屋台の垂木下の枡組四面の狭間に彫刻が嵌め込まれています。正式な場面では、神道の習わしにより、屋台の正面が南向きになるように置かれます。従って後ろ側が北向き、左側が東向き、右側が西向きとなります。
特に、宮入りの際には、原則、正面(南面)から鳥居をくぐり、南面が拝殿と対面するように差し上げが行われます。拝殿の周りを練り歩く際も拝殿を中心に時計回りに回ります。
狭間彫刻にも、名匠による非常に価値の高いものから、村の歴史やゆかりの人物をモチーフにしたものなどがあり、どの彫刻も見応えがあります。
観るポイント:五部神を順番に観る。まず、(多くの場合)正面向かって右側に、アメノウズメという女神が踊りを披露している。次に、(多くの場合)左側に、アメノコヤネというイカツイ男神が仁王立ちしている。あとは、あまり大きくはないが、中央岩戸付近に、フトダマが鏡を掲げている。イシコリドメ(鏡を制作した女神)とタマノオヤ(勾玉を制作した持つ神)は楽器(?)を持っている。
背景:スサノオのいたずらに怒ったアマテラスが、天の岩屋の戸に引き篭もったため、天界も地上も暗闇に閉ざされた。そこで、八百万の神々が天の安河の河原に集まり、オモヒカネの神に対策を考えさせた。まず鶏を集めて鳴かせた。次にイシコリドメに鏡を、タマノオヤに玉を作らせ、お祭りをした。女神アメノウズメが踊ると、八百万の神々が大笑いした。それにつられて、アマテラスが戸を少し開いたところを、アメノタジカラヲが外に引き出した。世界は再び明るくなった。
関連作品:『古事記』、『日本書紀』
屋台:黒崎(南側/富島神社)、城南(南側/英賀神社)、英賀東(英賀神社)、矢倉西(英賀神社)、福井(魚吹八幡神社)、清水(恵美酒宮天満神社)、鍵町(高砂神社)、戎町(高砂神社)、加茂(津田天満神社)、御旅町(住吉神社)
*写真は黒崎屋台のもの。
観るポイント:戦の装いをした神功皇后(じんぐうこうごう)。帰還して間もないのだろうか、戦の装いで馬に跨っている。安産で生まれた赤子(応神天皇)を老父が抱っこしている。神功皇后が実在の人物であったからは定かではないらしいが、播磨平野沿岸部では祭神として祀られる非常に有名なヒロインである。屋台彫刻の題目としても頻繁に採用される。
背景:神功皇后が三韓征伐より帰還し、産所を蚊田(かだ)の邑(蚊田は宇美の古名)に定め、側に生出づる槐(えんじゅ)の木の枝に取りすがって、応神天皇を安産にて出産した。この地は、宇瀰(うみ)と呼ばれ、後に宇美(うみ)と称されるようになった。
八幡神御降誕の聖地と伝えられる筑紫(九州)には、八幡神社総本山の宇佐神宮(大分県宇佐市)があり、宇美八幡宮(福岡県宇美町)では、「安産・育児」の信仰が特に篤く、安産祈願や御礼参り(初宮詣)に参拝者が多い。
関連作品:『日本書紀』
屋台:高田(魚吹八幡神社)、大江島(魚吹八幡神社)、平松(魚吹八幡神社)、濱田南(富嶋神社)、矢倉西(英賀神社)、木場(松原八幡神社)、松原(松原八幡神社)、御旅町(住吉神社)
*写真は高田屋台のもの。
観るポイント:中央に矢を射ようと構える神功皇后が描かれる。
背景:神功皇后が戦いに行く途中、芦屋(現在の福岡県)に立ち寄り、必勝を誓って矢を射ると、矢は小島を貫通し、その穴が大きくなって洞穴になったエピソードを描いたもの。堂山・洞山と呼ばれる祈願である。
関連作品:『日本書紀』
屋台:苅屋屋台(的形湊神社)
*写真は苅屋屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:左に安倍介丸が刀を持ち、右に龍が描かれる。
背景:神功皇后三韓征伐之記のワンシーンである。
関連作品:『神功皇后三韓征伐之記』
屋台:北山河屋台(的形湊神社)
*写真は北山河屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:勇ましいスサノヲと大蛇が対決している。わかりやすい構図なので初心者向き。頭を一つずつ8つの壺に入れて、酒を飲み、酔って眠ってしまった。
背景:スサノヲは食べられそうになったいたクシナダヒメを救うため、ヲロチに酒を飲ませ、酔ったところを斬り殺して退治した。その尾から一振りの剣が出てきたので、アマテラスに献上した。これが後の草薙の剣である。
関連作品:『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』
屋台:城南(北側/英賀神社)、岡田(荒川神社)、大江島(魚吹八幡神社)、東山(松原八幡神社)
*写真は城南屋台のもの。
観るポイント:熊襲(くまそ)の屋敷にて、女装したヤマトタケルが、短剣でクマソに襲い掛かっている。
背景:オウス(日本武尊/ヤマトタケルノミコト)は九州の熊襲(クマソ)兄弟の征伐を命じられた。叔母のヤマトヒメから借りた衣装で女装し、クマソ兄弟の屋敷の建築現場へ潜入する。屋敷完成の日、宴の席でオウスを気にいったクマソはオウスを傍に呼び、酒の相手をさせた。酔いがまわったところでオウスは懐から刀を取り出し、弟を殺害。驚いて逃げる兄の首を捕まえるとお尻から刀を突き刺した。クマソ兄はどうか話を聞いて欲しいと懇願した。クマソ兄は、自分は国で一番強かったのでクマソタケルと呼ばれたが、あなたほど強い人は初めてだという。これからはどうぞヤマトタケルとお名乗り下さいと言った。これを承知したオウスはクマソ兄を切り裂いた。
なお、熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(別称 建日別・熊曾国)に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。
関連作品:『古事記』『日本書紀』『筑前国風土記』
屋台:矢倉西(英賀神社)
*写真は矢倉西屋台のもの。
観るポイント:白兎と大国主神が出会う場面が描かれている。
背景:稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる場面。
関連作品:『古事記』
屋台:深志野(大歳神社)
*写真は深志野屋台のもの。
観るポイント:浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』の「信太の森の段」のワンシーン。芦原道満と童子(後の安倍晴明)の問答の様子が描かれている。浄瑠璃では童子狐が人との間にもうけられた子の設定であるのだが、道満は、中国にも妖狐と人の間にできた子供が成長して高官にまで昇りつめた例があるので、童子を試してみることにした。道満の出す質問の数々に、童子は姿を隠した母狐の力を借りて次々と正答していく。童子の才に感じ入った道満は、童子の烏帽子親となるので「晴明」と名乗るように言う。従来悪役であった芦屋道満は「善人」として描かれ、物語に変化と深みを与えている。
背景:芦屋道満(あるいは蘆屋道満/あしやどうまん)は、平安時代の呪術師、非官人の陰陽師。生没年不詳。
江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とあ理、播磨国の民間陰陽師集団出身とも伝えられている。
また一説には、藤原道長が可愛がっていた犬に、呪いをかけたと嫌疑をかけられ、播磨へ追放され、佐用にて流死し、子孫が英賀・三宅に広がり住み、陰陽の業を継いだ。という説と、佐用より飾磨・三宅に移り住み、薬屋を開業した。という二説がある。加古川市東神吉町に、道満ゆかりの「こけ地蔵」が残っており、現在も、地元民から信仰を集めている。
以上のように、播磨地方ゆかりの歴史的人物であることから、播磨屋台の彫刻の題目として取り上げられたのかもしれない。
関連作品:「宇治拾遺物語」「峰相記」「地志播磨鑑」人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 『十訓抄』『古事談』
屋台:天神(浜の宮天満宮)
*写真は天神屋台のもの。
観るポイント:珍しい狭間彫刻である。中央に文覚(もんがく)上人が滝に打たれながら修行する姿が描かれる。上人の左上に不動明王が描かれる。
背景:文覚(もんがく)上人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在する。滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就する。
地元網干(鎌倉時代の荘園福井荘→現姫路市網干区)ゆかりの人物である。彫刻師前田氏によると、滝行なので本来は縦に映える場面のところを、横長の狭間で表現するのに苦労したとのこと。
屋台:坂上三代目(魚吹八幡神社)
出典:前田木彫刻
*写真は坂上屋台のもの
観るポイント:天満神社・宮では、菅原道真が祀られる。そのため屋台紋も梅鉢、狭間にも道真公に因んだものがよく見られる。牛は神様の使いである。
背景:牛に跨り散策する菅原道真公が、道行く人々に教えを説く様子を表しており、道真公と牛にまつわる縁起は、道真公が誕生した承和12年6月25日が乙丑年の丑月、丑日で、さらに丑刻に生まれたことから、牛との御縁が深く、牛をこよなく愛したことから牛は天神さまの使いとされている。
屋台:天神(浜の宮天満宮)、苅屋(富嶋神社)
*写真は苅屋屋台のもの。
観るポイント:左上に菅原道真の霊が描かれる。右下には天を仰ぎ、数珠をもみながら祈る尊意の姿が描かれる。
背景:比叡山延暦寺にいた尊意(平安時代中期の天台宗の僧)のもとへ道真の霊が現れた。霊をザクロの実でもてなすと「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」と道真の霊に頼まれる。尊意はこれをしかし天皇が直々に3回もお願いしにいらっしゃれば応じない訳にはいきませんよ。」と冷静に答える。すると、激怒した道真は、とっさにザクロをつかみ、口に含んだかと思うと、種ごと吹き出した。傍らの戸に引火するも尊意は印を結び水を放ち消し止めた。尊意はそのまま道真の霊を追っていく。鴨川まで来ると突然、川の水位が上がり始め、とうとう土手を越えて町中に流れ込んできた。尊意は手にした数珠をひともみして祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れた。石の上には道真の霊が立っていた。尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまで荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだという。
