりで収拾がつかないためである。最初、驚きと不安から、ふと思い付いたにすぎないことゆえ慣れるに従い関心が薄れ、新生活様式が日常のなかに溶け込んでしまうと記録する意味も感じなくなったのであろう。
もうすぐ3月11日。東日本大震災と福島原発メルトダウンから10年目を迎える。あのような大災害が瞬時に起きたことに心底驚き、町内の有志と被災地に向かったが、今もっと大きな惨禍が、世界各地で緩慢に進行中なのかもしれない。
今年、齢70を迎え、70年という年月の長さを想像してみた。私は朝鮮戦争のさなか1951年1月生まれだが、同年9月のサンフランシスコ条約で占領の時代が終わり、2021年、70歳となってパンデミックに遭遇している。
これを嘉永6年、1853年の黒船来航時に生まれた人にあてはめると、1923年、大正12年9月の関東大震災のとき70歳を迎えたことになる。彼は維新変革と文明開化、また日清・日露戦争、大正デモクラシーに大震災、こうした事件や社会変容をどのように受け止めたのか、多様な反応が予想される。
関東大震災のときに生まれた人は1993年、宮沢内閣の平成5年に70歳である。大正・昭和・平成の三つの時代にまたがる。私の場合、昭和・平成・令和と三つの時代にまたがる。黒船来航から関東大震災までの激動に比べると、平穏な70年であった。高度成長からバブル崩壊を経て長期の経済不振、アベノミクスへと変転したが、総じて繁栄を謳歌した時代であった。平均余命が男子81歳、女子87歳まで伸び、百歳以上人口が6万人という数字がこれを象徴する。朝鮮戦争以後の70年、対外戦争に巻き込まれなかったという意味で「平和な70年」ともいえる。
50年前金沢大学に入学し大学院まで在籍、日本海文化研究室に3年間研究員として勤務した1970年代は、現在と連続する時代だと受け止めている。しかし、高校入学までの村の風景は、戦前農村の雰囲気が残り別の時代であったと思う。東京オリンピックと新幹線、大阪万博と高速道路網、田中角栄の列島改造で社会が一変したように思う。高校入学以前の金沢市内は石置き屋根の民家が連なり、あの姿が今も続いていたなら「世界遺産」の価値はある。だが石置き屋根を壊し、街並みを近代化したことは必然であり、逆戻りの必要はない。
今度のコロナ禍を記述するとき、covid19によるパンデミックとみて、世界的視点をもつことが重要であろう。収束や拡大を判断するときも、世界の感染者や死者の動向をみて判断すべきであろう。国内のコロナ報道は世界的視点が乏しく、報道姿勢の一国主義の狭量さが目にたつ。地元新聞ばかり読んでいると、世界のパンデミック情報が乏しく、視野が狭くなってゆく焦燥を覚える。
とりとめのない咄になったが、この雑感の目的は、2020年のパンデミックについて、100年後(西暦2120年)の歴史家たちは、どのような史料をもとにどんな評価を下すか、想像してみたい、ということにある。権力者の「自粛のお願い」だけで、なぜ抑制できるのか不思議でならない。戦時中の「隣組」の経験はないが類似するのかも。世界各地の感染状況や収束の動向から、民族や地域によってどんな変化が看取されるのか、その背景や要因はどのように考察されるのか興味深く思うからである。100年後の歴史研究者が、2020パンデミックを考察する姿勢を想定しながら、いま進行中のパンデミックをめぐり、日本人はどう対処したか記録する価値は十分ある。その際、われわれは今、このパンデミックの影響の深さを知らない、また惨禍の実情も十分知らないまま、こうした記録をせねばならない。この葛藤に気付くことも、史料批判や史料研究を行うとき有益である、ということを、ここで述べたかった。
300年前の近世史料を分析し、日々論文をまとめているが、基本となる史料の読み取りや史料批判を行うとき、歴史の証拠となる文献記録は、上述の如き葛藤のなかで書かれたものではないか。記述史料は誰が何を意図し作成したか明記されていれば、とても有難い。我々の自粛生活の記録そのものが、100年後歴史史料になるとしたら、記述動機や記述原則を明記し、記録を残すことも必要ではと思っている。
