神崎郡福崎町出身の民俗学者・柳田國男は、日本人の世界観の根底に「ハレ」と「ケ」という二分法が存在すると論じた。すなわち、「ハレ」は非日常的で祝祭的な時間や空間を指し、「ケ」は日常的かつ平常の状態を指す概念である。
播磨地方においては、例大祭に対する人々の情熱が特に顕著である。たとえば加西市の「北条節句祭り」は春季に開催されるが、多くの祭礼は神無月にあたる10月に集中している。これらの祭りは年間を通じてわずか二日間程度の開催であり、その期間が典型的な「ハレの日」に該当する。一方、それ以外の大部分の日々は「ケの日」、すなわち特別な行事が存在しない日常生活である。
祭礼終了後もしばらくの間、人々の心には太鼓の響きや屋台の光景といった感覚的記憶が残存する。この余韻の中で、日常の中にあっても再び屋台や祭礼を思い起こし、次の「ハレ」に向けて高揚感や待望の念を抱く人々は少なくないと考えられる。
「ハレ」と「ケ」の民俗学的機能 ― ケガレの消去と播磨地方の事例
民俗学者・柳田國男は、日常生活を表す「ケ」に対置される概念として、非日常的で祝祭的な状態を指す「ハレ」を提示した。我々の生活は、この「ケ」と「ハレ」とが一定のリズムをもって交互に現れることによって構成されている。
民俗学者・櫻井徳太郎は、柳田の「ハレ」と「ケ」のサイクルの重要性を踏まえた上で、祭礼が担う「ケガレ」の消去機能に着目した。「ケガレ」とは、「ケ」が枯渇した状態を指し、櫻井はこれを冬至の太陽光の減退に例え、地球全体が滅入ってしまうような状況と説明している。彼によれば、意気消沈し、八方ふさがりの状態に陥った人間は、事態を転換するために、祭礼や行事によってケガレを消去し、新たな活力を得る必要がある。この際、人々は「ハレ」の空間へと投げ込まれ、その霊的・社会的エネルギーを獲得するのである。
近現代以前の日本社会において、祭礼は「ケ」の空間全体を「ハレ」の空間へと転換させる場として生活の中に位置づけられていた。その過程では、村落共同体全体が日常生活から切り離され、「精進潔斎」が行われた。これを「物忌み」と称し、1か月間に及ぶ例も存在した。近年でも、祭礼前日に家族から離れ、氏神の拝殿に籠って一夜を過ごす「斎忌」が行われる例がある。
「ハレ」の祭礼においては、神事が中心的役割を果たす。その一つに巫女舞があり、かつては巫女が笹や榊などの常緑の枝葉を振りながら舞った。舞が最高潮に達すると、神が降臨し、巫女は神憑り状態となって失神し、やがて神の声を口にする。この託宣には、稲作や漁獲の豊凶、台風や疫病、地震の発生といった予言が含まれ、それらを基に農業・漁業など一年間の生業計画が立てられたとされる。
さらに、降臨した神霊と氏子が共に食事をする「神饌共食」は、日本の祭礼において最も重要な神事の一つであると考えられてきた。この儀礼によって、神の霊力が氏子に分与され、ケガレの状態は停止し、生のエネルギーが再び活性化すると信じられていた。したがって、祭礼とは本来、単なる娯楽的騒宴ではなく、日常生活を円滑に機能させるための区切りを設け、人々の衰えた活力を回復させる神聖な装置であった。
その具体例として、播磨地方におけるいくつかの事例が挙げられる。たとえば、「ちょうちん祭り」で知られる魚吹八幡神社の秋季例大祭では、宵宮に平松・吉美・大江島・興濱・新在家・余子濱・垣内の7地区の青年が楼門前に高張提灯を持ち寄り、互いに激しくぶつけ合って潰し、宵宮の頂点を迎える。その後、敷村(宮内)の幟・提灯・太鼓を先頭に御旅所へと向かい、東西に分かれて参道を照らす。神輿は厄年の氏子によって担がれ、各地区は特定の神輿を先導する。御旅所では神輿が安置され、神事終了後、神輿は檀尻と共に一夜を過ごす。この際、各地区の青年も神輿と共に夜を明かし、神に随伴する意味と精進潔斎の実践を体現していると解釈できる。
また、加西市の住吉神社春季例大祭「北条節句祭り」では、「鶏合わせ」という神事が行われる。このため、古くから関係者や屋台の練り子、特に神輿を担ぐ者は、鶏肉や鶏卵の摂取を控える慣習が伝えられている。これは、神事に使用される動物の神聖視と、それに伴う食の禁忌が現在まで残存している事例である。
屋台の重量については正確な計測値は不明であるが、概ね1.2トンから2.0トンに及ぶとされる。この重量物を太鼓の拍子と掛け声に合わせて練り歩くことは、担ぎ手に高度な身体的協調と持久力を要求する。
