夜空にあいたのぞき穴

6/10/2019



三日月と名乗るとんでもない美人と出会ったのは、会員制のSMクラブだった。

その日、ぼくは一つ大きな商談を終えたところで、少し疲れていた。けれど真っ直ぐに家に帰る気にはなれなくて、その場所でのんびりお酒を飲みながら、ざわつく人々を眺めていた。紳士淑女の集まるその会員制のクラブはとてもきちんとしていて、入会時のバックグラウンドチェックはもちろん、クラブでの素行、それからクラブ外でばったり顔を合わせてしまった時の言動なんかも厳しくチェックされる。会費だって決して安くは無いから、メンバーが裕福層である事は大前提で、なおかつ教養と知性と品格がある者ばかりが集っている。そんな人たちが集まって何をするのかと言えば、太陽の下では口にできないような遊びをしている。大人になると、大好きな遊びを他人から隠さなければいけなくなる事もあるのだと、ここで時を過ごす者たちはみな知っているのだ。

ぼくはここへ来ても、特に何に参加するわけでもなく、ざわつく人々を眺めている事が多い。ごくごく稀にそういう気分になる相手がいれば、そりゃあちょっとくらいハメを外してしまう事もあるけれど、それは本当に数える程度だ。それでもここに通うのは、太陽の光では満足できないような貪欲な人間が、ぼく以外にもたくさん居るのだと実感したいのかもしれない。ここへ来ると、心が安らぐ気がするからだ。

ぼくはその日も、二階の隅のテーブルで、柴漬けをつまみながら日本酒を飲んでいた。そのクラブは下手な居酒屋よりもよほど品揃えが良いので、その日の気分で飲みたいものや食べたいものを出してもらえる。そういうところも気に入っている。静かでも煩くもないBGMに混じって、鞭の音や平手打ちの音が聞こえていた。そこへぽりぽりという柴漬けの音も加わって、ぼくの気分は少しずつ上向きになってきていた、その時だった。

「やぁ、ようやく見つけたぞ」

突然、とんでもない美人が目の前に現れた。この場所に居るのだから当然と言えば当然なのだけれど、一目でオーダーメイドとわかる暗い色のスーツ(クラブ内の照明は一部を除いて落とされていて、色ははっきりとはわからないのだ)をすらりと着こなして、ビジネス用に撫で付けた髪がほんの少しだけ崩れていた。その美しい顔はあたたかく笑っているのに、柔らかく光る瞳はぼくを刺すように見ていた。彼は何も言わずにぼくの向かいに座った。

「俺は、三日月という」

「はじめまして」

ここに居る者は全員、このクラブで使うための名前を持っている。彼のそれが、三日月なのだろう。

「そなた、名をなんと言う」

随分と、時代劇のような話し方をする人だなと思った。そなた、などと、それまで呼ばれた事はなかった。

「亀甲」

尋ねられたので、ぼくは仕方なく名乗った。もちろん由来は縄の縛り方から。ぼくはここでの遊びの中では、縛られるのが一番すきだからだ。

「そうかそうか」

名乗ると、三日月さんは目を細めた。少し、怖かった。そういえば、ようやく見つけたとか言っていたのだとふと思い出した。探されていたのだと知ると、背筋に鳥肌が立った。できる限り卒なく帰ろうと、最後の柴漬けに手を伸ばした。せっかく良い気分になりかけていたのに、ついていない日だ、とか何とか考えていたと思う。

「どうだ亀甲、このじじいと一杯やらんか」

目の前の麗人のどこをどのように表現すると「じじい」になるのか全くわからなかったが、ぼくはきちんと笑えていたはずだ。

「残念だけど、そろそろ帰らないと」

「帰る?どこへだ」

「どこって…自宅だよ。帰る場所って言ったらそうでしょう?」

「なるほどな。しかし、帰る場所ではあっても帰りたい場所ではないのだろう?」

先ほどまで刺すようだった瞳が、今度は探るように光った。

「だからこんな時間にここで一人、酒を飲んでいるのだ。違うかな?」



結論から言うと、ぼくの舌では彼に勝てなかった。

下手に騒いでしまえばもうクラブへは入れてもらえなくなってしまうし、自宅と言っても、誰が待っているわけでもなければ、朝帰りを叱られる年でもない。強引にぼくを連れ出そうとするこの三日月という男も、クラブへ出入りできる身分の者であるのならきちんとした紳士であるはずだ。そんな事を必死に考えて自分を何とか安心させようとしながら、そして、いざというときはスマートフォンの緊急発信なんとかという機能を使うしかない、と、ジャケットの内ポケットに入っているスマートホンの存在を再確認しながら、三日月さんに連れられてクラブを出た。