関連作品:『北野天神縁起絵巻』
屋台:坂上二代目(魚吹八幡神社)
*写真は坂上屋台のもの。
観るポイント:都良香邸で弓を引く道真。
背景:学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため自ら矢で射て退治したという逸話もある。
関連作品:「北野天神縁起絵巻」
屋台:今在家(津田天満神社)
*写真は今在家屋台のもの。
観るポイント:自らの潔白を天に誓う道真公。鬼気迫る表情がみてとれる。その想いは怨念となり、没後、雷神と化し、都に祟りをもたらす。
背景:天皇廃立のかどで大宰府に流刑された菅原道真が、自らの無実を訴えるべく、「天拝山(てんぱいざん)」に何度も登頂し、はるか天を仰ぎ拝んだ。天拝山は、福岡県筑紫野市にある標高257.4m。
屋台:今在家(津田天満神社)
*写真は今在家屋台のもの。
観るポイント:勉学の神様として祀られる一方、怨霊として都に祟りをもたらした存在としても有名である。清涼殿の左上に菅原道真が雷神と化している。公家は逃げ惑う。
背景:菅原道真の左遷・現地で没した後、京の都で朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、北野社において神として祀られるようになった
かつては、雷が鳴ったときに「くわばら、くわばら」と言った。「くわばら」の由来は、菅原道真公伝説にあるという。太宰府に流され失意のまま亡くなった菅原道真。道真は雷神と化し、雷に打たれ死んだ公家もいた(清涼殿落雷事件)。しかし道真公の所領地であった「桑原」には雷が落ちなかったことから、桑原の地名にあやかり「くわばら くわばら」と唱えると雷を回避できるとか。
関連作品:『北野天神縁起絵巻』
屋台:今在家(津田天満神社)
*写真は今在家屋台のもの。
観るポイント:中央に牛が伏せてしまい動こうとしない様子がわかる。
背景:菅原道真は京都に戻れないまま失意の内に亡くなる。享年59歳。亡くなったのは誕生日6月「25日」と同じ2月「25日」と言われる。そして菅原道真の遺体は牛車に乗せられて大宰府の北東の三笠郡の辺りに運ばれることとなったが、遺体を運んでいる牛が途中にあった「安楽寺」の前で突然動かなった。その場にいた菅原道真の弟子「味酒安行(うまさけのやすゆき)」は仕方なく遺体をその場に埋めて祠を建てて祀ることにした。これが北九州にある「太宰府天満宮」のもととなる。
関連作品:『北野天神縁起絵巻』
屋台:今在家(津田天満神社)
*写真は今在家屋台のもの。
観るポイント:歌舞伎独特の荒事芸が観られる人気の舞台で数多く上演される。人気のある場面である。春の日の吉田神社の参道。梅王丸と桜丸は、互いの主人を追い落とした時平の牛車が通るというので、恨みを晴らそうと牛車の前に立ちはだかる。
背景:菅丞相(藤原道真)の領地に住む百姓の四郎九郎(しろくろう)[白太夫]の、三つ子の兄弟、梅王丸は右大臣菅丞相(かんしょうじょう)に、松王丸は左大臣藤原時平に、桜丸は亭の弟斎世親王に、それぞれ舎人として仕えている。桜丸の手引きで、斉世親王(ときよしんのう)と菅丞相の娘刈谷姫の密会を口実にして、親王は、謀反の罪に問われ、菅丞相は、九州大宰府へ流罪となってしまう。
うららかな春の日の吉田神社の参道。梅王丸と桜丸は、互いの主人を追い落とした藤原時平の牛車が通るというので、恨みを晴らそうと牛車の前に立ちはだかる。
関連作品:『菅原伝授手習鑑」吉田社頭車引きの場』
屋台:中之町(大塩天満宮)
*写真は中之町屋台のもの。
観るポイント:沈む太陽の方角(西側を)を向いた平清盛が扇で煽っている。
背景:広島県呉市にある本州と倉橋島の間に「音戸の瀬戸(おんどのせと)」と呼ばれる海峡がある。瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路であり、平清盛が開削したという伝説の一場面である。
平清盛は、もともとつながっていた海峡を開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている。この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思い、開削すると下知した。しかし、工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した上に、工事は思ったように進まなかった。あと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これにより工事が完成したという逸話である。沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説もある。
関連作品:月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』、『清盛の日招き伝説』
屋台:平松(魚吹八幡神社)
*写真は平松屋台のもの。
観るポイント:屋台彫刻には珍しい恋愛ものの場面である。仲国は馬に跨り、篠笛を奏でる。
背景:高倉天皇が寂しがっているのを知った皇后であり、平清盛の娘である建礼門院は、琴の名手・小督局(こごうのつぼね)をお側に勧めた。局は天皇の寵愛を受けるが、清盛が局を敵視した為、嵯峨野に身を隠してしまった。天皇は源仲国に探し出す様命じ、或る秋の月夜、嵯峨野にて、聞き覚えの有る想夫恋の琴の音を耳にした仲国は、所持する笛を吹き合わせ、局を探り当てたと云う、狭間には珍しい恋愛ものの場面。
屋台:南町(住吉神社)
*写真は南町屋台のもの。
観るポイント:3人の幼児の手を引きながら伏見の里から雪の中を大和まで行く常盤御前。「強い母の姿」を観る。自他のへだてをおかず、一切のものに対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりの心を持つ常盤御前の「仁」義を描いた話である。
背景:「平治物語」に題材にした作品。常盤御前は院に仕える女房であったが、たいへんな美女で、院で行われた美人競べに選ばれるほどであった。17歳のとき、源義朝の側室となり、嫁入りし、3人の子ども(今若・乙若・牛若)を生む。義朝が平治の乱に義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。3人の幼子の手を引き、雪中を逃亡し大和国(奈良県)にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、三人の子を連れ自首しようと京へ向かう。その途中、京都市伏見区奉行町付近で捕えられ六波羅に引き立てられた。主であった九条院の御前に赴いてから清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子どもたちが殺されるのは仕方がないことけれども子ども達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。
関連作品:「平治物語」
屋台:井ノ口(荒川神社)、加茂(津田天満神社)
*写真は井ノ口屋台のもの。
観るポイント:少女小桜が平次に拷問を受けている。座敷では、琵琶を持った松波検校が苦渋の心で耐え忍び、琵琶を奏でる。
背景:幽閉されている後白河法皇のもとに琵琶法師松波検校と偽り源氏の侍、多田蔵人行綱が盲人を装い出仕する。娘小桜は腰元として御殿に入っており、母の待宵が清盛を打ち損じ惨殺された事を告げる。酔うほどに怒り上戸になった平次(実は平家の侍 難波六郎)は、小桜を捕え父の名を言えと責め、通りかかった行綱に琵琶一曲を所望する。行綱は琵琶を取りあげるが音色が乱れてしまう。娘を前にし苦渋の心を悟られまいと琵琶を手にとる松波検校。撥を落とす姿からこの後こらえかねた検校が階段を転び下り泣きながら娘を抱きしめ、行綱としての正体をあらわす。その隙をみて平次は行綱に斬りかかるが難を逃れた行綱は、小桜の死骸を小脇に紅葉山へ逃れてゆく。責められる小桜の妖しい美と苦悩する検校の悲劇性が劇的であり、責め立てる怒り上戸は迫力がある。
関連作品:歌舞伎・浄瑠璃『源平布引滝』の四段目「松波琵琶」「小桜責め」
屋台:黒崎(北側/富島神社)、鍵町(高砂神社)、吉美(魚吹八幡神社)、宮田(魚吹八幡神社)
*写真は黒崎屋台のもの。
観るポイント:左に女鬼人、右に平維茂(たいらのこれもち)とわかりやすい構図である。
背景:平維茂(たいらのこれもち)が信濃・戸隠山に狩猟に出掛けたところ、美女に化け、紅葉狩りをする女鬼人に出逢い、酒を勧められる。酒によって微睡んでしまった維茂は夢の中に岩清水八幡宮の末社の神が表れ、先ほどの女が鬼であることを告げた。目覚めると、雷が鳴り、風が吹き、女は正体を表し、口より火炎をはき、眼はつり上がり、丈は一丈の鬼の姿となっていた。維茂は少しも慌てず、南無八幡大菩薩と心に念じ剣を抜いて、鬼が頭を掴んで上がろうとするところを切り払い、退治した。
この構図とよく似ているものは、一条橋で渡辺綱が鬼女と出会う場面、大森彦七が楠木正成の怨霊と出会う場面などがあるが、渡辺綱は、衣装に渡辺紋(三つ星に横一の紋)が施されている。紅葉狩りでは背景に紅葉が見られることで区別がつく。
出典:謡曲 紅葉狩り
屋台:南町(住吉神社)
*写真は南町屋台のもの。
観るポイント:源頼義が中心部の岩角より湧き出る霊泉を指している。
背景:天喜5年(1057)5月5日、将軍・頼義は、朝敵追討の義に依って、七百騎を従え鎮守府を発ち、衣川にて、安倍頼時・良昭兄弟率いる四千騎と相対峙した。6月上旬、炎暑しのぎ難く、流るる汗漿をなし、口中の渇堪え難く、将兵皆、己が疵の血を吸い、汗を啜るが如くであった。頼義、本国を伏拝、至信に祈願の上、弓弭を以て岸を穿つと岩角より霊水涓々として湧き出た。 この古今希有の瑞験を、目の当たりにした敵方は戦意喪失し、頼義軍、少勢をものともせず、斬り掛かれば、安倍軍命大事と衣川に逃げ帰ると云う図。
屋台:大江島(魚吹八幡神社)
