おだやかにほつれを縫う
8/22/2023
「…よくもまあ、」
部屋の空気が一瞬にして沸騰し、しかし同時に凍りついた。実休のみつめる先で、宗三は先ほどと変わらず微笑んでいる。
「そのような事が言えたものです…」
「宗ーーー」
「しばらく僕の前に顔を見せないで。声も聞きたくありません」
宗三はそう言うと、サッと立ち上がって部屋を出て行った。静かに開けられた障子は閉じられることなく開け放たれて、静かな庭で草木がさざめいている。怒ったのだろうか。投げかけられた言葉を思い返し、実休はそう考えた。しかし宗三の仕草は常のままに穏やかで、声を荒げるでも、足音を立てるでもなく、障子だって力任せには扱っていない。それでも、部屋に残る空気は穏やかとは言い難く、忘れてしまったはずの織田やかさが肌を撫でている。
卓上の香炉が吐き出す煙を眺めながらぼんやりとしていると、おそらく先の宗三の気配を感じたのであろう、薬研と不動が廊下から顔を覗かせた。連れ立ってきたのか、今そこで合流したのかは、わからなかった。
「何かあったか?」
薬研は尋ねながら部屋に入り、不動は部屋の中をすっと見回した。
「たぶん…怒らせたんだと思う…」
「そうか」
薬研が目配せをすると、不動は部屋を出ていった。おそらく、宗三のところへ行ったのだろう。彼はおそろしく配慮に長けた刀だ。きっと今の宗三も、話をしやすい相手であろう、と実休は思った。静かに障子を閉めて遠ざかる足音に、薬研は腰を下ろす。つい先程まで、宗三が座っていた場所だ。薬研は宗三の湯呑みを見て、少し脇へよけた。
「何やったんだ」
薬研は、怒るでも笑うでもなく、いつもの調子だった。薬草の効能を確かめるような、八つ刻の菓子を吟味するような、そういった塩梅だった。宗三はたしかに気分屋ではあるが、この身を得てそろそろ八年、未だかつて一度も、彼が本気で怒りを表すところは見た事が無い。実休は実休で他人を怒らせるような言動をする性質でもないし、けれどどこかぼんやりとしたその様子に、きっと意図せず、石垣の隙間を突くような何かをしてしまったのだろうと、薬研は思った。
「わからない…」
「一緒に休憩でもしてたんだよな?」
「うん」
「なんの話をしてたんだ」
「えーと…」
実休は、じっと香炉を見つめた。そろそろ、香は燃え尽きただろう。万屋で宗三に買ってもらったこの香炉はとても不思議なもので、練り固められた草を燃やすと、煙と一緒にふんわりとした『におい』が出てくる。実休はこの『におい』というものに興味を持っていて、草のにおいや食べ物のにおい、戦場のにおいや鍛刀部屋のにおいなど、鼻と呼ばれる部分が拾う様々な気配を楽しんでいた。
「僕や薬研が燃えた時の匂いって覚えてる?っていう話を…」
「…」
「しようとした…」
「そりゃまた…どうして」
「こないだやったBBQとか…花火とか、このお香とか…。火と一緒にでてくる匂いって鼻に残るじゃない…。だから、僕たちも燃えたからさ、そうだったのかなと思って…」
実休は、いつもまるまりがちなその背を強張らせるでもなく、淡々と言った。薬研は、大きなため息をつきそうになって、慌てて口元を手で覆う。実休は、怒らせようとしたのでも、悪意があったのでもない。ただ、知らなかったり、気づかなかったのだ。実休は他者を気遣うことのできる者だから、ただ、教えてやればいい。宗三もそう思って、叱責などはしなかったのだろう。実休が顕現直後に作った薬草茶という名の、干からびた草を煎じた汁を、ニコニコと飲み干すような刀なのだ。もしかしたら、宗三が抱えたものは、怒りとは少し違うのかもしれない。
「…なにがだめだった?」
薬研が飲み込んだため息を、実休は嗅ぎ取った。この段になってようやく、困惑を眉に乗せ、緊張が肩を縛り始めている。薬研は少し困って、はは、と力無く笑った。
「お前さんはどうなんだ?俺っちの燃えたにおいを、覚えてるか?」
「え?うん…いや、…うん?」
