君の好きな毛糸を教えてほしい
2/13/2020
その日、亀甲貞宗は洗濯当番だったので、抜けるような青空を見上げながら濡れた衣類を干し、部屋でセーターの毛玉を取っているところだった。料理当番は昼の片付けを終えて夕の準備に取り掛かろうとしていたし、畑や厩の当番から帰ってきた者が、ちらほらと風呂場へ向かっていた、そんな頃合いだった。審神者と近侍が執務室から飛び出してきたかと思うと、手隙の者に手入れ部屋へ資材を運ぶように言付けながら、自身は手入れ部屋へと走って行った。すわ何事かと、皆が皆、指示に従って手入れ部屋を整え、資材を運び、湯や布を持ってゲートへ走った。亀甲貞宗はちょうど洗濯当番だったので、清潔なシーツを両手に抱え、断ち切り鋏を懐に入れて、応急処置の要である薬研藤四郎を探しながらゲートへと向かった。
程なくして、ゲートから光が差した。部隊の帰還を告げるそれに包まれて、馬が泡を吹きながら走り込んでくる。身体の大きな者が駆け寄って馬を止め、埃まみれの仲間を受け止めた。六頭の馬が厩へと導かれていき、意識のない二振と重傷の二振が手入れ部屋へ担ぎ込まれ、そしてその場で中傷の応急処置を受けている一振が、シーツを細長く破りながら薬研に近づく亀甲の姿を見つけると、まだ荒い息の中、火を付けたように泣き出した。
一振分、足りない帰還。
にっかり青江が破壊されたのだと聞かされて、その日、亀甲は、にっかりはもう、本丸へは帰ってこないのだと思った。
声を大にして言い回らずとも、多くの刀剣達が、にっかりと亀甲が浅からぬ仲だということは知っていた。それは亀甲が服の下に持つ秘密と同じで、当人がそれについて大っぴらに触れないから、皆も無理には暴かなかった。
けれど、なにかを知ると知らずとでは見える世界が大いに異なる。
騒ぎが収まった頃、ようやく二人のことを思い出した歌仙が亀甲の様子を見に行くと、亀甲は、毛玉取りの作業へ戻っていた。この本丸で刀が破壊されたのは初めての事で、火急の措置として、しばらくの出陣は取り止めとする旨が審神者から達されたばかりだった。洗濯や畑、料理や厩など、取り止める事のできないものは、そのまま続けるしかなかった。その日、亀甲は洗濯当番だったので、他の洗濯当番と、作業に戻ったのだった。作業に戻った亀甲は、数刻前と変わらず、セーターの毛玉を取っていた。
「亀甲、きみ…大丈夫かい?」
洗濯当番の者たちの気遣わしげな視線を察し、歌仙が亀甲に声をかけると、亀甲は、少し首をかしげた。
「?うん、大丈夫だよ」
その様子があまりにいつも通りで、歌仙の背筋は冷たくなった。亀甲は隠し事の上手い刀ではあるが、それだけでは無いような気がした。けれど本丸の初期刀として審神者に呼ばれていたので、歌仙はすぐに洗濯部屋を去った。亀甲の様子を告げると、審神者は赤く潤む目をして、皆辛いと思うが亀甲の様子に気をつけてやってくれと、また一つ涙をこぼした。
亀甲の日常は、淡々と続いていった。当番があればきちんと働き、時間ができれば散歩をしたり、本を読んだり、誰かと過ごしたりした。刀剣男士は破壊されれば綺麗に消えてしまうので、形ばかりではあるが作られたにっかりの墓に、花を添えたり、おやつを持って行ったりした。
刀であった頃、どんなに大切にしてくれた人間も、こうやってある日突然居なくなって、そして次の持ち主がやってきた。誰が居なくなろうと、世界は無くならないし、歴史は止まらない事を、亀甲は知っていた。今までにっかりと過ごしていた時間は、他のことで埋まっていった。にっかりが拾ってきてくれた形のいいどんぐりは、部屋に飾ってある。にっかりが使っていた湯飲みを、何故か燭台切が亀甲に渡してきたので、それも今は亀甲の部屋にあった。刀であった頃、いなくなったもののことは心の中にしか残すことができなかったが、今はこうして、色々な形で、身の回りににっかり青江が残っていた。ともに思い出話をできる、仲間さえたくさん居る。亀甲は、ただぼんやりと、にっかりはもう、この本丸へは帰ってこないのだと思った。
審神者も、歌仙も、貞宗の兄弟刀も、数珠丸や、石切丸も、にっかりが破壊された日からずっと、それとなく亀甲の様子を見守っていた。本丸全体が、少しずつ、けれど確実に傷を癒していく中で、果たして亀甲のなくしたものがどれほどのものなのか、誰もわからなかった。亀甲は、何も変わらず、時々にっかりの墓を訪れては、けれど穏やかなまま日々を過ごしていた。
