祭りの後

福崎町の柳田國男生家前の碑(202126日)
福崎町の柳田國男生家(2021年2月6日)

ハレとケ

神崎郡福崎町出身の民俗学者・柳田國男によれば、日本人の世界観として「ハレとケ」、すなわち「非日常と日常」があると考えました。

例大祭に対する熱い思いのある播磨地方では、例大祭は一年のうち二日間だけです。加西市の「北条節句祭り」は春にありますが、多くが10月(神無月)に設定されています。当然、ハレの日以外はケの日(何もない日)です。

祭りが終わってしばらくの間は、太鼓の残響や屋台の残像が心に留まったままになったり、ケの日でも屋台に想いを馳せて、うずうずしている人も多いのではないでしょうか。

富嶋神社での神事(渡御〜御旅所での祈祷)(20221022日撮影)
魚吹八幡神社氏子興濱による神事(神輿還御)(20191022日撮影)

ケガレの消去

柳田國男は日常の「ケ」に対して「ハレ」のカテゴリーを対比させました。「ケ」は日常、「ハレ」は祭りです。我々の生活では、この「ケ」と「ハレ」とがうまくリズムをとって繰り返しています。

民俗学者・櫻井徳太郎は、柳田の「ハレ」と「ケ」のサイクルの重要性を踏まえつつ、さらに祭りが担う「ケガレ」の消去の機能について議論しました。

「ケ」が枯れた状態を「ケガレ」とし、例えるなら、冬至に太陽の光が薄らいで、地球がいまにも滅入ってしまいそうな状況と説明した上で、ケガレの状態に陥った人間、すなわち、意気消沈し、にっちもさっちもゆかない状態にある個人は、事態転換のため、祭りや行事を営むことによってケガレを消去し、新鮮なエネルギー獲得のため、「ハレ」空間の中に投げ込まれる必要性を論じました。

かつての日本人は、祭りを、「ケ」の空間を全部、「ハレ」の空間に変える事態転換の場として生活に位置付けていたといいます。

日本における近現代以前の祭りの本質とは、

祭りとは本来神聖な儀式であって、ただワイワイと騒げばいいというものではなかったとされます。かつての人々は、「ハレ」の舞台を設定することによって、日常生活がスムーズに機能するように工夫したといいます。日常生活の中で、それを区切るところの場を設定してやることによって、人々の萎え萎んだエネルギーが復活し、活性化し、そしてより生きがいのある人生が展開していく、と考えました。

1の精進潔斎として、家族から離れ、氏神様の拝殿でひと晩過ごすという斎忌については、「ちょうちん祭り」で有名な魚吹八幡神社の秋季例大祭では、宵宮では、平松・吉美・大江島・興濱・新在家・余子濱・垣内の7地区の青年が楼門前に高張提灯を持って集まり、それぞれの地区はお互いの提灯を激しくぶつけて潰し合い、宵宮のクライマックスを迎えます。

その後、敷村(宮内)の幟・提灯・太鼓を先頭に西の馬場の御旅所に向かいます。平松・吉美・大江島は参道の東側を照らし、興濱・新在家・余子濱・垣内は西側を照らします。平松・吉美は金幣よりも早く御旅所に向かいます。

神輿担ぎ奉仕者は、厄年の氏子が奉仕をします。大江島の提灯は金幣、興濱は品陀和氣命(応神天皇)の神輿、新在家は息長足比賣命(神功皇后)の神輿、余子濱は玉依比賣命(タマヨリビメ)の神輿を先導します。御旅所に到着すると所定の配置で整列し、神輿が練り終わると金幣と三基の神輿が安置される。渡神殿での神事が終了すると御旅提灯も終わります。

ここで神輿は檀尻とともに一夜を明かします。この際に、各地区の青年らの数人も一緒に一夜を過ごします。氏神様の御旅のお供をし、渡神殿で一緒にひと晩過ごすというのは、大切な神様をお守りする意味と共に、精進潔斎の意味もありそうです。

「北条節句祭り」で有名な加西市の住吉神社の春季例大祭では「鶏合わせ」という神事があるため、古くからの言い伝えでは、神事に関わる人、屋台の練り子、特に御輿を担ぐ人は、鶏肉や玉子を使った製品を食することは控えるとも言われます。神事に使われる動物の神聖視と食の禁忌があることがうかがえます。

魚吹八幡神社楼門大門前でのチョーサ(差し上げ)(丁屋台)(2019年10月22日撮影)

屋台の残像

屋台の重量は、定かな数値は分かりませんが、1.2 t〜2.0 tあるとも言われます。太鼓の音に合わせて掛け声とともに練ります。

播磨地方の海側で言えば、姫路市飾磨区以東では「ヨーイヤサ」の掛け声で、飾磨区以西の網干周辺では「チョーサ」の掛け声で練り・差しが行われます。いわば「動」の時間帯です。

