「人とのつながり」の大切さを感じて―「コロナ禍」での一学会委員の雑感―
濱田恭幸
2019年12月に最初の感染者が確認されて以来、彼是2年もの間、私たちは新型コロナウイルス感染症(以下、「コロナ禍」)と生活の至るところで向き合っている。その向き合い方は個々人の人生・生活によって勿論様々であり、それぞれの「コロナ禍」が現在進行形で存在している。筆者は2019年10月~2021年10月までの約二年間、まさに「コロナ禍」の真っ只中で日本史研究会近現代史部会という学会の研究委員を務めた。従来と全く異なる形式で学会活動を運営せざるを得なかったが、それは学会活動という学問的営為を「人とのつながり」という点から根本的に変化させるものであったと、委員を終えて感じている。この小稿では、「コロナ渦」での学会活動という点から、一個人の雑感を、今後の学会活動への些細な備忘録になればという思いで記してみたい。
「コロナ渦」での学会活動の変化を端的にまとめると、大会・例会・部会・書評会・研究会などが従来の対面形式での開催が困難となり(報告後の懇親会は勿論不可)、Zoomなどインターネットを利用した形式(以下、ネット形式)に転換したとまとめることができるだろう。言い換えれば、パソコンの画面の中で学会活動を行うことになったのである。足をのばして参加するのが当たり前であった従来をふまえると、これは大きな転換であろう。
ただ、この転換は何も悪いことだけではない。自らの足ではなくネット環境が学会への参加方法となったことで、仕事の合間・家事の合間といったように、学会への参加が格段に容易になったのである。これは学会への参加層にも如実に現れている。日本史研究会近現代史部会は機関紙会館(京都市上京区丸太町)で学会を開催することが慣例であったが、筆者が住む阪神地域からはなかなか遠く、参加層は主に大学院生が中心であった。しかしZoomによるネット形式となったことで、大学にポストを持つ有職者の参加が明らかに増加したのである。また、参加地域も東北・関東・九州などの遠方、他時代の部会では中国・韓国など国境を越えることもあったという。これはネット形式ならではの現象といえよう。報告者にとってみれば、より多様な参加者から意見・指摘をもらうことができ(逆に言えば「鍛えられる」)、学会活動としては活発化したといえるだろう。
しかし、筆者は、ネット形式による学会活動を約2年間実施して、途中からある危機感を抱くようになった。それは、「顔」が直接見えないために「人とのつながり」が希薄化することから生まれる危機感である。
まず、学会の参加者とのコミュニケーションが取りづらい。パソコンによるネット形式の学会の場合、報告者以外の参加者は基本的にカメラをoffにすることが多く、参加者の「顔」が見えないことがほとんどである。参加層が多様化したこともあり、特に、初めての参加者とのコミュニケーションがなかなか上手くいかないのである。報告する・聞くが学会活動の基本であるが、筆者は、報告を通して交友が広がること、学会が「人とのつながり」の場となることも大きな魅力であると思っている。大学院に入学したての修士の頃は、名刺を片手に研究室の先輩に連れられて学会に初めて参加し、緊張しながら初対面の参加者ととりあえず名刺交換を重ねたものである。そのよくある光景も、パソコンの画面上ではなんとも味気ない。
加えて、「顔」が直接見えないことは、研究行為にも影響を与えているようにも思う。第一に、ネット形式による学会が定着してくると、画面上に名前は表示されるが、カメラがonになることもなく、質疑応答でやり取りすることもなく、ただ「いる」だけという参加者が見られるようになった(パソコンの前にいるかも分からない、小稿では「名も無き参加者」と表現したい)。ネット形式では、レジュメを当日会場に持参するのではなく、前日までに配信することが多い。「名も無き参加者」がちらほらと見受けられるようになり、筆者は、レジュメの獲得のみが学会参加の目的になっているように感じたのである。ただし、仕事・家庭・その場の状況で、カメラのon・発言ができない場合もあるので、一概に「名も無き参加者」が悪いともいえない。しかし、報告者からすれば、ただレジュメだけ持っていかれるというのは心地よい気分ではない。筆者は、研究倫理上に強い危機感を抱き、この対策として、部会案内の末文に「レジュメの受取のみを目的する参加はご遠慮ください、討論への積極的なご参加をお願いします」という一文を挿入するようになった。