連れていかれたのは彼の家だった。文化財か何かに登録されていそうな家で、夜も遅いというのにお手伝いさんが一人、起きていた。ぼくたちは醤油煎餅を食べながら、熱いお茶を飲んだ。連絡先を聞かれてやんわりと断ると、ならせめてと名前を聞かれた。嘘を許されていないのがわかって、ぼくは正直に名乗った。名前があれば、充分なのだろうと思う。こんなお屋敷に住んでいるのだから、名前と年頃、少しの見た目の特徴さえあれば、ぼくがどこの誰で、電話番号くらいまでは簡単にわかってしまうはずだ。流石に今日明日で引越をするつもりは無いが、変えたばかりの携帯電話の番号を、また変えなくてはと思った。

煎餅がなくなったところで、その日は解放された。迎えを呼ぼうと取り出したスマートホンに、あれよあれよと屋敷の住所と三日月さんの連絡先が追加された。出会ったばかりの人に個人的なデバイスを使われたくはないので、操作をしたのは、さすがにぼくだったけれど。

入力された住所まで、迎えを呼んだ。二十分ほどして車が到着すると、三日月さんは門まで見送りに来た。ナンバープレートを覚えたかったのだろうなと思いながら、ぼくは車に乗って、その日は今の実家へ赴いた。よくわからない美貌の大富豪に目をつけられたかもしれない事を、念のため報告せねばならなかった。

「おえりなさいやせ」

家に到着すると、深夜だというのに玄関前に出迎えがあった。深夜だからこそ声量は控えているのだろう。野太い声が余計に低く感じられた。

「ただいま。お邪魔するよ」

出迎えに来た者を労って、すっと開けられた玄関のドアを気にすることなく歩みを進めた。流石に義父も義母も眠っていたから、話は朝にすることにした。

「若、何か飲まれますかい」

「いらないよ、ぼくはもう寝るから、お前たちもやすみなさい」

「うす」

簡単な会話を交わして、ぼくは自室の扉を閉めた。その日、ぼくは一つ大きな商談を終えたところで、そもそも少し疲れていた。シャワーを浴びて、布団に入り、三日月という男の事を少しだけ思い浮かべた。ぼくに探りを入れて相州組に辿り着き、組長の養子だと知ったら、あの綺麗な顔で、どんな言葉を吐くのだろう。

馬鹿な男だ。

ぼくは目を閉じた。すぐに朝が来てしまうのだろうけれど、それでも目を閉じて、布団の中でまるくなった。



滞りなく日は明けた。休みである事はわかっていたけれど、ぼくはいつもの時間に起床した。起きるのが遅いと、一日が短くなってしまう気がするからだ。身なりを整えて食卓へ向かうと、義父と義母が揃ってお茶を飲んでいた。

「おはようございます」

「あ、来てたんだね。今ごはんを用意するから、少し待っていて」

養母がそう言って台所へ向かうのを、義父は新聞を読みながら見送った。側にいた者が、手伝うために義母の後を追う。義父は言葉数の少ない人なので、義母が戻ってくるまでは食卓には沈黙が居座っていた。慣れるまでは少し怖かったこの静けさも、義父は怒っているわけでも機嫌が悪いわけでもないのだと知ってしまえば、特にどうという事もなかった。

用意してもらった朝食をいただきながら、三日月という男に出会った話をした。義父母は揃って驚いたような顔をした。知り合いなのかと尋ねると、会った事は無いが知り合いだと返ってきた。よくわからなかったが、そういう事もあるのだろうなと思った。何せ二人は、いわゆる組長と、いわゆる極妻なのだ。まだまだぼくの知らない事が、たくさんあるに違いなかった。