*写真は大江島屋台のもの。
観るポイント:八幡太郎が馬に乗り初陣を飾る。
背景:源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。源頼朝や足利尊氏などの祖先に当たる。
屋台:東釜屋(富嶋神社)
*写真は東釜屋屋台のもの。
観るポイント:弓を持つ巨体として描かれるのが、鎮西八郎(本名源為朝)。
背景:保元の乱に敗れ、伊豆大島に流されたにも拘ず、近隣の島々を押領していた為朝は、狩野介持光に軍船にて攻め寄せられた。しかし、為朝が岩上に立ち先頭の船に狙いを定め、大弓を引き絞り矢を放つと、見事命中し、たった一矢にて沈めたので、為朝の強弓と後世にまで語り継がれいる。
屋台:西庄(荒川神社)
出典:『保元物語』
*写真は西庄屋台のもの。
観るポイント:源頼光一行が、四天王の一人・坂田金時が引き抜いた松の大木で山中の懸崖を渡る。
背景:源頼光(みなもと・よりみつ)は、平安時代中期に生まれた武将。地方など各地の国司も歴任したことから、源一族は「武勇人」として盗賊の追捕にあたり、治安回復にも努める。一条天皇より、大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、源頼光は、頼光四天王4名と、嫡男・源頼国、藤原保昌ら総勢50数名を引き連れて、摂津国大江山(おおえやま)へ向かい夷賊討伐を行う。現在で言うと、天橋立と福知山城の中間あたり。大江山には「土蜘蛛」(つちぐも)と呼ばれた、大和政権と言った中央政府に従わない野蛮人・盗賊の勢力がいて「鬼」とも呼ばれていた。その首領の名は「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と言い、茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子など多くの鬼を従えていた。源頼光らは、山伏の姿に変装して、出家には手を出さない酒呑童子に接近し、接待を受けると、手土産の神変奇特酒(眠り薬入り酒)を飲ませて、成敗したと伝わる。
屋台:和久(魚吹八幡神社)
*写真は和久屋台のもの。
観るポイント:大江山にて源頼光一行が、鬼の首領である「酒呑童子」と戦うシーンである。
背景:源頼光(みなもと・よりみつ)は、平安時代中期に生まれた武将。地方など各地の国司も歴任したことから、源一族は「武勇人」として盗賊の追捕にあたり、治安回復にも努める。一条天皇より、大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、源頼光は、頼光四天王4名と、嫡男・源頼国、藤原保昌ら総勢50数名を引き連れて、摂津国大江山(おおえやま)へ向かい夷賊討伐を行う。現在で言うと、天橋立と福知山城の中間あたり。大江山には「土蜘蛛」(つちぐも)と呼ばれた、大和政権と言った中央政府に従わない野蛮人・盗賊の勢力がいて「鬼」とも呼ばれていた。その首領の名は「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と言い、茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子など多くの鬼を従えていた。源頼光らは、山伏の姿に変装して、出家には手を出さない酒呑童子に接近し、接待を受けると、手土産の神変奇特酒(眠り薬入り酒)を飲ませて、成敗したと伝わる。
屋台:清水(恵美酒宮天満神社)
*写真は清水屋台のもの。
観るポイント:橋の上に鬼の姿が描かれる。
背景:強盗・追剥の横行する京の夜を、馬に乗り見廻っていた、頼光四天王の一人渡辺綱が、一条戻橋にさしかかると、一人の美女に、馬に乗せて欲しいと頼まれた。橋を渡り掛けた時、川面に写る鬼の姿に、美女の正体を見破った綱は、刀で腕を斬り落とした。後日、綱のお婆さんに化けた鬼が家に訪ねて来て、鬼の腕を見せてほしいと頼まれ、腕を入れておいた箱を開けたところ、鬼の姿に戻ったお婆さんは、腕を掴み空高く飛び去った。
屋台:津市場本町屋台(魚吹八幡神社)
*写真は津市場本町屋台のもの。
観るポイント:渡辺綱と鬼が格闘している。鬼は綱の首に手を回し、空へ連れて行こうとしているようにも見てとれる。
背景:九条の東寺の羅生門に鬼が住むという噂が立っていたので、源頼光は渡辺綱に命じて遣わせた。綱が門に到着した途端、凄まじい風雨が吹き荒れた。すると、後ろから綱の錣を掴むものがいた。噂の鬼が出たのである。綱は太刀を抜いてこれを斬ろうとするが、鬼は錣を引きちぎった。鬼は、鉄杖を振り上げて打ちかかったが、綱は体をかわし鬼の腕を切り落とした。鬼は土塀の上へ登り、虚空をさして舞い上がった。
出典:謡曲 羅生門
屋台:地屋台(的形湊神社)
写真は地屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:朽木の洞穴に隠れる頼朝。頼朝を探す平氏の侍たちが戸惑っている。
背景:『源平盛衰記』では、源頼朝は石橋山の戦いに敗れて平氏から身を隠した。たまたま大きな倒木があったので、その洞(ほら)に隠れて八幡大菩薩に祈念する。追っ手がその洞に弓を突っ込んでかき回す。弓が頼朝の鎧に当たって音がした瞬間、1羽の山鳩が洞から飛び立った。「中に人がいれば鳩がいるはずはない」と、追っ手は引き返した。頼朝は木に隠れたおかげで万事休すとなった。
一方で、他の情報では、頼朝が隠れた場所が、しとどの窟と言われる。その洞窟は、神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋にある。
ただし、狭間彫刻のほとんどは、朽木の洞に身を隠す頼朝が描かれている。
出典:源平盛衰記
屋台:町坪(南側/荒川神社)、英賀東(英賀神社)
*写真は町坪屋台のもの。
観るポイント: 「生食」(いけづき)と「磨墨」とは、ともに頼朝が可愛がっていた名馬。「生食」(いけづき)に跨る佐々木高綱と「磨墨」(するすみ)に跨る梶原景季が先を争う様子が描かれる。
背景:木曽義仲追討の宇治川の戦いでは、源頼朝から、「生食」(いけづき)を与えられた佐々木高綱と「磨墨」(するすみ)を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられた。
宇治川の戦い
平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。義経軍は矢が降り注ぐ中を京都の宇治川に乗り入れる。頼朝に与えられた名馬「生唼(池月)いけづき」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとるが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直すように薦めて行わせ、その間に先陣を切る。
根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。義仲が出陣し、義経軍と激戦となる。義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流すべく瀬田へ向かった。
屋台:津市場本町(魚吹八幡神社)
出典:平家物語「宇治川の事」
*写真は津市場本町屋台のもの。
観るポイント:向かって右側に馬に乗る巴御前が、敵を蹴散らしながら走っていく様子がわかる。姿や顔立ちも、よくみると女性的なやや丸みのある彫り方になっている。奮闘の様子としても観て取れるが、東へ走り抜けているようにも観て取れる。
背景:平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。木曽義仲のめかけ。木曽仲三の娘であり、勇心・強力、弓矢・太刀にも秀で、乗馬の名人でもあった。信濃・横田河原の戦で敵七騎を討ち取り高名を馳せる。宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴は、後ろ髪を引かれる思いで、鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ馬を走らせる。
出典:源平盛衰記「巴関東下向の夢」、平家物語「木曽最期の事」
屋台:玉手(荒川神社)、糸井(魚吹八幡神社)、英賀東(英賀神社)、鍵町(高砂神社)、坂上二代目(魚吹八幡神社)
*写真は玉手屋台のもの
観るポイント:源義経の軍神ぶりを物語る奇策の名シーンである。右側には馬を担ぐ源氏軍の武士が描かれる。
背景:平安時代末期、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。
屋台:苅屋屋台(的形湊神社)
出典:
*写真は苅屋屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。侍親子が奮闘している様子が描かれる。源平両軍の生田の森の合戦に、梶原源太景季(一説にはその父景時とも)が、梅の枝を箙にさして戦い、功名をあげた。敵を両端から挟み込むように連携して戦っている。親子の絆を感じさせる。
背景:源平合戦の名場面のひとつ、一ノ谷の戦い。平家の主力部隊・平知盛、重衡らが率いる平家軍が陣を張り、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。景時(父)・景季(兄)・景高(弟)父子は範頼の大手軍に属した。『平家物語』によれば弟の景高は一騎駆けして敵中に突入。これを救わんと景時・景季も敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破り後退するが、景季が深入りしすぎて戻らない。景時は涙を流して、再び敵陣に突入して奮戦し、「梶原の二度駆け」と呼ばれる奮戦をした。
かつての生田の森は、現在の生田神社(兵庫県神戸市)から一ノ谷にまたがり、北は崖の厳しい山、南は海という天然の要害だったのだという。生田口には畠山重忠、梶原景時をはじめとする源氏軍5万騎が布陣。源氏軍は、先陣を切った高直・盛直の兄弟が討死するなど死傷者が続出する中、梶原景時・景季父子が「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。「いかに源太、景時がここにいるぞ。同じ死ぬにしても、敵に後ろを見せるな」と、親子2人で5人の敵の3人を討ち取り、2人に手傷を負わせ、「弓矢取りは、駆けるも引くも、折にふれてのこと。いざ引け」と、景季を連れて退却した。