播磨地方の海沿い地域においては、掛け声に地域差が見られる。姫路市飾磨区以東では「ヨーイヤサ」、飾磨区以西の網干周辺では「チョーサ」が主に用いられる。いずれも屋台の練りや差しの際に発せられ、祭礼の中でも特に「動」の時間帯を象徴する行為である。
「ヨーイヤサ」練りは、太鼓のリズムが軽快かつ威勢に富み、屋台同士の激しい練り合わせにおいては観衆の感情を大いに高揚させる効果を持つ。一方、「チョーサ」練りは、比較的緩やかなテンポで進行し、チョーサ直前に練り子が「ヤー」と発声しながら走り込み、屋台を差し上げる瞬間に太鼓の拍子が急激に激化する。この動的変化は、観衆に緊張感をもたらし、固唾を呑んでその瞬間を見守らせる要因となっている。
祭礼に関する写真や映像資料だけでは、祭りの本質を完全には伝えきれない要素が多く存在する。その代表的な例が、屋台の太鼓の音である。太鼓の音がなければ、「差し上げ」や「練り合わせ」といった祭礼行為は成立しない。播磨地方においては、太鼓の音を聴くだけで気持ちが高揚する人々も少なくないと報告されており、これは幼少期から繰り返し経験される音の記憶に起因すると考えられる。実際、地域では「母体内にいる頃から神社で太鼓の音を聞かされていた」といった半ば冗談めいた表現が語られることもある。
屋台の太鼓の音は、体の深部まで響く重厚な低音を伴い、祭礼空間に独特の臨場感を付与する。さらに、神の降臨時には「音連れ(神のおとづれ)」という概念が示すように、音そのものが神聖な予兆として機能する。祭礼の音環境は多層的であり、屋台の太鼓、練り子の掛け声、獅子舞の横笛の旋律、檀尻のリズミカルな太鼓など、さまざまな音が同時に響き渡る。
屋台太鼓の音は、激しい「差し上げ」や「練り合わせ」の時間帯に限らず、平常時、すなわち「静」の時間帯においても重要な役割を果たす。この時期にはリズムが緩やかであるため、音の響きをじっくりと堪能することが可能である。例えば、チョーサ型屋台においては、富嶋神社(たつの市御津町)の宮練り「通称:巴練り」において静と動の対比が明確であり、また浜の宮天満神社の「台場差し」では緊迫感ある太鼓の音が際立つことが報告されている。これらの事例は、祭礼における音響体験の重要性を示す好例である。
松原八幡神社の例大祭(通称「灘のけんか祭り」)における氏子屋台は、神輿型の発展形として、灘型・飾磨型・練り合わせ型などに分類される。これらの屋台は、神事で担がれる神輿を原型として発展したとされる。
練り合わせ型屋台の顕著な特徴として、屋台四隅を飾る大綱「伊達綱」が挙げられる。播磨地方海側地域、特に姫路市飾磨区から高砂付近にかけては、伊達綱を備えた屋台が主流である。近年では、伊達綱の太さが極太のものが好まれる傾向にあり、色彩も多様である。灘地域では、松原・東山が白・金、妻鹿が赤・金、茶・金、中村が紺・金、八家が茶・金、木場が緑・金といった配色が見られる。
屋台を差し上げる際に伊達綱を激しく揺らす動作は「がぶる」と呼ばれる。この「がぶり」は縁起の良い動きとされ、拝殿内、楼門前、鳥居前など祭礼空間の要所で行われる。練り子には高い体力が求められ、全員の息が合わなければ屋台が傾き、転倒する危険性も伴う。がぶりの際、伊達綱の先端の毛が激しく揺れる。
伊達綱の先端を揺らす動作の意味については定説はないが、民間伝承によれば、実をつけた稲穂の垂れ下がる様子に見立て、秋の稲刈りの無事を感謝し、翌年の豊穣を祈願する象徴であるとされる。また、神社参拝時に使用される「鈴緒(すずお)」も、鈴を吊るして揺らすことで清らかな音を鳴らし、心を和ませるとともに悪霊を祓う役割を果たす。伊達綱の揺れと鈴緒の振動は、動作として類似性を持ち、祭礼における象徴的な力の表現として理解できる。
富嶋神社氏子濱田西における連続チョーサは、通称「限界チョーサ」と呼ばれ、観衆はその瞬間に固唾を呑んで見守る。これは祭礼における代表的な見せ場の一つである。観衆の注目の理由を民俗学的・心理学的に考察すると、何が起こるかが完全に予測可能であれば、人々はそれほど関心を示さない傾向があることが指摘できる。もちろん、事故の発生は誰も望むところではなく、特に小学生・中学生の男子が乗り子を務める地区においては、保護者の緊張は顕著である。この点は、神事の神輿担ぎが比較的注目を浴びない理由とも関連している可能性がある。