それからついでに、まとまった商談の内容を義父に報告して、ぼくは自宅へ帰ろうとした。「帰ろうとした」という言い方になってしまったのは、実際には帰る事ができなかったからだ。野太い声で挨拶をされながら玄関を出て、裏口から車を出してもらおうと庭を横切って歩いた先で、うちの物ではない高級車が留まっていた。三日月さんだろうな、と思いながらさりげなく気づかない振りをしようとしたが、後部座席の窓ガラスが開いて、三日月さんが顔を出した。

「やあ」

声をかけられてしまうと、気づかない振りもできなかったし、義父母の知り合いだと言われてしまっては、無視する事もできなかった。

「亀甲、おぬしなかなか意外な素性だなぁ。ご両親に挨拶をしても良いか?今日は休みなのだろう?実はおぬしの秘書殿とは、古い付き合いでなぁ」

輝くような美しい笑顔でそう言われてしまえば、ぼくは断るのが少し怖くて、とりあえずの笑顔で頷く事しかできなかった。ぼくの秘書くんと知り合いだったのが本当かどうかはわからないが、義父母と知り合いなのだとしたら、それも不思議では無いだろうと思った。ぼくはそれまで色々な土地を転々としてきたから、「古い知り合い」というものに憧れを抱きこそすれ、そういう知人友人は一人も居なかった。だから、ほんの少しだけ、それが羨ましかった。

下車した三日月さんを伴って来た道を戻りながら、近くの者に車を車庫へと案内させた。出て行ったはずのぼくがすぐに戻ってきたので、玄関近くに居た者が慌てて出迎えに来た。義父母への来客を告げ、今朝話した男だと伝えて欲しいと頼むと、彼は奥へとすっ飛んで行った。三日月さんは草履を脱ぎ、着流し姿でひょいひょいと玄関を上がってきた。この極道の家にあって、着物を嗜む者は殆ど居ないから、なんだか新鮮だった。そんな三日月さんを連れて、客間へと移動した。足の運び、重心の動かし方から、彼は何か武道を嗜んでいるのだと分かった。ぼくはもっぱら喧嘩殺法しか知らなかったが、この家に引き取られてからは、きちんと剣道も合気道も習った。色々な事を学ぶと、色々な事がわかるようになる。三日月さんの歩き方を見ていて、ぼんやりとそう思った。

義父母に三日月さんを紹介すると、二人は何故だか大喜びで、義母に至ってはぜひ昼食を食べていって欲しいとまで言い出した。ぼくは少しびっくりして、義父をちらりと見た。義父は、少し呆れたような少し面倒くさそうな、けれど目立って反対意見の無い様子で、なるほど、会った事は無いけれど知り合いだというのは、本当らしかった。

昼食を食べながら聞いた話によれば、三日月さんの本名は三条宗近というらしかった。大変な地主さんだそうで、実は働かなくても大丈夫なのだけれど、何もしないのもつまらないので、大学を卒業後、数年間会社勤めをした後は、どこまでいけるかと人脈を広げまくってみたり、株で資産を更に増やしてみたり、趣味の和菓子作りのブログを作ってみたり(SNSはあまり使わないらしい)、色々な事をしながら、そしてあの古いお屋敷の手入れをしながら暮らしてきたそうだ。ご両親は健在だが旅行が大好きで、殆ど日本に居ないか、日本に居ても家には戻ってこないらしい。そんな環境で、よく道を外さずに生きてきたものだと感心していたら、探し物をしていたから、ぐれる暇など無かったと笑われた。笑いながら、意味深な視線を向けられたので、三日月さんの言う探し物というのが自分であるというのはなんとなく理解した。義父母もそれを知っていたらしく、義母などは少し涙ぐんで、よかったよかったと繰り返していた。

