「As We May Think (1945) :我々が思考するごとく」メモ

Vannevar Bush. "As We May Think". The Atlantic Monthly. Volume 176, No.1, p.101-108(1945)

2002.5.27

加藤久明

ハイパーテクストの父が書いた偉大なる論文に関する駄文的メモ。


  • 研究者は、膨大な他の研究者による発見や結果を前にして、それらの結果を把握または記録する時間的余裕が無いためにたじろいでいる。しかし、専門分化の重要度は増加しており、異なる分野のあいだに橋をかけようと努めてもとても及ばない。
  • 研究成果の伝達・評価に関するやり方は昔ながらのものであり、現在ではまったく目的にそぐわなくなっている。学術的論文を書く時間と読む時間を比較した場合、その比率は驚くべきものとなる。限られた分野のなかでさえ、丁寧に読みつづけて最新の思考についていこうと良心的に試みている者は、前月の努力のうちでどれくらいが生産活動に役立ったかを算定する調査を前にすると逃げ腰になる。
  • 問題は、我々が記録を活用する現在の能力をはるかに超えて、出版物が溢れてきたことである。しかし、強力で新しい機器を使えるという変化の兆候が現れており、非常に信頼性が高く、安価で複雑な装置の時代がやってきた以上、ここから何かが出現してくるはずである。

  • 全面的に斬新な記録方式が出現しない場合においても、現行の記録方式は確実に改良され、拡大されつつある。
  • 写真技術の進歩の傾向がどのようになるかを論理的に探った場合、未来のカメラマニアは、額の上にクルミより少し小さい一塊のカメラをのせており、それで後に映写されたり拡大されたりする三ミリ四方の写真が撮影される。未来の科学者は実験室や戸外を歩き回り、何か記録に値するものを見るたびにシャッターを切る。ここで一つ空想的なことは、これを使って幾らでも写真を撮れるという点だけである。
  • 紙と同じくらい薄いフィルムを考えた場合、書物上の通常の記録に比べてマイクロフィルム複製のしめる容積は一万分の一である。コスト面を考えた場合、圧縮は大切であるが、単なる圧縮のみでは十分ではない。記録を作り貯蔵するだけでなく、それを参照できなくてはならない。この点は後述する。
  • オリジナルはどうして作るのか、これは次章において取り上げる問題である。

  • 記録を作成する最初の段階に関して、将来の著者は記録媒体に直接話しかけるようになるのだろうか、自分の話がただちに活字記録になることを望むなら、全ての要素はすでにそろっており、そのために必要なのは、現存の機器を利用し、話し方を変えることだけである。
  • キーを叩くと、電気的に作成された振動がキーによって組み合わされ、声を発するヴォーダという機械が存在する。これと逆の機械であるヴォコーダは、話しかけると対応するキーが動く。
  • ヴォコーダに連動して速記用タイプライタを動作させると、人が話しかければタイプを打つ機械ができあがる。しかし、我々の現在の言語は、機械化に向いているわけではない。
  • データや観察結果を収集し、既存記録から関連資料を抜き出して、最終的に新資料をデータベースに入力するまでには、多くのことをしなくてはならない。人の高度な思考を機械で置き換えることは不可能だが、「創造的な思考」と「反復的な思考」とは全く異なるものであり、後者については、強力な機械的補助手段が存在し、また期待もできる。
  • 複数の数字を足し合わせることは反復的な処理であり、大昔から機械に委ねることが可能であった。
  • 未来の電子計算機は、多様な業務に利用できるようになる。複雑な仕事をしている何百万の人々のこまごました作業のなかには、つねに多くの計算処理が含まれている。

  • 反復的な思考は、計算や統計ばかりでない。定まった論理的手続きに従って事実を結びつけ記録する際にはいつも、思考の創造的な側面はデータの選択やその処理方法にあるにすぎない。その後の操作の性質は反復的であり、機械にゆだねるのが適切である。
  • 科学的推論が、算術的計算の論理操作だけに限定されているとすれば、われわれは物理的世界の理解を深めていくことはできない。未来の計算機によってさえ、科学者は真に必要なところまで行き着けるわけではない。
  • ユーザーが、決まった規則に基づく反復的な細かい変換作業以外のことに頭を使うべきだとすれば、彼らは高等数学の細かくて骨の折れる操作からも解放されなくてはならない。
  • 数学者とは、高度な記号論理の扱いに長けた人間のことであり、自分の用いる操作手順を選ぶ際に直感的判断を下せる人のことである。
  • 以上のような理由から、科学者のためのいっそう高等な数学を扱う機械がさらに出現するはずである。

  • データを操作し、論理的処理によって自分の周囲の世界を探求するのは科学者ばかりではなく、認められた慣例に従ってしばらく思考が流れるようなときはいつでも、機械が登場するチャンスがある。形式論理に従って前提を処理する機械を作ることは、リレー回路をうまく利用すればただちに可能である。
  • 数学的変換を機械にやらせる以前に、位置取り記法の新たな記号体系を作り上げる必要がある。そして、数学者の厳密な論理の後には、日常生活への論理の応用が控えている。
  • 我々は記録を拡大し続けるため、現在の記録量でも、適切に参照することは不可能に近い。このことは、人が獲得した知識を受け継いで役立てるというプロセス全体にかかわる大きな問題である。
  • 選択に関しては、機械でかなりのことが行なわれているが、その多くは単純な選択処理にすぎない。別の選択法の代表は電話の自動交換があり、この一般的アイデアはその他の分野に応用可能である。それ以外にも、高速選択法や他の目的に使われている遠隔映写法は考慮に値する。

  • 情報選択という問題の核心は、我々が記録を入手する時に使う不自然な索引システムが、大半の愚行の元凶となっている。人の頭脳はこれと同じように動作するものではなく、連想に基づいて働く。
  • 人がその心理的過程を人工的に完全複製することは望めないにしても、これから学ぶことは可能である。
  • 一種の機械変われた私的なファイルと蔵書のシステムである「memex」は、個人が自分の本・記録・手紙類をたくわえ、また、それらを相当なスピードで柔軟に検索できるように機械化された装置である。そして、たくわえられる資料の大半は、機械にすぐ入力できるマイクロフィルムの形で購入される。

  • これまで述べてきた全ては、現在の装置や機械を未来に延長したものに過ぎないが、それは連想検索法への直接的な手がかりを与えてくれる。
  • 連想索引法の基本的なアイデアは、「どんな事項からでも他の望みの事項」を、「瞬時かつ自動的に選択できるようにする」という点にあり、重要なことは、二つの事項を結びつける過程である。
  • ユーザーは、利用できる資料の迷路のなかに、自分の興味のあるものの検索経路を作り上げ、その検索経路は消滅することはなく、さらに一般的な検索経路へと結合されていく。

  • まったく新しい形態の百科事典が登場し、そこでは、連想による検索経路の網目が事典中にあらかじめ準備されており、それをただちにメメックスに入れて拡張していくことができる。このようにして、人が自らの種に関する記録を生み出し、蓄え、検索する手段が科学によって実現される。
  • ここにおいては、予言でなく提案を行なっている。その理由は、既知の技術の延長から引き出された予言は実体を持つが、未知の技術に基づく予言は推測に推測を重ねたものに過ぎないからである。
  • 脳から手へと到る非常に変換された形態とはいえ、腕の神経を流れる電子的衝撃波を途中で横取りすることはできないだろうか。これにより、音を直接取り入れるようにすることが可能になる。
  • 人間はあまりに複雑な文明を創り上げてしまったので、自らの記録の扱いを十分に機械化する必要がある。