3年前、出身高校の校長から『金沢三中・桜丘高校 百年史』の編集を託され、2020年10月の記念式典にむけ刊行準備をしてきたが、パンデミックの影響で式典などすべて一年先送りとなった。これを機に2020年の金沢桜丘高校は、covid19感染拡大で、どのような事態に遭遇したか、克明に記録し残したいと学校側にもとめた。それで大正10年(1921)創立からの百年史の最後は2020パンデミックの記録で締めくくる予定である。今年はそのことに専念せねばならない。これまで現代史に向き合う時間がなく、近世史ばかりクローズアップし史料によって追体験してきた。これを機に自らの生きた時代をもっと丁寧にみていきたい。過去を読み解くヒントが沢山あるように思うからである。
コロナ禍の教育現場で考えたこと
宮崎嵩啓
これが文明化した社会の姿なのか
2011年3月11日,まだ高校生だった私は大学受験のため仙台空港にいました。辛くも難を逃れたものの,被災した地元東北の姿に,「これが文明化した社会の姿なのか」との疑問・違和感を覚え,私はその後歴史学の道に進みました。そして今,私は金沢大学附属高校に教員として勤務していますが,連日発表される新型コロナウイルスの感染者数,梅雨の終盤に奇襲攻撃のように各地を襲う豪雨,そして災害級の酷暑。「これが文明化した社会の姿なのか」との問いが,いよいよ私のなかで大きくなっています。
新型コロナは現代の黒船
最近「新型コロナは現代の黒船」が私の口癖となっています。黒船のインパクトがいかに巨大だったかは改めて語るまでもないことですが,既存の秩序は崩壊し,ペリー来航からわずか15年で幕府は滅びました。代わって誕生した明治政府は新たな時代を切り拓いた一方で,新政府誕生の陰で日本社会にはいくつもの分断が生まれました。その最たる例が戊辰戦争であり,西南戦争かと思います。翻って現代社会,新型コロナウイルスは私たちの暮らしや価値観を大きく揺さぶり,今後も揺さぶり続けることでしょう。学校生活を例にとっても,オンライン授業は当たり前になり,マスクの着用はもはや常識となっています。一方で社会全体では,いまだに感染者の責任を追及する動きも見られ,偏見や差別も深刻化しています。1年前,こんな現実を誰が予測したでしょうか。あたかもそれは黒船が来航し,それまでの常識が通用しなくなった幕末維新期と相似形をなすように私には思えました。
いま何を学ぶかが問われている
パンデミックの真っ只中にいて,私自身歴史に対する問いかけが大きく変化しました。これまでも歴史「を」学ぶのではなく,歴史「で」学びたい,そんなスタンスで授業を構想してきましたが,今の時代ほど歴史から学ばねばならない時代もないような気がするのです。今我々は「明日の暮らしはどうなるのか」,「有事に際してリーダーには何が求められるのか」など,現状の打破に向けてまさに各々が探究している最中ですが,こうした問いは歴史上何度も問われてきたのではないでしょうか。私たちは日々,様々な課題に直面しては,それを解決するために試行錯誤しています。しかし,私たちや私たちの社会が悩んでいることは大抵,先人たちも悩んでいるものです。ならば,先人たちはどう悩み,何を最終的に選択したのか,そしてその選択は最良だったのか,そこに副作用はないか,あるとすれば代替策を検討できないか。こうしたことを考えるうえで,歴史は最適な題材と言えるでしょう。
最近はオンライン授業の要請などもあり,生徒が「どのように学ぶか」をめぐって議論が盛んに行われています。「アクティブラーニング」という言葉はその代名詞です。そのことの重要性は認めたうえで,しかし,この予測困難な時代に「何を学ぶか」,ここでこそ我々教員の力が試されるのだろうと思います。そのためにはまず,我々教員が歴史に何を問いかけるかだと思います。「黒船来航に幕府はどう向き合ったのか?」「なぜ幕府は滅んだのか?」など個々の事象ごとに課題解決を試みる問いや,「なぜ対立は生まれるのか?」「異議申し立てにはどんな方法があるか?」のように人間社会に対する普遍的な問いも必要でしょう。また「なぜ近年,感染症が急増しているのか?」「ウィズ・コロナ/アフター・コロナ時代の未来予想図は?」のように,パンデミックそのものを主題にしたり,パンデミック後の時代を,歴史を手がかりに予測する視点も必要ではないでしょうか。この危機の時代に,歴史=先人たちの遺してくれた教材から「何を学ぶか」が決定的に重要だと私は思うのです。