大変な事になったのはその後だった。

秘書くんと知り合いだというのは本当だったようで、三日月さんはぼくの隙間時間にことごとく姿を見せて、一緒に食事をしたり、移動時間に話をしたり、時にはコーヒー一杯のために現れたりもした。三日月さんは徐々に終業後や休日にも現れるようになって、お酒を飲みに行ったり、何故か釣り堀に連れて行かれて釣りをしたり、かと思えば動物園や水族館や、アイドルのコンサート、モータースポーツ観戦にも連れて行かれた。夏になったら山奥にある寺に行こうと言われ、その前に冬が来て一緒に初詣に行った。三日月さんと出会ってからのぼくは、それはもう忙しかった。のんびりクラブ通いなんかできなくて、ぼくはただ、されるがままに連れ回されて、随分と色々な場所へ行って、随分と色々な事をして、随分と色々な世界に触れた。もともと引きこもりがちなぼくは、そうやって、少しずつ、少しずつ疲れていってしまったのだった。







「亀甲ですか?まぁ…そうですね、元気なのは知っていますよ。ここには来ていませんとだけはお伝えしましょうか」

目の前で電話をしているのは、ぼくの数少ない友人の一人で、信長くんという。彼はお寺の三兄弟の次男坊で、歴史好きなご両親がその兄弟につけた名前は、上から、江雪(戦国時代に、平和を望んで奔走した人の名前らしい)、信長(言わずもがな、元気で聡明に育って欲しいとつけたらしい)、正信(次男の気性が思いの外荒かったので、陰ながら窘められるようにとつけたらしい)で、錚々たる三兄弟だなあといつも思う。

三日月さんに追い回され、連れ回されたぼくは、ある日、思い立ったが吉日とばかりに秘書くんにしばらく休暇をとると告げ、その足で現金を下ろし、一応ついているボディガードを撒いてここへ来た。電話番号は変更すれば足がつくと思い、新しい電話を買った。そこから信長くんに連絡をして、しばらく匿ってもらう事にした。前述の通り、信長くんはぼくの数少ない友人の一人なので、義父母や秘書くんは彼の連絡先を知っている。信長くんは大学卒業後に定職に就かず、翻訳やら、宝くじやら、バイトやらをしながらお寺の仕事を手伝っている。本人曰く「いずれめちゃくちゃすごい運命の人が迎えにくるので、適当にしてて大丈夫なんです」との事だが、その自信がどこから来るのか、正直なところぼくにはよくわからなかった。ぼくの周囲には平均とは少し違う人がたくさん居るから、今更その程度の事は気にならない。信長くんは息をするように嘘を吐いて、秘書くんからであろう電話を切った。ぼくはといえば、出されたお茶をのんびりと飲みながら、手土産にと持ってきたケーキを食べていた。

「ありがとう、助かったよ」

「別に。せっかく知り合いなんですしね、ケーキを買ってきてくれたので許しますよ」

短く言葉を交わして、しばらく二人で黙々とケーキを食べた。細かく選んでいる時間が惜しくて、ホールケーキを買ってしまったからだった。信長くんのご実家のお寺は大抵は静かで、森やお墓に囲まれて少しひんやりとしている。ぼくは夜のお寺は怖くて苦手なので、信長くんが電話をしている間に、近くのビジネスホテルを予約しておいた。布団があってお風呂があって、それから先立つ物がそれなりにあれば、あとの事はなんとかなるものだ。ここに来るまでに適当な着替えも買ったし、食事もしたし、ケーキだって手に入れた。

「で、なんなんです?」

心ゆくまでケーキを食べたのか、信長くんが満足げに目元をゆるめながら聞いてきた。彼のところへ転がり込むのは初めてではないけれど、そういえば、毎度毎度、根掘り葉掘り事情を聞かれる事を思い出した。