出典:平家物語「坂落としの事」、源平盛衰記「義経鵯越を落とす」
屋台:町坪(東側)(荒川神社)
*写真は町坪屋台のもの。
観るポイント:一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経が戦機と見て坂を駆け下る奇襲作戦を決行する。合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実(くまがい なおざね)が敵陣に迫馬に乗り、敵を追いかける姿が描かれる。
背景:源平合戦の名場面のひとつ。奇しくも清盛逝去からちょうど3年後、平宗盛率いる平家軍は「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」で有名な、源義経の奇襲攻撃によって、源氏軍に大敗する。義経の奇襲が成功して平家方が総崩れとなると、敦盛は郎党らとはぐれてしまい、やむなくただ一騎、沖の船を目指して馬を泳がせる。ところがそこへ、源氏方の武蔵武士・熊谷次郎直実が、「大将軍と見参らせ候え。敵に背中を見せるとは卑怯なり」と声をかけた。
出典:平家物語 第九「敦盛最期の事」
屋台:福井(魚吹八幡神社)
*写真は福井屋台のもの。
観るポイント:馬に跨る那須与一(右側)が弓を放とうとしている。左には、小船上で女性が、真っ赤な日輪を描いた扇を掲げている。
背景:那須与一が、屋島の戦いで平家の軍船に掲げられた扇の的を射落とした奇跡の一場面。日暮れになり、源平両軍が引き始める。すると、海上の平家の軍船から一艘の小船が近寄ってくる。小船から出てきた女性は、真っ赤な日輪を描いた扇を掲げている。源義経は、畠山重忠に扇を射るように命じるが、重忠は辞退。代りに那須為隆を推薦するが、為隆も辞退。弟の那須与一を推薦する。酉の刻(午後6時頃)、海に一段(約11メートル)ほど馬を乗り入れた与一。扇の的までの距離は七段。北風が吹き、波は高く、船は上下に揺れ、扇は不安定にひらめいていた。目を閉じた与一は、「南無八幡大菩薩ら神々に自分の命と引き換えに成功を祈念する。目を開けると、風も弱まり、扇も安定してきていた。鏑矢を弓につがえ、引き絞って、ひゆーっと放つ。音を浦一帯に響き渡らせながら飛んでいった鏑矢は、扇の要に的中。扇は舞い上がり、しばらく空中でひらめいた後、春風にもまれて、夕日の輝く海へと散っていった。
屋台:苅屋屋台(的形湊神社)
関連作品:『源平盛衰記』『平家物語』
*写真は苅屋屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:源義経が高くジャンプしている様子が描かれている。
背景:壇ノ浦の戦いで、平家の敗北が濃厚となり、死を覚悟した平教経(のりつね=清盛の弟・教盛の子)は、源氏方の大将である源義経を討ち取ろうと、必死に探し出して挑みかかろうとした。義経は、なぎなたを脇に抱えて二丈(約6m)ばかり離れた場所にいた味方の船にひらりと飛び移って逃げた。さすがの教経も「あの早業にはかなわぬ」と続いて飛び移らず義経の首をあきらめたという。
屋台:東釜屋(富嶋神社)
*写真は東釜屋屋台のもの。
観るポイント:有名な場面であり、弁慶と五条大橋とわかりやすい構図である。
背景:武蔵坊弁慶は、千本の太刀を集めようとして、後一本に迫った時、京の五條大橋にて、横笛吹く牛若丸と出会い、黄金の太刀を奪おうと襲いかかるも、打ち負かされた。ここに牛若丸・弁慶が主従の契りを結ぶ事となった。
屋台:東釜屋(富嶋神社)
*写真は東釜屋屋台のもの。
観るポイント:船首に立ち睨みを効かす弁慶。海からは亡霊らしきものが舟を揺さぶっている。
背景:平家を西海に討伐し大手柄をたてた義経は、兄・頼朝と仲違いをし都を出て、再起を計る為、弁慶以下を従え摂津・大物浦より西国を目指す。海上を見れば 西海に滅んだ平家の一門が波間に浮かんでいる。「桓武天皇九代の後胤・平知盛の幽霊なり」と名乗りをあげ知盛の亡霊が出現。知盛は長刀を取り、辺りを払って波を起こし潮を蹴立て風を吹き掛け義経達の船を混乱させる。義経は少しも騒がず刀を抜いて戦おうとするが、弁慶は刀では亡霊に敵うまいと割って入り数珠を押し揉んで怨霊を祈り伏せる。怨霊が次第に遠離るのを見計らって船を汀に寄せて引き離そうとするが、尚も慕いよって来る。追い払い祈りのける内に、漸く退き潮に揺れ流れて怨霊は見えなくなった。
屋台:英賀東(英賀神社)
*写真は英賀東屋台のもの。
観るポイント:弁慶が苦境の思いで義経を金剛杖で打つ。弁慶の風貌は見分けがつきやすいので初心者向け。
背景:石川県小松市の日本海側にある安宅(あたか)に守護、富樫氏が設けたと言われる関所での源氏のワンシーン。源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという。歌舞伎の「勧進帳」でも有名。
出典:謡曲「安宅」、義経記等
屋台:濱田南(東側/富島神社)、苅屋(東側/富島神社)
*写真は濱田南屋台のもの。
観るポイント:衣が頭に被った軽快な動きで牛若丸が描かれる。対する熊坂長範は裸足でずっしりとした巨漢として描かれる。静と動の対比。弁慶と牛若丸の対比も思わせる。
背景:鞍馬山の牛若丸は、藤原泰衡の元に身を隠す決心をし、金売吉次に導かれ奥州・平泉に下る途中、美濃国・青墓の宿に於いて、夜半、大盗・熊坂長範に襲われるが、牛若丸の秘技に依り、長範を退治する逸話。
屋台:高田屋台(魚吹八幡神社)
*写真は高田屋台のもの。
観るポイント:源義経、弁慶の最後の勇姿である。
背景:源頼朝は奥州の藤原秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。泰衡は頼朝の圧力に負け、義経主従を襲った。義経方は、主従の武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らがわずか10数騎で防戦したが、ことごとく戦死・自害した。
屋台:東釜屋(富嶋神社)
*写真は東釜屋屋台のもの。
観るポイント:源頼朝と、頭の位置の低い民衆の対比により、頼朝の存在感が際立つ。奥に神社の鳥居がある。
背景:神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。別称として鎌倉八幡宮。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東方面で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある。
屋台:玉手(荒川神社)、坂上二代目(魚吹八幡神社)、坂上三代目(魚吹八幡神社)、構(先代)(津田天満神社)、妻鹿(松原八幡神社)
*写真は玉手屋台のもの。
観るポイント:曽我が大根売りの馬子から馬を奪うシーンである。曽我が馬を走らせ、馬子は突然の出来事で、馬の手綱を握りしめたまま引きずられている。兄のために大急ぎで駆けつける弟。兄弟の絆を感じさせる。
背景:父の仇を討つため、矢の根を研いでいた曽我五郎時致(ときむね)が砥石を枕にうたた寝をしていると、兄・十郎祐成が、工藤祐経の館に捕らえられているので、助けて欲しいと夢に告げた。即座に飛び起きた五郎は、通り掛かった大根売りの馬子から馬を奪い、曽我より大磯(おおいそ)へと駈け出す。
関連作品:北条本『吾妻鏡』、『曽我物語』、『北條九代記』
屋台:町坪(西側/荒川神社)、黒崎(西側/富島神社)、小谷(住吉神社)
*写真は町坪屋台のもの。
観るポイント:「錣」(しころ:𩊱・錏とも)とは兜の部位の一部であり、後頭部から首にかけての部位を守る目的で付けられた物。三郎義秀の手に足利義氏の錣が掴まれている。
背景:建暦3年(1213)、北条執権の専横に対し、和田義盛が挙兵した。この時、三男・三郎義秀は、幕府の大門を押し破り、政所前の橋にて、足利義氏と遭遇例の鉄棒にて戦い、義氏の兜の錣を掴んだところ、義氏は馬に鞭を当て、一丈余の堀を飛び越えた為、錣は千切れ三郎の手に残った。
屋台:西庄(荒川神社)
出典:曽我物語
*写真は西庄屋台のもの。
観るポイント:後醍醐天皇は、長年の弟・長重に背負われている。後醍醐天皇は、元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていたが、島を脱出すると、海運業を営んでいたとされる名和氏を頼り名和の湊(鳥取県西伯郡大山町名和)にたどり着いた。船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)で、名和は討幕運動のため挙兵した。
背景:元弘3年(1333)閏2月、千種忠顕を供に、隠岐島より脱出し、伯耆の豪族・名和長年に迎えられた後醍醐天皇は、長年の弟・長重に背負われ上陸し、船上山に立て籠もる。そこへ隠岐の判官佐々木清綱が、三千の大軍にて攻め寄せるも、名和一族の奮戦によりこれを討ち破り、建武中興の火蓋を切った。
屋台:玉手(荒川神社)
*写真は玉手屋台のもの。
観るポイント:大男・村上義光が、芋瀬の下人をひっつかんだり、投げつけたりしている。弁慶のような出立ちである。
背景:鎌倉幕府倒幕のために戦っていた護良親王とその家臣らが熊野へと逃れる道中、敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇した。親王は芋瀬らの軍勢から戦わずして見逃して貰う代わりに錦の御旗を渡してその場を乗り切った。遅れてやってきた親王の家臣の村上義光も芋瀬らに出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、四、五丈かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなして芋瀬は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸けて親王一行を追いかけ無事に追いつくことができた。最後は主君の身代わりとなって自刃するといった伝説をもつ、義を重んじた武士の物語である。
