落ちぬ椿
1/7/2017
やあやあ、我こそは!
つい先刻、髭切の耳を楽しませたその名乗りは、この場からは跡形も無く消えている。
「ありゃ…」
髭切は刀を納めて、口からはそうこぼした。おそろしげに身を固くする仲間達を横目に確認すると、刀を納めて自らの後ろに居るようにと伝える。あれは———膝丸は、兄がその背に守るものには手を絶対に出さない。
戦はその作法よりも勝敗を重んじ、雅やかさを失って久しい。勝つためならば何をしても良いという考え方は、歴史修正主義者達も強く持っている。けれど刀剣男士達はその品格と気高さ故に、形振りをそれなりに構うものが多かった。
勢いの弱まった雨をその頬で感じながら、髭切は近づいてくる一期一振へ声をかける。
「帰還の準備を」
「わかりました」
部隊長からの指示を承った一期一振は、傷ついた弟達に声をかけながら、本丸の審神者へと連絡を取った。空は相変わらずくらい。雨足が再び強まる前に、皆で本丸へ戻ってひとっ風呂浴びたいものだ。右肩にしがみついている弟の左腕の肘から先は、その本体から離れてなお、その執念を隠す事をしない。右肩を握る弟の手に力が入った気がして、髭切はそっとその手に自らの掌を重ねた。
不覚をとったのは髭切だったと思う。
検非違使が出るかもしれないというのは、事前に聞かされていた。短刀三振を連れたこちらを笑うように、検非違使ばかりと遭遇した。進軍の命を下したのは部隊長である髭切だ。少しでも全員の練度を上げるのが今回の出陣の目的だったからだ。髭切は、存在を失うか否かの境界線を見極めるのに長けていた。おそらくはいくつもの落花にその目で、耳で、肌で、触れてきたためだろう。まだ行けるという判断は、決して驕りではなかったし、間違いでもなかった。仲間達は少なからず傷を負っていたが、痛みのない成長から得られるものは、痛みの伴うそれには遠く及ばない。他の刀剣達も、もちろん審神者も、髭切のその手腕を信頼していたし、万が一への備えとして部隊に入れられた一期一振も了承した上での進軍だった。一度二度、考え直してみるが、そこには何も落ち度は無かった。
では何かと言えば、髭切が太刀を受けた際に力を入れた足が、ぬるりと泥で滑ったことだろう。
よくよく考えれば、「兄」が二振も居るこの部隊では、生温いと言えども普段よりも安全な道を選んだ方が良かったのかもしれない。体勢を崩してまさに泥に膝を着かんとした時、髭切は漠然とそう思った。相手の力量、自らの傷の具合、仲間の、膝丸の現在位置を考えるに、まあ散る事は無いだろう、とも思った。どういった呪いなのか、刀剣男士というものは手入れさえ受ければ隅から隅まですっかり元通りになるのだ。手伝い札とやらが切れている場合は少しばかり時間はかかるが、それにしたって千年の時を生きた髭切にはあっという間の事だった。
ああ、下手を打ったな、と、己の未熟を心に刻んだ、その、一瞬にも満たない間に全ては起きた。
突如として右側から現れた何かに肩を突き飛ばされながら、ごりりと鈍い音を聞いた。雨をすり抜けて髭切に届いた血しぶきがとても親しみのある気配をしていて、それが膝丸のものだというのはすぐにわかった。突き飛ばされてから土に塗れるまでに見たのは、遠のいていく鬼の顔。鉄の香りの飛沫が髭切に触れては冷えていくその隙に聞こえる、人の身が発したとは思えない吠え声。雨粒が目に入って視界がゆらいだその一瞬で、膝丸は目の前の太刀を蹴り飛ばして襲いかかって行った。
ぬちゃりと泥の中に身を沈めたが、髭切はすぐに起き上がって体勢を整える。
「ありゃ…」
