市民目線

生活・社会・環境に係わる問題状況の当事者である市民の認識や感覚といったものを尊重する考え方のことである。古典的には、市民を庶民や大衆などと呼称し、社会において平均的な生活を送る人々が持つ、物事への認識を指していたが、今日においてそのような定義を用いることは時代錯誤だと言える。

一般に市民目線というキーワードは、公共政策の場面において多く用いられている。その際には、地域の主役である市民からの要望が重視され、市民と行政サイドが正しい情報を共有することなどが強調されている。だが、そのような用法の基本様式は、公共政策の供給サイドたる行政と需要サイドたる市民の協調を図るため、その声を拾うという様式であり、双方向的なものとは言い難い。つまり、あくまでも「外部の視点としての市民目線」という限定的な位置づけに止まっており、これは今日における地方行政などにおいても一般的な認識として確固たる地位を占めている。同時に、学界などにおける市民目線という概念に対する認識も、この一般的用法に倣ったものが多い。

しかしながら、異なる立場、知識と方法を持つ人々の関係論である政策情報学的思考においては、その担い手として一般多数の人々が当初から設定されており、市民目線はそもそも自明の理である。だが、政策情報学的思考に基づく問題解決プロセスにおいては、行政-市民といったセクター別の事前存在を規定していない点に注意をする必要がある。むしろ、井関が指摘するように、公共的な問題解決プロセスへの参加などを通じて、異なった立場の人々が関わりあいながら、色々な主体を絶えず形成し、再組織化していく柔軟な発想に立脚している(井関2011)。

その意味において従来の市民目線という定義は、対立項としての行政などの事前存在を仮定した議論であり、極めて静的な構造である。だが、生活者としての市民とその目線たる認識は、静的に固定化され、事前存在として望ましい理想像として描けるような単純なものではない。むしろ、日々の生活の中で不確実性に振り回されながら、生活起点発想を持つ異なった立場の人々が社会の中で様々な価値、意味、時間ならびに空間を共有する中から共創される。

そのため、生活起点発想であらゆるレベルの政策を検証する際には、問題解決の方向や目標を決定する視点として、市民目線というキーワードを援用することが有効であると考えられる。これはまた、ほとんどの政策がターゲットとする問題領域というものが、実際には特定の地域に住む人々の生活に直接的/間接的に関わっているからである。同時に、あらゆる政策の実体的な基盤が一般多数の人々の生活に立脚しているからである。

だが、同質性に満ち溢れた一元的な市民というカテゴリを規定することは、避けるべきである。一見すると市民目線とは、シンプルなキーワードである。だが、従来の個別諸科学においても市民という概念すら完全に統一された合意に達していない現状を踏まえれば、時代の変化と共に認識前提が変化し続けている極めて捉えづらいキーワードであり、取扱いには注意を要する。

なお、市民目線という概念は、従来の社会科学的な視点に立脚してこの意味を捉えると、何らかの原因によって損なわれた市民社会という領域を復権するということを意味しているとも捉えられる。例えば、公共政策においては、公共開発などにおいて損ねられた生活に関する権利や発想の復権を意味することがある。例えば、環境社会学の受益圏・受苦圏論などは、起点となった名古屋新幹線騒音公害を事例として、公共事業のあるべき姿と沿線に住む市民の受苦を中心とした目線を描き出している(船橋1985)。また、経済発展と市民社会の強化をめぐっての対立においては、これらを解決するための方法として、市民の目線や着想点を重視することがある。このような傾向は、市民社会について植村が、様々な異なった意見を申し立てる政治的回路を具体的に社会に構築することがその核心にあると述べた点と関係を有している(植村2010)。

引用文献

  • 船橋晴俊. 『新幹線公害: 高速文明の社会問題』. 東京, 有斐閣, 1985, 329p. 有斐閣選書749
  • 井関利明. 「I-1 「政策情報学」(Policy Informatics)の構想」. 政策情報学の視座: 新たなる「知と方法」を求めて. 千葉商科大学政策情報学部 10周年記念論集刊行会. 東京, 日経事業出版センター, 2011, pp.10-26
  • 植村邦彦. 『市民社会とは何か: 基本概念の系譜』. 東京, 平凡社, 2010, 351p. 平凡社新書559