「ヨイヤサ」練りでは、太鼓がリズミカルで威勢がよく、激しい屋台練り合わせ時には観客の気持ちも高揚します。

一方で、「チョーサ」練りでは、ゆったりとしたリズムで練り歩きをし、チョーサ前に「ヤー」と声を出しながら練り子が走り、差し上げ(チョーサ)時に太鼓のリズムが急に激しくなります。観客は、固唾を飲んで見守ります。

富島神社氏子による拝殿前境内練り合わせ(東釜屋屋台・黒崎屋台)(2018年10月21日撮影)

太鼓の残響

写真や動画では、伝えきれないことは多々あります。屋台の太鼓の音は、そのひとつです。

太鼓がなければ、「差し上げ」も「練り合わせ」も成立しません。播磨地方の人で、太鼓の音を聴いているだけで、気持ちが昂る人も少なくないようです。幼い頃からの音の記憶でしょうか。

「お母さんのお腹の中にいる頃から神社で太鼓の音を聞かされていた」という冗談まじりの話もあります。体の芯まで響く深く重い太鼓の音。

ちなみに、神が現れるとき、神のおとづれは、『音連れ』が語源とも言われます。屋台の太鼓の音と練り子の掛け声、獅子舞の横笛の流麗な音色、檀尻のリズミカルな太鼓の音、祭りは音に満ちています。

屋台の太鼓の音については、「差し上げ」や「練り合わせ」以外の平常時、いわば「静」の時間帯のほうがリズムがゆっくりなので、堪能しやすいかもしれません。

チョーサ型屋台では、静と動がはっきりしている富嶋神社(たつの市御津町)の宮練り「通称:巴練り」や、緊迫した太鼓の音が堪能できる浜の宮天満神社の「台場差し」がお勧めです。

松原八幡神社拝殿前での練り合わせ(松原屋台)(2019年10月14日撮影)

揺れる伊達綱

松原八幡神社の例大祭(通称「灘のけんか祭り」)の氏子屋台の形態は、神輿型の中でも灘型・飾磨型・練り合わせ型などと呼ばれ、神事で担がれる神輿を原型として発展させたと言われます。練り合わせ型屋台の特徴として、伊達綱があります。屋台の四隅を飾る大綱のことです。

播磨地方の海側地域で言えば、姫路市飾磨区から東は高砂あたりまでの地域では伊達綱のついた屋台が主流です。伊達綱の太さは最近は極太が人気のようです。色も様々で、灘では、松原と東山は白・金、妻鹿は赤・金、茶・金、中村は紺・金、八家は茶・金、木場は緑・金です。

差し上げたときに、激しく揺らすことを「がぶる」と表現したりします。この「がぶり」は縁起の良い動きとされ、拝殿内や前、楼門前、鳥居前など要所で行われます。練り子にとっては、かなりの体力が必要で、全員の息が合わせないと屋台が傾いたり、転倒したりするので危険を伴います。がぶりの際、伊達綱の先の細い毛が激しく揺れます。

この「がぶり」によって伊達綱の先を揺らすことの意味については、確かなことはわかりませんが、聞いた話によれば、実をたくさんつけた稲の穂先の頭が垂れ下がる様子に見立てているとのことです。秋の稲刈りが無事終わり、氏神への感謝の気持ちと来年の豊穣を祈願を表現しているのかもしれません。

あるいは、神社に参拝をする時、「鈴」を鳴らすための綱を「鈴緒(すずお)」がありますが、鈴は、その清らかな音色から人の心を和ませ、悪霊を祓う道具として、古来より神社では、ご神前に吊るしたり、神楽の中で巫女が振るなどのように使用されて来ました。

「揺らす」という意味では、伊達綱と鈴緒は綱を揺さぶっていることでは似た動作です。

富嶋神社氏子濱田西屋台による拝殿前でのチョーサ(差し上げ)(201910月20日撮影)
富嶋神社宮入り(2022年10月23日撮影

限界チョーサ

富嶋神社氏子濱田西の連続チョーサは、通称「限界チョーサ」と言われ、観客はハラハラして見守りながらも、祭りの見せ場のひとつとなっています。

ここに人間の心理があるように思います。何が起こるかほぼ100%わかっているなら、それほど人は注目しないように思います。もちろん事故がないことは皆願っています。特に、小学生・中学生の男子が乗り子を務める地区の親は気が気でないです。例えば、神事の神輿担ぎがそれほど注目を浴びないのは、そのためかもしれません。

さらにいうなら、上手すぎるチョーサよりも、やや危なかしいチャレンジ型のチョーサの方が気になります。事故は絶対に起きて欲しくないけれども、予定調和ではなく、その場限りのハラハラドキドキも経験してみたい。差し上げは、神への敬礼・感謝の現れですので。ハレの日特有の心理が働いているように思えます。

英賀神社拝殿絵馬(2019年12月15日撮影)

播磨の風土

『播磨国風土記』(奈良時代に成立)では、土地の良し悪しについての評価がなされており、播磨はかなり上の部類に属しています。明石川、加古川、市川、夢前川、揖保川、千種川と6つの川が豊かな平野に流れており、文化の形成にもよい影響を与えてきたと考えられています。