新たな時代を切り拓く動き
コロナ禍の中で,これまでの学校文化のあり方に疑問を抱き,行動に移した生徒がいます。その生徒は「臨時休業やオンライン授業,分散登校と目まぐるしく対応を迫られる中で,私たち生徒も学校のステークホルダーなのに,学校運営の意思決定過程に参入できないのはおかしい」のではないかと考え,生徒+教員でこれからの学校について語り合う場を創ってくれました。2020年5月,生徒たちは以下のような提言をしてくれました。
実現可能かはわからないが,生徒の意見を直接先生方に,先生方のリアルな声を生徒に,そして,互いに良い学校を作るとき に,「職員会議に生徒が参加する」というのは面白いのではないかと思った。公式の場であり,容易に叶えられるものではないだろうが,まずは,生徒主催のものに先生に参加していただく,生徒が入っても差し支えのない範囲から行っていく,など,考えられることは多いと思うので,少しづつ対話を深める方法を模索していこうと思う。
生徒が学校の意思決定に直接参画するというのは,これまでの学校文化には欠如していた視点です。今までは疑うことのなかった常識が,コロナ禍を経験する中でおかしいと感じ,新たな常識を創ろうとするこの運動を(まるで自由民権運動ですが),私は非常に頼もしく感じています。
危機を経験したときこそ,人間は学びを深めてきました。生徒も教員も初めて体験するパンデミックです。かつての松下村塾のように師も弟子もなく,皆が現状を打開すべく学びを深められればと思います。
本稿は Benesse High School Online 掲載の拙稿「新型コロナは現代の黒船,いま何を学ぶかが問われている」(2020年9月7日,https://bhso.benesse.ne.jp/hs_online/info/guide/teachercolumn/vol11.html)に加筆修正を加えたものである。
西野正次(元北陸史学会副会長)
ウィルス流行に負けぬ・日中友好の絆
天安門事件に抗議して1989年から3年間、訪中を中止して以来、約30年ぶりで今年は訪中を中止した。2020年2月10日、僕は日本在住の3名を含む、20数名の中国の友人たちに「コロナ流行であなたと家族や友人たちは御元気ですか」という見舞いと「来年は金沢・蘇州姉妹都市締結40周年なので記念誌を発刊する、あなたにも原稿を依頼する」という内容の鄭重なメールを送った。それに対する返信を紙面の都合で挨拶や個人的なものは省略し、先着順にコロナの状況を伝える本文だけ紹介する。日付と氏名を先頭に移動し、略歴と勤務先は僕が付加した。
2/10 魏敏(男)蘇州の確定患者は77人です。幸いに今まで蘇州大学には確定患者や感染が疑われる患者が一人もいませんし、教職員や学生たちが2月23日までに原則入校禁止やオンライン授業を実施などの対策をしております(元金沢市国際交流員、蘇州大学勤務)。
2/10 秦兆雄(男)小生は武漢の近くの出身です。現段階では、神戸にいる小生も、実家にいる親戚や友人なども大丈夫です(1981年金大入学→東大大学院卒、神戸外大教授)。
2/11 王冬冬(女)情況は非常に厳しいです。でも難関を克服します。日本人の中国の病疫に対する大きな援助に感謝しています(元金大学友会会長、考古学、北京科技大勤務 )。
2/12 趙麗媛(女)全国の自治体は武漢市の湖北省に医療支援隊を派遣し、患者の治療を支援しています。今日まで蘇州の確定感染者は80人に上りました。この困難の時、金沢市がマスクを1万枚蘇州市に寄贈していただき…(元金沢市国際交流員、蘇州市外事弁公室勤務)。
2/12 朴英実(女)延辺はいま新型コロナウィルス肺炎患者は5名、みんな緊張して感染予防に全力を尽くしています(元金大学友会会長、吉林省延辺医科大学勤務・医師)。