「何から話せば良いのかわからないんだけど…追われているんだ」

「えっ、あなたがここに居て、うちに危険は無いんですよね?」

「無いよ!それは大丈夫。追われていると言っても、実家絡みじゃなくて、何ていうか…」

言い淀むと、信長くんの目の奥が光った気がした。

「なるほど、最近誰かと知り合いましたか?その人に追われているのでしょう」

「えっ…、う、うん…」

「どっちですか?にっかりか…いや、逃げてきたと言うことは、三日月の方ですか?」

突然三日月さんの名前が出てきて、ぼくは本当に驚いた。

「信長くん、三日月さんの事知ってるの?」

「知ってるというか…まぁ、そうですね、古い知り合いです」

古い、知り合い。どうやら三日月さんという男は、古い知り合いがものすごくたくさん居て、何故かぼくのまわりにお知り合いの方々がたくさん居るようだった。

「いろんな人が、そう言うよ」

ぼくは少し怖くなって、きちんと時計が動いているかや、外がまだ明るいかとか、部屋の中に妙な影が無いかとか、とにかくそういう事に気をつけて辺りをそっと見回した。

「…まぁ、そうでしょうね」

信長くんはサーモンピンクに染めた癖っ毛を少しいじって、それから面倒臭そうにため息をついた。

「信じる信じないはあなたの勝手ですけど」

そう前置きをすると、逸らしていた視線をぼくへ戻して、正面からじっと見つめてきた。

「前世での知り合いなんです」

「…え?」

あまりに予想外の事を言われたので、ぼくは目をぱちくりとさせていたと思う。お寺の息子からそのような話を持ち出されると、笑っていいのかいけないのか、本当にわからなかった。不意に、古い壁掛け時計かボーンボーンと夕方の四時を告げて、信長くんは肩をすくめた。

「ま、それは今はいいでしょう。で、その三日月って人はどういう感じなんです?」

ぼくのわからない話が終わり、ぼくの知っている話になったので、ぼくは静かにお茶を飲んだ。

SMクラブに突然現れたこと、翌日には実家に来たこと、それからとにかく姿を見せては色々な所に連れて行かれたこと、ものすごくお金持ちらしいこと、何か武道を嗜んでいそうなこと…覚えている限りの事を、ひたすらに話した。信長くんは適当に相槌をうちながら、まとまらない長い話を全部聞いてくれた。ぼくの話が終わると、信長くんは、スマートフォンリングにつけてあったリアルな椎茸のストラップを指差した。

「それ、もらったんでしょう」

「…うん…お出汁のにおいもするけど、嗅ぐかい?」

「いえ、結構です。話を聞いている限り、三日月という男はどうにも身勝手でとにかく押せ押せな感じですよね。あなたそういうの苦手でしょう?ここへ逃げてくる程度には」

「…う、うん…」

ぼくは、信長くんが何を言おうとしているのか何となくわかってしまって、居心地が悪くなった。ミステリ作品で探偵に追い詰められる犯人の気持ちが、少しだけわかった気がした。

「それも捨てれば良いじゃないですか」

「………うん…、でも、」

「『でも』!ほらね、『せっかくもらったから』とか言うんでしょう?」

「……」

「僕は一目でわかりましたよ。あなたそういうの、今まで全然つけなかったじゃないですか。しかもそんな…何です?きのこ?」

「しいたけ…」

「椎茸ですか、まあ何でも良いですけど、特にあなたの趣味ってわけでもないストラップなんか付けちゃって、しかもせっかくもらったから捨てないとか言いましたよね」

「…うん……」

「もう一度ききますね。なんなんです?」

口調はぞんざいだし少し怒っているように聞こえもするけど、その実彼は別に怒っているわけでも苛ついているのでも無いことはわかった。チャラチャラしているように見えて、とても面倒見が良い男なのだ。

