米倉誠一郎著

『経営革命の構造』メモ

『経営革命の構造』メモ(米倉誠一郎著. 岩波書店. 1999. 岩波新書(新赤版)642)〔はじめに/第一章 イギリス産業革命の技術と企業家/第二章 アメリカにおける経営革命〕

2004.4.24

加藤久明


はじめに(p.1-8)

●本書の命題:「技術と市場が変化するたびに、人間は新たなビジネスを考え出してきた」(p.1)。

●人間の能力を超える技術:「技術が人間の能力を超えてしまった後には、人間は人間の個人的な能力を超える実体すなわち組織を作り上げなければならなかった」(p.1)。→18世紀後半における蒸気機関の出現によって、自然界以外に存在する強大な力人工的に作り出すことが可能となる(p.2)。

●社会的な存在である技術:「それまで誰も気がつかなかったような点在する要素を、新しい変化にまとめあげる人間がいなければ進歩の契機はみいだせない。技術とは社会的な存在であると同時に、人間とくに企業家と呼ばれる人々の所産である」(p.7)。→例:ジェームズ・ワットとその協力者であるボウルトンの例(p.3, 6)など。

●「企業家(entrepreneur)」:「技術革新を起こす人のことでもなければ、事業を起こす人のことだけでもない。イノベーションを起こす人のこと」(p.8)。→「既存の枠組みを創造的に破壊し、新たな経済発展すなわち価値創造・知識創造をする人々」(p.7)。

●本書における著者の狙い:「どのような人々が、どのような技術や市場機会を創造し、その結果どのような経営革新を遂げていったのかを明らかにする」(p.8)ことを試みている。

基本的な考え方:(1)技術の社会性(2)企業家のあり方(3)彼らが提示した時代のモデル

第1章 イギリス産業革命の技術と企業家(p.9-74)

第1節 産業革命前後における機械の発達(p.9-37)

●イギリスの繊維工業における機械使用の歴史(p.10-35):ウィリアム・リーによる「靴下編み機」の開発(16世紀末から17世紀初頭)→ジョン・ロムによるイタリア製生糸撚糸機の技術移転(1716年)→綿工業におけるジョン・ケイによる織機の改良「飛び杼」(1733年頃)→ジョン・ワイアットとリュイス・ポールによる初期紡績機の発明(1738年)→ジェームズ・ハーグリーブスによる「ジェニー紡績機」の発明(1765年)→リチャード・アークライトによる水力紡績機の発明(1768年)→サミュエル・クロムプトンによる「ミュール紡績機」の発明(1779年)→エドムント・カーライトによる「力織機」の発明(1785年)。

●産業革命前後における紡績機械の発達史の要点:

(1)「発明が事業化や産業発展にダイレクトに結びつくことは稀で、多くの場合、新しい機械は職を奪い、雇用を減らすものとして労働者による激しい憎悪の対象となる」(p.35)。→イノベーションは、変化を嫌う人々の必死の抵抗に直面するため、その成功には先駆者たちの失敗が大きな役割を果たしている(p.35-36)。→先駆者を駆り立てる、(a)社会的なインセンティブ(b)失敗に対する社会的寛容、の必要性(p.36)。

(2)「関連する工程間の不均衡は、相互補完的にその発展を促進しあう」(p.36)→「優れた織機は紡績機を発展させ、優れた紡績機は織機のさらなる発展を促す」(ibid.)。→「現状を改革するような突出や逸脱を許容する社会の自由」(ibid.)という背景の存在。→(a)誰もが新たなことを始められるインセンティブと自由度(+特許制度)(b)技術の不均衡に関する知識を共有する市場と技術の集積、の存在(ibid.

(3)「発明が実用化されるためには、技師や職人とは別のタイプの人間、すなわち企業家の出現が必要だった」(p.37)→発明を事業として成功させるには、アークライトに見られる「他人の発明をためらいなく利用し、一つの工業制度にまとめあげた」(ibid.)能力が重要。→「戦略的に志向するということは何か新しいものを発明することではなく、分散しているいくつもの要素一つの方向性をもった体系に仕上げること」(ibid.