関連作品:『太平記』
屋台:田井(魚吹八幡神社)
*写真は田井屋台のもの。
観るポイント:まず、親子が向かいあっている。子は父に行ってほしくないとせがんでいる。しかし、父は息子を振り解くかのように、いきり立っている。苦渋の決断の時である。
背景:『太平記』の有名な場面である。大忠臣・楠木正成は、柔弱な長袖連中の為、足利尊氏を兵庫浜にて邀撃すると云う不利な戦に挑まねばならなくなった。出陣にあたり正成が、桜井駅にて息子・正行を呼び、形見の短刀を手渡し、今生の別れをする場面。
屋台:黒崎(東側/富島神社)、鍵町(高砂神社)
*写真は黒崎屋台のもの。
観るポイント:上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのシーンとして描かれる。馬上から太刀を振り下ろす上杉謙信と軍配団扇を握りしめる武田信玄が対峙する。「智」将同士の歴史的に残る戦である。「天と地」の構図としても観ることができる。
背景:戦国時代に、北信濃の支配権をめぐり、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した結果となった。第4次川中島の戦いで、白頭巾の上杉謙信が自ら武田軍の本陣に突入し、武田信玄に一太刀浴びせ、それを信玄が軍配団扇で受け止めたという有名な名勝負の逸話がある。
屋台:井ノ口(荒川神社)
*写真は井ノ口屋台のもの。
観るポイント:姉川の戦いは、戦国時代に近江国(現在の滋賀県長浜市)で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦である。木村又蔵正勝は、勝手に参戦して、朝倉家臣の豪傑・網島瑞天坊を討ち取って、当時まだ無名の加藤虎之助(清正)の家来となった。木村又蔵正勝については伝承の虚構と史実との境界は不明である。相撲の達人として知られ、毛谷村六助との一番が有名である。
背景:元亀元年(1570)、姉川合戦に於いて、加藤清正の臣・木村又蔵正勝は、朝倉義景軍に苦戦する織田信長軍の助勢に向かい、縦横無尽の戦い振りで斬りまくり朝倉方の宿将・島田権右衛門を初め、幾多の勇将を討ちとった。後年、正勝は清正四天王の一人として、勇名を馳せた。
屋台:高田(魚吹八幡神社)
*写真は高田屋台のもの。
観るポイント:猛将・佐久間盛政は、右手に鉄棒を引っさげ敵陣に躍り込み、群がり来る敵兵をなぎ倒し、秀吉本陣目指し、一参に突き進む。鉄棒を振りかざし、馬に乗る佐久間が勢いよく敵陣に突き進む様子が描かれる。
背景:佐久間玄蕃盛政は、豪勇をもって知られ「鬼玄蕃」などと呼ばれた。柴田勝家と豊臣秀吉の対立がはっきりしてくると、盛政は勝家方として動き、賤ケ岳(しずがたけ)の戦(滋賀県長浜市)では、大岩山で秀吉方の中川清秀を討ち取っている。このとき勝家はすぐ兵を引くよう命じたが、盛政はそれに従わず、急ぎ救援にかけつけた秀吉本隊との戦いとなり、結局、秀吉方の圧勝で、盛政は生け捕られた。
屋台:町坪(北側/荒川神社)、矢倉西(英賀神社)、宮田(魚吹八幡神社)、平松(魚吹八幡神社)、戎町(高砂神社)、濱田南(富嶋神社)、天神(浜の宮天満宮)
*写真は町坪屋台のもの。
観るポイント:彫物や絵図では槍で虎を仕止める事になっているが「絵本太閤記」では挿絵入りで鉄砲で退治したことになっている。
背景:加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助。
賤ヶ嶽では七本槍も一人として功名を上げ、秀吉が朝鮮へ兵を送った時、木村又蔵、森本義太夫、井上大九郎等を率い、小西行長と戦功を競った。
朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残る。それが虎拳という遊びの元になった。彫物や絵図では槍で虎を仕止める事になっているが「絵本太閤記」では挿絵入りで鉄砲で退治したことになっている。
セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
屋台:松原(松原八幡神社)、妻鹿(松原八幡神社)、戎町(高砂神社)
*写真は松原屋台(先代)のもの。
観るポイント:左側に南無阿弥陀仏の旗を持ち、敗走する僧侶が描かれる。
背景:浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。
中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、三河守護家である吉良氏のほか、荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏である。また安祥松平家の麾下にあった本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信が参加した。
三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。
屋台:地屋台(的形湊神社)
*写真は地屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント:明智勢が四方より攻め込んできたので、信長は初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦う。主君と2人の弟と共に討死した森蘭丸が十文字の槍を振りかざし、信長の援護をする様子が描かれる。なお明智光秀本人は寺敷地内には入っていないので通常は描かれていない。
背景:京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件である。信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。明智家の家紋は桔梗(ききょう)、織田家の家紋は木瓜。
屋台:岡田(東側/荒川神社)、中地(荒川神社)、苅屋(富嶋神社)、坂上二代目(魚吹八幡神社)、坂上三代目(魚吹八幡神社)、濱田南(富嶋神社)、妻鹿(松原八幡神社)
*写真は苅屋屋台のもの。
観るポイント:主君織田信長が明智光秀の謀反により亡くなったことを知り、岡山から脅威のスピードで京都へ戻る名場面。右(東)へ大急ぎで馬を走らせる様子が描かれる。
背景:中国大返し(または備中大返し)は、戦国時代末期の備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。
屋台:岡田(荒川神社)
*写真は岡田屋台のもの。
観るポイント:秀吉の風貌は、勝ち戦直後でもあり、陽気な姿が描かれる。住職との対比がいいコントラストになっている。互いに相手の気持ちを思い計り、「礼」節をわきまえたよき場面である。
背景:京都・千本通今出川に「湯沢山 茶くれん寺(ゆたくさん ちゃくれんでら)」と呼ばれる小さなお寺がある。正式な寺名は「浄土院」。秀吉の九州征伐の勝利と、邸宅の聚楽第の完成を祝って、北野天満宮の境内で「北野大茶会」という茶会が催された。北野天満宮に向かっていた秀吉は、浄土院の前に差しかかった時に、名水が湧き出る井戸があることを思い出し、立ち寄ることにした。秀吉は寺に入るやいなや、住職にお茶を所望し、住職が出した茶をあっと言う間に飲み干し、もう一杯所望した。高名な茶人でもある天下人の秀吉に対して、未熟なお手前のお茶を出し続けるのは、失礼だと思い、境内の湧水をそのまま味わっていただこうと思い付き、白湯(さゆ)にして秀吉に出した。出された白湯に不思議に思いながらも、秀吉は白湯を飲みほし、お茶を所望した。しかし、住職は、また白湯を出した。このやり取りが何度か続いたので、そのうちに秀吉は住職の気持ちを察し、大笑いし、「この寺は、お茶をくれと頼んでいるのに、白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん、茶くれん」と、陽気に言い放ったという。
井ノ口(播磨)バージョン:秀吉らの軍は、三木氏が支配する英賀城を攻め落とした。井ノ口の南にあった宝林寺(現在の法輪寺)では、いつ秀吉が立ち寄ってもよいように、お茶を用意していた。そこに、平侍のような出立ちで秀吉が立ち寄り、目にとまった茶を所望したが、庄屋らは、「秀吉様に差し上げる茶ですので、あなた様には差し上げることはできません」と断り、白湯を差し出した。この行動に大笑いした秀吉が、自分が秀吉であることを打ち明けると、庄屋らは仰天し、すぐさま茶を差し上げたという。
屋台:井ノ口(荒川神社)
*写真は井ノ口屋台のもの。
観るポイント:向かって左手に弓を放つ原小五郎が描かれる。右手奥には、背を向けて馬で敗走する羽柴軍の武士が描かれる。
背景:羽柴秀吉の軍が小寺政職の御着城を総攻撃した際に、御着城を守る弓の名手、原小五郎が羽柴の瓢箪馬印めがけてたくさんの矢を放って応戦した場面。
古代大和の郷愁を彷彿させる地名「御国野」は、姫路市東南部の天川流域に位置し、御着・国分寺・深志野の三つの地域で構成される。御着城主・小寺氏は、守護赤松氏の家老の家柄で、南北朝時代からの活躍が知られる。小寺氏の重臣だった姫路城主・小寺(黒田)官兵衛孝高が秀吉の参謀として働き、九州博多の太守まで上り詰めていく。別所氏の治める三木城、三木氏の治める英賀城と並んで播磨3大城郭のひとつに挙げられていた。
播磨の別所長治が籠城する三木城攻めで孤軍奮闘する羽柴秀吉を援護するため織田信忠が出陣する。織田信忠は播磨の三木城周辺六ヶ所に砦を築き、その後、小寺政職の御着城を攻撃する。政職は家老の小寺孝隆(官兵衛)の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調。政職は以後も織田方の攻撃に耐えるが、別所氏の三木城と荒木氏の有岡城が落城すると、秀吉軍の総攻撃を受ける。
しかし、結果的には、御着城も政職が毛利氏領内の鞆の浦の足利義昭の元へ脱出し、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し、落城した。
屋台:深志野(大歳神社)
*写真は深志野屋台のもの。
観るポイント:巨漢の石川五右衛門は一眼でわかる。まだ取り押さえられる前の抵抗している様子である。