だからぼくも、適当な事は言えなかった。度数の高い酒でも煽るように湯呑みを空にした。

「…ぼくが…やさしくされるのに弱いって、知ってるでしょう!?」

けれどやっぱり中に入っていたのはお茶だったので、望んだ勢いを得ることはできず、両手で顔を覆うことしかできなかった。



それから二週間ほど、ぼくはお寺の裏にある畑の世話や、墓地の掃除、本堂の雑巾がけなどを手伝いながら過ごした。仕事は元々あってないような物だし、ぼくがいないとできない事があんまりない。秘書くんも良い感じに処理してくれているだろうし、本当にぼくが必要な状況になったら、きっと信長くんに連絡が来るだろうと判断した。家に戻れば、また三日月さんと会わなければならないだろうし、きっと不在だった間のことを細かく細かく聞かれるのだろうと思うと、なかなか帰る気にはならなかった。三日月さんのことは好きだけれど、だからといって大丈夫なことと、そうでない事がある。信長くんのお兄さんの江雪さんは、何も言わずに好きにさせてくれた。弟さんの正信くんも、時々じっと見てはくるものの、何も言わずにいてくれた。信長くんは、畑仕事や掃除をしながら、ぼくの話をたくさん聞いてくれた。それから、これは今回初めて聞いたのだけれど、彼の待っているという「めちゃくちゃすごい運命の人」とやらの話をしてくれた。会ったことがないはずの人の事を事細かに描写するので、ぼくは少し心配になったけれど、江雪さんや正信くんが何も言わないのなら、きっと大丈夫なのだろうと思った。兄弟というのは、目立って仲が良くなくても、お互いの事を大事に思って、気にかけているのだそうだ。信長くんが、以前そう言っていた。

そろそろ帰らないといけないかな、と、考え出した頃だった。ぼくたちは畑で、カラス避けの派手な目玉のような飾りを設置していた。丸く円を描く銀色の部分が太陽の光を反射して、ギラリと光っていた。

「やぁ、亀甲や」

突然呼ばれて、ぎくりとした。振り返れば、間違いなく三日月さんがいると思って、ぼくはその場で立ち尽くした。そろりと視線で信長くんを探すと、立ち上がって汗を拭きながら、ぼくに向かって肩をすくめた。

「久しぶりですね、三日月」

信長くんが三日月さんにそう声をかけるのを、ぼくは背中で聞いた。

「おお…!このような所に居たのか、久しいな。江雪と小夜は一緒か?」

「ええ、兄と弟です。兄は今出かけていますが、小夜は家に居ますよ。会いますか?にっかりも、久しぶりです」

「やあ、お久しぶり。今は行成っていう苗字なんだよ」

「あだ名はユッキーですか?」

「ふふ、わかっちゃうかい?」

知っているような知らないような名前が出てくる会話を、彼らはしていた。不意に、前世の知り合いだと言われた事を思い出した。もしそうだったとしても、きっと自分には関係のないはずだ、と、心当たりの全く無いぼくは思った。ぼくの知らない人がそこに居るのであれば、いつまでも背を向けているのは失礼だと思った。ぼくは、ため息を隠しながら振り向いた。

「久しぶり、亀甲くん」

三日月さんの隣には、若い男の子がいた。大学生くらいだろうか。髪を青緑に染めて、長い前髪が少し顔を隠していた。クラブで使う名前を、知らない人に使われたのは初めてだったので、知らず、肩に力が入った。

「…きみと、どこかで会ったかな…?」

攻撃的になってしまわないように極力気をつけながら尋ねると、彼は甘ったるい感じの目元を緩めて笑った。三日月さんの隣に居てもきちんとわかる程、顔が整っていた。類は友を呼ぶと言うから、美人は美人を呼ぶのかもしれない、と思った。

「こんな感じなのだ」

三日月さんは、困ったように行成くんに言った。行成くんは、三日月さんに嗜めるような視線を向けた。

「あのねぇ、彼は忘れる事を選んだんだから、当然だよ」

つい先ほど、きっと自分には関係のないはずだ、と思ったところだった。けれど彼の口ぶりでは、どうもそうでもなさそうだった。ぼくが何も言えないでいると、行成くんはぼくを見てにっこりと笑った。