さらに、上手に整然と行われるチョーサよりも、やや危なかしいチャレンジ型のチョーサの方が観衆の関心を惹きやすいという心理現象も見られる。事故は絶対に避けるべきであるが、予定調和に収まらない「ハラハラ・ドキドキ」の経験が、祭礼の非日常性、すなわち「ハレ」の時間に特有の心理的興奮を生み出すと考えられる。差し上げは神への敬意や感謝を表現する行為であるが、同時に観衆に緊張と高揚をもたらす社会的装置としての側面も有している。
『播磨国風土記』(奈良時代成立)において、播磨国の土地は豊穣で評価されており、上位の部類に属していたとされる。明石川、加古川、市川、夢前川、揖保川、千種川の六つの河川が形成する肥沃な平野は、文化の発展にも良好な影響を与えたと考えられている。
哲学者・和辻哲郎は神崎郡砥堀村仁豊野(現・姫路市仁豊野)出身であり、地元ではこの出自が広く知られている。自著『自叙伝の試み』には、播磨で過ごした幼少期の体験が数多く記されており、上京後も市川の河原の石を三つ送ってもらい、幼少期の風景を思い浮かべながら執筆活動を行ったと伝えられる。当時の市川は暴れ川であったため、送られた石は丸みを帯びている。
和辻は『風土論』において、「風土が人間に影響する」と論じ、特に「日常直接の事実としての風土」に注目した。これは、肌で感じる寒暖や、秋に漂うキンモクセイの香り、籾殻を燃やす匂い、雨の前に漂う潮の香りなど、日常生活を通じて人間の感覚に直接作用する環境の質感を指す。
播磨の浜手地域における屋台練りの観察は、海辺で生活を営む人々の生活様式と深く結びついていることを示している。例えば「灘けんか祭り」における神輿合わせでは、三基の神輿を激しく衝突させ地面に叩き落とす。この慣習は、かつて神功皇后が三韓征伐の途中に当地を訪れた際、軍船に付着したカキ(ゴイナ)を軍船同士でこすり落とした故事に由来するとされ、神輿の衝突が激しいほど神意に適うと信じられている。
また、高砂神社の神輿渡御においては、辻々で神輿を左右に揺らす「神輿振り」が行われる。子どもたちによるシデ振りと「チョーサー」の掛け声に合わせ、祭礼参加者は「千歳楽じゃ、万歳楽じゃ」と唱和しつつ神輿を揺らし差し上げる。この動作は、瀬戸内海の波を乗り越えて漁に出る小舟の様子を想起させ、地域風土と祭礼行為の象徴的な結びつきを示している。
英賀神社の拝殿東側には、司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』を記念した文学碑が設置されている。この作品は黒田官兵衛を主役とした物語であり、司馬遼太郎自身の先祖が英賀城に籠城したという伝承に着想を得て執筆されたとされる。さらに、司馬の祖父・福田惣八は広畑出身であり、廣畑天満神社境内には司馬遼太郎の文学碑のほか、祖父福田惣八および父福田是定の玉垣も現存している。
こうした事例は、播磨地域が歴史・文化・個人の記憶を結び付ける場として機能してきたことを示す。哲学者・梅原猛は、幕末・明治以降に播磨地域から多くの偉人が輩出されたことを指摘し、この傾向は他地域では類を見ないと述べている。その背景には、播磨特有の「明るさ」や「豊かさ」といった地域風土が、文化的・社会的活力を育んできた可能性があると考えられる。
松原八幡神社の秋季例大祭、通称「灘のけんか祭り」において、東山氏子の屋台紋は「千成瓢箪」として知られる。この紋章の由来は、播磨地方の歴史上、羽柴(豊臣)秀吉が最も嫌われた人物であったことと関係している。かつて秀吉に社領を減らされた松原八幡神社の神役人の多くは東山村に移住し、百姓を営みながら祭儀の際に神役を果たしたと伝えられる。
屋台紋としての「千成瓢箪」は、菊紋を使用することが皇室の御稜威を畏れて制限された際に、豊臣秀吉の馬印である瓢箪を十二枚の菊花弁に見立てて作られたものである。この紋章は、地区神役人の知恵と、かつての屈辱を忘れない反骨精神の象徴である。
同祭において露払いを務める松原獅子屋台の囃子は、以下のような独特の節回しで演奏される:
「若ノ松勢エ儘ソラ サノ栄世々 我モ招迎ヤ 面白ヤ
汝納俵担ヤ サア越頭栄」
