釜屋・黒崎は八幡宮を、濱田・苅屋は貴布袮神社を祀っている。
宵宮は各地区で屋台の村練りが行われる。宵宮の夕方、子供会の御旅の宮入りが始まる。手に手に提灯を持って宮入りし、社殿を半時計周りに1周して拝殿に入り、神主のお祓いを受けて帰る。20時からは若中の御旅宮入りが行われる。伊勢音頭を唄いながら村を出発する。境内で輪になって伊勢音頭を唄って、提灯を叩き、竹を打ち合わせて練り合う。
翌日の昼宮は、御旅所入りが行われる。子供屋台の黒崎と苅屋が馬場入りする。輪番の地区が馬場入りの先頭となり、八幡宮の2台、貴布祢の3台がそれぞれ練り合わせをする。屋台の御旅所入りが終わると、本宮で神事があり、西釜屋が檀尻上で獅子舞を奉納する。昼過ぎには、西釜屋の若衆が檀尻の引き縄を持って走り、馬場上げが始まる。檀尻後、子供屋台、本屋台が馬場入りと同じ順番(濱田の2台は入れ替わる)で、同じように練り合わせて御旅所を出発し、神輿も富島神社への帰路に着く。
還幸の行列は昨晩のルートを逆に進み、先頭の西釜屋の檀尻が宮入りする。次いで、子供屋台、本屋台が馬場入りと同じように、神前と鳥居前の間で練り合わせ、宮入りする。屋台を所定の位置に置くと、すぐに乗り子が若衆の肩車で社殿へ行き、お祓いを受ける。そのあと、八幡宮ー貴布袮神社の順で神輿が宮入り、同じように練り合わせた後、御霊が本殿に戻される。そして、各宮総代・区長らが着座して本宮神事が行われ、その後、社務所で簡単な直会がある。
本宮神事が終わると、西釜屋が社殿正面で獅子舞を始める。
西釜屋檀尻が宮出しをした後、黒崎と東釜屋は富嶋橋へ行き、両者の間の警戒を橋の真ん中にして、交互にあるいは一緒に練り合わせ、打ち別れをする。
濱田南、濱田西、苅屋は、濱田のマリア幼稚園前にて練り合わせ、打ち別れをする。
屋台製作:坂ノ上 大工 三輪亀吉 高欄部は紫檀を使用
腰部・狭間・脇棒受等の彫物:飾磨の彫刻師 松本義廣三代目
狭間彫刻:天の岩屋戸(南)、桜井駅楠公父子訣別の場(東)、曽我五郎時致大磯行きの場(西)、源平布引滝四段目小桜責め(北)
1331年(鎌倉時代)基山城、武山城は、赤松則村本城を守る諸城である。基山城主は、則村の弟光則、武山城主は光則の子敦則に守らせる。投石城は、投石に最も近く、基山城と武山城の中間地点(現在のダイセル荘東入口南側付近)にあって、海を通過する船の監視で部將が守っていた。
1441年頃(室町時代) 地名の由来は、塩浜の釜屋から出る黒い煙が御崎にたなびいたことから黒崎と呼ぶようになった。
1658年(江戸時代) 京極家が1658年(萬治元年)、丸亀移封にともない網干地方28ヶ村(うち黒崎村含む)1万石が龍野藩から丸亀藩に変わる。
1839年(江戸時代)火上げと黒崎については、この地域が丸亀藩領であった江戸時代に記された「西讃府誌」の地志条目にある。「武山城城主萩原孫四郎が、武山で、毎年7月16日夜に火上げ 虫送り」を行ったことが記されている。
1871年(明治4年)丸亀県、兵庫県、飾磨県と変わる。
1875年(明治9年)兵庫県(初代知事 伊藤博文)揖西郡御津となる。
1889年(明治22年)御津村誕生
1896年(明治29年)揖東郡と揖西郡が合併し揖保郡となる。
1922年(大正11年)新舞子開拓 新舞子を観光地にする目的で、神功皇后ゆかりの船越の黒崎地区墓地を折敷谷に移転する。
1924年(大正13年)新舞子開園 海岸は白浜青松、景色は明石の舞子にも劣らない点から新舞子と名付けられた。
1950年(昭和25年)国立公園指定 新舞子が瀬戸内海国立公園の一部として指定される。
1963年(昭和37年)武山ため池の売却 町営住宅として武山ため池9坪を売却
1968年(昭和43年)綾部山梅林開墾 梅林組合として開墾の着手、植樹(24ヘクタール23,000本)する。
1970年(昭和45年)池ノ上の団地造成
1905年以前(明治38年以前) 西ノ丁と東ノ丁共有の布団屋台と北ノ丁に擬宝珠屋台があった。また西ノ丁と東ノ丁屋台蔵には、祭りにも出していなかった檀尻1台と獅子があった。
1905年から昭和の始めにかけて、黒崎地区で屋台を1台に統一するため布団か擬宝珠で話し合ったが折り合いがつかず、屋台に関係のない檀尻を改修して出したり、他地区から屋台を借りて練り出した年もあったとか...