自分が宗三に投げかけたのと同じ問いを与えられて、実休はとっさに頷いた。けれど頷いて下を向いたまま顔を上げず、首を傾げる。
「刀だった頃、俺達にゃぁ鼻なんぞ無かったろ」
「そう…だけど…。じゃあなんで僕、人の血の匂いは覚えていたんだろう…」
「そりゃあ、鼻で感じるのじゃない『におい』ってこった。偵察する時にも感じるだろ?気配みたいなもんだ」
「…うーん…よくわからない…」
「はは、まあそれは、そのうちわかるようになるさ」
薬研は、実休が顔を上げるのを待った。実休は、そう、と一つ頷いて、すぐに顔を上げた。
「他に、覚えているにおいはねぇか?」
薬研に問われ、実休は考えた。考えて、ぼやけた記憶の中から何かを思い出そうと目を閉じる。それからしばらくそうしていたのを、薬研は静かに見つめていた。この本丸で宗三と再会してもうすぐ八年。不用意な言葉で、宗三を傷つけたことがあった。今ならわかる。あの時自分は宗三を怒らせたのではなく、傷つけたのだ。きっと今回も、実休は宗三を怒らせたのではなく、傷つけたのだろうと思った。薬研の見守る先で、実休は、ゆっくりと目を開き、ついでに口も少し開いて、顔を上げて薬研を見た。薬研は、今度こそ、困ったような、迷ったような、諦めたような、それでも愛しむような、そういう顔で笑った。
「思い出したろ、自分の燃える匂いを」
薬研に言われ、実休が呆然として何も言えないでいると、部屋に不動が戻ってきた。廊下から声をかけて障子を開け、中の様子を見ると、少しだけ肩をすくめて見せた。
「相当だよ」
その一言で、実休は丸まっていた背をもっと丸めた。
「謝りに行けそうか聞いてみたけど、許すとか許さないとかじゃなくて、とにかく落ち着くまで待ってって」
不動はそう言いながら部屋に入って、スン、と鼻を鳴らした。先程まで焚いていた香が、きっといい具合に染みてきている。不動は腰を下ろすと、実休に尋ねた。
「何やってあんなに怒らせたんだ?あんな宗三初めて見たよ」
「いや…。たぶん、怒らせたっていうか、こわい思いをさせてしまったんだと思う…」
それを聞いて、薬研も実休をまっすぐに見る。きっと実休はまだ、心が傷つくというのがどういうものかよくわかっていない。だからそのことをこわいものだと表現したのだろう。その事に、少しハッとした。傷つくというものはいたいだけではなくて、きっとこわいのだ。そうであれば、いたくてこわい思いをしている宗三の側にも居てやりたい。薬研がそう思って立ちあがろうとすると、不動がそれを気まずげに止めた。
「…言いにくいんだけど、薬研にも会いたくないって」
「え」
「俺、状況がわかってないからなんでなのかかわからないんだけど、とりあえずそう言ってたよ」
薬研が浮かしかけた腰をまた落ち着けると、実休がとても小さな声で「ごめん」と言った。
「たぶん僕が…薬研の名前も出したからだ…」
雨の日に捨てられてずぶ濡れのまま路地裏に立ち尽くす子犬のような顔で言われてしまえば、薬研も不動も次の言葉がすぐには出せなかった。
「しばらくは俺と無骨がちょいちょい側にいるようにするよ」
不動がなんとかそう言うと、薬研と実休は頷いて頭を下げた。
それから三日間、薬研と実休は宗三と顔を合わせることはなかった。出陣や内番も誰かしらと交代してもらっていたようで、薬研も実休も、何をしたのかと興味を持たれたり持たれなかったり、慰められたり励まされたりしながら過ごした。長谷部は何かを言いたそうにしていたが、一言にまとまらなかったようで、何故か誰よりもピリピリとした雰囲気を纏っていた。とはいえ皆、本丸生活は長い。長谷部は彼らを心配しているだけなのだと、理解していた。