哲学者・和辻哲郎が、神崎郡砥堀村仁豊野(現:姫路市仁豊野)出身であることは、地元では有名な話です。

「自叙伝の試み」には、播磨で過ごした幼少期の思い出をたくさん書いています。大学で上京してからも自分が育った市川の河原の石を三つ送ってもらい、幼少期を過ごした播磨への思いを馳せながら、執筆活動をしたと言われます。市川の当時暴れ川で、よく氾濫していました。ですので、石が丸っこいのです。

和辻は「風土論」の中で、「風土が人間に影響する」と論じました。「日常直接の事実としての風土」、噛み砕いて言うと、肌で感じる寒さとか、秋になると香るキンモクセイや籾殻を燃やす匂い、雨が降る前に潮の香りが漂ってくるといった日常生活で直接意識に与えられる質感のことです。

播磨の浜手地域の屋台練りを見ていて感じることは、海のそばで生活を営んできた人々の様子です。「灘けんか祭り」の神輿合わせでは、3基の神輿をぶつけ合い、地面に叩き落とします。これは、かつて神功皇后が三韓征伐の途中この地に寄った際、 軍船についていたゴイナ(カキ)を軍船同士をこすり合わせて落としたという故事にならったもので、ぶつかり合いが激しければ激しいほど、神意にかなうとされています。

高砂神社の神輿渡御では、辻々で神輿を左右に揺らす「神輿振り」が繰り返されます。子どもたちによるシデ振りと「チョーサー」の掛け声に合わせて「千歳楽じゃ、万歳楽じゃ」の掛け声を繰り返して神輿を左右に揺らし差し上げられます。瀬戸内の波を乗り越えながら漁に出る小舟を連想させます。

英賀神社拝殿東側にある司馬遼太郎『播磨灘物語』を記念した文学碑(2019年12月15日撮影)

明るさと豊かさ

英賀神社の拝殿の東側に、司馬遼太郎の『播磨灘物語』を記念した文学碑が設けられています。

黒田官兵衛主役のこの物語が、司馬遼太郎の自身の先祖が英賀城に籠城したという伝承から着想を得て書かれたからです。

ちなみに、司馬遼太郎の祖父の・福田惣八は広畑の出身であり、廣畑天満神社境内にも司馬遼太郎の文学碑や、祖父福田惣八と父福田是定の玉垣が残されています。

哲学者・梅原猛は、幕末・明治文明開化以降に多くの偉人を輩出していることは他では見られないことであると指摘しています。こういった傾向は、播磨特有の「明るさ、豊かさ」から来ているとも言われます。

「灘のけんか祭り」御旅山ふもと練り場「広畠」での神輿合わせ(2022年10月15日撮影)
東山屋台の屋台紋「千成瓢箪」(2019年10月14日撮影)
荒川神社氏子井ノ口屋台の狭間彫刻「湯沢山茶くれん寺」(2021年10月17日撮影)
荒川神社氏子町坪屋台の狭間彫刻「佐久間玄蕃盛政、秀吉の本陣に乱入」(2020年10月4日撮影)
動画:松原露払い獅子檀尻(2022年10月15日撮影)

祭りにみる反骨精神

「灘のけんか祭り」東山屋台紋「千成瓢箪」

ある専門家の調査によれば、播磨地方の歴史上の人物で嫌われる人物のワースト1位は、「羽柴(豊臣)秀吉」だったそうです。

松原八幡神社の秋季例大祭、通称「灘のけんか祭り」では、灘の氏子東山の屋台紋が「千成瓢箪」である由縁も有名な話です。

かつて羽柴秀吉に社領を減らされ、神社内での生活が困難になった松原八幡神社の神役人の多くが東山村に移り、百姓をしながら祭儀の際には役目を果たしたと伝えられます。

他の氏子屋台を同じく、菊紋の使用は皇室の御稜威を憚り改めることとなった際に、豊臣秀吉の馬印に因み12の瓢箪を菊花弁に見立て、何とか菊紋を残そうとしました。

地区神役人の知恵と、かつての屈辱を忘れないようにという反骨精神の両方が象徴されています。


「松原露払い獅子檀尻」

同例大祭にて、露払いを務める松原獅子屋台の囃子には、

「若(わか)ノ松(まつ)勢(せ)エ儘(まま)ソラ サノ栄(さか)
世々(ようよう) 我(わ)モ招迎(しょうげ)ヤ 面白(おもしろ)ヤ
汝(なんじゃ)納(のう)俵担(ひょうたん)ヤ サア 越頭(えっと)栄(えい)

この太鼓の音は1996年環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。

「なんじゃい のう ひょうたんや」の部分に瓢箪(秀吉の馬印)なんか対したことないとも聞こえます。

他の氏子屋台においても、秀吉の立身出世の物語や太閤記を題材にした彫刻のテーマが少ないのも納得できます。荒川神社の井ノ口屋台の「湯沢山茶くれん寺」は井ノ口ゆかりの腰掛け石や当時の民衆の驚きを示したものでしょうし、秀吉と対立を深めた佐久間玄蕃盛政の「秀吉の本陣に乱入」の狭間彫刻がいくつかの屋台で確認できます。