当時の議論の的は、布団屋台と擬宝珠屋台とでは、富嶋神社宮入りの順が異なり、布団屋台は1番、擬宝珠屋台にすれば、東釜屋、黒崎の順で2番目となる。また布団屋台は神事が始まれば宮を出るなどの問題点で西ノ丁、東ノ丁と北ノ丁との大議論になった。
1928年 布団屋台に決定 昭和に入り、いつまでも屋台議論で、地区が分かれているのを見かね田淵粂次氏が仲に入り説得。最終的には布団屋台と決定新調することとなり同氏が屋台を寄贈された。
・屋台製作 坂ノ上 大工 三輪亀吉 高欄部は紫檀を使用
・腰部様脇棒受等の彫物 飾磨の彫刻師 松本義廣三代目
1949年 擬宝珠屋台に改修 青年団、兄若中からの要望強く議論の結果、擬宝珠屋台に改修することに決定し、屋台製作者の三輪亀吉氏により行われ、擬宝珠露盤の彫刻は彫刻師三代目松本義廣氏作である。
ちなみに、擬宝珠屋台は各地に多くあるが露盤彫刻の塗っていない、有名彫師の露盤は、姫路近辺に6台ほどしか残っていない(1995年時点)。
1988年 本屋台修理と金具の新調 屋台のバランス 担棒他の買入、金具の新調
1959年 屋台修理 修理内容等不明(具体的記録なし)
1977年 屋台太鼓張り替え 網干区高田 太鼓師 4代目 真田辰二郎氏による
1979年 こども屋台新調 乗り子は小学6年生、男女全員が乗る。
1980年 乗り子の衣装の改革 若中、こども両屋台の乗り子衣装を議論の末、地区で購入、該当学年者、全員が着用し乗れるようにした。
1983年 黒崎公民館完成する。
1991年 屋台屋根の改修と幕の新調他 屋台屋根の中骨部分の損傷のため、白浜河野工務店にて改修 幕の新調は、京都日本刺繍にて、図柄は「源平合戦」で発注織り上げる。
1992年 本屋台太鼓張り替え 高田 太鼓師 4代目 真田辰二郎氏による
1996年 本屋台屋根張り替え改修と脇棒受け担棒、伊達綱の新調
こども屋台、屋根の張り替えと金具メッキ
2019年 本屋台高欄新調
露盤彫刻
龍
龍
龍
龍
狭間彫刻
桜井駅楠公父子訣別の場(東)
天の岩屋戸(南)
曽我五郎時致大磯行きの場(西)
源平布引滝四段目小桜責め(北)
その他細部
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
高欄下・腰彫り
棒端
脇棒受け
脇棒受け
水引幕
水引幕
屋台紋
高欄下
1999年の新調。
狭間彫刻:「八幡太郎義家初陣の場」「弁慶衣川の陣」「義経八艘跳び」「五条大橋-牛若丸と弁慶」
露盤彫刻
狭間彫刻
八幡太郎義家初陣の場
弁慶衣川の陣
義経八艘跳び
「五条大橋-牛若丸と弁慶
1995年 新調。
2019年 屋根、正隅、露盤改修。
露盤彫刻:彫刻師 髙場正良作「玉依姫命 霊境吹水に龍神を奉斎す」「貴船大神 牛鬼の舌を八裂にす」「安倍晴明と鬼女の腕」「宇治の橋姫 一条戻橋」
狭間彫刻:「桜井駅楠公父子訣別の場」「菅原道真公遊歩の場」「本能寺の変」「安宅の関」
露盤彫刻
玉依姫命 霊境吹水に龍神を奉斎す
貴船大神 牛鬼の舌を八裂にす
安倍晴明と鬼女の腕
宇治の橋姫 一条戻橋
狭間彫刻
桜井駅楠公父子訣別の場
菅原道真公遊歩の場
本能寺の変
安宅の関
1901年、浜の宮天満宮氏子の宮町より購入。
狭間彫刻:三代目松本義廣作「神功皇后」「佐久間玄蕃太閤本陣乗込の場」「本能寺の変」「安宅の関」
露盤彫刻
狭間彫刻
神功皇后
佐久間玄蕃太閤本陣乗込の場
本能寺の変
安宅の関
明治時代前期に現太子町広坂より購入。
狭間の彫刻は、伊和神社幣殿の彫刻を手掛けた名工・森本伊兵衛の作と、竹ノ内紀三郎の作であり、共に年代物の名彫刻として知られる。題材については調査中。
露盤彫刻
狭間彫刻