第二に、「顔」が直接みえないために、質疑応答で質問が出づらいのである。これは、大会など学会の規模が大きくなると顕著に現れた。例えば、日本史研究会の2020年度・2021年度大会は、Zoomウェビナーを用いたネット形式で開催した(2021年度は対面も一部取り入れたハイブリット形式)。ウェビナーは通常のZoomとは異なり、参加者は一視聴者として設定され、パソコン画面上に報告者・司会のみが映り、誰が参加しているか分からない。そのため、通常のZoom形式の学会よりも、さらに質問が出にくく、なかなか議論が活発にならないのである。従来の対面形式で、「あ、あの人今日来ているのか」、「あの人とあの人が激しくやり合っているなあ」と横目で見ながら、活発な議論の場に参加するのも大会の醍醐味の一つである。2021年度大会の司会を担当した筆者は、報告者・コメント・その他の研究委員・参加者から多大な協力をいただきながらも、「顔」が直接見えないためにフロアとの距離を少し感じた。
以上、とりとめも無く一個人の雑感を書き連ねてしまった。「コロナ禍」によって、学会活動は大きな変化を遂げた。従来の形に完全にはなかなか戻れないかもしれないが、これまでの学会活動のあり方を見直すきっかけにもなっている。「コロナ禍」で学会の研究委員を務めることができたのは、自身にとってかけがえのない経験である。それでも、筆者は、「古くさい」と言われるかもしれないが、従来の対面形式での学会を好んでいる。大会前日の部会の懇親会で、気心の知れた研究者・先輩・後輩、初対面の方々との「人とのつながり」を一度は直接感じてみたかったものである。今は、「Zoomとか使って学会やってたね」、「司会やりづらかったわ~笑」と、お酒の席で昔話のように語り合える日が来ることを楽しみに待つこととしよう。(2021年12月20日寄稿)
COVID-19の感染拡大と「若手研究者」―自身の経験から―
高田雅士
COVID-19の感染拡大がはじまってから、もう2年近くが経とうとしている。私は、2019年10月に一橋大学大学院社会学研究科に博士論文を提出し、翌年3月に博士号を取得することができた。つまり、その直後にCOVID-19の感染拡大に直面することになったといえる。博論の執筆自体は感染拡大前に終えていたため直接的な影響を受けることはなかったが、仮に提出をもっと先に予定していたとすれば現状は大きく異なっていたように思う。私自身の研究テーマは戦後日本の地域史でもあるので、現地での調査がこの2年間ほとんどまともに実施できなかったことを考えれば、もしかするといまだに博論は提出できていなかったかもしれない。一昔前とは異なり、博士号の取得が若手研究者のキャリア形成を大きく左右するものとなっている現在、そうした不測の事態による研究計画の混乱は、日々の生活を支える基盤をも脅かすことにつながってしまう。
博士号取得後の2020年4月からは、運良く、一橋大学大学院社会学研究科の特任講師(ジュニアフェロー)として採用されることとなった。ジュニアフェローは2年間の任期付きポストである。しかし、COVID-19の感染拡大にともなって、授業の開始はゴールデンウィーク明けとなり、さらにはオンラインでの授業の実施を要請されることとなった。それまで、対面での授業さえもまともに担当したことがなかったため、そもそも授業をおこなうことにも心理的な負担を感じていたが、オンラインで問題なく実施できるのかどうかという不安が当初は常につきまとった。また、緊急事態宣言が発令されてしまうと、同僚や知人とも顔を合わせる機会がほとんどなく、そうした不安や悩みを直接相談することができなかったのも孤独を感じる要因となった。
また、オンライン授業ゆえの悩みにも直面することとなった。自宅では同居しているパートナーがリモートで仕事をおこなっていたため、私は大学の研究室からオンラインで授業をおこなう必要があったが、大学から与えられていた研究室は同僚3人での共同利用となっていた。従来であれば共同利用でもなんら問題はなかったのだろうが、授業が基本オンラインとなるとその時間帯は共同利用者との調整をはからなければならないなどこれまで想定し得なかった新たな問題が生じることになる。もちろん研究室を与えられているだけ恵まれているともいえるが、これは個別の研究室を与えられている常勤の教員であれば直面しない悩みでもあり、オンライン授業の導入が常勤と非常勤との間に存在するさまざまな待遇格差を浮き彫りにさせたともいえる。
