嫌煙家と割れた灰皿
10/31/2021
静かな午後だった。
平日の昼下がりというのは得てして穏やかなものだ。多くの者が職場や学舎、または娯楽の場へでかけている。加えてその日は、天気も良く、冬にしては柔らかな空気を通り抜けてきた日光が、リビングルームを暖めていた。ソファに沈んで本のページを捲る宗三の足元で、クッションを抱えて床に座る亀甲が、ぼんやりと窓の外を眺めていた。キッチンでは、通いの家政夫をしている不動が夕食の準備をしている。その物音と、規則正しい時計の音が、静けさをいっそう確かなものにしていた。
秒針が音を立てる時計は、宗三が亀甲を引き取ってしばらくしてから買ったものだ。それから特に買い換えることもなく、その時計はもう何年もリビングルームで働いている。
宗三が成人した年のことだった。
兄の江雪が長となって、二、三年ほど経っていた。そろそろ代替わり後の落ち着きが染み出してこようという頃、役員が一人処分された。笑ってしまうほどお粗末な話で、江雪を殺して組を我が物としようと画策したところを、話を持ちかけられた者がすんなりと捕らえて江雪に引き渡した。顛末は詳しくは聞いていないが、最終的に彼は墓に入ったらしい。彼の部下だった者たちが片付けのために彼の住居を訪れ、そこで見つけたのが亀甲だった。十八歳だと自称する亀甲は、江雪の元へ連れて行かれた。綺麗な顔をして、明るい色の長い髪を一つにまとめて、突き出されるように連れてこられた亀甲は、乱暴な扱いを受けながらも、表情一つ変えなかった。彼を飼っていたのだろう男が死んだと告げた時にこそ、
「そうなのかい?」
とほんの少しだけ驚いた素振りを見せたが、そのすぐ後には、荷物をまとめてあの部屋を出ていくから、せめて数時間くらいは猶予が欲しいと言っただけだった。行く宛はあるのかと尋ねた江雪に、これから探すとにこやかに答えた亀甲は、事も無げに続けた。
「ぼく、顔がきれいでしょう?住むところに困ったことは無いんだ」
たしかに好かれる顔だ、と宗三は思った。柔らかな作りをしていて、本人もあえて隙を見せるような言動をしているように感じた。見たところ、身体も丈夫そうだし、肝も据わっている。江雪は、そんな亀甲を見て一つため息をついた。もしかしたら、本人よりもこの状況に憂いている。いつもの事とは言え、本当は人道的に倫理的に道徳的に公序良俗に従い生きていきたい類の人間なのだ。宗三はそんな兄を慮る気持ちを半分、好奇心と気まぐれを残りの半分に充てて、自分が亀甲の面倒を見る、と宣言した。
その日、そのまま持ち物を引き取りに行った亀甲は、一時間もせずに宗三の車に戻った。少しの着替えと歯ブラシを詰めたエコバッグを二つ、それだけだった。まあ、そういう事もあるだろう。必要なものはこれから買い足せばいい。宗三はそう思って、何も言わずに亀甲を連れ帰った。朝から出ていたマンションに、夕方前に戻った。ドアを開けると、不動が出迎えてくれた。江雪の住む本家を出る前に連絡して頼んだ通り、使っていなかった部屋の片付けと掃除を済ませておいてくれた。亀甲と不動を引き合わせた後、宗三はそのまままっすぐに、空き部屋に亀甲を連れて行った。
「あなたの部屋です」
そう言うと、亀甲は初めて驚いたような顔をした。それでも何も言わないので、宗三は部屋の説明を簡単にした。クローゼット、電気のスイッチ、窓の開け方、ベランダ。
「カーテンはどんなのがいいですか?」
「…え?」
「カーテン。遮光がいいとか、何色がいいとか、あるでしょう?」
「べつに、なんでも…というか今までこの部屋、カーテン無かったのかい?」
「あったに決まってるでしょう。9階とはいえ、覗かれる趣味は無いんです」
「じゃあそれで…」
エコバッグを下げたまま、困ったように言う亀甲に、宗三は大きく大きく、ため息をついて見せた。宗三も、愛想がいい方ではないし、どちらかと言うと怖いと言われることの方が多い。案の定、亀甲は肩を少し緊張させて、後ろに下がろうとした一歩を、どうにか理性で止めた様子を見せた。
「今までがどうだったのかは知りませんけど、僕はお人形遊びがしたくてあなたを連れてきた訳じゃ無いんです。強いて言うなら…そうですね、あえて言うなら、うーん…」