一方、大阪や神戸の地車においては、秀吉物は少なくないです。「日吉丸、矢矧橋にて蜂須賀小六と出会う」「秀吉尼崎の危難〜秀吉の味噌摺り坊主」「大徳寺焼香の場」「太閤記、「賤ヶ岳の合戦」、「加藤虎之助、山路(正国)将監を討つ」「毛受 (勝照) 勝助、柴田勝家に替わり討死」「加藤清正の虎退治」「難波戦記ー大坂冬の陣・夏の陣」などがあります。

松原八幡神社氏子木場の屋台とお迎え提灯(2019年10月14日撮影)

祭神と氏子

木場屋台の「祭神遷し」

当神社最古とも言われる木場屋台には、木場神社の祭神を松原八幡神社まで乗せて運ぶという伝承があります。

宵宮の10月14日には、宮元の東山の次に木場屋台は宮入りをします。宮入り終了後、「宮遷し」と言って、神社拝殿につるされた縄に練り子がよじ登ります。これにより、木場屋台の祭神が松原八幡神社に遷るとされます。

本宮の10月15日には、当番村の神輿の練り子の宮入り後、祭神は神輿に移されます。神輿は松原のてんてんつくの先導で妻鹿の御旅所を向かいます。木場屋台は神輿の後、屋台の先頭を切って妻鹿の御旅所へ向かいます。

山田(2021)は、木場屋台が妻鹿(お旅山)へと先人を切って向かう慣習について、男鹿(お)と女鹿(めが)の夫婦が再会する図式であると考察しています。ただ、家島諸島の男鹿島(たんがしま)と木場神社と結びつける伝承はまだ調査中とのことです。

恵美酒宮天満神社氏子清水幟旗の紋(2022320日撮影)
恵美酒宮天満神社氏子清水幟旗(2022年3月20日撮影)

多くの偉人と天神さん

播磨地方では、江戸後期、非常に教育が盛んであったと言われます。藩校は、県下に30あったうちの17が播磨です。郷学や私塾は44もありました。寺子屋は448もあり、県下の寺子屋のうち大体半分ぐらいは播磨が占めていました。例えば、幕末・明治時代の偉人、歴史学者・三上参次も、姫路の砥堀村(とほりむら)(姫路市大字仁豊野・砥堀)に生まれ、こういった教育の中で育ちました。

寺子屋の多さからもわかるように、江戸時代〜幕末・明治時代に多くの学者を輩出したのは、よい教育の環境が整っていたためと考えられています。

そして、寺子屋と縁の深い神様は天神さんです。

天神さん、すなわち藤原道真公の神社は、梅鉢の神紋でも一目でわかります。道真公を祭神とする天神社・天満社は、曽根天満宮、大塩天満宮、恵美酒宮天満神社、浜の宮天満、津田天満神社、英賀神社、廣畑天満宮などがあります。

平安時代に生まれた藤原公は、その類まれなる才能から神童と称され、青年期には文武両道で傑出した実力でその名を馳せ、壮年期には宮廷の右大臣として善政により当時の日本を立て直しに貢献し、国家に尽くしました。しかし、それを妬んだ宮廷の左大臣藤原時平ら政敵の陰謀により失脚させられ太宰府に左遷させられました

ところが、道真公の没後、都では疫病が流行り、かつての宮廷の政敵の関係貴族らに不幸が続きました。また清涼殿落雷受け火災が起き多くの死傷者が出ました。

のことを当時の人は菅原道真公の祟りと畏れ、道真公を天満天神として神格化することでその怨霊を慰めることになりました

やがて道真公が学問に長けていたことから「学問の神様」として各地の神社で崇められるようになりました。

恵美酒宮天満神社(姫路市飾磨区)は、元々は戎さん(漁場の神)を祀っていました。菅公にまつわる由緒を持つ神社でもあります。道真が太宰府への途次、津田の細江に船を泊め、一夜を過ごした言い伝えがあります。道真に接した飾磨津の人々は、誰しも道真の人柄を尊いものに思い、いざ出発となると、みんなが別れを惜しみました。

しかし、道真の人徳に感じ入ったのは人間ばかりではなく、草木も菅公の「徳風」になびきました。道真の船出の際にはアシの葉先が一斉に太宰府の方向、すなわち西へと傾いたとか。

同じく飾磨区の浜の宮天満宮は、かつては宮町に建てられていましたが、慶長年間に池田輝政が米蔵を建てるため現在の地に移したといわれています。

かつて社地建立に際して尽力した年配の名医が天神さんを厚く信仰していたとの言い伝えがあります。

津田天満神社は、創建は平安時代に遡るとされ、そもそもは大歳明神(農耕の神)を祀る社であったといいます。かつては現在より東の、船場川の思案橋西側にありました。

津田天満神社にも、菅公にまつわるエピソードがあります。道真がこの地に上陸して休息を取ろうとした際に、腰を下ろそうにも、あいにく敷物が見当たりませんでした。気の毒に思った船夫たちは、考えた末に船のとも網を渦巻き型に巻いて即席の円座を作り上げて差し出し、道真公の尻に敷いていただいたとか。