「君の分まで僕が覚えているからね、心配は要らないよ」







菊、


紅葉、


十五夜、


雪、


囲炉裏、


梅、


桜、


藤、


向日葵、







「君の分まで僕が覚えているからね、心配は要らないよ」

にっかり君は、そう言って笑った。ぼくが、記憶を持って行かないと伝えた時だった。

歴史修正主義者との戦に、ぼくたちは辛くも勝利した。政府は、全ての本丸の解体と、全ての審神者の解任を言い渡した。審神者は皆、現世へと戻った。その際には、一振だけを念のための護衛として連れ帰った。それから、ぼくたち刀剣へのささやかな謝礼として、政府はぼくたちに人間への転生をオファーした。希望する者は、今一度人として生きられるように手配しよう、と。戦の名残で、かつてぼくたちが特命調査に赴いたような世界がそれこそ本丸の数ほどあったようで、一つの本丸につき一つの世界を提供された。歴史修正主義者が優勢だった世界は、彼らの消滅とともに消えてしまったけれど、政府軍が優勢だった世界は秩序を取り戻したらしかった。ある者は転生を望み、ある者は望まなかった。ある者は記憶を持っていく事を選び、ある者は選ばなかった。どういった業か、政府からは、転生後の家庭は経済的にも状況的にも安定しているものを約束された。ぼくは、ひとだったご主人様と同じように生きてみたくて転生を選んだけれど、ご主人様のいない世界は寂しそうだからと、記憶を持って行かない事を選んだ。

にっかり君とは、本丸では懇ろな仲だった。戦が本分ではあったけれど、それ以外のことも随分と経験した。人の身体を得て、こころというものが形を持ったようだった。美味しい食べ物を食べて、仲間と笑いあって、出陣や内番をして、そうして過ごしていると、刀だった頃とは違って、些細なことでぼくたちは変化していくのがわかった。特別に心を砕く相手が現れたり、以前はなんでもなかった事に酷く心を動かされたり、平気だった事が平気でなくなったり、また逆に、平気ではなかった事が平気になったりした。ぼくたちはそうやって出会って、心を交わした。にっかり君ならぼくが決めた事に反対はしないだろうとは思っていたけれど、彼はいつものように、その名の通りにっかりと笑って、じゃあ、僕が覚えていよう、と言ったのだ。ぼくは、とても大事にされていた。ぼくが、にっかり君を大事にしていたのと同じように。


それからぼくは人間になった。

約束されていた通り、愛情豊かな両親の間に生まれた。大富豪という訳ではなかったけれど、何不自由なく育った。両親には、だめなことはだめと叱られ、努力をすれば褒められ、失敗を受け入れてもらい、成功を一緒に喜んでもらった。ぼくはとても愛されていた。

その両親は、ぼくが五つの時に事故で亡くなった。ぼくは後部座席に乗っていて、奇跡的に大した怪我もなく生き残った。大人になってから調べ直して事故当時の写真を見たら、車の前半分はぐしゃぐしゃに潰れていた。そこに両親がいたのだなと思ったけれど、その頃ぼくは泣き方を忘れていたから、静かにファイルを閉じただけだった。生き残ったぼくは、親戚中を転々とした。両親が親戚と仲が悪かったわけではないのだけれど、引き取られる先々でたまたま不幸が重なって、ぼくはすっかり「不幸を呼ぶ子供」になってしまっていた。両親によってぼくのなかに蓄えられていた愛情は、聞こえてくる言葉や与えられる態度に、どんどんと吸い取られていって、とうとう底を突いてしまった。中学に入ってしばらくすると、ぼくは何故か、いわゆる不良と呼ばれる若者によく絡まれるようになった。最初はびっくりして何もできなかったが、養い親からもらっていた貴重な食費を巻き上げられると非常に困ったので、ぼくは徐々に喧嘩を覚えて行った。前世が刀剣だった事を知った今なら納得するけれど、ぼくはどうも筋が良かったらしく、徐々に喧嘩で有名になっていってしまった。なんとか喧嘩の日々から抜け出したくて、高校は偏差値の高い学校を狙い、更には奨学生を目指して、ぼくは喧嘩をしながらも一生懸命勉強をして、何とか志望校に合格した。ところが、ぼくの学校が変わったからといって絡んでくる輩の態度が変わるはずもなく、入学式の帰り道でまた絡まれた。奇遇な事に、そこへたまたま今の両親が通りかかって、ぼくを見つけると驚いたように駆け寄ってきて助けてくれた。そして何故か近くのファミレスに連れて行かれ、根ほり葉ほり色々な事を尋ねられた。その時から、義父には見事な龍の刺青があって、義母は眼帯をつけていた。明らかにその道の者であるという出で立ちに、けれど平静を装って接客していたあの店員は本当にすごいと、今でも思う。それからすぐに、ぼくは義父母に引き取られた。それが知れ渡ったのか何なのか、ぼくは道で絡まれる事は無くなったけれど、結局、高校でも友人はできなかった。放課後は暇だったので、実家の一角にある道場で、暇そうな人を見つけては稽古を受けていた。