取りやめとなっていた出陣が再開され、亀甲が部隊に組み込まれた時も、亀甲は恙無く任務を終えて帰ってきた。毎日変わらず当番をこなし、食事をして、風呂に入って、部屋の掃除をして、読書をして、仲間と過ごして、規則正しく眠った。時々、にっかりの墓の前でぼんやりとしているのを誰かが見つけ、声をかけた。亀甲はいつも静かに、
「にっかり君は、もう帰ってこないんだね」
と言った。
その日も、亀甲は洗濯当番だったので、ゆだるような青空を見上げながら濡れた衣類を干し、部屋でセーターの毛玉を取っているところだった。外では蝉が鳴いていて、それは、毛玉取り機の音に似ていた。洗濯当番になるたびにいつもセーターの毛玉をとる亀甲を、みな、静かに見守った。春になって、梅雨が過ぎても、亀甲はいつも、セーターの毛玉をとった。すっかり綺麗になって、もう一つも毛玉は残っていない。けれど、毛玉取り機をジージーと鳴らして、亀甲はその日もセーターの手入れをしていた。亀甲は、変わらずに毎日を過ごしていた。食事をして、風呂に入って、部屋の掃除をして、読書をして、仲間と過ごして、規則正しく眠った。そして洗濯当番の日には、セーターの毛玉を取った。
料理当番が昼の片付けを終えて夕の準備に取り掛かろうとしていて、畑や厩の当番から帰ってきた者が、ちらほらと風呂場へ向かっていた、そんな頃合いだった。歌仙が、洗濯部屋を訪れた。その後ろには、にっかり青江が立っていた。
「やあ、さっき来たんだ。僕は二振り目なんだってね。色々思うところもあるだろうけれど、よろしくね」
庭では蝉が鳴いていて、部屋では皆が、にっかりに挨拶をしていた。
亀甲は、唐突に理解した。
にっかりは、二度と本丸へ帰ってこないのではなく、この世のどこにも居なくなってしまったのだ。
にっかりが拾ってきてくれる形のいいどんぐりは、もう亀甲の部屋に増える事はないし、亀甲の部屋にある湯飲みを、彼が使う事はもう二度とない。せがまれて編んだこのセーターをいくら綺麗に整えたところで、彼がこのセーターに腕を通す事は、二度と、無い。時々足を運ぶにっかりの墓は空っぽだ。刀剣男士は、破壊されれば綺麗に消えてしまうのだから。季節はいつの間にか夏だった。その移ろいを、亀甲はきちんと過ごしてきたはずだった。
にっかりと最後に食べたのは、たしかあの日の朝食だった。味噌汁の中でネギが縦に浮かんでいて、茶柱みたいだと笑ったのを覚えている。いってらっしゃい、当番がんばって、と、軽く抱き合って背中を叩き合った。それが最後の、彼の温度だった。並んで食べたおやつの味を、今もはっきりと覚えているのに、直前に食べたはずのその日の昼食がなんだったのか、亀甲は思い出せなかった。紫陽花を最後に見た記憶には、きちんとにっかりが居た。それはきっと、この夏の記憶ではない。亀甲を慈しみ、亀甲が寄り添ったにっかり青江は、もう、この世のどこにも存在しないのだった。もう、桜の咲く、ずいぶん前から。
ぼくは、亀甲貞宗。
何事もなかったように名乗ろうとして、けれどそれは声にならなかった。息を止めてしまった亀甲は、にっかりを見つめたままの瞳から、感情という感情を溢れ出させた。
キシリ、と、内側から音がした。肌の下を、その音が這い回っている。
「ぼくは、亀甲、貞宗」
いつものように笑って、ようやく音になった声でやわらかく名乗ったはずが、やけにぼんやりと、ガサガサして、引き攣って届いてしまった。目の前のにっかりは、じっと亀甲を見つめた。
「うん」
にっかりは笑って、手を差し出した。求められるままに、亀甲はその手を握った。
「よろしくね、亀甲くん」
にっかりの手は暖かくて、亀甲の手を握る力には遠慮があった。きっと、何もかもを見通したのだろうと、亀甲は思った。いつだってそうだ。亀甲はにっかりに、隠し事ができない。亀甲が何も言わないから、にっかりは無理に暴かないだけだ。
涙は、呆れるほどに止まらなかった。空っぽなのはにっかりの墓ではなく、この身体の内側なのだと思った。きちんと挨拶をして、またねと別れて、当番の仕事に戻らなくてはいけなかった。なのに、震え続ける手は、逃げるようににっかりを離した。
「君、まるで幼子みたいだね」
にっかりは、少し困ったように笑った。
「僕、幼子は大切にしようと決めているんだよ。知ってたかい?」
亀甲は、ようやく目元を拭って笑った。
「知っているよ、同じことを言われたんだ」
その日亀甲は、にっかり青江がもう居ない事を理解した。それは、愛が無ければ感じることのない、深く、熱い、痛みだった。
当番に戻った亀甲は、セーターの毛玉取りを、もう、しなかった。
~おわり~