髭切は刀を納めて、口からはそうこぼした。おそろしげに身を固くする仲間達を横目に確認すると、刀を納めて自らの後ろに居るようにと伝えた。一期一振が彼の弟達を見やればよく訓練されたもので、彼らはすぐに従った。その視線の先では、膝丸の左腕が、泥の上を這って髭切へと近づいてくる。見れば、その切り口は美しさとはほど遠く、鈍らで力任せに叩き切られたのだと分かった。髭切は肩をすくめて笑うと、その腕を拾って右肩へ置いてやった。離すものかとばかりに上着の上から髭切にしがみつくその左腕に、粟田口の面々が顔色を悪くしたのを見て、まだまだ彼らも見た目に重きを置く年頃なのだなと髭切は思った。
「帰還の準備を」
「わかりました」
普段から兄者兄者と髭切にくっついて回る膝丸が髭切への執着を見せる事を不思議がるものは、この場には居ない。けれど髭切には分かっていた。もしあの状況で足をとられたのが髭切ではなく一期一振であったとしても、膝丸はこうして、考えうる限りの枷を全て投げ捨て「兄」を救っていただろう。隣に並んで共に悲願を果たせなかった兄弟の無念を、膝丸はその身に強く受けている。少なくとも二回、源氏兄弟と曽我兄弟により。一方は兄に目の前で死なれ、もう一方は兄に追い詰められ。どちらの時も、膝丸は弟に振るわれ、兄を求めて泣く彼らの傍らにあった。
その膝丸が、「兄」の窮地を良しとする道理が無い。おそらくは右肩にへばりついている腕一本であろうとも、髭切に何か起きようとすれば変化なりなんなりして暴れ出すに違いなかった。
見る間に敵を殲滅した膝丸は、そのぎらりと見開いた目で髭切を捉えた。瞬きもせずにいたのだろう、平時の涼やかさなど見る影もなく、その目元は赤く血走っている。髭切の背で、短刀が小さく息を飲む気配がした。髭切は一期一振に目配せをすると、一期一振は本丸へと続く道を開き始める。長居は無用だ。
膝丸は無言で、その鋭い牙を隠しもしないままに髭切へと歩を進める。その額に、角が生えていない事が不思議なくらいだった。膝丸は髭切の前まで来ると、そのまま立ち尽くす。どうして良いのか分からないのかもしれなかったし、髭切を髭切だと理解しようとしていたのかもしれなかった。道が開くのを待つ短刀達の目の前で、髭切は刀を抜くでもなく、静かに口を開く。
「控えよ」
その言葉に、膝丸は弾かれたように口を閉じた。慌てて刀を納めようとするが片手では上手くいかず、それでも丁寧に刃を自分へ向けて地面に刀を置いて膝を着いた。目を閉じて、うやうやしげに頭を垂れた膝丸は、大人しく次の言葉を待っている。短刀達がその様子を見守る傍で、本丸への道が完全に開いた。
「傷を癒し、身を整え、沙汰を待て」
「…は」
一期一振が短刀達に道を渡らせている間、膝丸はずっと頭を下げていた。髭切も、それ以上は一言も言わずに膝丸の頭を見ていた。一期一振が声をかけると、髭切は膝丸の右腕を掴んだ。
「ほら、帰るよ…ありゃ…いちにい君、すまないね、ちょっと手伝ってくれるかな」
髭切に声をかけられ、一期一振が慌てて駆け寄ると、膝丸は意識を失っていた。まずは膝丸の刀を鞘に納め、二人掛かりでその身体を抱えて歩き出す。
「いやはや、お強いですな」
一期一振がしみじみとそう言うので、髭切は少し笑ってしまった。
「きみも『兄』なんだから、この子と出陣する時は気をつけてね。ああなってしまっては、元に戻せるのは僕か…うーん、あの父上丸くらいかな…?」
「…よくわかりませんが…肝に銘じます」
「そうそう、まずはその意気」
道を渡り切った途端に、雨は止み、晴天が頭上を覆った。非番だったのであろう仲間達が、湯を張った桶や手ぬぐいを手に待っていてくれた。道が閉じ、膝丸を岩融が軽々と抱え上げたところで、髭切の肩にくっついていた腕がぽとりと落ちた。