また津田天満神社には昭和の初期まで「榊配り」という神事がありました。道真公が細江に上陸した際に、現在の加茂神社にまず参詣しました。出発の際には、榊の木で作った杖を地面で突き刺しました。道真公の出発後数日経つと、その杖から青々と葉が茂ったという。この伝説にちなんむのが「榊配り」で、12月25日に行われていました。翌年1月15日には小豆粥を炊くときには、この榊を一緒に燃やし、枝が大きなほど、豊作になると喜ばれました。

飾磨区の隣接する恵美酒宮天満神社、浜の宮天満宮、津田天満神社は、菅原道真公の薫陶を受け、勧請して祀っています。

実際に、菅原道真公をまつる神社は、全国で1万社以上あり、お稲荷様、八幡様、神明様に次いで多い数となっています。信仰拡大の背景には、江戸時代に普及した「寺子屋」の存在があったと言われます。庶民たちの学問施設だった寺子屋には、学問の神様として菅原道真公=天神様がまつられていたそうです。寺子屋の普及とともに、天神信仰も庶民化が進んでいったと考えられています。

太子町斑鳩寺の三重塔(2022年2月26日撮影)

神仏習合の名残

寺院の数は県下でもダントツに多いのが播磨地方です。飛鳥時代と天平時代の間の白鳳時代、播磨では20ほどの寺がつくられましたが、県下の他地域を合わせても、5つくらいでした。数字的に見ても、播磨は近畿圏でトップクラスの古い寺院が多く建築されています。

播州の秋祭りでは、いくつかの神社氏子で、寺院や僧侶とかつて縁があったことをうかがわさせる場面があります。明治政府の廃仏毀釈以前の神仏習合の慣習の名残りを垣間見ることができます。

例えば、荒川神社の御旅所の下に本徳寺本廟があり、秋季例大祭ではお寺境内にて差し上げが行われます。

富嶋神社氏子は、網干区浜田の龍門寺前にて屋台差し上げを行います。これは、江戸時代に浜田に龍門寺を創建した盤珪永琢(ばんけいようたく)の尽力により、飛島の土地を申受けて社殿を栄み、武山八幡宮と貴布祢大明神とを合祀して現在の富嶋神社となったためと考えられます。

松原八幡神社の幟旗には八幡大菩薩の使いとされる番い鳩が刺繍されています。番い鳩は、八の文字にも見えます八幡大菩薩が武神・軍神としての性格を強めていく中で、勝利を呼ぶ 瑞鳥 ( ずいちょう : めでたい鳥 ) として武家の家紋 などに用いられてきました。

魚吹八幡神社氏子坂上屋台の狭間には文覚上人の滝行の様子が描かれています。文覚上人は、坂上(さかのうえ)村に盛徳寺を開基し、ここを政所と定めました。

福井荘(宮内村など28ヵ村におよび、余部区を除く朝日中校区、網干中校区、大津中校区、広畑中校区と太子町の一部)の重要な水源に「福井大池(揖保郡太子町原)」や「福地河原(ふくじごうら・揖保郡太子町福地)」などがあります。

福井大池が埋め、 わずかな田地する際に、文覚上人が敢然と抗議し他というエピソードや、矢田部出屋敷(揖保郡太子町矢田部)の出水を封水し福井荘の用水としたなど、地域の住民の生活の安定に尽力したエピソードが残っています。

なお、坂上にある盛徳寺(文覚寺)を江戸時代の元禄年間に中興した蒙山祖印禅師(もうざんそいんぜんじ)は、盤珪国師(ばんけいこくし)に就き出家修行しました。その文才は盤珪国師の弟子の中でも随一であったといわれます。

素麺神社の鳥居(たつの市神岡町)(2022年94日撮影)

魂の浄化

「東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしにはできぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、洵(まこと)にはかり知れぬ神のお恵みであつたと思ひます」

三島由紀夫は、大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を訪れ、帰京後に宮司宛の礼状の手紙にこう綴っています。

三島は執筆のために何度も奈良に足を運び、神社や寺を訪ね、取材を重ねたといわれます。その中でも、当時、米コロンビア大学教授だった日本文学研究者、ドナルド・キーンとともに訪れた大神神社での体験はとても印象的だったようです。

長編4部作「豊饒(ほうじょう)の海」では、日本古来のユリである笹百合(ささゆり)を手に4人の巫女が舞う姿を描写し、作中の登場人物の本多に《これほど美しい神事は見たことがなかった》と述懐させています。

三島は現場主体の作家であったといわれます。作品のテーマに必要となったら、その土地に順応して徹底的に一生懸命背景を取材しました。仏教の輪廻転生の思想をはじめ阿頼耶識や空の概念を深く追究したことで知られる三島由紀夫でしたが、思考(マインド)は転生を追いかけながらも、魂(真なる自己)は古神道での浄化を求めていたのかもしれません。

