幼少期より接してきた屋台の太鼓音は、私にとって無意識のうちに身体に定着し、いわば音の原体験となっていると考えられる。太鼓と練り子の関係は、人間における心臓と手足の関係に類比できる。また、やっさ本体(棒より上)は顔や衣装に相当し、全体の印象形成に寄与している。掛け声「ヨーイヤサー」「エンヤーソラヨッソイ」は情動を喚起し、シーソーや胴突きによる地面への衝撃音も聴覚的魅力の一部である。
太鼓音は偶然的に生成されるものではなく、打ち手の訓練および楽器の素材・状態の管理によって最良化される。私は音楽嗜好としてヘヴィメタルを好むが、このジャンルの愛好者はしばしば構築美や様式美、起承転結といった音楽的枠組みを重視する傾向がある。播磨地方の祭礼も、無秩序な力任せではなく、長年の試行錯誤を経て洗練された構造と様式を有している。このことから、播磨の祭りは動的に進化する文化体系、すなわち「生きた文化」と位置づけられる。
屋台に施される木彫刻・錺金具・刺繍は、文化財的価値を有する芸術作品である。しかし、屋台は実際の練りに供されることで意義を持ち、その結果、物理的損耗が早く、新調の必要性が生じる。新調には職人の技術と氏子の知識が不可欠であり、職人は先行作品の研究を通じて新たな知見を獲得し、氏子は過去と現在の要件を踏まえた設計を行う。
屋台には「見せ物としての芸術性」と「練り道具としての機能性」という二重の要請がある。祭礼は非反復的な現象であり、同一条件の再現は不可能である。この一回性は、祭りが筋書きのない劇として成立する要因であり、参加者や観覧者が毎年現地を訪れる動機にもなっている。
屋台の担き棒はヒノキやスギ等の木材で構成され、その香気は担ぎ手に自然の恵みを想起させる。新調屋台はより顕著な芳香を放ち、この感覚は森林との心理的連続性を強化する。私は木工技能は持たないが、香気体験を深めるため森林セラピーガイド資格を取得した。ここに、祭礼を通じた自然への畏敬の形成が認められる。
昭和期の日本社会においては、「政治・宗教・野球に関する議論を避ける」という社会的規範が存在した。播磨地方においては、これに加えて「他地域の祭りや屋台に対する批評を避ける」という不文律があると推測される。こうした規範遵守のもとで築かれる祭礼時の人間関係は、参加者の生活世界を豊かにする。屋台制作や祭礼運営は人間活動であるため、技術や知識に加え、人的交流による「想い」の継承が祭礼の質的向上に寄与する。
私が祭礼において最も重視する要素は「反骨精神」である。反骨精神とは、「自らの信念を貫き、不当な権力に屈しない態度」「権威への服従を拒否する姿勢」「他者の評価に左右されない精神的独立性」「不断の努力」と定義される。祭礼に参加・観覧することにより、日常生活では経験し得ない精神的高揚が生じ、参加者は一時的に異なる自己像と接触する。この精神状態は、非日常的空間から日常への文化的還元として意義を持つ。