第2節 蒸気機関の完成(p.37-59)

●新しい動力の必要性:自動機械は、紡糸と織布においてかなりのスピードと品質を達成してきた(p.37)。→しかし、この機械が工場制機械工業に展開するためには、(自然に存在するものの範囲を超えた)「機械を絶え間なく動かす動力が出現する必要性があった」(ibid.)。

●鉱工業における動力:鉱工業の生産性向上は、深く掘ることにある(p.39)。→坑道の湧き出る水を効率的に汲み出さねばならない(ibid.)。→この動力として、初期は人力・家畜・水車・風車などが利用される(ibid.)。→しかし、動力の安定供給が困難であり、「持続性のある動力が必要」(ibid.)とされた。

●蒸気機関の発明(p.40-45):トーマス・セイヴェリーによる蒸気ポンプの発明→トーマス・ニューコメンの蒸気ポンプの製作→ハンフリー・ポッターによるニューコメンの蒸気ポンプの改良→ヘンリー・ベイトンによるボイラーへの安全弁の取り付けによる実用性向上(1817年)→イギリスの各方面にニューコメンの蒸気機関が普及する(1820年代)。

●蒸気機関と製鉄業:

(1)ニューコメンの蒸気機関は、「動力そのものに使われるには、まだ力が弱く、エネルギー消費量も大きすぎた」(p.45)。→そのため、水車の補完技術や鉱山の排水機として普及し、製鉄業に大きな恩恵をもたらした(ibid.)。→ジェームズ・ワットによる改良(p.46-50)。

(2)燃料として石炭を使用するというメリットとデメリット(p.45)→17世紀後半からのイギリス製鉄業にとっての障害であった木炭不足への解決策(ibid.)→しかし、「石炭に含まれる硫黄分銑鉄の品質を悪化させてしまうという問題」(ibid.)→アブラハム・ダービー一世と二世による石炭の改良によって、製鉄工程に石炭が使用可能となる(p.45-46)。

(3)新たな課題の浮上:改良によって、石炭は製鉄工程に使用可能となる(p.46)。→しかし、坑道に湧き出す大量の水を迅速に汲み出す蒸気ポンプが無かった。→従来のニューコメンの蒸気機関では力不足。→「石炭を増産できない」という製鉄業最大の課題が浮上。→ジェームズ・ワットによる改良(p.46-50)。

●ジェームズ・ワットと蒸気機関:「単なる経験則による発明家ではなく、正式な教育は受けていないとはいえ科学的知識に基づいた理論的な発明家」(p.46-47)→1763年からニューコメン型蒸気機関の科学的な分析を進める(p.48)。→圧縮機の装備や円運動ピストンの導入などの実験を行い、従来型の欠陥を克服しようと試みる(p.49-50)。

●ワットとビジネス・パートナーとの出会い:ワットの「発明が商品化されるには、ビジネスの才覚をもったパートナーが必要であった」(p.50)。

(1)ジョン・ロウバック(p.50-52):1765年頃にワットと出会い、彼の研究を工業化するための資金援助を行う。→ワットは1769年に最初の特許を出願し、蒸気機関一号機を製作するが失敗。→ロウバックも事業に失敗し、1773年に破産してしまう。

(2)マシュー・ボウルトン(p.52-59):1761年に水力を基盤とする「ソーホー製作所」を建設→1762年にワットが工場を訪れ、ボウルトンとの提携が提案されるが、立ち消えになる→1773年にロウバックが破産し、借金の棒引きと引き換えにワットとの契約を譲渡する。→「ボウルトン&ワット社」の発足(1774年)。

●エンジンとしての蒸気機関:様々な経済的苦境の後、1775年頃からワット型蒸気機関の注文が出始め、1780年代には名声が高まる(p.57)。→1980年、ピストンの直線運動を回転運動にする「太陽と惑星運動」の特許を申請(ibid.)→これにより、蒸気機関の用途が一気に拡大する。

●鉄鋼王ウィルキンソンの存在:ワット型蒸気機関に不可欠な「高品質のシリンダーを提供したのが、ジョン・ウィルキンソンの製鉄所である」(p.58)。→「彼のイノベーションがワットの蒸気機関を実現し、またワットの蒸気機関が彼の機械加工をより精密なものにするという好循環」(p.59)によって、「蒸気機関は石炭増産と製鉄業の発展を有機的に結合させる好循環もつくりだした」(ibid.