背景:関白秀次の家臣・木村常陸介より太閤暗殺の命を受け、伏見城に忍び入った石川五右衛門が暗殺に失敗し、太閤の家臣・仙石権兵衛、薄田隼人正らに取り押さえられる。
屋台:和久(魚吹八幡神社)
*写真は和久屋台のもの。
観るポイント:江戸城松の廊下で無防備な吉良に刀で斬りつける浅野。脇差で襲ったとの説もあるが、彫刻では長い刀で描かれることが多い。切腹(死)を恐れず「義」を重んじ主君の仇を討った赤穂浪士の厚く、切ない物語である。
背景:京都から下向した勅使の接待役を命じられていた播磨国(兵庫県)赤穂の藩主、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩が江戸城松之廊下で高家吉良上野介(こうずけのすけ)義央に斬りつけ傷を負わせた事件。取り押さえられた浅野長矩は田村家にお預けとなり、即日切腹を命じられ浅野家は断絶した。
この事件と、主君への「義」を重んじた大石内蔵助以下47人の義士による仇討ちは「忠臣蔵」として脚色上演されて人気を呼び、その後も小説・映画などの題材となった。
屋台:井ノ口(荒川神社)、吉美(魚吹八幡神社)、清水(恵美酒宮天満神社)
*写真は井ノ口屋台のもの。
観るポイント:橋の上で、二刀流で奮戦する一学の典型的イメージ。
背景:清水 一学(しみず いちがく)は、元禄時代の武士。忠臣蔵(赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に討ち死にしている。江戸時代の歌舞伎では実際の赤穂事件関係者の名称を使うことが禁じられていたため。「清水一角」 、「清水大学」などと表現されている。
屋台:福井(魚吹八幡神社)、本町(住吉神社)、北東組(高岡稲荷神社)
*写真は福井屋台のもの。
観るポイント:本懐を遂げ、両国橋を渡って引き揚げる義士の一行を、旗本の服部市郎右衛門が見とがめて押し止める。由良之助が話した事の次第に感服した服部は、法を犯した者たちとはいえ忠義の心に免じて温情を示す場面。
背景:吉良上野介を討ち取った赤穂浪士四十七士が、上野介の首を掲げて両国橋のたもとに集結する。
出典:豊国「忠臣義士四十七騎 両国橋引揚之図」
屋台:本町(住吉神社)
*写真は本町屋台のもの。
背景:唐子遊びとは中国の子供が遊戯する様を描いたもので、一種の無邪気で、平和な理想郷を描いたものと考えられる。唐子の四季に於ける様々な遊び姿を、唐子遊びと称し、一説には千態あるとも言われている。左上には太陽が描かれる。地面や木々が緑色に彩色され、春の息吹を表現されている。
屋台:天満(東側/魚吹八幡神社)
*写真は天満屋台のもの。
観るポイント:大変貴重な水カメの周囲で子どもたちが遊んでいると、その中の一人が誤って水の入ったカメの中に落ちてしまった。ある一人の子が直ぐに大きな石でカメを割り落ちた子を助けた。どんなに貴重な物でもそれに勝るものは人の生命である。生命の尊さを教える絵(彫刻)である。
背景:昔、中国に司馬光(司馬温公)と云う賢子あり。ある日、数人の子供達と遊んでいる時、一人が家宝の水ガメの中の金魚を見ている内、誤って嵌まってしまった。皆慌てふためく中、司馬光独り、慌てず騒がず、石を以てカメを割り、溺れる子を救ったと云う逸話。果して司馬光は成長し宰相となった。
屋台:天満(南側/魚吹八幡神社)
*写真は天満屋台のもの。
観るポイント:秋らしく上部には紅葉が描かれている。宝車を曳く様子は収穫の秋を表しているのかもしれない。
屋台:天満(西側/魚吹八幡神社)
*写真は天満屋台のもの。
観るポイント:大きな白い雪の玉を転がしているのがわかる。地面も白く色が塗られている。
屋台:天満(北側/魚吹八幡神社)
*写真は天満屋台のもの。
観るポイント:奥に老人・黄石公が描かれる。太公望の兵書は、右側の龍として象徴される。
背景:漢三傑の一人・張良は、秦の始皇帝暗殺に失敗し、命からがら逃げ延びる。その途中、ある土橋の辺りに近づくと黄衣を着た老人が橋の上を通り、履いていた履を泥の中に落として、張良に向かって、私の履き物を取ってきなさいと言ったので、飛び降りて履き物を取って跪いて奉った。老人は川に落とした沓拾いなどで心を試され、その人柄を認められたところから、太公望の兵書を授けられた。後に張良は劉邦(高祖)に仕えることになる。
屋台:高田(魚吹八幡神社)
出典:漢楚軍談
*写真は高田屋台のもの。
観るポイント:右側に酒を酌み交わしながら会話をする曹操と劉備が描かれる。左上には、嵐のような雷雲が描かれる。
この諺のポイントは、「曹操がまだ勢力を持たない劉備を一早く最大のライバルに成り得ると見抜いていた」ことと、「劉備が曹操に本心を隠したこと」です。教訓として、「誰が敵なのかを見抜く」、「一早く最大のライバルを倒すこと」です。
背景:中国の三国志時代の諺。曹操と劉備が梅の園で酒を酌み交わしながら天下の英雄が誰なのかを論じる。
中国の建安元年(196年)、劉備が曹操の元に居候(客分)していた。曹操が、劉備を梅園の宴に招き、曹操は劉備に「この乱世で英雄と呼べる人物は誰だと思うか?」と聞く。劉備は、袁紹、袁術などの名をあげた。曹操は劉備が上げた人物たちをいちいち論破する。そして最後に「この世に英雄は君と余だけだ」と切り出す。それを聞いた劉備は、曹操に隠していた内心を見透かされたかと思い驚愕し、持っていた箸を足元に落としてしまう。劉備は、偶然鳴り響いた雷に驚いたふりをして誤魔化す。劉備は、本当は目の前にいる曹操を倒して漢王朝の再興を願っていたのだが、自分を小さく見せて英雄の志を隠すために、雷に驚く小心者を装った。その様子を見た曹操は劉備を「雷怯子」(雷におびえる臆病者)と評し、持っていた警戒心を緩める。
屋台:地屋台(的形湊神社/写真上)、北山河屋台(的形湊神社/写真下)
出典:
*写真は地屋台(的形湊神社)、北山河屋台(的形湊神社/写真下)のもの。
観るポイント:三国志のワンシーンである。足元に波濤逆巻く檀渓が描かれる。大陸の大自然に立ち向かう勇壮な姿が描かれる。
背景:劉表の妻・蔡夫人とその兄・蔡昌とに暗殺されかかった劉備玄徳は、唯一軍勢のいない西門を抜け、更に、波濤逆巻く檀渓を、駻馬・的盧を駆り見事跳び越え脱出に成功した。
屋台:長松(魚吹八幡神社)
*写真は長松屋台のもの。
観るポイント:馬に跨る韓信が、靳歙(きんきゅう)に命令を出している。
背景:靳歙(きん きゅう、? - 前183年)は、秦から前漢にかけての武将。劉邦に従って数々の武功を挙げた。
孤雲雨脚山に軍を進めた韓信は、斥候の兵より、乱山岩渓に大蛇が居るので進めない。と注進を受ける。すると、信武侯靳歙(きんきゅう)が、我独りにて切り捨てて見せますと願い出たので、韓信大いに喜び、毒気に当たらぬ様にと、御酒を下され、大蛇退治を下知した。
屋台:長松(魚吹八幡神社)
出典:漢楚軍談
*写真は長松屋台のもの。
観るポイント:じょうごの形をした大きなカゴを長い支柱を村人が何人かで立てようとしている。
背景:魚吹八幡神社氏子津市場の伝統行事である。古記録によると網干の火揚げを「ぼんてん」とか「ほてむ」とも言い一年の後半が始まるに際し、神の降臨を願い、豊穣を祈る所にその本意があり、松明は神の憑依であり火は夜その所在を示し柱は神霊用のはしごの役をするものだろうと言われる。お盆の時期に、稲荷神社でお祓いを受けた地区の男子が、大かごを社前から火揚場まで運ぶ。かごは直径4m程度もある。じょうご状になっていて中には麦わらをつめ込み、高さ20mほどある大柱の先端にくくりつける。2時間ほどかけて大柱を徐々に立てていく。真直ぐ立った時点で、神社に火をもらいに行き、神主は大きな松明に灯明から点火してもらう。聖火ランナーのごとく、捧げ持って火揚場迄持ってゆく、待ち受けていた若者が先を争い、手にしたオガラで石を包んだ松明に点火し柱上のカゴめがけて投げあげる。投げる松明は数百本に及ぶが高くて届かず何回となく繰り返されているうちにカゴの藁に点火される。最初に火をつけた者はお稲荷さん附属の田を無年貢でその年作らせてもらえる。この行事は明応年間(1492~1500)にも行われていたという。
屋台:津市場本町
出典:津田 實著『津濃市庭民土史』
*写真は津市場本町屋台のもの。
観るポイント:鬼が数匹おり、氏子を襲来している様子が描かれる。
背景:「津の宮の提灯まつり」などで有名な魚吹八幡神社では、節分の追難神事・鬼追いの行事が3月末に行われる。
この武神祭は、天平宝字8年(764)3月7日、外国からの襲来に対し、播磨国の国司であった藤原貞国が魚吹八幡神社に勝利を祈願したところ、五色の鬼 が現れ、敵船を沈没させたという故事に由来している。
鬼が去った後には鬼面が残されており、これを魚吹八幡神社の神宝としたといわれている。
祭りではまず鬼の舞が奉納され、その後当番の村が献饌した餅で餅まきが行われ、終焉を迎える。
鬼舞行事を奉納するのは「社家」と定められています。
平安時代に京都から社務のために西下した山田別当、河田別当が一貫して行ってきた鬼舞であるが、現在でも尚、宮内に社家として七家があり、この伝統を引き継いでいる。
社家の長老が祝詔を奏上し、続いて水干・小袴に烏帽子姿の子ども2人(社家の子ども)が大神の舞を踊る。
その後いよいよ鬼舞となり、本殿に5匹の鬼 が現れます。
この祭りは「津の宮鬼追い」の別称でも知られ、市内の神社で行われる代表的な鬼追いの行事として、姫路市の無形民俗文化財に指定されている。
屋台:坂出(魚吹八幡神社)
出典:魚吹八幡神社
*写真は坂出屋台のもの。
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背景:源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。
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背景:新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。新田義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆けつけた。しかし、陸も海も鎌倉幕府の防備が万全であった。そこで、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く「奇蹟」が起こったとされる。龍神が潮を引かせた、という言い伝えもある。義貞は、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰される。