この囃子の太鼓の音は、1996年に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選定されている。「なんじゃい のう ひょうたんや」の部分は、瓢箪(秀吉の馬印)をさして「取るに足らない」とする意味合いとして解釈されることもある。
播磨地域の他の氏子屋台でも、秀吉の立身出世の物語や『太閤記』を題材にした彫刻はほとんど見られない。例えば、荒川神社井ノ口屋台の「湯沢山茶くれん寺」は井ノ口に由来する腰掛け石や、当時の民衆の驚きを表現したものである。また、秀吉と対立した佐久間玄蕃盛政の「秀吉本陣に乱入」の狭間彫刻は、一部の屋台に確認できる。
一方で、大阪や神戸の地車(だんじり)においては、秀吉にまつわる物語は比較的多く見られる。「日吉丸、矢矧橋にて蜂須賀小六と出会う」「秀吉尼崎の危難〜秀吉の味噌摺り坊主」「大徳寺焼香の場」「太閤記に基づく賤ヶ岳の合戦」「加藤虎之助、山路正国将監を討つ」「毛受勝助、柴田勝家に替わり討死」「加藤清正の虎退治」「難波戦記—大坂冬の陣・夏の陣」などが具体例として挙げられる。
この対照は、播磨地域における秀吉に対する歴史的・文化的感情と、祭礼における象徴表現の関係を示す重要な事例である。地域の歴史認識や民衆の心理が、屋台紋や彫刻の題材に直接反映されていることが読み取れる。
松原八幡神社の秋季例大祭において、木場屋台は当神社最古とされる屋台の一つである。木場屋台には、木場神社の祭神を松原八幡神社まで運ぶという伝承が存在する。宵宮の10月14日には、宮元の東山屋台に次いで木場屋台が宮入りを行う。宮入り終了後、屋台の練り子は拝殿に吊るされた縄によじ登り、「宮遷し」を行う。この儀式によって、木場屋台の祭神が松原八幡神社に遷るとされる。
本宮の10月15日には、当番村の神輿の練り子が宮入りを行った後、祭神は神輿に移される。神輿は松原の「てんてんつく」の先導に従い、妻鹿の御旅所へ向かう。木場屋台は神輿に続き、屋台の先頭を切って同御旅所へ向かう。
山田(2021)は、この木場屋台が妻鹿(お旅山)へ先導する慣習を、男鹿(おが)と女鹿(めが)の夫婦再会の図式として解釈している。しかし、家島諸島の男鹿島(たんがしま)と木場神社との結びつきに関する伝承については、現在も調査が継続中である。
この祭礼行為は、単なる運搬や儀礼の手順にとどまらず、地域の神話的象徴性や先人の伝承を体現する文化的実践として理解できる。祭神の移動や屋台の順序は、地域住民の歴史認識と結び付き、祭礼全体における象徴的秩序を形成していると考えられる。
江戸後期における播磨地方は、教育の盛んな地域として知られていた。県下に存在した藩校30校のうち17校が播磨に集中し、郷学や私塾も44箇所を数えた。また寺子屋は448箇所に達し、県下の半数近くを播磨が占めていた。このような教育環境の整備は、幕末・明治期に多くの学者や文化人を輩出した背景となったと考えられる(例:歴史学者・三上参次は姫路市仁豊野の砥堀村に生まれ、こうした教育環境で育った)。
寺子屋と縁の深い神として、天神信仰の対象である菅原道真公が挙げられる。道真公を祭神とする天神社・天満社は、曽根天満宮、大塩天満宮、恵美酒宮天満神社、浜の宮天満宮、津田天満神社、英賀神社、廣畑天満宮など、播磨各地に存在する。道真公は平安時代に神童として名を馳せ、青年期には文武両道で傑出した実力を発揮し、壮年期には右大臣として国家に貢献したが、政敵の陰謀により太宰府へ左遷された。その没後、都では疫病や落雷火災などの災禍が相次ぎ、人々はこれを道真公の祟りと畏れ、神格化して天満天神として祀ることで怨霊を慰めたとされる。
その後、道真公が学問に長けていたことから「学問の神」として全国各地で崇敬されるようになった。播磨地域においても、恵美酒宮天満神社(姫路市飾磨区)は元々戎神を祀る社であったが、道真公にまつわる由緒を有する。道真公が太宰府への途次、津田の細江に船を泊め一夜を過ごしたと伝えられ、地元住民はその人柄を尊び惜しみつつ見送ったとされる。同様に、浜の宮天満宮は慶長年間に池田輝政の施策により現在地に遷座し、津田天満神社は創建が平安時代に遡るとされる。津田天満神社では、道真公が上陸した際に船の網で即席の座を作って差し出したとの伝承が残るほか、昭和初期まで「榊配り」の神事が行われ、豊作祈願と結びつけられていた。
