本稿は、車谷長吉の「灘の男」を参考に、兵庫県姫路市白浜町を中心に行われる「灘のけんか祭り」に関する歴史的背景、地域社会の気風、並びに関連する人物像や産業史を考察するものである。白浜町は古くから塩田業および漁業を基盤に栄え、港町特有の開放的気風を有してきた。この地域性は、地域史において顕著な影響を及ぼしたとされる人物の行動や祭礼文化にも表れている。
白浜町には、その気風を象徴する実業家として、二名の歴史的人物が伝承されている。
一人は塩の牛車輸送から事業を興し、最終的に百台余のトラックを保有する運送会社「浜田運送」を築き上げた濱田長蔵(通称「濱長」)である。もう一人は、船舶用錨鎖(アンカーチェーン)などを扱う製造業を創業した濱中重太郎である。両名の生涯は、聞き書き風の小説形式(車谷長吉による)で描かれており、特に濱田長蔵の語りが中心を占める。作中の描写は事実と創作が混在するが、書評の中には「人物像は現実と一致している」とする見解もある。作中設定では、濱田は宇佐崎村、濱中は松原村の居住者として描かれている。
地域住民の間では、「灘は特別」との言葉がしばしば用いられ、これは「祭りの特別性」を指す。小説内に描かれる喧嘩は多くが一対一の形式であり、組織的報復も見られるが、暴力性と同時に一定の作法が存在していたことがうかがえる。これらの描写は、現在では希薄化した浜手地域の荒々しい気質を示す歴史的資料とも解釈できる。
現代の「灘のけんか祭り」においても、参加者の表情や立ち振る舞いには、喧嘩文化の残滓が認められる。特に練り合わせ時の参加者は、相手を制圧せんとする強い気迫を示す。この変容は日常的性格と対照的であり、祭礼が年に二日間だけ参加者の人格を変容させる「非日常の場」として機能していることを示唆する。
濱田長蔵と濱中重太郎は、少年期に互いをライバル視し頻繁に衝突していたが、成人後にはともに事業的成功を収めた。両者の特筆すべき資質は、気質的剛毅さに加え、「状況判断の迅速性」である。これは宮本武蔵が「負ける勝負を避けた」逸話と類似し、勝敗を左右する判断力がビジネス領域でも有効であることを示す。また、両者は義理堅く、誠実かつ謙虚であり、業務遂行においても姑息な手段を用いない。この人物像は、近代日本における理想的男性像の一類型を形成している。
車谷長吉は人物を揶揄的に描く傾向が強いと評されるが、本作では称賛的要素が含まれる。司馬遼太郎の坂本龍馬像のような理想化された歴史人物像と異なり、車谷による「灘の男」像は、現実的で生身の人間像として提示されている。
筆者の家族史にも、昭和期までの地域社会の労働文化が反映されている。父方祖父は素麺製造・卸売業を営み、納品時には18 kgの荒箱を左右肩に二箱ずつ担ぎ運搬したという。これは顧客心理にも影響し、追加購入につながることもあったとされる。また、氏子として祭礼の屋台や衣装の新調に多額を寄付するなど、地域祭礼への経済的貢献も行っている。母方祖父は郵便局経営と農業(養蜂業・養鶏業)を兼業し、採取物を直接販売するなど、自給自足と商業活動が融合した生活を営んでいた。
これらの事例は、家父長制・共同体志向が強く、村落間の交流が濃密であった近代日本の生活様式を示す。同様に、農業や漁業、祭礼など共同作業が人間関係の維持・強化に寄与していたことが理解される。
現代において、播磨地方の多くの町は工業・商業の衰退によりシャッター街化が進行している。一部では「昭和レトロ」として観光資源化が進むが、国内外から継続的に人を惹きつける事象は限られる。その中で「姫路城」と「灘のけんか祭り」は例外的な集客力を維持している。
現在の木場、白浜町(旧宇佐崎村)には、かつての塩田の物理的痕跡はほぼ残っていない。唯一、八家川に架かる「三つ橋」が塩田時代を想起させる存在であるが、塩田業自体は戦後すぐに衰退した。その跡地の一部は住宅地に、海岸部は工業地帯に転用された。
祭礼時の屋台宮入りにおいて、練り子に大量の塩を振りかける作法が存在する。この行為は現在では象徴的儀礼にすぎないが、もし塩田全盛期から続くものであれば、塩の産地ならではの資源的贅沢が儀礼化した事例と解釈できる。
1945年 小地主兼自作農兼呉服屋の長男として兵庫県飾磨市下野田221番地(現・姫路市飾磨区下野田3-221)に生まれる。
1964年 慶應義塾大学法学部と文学部に合格したが、「鷗外、漱石さんにおすがりしたいという気持ち」から後者に入学した。
1993年初の単行本『鹽壺の匙』で第43回芸術選奨文部大臣新人賞(平成4年度)と第6回三島由紀夫賞を受賞する。
1996年、芥川賞落選の失意から、強迫神経症を発症するも1998年、自身初の長編『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞する。
2004年以降は私小説を離れて、史伝小説や掌編小説、聞き書き小説などに創作の軸を移した。
2007年『灘の男』(灘の男/深川裏大工町の話/大庄屋のお姫さま 収録)を発表。