第3節 産業革命期の企業家像(p.59-74)

●新たな市場の出現:1780年代に入ると繊維産業の機械化と蒸気機関の開発が進展し、大量生産の事業機会が発生(p.59)。

(1)「市民革命を経て豊かで自由になった市民たちの需要」(p.59)。

(2)「機械を作る機械としての工作機械の進展」(ibid.)。

(3)「開発・改良された自動機械」(ibid.)。

(4)「それらを相互に強力に結びつけていく蒸気機関の発明が、相乗的に爆発的な市場を出現させた」(ibid.)。

●産業革命期の繊維工業:製鉄業や金属加工とは異なり、初期に大規模な投資資本を必要としないという特徴を持つ(p.59)。→新しい事業として大きなチャンスがある(ibid.)。

●ジェームズ・マコウネルとジョン・ケネディ:1810年代に大紡績工場を経営していたイギリスを代表する紡績事業家(p.60)。→紡績機械の製造・修理をしていたが、一旗揚げるために上京→1791年に二人がパートナーを組み、機械製作と紡績事業に乗り出す(p.61)→1795年には「マコウネル&ケネディ社」を発足させる(p.64)。

●マコウネル&ケネディ社が発足した時代の特徴:「若くとも勤勉で旺盛な向上心さえあれば、徒弟時代からの貯蓄と培った技術を元手に、誰もが企業家になれる夢をもてる時代」(p.64)。

(1)「中世を通じて支配的であった階級社会が市民革命を通じて崩壊しただけでなく、技術を利用して社会的上昇を遂げるチャンスが新たな産業の興隆とともに拡大していた」(p.63)。→「それまでの産業構造が変わり、新たな革命がはじまろうとするとき、従来の精神世界の秩序崩壊は常に大きな勇気をもたらす」(ibid.)。

(2)企業家は「新しい知識を求め、それを現実の事業に生かしていった」(p.63)。→「新しい知見を広く世間に広めようという科学者の情熱とその知識を実業に生かそうとする技術者の想いが、新たな進歩を生み出す」(p.63-64)。

●マコウネル&ケネディ社の特徴:

(1)「機械製作と紡績業を兼営することによって、早い段階から利益率が高く競争の少ない」(p.66)高度な技術製造に特化したこと。機械製作と紡績事業を同時に行うことが、問題解決と事業拡大に関する情報収集能力を早めた(ibid.)。→例:ハイエンドな細い(番手数が多い)糸の生産へ特化することによって、市場における競争優位を獲得(ibid.)。

(2)「新しい技術革新に俊敏に反応」(p.67)したこと。→蒸気機関の積極的な導入→例:1793年には自家用の試作品を完成(ibid.)。→1797年には蒸気機関と接続する紡績機械を一般顧客に販売(ibid.)。〔⇒ボウルトン&ワット社が、ビジネスとしての蒸気機関を黒字化させるのが1798年頃であることを考慮すると、極めて早い対応である。〕

(3)「技術情報の背後にある産業革命の本質を素早く見抜き、それを体現」(p.68)したこと。→「動力に基づく産業革命はこれまでの延長線上ではないまったく新しいビジネスモデルを彼らにイメージさせた」(p.69)→「集中的な動力を一ヵ所に用いて大規模経営をはかるとてつもない優位性」(ibid.)→彼らの見抜いた産業革命の本質「規模の経済性」ibid.)。→例:「オールド・ファクトリー」と呼ばれる大工場(p.68-69)。

●マーケティング戦略を規定する際の要因:

(1)為替による信用取引:「広域の商業活動を行うには為替とくに信用機関の長い為替の利用が欠かせない」(p.70)。→「当時は、平均で二、三カ月、長いものでは七ヵ月という為替が紡糸取引で使用されていた」(ibid.)。→しかし、電信も鉄道もない当時にあって、信用機関の長い為替は大きなリスク、激しい変動を伴うものであった(ibid.)。