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関連作品:「太平記」「梅松論」
*写真はのもの。
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背景:応仁・文明の乱の際、多賀豊後守高忠の従者で細川氏の与党・骨皮左衛門尉道賢を首領とする軍勢が、比較的新しく当社祠官家に加わったと見られる荷田氏の羽倉出羽守と示し合せて、伏見・木幡・藤森・三楢・深草・淀・竹田・鳥羽等を眼下に見下ろすことが出来る要害の地ともいうべき稲荷山(京都伏見稲荷)に陣を設け、山名持豊軍の糧道を絶った。これに刺激を受けた山名方は、畠山義就の軍をさし向け、稲荷山攻めを敢行した。道賢方はひとたまりもなく攻めこまれ、稲荷山の東方山科へ逃れようとするところを、山名方の下級武士に討ち取られ、社司羽倉出羽守も一時身を隠したということです。
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背景:浄瑠璃及び歌舞伎、日本舞踊の演目のひとつ。近松門左衛門の『信州川中島合戦』(川中島の戦い)を題材にしたもの。中国の二十四孝故事なども織り交ぜた複雑な筋書をもつ。
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背景:太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将。道灌が父を訪ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後、道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。
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関連作品:「山吹伝説」
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背景:或る五月雨の夜、白河院が祇園近くの御堂辺りに、鋭い光を放つ怪しい影を見かけ、その化け物退治を家臣・平忠盛に命じた。忠盛が御堂の陰に身を潜めていると、現れた化け物が近づいて来たので組み伏せると、御堂に燈明を点ける為に通う老法師であったと云う平忠盛怪僧を捕うの図。
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背景:公家化して、文弱の徒が多いと言われていた平家の公達の中で、知盛は典型的な武将として評価が高く、特に、壇の浦の戦で、兄・宗盛が捕らえられたのに対し、知盛は大錨を抱いて、いさぎよく海底に没したと云うので人気の高い武将である。
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背景:建久4年(1193)5月、源頼朝は富士の裾野にて巻狩りを行う。その時、一頭の大猪が荒れ狂い猛進するのを、豪胆を以て音に聞こえた忠常が、馬上颯爽と現れ、後ろ向きに大猪に飛び乗り、腰の刀にて仕留め、頼朝より大いに称賛された。
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背景:漢王室の末孫・劉備玄徳は、黄巾の乱が起こり、漢朝が危機に瀕するや、志を同じくする、関羽・張飛と桃園に於いて義兄弟の契りを結んだ。劉備を長兄・関羽を次兄・張飛を末弟とした三豪傑は、近在の壮丁を率いて賊徒討伐の義勇軍をを起こし、各地を転戦し大功を挙げた。
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背景:僅か二千五百の兵を率い、西県城に駐屯していた諸葛孔明は、突如、十五万の司馬仲達軍の襲撃を受ける。城兵は慌て慄くが、孔明は落ち着き払い、城外の兵を全て引っ込め、四方の城門を開け放ち、又、自身は唯一人、城楼に坐し、悠然と香を焚き琴を弾いていたので、司馬仲達は、孔明の罠と思い軍勢を撤退したと云う、高名な空城の計を彫った場面。
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背景:悪名高き、殷の紂王を滅ぼさんと、太公望と図り、数万の軍で帝都に押し寄せた武王は、八十万騎の殷軍と戦う。武王軍優位に進むも、紂の方相、勇敢にも討ち進み、長槍を以て武王を突かんとした。その時、八爪の金龍現れ武王を護り、武の将、遂に方相を生け捕った。
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背景:唐に留学中、その才能を唐人に妬まれ幽閉されたい吉備真備が、或る風雨の夜、遣唐使の安倍と名乗る鬼に、その子孫の日本での様子を話してやると、鬼は大いに喜び、恩返しに唐の国事を教えてやると約束した。或る時、唐人が囲碁で以て、真備をやっつけようと謀ったが、鬼が三百六十目ばかり組んで教えたので、唐の名人との対局にも勝負がつかなかったと云うお話。
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背景:賤ヶ岳合戦に於いて、大岩山砦守将・中川瀬兵衛清秀は、敵将・佐久間玄蕃の猛攻を受けるも、僅か三百の手兵を指揮し、正に獅子奮迅の戦い振りで、佐久間の大軍を九度に亘り、追い退けたと云う。
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背景:中国大返しの途次・尼崎にて、明智軍の待ち伏せに遭った羽柴秀吉は、廣徳寺へ駆け込み、門内より後を見れば、仁王の再来・四王天但馬守が追いかけて来るのが見えた。乗り馬を降りた秀吉は、太刀を以て馬のしりがいを突き四王天の方へ向け突っ込ませた。四王天、あわや蹄に掛かり、蹴り殺されるかと思った刹那、身を沈め馬の両前脚を抱え、どっと深田に投げ込んだ。
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背景:山崎合戦の敗報を聞き、安土城に火をかけ、坂本城に向かう途中、打出の浜で堀秀政軍と遭遇戦になった明智光春が、坂本城を気に掛け、唯一騎、名馬大鹿毛にて琵琶湖を渉り、唐崎の浜へ乗り上げ、一本松に馬を寄せ、木の根に腰を掛け、軍扇にて暑気をしのいでいるところ。この後、坂本城に入る際光春は、この駿馬の命を惜しみ、十王堂の格子に結び付け、敵に送り、命を助けたと云う美談がある。
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背景:魔除けであるが、釈迦に由来すると云われ、釈迦と獅子とは極めて因縁が深く、仏典等に拠ると、「釈迦は十返獅子に生まれ、六返は象、一度は兎に生る。」・「釈迦が生るる時、一手は天を指し、一手は地を指し、獅子吼して云う、天上天下唯我独尊。」とある。
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背景:百獣の玉と云われる獅子は、子を生むと、千仞の谷に落とし、生き残った子だけを育てると云う言い伝えから、自分の子を苦難の環境に置いて、その器量を試すと云う有名な逸話。
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背景:地上動物の王で千年の寿を保つと云われている。又、悪魔さえも虎を恐れるとの意から、悪魔払いとして、壁に書いたり、彫刻に用いたりする。更に、夢判断では、成功の兆である。
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背景:海に落ちかけた猿を、鷲が救っている場面。猿は煩悩にまとわり憑かれた人間に、鷲は歓喜天にそれぞれ喩えられている。
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屋台の屋根の上に乗せられる分厚いドーナッツのような形の彫刻です。露盤の上には、串でとめるかのように擬宝珠が差し込まれます。
松原八幡神社や魚吹八幡神社の楼門をくぐる際、あるいは荒川神社での拝殿に入る際には、擬宝珠と露盤を外す作業が行われます。露盤は屋台によっては28 kgもあるそうですから、高い屋根に登り、頭にかぶるように露盤を載せ下ろしする作業は大変そうです。
観るポイント:八幡神社では龍の彫刻や紋が好まれる。彫刻ごとに龍の表情の違いを楽しむことができる。
背景:龍は神秘な力を有する想像上の動物。一説には、春分に天に昇り、秋分に淵に潜むといわれ、これを夫々昇り龍・降り龍と称す。
又、古代中国では「五爪の龍」は皇室専用の表象である。更に信仰上では、満行者を龍と言い、夢判断に於いては、龍水中にあるは大吉、龍天に昇る瑞兆とある。
鯉が竜門の瀧を登り、龍になるとも伝えられ、「登竜門」の語源になっている。
龍は、中国独自の星座を元にして、北を玄武、南を朱雀、西は白虎、東は青龍に当てられる四獣神の一つにも数えられる。
これとは別に、龍は鳳凰、麒麟、亀と合わせて四霊の一つともされる。
龍には81の鱗がある。「逆鱗に触れる」の語源は、一つだけ逆についた鱗に触れると龍が激しく怒るとの言い伝えに由来する。
大阪のだんじり彫刻の龍の彫物は獅子とともに大阪流の共通点が見出される。あごから口元にかけての髭は鋭く直線的で鋭角状を成す。小鼻も張り、顔の向きは正面から見て横向きに近い状態で彫られていることが多い。播磨の屋台の龍彫刻も、大阪の龍と共通点が多い。
屋台:黒崎屋台(富嶋神社)
写真は黒崎屋台のもの。
観るポイント:金箔が施された彫刻である。
背景:題目は龍(上記参照)。
屋台:鍵町(高砂神社)
写真は鍵町屋台のもの。
観るポイント:富嶋神社の祭神である玉依姫命が船に乗っている様子が描かれる。