これらの天神社の存在と伝承は、寺子屋教育の普及と密接に関連していると考えられる。寺子屋では学問の神として道真公=天神が祀られ、庶民の学問意欲を喚起した。寺子屋の普及に伴い、天神信仰も庶民化が進み、現在では全国で1万社以上の天神社が存在し、お稲荷様・八幡様・神明様に次ぐ規模で広く信仰されている。播磨地方の教育環境と天神信仰の結びつきは、地域文化の形成過程を理解する上で重要な要素である。
播磨地方は、県下における寺院の集中地域として知られる。飛鳥時代から天平時代(白鳳時代)にかけて、播磨では約20の寺院が建立されたのに対し、県下の他地域を合わせても5寺程度であったことから、播磨は近畿圏でも古い寺院の数が多い地域であったことがうかがえる。この寺院数の多さは、宗教的・文化的基盤の形成に寄与してきたと考えられる。
播州の秋祭りにおいては、いくつかの神社氏子で、寺院や僧侶との縁を示す場面が見られる。これは明治期の廃仏毀釈以前の神仏習合の慣習の名残りと解釈できる。例えば、荒川神社の御旅所下には本徳寺本廟が存在し、秋季例大祭では同寺院境内にて屋台の「差し上げ」が行われる。また、富嶋神社氏子は網干区浜田の龍門寺前で屋台差し上げを行うが、これは江戸時代に盤珪永琢が龍門寺を創建し、飛島の土地を社殿用地として取得するとともに、武山八幡宮と貴布祢大明神を合祀して現在の富嶋神社の基礎を築いたことに由来するとされる。
松原八幡神社の幟旗には、八幡大菩薩の使いとされる番い鳩が刺繍されている。番い鳩は「八」の文字にも見立てられ、八幡大菩薩が武神・軍神としての性格を強める中で、勝利を呼ぶ瑞鳥として武家の家紋などにも用いられてきた。また、魚吹八幡神社氏子坂上屋台の狭間には、文覚上人の滝行の様子が描かれている。文覚上人は坂上村に盛徳寺を開基し、ここを政所と定めた。
播磨地域の水利・農業においても、寺院関係者の関与が見られる。福井荘(宮内村など28か村に及ぶ地域)の重要水源である福井大池(揖保郡太子町原)や福地河原(揖保郡太子町福地)の管理に関し、文覚上人は田地埋めや水路改変に抗議し、住民生活の安定に尽力したとの記録が残る。また、坂上にある盛徳寺(文覚寺)は、江戸時代元禄年間に蒙山祖印禅師により中興された。祖印禅師は盤珪国師に師事して出家修行し、その文才は盤珪国師の弟子の中でも随一であったと伝えられている。
以上のことから、播磨地方における寺院と神社祭礼は、単なる宗教的機能にとどまらず、地域社会の生活・文化・教育と密接に結びついていたことが確認される。特に、秋祭りにおける屋台差し上げや幟旗、狭間彫刻などは、神仏習合や地域住民の信仰・生活の歴史を反映する象徴的な文化財としての意味を持つ。
三島由紀夫は奈良県桜井市の大神神社を訪れた際、帰京後に宮司宛の礼状において次のように記している。
「東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしにはできぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、洵(まこと)にはかり知れぬ神のお恵みであつたと思ひます」
この体験は、三島の文学活動と深く結びついていると考えられます。三島は長編四部作『豊饒の海』において、日本古来のユリである笹百合を手にした四人の巫女が舞う神事を描写し、作中の登場人物である本多に《これほど美しい神事は見たことがなかった》と述懐させている。現場に身を置く取材姿勢は、三島の作品全般に通底する特徴であり、文学的リアリズムの追求と宗教・民俗体験の両立が見られる。
三島は仏教思想、特に輪廻転生や阿頼耶識、空の概念を深く追究したことで知られます。しかし、思考(マインド)が輪廻や哲学的探求を追いかける一方で、魂(真なる自己)は古神道における浄化を求めていた可能性が示唆される。この神社体験は、彼の精神的・宗教的背景の重要な一端を成すといえる。
なお、三島由紀夫の慰霊碑は加古川市志方町の玉の緒地蔵尊に建立されている。また、播磨地域における関連神社として、たつの市神岡町にある素麺神社(正式名:大神神社)が挙げられる。同神社は明治2年に八木喜左衛門氏が代表して大和国三輪明神の御札を授かり、現在の祠堂(塩盛山・大住寺)に祀ったことに始まる。これにより、播磨地方における神道信仰の地域的展開と、三島文学との結びつきを確認することができる。