(2)ビジネス・サイクル(景気循環):「機械制大量生産によって過剰生産、物価下落、信用収縮といった恐慌が起こってはじめて産業革命による資本主義が成立したという解釈」(p.70)の存在。→イギリスでは、機械制工場生産が拡大に伴い、1881年を皮切りに定期的にビジネス・サイクルが発生(ibid.)。→結果として、(a)為替利用のリスクが増大し(b)価格差を狙った投機や投売りを呼び、需要の上下動を大きくした(p.70-71)。

●販売業者の組織化:「安定した取引を行うには、販売業者を組織化し、不必要なコストを抑えるとともに、投機が起こりにくい為替の条件等を整備する必要があった」(p.71)。→「販売権を与えた少数の代理店に販売組織を絞っていく」(p.72)。→「ハイエンド製品を量産し、しかもプライス・リーダー(価格維持者)であり続けるためには、販売代理店のしっかりとした管理が大切だった」(ibid.

●産業革命期の経営形態と課題:当時の企業が大きくなるというのは、現代のような組織化の過程というよりは、水平的に工場の数をくっつけていくといったもの」(p.73)。→「いくつもの工場を所有することによって規模を拡大するという成長」(p.74)。→マコウネル&ケネディ社の大工場(p.68-69)などの試みによってこれに終止符が打たれる。→この背景には、産業革命の本質である、大量生産・大量販売への理解というものが存在した。→「しかし、彼らでさえも大量に生産したものを自ら販売する組織形態については、想像だにしなかった」(p.74)。→なぜか?→「当時の販売方式は、主要マーケットに一手販売代理店を組織化し、彼らに手数料を払って販売拡大を行う」(ibid.)水平的な拡大であったため。

●イギリスの産業革命における課題に関する総括:これらの課題を解決するには、「アメリカの時代」を待たねばならなかった。

(1)経営組織に関する課題:当時のイギリスにおける企業規模の拡大。→「いくつもの工場を横に保有したり一手販売業者を組織するなどといった水平的な拡大」(p.74)。→「垂直的な拡大すなわち何万人規模の企業が成立するには、経営組織に関する新たな革命が必要」(ibid.)。→水平的な拡大から垂直的な拡大(統合)への移行の必要性。

(2)精神世界に関する課題:産業革命に火をつけたイギリスの企業家は結局ジェントルマン層という階級社会に収斂され、彼等を豊かにしたビジネスそのものから離れていった」(p.74)。→「ビジネスを営むことが創造的で社会的な職業であるという精神世界の革命」(ibid.)の必要性。

第2章 アメリカにおける経営革命(p.75-124)

●アメリカの精神的・地域的・経済的特殊性:

(1)地域・経済的特殊性(p.75):1776年にイギリスから独立→移民を受け入れながら急成長を遂げる→(1)ボストンやニューヨークを中心とした東部、(2)奴隷使役による綿花生産を中心とした経済圏としての南部、(3)南部と北部に食料を提供する中西部穀倉地帯、の三地域がそれぞれに分離分断された状態で成長していた。

(2)精神的な特殊性(p.75):ヨーロッパという重圧や秩序の中で夢を追い、敗れた人々を魅了するアメリカ→「常に新たなフロンティアと新しい実験の場を提供し続けている」(ibid.)。

●「現代企業(modern corporation)」の創出:「広大で未発達の領土、しかしその一方で急速に拡大する人口とフロンティアをかかえたアメリカにおける事業展開は、イギリスでは考えられなかったような経営のイノベーションを必要とした」(p.76)。→巨大な現代企業の創出。

(1)「市場メカニズムに変わる内部取引の実現」(p.76)。

(2)「その内部取引を効率的に達成するための複数機能をもった組織の完成」(ibid.)。

(3)「職能別組織を流れる内部取引や経営資源を管理調整する経営階層や本社機能の出現」(ibid.)。

第1節 アメリカにおける鉄道の影響(p.77-91)