2021年度からは、他大学での非常勤の授業もいくつか掛け持ちするようになったが、そこでもさまざまな問題に直面した。たとえば大学によって使用しているLMS(学習管理システム)やWeb会議システム(ZoomやGoogle Meet)がそれぞれ異なることで、一からその操作方法などを習得しなければならなかった。また、学期中にも感染状況によって授業形態がオンラインから対面に切り替わったり、あるいはハイブリッドでの授業実施を求められたりと突然の対応を迫られることも多かった。これも大学によって対応がまちまちで、それらを個別に対応しなければならなかったこともさらなる負担となった。
しかし、この間のさまざまな状況の変化が、決して悪い方向にだけ進んだわけではなかったとも感じている。たとえば、大学のオンライン授業のノウハウが、学会の会議やイベントなどにも持ち込まれ、定着してきていることは重要であろう。個人的に関わっている学会の委員には子育て世代が多く、それまで会議を事務所でおこなっていた時にはなかなか参加しにくかった委員もかなり参加しやすくなった。また、オンライン配信によって実施された大会企画の参加者アンケートでは、年輩の参加者からも好意的な意見が多かったことが印象的であった。かつて、家事や育児によって土日の昼間に開催される学会のイベントへの参加を泣く泣く断念せざるを得なかったという女性の参加者からは、オンラインで誰でも気軽に参加できる仕組みがもっと早く定着していれば良かったのにという感想をいただいた。これまで家事や育児によって研究活動を制限せざるを得なかった人びとの存在に思いをめぐらせることになったと同時に、そうした研究者の状況がこの間、少しでも改善されたとすれば、それはオンライン化の普及がもたらした重要な功績だといえるだろう。
近年、日本歴史学協会の若手研究者問題特別委員会や歴史学研究会などが率先して「若手研究者」問題に取り組んできた。そこでは「若手研究者」の置かれている厳しい現状が報告・共有されることで、少しずつ議論が前に進んでいるようにも感じられる。しかし、COVID-19の感染拡大は「若手研究者」たちに新たな困難をもたらした。実際に私の周りの友人でも博士論文の提出を延期せざるを得なかった者、海外への留学や調査を断念せざるを得なかった者、そしてそうした事情によって研究計画やキャリア計画そのものを大きく変更せざるを得なかった者など多様な影響を被った「若手研究者」が存在した。さらに問題なのは、不要不急の外出や仲間との接触を制限されてしまったことによって、そうした「若手研究者」の間に「分断」がもたらされたことであった。たしかに、メールやSNSなどを通じて連絡を取り合うことは可能だろうが、実際に顔をつき合わせて「雑談」をすることと、それはまた異なる交流のあり方といえる。
次第に感染状況も落ち着きつつあり、仲間とも顔を合わせる機会が徐々にではあるが増えてきている。そうしたなかでこの2年間のそれぞれの経験を持ち寄り、いかにして状況を改善していけるのかを、今後、足元から考えていく必要があると感じている。(2021年12月23日寄稿)
コロナ禍の下の和歌山城
大山僚介
私は2007年度から2009年度まで金沢大学文学部史学科の日本史学研究室に所属し、能川泰治先生の指導の下、日本近現代史を専門として歴史学を学んだ。その後大学院は別の大学に進学し、現在は和歌山市の和歌山城整備企画課で学芸員として、史跡整備等に関する業務を担当している。今回、能川先生から「コロナ禍の下での近況報告」への寄稿をお誘いいただいた。拙い内容ではあるが、和歌山城を取り巻く環境がコロナ禍で大きく変化していったなかで、感じたこと・考えたことを述べてみたい。
和歌山城は、和歌山県和歌山市の中心市街地に位置する近世城郭である。1585 (天正13)年、羽柴秀吉が紀州を平定した後、弟の秀長に命じて築城されたのが始まりである。その後、城主は桑山氏、浅野氏と移り変わり、1619(元和5)年には徳川家康の十男頼宣が、紀伊・伊勢(一部)・大和(一部)の55万5千石を領して和歌山城主となった。以後約250年間、和歌山城は御三家の1つ、紀州徳川家の居城であった。江戸時代の建造物は明治維新以降、ほとんど失われてしまったが、石垣や内堀は良好に残されており、各城主の築城の過程を物語ってくれる。国の史跡に指定されており、和歌山市を代表する文化財の1つであるが、和歌山市民にとっては緑豊かな都市公園として憩いの場となっているとともに、多くの観光客が訪れる観光地としての側面も持っている。