明治期に島根県松江市や兵庫県神戸市に在住し、日本に帰化したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本文化の深層にある精神性について次のように論じている。すなわち、日本文化の根幹は「神道」にあり、日本人の精神性の基盤には祖先信仰があり、家・地域・国家における祖先崇拝こそが神道の精髄であると指摘した。
ハーン自身の名「八雲」は、出雲地方の別称である「八雲」に由来し、「雲が湧き出る国」を意味している。これは彼が最も愛した地方のひとつ「出雲」にちなむ。彼は神社建築についても言及し、純粋な神道の社は岩や樹木と同じ自然の一部のように見え、大地神がそのまま姿を現したかのように感じられると記している。自然との親和性を重んじ、質素であっても神聖さを保つ神社の美学を高く評価した。
播磨地方の祭礼における太鼓屋台や氏子の所作は、このハーンの指摘と深く呼応している。屋台の骨組みは自然木から部材を切り出し、微細な調整を行った上で組み上げられる。水引幕や乗り子の衣装、伊達綱には絹・木綿・麻などの天然素材が用いられ、棟に塗られる漆や錺金具は人の手によって一つ一つ丹精込めて作られる。これにより、神社や祭礼が自然との連続性を保ちながら、地域の伝統技術を体現する場となっている。
祭礼の所作にも自然や生業の象徴性が反映される。檀尻を曳く際の縄の扱いは漁業の網引きを想起させ、太鼓屋台の差し上げ時に伊達綱が揺れる「がぶり」は、秋の稲穂の穂先が風に揺れる様子を思わせる。塩を撒く潮かきの儀は荒波に立ち向かう漁師の姿を連想させ、総才端や水切りの錺金具の意匠は海の波の動きを模したとも解釈できる。さらに、早打ちの激しい太鼓は天神や雷神の存在を象徴する轟音として体感される。
このように、播磨地方の例大祭では、氏子たちは祭りの2日間を通じて自然と一体化し、祖先信仰や地域の生業文化を身体的に再現・表現している。祭礼の全体像は、ハーンの指摘した神道の本質である自然との一体性、祖先崇拝、そして地域社会の連続性を体現しているといえる。
富嶋神社の氏子黒崎地区は、かつて反り屋根を所有していましたが、反り屋根屋台の屋根の部分を改修することで神輿(擬宝珠)屋根屋台になった事例として知られます。
黒崎地区の村(小地区)として、西ノ丁と東ノ丁共有の布団太鼓が1台、北ノ丁には擬宝珠屋台が1台、西ノ丁と東ノ丁屋台蔵には、祭りに出していなかった壇尻1台所有されていました。
黒崎として共通の屋台1台に絞る話が出た際に議論がなかなか決着がつきませんでした。当時議論の的は、布団屋台と神輿屋根(擬宝珠)屋台とでは、宮入りの順が異なり、布団屋台なら1番に宮入りできましたが、神輿屋根(擬宝珠)屋台では、東釜屋の後の2番手になってしまいます。また布団屋台は神事が始まれば宮を出るなどの問題点で西ノ丁・東ノ丁と北ノ丁との間で大議論になりました。
要約すると、黒崎村の中で「宮入りは一番がいい」派の意見と「神輿屋根に変えて拝殿前で練り合わせをしたい」派の意見があり、折り合いがつかず揉めたということです。
結局、一旦は、反り屋根屋台に統一することで決着が着きましたが、10年後にはその反り屋根屋台から神輿屋根(擬宝珠)屋根に改修しました。その際の大工工事としては、反り屋根屋台の屋根(棟以上の部分)を神輿屋根に置き換える工事が行われました。鳳凰の梵天は、加西市住吉神社の氏子栗田地区へ譲渡したか売却したかしたと言われます。
播磨地方の郷土史(市史、町史)の太鼓屋台や檀尻に関する記述を確認しました。多くの場合、郷土史の「民俗」章の「祭礼」節に屋台に関する説明がありました。
ただし、市町村によって屋台に関する記述の仕方は異なっており、最近発行された書籍ではカラー写真付きで、狭間彫刻の説明まであるものがある一方で、氏神社に屋台が出ていた記録のみをリスト化しただけのものもあり、詳細な情報が得られない神社・氏子地区も多かったです。
かつては屋台があったが近年は出されていない地区が多い西播磨の市町村では、獅子舞に関する詳細な記録はあるものの、当時の屋台の写真や形態の描写は少なかったです。