●従来の常識では考えられないような規模の変化:アメリカにおけるビック・ビジネスの出現(p.78)→従来の常識では考えられないような「大変化技術的・組織的に対応した結果」(ibid.)。

●アメリカという市場の出現:二つの大きな変化が、1815年を契機として始まる。

(1)第一の変化「東・南・西部における地政学的な構図の完成」:先進商工業地域としての東部経済圏として確立(p.78)。→ヨーロッパへの綿花供給地としての南部経済基盤を強固にするibid.)。→東部・南部の興隆移民流入を招くibid.)。→これが結果として西部フロンティアの開拓を促すという構図の完成(ibid.)。→三地域が相互補完的な関係を構築。

(2)第二の変化「ヨーロッパにおける平和の訪れ」:1815年の平和の訪れ→「アメリカ経済のダイナミックな変化を加速するヨーロッパ資本の活動が再開」(p.78)。→アメリカとイギリスの通商停止が解禁される。

(a)東部:イギリスからの工業製品が大量に流入→「イギリス商品との競争やイギリスからの先端技術の伝播によって、むしろ東部諸都市は先端商工業地としていっそうの進展を遂げた」(p.79)。

(b)南部:蒸気機関の応用で生産能力が上昇したイギリス綿工業→「飢えた狼のようにアメリカ南部の綿花を原料として購入した」(p.79)。→「南部での綿作展開を促進すると同時に南部への人口拡大をもたらした」(ibid.)。

(c)西部:「移民は新天地を求めてそのフロンティアを西部に拡大」(p.79)。→豊かな農作物経済的価値を持つものであったが、商品輸送コストの高さから、その価値が十分に享受されていなかった(p.79-80)。→「西部が発展を遂げるにはその輸送コストを削減するような技術革新が必要であった」(p.80)。

●蒸気船の発達:1807年にロバート・フルトンによって実用化された蒸気船の普及→「孤立していた西部東部と南部に連結させ、三地域の経済発展にパターンにきざしを与える」(p.80)。→西部を往来していた蒸気船が増加〔1817年には17隻、取扱量3290トン⇒1840年には536隻、総取扱量83592トン〕(ibid.)→同時に、内陸交通も整備される。→1820年以後、「トン/マイル当たりのコストは上りで三分の一、下りでは一〇分の一へと急速に下落」(ibid.)。

●鉄道と電信の発達:運河や蒸気船は、天候・季節によって左右されやすい→「安定的な輸送手段迅速で確実な情報伝達手段」(p.81)としての鉄道と電信の発達。

(1)「自ら創出した市場を網の目のように連結し、企業活動にとって必要不可欠なインフラストラクチャーを提供」(ibid.)。「バラバラに存在していた三つの地域経済を結びつけ、アメリカ国内市場を一挙に創出することを可能とした」(p.81)。

(2)「鉄道会社はそれ自体がアメリカに出現した最初の現代企業」(p.82)。「単に国内市場の創出や企業活動の基盤形成を整備したばかりでなく、鉄道会社自身が現代企業の組織モデルを提供したことが重要」(ibid.)。

●鉄道網の拡大と安全への組織的対応:1840年代から鉄道への関心と急激な拡大が始まる→操業費、営業費の増大近代的な管理運営のための組織的対応が要求される(p.83)。→「まずは、物理的な安全を求める声としてわきあがった」(ibid.)。→1841年10月5日のウェスタン鉄道の列車事故に対する非難(ibid.)→萌芽的な現代企業の組織形態への改革(p.84)。→トップ・マネジャーやミドル・マネジャーの役割分担、専任の俸給経営者(salaried managers)からなる経営階層の出現(ibid.)。

●長距離輸送と経営管理の必要性:巨大な長距離の幹線鉄道の機構改革は安全に加えてより現実的な要請から」(p.84)始まった。→「幹線鉄道は鉄道一マイル当たりの操業費小鉄道のそれよりもはるかに高く、経営者は走れば走るだけ赤字になりかねない」(ibid.)。→「初期投資と固定費に莫大な資本を要する大鉄道にとっては致命的」(p.85)。→どこに問題があるのか?→「採用されたシステムの完成度」→「距離が長いから操業費が高いというわけではなく、巨大で複雑な運行業務を効率よく運営する内部組織の未発達経営悪化をまねいた」(ibid.)。