和歌山県の観光といえば、高野山・白浜・パンダ・世界遺産熊野古道・那智の滝などなど、パッと思い浮かぶキーワードがたくさんあると思う。しかし、残念ながら「和歌山市の」観光地は?と聞かれても、特に何も思い浮かばない方が多いのが現状だろう。2017(平成29)年度に日本遺産に登録された和歌の浦や、由良要塞跡の一部として砲台跡等が現在も残っている友ヶ島など、いくつか代表的な観光地があるが、やはり和歌山市の最も代表的な観光地は和歌山城であると言ってよいだろう。
1958(昭和33)年に鉄筋コンクリート造で再建された天守閣には、年間約20万人の人が訪れていた。2019(令和元)年度の天守閣入場者数はまだ209,866人と20万人以上の水準を保っていたが、本格的にコロナ禍に突入した2020年度の入場者数は、99,543人と激減した(『市政概要 令和3年度版』和歌山市議会事務局発行)。国内の観光客数が減少したのはもちろんだが、海外からの観光客が全く来なくなってしまった影響も大きいだろう。関西国際空港から比較的近い和歌山城には、コロナ禍となる前は特にアジア圏からの団体観光客が非常に多かった。今年度はようやく国内の観光客が戻りつつあるが、当然ながら海外からの観光客は少ないままであり、20万人の水準へと戻るまでにどれほどかかるのか、まだ先は見えない。「文化財の観光資源としての活用→観光客数増加→文化財への再投資」といった理想像を文化庁が喧伝し始めて久しいが、そういった観光に依存したシステムの脆弱性がコロナ禍で露呈したように思う。だからと言って、例えば1つの石垣修理工事に数千万円、規模が大きければ億単位の事業費を要するように、城郭という文化財を後世に確実に伝えていくためには、莫大な費用がかかることも事実である。保存だけを声高に叫んでもなかなかうまくは進まないことは理解しつつも、ではどうすれば良いのか、私のなかでいまだに答えは出ない。
観光客が激減するなかでその大事さを改めて認識したのが、コロナ禍の下でも変わらず和歌山城を訪れてくれる市民の存在である。莫大な費用がかかる和歌山城の保存・整備を行っていくためには、その前提として市民と行政が和歌山城の文化財的価値とその重要性について意識を共有し、莫大な費用がかかることに関して市民の理解を得なければならない。では、コロナ禍に入る前を含め、和歌山城の学芸員として市民の理解を得るための取り組みを十分行ってきたかと自問すると、不十分であったように思う。出前講座のような市民からの申し込みがあれば出張する制度はあるが、このような受け身のものだけでなく、もっと積極的に和歌山城の魅力を発信し、市民とともに和歌山城の今後について考えていけるような取り組みが必要であると強く感じる。
再建からすでに60年以上が経過している和歌山城天守閣は、2017年度に実施した耐震診断で、震度6強から7の地震で倒壊する恐れがあることが判明した。それを受けて、これまで木造再建の可能性も含めて天守閣整備の方向性について市では検討してきた。ただ、どのような整備の方向性になったとしても、多額の費用がかかることは明らかであり、和歌山城の象徴的な存在である天守閣の未来は、行政のみで決めるのではなく、市民とともに考えていく必要がある事柄であろう。そこで、まだ計画段階ではあるが、2022年度には和歌山城天守閣の今後のあり方を考えるワークショップやシンポジウムの開催を予定している。「観光資源としての磨き上げ」と言う前に、まずは基本に立ち返り、国民ひいては人類の共有財産である和歌山城全体の将来を市民と一緒に考える良い機会とすることができればと願っている。(2021年12月23日寄稿)
一地方のコロナ禍そして震災―福島県郡山市より―
菊池和子
2021年の年の瀬にコロナ禍の福島県郡山市より身の回りの様子を二点書いてみようと思う。