ちなみに、加古川市志方町の玉の緒地蔵尊には三島由紀夫の慰霊碑があります。

また、関連神社としては、「揖保乃糸そうめんの里」のすぐ近くにある素麺神社(たつの市神岡町)は、正式には大神神社といい、 明治2年、八木喜左衛門氏が代表し、大和国三輪明神の御札を授かり、 現在のたつの市神岡町大住寺の塩盛山にある祠堂にお祀りしたのが始まりとされます。

出雲国(島根県松江市宍道湖の夕焼け)(2014年10月11日撮影)

神道と日本の自然

明治期に島根県松江市や兵庫県神戸市に在住し、日本に帰化し、日本の伝統や文化を理解し海外に紹介したことで知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本文化の根幹をなすのは神道」であり、「日本人の精神性の根幹には祖先信仰」があり、さらに「家と地域と国家における祖先崇拝こそが、神道の精髄のすべて」であると自著で論じました。

なお、小泉八雲の名前ですが、「『八雲』とは『出雲』という言葉の詩的な代用語で、『雲が湧き出る国』という意味で、自身が最も愛した地方のひとつ「出雲」に由来しています。

神道の特徴の一つに、自然との一体性もあげられます。神社についてハーンは、「純粋な神道の社は(中略)岩や樹木と同じ自然の一部のように見え(中略)大地神がそのまま姿を現したように思える」と表現し、神社が質素な造りにもかかわらず自然との親和性を貴ぶ様を、好意的にとらえました。

祭りで練り出される太鼓屋台は、自然木から部材を切り出し、微細なサイズ調整をしながら組み合わせることで骨組みが作られます。水引幕や乗り子の衣装、伊達綱は、絹、木綿、(麻?)が生地に使われます。棟に塗られる漆や錺金具は人の手によってひとつひとつ丹精込めて地道に作り出されます。

氏子が檀尻を曳く際の縄を持ち上げたり、合わせたりする所作は、伝統的な生業である漁業の網引きの様子を思わせますし、太鼓屋台の差し上げでの「がぶり」で伊達綱が揺れる様子は秋に実った稲穂を思わせます。

潮かきの儀での塩を撒く様子は荒波に現れる漁師にも見えます。総才端や水切りの錺金具の意匠は海の波のようにも見えなくもないです。

早打ちの激しい太鼓は、天神や雷神の存在を思わせる轟にも聴こえます。

祭りでは、周りの自然や生業での所作を抽出し、表現されているとも考えられます。例大祭の2日間を通じて氏子は自然と一体になります。

最近の黒崎屋台の動画特集

反り屋根から神輿屋根へ〜黒崎屋台を事例に

富嶋神社の氏子黒崎地区は、かつて反り屋根を所有していましたが、反り屋根屋台の屋根の部分を改修することで神輿(擬宝珠)屋根屋台になった事例として知られます。

黒崎地区の村(小地区)として、西ノ丁と東ノ丁共有の布団太鼓1台、北ノ丁には擬宝珠屋台が1台、西ノ丁と東ノ丁屋台蔵には、祭りに出していなかった壇尻1台を所有していました。

黒崎として共通の屋台1台に絞る話が出た際に議論がなかなか決着がつきませんでした。当時議論の的は、布団屋台と神輿屋根(擬宝珠)屋台とでは、宮入りの順が異なり、布団屋台なら1番に宮入りできましたが、神輿屋根(擬宝珠)屋台では、東釜屋の後の2番手になってしまいます。また布団屋台は神事が始まれば宮を出るなどの問題点で西ノ丁・東ノ丁と北ノ丁との間で大議論になりました

要約すると、黒崎村の中で「宮入りは一番がいい」派の意見と「神輿屋根に変えて拝殿前で練り合わせをしたい」派の意見があり、折り合いがつかず揉めたということです。

結局、一旦は、反り屋根屋台に統一することで決着が着きましたが、10年後にはその反り屋根屋台から神輿屋根(擬宝珠)屋根に改修しました。その際の大工工事としては、反り屋根屋台の屋根(棟以上の部分)を神輿屋根に置き換える工事が行われました。鳳凰の梵天は、加西市住吉神社の氏子栗田地区へ譲渡したか売却したかしたと言われます。

郷土史で見られる播州屋台

播磨地方の郷土史(市史、町史)の太鼓屋台や檀尻に関する記述を確認しました。多くの場合、郷土史の「民俗」章の「祭礼」節に屋台に関する説明がありました。

ただし、市町村によって屋台に関する記述の仕方は異なっており、最近発行された書籍ではカラー写真付きで、狭間彫刻の説明まであるものがある一方で、氏神社に屋台が出ていた記録のみをリスト化しただけのものもあり、詳細な情報が得られない神社・氏子地区も多かったです。

かつては屋台があったが近年は出されていない地区が多い西播磨の市町村では、獅子舞に関する詳細な記録はあるものの、当時の屋台の写真や形態の描写は少なかったです。

過去にあったとされる屋台についてもっと詳しく調べたい場合は、その村の公民館に飾ってある集合写真や地区発行の冊子などを確認するほかなさそうです。

また郷土史発行以降に屋台を購入した地域も少なくなく、そう言った情報もやはりネットなどで調べる必要があります。

中播磨

姫路市史 第十五巻 上 別編(1992年)