●エドガー・トムソンの改革:

(1)1857年にペンシルバニア鉄道で組織革新を実現:→「ライン=スタッフ制」(p.86)。→事業部制組織の先駆的形態を創出する(p.87)。→トムソンを始めとする鉄道組織革新の共通点。

(a)「責任と権限のラインと範囲を明確にしたこと」(p.87)。

(b)「実際の運行業務を行う現業部門と会社全般の経営方針を考える本社部門との分離」(ibid.)。

(c)「社会情報を経営管理手段として認識すること」(ibid.)。

(2)新たな会計システムの導入:財務会計、資金会計そして原価会計などの新しい会計システムを考案する(p.87)。→「それぞれが鉄道の運営を通じて精緻化されていった」(ibid.)。

●鉄道業と金融システム:膨大な資金を必要とした鉄道は、金融業者や建設業者に対して空前絶後の需要を創出する(p.87)。→1850年代には、ヨーロッパから大量の資金がアメリカの鉄道企業に流入(p.88)。→ニーズに応えるため、ニューヨーク証券取引所が制度として定着する(ibid.)。→鉄道投資を通じて株式市場や金融機関が完成される(p.89)。→このような金融業の発達が「アメリカにおける現代企業台頭の基本的条件を整備した」(ibid.)。

●電信・電話の発達:「アメリカという広大な市場物理的に縮小し、巨大組織が十分に活躍できる場を提供した」(p.91)。

(1)電信:1835年にサミュエル・モールスが電信を発明→1847年から営業用に使われ始める(p.89)。→鉄道管理者が「列車の安全かつ正確な運営にとって重要な補助手段」(ibid.)として注目。→「電信事業者も、鉄道は最適の電信用地を提供することに気づいた」(p.90)。→1861年には鉄道よりも早く太平洋岸まで電信が到達(ibid.)。

(2)電話:1876年にアレクサンダー・フラハム・ベルが電話を発明→1880年代には商業化(p.90)→セオドア・ヴェイルによる事業拡大→「長距離の価格設定を比較的高くする料金設計によって、アメリカ全土に電話網を普及させるという」(ibid.)戦略が成功→アメリカン・テレフォン&テレグラフ(AT&T)社による独占事業の成立(ibid.)。

●アメリカにおける巨大鉄道の役割:

(1)「アメリカをくまなく結ぶ国内市場を完成させた」(p.91)。

(2)「同時にその広大な国内市場において企業活動の基盤を形成した」(ibid.)。

(3)「そうした企業のモデルとなるような経営管理・組織の先駆形態を提供した」(ibid.)。

(4)「最後に膨大な資金提供を通じてニューヨーク証券取引所を興隆させた」(ibid.)。

第2節 製鉄王アンドルー・カーネギー(p.91-107)

●アンドルー・カーネギーとジョン・ロックフェラー:

(1)「当時最先端であった鉄道のさまざまなパワーを最大限に利用したハイテク人間」(p.91)。

(2)「アメリカに出現した「規模の経済」の意味をもっともよく理解したビジネスマン」(ibid.)。

(3)「アメリカン・ドリームの実現者」(ibid.)。

アンドルー・カーネギー:「鉄道で開発された大規模組織の運営原理というイノベーションを製造業に応用することによって、いまだかつてないほどの成功を実現した」(p.107)。

(1)ペンシルバニア鉄道時代(p.96-100):ペンシルバニア鉄道に12年間勤務する中で、ビジネスの原則や投資について学ぶ。

(a)ビジネスの原則:規模の経済を追求することがペンシルバニア鉄道の成功の本質」(p.98)。→「コスト、規模そして迅速性の原則」(ibid.)→「鉄道において規模の経済性を実現する」(ibid.)。→「多くの積み荷を積んだ貨車を大量に運行すること」(ibid.)。→「厳密な組織運営と迅速な意思決定が必要」(ibid.)とされる。