過去にあったとされる屋台についてもっと詳しく調べたい場合は、その村の公民館に飾ってある集合写真や地区発行の冊子などを確認するほかなさそうです。
また郷土史発行以降に屋台を購入した地域も少なくなく、そう言った情報もやはりネットなどで調べる必要があります。
姫路市史 第十五巻 上 別編(1992年)
大塩天満宮
東之丁屋台、宮本屋台、西之丁屋台、北脇屋台、西浜屋台
松原八幡神社
東山屋台、木場屋台、松原屋台、八家屋台、妻鹿屋台、宇佐崎屋台、中村屋台
魚吹八幡神社
興浜檀尻、新在家檀尻、余子浜檀尻(過去に屋台あり)、大江島屋台(過去に檀尻あり)、丁屋台、高田屋台、朝日谷檀尻、平松屋台(過去に檀尻あり)、吉美屋台(過去に檀尻あり)
正八幡神社
宮脇屋台、御立屋台、大沢屋台、八幡屋台、上野(反り屋根布団)屋台、中野屋台
船津町史(2006年)
正八幡神社
上野屋台、中野屋台、仁色屋台、御立屋台、大沢屋台、宮脇屋台、八幡屋台
香寺町史 村の歴史 通史資料編(2009年)
特に屋台に関する記述なし。
福崎町史 第一巻 本文編I(1994年)
熊野神社
田尻屋台、大門屋台、加治谷屋台、北野屋台、井ノ口屋台、辻川屋台、西野屋台、吉田屋台、八反田屋台、西光寺屋台、中島屋台、長目屋台
二之宮神社
田口屋台、板坂屋台、西谷屋台
夢前町史 (1979年)
置本屋台、本条屋台、中島屋台、新庄屋台、豊岡屋台、大村屋台、大坪屋台、小坪屋台、芦田屋台、塚本屋台、野畑屋台、杉之内屋台、古知之庄屋台、又坂屋台、町村屋台、下村屋台
御津町史 第二巻(2003年)
富嶋神社(氏子:黒崎、釜屋、苅屋、濱田)
賀茂神社(氏子:室津)
揖保石見神社(氏子:中島、山王、上川原)
大年神社(氏子:朝臣)
春日神社(氏子:伊津・岩見港)
恵美須神社(氏子:岩見港)
上郡町史 第二巻 本文編II(2011年)
上郡天満神社
東町屋台、旭町屋台、上郡区屋台
龍野市史 第七巻 (1986年)
粒坐神社(戦前に屋台あり)
小宅神社(戦前・戦後に屋台あり)
夜比良神社(戦前に屋台あり)
崇道天皇神社(戦前に屋台あり)
阿宗神社(戦前・戦後に屋台あり)
太子町史 第二巻 (1996年)
稗田神社
鵤屋台、東保屋台
黒岡神社
町与屋台、田中屋台
相生市史 第四巻(1987年)
屋台の記載なし。各地区の獅子舞に関する記述あり。
新宮町史 文化財編(2005年)
宇府山神社
千本屋台
新宮八幡神社
反り屋根布団太鼓屋台
揖保川町史 第二巻 本文編II (2004年)
屋台の記載なし。各地区の獅子檀尻に関する記述あり。
高砂市史 第七巻 別編 文化財・民俗(2016年)
高砂神社
荒井神社
曽根天満宮
米田天神社
加古川市史 第七巻 別編I (民俗・文化財編) (1985年)
平之荘神社
小野屋台、薬栗屋台、里屋台、山角屋台
上之荘神社
(祭礼絵馬に屋台の絵)
加西市史 第六巻 本編6 民俗 (2007年)
北条住吉神社
本町屋台、横尾屋台、東高室屋台、古坂屋台、西高室屋台、南町屋台、栗田屋台、御旅町屋台
谷屋台、小谷屋台、笠屋屋台、西上野屋台、市村屋台、黒駒屋台
河内六処神社
河内町屋台
畑高峯神社
畑東屋台、畑西屋台、窪田屋台、西谷東屋台、西谷西屋台
谷口八幡神社
福居町屋台、坂元町屋台
新三木市史 地域編1 三木の歴史(2023年)
大宮八幡宮
明石町屋台、新町屋台、全末廣屋台、下町屋台、栄町屋台、高木屋台、平田町屋台、大村屋台
三坂神社
加佐東屋台、加佐西屋台
八雲社
久留美屋台、与呂木屋台
禰御門神社
大村屋台
若宮八幡宮
宿原屋台
岩壺神社
岩宮町屋台、大塚町屋台、芝町屋台、大手町屋台、東條町屋台、滑原町屋台
2021.10.09 黒崎屋台(モニター試作品)
2021.01.30 加西市住吉神社栗田屋台
2021.02.04 神崎郡市川町諏訪神社西田中屋台
2019.11.16 秋祭りかるた
2019.12.18 木製神輿
グランフェスタ通路に播州88地区の秋祭り写真を展示
開催日:2021年9月21(火)〜10月22(木)
応募期間:9月10(金)〜10月21(木)
開催場所 :姫路駅グランフェスタ4番街・5番街通路
書籍・論文・研究ノート・会誌・図録など
相坂 耕作(1988)播磨の昆虫.神戸新聞総合出版センター.