大塩天満宮

東之丁屋台、宮本屋台、西之丁屋台、北脇屋台、西浜屋台


松原八幡神社

東山屋台、木場屋台、松原屋台、八家屋台、妻鹿屋台、宇佐崎屋台、中村屋台


魚吹八幡神社

興浜檀尻、新在家檀尻、余子浜檀尻(過去に屋台あり)、大江島屋台(過去に檀尻あり)、丁屋台、高田屋台、朝日谷檀尻、平松屋台(過去に檀尻あり)、吉美屋台(過去に檀尻あり)


正八幡神社

宮脇屋台、御立屋台、大沢屋台、八幡屋台、上野(反り屋根布団)屋台、中野屋台


船津町史(2006年)

正八幡神社

上野屋台、中野屋台、仁色屋台、御立屋台、大沢屋台、宮脇屋台、八幡屋台


香寺町史 村の歴史 通史資料編(2009年)

特に屋台に関する記述なし。


福崎町史 第一巻 本文編I(1994年)

熊野神社

田尻屋台、大門屋台、加治谷屋台、北野屋台、井ノ口屋台、辻川屋台、西野屋台、吉田屋台、八反田屋台、西光寺屋台、中島屋台、長目屋台


二之宮神社

田口屋台、板坂屋台、西谷屋台


夢前町史 (1979年)

置本屋台、本条屋台、中島屋台、新庄屋台、豊岡屋台、大村屋台、大坪屋台、小坪屋台、芦田屋台、塚本屋台、野畑屋台、杉之内屋台、古知之庄屋台、又坂屋台、町村屋台、下村屋台


西播磨

御津町史 第二巻(2003年)

富嶋神社(氏子:黒崎、釜屋、苅屋、濱田)

賀茂神社(氏子:室津)

揖保石見神社(氏子:中島、山王、上川原)

大年神社(氏子:朝臣)

春日神社(氏子:伊津・岩見港)

恵美須神社(氏子:岩見港)


上郡町史 第二巻 本文編II(2011年)

上郡天満神社

東町屋台、旭町屋台、上郡区屋台


龍野市史 第七巻 (1986年)

粒坐神社(戦前に屋台あり)

小宅神社(戦前・戦後に屋台あり)

夜比良神社(戦前に屋台あり)

崇道天皇神社(戦前に屋台あり)

阿宗神社(戦前・戦後に屋台あり)


太子町史 第二巻 (1996年)

稗田神社

鵤屋台、東保屋台


黒岡神社

町与屋台、田中屋台


相生市史 第四巻(1987年)

屋台の記載なし。各地区の獅子舞に関する記述あり。


新宮町史 文化財編(2005年)

宇府山神社

千本屋台


新宮八幡神社

反り屋根布団太鼓屋台


揖保川町史 第二巻 本文編II (2004年)

屋台の記載なし。各地区の獅子檀尻に関する記述あり。


東播磨

高砂市史 第七巻 別編 文化財・民俗(2016年)

高砂神社

荒井神社

曽根天満宮

米田天神社


加古川市史 第七巻 別編I (民俗・文化財編) (1985年)

平之荘神社

小野屋台、薬栗屋台、里屋台、山角屋台


上之荘神社

(祭礼絵馬に屋台の絵)


北播磨

加西市史 第六巻 本編6 民俗 (2007年)

北条住吉神社

本町屋台、横尾屋台、東高室屋台、古坂屋台、西高室屋台、南町屋台、栗田屋台、御旅町屋台

谷屋台、小谷屋台、笠屋屋台、西上野屋台、市村屋台、黒駒屋台


河内六処神社

河内町屋台


畑高峯神社

畑東屋台、畑西屋台、窪田屋台、西谷東屋台、西谷西屋台


谷口八幡神社

福居町屋台、坂元町屋台


新三木市史 地域編1 三木の歴史(2023年)

大宮八幡宮

明石町屋台、新町屋台、全末廣屋台、下町屋台、栄町屋台、高木屋台、平田町屋台、大村屋台


三坂神社

加佐東屋台、加佐西屋台


八雲社

久留美屋台、与呂木屋台


禰御門神社

大村屋台


若宮八幡宮

宿原屋台


岩壺神社

岩宮町屋台、大塚町屋台、芝町屋台、大手町屋台、東條町屋台、滑原町屋台

家庭製作品:黒崎屋台

2021.10.09 黒崎屋台(モニター試作品)

家庭製作品:栗田屋台

2021.01.30 加西市住吉神社栗田屋台

家庭製作品:西田中屋台

2021.02.04 神崎郡市川町諏訪神社西田中屋台

家庭製作品:祭りカルタ

2019.11.16 秋祭りかるた

家庭製作品:神輿

2019.12.18 木製神輿

写真コンテスト入選作品

グランフェスタ通路に播州88地区の秋祭り写真を展示
開催日:2021年9月21(火)〜10月22(木)
応募期間:9月10(金)〜10月21(木)