新型コロナウィルスの蔓延から全国で stay home の状態が良しとされる期間が続いている中、家の整理に取り組んだご家庭も多いかと思う。私の住む福島県は2021年2月13日深夜に3.11東日本大震災の余震と評価された福島県沖地震(M7.3、最大震度6強)が発生し、罹災証明が発行される規模の被災があった。このコロナ禍の最中の余震は重層の打撃を与え旧家を含め商いを閉じるところが散見している。私のところも昔でいうところの奥州街道沿い二本松藩領内郡山宿の宿駅の一角で茶商として細々と商いを続けているが、周りのいくつかの家が廃業や更に取壊しに至っている。近所の馴染みの方であれば、歴史資料館に古い品々を照会するようお願いしたりするのだが、実行されることは少ない。確認作業に時間がかかる、うちにはたいした物はない、借金証文ばかりだ、と言うことを話されるのであるがその根底にはそれらの品々が生々しいものという感じ方がある。「おらげのじさまがこさえた借金や騒動のことを人さまの目に晒すのは忍びない」と考えるし、文書内の人名が〇〇屋の先代・先々代とリアルに結び付くため外に出すのを躊躇うようだ。このことから歴史資料の保全を進めるには地縁から離れたところの研究者という立場にいる人たちが保全活動のメンバーに加わってもらえるとまた違ってくるのではないかと個人的に思うことがある。
今回の余震による歴史資料の保全活動は10年前の大震災の際の動きと比べて鈍い様に感じた。緊急事態宣言などを中心に全国で様々な活動制限が強まっていたように郡山も保全活動は思うようにできていなかったと思う。実際、私がこちらで所属している郡山地方史研究会は郡山市文化振興課と連携しながら市内の各家々に残る史料の確認を通年で断続的に行ってきたが、この2年は満足な活動は出来ないでいる。訪問確認作業ができない分を画像データのやり取りで間に合わせることはできないかと検討し始めたが、活動の主要メンバーにしろ、訪問先の家人も高齢者であることが多く、デジタル化は田舎では難しいと痛感している。
話は変わり、コロナ禍と子供の話をしたい。約2年前に政府が一斉休校を宣言して子供たちが家に居続けるようになり、私も含めて周囲の大人たちの頭に過ぎったのは10年前の震災のことである。見えざるものから身を守るために10年前も今も外へ極力出さないように行動制限がかかる日々。同じようでいて違うと、ここにきて思いはじめている。
10年前被災地では自分たちの生活の再建はもちろん、学校も再開も不透明になっていた。加えて福島県の多くの人たちが目に見えない放射能と対峙しなければならない事態に陥ったのである。当時7歳の娘、5歳と3歳の息子と瓦礫と放射能から遠ざけ安全に過ごせるよう新潟市の祖父母に預けた。そこから子供たちをどのタイミングで呼び戻すのか、そもそもここ福島に居てよいのかを毎日のように夫と話し合ったことを覚えている。壊れた家財家屋を片付け、近所知人の安否を尋ね励ましあい、原発のより正確な情報を求めていた。しばらくして学校も再開するというのでそれを契機に子供を呼び戻したが、見えざる放射能による制約と付き合わざるを得ない日々が始まった。目に見えない放射能がどのような性質をもっているのかをかみ砕いてかみ砕いて漸く理解し、実際に周囲にどれほどの放射能が存在するのかを計測し、それを少しでも体内に取り込まないようにする方法を探し、その方法で私たちが特に子供たちが安全に至るのかを判断する作業が続いた。混乱し途方に暮れ、毎時選択に迫られているようなヒリヒリとした感覚があったことを今でも思い出す。そのような中で、より安全な(線量のより少ない)エリアで屋内で大半を過ごす暮らしが始まり、見えざるものの蓄積をできるだけ少なくするために屋外活動を制限した。
翻って現在の行動制限は新型コロナウィルスが伝染するものであるため、マスク着用とソーシャルディスタンスが求められている。ソーシャルディスタンスと呼ばれ他者との接触が極端に制限されることでこんなにも精神の均衡が保てなくなるのかと、このコロナ禍で初めて思い知ったような気がする。去年の春高校に進学した息子は新しい環境の中で踏み込んだ人間関係を築けず、モチベーションが上がらないまま苦しんでいる。ソーシャルディスタンスが人と人との喜怒哀楽の分かち合いを難しくし、無味乾燥の中で疲弊させていくように思えてならない。コロナ禍であっても心身共に健やかにしてられるよう、あなたのことを気に掛けていますと互いに周囲に意識して発信することが必要なのかもしれない。(2021年12月30日寄稿)