背景:玉依姫命(またよりびめ)は神武天皇の母君、海神族の祖先で、龍神として崇められたと伝えられる。海神(わたつみ)族の乙姫様で、姉君の豊玉姫命と彦火火出見命(山幸彦)との御子である鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を育てられた神で、龍神を束ねていると伝えられる。
富嶋神社の祭神である玉依姫命が、現在の大阪湾から船に乗り、淀川、鴨川、貴船川を遡り、霊境吹水を見つけ祠を建てた。それが貴船神社の起源だと伝えられている。
また、潮の満ち干きを司り、出産や育児等の御守護もされている。玉依姫命は後に鵜茅葺不合命と結婚されて、その御子の一人が初代天皇の神武帝になり、日本の「母神様」でもある。その御神徳は縁結び・子授け・安産とされる。
屋台:苅屋屋台(富嶋神社)
写真は苅屋屋台のもの。
観るポイント:正体がばれた鬼が渡辺綱に襲い掛かろうとしている。一方、渡辺綱は刀で鬼を退治しようと意気込んでいる。
背景:『平家物語』によれば、嵯峨天皇の時代、ある公卿の娘が嫉妬にとらわれ、貴船神社に7日間こもり、「貴船大明神よ、私を鬼神に変えてください。殺したい女がいるのです。」と切に祈った。これを哀れに思った明神は「鬼になりたければ、姿を変えて、宇治川に21日間浸かりなさい。」と告げた。貴船明神に言われた通り、21日間宇治川に浸かると、娘は鬼になった。
ただし、元々は、橋姫は、土地(川)を守る神様であり、『平家物語』で鬼女になる前は、和歌で詠まれることもあった。『源氏物語』最後の十帖を総称した「宇治十帖」にある「橋姫」の巻では、薫君が、都から離れた宇治にひっそりと暮らす大君の寂しさを思い、歌を送っている。
屋台:苅屋(富嶋神社)
写真は苅屋屋台のもの。
観るポイント:貴船大神が牛鬼に矛先を向けている。
背景:貴船大神は仏国童子という牛鬼を従えて天上から降臨した。仏国童子は天上の事を喋ってはいけないという掟を破った。貴船大神は大いに怒り、牛鬼の舌を八裂きにした。
屋台:苅屋(富嶋神社)
出典:『黄船社秘書』の「貴布祢雙紙」
写真は苅屋屋台のもの。
観るポイント:陰陽師・安倍泰成により玉藻前(たまものまえ)は変身を解かれ、九尾の狐の姿となった様子が描かれる。
背景:玉藻前(たまものまえ)は、平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物。妖狐の化身であり、正体を見破られた後、下野国那須野原で殺生石になったという。
陰陽師・安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿(『玉藻の草子』では二尾の狐として描かれている)で宮中を脱走し、行方を眩ました。
屋台:丁(魚吹八幡神社)
写真は丁屋台のもの。
観るポイント:渡辺綱と鬼が格闘している。鬼は綱の首に手を回し、空へ連れて行こうとしているようにも見てとれる。
背景:九条の東寺の羅生門に鬼が住むという噂が立っていたので、源頼光は渡辺綱に命じて遣わせた。綱が門に到着した途端、凄まじい風雨が吹き荒れた。すると、後ろから綱の錣を掴むものがいた。噂の鬼が出たのである。綱は太刀を抜いてこれを斬ろうとするが、鬼は錣を引きちぎった。鬼は、鉄杖を振り上げて打ちかかったが、綱は体をかわし鬼の腕を切り落とした。鬼は土塀の上へ登り、虚空をさして舞い上がった。
出典:謡曲 羅生門
屋台:丁(魚吹八幡神社)
写真は丁屋台のもの。
観るポイント:源為朝(みなもとのためとも)が大蛇を弓で獲ようとしている。
背景:源為朝(みなもとのためとも)は、矢一本で敵の軍船を沈め、数十キロも離れたところにまで矢を飛ばすことができたというほどの剛の者であったと伝えられる。
『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗った。
佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった。
屋台:丁(魚吹八幡神社)
写真は丁屋台のもの。
観るポイント:
背景:牛若丸は七歳の時、鞍馬山の東光坊・正坊阿闍梨の弟子となり、学問・武芸に励んだが、特に武芸に関しては、鞍馬の天狗が鍛えたと云う。
屋台:北山河(的形湊神社)
*写真は北山河(的形湊神社)のもの。
観るポイント:菅原道真公の愛でた梅の木が生き生きと施されている。前田木彫刻作である。「琴酒相寿」と毛筆で描かれてある。
ちなみに、露盤のサイズとしては播州屋台最大級ではないかと思われる。浜の宮天満宮の氏子でも、神社の大門をくぐる際に露盤を取り外す唯一の氏子屋台である。
背景:琴酒相寿とは、琴を弾き、酒を酌み交わして相寿ぐ(あいことほぐ・お互いに喜びあう)という意味である。
屋台:天神(浜の宮天満宮)
出典:前田木彫刻
写真は天神屋台のもの。
観るポイント:戎神に神紋である丸に蔦三柏。天神さん(菅原道真公)が牛に跨る様子。恵美酒宮天満神社に祀られる二神が描かれる。
背景:恵美酒宮天満神社にゆかりのある戎神の彫刻が施される。戎神社の神紋である丸に蔦三柏も施されている。
一方、恵美酒宮天満神社にゆかりのある天神さん(菅原道真公)が牛に跨る様子も描かれる。
屋台:清水(恵美酒宮天満神社)
写真は清水屋台のもの。
観るポイント:彩色が施されたスサノオのヤマタノオロチ退治。
背景:題材は出雲神話「スサノオのヤマタノオロチ退治」。四面で一つの物語になっている。
屋台:戎町(高砂神社)
写真は鍵町屋台のもの。
観るポイント:露盤の土台には玉虫細工が施されている。
背景:題材は出雲神話「スサノオのヤマタノオロチ退治」。四面で一つの物語になっている。
屋台:英賀東(英賀神社)
写真は英賀東屋台のもの。
観るポイント:
背景:正面「伊弉諾尊と伊邪那美命の天の浮橋」。東面「天孫降臨 斎庭の稲穂」西面「大国主神、少名毘古那神と出会う」後面「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」
屋台:井ノ口(荒川神社)
出典:山下木彫工房
写真は井ノ口屋台のもの。
観るポイント: 東は青龍(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、南は朱雀(すざく・すじゃく)、北は玄武(げんぶ)の四神(霊獣)が描かれる。
背景:正面「朱雀」。東面「青龍」西面「白虎」後面「玄武」。四神(しじん)とは、東西南北の四方を守る神(守護神)のことで、「方位の四神」とも呼ばれる。「四神」の信仰は、古代中国で誕生し日本に伝えられた。 奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳の四方の壁にもこの四神の図が見られる。
屋台:宇佐崎(松原八幡神社)
出典:山下木彫工房
写真は宇佐崎屋台のもの。
観るポイント: 東面には、神功皇后(じんぐうこうごう)が、先端に龍が彫られた船に乗り出征する様子が描かれる。正面には、力強い唐獅子と鍾馗(しょうき)が描かれる。西面には、武内宿禰(たけしうちのすくね)が玉(如意宝珠)を持っている。北面には、山幸彦が背中に弓矢を備えている。
背景:前田貴史作「鐘旭(正面/南)」「神功皇后(右側/東面)」「山幸彦(背面/北)」「武内宿禰(西側/左側)」。
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、松原八幡神社の祭神。
山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は『記紀』において、天孫族と隼人族との闘争を神話化したもの。名前のごとく、山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。東山に因んで、山幸彦のみを描いた可能性があるが、詳細は調査中。
武内宿禰(たけしうちのすくね)は、記紀に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
屋台:東山(松原八幡神社)
出典:灘のけんか祭り
写真は東山屋台のもの。
観るポイント: 正面には毬と獅子を、後正面には獅子の子落としを、東面には北脇の獅子舞の物語をモチーフに洞窟から出でる獅子を、西面には親子獅子を配している。
背景:題材は「唐獅子牡丹」。秋季例大祭で奉納される毛獅子が兵庫県の重要無形民俗文化財となっている。唐獅子は庶民の間には魔除けとして広まっているが、古くは、釈迦に由来すると云われ、釈迦と獅子とは極めて因縁が深く、仏典等に拠ると、「釈迦は十返獅子に生まれ、六返は象、一度は兎に生る。」「釈迦が生るる時、一手は天を指し、一手は地を指し、獅子吼して云う、天上天下唯我独尊。」とある。
屋台:北脇丁(大塩天満宮)
出典:髙場正良
写真は北脇丁屋台のもの。
観るポイント:地名の児島と児島高徳の苗字を文字ったのであろうか。桜木に赤誠の詩をを示す様子が描かれる。
背景:後醍醐天皇が隠岐に流される途次、勤皇の志篤き備前児島の住人・児島高徳は、天皇を迎え奮い奉らんとするも、叶わなかった為せめて自らの志を伝えようと、美作・院庄の御座所正面の桜木に赤誠を示す詩を大書した。
屋台:児島屋台(的形湊神社)
出典:
*写真は児島屋台(的形湊神社)のもの。
観るポイント: 毛獅子の舞で有名な大塩天満宮にちなんだ彫刻。正隅の一つには、毛獅子の舞で登場する「ひょっとこ」が描かれている。
背景:元来はライオンであるが、シルクロードによって漢の頃、中国に伝わった。日本では、奈良時代頃に獅子の姿が見られる。
屋台彫刻では、龍と双璧をなす。
屋台:北脇丁屋台(大塩天満宮)
出典:髙場正良
写真は北脇丁屋台のもの。
観るポイント:
背景:屋台においては、主に左右の正隅に木鼻の形で彫られていることが多い。
獏は象に似て、顔の周囲には獅子様の渦巻き状の毛を持ち、目は犀、尾は牛、足は虎に似ている。
獏が夢を食うと信じられたのは、その毛皮を敷いて寝ると疫病を防ぎ、邪気を避けるということによる。
屋台:濱田西(富嶋神社)
写真は濱田西屋台のもの。
屋台:黒崎(富嶋神社)
写真は黒崎屋台のもの。
屋台:東釜屋(富嶋神社)
写真は東釜屋屋台のもの。
屋台:黒崎(富嶋神社)
写真は黒崎屋台のもの。
太鼓隠し:「龍」、「唐獅子」
材料:ケヤキ(丸彫)
小松源蔵作/文久3年(1863)
屋台:大江島屋台(魚吹八幡神社)
写真は大江島屋台のもの。