開催場所 :姫路駅グランフェスタ4番街・5番街通路

詳細:https://himeji-festa.com/event/autumn_festival2021

参考文献

書籍・論文
埴岡真弓(2014)はりま伝説 夢物語. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(1994)再考・柳田國男と民俗学. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(2007)播磨人の気質を探る. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(2009はりま風土記の里を歩く. 須磨岡 輯(監修). 神戸新聞総合出版センター.
播磨国総社一ツ山大祭・三ツ山大祭保存会(編集)(2016)悠久の歴史を伝える:一ツ山大祭・三ツ山大祭. 播磨国総社一ツ山大祭・三ツ山大祭保存会.
平川祐弘・牧野陽子(2018)神道とは何か. What is Shinto?―小泉八雲のみた神の国、日本. Japan, a Country of Gods, as Seen by Lafcadio Hearn―. 錦正社.
平川祐弘(1988)小泉八雲とカミガミの世界. 文藝春秋.
平川祐弘(編集)(1994)世界の中のラフカディオ・ハーン. 河出書房新社.
兵庫県地車研究会(2000)彫 ・だんじり彫刻の美ー上地車画題考.兵庫県地車研究会.
兵庫県教育委員会(編集)(2005)播磨祭礼ー屋台とダンジリー. 平成16年度文化庁ふるさと文化復興事業伝統文化総合支援研究委嘱事業.
粕谷宗関(監修)(1996)意を彫り技を刻む〜匠の技ー播州祭り屋台の彫刻展〜記念写真集. 姫路青年会議所.  創立40周年特別記念出版.
黒崎地区自治会(2000)くろさきの歴史.
江 弘毅(2005)岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記. 晶文社.
沖田瑞穂(2019)世界の神話. 岩波ジュニア新書.
司馬遼太郎(2004)播磨灘物語. 講談社文庫.
司馬遼太郎(2008)街道をゆく. 9. 信州佐久平みちほか. 朝日文庫.
和辻哲郎(1979)風土: 人間学的考察. 岩波文庫.
山田貴生(2021)研究ノート:播州中部南部の屋台・だんじりと御先太鼓・露払い. 御影史学論文集. 46. 31 - 52
柳田國男(1993)明治大正史 世相篇. 新装版. 講談社学術文庫.
横田南嶺(2021)盤珪語録を読むー不生禅とはなにか. 春秋社.


Web
播州旅日記
屋台文化保存連絡会
Wikipedia
各神社・氏子・製作者のHP等

管理人プロフィール

姫路城のすぐ東側で幼少期を過ごす。 

母方の祖父の養蜂の影響を受けて大学・大学院では昆虫学を専攻する。博士(農学)取得。民間企業の研究職を経て、現在、国立大学教員。バイオ工学分野で微生物の研究に従事する。

祭りについては、父方の曽祖父が地元村の子ども屋台購入の際に、比較的多額の寄付を行ったと伝え聞く。その子ども屋台に小学6年生の時に乗り子として乗り、太鼓を叩く。その後、どういうわけか祭りに興味がなくなり、地元の祭りに参加しなくなる。

仕事の関係で京都で過ごす。その際に、天神さん(菅原道真公)の有名なエピソードを知り、日本人の心のあり方に興味を持ち、三島由紀夫の小説やドナルド・キーンの論評を読むことで日本人の美意識や文化・芸術に興味を持つ。

一方で、京都の雅で厳かな祭礼に感銘を受けつつも、何か物足りなさも感じる。

大学院で学芸員資格(文科省国家資格)を取得する。外資系企業の海外研修の際に、イギリス・ロンドンの大英博物館やオランダ・アムステムダムの国立美術館など「海外のミュージアム」を巡り、展示の仕方について考え直す。

大阪市内にある公益社団法人の環境保全の談話会にて、民俗学やアニミズム、里山について勉強したり議論に参加したりする。専門家と市民が参加する環境倫理シンポジウムの開催と運営に従事する。

姫路市内の環境教育NPOにて研究員を務め、子ども向けの環境教育学習の支援に携わる。

出雲国(島根県松江市)の大学で希少金属の研究に従事する。その際に、出雲大社に参詣したり、松江市のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)記念館を観て、神道について違った視点を学ぶ。松江の静かで邪念の少ない環境の中で色んなことを見つめ直す。

再度、神戸の大学に縁があり、兵庫に戻る。植物や微生物の研究に従事する。

最近になり「灘のけんか祭り」を観に行き、練り場でスリルを味わい、祭り熱が再燃する。屋台保存連絡会主催の祭り写真展示会に写真を応募し、当選する。加西市のミニチュア屋台製作者の試作品組み立てのモニタリングに協力する。

生まれ故郷の文化として播磨の祭礼について知見を広め始める播州の屋台をよく観察し、考察することは、播磨の歴史ひいては日本の歴史や日本人のメンタリティ・美意識についてより深く知るきっかけになると考えている。

他の趣味は、身近な昆虫の写真撮影、坐禅会に通うなど。