「おっと」
髭切はその腕を慌てて受け止めると、ひと撫でして、膝丸に持たせてやる。
「お前の腕なのだから、大事におしよ」
腕になのか膝丸になのかそう語りかけ、髭切は膝丸を見送った。
膝丸の手入れは、すぐに終わった。
腕のちぎれる大怪我だったが、札を使って一瞬で元通りだ。このおこないが、膝丸はどうも苦手だった。自分が人の身でないことは重々承知しているが、こうも気味悪く修復がなされるというのも、貪欲に人の心を食らって育つ妖のような気分になってしまう。髭切も似たように思うところがあるのかもしれない。髭切はいつも、手伝い札の使用を断っている。札が使用されるのは、髭切自身が拒否をできない状態———つまり、意識が無いか、声も出せないほどの重傷の場合のみだ。目覚めた時に髭切が未だ手入れ中だったので、彼は比較的軽症だったのだと知れ、膝丸は安堵の息をついた。その後は湯を浴び、それから水を浴びて身を清めた。髭切が手入れを終えるまではと全ての飲食を断ち、居住まいを正して自室で座っている。
記憶の最後にある髭切は、沙汰を待てと言っていた。
膝丸は先ほどから、緊張のために何度もその喉を鳴らしている。
咄嗟の事とは言え、横から突き飛ばしてその身を泥に浸してしまったし、ちぎれた腕が散らした赤で随分と汚してしまった。その後も卑しく兄を求める左腕をその右肩で慰めてくれたし、忘れていた我をすんなりと返してくれた。怒り狂った自分はさぞおぞましく映った事だろう。あの琥珀のような澄んだ瞳は、そのような濁りに触れさせてよいものではないというのに。
刀解されろと、言われるのかもしれない。せっかくこの本丸なる場所で、再び髭切とともにあれると思ったのに。浮かれすぎたのではないか、阿呆な膝丸。自らへの罵倒は止めどなく溢れてくる。膝丸が唯一縋る事のできる蜘蛛の糸は、審神者の存在だった。この特殊な場所では、髭切が何と言おうと、審神者が諾としなければ刀解は行われない。
どのように審神者に懇願しようか、という考えに移ったあたりで、髭切が部屋を尋ねて来た。どうやらそれなりに時間が経っていたらしい。髭切が障子を開けるより早く、膝丸は畳に手をついて頭を下げた。
「ありゃ」
がたがたと音を立てながら足で障子を開ける髭切をちらりと盗み見れば、その手には茶器の乗った盆がある。膝丸は今度は驚く程の早さで立ち上がるとその盆を受け取った。そこからは流れるように湯のみに茶をいれ、兄の前に差し出す。
「やあ、ありがとう」
髭切はといえばいつも通りで、動きやすい内番着でどかりと腰を下ろした。膝丸は、改めて膝丸の正面に、足を整えて座った。今にも平伏しそうなその背筋を見て、髭切はふと笑った。
「膝丸、顔を上げて」
そう言われてしまえば、膝丸はおずおずと顔を上げるしかない。せめてもと目を伏せたままでいたが、視線すらも髭切に持ち上げられ、膝丸は、泣きそうになりながらまた、喉を鳴らした。
「ありがとね、助かったよ」
「えっ…」
「腕、痛かっただろう?ずっと僕にくっついててくれて、心強かったよ」
「あぁぁにじぁ…」
「いいこいいこ」
「あにじゃー!」
髭切は、膝丸をぎゅっと抱え込むと、馬にするよりもずいぶんと柔らかく、その頭と背を撫でた。それまでの緊張やら何やらから解放された膝丸は、感極まってなお、兄の背に腕を回す事はしなかった。ただ、その腕の中で震えている。髭切は、じんわりと笑みを深くした。
「お前の、腕」
同じように声も深くして、口元まで引き寄せた膝丸の耳へ、重く重く沈む言葉を溶かして流す。
「白い椿のようだったよ」
~おわり~