そう言うと、宗三は腕を組んで、亀甲を上から下まで眺めた。自分と亀甲の関係を、どう言うのがいいだろうかと悩む。おそらくここで言葉を間違えると、後々修正するのは手間だろう。目の前の、エコバッグたった二つ分の私物を全財産とする男。十八だと言っているが、童顔なので高校生と名乗っても通りそうではある。伸ばした髪は誰の趣味なのだろう。着ている服だって、彼自身の好みではないかもしれない。何にせよ、カーテンひとつ選べないのは、あまりにも張り合いがない。わがままが過ぎるならばやりようがあるが、やる気がなさ過ぎるのは鬱陶しい。宗三は、そういう考えの持ち主だった。
「あなた、犬飼ったことあります?」
宗三が尋ねると、亀甲は首を横に振った。
「犬とか…猫でも何でも、新しく何かを引き取る時って、寝床とか食器とかおもちゃとかトイレとか、ちゃんと新しく買い揃えるんですよ。特に猫なんかは、色々買ってみても全然見向きもされなかったりするらしいんですけど…でもあなたは人間なんだから、何が好みなのか本人に聞いた方が効率もいいし手間もかからないでしょう。寝床は…しばらく僕の布団にしましょうか。突然連れてこられた場所で一人で放り出されるのも不安でしょうから」
「え!?」
「で、カーテンはどんなのが良いんですか?よくわからないなら現地で決めますか。見たところ疲れてもなさそうですね。じゃあ行きましょう」
宗三は何だかすこし面倒くさくなってしまって、亀甲にエコバッグを置かせると、不動に一言告げて、亀甲をホームセンターへ連れて行った。
結論から言うと、亀甲は、星空の模様の遮光ではないカーテンと、床に置いて座る大きな茶色のクッション、深緑の絨毯、ベビーピンクのマグカップ、ふわふわの白いスリッパ、小さなテーブルと椅子、程よいサイズの本棚、手触りのよいタオル、柔らかくも硬くもない枕を買ってもらった。宗三がいちいち欲しいかどうかを尋ね、どれが良いのかを尋ね、本当にそれでいいのかを尋ねるのを繰り返していると、亀甲は何が欲しいのかを言うようになった。車に収まらなかったクッションと本棚、それから絨毯の配達手続きをして、そのまま今度はスマートフォンを買い与えられ、ようやく帰路についた。
マンションのドアを開けると、今度はただいまと言うようにと言われ、亀甲はとても小さな声でただいまと言った。帰宅に合わせて準備された夕飯が食卓に並んでおり、ダイニングテーブルには三人分の食事が並べられていて、不動も一緒に食べるのだと知った。手洗いうがいを済ませた宗三と亀甲がテーブルにつくと、不動がご飯をよそって、お茶を出してくれた。
「お箸買うの忘れましたね。明日買いに行きましょう」
「え、お箸も…?」
「あ、お箸使えないとかですか?」
「使える…」
「そうですか」
そんな言葉を交わしながら不動が席につくのを待って、夕食の時間となった。人の手によって作られた、肉じゃがと豚の生姜焼きと、なすのおひたしと、なめこのお味噌汁、それから納豆と漬物と、白米だった。手を合わせていただきますを言いなさいと言われ、亀甲はまた、小さな小さな声で、いただきますと言った。昼食を食べられなかった亀甲は、食卓で空腹を思い出した。ちらりと向かい側を窺うと、向いに座った宗三と、その隣の不動が、生姜焼きのレシピを変えてみたという話をしている。まるで、普通の夜ご飯みたいな光景だと思った。亀甲が箸を持ったまま動けずにいると、二人はふと、会話を止めた。
「悪い、食べられないものあったか?」
「とりあえず今日は、食べられるものだけでいいですよ」
そう言われ、亀甲は慌ててご飯茶碗を手に取った。
「食べられないものはないよ。おいしそうだなあって思って見てた」
いただきます、ともう一度言って、亀甲は白米に箸を入れた。ふわふわで、湯気が立って、つやつやしていた。口に入れると少し熱くて、甘くて、やわらかくて、鼻の奥がつんとした。まるで自分が生きているみたいに、ご飯がおいしかった。
その夜、亀甲は、宣言通りに宗三の大きめのベッドに寝かされた。明日は健康診断に行くから早く寝なさいと言われ、日付が変わった頃には消灯となった。亀甲はできる限り端に寄ろうとしたが、夜中に落ちたら僕が起きちゃうでしょうと言われ、ほどほどに端に寄ったあたりで身体を落ち着けた。知り合ったばかりの人間と同じ布団で寝るのが嫌ではないのかと宗三に尋ねると、