2/14 王希亮(男)ハルピンの場合には何百人の感染者が出ていたそうですが、小生などを含める市民たちは、今までも、出かけないように要求されるので、家の周辺にて生活品だけを買いにしかいきませんでした(元金沢大学客員教授、現代史、元社会科学院教授)。
2/18 樊文琼(女)ただ毎日閉じこもり状態です。学校の開校時間はまだわからないで、3月以降になると思います。旦那は先週在宅勤務でしたが、今日から出勤に行きました。今度の新型肺炎は本当にひどく、この数日、日本の感染者数も急増して、本当に申し訳ございません(元金沢市国際交流員、金沢サポーターズクラブ会長、蘇州農業職業技術学院勤務)。
2/26 高彬芳(女)SARSの時期は日本へ留学中で体験しなかったが、今回は、ビル、住宅地など入る度、体温が計られ、外出には必ずマスク着用が義務付けられ、そのためマスク、消毒液とか保護用品の購入ができず、特にマスクは政府よりコントロールし、個人住宅から予約→購入と言うルートになっており…(元北陸大→静岡県立大卒、上海在住会社員)。
河北省邢台の劉江林(男、金大工・院卒)、昆明の江明珊(女、北陸先端大学院大卒)以下は割愛する。4/17、蘇州の樊文琼より「石川県は感染者が140人にもなり、新型肺炎ウィルスで9人が死亡した」ので、友人たちに募金を呼びかけ「金沢市日中へマスクを2千枚送った」と連絡が入った。5月の連休後に届き、そのまま市役所へ「必要な病院や施設で使って欲しい」と寄贈した。6/5、金沢市長から蘇州の友人たちと金沢市日中あてに感謝状が授与され、式典に参列した。コロナウィルスの流行に負けぬ日中友好の絆に深く感謝している。また趙麗媛、王希亮、朴英実、劉江林より、早々に記念誌の原稿が届いたことにも感謝している。
北陸史学会余談 若き日の回想
1955年春、僕は金沢大学法文学部へ入学し、1956年秋、13名の友人と史学科へ進級した。当時、史学科には日・西・東・地理の4研究室があり、僕は東洋史へ入った。史学科には9名の教授・助教授と2名の助手がいた。11月末の日曜日に北陸史学会の発表会と総会があり、僕ら史学科の新入生は、ほぼ全員が参加した。だから僕の同級生は大学2年生の時から、皆、北陸史学会の会員だった。1959年3月、僕は大学を卒業し史学科の助手に就職した。その時、東洋史の増井経夫先生は「助手の任期は2年だけ、君の卒論を法文学部紀要に掲載するから、短縮し書き直すように、また、前助手の後を継いで北陸史学会の幹事の仕事をするように」と言われた。僕の助手生活は1年未満で金沢高校から来て欲しいと頼まれ、教授の許可を得て転職した。1961年秋、恩師慶松光雄先生から手紙が届いた。「来月11/3に京都大学で『東洋史研究』の学会があり、君が研究した糧長の発表もある。参加してみたらどうか」という内容だった。「明代江南の糧長について」という発表は、後に有名国立大学の教授になる若き日のA氏だった。学会の研究発表では発表後、質疑の時間がある。その質疑で北海道大のB教授の質問にA氏は答えられず立ち往生した。僕は挙手して、出身・名前を告げ、質疑に答えた。
さらに別の質問にもA氏は答えられず、また僕が答えた。結果として、僕はA氏の助っ人の役割を果たした。学会の後で立食だが懇親会があり、僕は友人もいないので帰ろうかと思ったら、後に名古屋大学の教授になる若き日の森正夫氏が近づいて来て「私のテーブルでA氏や仲間が待っていますから、良かったら来ませんか」と誘ってくれた。
皆、まだ若い大学院生か助手時代の、後に国立大学の教授になる寺田隆信氏や谷口規矩雄氏らだった。彼らはいずれも明清時代の研究者仲間だった。A氏は「勉強不足で…」と頭をかいていたが、仲間たちは「君はよく勉強している。助けて貰ってありがとう」と口々に自分が助けて貰ったように感謝した。ビールを飲みながら、話は弾んだ。誘ってくれた森氏は、1年前に僕が金沢大学法文学部紀要に発表した糧長に関する処女論文を読んでいた。僕には同年代の研究仲間がいることが羨ましかった。僕は安月給では生活が出来ず、金沢で自炊しながら、家庭教師をして、やっと往復とも鈍行の夜行列車で京都へ来たが「来て良かった」と感じた。