(b)「投資の魔術」:1856年に初めて株式投資を行う→一滴の汗も流さずして利益を受ける術を知る。→1865年には、投資活動に専念するためにペンシルバニア鉄道を去る。→1872年に、突然投資家としての人生を変更する。

(2)製鉄業に対する投資(p.101-102):1872年に有数の投資家となっていたカーネギーは、「ベッセマー転炉を導入して、大規模な製鉄工場を建設することを決意した」(p.101)。→「銑鉄に替わって鋼鉄が鉄道レールの主流になるのは時間の問題」(ibid.)→さらに、最大の得意先がペンシルバニア鉄道になるという読みの存在。→製鉄所建設に二つの原則を導入。

(a)「資本金は株式ではなくパートナーシップで調達し、常に絶対多数を維持する」(p.101)。

(b)「鉄道で学んだ「コスト、規模そして迅速性」の原則を製鉄工場で実現する」(ibid.)。→これは「カーネギーがアメリカいや全世界にもたらした経営革命」(ibid.)。

(3)世界最大の製鉄企業を創出(p.102-103):カーネギーは、「あらゆるコストを把握する方法と組織を鉄道から移入」(p.102)させる。→「確実なコスト計算に基づき、生産の流れに従ってよどみなく設計された世界でもっとも効率的な工場」(ibid.)である「エドガー・トムソン工場」を構築。→1870年代初頭に100ドル/トンだった鋼生産価格を1890年代までに12ドル/トンまで引き下げ、一社でアメリカにおける総生産量の25%を達成させる。→「最新鋭の巨大工場を建設し、世界でもっとも効率的な組織を構築することによって、「規模の経済」を実現」(p.103)。

(4)US・スティールの成立と博愛主義者への道(p.105-106):1890年に入ると、アメリカ製鉄業の過剰生産が深刻化→J・P・モーガンを中心として、「トラスト結成による生産調整を通じた価格安定化」(p.105)が常套手段化する。→1898年のアメリカン・ティンプレート社というトラストの結成→1899年に、カーネギー・スティール社へのトラスト加入を意図した独占購入の申し入れが行われる。→カーネギーは申し入れを拒否し、1900年に世界最新鋭の鋼管工場建設を発表し、モーガンを屈服させる。→その後、モーガンに会社を売却し、世界最大のトラストである「US・スティール」が生まれる。→「カーネギーは博愛運動と自己研鑽の道へと引退」(p.106)。

●カーネギーの成功の本質:金融資本家、投機家、カルテル信奉者だっとするような見方は表面的すぎる。→「彼の成功の本質はペンシルバニア鉄道で学んだ経営に対する熟練、「規模の経済」を実現するためのコストと組織の重要性に対する認識等に支えられたもの」(p.107)。

第3節 ロックフェラーとスタンダード・オイル(p.108-124)

●ジョン・ロックフェラー(p.110-113):1859年にモーリス・クラークと共に「クラーク&ロックフェラー社」を設立して事業を開始→当初は灯油の輸送や委託販売を行う。→1863年に製油業を開始→委託業務をやめ、石油の精製事業のみに専念する。→1865年にクラークから経営の主導権を72500ドルで得る。→1869年、ヘンリー・フラグラー等とのパートナーシップによって、新会社「ロックフェラー、アンドルーズ&フラグラ社」となる。→1870年、パートナーシップが株式会社に改組され、「スタンダード・オイル(オハイオ)」が成立。

●規模の経済:1869年には、世界最大の規模の製油所を操業させ、「規模の経済」としての競争力を確立(p.113)。→「初期投資が変わらないため、通量が増えれば増えるほど、精製コストはガロンあたりで低下」(ibid.)。→「アメリカで最大の製油所であるということは、アメリカでもっとも安い石油精製を可能にする」(ibid.)。→さらに、垂直統合戦略を積極的に進めていった。

(1)規模が資金調達に大きな影響を与える(p.114):銀行が規模を信用して、短期融資にいつでも応じてくれた。

(2)「規模によって鉄道に対して強い交渉力をもちえた」(ibid.):輸送量が大きく定期的であれば、輸送費削減の強い交渉力を持つことができた。

●株式交換からトラストへ:「規模の経済性と鉄道会社との交渉力を相乗的に利用することによって、さらなる規模を達成できること」(p.114)。→1871年には、株式交換による実質的な買収によって、クリーブランドの製油業界を完全に制覇(ibid.)。→1872年までに国内生産の四分の一を制覇(p.115)。→制覇の裏にある、二つの矛盾する動機の存在。