「こう見えて僕強いので、何かしようとするのはやめた方がいいですよ」
と返ってきた。よくわからないまま、亀甲は布団に入った。宗三は早々に眠ってしまった。組長の弟ともなると、ものの感じ方が少し特殊なのだろう。亀甲はそう結論付けて自分も眠ろうとしたが、結局何度かうとうとできただけで、熟睡などできるはずもなかった。
翌日、宣言通りに、宗三は亀甲を病院へ連れて行った。病院といっても組の関係者で、昨日の今日で健康診断をしてくれるような場所である。柄通クリニックという名前の、どうやら一般人も訪れる病院で、薬研という医者に言われるがままに健康診断をこなした。血液検査や尿検査の結果は後日出るからと言われ、その日は帰宅した。ホームセンターも疲れたが、ほぼ寝ていない状態での健康診断はさらに疲れたらしい亀甲は、帰宅するとリビングの床に座り、ソファにもたれて一息ついているようだった。自分の部屋にクッションがあるのにと思いながら宗三は好きにさせ、自分にはコーヒーを、亀甲にはほうじ茶をいれた。
「そんなに疲れました?」
「うん…」
亀甲は本当に疲れているようで、目を閉じたまま、ぐったりとしていた。やれやれ、とソファに落ち着いた宗三がその頭を撫でてやると、しかし、亀甲は突然目を開くと宗三を見上げた。半開きになった口が動かないのを見て、宗三は片眉をひょいと上げた。
「何か?」
「えっ…ううん…なんでもない…」
最後には消え入りそうな声になりながらそう言うと、亀甲は元の姿勢に戻った。差し出されたつむじを見て、宗三は、その頭をまた撫でてやった。
亀甲は、何が欲しいとか、何をしたいとか、そういう事を全く言わなかった。聞かれたことに答える以外にも、何も言わなかった。食欲はあるし、三日目あたりからちゃんと眠れるようになったようで、幾分か血色がよくなった。餌付けというのは本能に効くのか、宗三と打ち解けるよりも先に不動に心を許したような気配もあった。順番などどうでもいい。最終的にこの暮らしが亀甲の日常になるのだから。宗三はそう思いながら、自分用のコーヒーの淹れ方を亀甲に教えた。ぼんやりとばかりしているかと思ったが、宗三に付き合ってテレビを見たり本を読んだりしていると、亀甲は徐々に色々なものに好奇心を持っていったようだった。本が欲しいとかそういう事はまだ言わなかったが、宗三がでかけている時に、不動と映画を見たり、料理を習ったりもしているらしい。ただ、家から出るなと言ったわけでもないのに家から出ようとしない様子が、少し気にかかった。
数日後、薬研から健康診断の結果を聞いて戻ってきた宗三は、不動を買い物に行かせると、亀甲とダイニングテーブルを挟んで座った。全ての検査で異常なし、とっても健康だそうです、と告げた宗三に、亀甲はいつものように笑って頷いた。しかし、
「ただ、あなた背中に、」
宗三がそう言った途端、亀甲はぎくりと肩を強張らせた。それに気づかないふりをして、宗三は続ける。
「火傷のあとがいくつか、あるんですって?」
それが火のついた煙草を押し付けられたものであろう事を、宗三はあえて口にしなかった。亀甲はしばらく、決まり悪そうにしていたが、少し困ったようにへらりと笑った。
「うん、ぼく…ときどき灰皿だから…」
「誰の?」
「お母さんとか、あと色んな人。泊めてくれたり、ご飯くれたりした人…」
「そうですか」
亀甲は、江雪の前に突き出された時のような顔をしていた。全てを宗三に委ね、その言葉を待っている。きっとここで宗三が出ていけと言えば、彼はまた、エコバッグ二つぶんくらいの荷物を持って、出ていくのだろう。宗三はそれが、無性に気に入らなかった。
「今更ですけど、親御さんは?」
「いません」
「いつから?」
「いつからだろう…小さい時はいた気がする」
「家は?どこで育ったんですか?」
「家…?ええと…」
尋ねれば、きちんと答える。それはこの数日間で、宗三にもわかっていた。口籠る時は、待てば口を割る。それもわかっていたので、亀甲が居心地を悪そうにしても、宗三は許す事なくじっと待った。