酒飲み達は、宗三を酒席に誘ってはするりと断られ、代わりに薬研と実休に酒を飲ませた。ちらほらと存在する、様々な理由で宗三に憧れを抱く刀達などは、けれどどうしていいかわからず、遠くから心配を寄せた。古い付き合いである初期刀や仲間達は、日々の任務に支障が出ないのなら何も言わないという態度を見せながら、彼らに気を配った。そしてこの本丸の主である審神者も、気をかけつつも、ただ見守った。刀剣の中には気性の荒い者ももちろん居て、誰かが怒ったり喧嘩したりという事はままある。皆、いざこざを経験しながらお互いの距離を学び、掴んでいくのだ。各々それを理解はしていたが、当初からこの本丸に存在していながら今まで深刻ないざこざを起こしたことが無かった宗三を、参陣したばかりの実休が怒らせたらしい、という状況だったので、普段よりも少しお節介だった。
結局、四日目になって宗三は江雪に呼ばれ、二人で万屋街へ出かけて行った。その後ろ姿を、薬研と実休は物陰から見ていた。実休の背は、日に日に力無く丸くなっていった。燭台切も福島も、それをかっこわるいとは決して言わず、その背を優しく叩いた。薬研はといえば流石の胆力なのか、普段と全く変わらなかった。宗三の事を話題に出された時だけ、困ったように笑った。きっと薬研は、宗三は必ず落ち着きを取り戻すと信じていたし、実休は、そのあたりのことをまだよく知らなかった。そういう事なのだろうと、皆思った。
万屋街から帰ってきた宗三は、実休が入り浸っている薬研の部屋を訪れた。二人して黙々と薬草を薬や茶にする作業をしているところに、スパンと小気味よく音を立てて襖を開け、不機嫌なのかご機嫌なのかよくわからない無表情のまま、返事も待たずに部屋に入る。置かれているちゃぶ台の定位置に腰を下ろし、小さな包みをその上に置いた。
「茶菓子です」
宗三がぶっきらぼうにそれだけ言うと、実休は背を伸ばした。
「お茶をいれるね…おいしいのを…」
薬研は、湯を沸かし始める実休を目の端にとらえながら、久しぶりの宗三をじっと見る。宗三はそんな薬研を見て、思わずといった風に笑うと、彼の定位置となっている場所の畳をぽんぽんと叩いた。薬研はパッと笑うと、ちゃぶ台へ移動する。
「久しぶりだな。息災だったか?」
「僕はあなたに弱いんだから、そんな事を言わないでくださいよ」
「宗三が健やかなら、他のことはどうだっていいさ」
薬研が安心したように茶菓子の包みを開けようと手を伸ばすと、実休が湯気の立つ湯呑みを三つ、盆に乗せて運んできた。
「宗三…あの…」
「早く座りなさい」
「うん…」
促されて、実休も湯呑みを配って腰を下ろした。薬研の開けた包みからは、色とりどりの金平糖が出てきた。宗三は早速それに手を伸ばして、ぽりぽりと噛み砕きながら薬草茶を口に運ぶ。香りに満足したようで、ふうと息を吐きながら、コトリと湯呑みをちゃぶ台に置いた。
「宗三、ごめんね…」
するりと、実休が言った。
「何がです?」
「僕はきっと、こわい思いを、させたんだろうと思って…」
「まぁ、そうですね」
「だから、ごめん」
実休は、そう言いながら、頭を下げた。宗三は自分に向けられたつむじを見ながら、もう一つ、金平糖を口に入れる。
「僕のなかで消化ができていないので…許すとも許さないとも、言いませんよ」
ぽりぽりと音を立てて、甘いばかりの棘は、宗三の口の中で溶けていった。
「だから、あなたの謝罪も必要ありません。悪意があったわけでもないでしょう。事故でした」
実休は、頭を上げたが、そのまま首をかしげた。ちらりと薬研を盗み見るが、薬研は穏やかな瞳を向けるばかりで、助け舟は出してくれない。
「…あなた達が燃える匂いを、覚えているかと言いましたね」
宗三が、静かに口を開いた。
「よくは覚えていませんが、きっとすぐに思い出しますよ。次に誰かが死ぬだろう時には」
宗三は、いつものように笑った。茶の味を褒めてくれる時のように、実休の知らない事を教えてくれる時のように。それからずず、と茶を啜った。
実休はその日、味のわからない金平糖を食べた。心持ちによって口の中が鈍くなるなどとはまだ知らず、その日宗三が買ってきた金平糖の味を、実休がこの先に思い出すことは無い。ただ、とげとげとしたものが口の中でほろりと崩れる感触は、きっと、ずっと忘れないだろうと思った。
〜おわり〜