埴岡 真弓(2014)はりま伝説 夢物語. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(1994)再考・柳田國男と民俗学. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(2007)播磨人の気質を探る. 神戸新聞総合出版センター.
播磨学研究所(編集)(2009)はりま風土記の里を歩く. 須磨岡 輯(監修). 神戸新聞総合出版センター.
播磨国総社一ツ山大祭・三ツ山大祭保存会(編集)(2016)悠久の歴史を伝える:一ツ山大祭・三ツ山大祭. 播磨国総社一ツ山大祭・三ツ山大祭保存会.
平川 祐弘・牧野 陽子(2018)神道とは何か. What is Shinto?―小泉八雲のみた神の国、日本. Japan, a Country of Gods, as Seen by Lafcadio Hearn―. 錦正社.
平川 祐弘(1988)小泉八雲とカミガミの世界. 文藝春秋.
平川 祐弘(編集)(1994)世界の中のラフカディオ・ハーン. 河出書房新社.
兵庫県地車研究会(2000)彫 ・だんじり彫刻の美ー上地車画題考.兵庫県地車研究会.
兵庫県教育委員会(編集)(2005)播磨祭礼ー屋台とダンジリー. 平成16年度文化庁ふるさと文化復興事業伝統文化総合支援研究委嘱事業.
礒田 七郎(1994)太鼓:播州灘まつり.追録2版.私家版.
亀山本徳寺内・真宗文化研究室編(2021)御坊さん:第25号.亀山本徳寺廟所墓地管理部.
粕谷 宗関(監修)(1996)意を彫り技を刻む〜匠の技ー播州祭り屋台の彫刻展〜記念写真集. 姫路青年会議所. 創立40周年特別記念出版.
粕谷 宗関(1996)男が咲かす祭り華.私家版.
粕谷 宗関(2001)播州祭屋台学宝鑑:イキマの美.友月書房.
黒崎地区自治会(2000)くろさきの歴史.
江 弘毅(2005)岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記. 晶文社.
森田 玲(2015)日本の祭と神賑:京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち.創元社.
沖田 瑞穂(2019)世界の神話. 岩波ジュニア新書.
尾﨑 明男(2024)企画展:明石の布団太鼓II―彫刻と刺繍に見る匠の技.明石市立文化博物館.
司馬 遼太郎(2004)播磨灘物語. 講談社文庫.
司馬 遼太郎(2008)街道をゆく. 9. 信州佐久平みちほか. 朝日文庫.
たつの市立龍野歴史文化資料館編(2014)トンボの文化史:童謡の里たつのにおいて.龍野文化伝承会.
和辻 哲郎(1979)風土: 人間学的考察. 岩波文庫.
山田 貴生(2021)研究ノート:播州中部南部の屋台・だんじりと御先太鼓・露払い. 御影史学論文集. 46. 31 - 52
柳田 國男(1993)明治大正史 世相篇. 新装版. 講談社学術文庫.
横田 南嶺(2021)盤珪語録を読むー不生禅とはなにか. 春秋社.
姫路城のすぐ東側で幼少期を過ごす。小・中・高校時代は隣の市の浜手で育つ。父方の曽祖父が、地元の村で子ども屋台を購入する際に、比較的多額の寄付をしたと伝え聞く。小学6年生のとき、子ども屋台に乗り子として参加し、太鼓を叩いた。また、親戚が魚吹八幡神社のある地区の屋台で乗り子を務めており、その衣装を見せてもらった記憶もある。
しばらくのあいだ、なぜか祭りへの興味は薄れていた。大学、大学院、そして仕事のために地元を離れ、京都で過ごすことになる。その頃、天神さん(菅原道真公)にまつわる有名なエピソードを知り、日本人の心のあり方に興味を持つ。さらに、三島由紀夫の小説やドナルド・キーンの評論を通して、日本人の美意識、文化、芸術への関心を深めた。一方で、京都の雅で厳かな祭礼に感銘を受けつつも、どこか物足りなさを感じてもいた。
浜手育ちの自分は、どちらかといえば明るく開放的な性格だが、周囲からは「おとなしい」「祭り好きなのが意外」と言われることが多い。
自分のことを「凝り性」だと思う。MBTI分析ではINTJ-T(建築家)タイプ。内に秘めた情熱が強い一方で、感情表現はやや不器用なところもある。
練り子として祭りに参加するたびに、関係者の方々の情熱に心を動かされる。そして、自分がそのような人々と同じ土地に生まれたことを誇りに思う。
腹に響く太鼓の音、激しい練り、練り子の大きな声が好きだ。鉢巻して廻しを締めて、やっさを練っているときの自分が好き。練りで汗をかき、祭りシャツと法被を脱ぐ自分も、けっこう好きだ。笑