「ぼく、お店のトイレで生まれたらしいんだけど…そこのお姉さんたちが育ててくれて…」
きっと、繁華街のどこかの店だろう。そういう話を聞くのは、宗三も初めてではなかった。
「あの男のところへはどうやって?」
二人の出会いの発端となった男の名を告げると、亀甲は少しうつむいた。
「ある日突然あの人がお店に来て、お母さんを指名したんだって。でもお母さんは居なかったから、探したらしいんだ。それで探してるうちに、ぼくの事を知ったらしくて…顔が似てるからって連れていかれたんだ」
「それ、いつくらいの話ですか?」
「去年のはじめだよ」
「あいつもあなたを灰皿にしてたんですか?」
「うん…たまに…でも、髪を伸ばしたらやめてくれた」
「なるほど」
宗三は、組んでいた足を組み替えた。
色の違う二つの瞳で、じっと、目の前の男を見た。
彼ときちんと目が合ったのは、初めて頭を撫でてやった時の、あの一度きり。
「僕に嘘を吐かない、僕に隠し事をしない、外出する時は不動か僕に行き先と帰宅予定時間を告げる。この三つが守れるなら、僕の家族にしてあげましょう」
指を三本立てながらそう告げると、亀甲は顔を上げた。逸らされる事なく、その目がじっと宗三を見ている。
「…家族?」
「ペットは家族でしょう?大富豪でも趣味でもないから、何から何まで買ってあげるとかそういう事はしませんけど、あなたが喜ぶ事はしてあげてもいいし、何か困った事があったら助けましょう。その代わりあなたも、僕を大事にしてくれないとだめですけど」
「…え…?」
「誰かの灰皿になることがあなたの幸せなら、止めはしませんが…」
「なんで…」
「聞いてなかったんですか?僕、江雪兄様に、あなたの面倒を見ますって最初に言ったんですけど」
「……?」
亀甲は声も出せなくなったのか、ぱくり、と口だけを動かした。けれど相変わらず、宗三ときちんと向かい合っていて、宗三は、亀甲の瞳が変わった色をしているのにもようやく気づいた。まつげも長いし、亀甲が自分で言っていたように、見れば見るほど綺麗な顔をしていると思った。
「あなたの顔、嫌いじゃない。お行儀もいいし、暴れたりもしない。トイレもお風呂も自分でできるし、コーヒーも淹れられる。好き嫌いも無いし、健康。僕との距離をとるのも上手」
「う、うん…」
「生き物を飼う時は、責任を持って最後まで、って言うでしょう?僕は最初からそういうつもりだったんですけど」
「そうだったの!?」
「逆に聞きますけど、あなたはどういうつもりだったんですか?」
宗三が畳みかけると、亀甲はまた、中途半端に口だけ動かした。もしかしたら、呼吸も止まっているかもしれない。宗三が首を傾げることで先を促すと、亀甲は突然、下を向いてもじもじとし出した。
「ぼくは…とりあえず…その……放り出されるまではご飯食べさせてくれるかなって思って…」
「なるほど」
ぴしゃりと、宗三は声を出した。もともと、そんなに気の長い方でもないし、亀甲もそのあたりは既に理解しているはずだ。少し俯いたまま、そっと、宗三を窺った。
「わかりました。じゃあとりあえず、放り出す予定が無いのでうちの子になるということで。さっき言った三つ、守ってくださいよ。ここから出ていきたいなら、うまくやりなさい」
「わ、わかった…」
亀甲が少し頬を染めて頷くのを見て、宗三は満足した。見計ったように不動が帰ってきて、大事な話はそこで終わった。
それからまた数日が経った頃、宗三がリビングで雑誌を読んでいると、亀甲がそろりとその足元に座った。
「あの…名前、聞いてもいい?」
「は?」
言われ、宗三は心底驚いた。そういえば、不動のことは紹介したし、亀甲の名前は初日に聞かされていたので知っていた。けれど、自分は名乗っていなかったかもしれない。まさか、そんな事がありえるだろうか。いや、あった。宗三は、心底、心の底から驚いた。
「だめならいいよ…」
「宗三といいます」
「なんて呼べばいい?」
「好きにしなさい」
「わかった…」
わかったと言いながらも、亀甲はその場を動かずに、もじもじとしていた。不思議に思った宗三は雑誌を閉じ、亀甲の頭を撫でた。相変わらず、手触りが良い。