(1)「過剰生産・過当競争のためにいっこうに安定しない価格の安定化」(p.115)

(2)「より効率的で安価な生産の達成」(ibid.)。

●より強固なトラスト組織へ:1878年までにスタンダード社は、同産業の90%にあたる投下資本を配下に組み入れ、独占的支配を確立する(p.116)。→原油業者からの宣戦布告→1878年に長距離輸送パイプライン会社である「タイドウォーター・パイプライン」を設立(ibid.)。→スタンダード側も長距離パイプライン・ネットワークの建設を即座に開始(p.117)。→このパイプライン建設が、「より強固なトラスト組織による集権的な経営体制の確立の契機となった」(ibid.)。→トラストに加盟した40の独立会社の41名の株主→持株を9名の受託者団に渡し、代償として7000万ドルの「トラスト証券」を受け取る(p.117)。→トラストの経営は全般的な権限を与えられた9名の受託者団のみが行うという組織改革の提案〔1882年〕(ibid.)。→結果として、製油所の集約に成功し、前方〔販売〕・後方〔生産〕にわたる垂直統合を完成させた(p.118)。

●1880年代から90年代にかけて生まれたトラストの要点:成功したトラストすべてその技術特性あるいは規模の経済による費用削減を可能とする産業であったこと」(p.118)。→「しかし、そうした産業に属していても企業結合が成功をおさめるのは、連合企業が各々独立したまま活動する水平的連合戦略を放棄し、生産から販売、あるいは購買にいたる組織を統合し、管理の集権化が行われる垂直統合戦略を採用した場合」(ibid.)のみ

●反トラスト法の影響:1890年のシャーマン反トラスト法(Sharman Anti-Trust Act)の制定(p.119)。→アメリカは「自由競争」最も効率的な競争原理とする(ibid.)。→1892年には、裁判でスタンダード・オイル・トラストが違反とされた(p.120)。→「この判決から、スタンダードをはじめとするトラストは、他の会社の株式を所有する持株会社(holding company)制を模索するようになった」(ibid.)。

●「持株会社(holding company)制」:「独立した株式会社を合併するために鉄道ではじめて用いられた制度」(p.120)。→「トラスト証券よりはるかに売買しやすい株式証券が扱える持株会社側は、金融業者や投機業者からはより歓迎される」(ibid.)というメリットが存在。→1889年に「一般会社法」がニュージャージー州で可決される。→「簡単な事業計画などの書類と一定金額を払い込めば持株会社が認可される」(p.120-121)。

●持株会社から単一の統合企業へ:反トラスト法の影響で、「企業の弁護士たちはカルテルや業界団体を通じて行使される協定はすべて破棄して、法的に規定された単一企業に合同することを企業に忠告するようになった」(p.122)。→1898年から多数の法的合併・合同が発生(ibid.)。→スタンダード・オイルは、1920年代に本格的な統合企業となる(p.123)。

●統合企業に関するアルフレッド・チャントラーの指摘:「アメリカという広大な市場にあって合理的な製造と販売を行えるビック・ビジネスとなるためには、ゆるやかな連合を中心とするトラストや持株会社組織形態では経済的に取引費用・管理費用を削減することはできない集権化した単一の本社重複する取引を内部化し、それらを厳密な責任と権限に基づいてトップからミドル、ローワー・マネジメントにいたる経営階層が管理する組織が完成されてはじめて巨大組織は持続的な成長を遂げることができる」(p.123)。

アンドルー・カーネギーとジョン・ロックフェラーの革命に関する総括:カーネギーとロックフェラーは、「規模の経済性」をよく理解し、その追求とそのための組織構築によって、世界史に輝かしい足跡を残した。→「二人が作り出した鉄鋼も石油も他のどの生産者が作りだすものよりも安くて高品質だった」(ibid.)。