立食の懇親会が終わりに近づいた頃、富山大学の佐口透先生が「西野君、お茶を飲みに行こう」と誘いに来た。北陸史学会では何度も顔を合わせているが、個人的には話をしたことがない西域史・シルクロード史の研究者である。佐口先生は、後に金沢大学の教授、北陸史学会の会長になる。僕は佐口先生の参加に気づかなかったし、声をかけられてとても嬉しかった。
佐口先生から京都大学の羽田明先生を紹介され、3人でコーヒーを飲みに行った。羽田先生とは初対面だったが、父親は西域史の研究で有名な京都大学の羽田亨名誉教授である。
佐口・羽田両先生からも「君の発言は筋が通っていて、分かりやすかった」と褒められた。
僕は嬉しかった。だが、浮かれた気持ちはなかった。学校の給与だけでは生活できず、家庭教師で不足分を補っている環境を改善しなければ、そのためには学校に組合を作り、給与を改善し、教育や研究に打ち込める環境を作り出さなければと、僕は金沢高校へ勤めはじめて間もなく行動を開始していた。帰りの夜行列車の固い座席で眠れぬままに考えていた。その40日後、僕は金沢高等学校労働組合を結成し、県高校教職員組合が加盟している県評に加盟した。
若き日々の僕は賃上げ闘争、教育条件の改善、クラス定員を60名から公立高校並みの45名を達成するまでに、約10年の歳月を要した。仲間の教師の意識改革が一番困難だった。
1970年春、僕は中央アジアのシルクロードを旅した。タシケント・サマルカンド・ブハラ等である。1972年に中国と国交が回復し、日中友好協会会員は訪中できたので入会し、文化大革命末期の1976年以来、毎年訪中した。この1970年代から僕の軸足は、ようやく歴史へ戻った。
「明の海商王直」の発表など数回、北陸史学会で発表したが、論文は失礼ながら金沢高校の紀要に発表した。34歳で教務主任になった僕は教師と生徒の質の向上を目指し努力していた。仲間の教師に最低、教科やクラス運営の成功や失敗の実践記録を執筆して貰い、僕も実践記録を執筆する一方で紀要の品格を高めるために論文を掲載した。五学会連合でもよく発表した。 学校関係の諸研究会、県社会科教育研究会、私学教育研究会、中部地区私学教育研究会は、文部省管轄の教研だが、同時に日教組関係の全私研でも、また、公私立の有志の世界史研究会でも何度も発表をした。その発表や訪中の記録を例えば「中国における教育革命」「歴史紀行泰山登高記」「歴史紀行 洛陽・西安の旅」等を、僕は金沢高校の研究紀要に毎年執筆した。1978年には県教委から依頼されて『石川県教育史』第3巻の「私学の部」を執筆した。1979年には校長から頼まれ『金沢高等学校五〇年史』を仲間の教師の協力を得て執筆・刊行した。
1980年、元金沢市長の徳田与吉郎を団長とするシルクロード訪中団でウルムチ・トルファン・石河子など中国領のシルクロードを旅した。MROの撮影スタッフが同行した。NHKがテレビで、シルクロードの放映をしたのは2年後のことである。シルクロードの旅の後、徳田団長から「先生、中日新聞からの依頼なので何か書いてよ」と頼まれ「天山のふもとで」と題して、「ウルムチの子供たち」「砂漠の情景あれこれ」「ブドウの街トルファン」を連載した。北陸史学会の元会長の恩師に頼まれて、スライドを使って金沢大学の大教室で講演もした。
翌1981年、中部地区私学教研集会が静岡県の日本大学三島校舎で開催され、僕は「近現代のシルクロード」と言う題で研究発表を行った。僕は県内各地や中部地区の各都市で10数回の研究発表を行ったが、校長が参加したのは、この時だけだった。当時は南俊郎校長時代で、仲間の教師と一緒に開会式から参加した。記念講演は日大三島校舎の蔵並省自学長が行った。東京の日大本部には総長がおり、地方校舎には学長がいる。それがマンモス大学日本大学の組織である。記念講演が終わり、僕らが席を立とうとした時、壇上から直接、蔵並省自学長が左前方に座っていた僕らの席へやって来て「西野先生!」と声をかけた。北陸史学会でよく会っている加賀藩の研究者で天保改革や海保青陵の研究者である。僕の禿げた頭を壇上から見つけたのだろうが、僕は「三島で午後発表予定です」と挨拶し立ち話をした。驚いたのは南校長だった。「どうして学長を知っているのか」と質問された。返事の全ては北陸史学会である。