「宗三くん…あの…」
「何ですか?」
「時計、なんだけど」
「時計?」
「うん、あの…もし、よければだけど…かちかち言うやつがいいんだ…」
言われ、宗三はテレビの上に掛けられている時計を見上げた。秒針が連続して一周するタイプのもので、音はしない。特にこだわりがあるわけでもなく、ずいぶん前に適当に買ったものだ。
「いいですよ。どんなのがいいですか?」
「かちかち音がすれば何でもいいよ」
「僕はあなたの好みを知りたいんです」
言いながら、宗三はテーブルに置かれていたタブレットを亀甲に渡すと、ロックナンバーを亀甲に告げた。
「使い方はわかりますか?」
「うん」
「いいのが見つかったら教えてください」
宗三がそう言って雑誌を手に取ると、亀甲は狼狽えながらも、壁掛け時計を検索し始めた。
そうして買ったのが、今もリビングで音を立てている壁掛け時計だった。宗三は、亀甲が時々その時計を眺めては機嫌をよさそうにしているのを知っている。
時計を買ったそのあとから、亀甲は髪を切りたいと言ったり、散歩に行きたいと言ったりするようになった。許可は取らなくていいから好きにしろと伝えると、伸ばしていた髪をバッサリ切り、気まずそうに伊達メガネをねだった。宗三がメガネを買ってやると、今度は少しずつ外に出るようになった。約束した通り、きちんと行き先と帰宅時間を告げ、その通りに帰ってきた。宗三に嘘を吐かないという約束は守り、しかし不動にはたまに嘘を吐いているようだと宗三が気づいた頃、亀甲は、与えられていたスマートフォンのカメラロールを、宗三に見せに来た。
「宗三くん、この人たち、知ってるかい?」
そこに映った者たちは、江雪に牙を剥こうとして死んだ男を、唆した者達らしい。宗三はその何人かを知っていた。組の者だったからだ。どのようにその情報に行き着いたのかを問いただせば、亀甲ははにかみながら笑った。
「ぼく、変な知り合い、わりと居るから…」
それは、亀甲なりの恩返しのつもりらしかった。宗三は亀甲のもたらした情報の裏を取り、江雪に伝えた。彼らの処遇は、推して知るべし。それを機に、亀甲の存在は少しずつ認められることにもなり、宗三は亀甲をよく褒めた。
亀甲は、相変わらず窓から外を見ている。もうすぐ見られるであろう、夕焼けになりそうな絶妙な色を、亀甲は好んだ。柔らかな山吹色と薄紅色の色彩は、亀甲の背中に彫られた大きな菊に使った色にも似ている。
ーーー宗三くん、刺青をいれる仕事をしてるって聞いたんだけど
あの頃、亀甲はまだ、欲しいものを上手く言えなくて、それでも一生懸命な様子は伝わってきて、それがとても好ましかった。
ーーーぼくもやってほしいって言ったら、やってもらえるの…?
もじもじとする亀甲に、もちろん、と答えた宗三は、どんな刺青がいいのかを亀甲に尋ねる事はなかった。刺青だけは、宗三の彫りたいものを彫ると決めていたし、亀甲もそれをわかっていた。
静かな午後だった。
冬にしては柔らかな空気を通り抜けてきた日光が、リビングルームを照らしていた。
秒針が音を立てる時計は、もう何年もそこで働いている。ソファにクッションが増えた時も、亀甲がマグカップを落として割った時も、ホラー映画を見て不動だけが顔を青くした時も、ずっと、同じようにそこにあった。
亀甲の部屋には本が増え、パソコンが増え、リビングには観葉植物が増え、薬研からの土産の木彫りの熊が増えた。亀甲のクローゼットも少しずつ埋まっていって、亀甲のスマートフォンに色々なアプリが追加された。何のはずみか、ある時宗三が据え置きゲーム機を買ってきたりもした。どれだけ物が増えて、どれだけ思い出が増えても、亀甲の部屋にベッドが増える事はなかった。
不動がリビングに顔を見せ、少し買い物に行ってくると告げた。宗三と亀甲は、いってらっしゃいと手を振った。宗三が本に視線を戻すと、そのすぐ近くで亀甲が宗三を見上げていた。特に理由は無かったのだろうと思う。そういう顔をしていた。宗三は気まぐれなので、そのまま顔を近づけていった。
亀甲はそういう時、時計の音が聞こえなくなる。
教えられた通りに目を閉じながら、宗三もそうであればいいと、密かに思った。
〜おわり〜