北陸史学会の総会・発表会の会場は、初めは金沢城大手門に近い金沢大学法文学部の旧木造兵舎のオンボロ校舎だったが、1963年から二の丸広場の法文学部新校舎20番教室に替わった。1989年に城内の全学部が角間へ移転して、会場は歴史博物館学習ホールへ替わる。2014年には現在の西町の金沢大学サテライトプラザへ移った。ステイ・ホームで、僕は若き日の回想を執筆した。雑誌『北陸史学』で記録に残るのは約10編の書評だけである。了
パンデミックと国際秩序の変容
永田伸吾(金沢大学人間社会研究域法学系客員研究員)
筆者は大学院博士課程以来、1970年代後期米国の東南アジア政策について外交史的アプローチから研究をしている。2019年の第61回北陸史学会大会では、その一端を報告した。他方で、在京研究コミュニティとの関係から、国際政治の現状分析にも従事している。そこで、新型コロナ・パンデミックと国際政治の現状分析を関連づけながら、筆者の近況を報告する。
歴史的にみて、感染症は国際秩序の変容に大きな影響を与えてきた。例えば、約100年前に世界で猖獗を極めたスペイン風邪は、第一次世界大戦の終結を促すことで、ヴェルサイユ体制という新たな国際秩序を生み出す一因となった。
しかし、理想を追求するあまり国際政治の厳しい現実を軽視したヴェルサイユ体制は、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができず約20年の短命に終わった。そこで、米英両国は、大戦中からより現実に基づいた戦後国際秩序を構想した。そのような米英主導の戦後国際秩序は、米ソ冷戦の終焉に伴い、「自由と民主主義」や「法の支配」などの価値に基づく道義的正統性と普遍性を獲得したかにみえた。しかし、この現行国際秩序は、近年の中国の現状変更の試みと、それに伴う米中冷戦の激化により黄昏を迎えつつあるかにみえる。
他方で、米中冷戦は、国際政治学者の間では、古代ギリシアのアテナイとスパルタの覇権戦争であるペロポネソス戦争との歴史のアナロジーから考察される傾向にある。ペロポネソス戦争では、疫病の流行がアテナイの力を削いだことが、後年のスパルタの勝利の遠因となった。そして、武漢に端を発した新型コロナ・パンデミックは、米中冷戦に拍車をかけることで、現行国際秩序の変容に大きな影響を与えている。
ここで、「コロナ禍の下での近況報告」に話を移すと、筆者は2020年の春から夏にかけて、1971年の「スエズ以東からの撤退」以来とされる、近年の英国の「アジア回帰」政策についての現状分析を行った。英国の「アジア回帰」政策については、安全保障・経済面での日英関係強化に伴い関連報道が増えていることからご存じの方も多いと思われる。しかし、それら報道の多くは、ブレグジット後の対外構想である「グローバル・ブリテン」の文脈で捉えるなど近視眼的であり、政策の背景を掘り下げたものではない。これに対して筆者は、歴史的視点を取り入れつつ、各種政策文書や指導者の言説を分析することで、英国の「アジア回帰」政策は、英国の国際秩序観(現行国際秩序の維持)に基づく長期的な政策であり、米中冷戦の先鋭化を受け、コロナ禍においても着実に進められていることを論証した。
その成果は、論文「英国の国際秩序観とそのアジア太平洋戦略」(査読有)として、台湾国立政治大学国際関係研究センター発行の『問題と研究』49巻3号(2020年7・8・9月)に掲載された。同誌は、アジア太平洋研究専門誌であると同時に台湾で発行される唯一の日本語学術雑誌である。そして周知のように、台湾は新型コロナの感染制御に成功する一方で、米中冷戦という国際秩序をめぐる戦いの地政学的最前線と化している。新型コロナ・パンデミックが米中冷戦に拍車をかける中で、奇しくも国際秩序をテーマにした拙論が台湾の学術雑誌に掲載されたことは、国際政治学者として率直に感慨深いものがある。
もっとも、上記拙論は国際政治の現状分析であることから、早晩修正を要する部分がでてくることは避けられない。それでも、拙論が一人でも多くの読者を獲得することで現行国際秩序の変容をめぐる学術的・政策的な議論を喚起するものになれば幸いである。