亡くなった両親が、勉強ができる環境にあるのなら、しておいて損は無い、といつも言っていたのを、幼いぼくはよく理解していなかったけれど、義父母が大学に行きたいのなら行けと言ってくれたので、少し離れた土地の大学へ進学した。そうしてようやくひと心地ついてきた頃、ぼくは、唐突に寂しくなった。自分でも驚いたけれど、本当に寂しかった。そんなある日、居酒屋のバイト帰りにとぼとぼと歩いていたら、駅前で、会員制SMクラブスタッフ募集のチラシを渡された。随分と好条件だったので、気晴らしがてら全く知らない世界を覗いてみようという気になって、応募して、採用された。そしてそこで、信長くんと知り合った。

SMクラブでは、本当に本当に、本当に色々な事を学んだ。色々な意味で。本当に色々な意味で。昼間はオフィスで何食わぬ顔で働いているのだろう大人たちが、クラブで過ごして、少し幸せを取り戻したような顔をして出て行くのを、ずっと見ていた。大学を卒業して、実家の関連企業に就職した。もちろん、実家絡みの就職ではあったけれど、新人教育を終え、下働きを三年ほどして、今のポジションになった。ぼくが受け持つには若すぎるのではとか、経験がなさすぎるのではとか思ったのだけど、どうも組長の息子を部下に持つのが、幹部たちには苦痛らしかった。その頃にはぼくは客としてクラブへ出入りするようになっていたし、秘書くんも愉快な人だったしで、色々な事がどうでもよくなってきていた。望まれるままにポジションについて、仕事はぼくなりに精一杯やってきた。義父母はずっと、ぼくのことを見守って、それから慈しんでくれた。仕事もあって、家族もいて、毎日が平和で、けれどやはり少し寂しくて、犬か猫でも飼おうかな、と考えていた時だった。ふらりと寄ったクラブで柴漬けを食べている時に、三日月と名乗るとんでもない美人と出会ったのだった。






全てを思い出したぼくが目を覚ますと、ぼくは、変わらず畑に立っていた。隣には宗三くんが居て、目の前には三日月さんとにっかり君が居る。先ほど設置したカラス避けが風に揺れて、チカチカと三日月さんの顔を照らしていた。

「うわぁ…」

ぼくはびっくりした。びっくりしたので、変な声が出た。ふわっと、顔に熱が集まるのがわかった。きっとそれを勘付かれたのだと思う。にっかり君が笑った。

「思い出したかい?」

「うん…うわぁ、恥ずかしいな…ぼく…いろいろと…」

全てを思い出してしまえば、身の回りに覚えのある者がたくさん居た。これまでの自分の言動を全て見られて、見守られていたのかと思うと、穴を掘って埋まりたい程恥ずかしかった。同時に、これまでずっと、何も言わずにただ助けてくれていた彼らに、言葉にできない程の感謝を感じる。

「うわぁ…そっか…帰らないと…ぼく、すごい人を秘書くんに持っちゃってる…」

現世ではさすがに銀髪ではないが、その言動から言って、彼は間違いなく義母の縁者だろう。自分の人生、何がどうなっているのかを、もう一度ゆっくりと確認し直したい。

「では、俺と一緒に帰ろう。車で来ている」

まだぐるぐるとしているぼくの腕をとって、三日月さんがそう言った。ぼくに対してではなく、にっかり君に対してだった。にっかり君は、やんわりとその手を外させた。

「だから、そういう感じだから逃げられちゃうんだよ…亀甲くんはぼくと一緒に電車に乗ろう。少し話をしようよ」

「わ、わかった…」

「三日月、じゃあうちに寄って行ってください。いまの兄様は坊さんなので、坊主頭なんですよ。一見の価値はあります」

「え、それ僕も見たいな」

「にっかりはとりあえずそっちを何とかしなさい。今度ゆっくり遊びに来ればいいでしょう?僕半分ニートなんでいつでも大丈夫ですよ。三日月はうちで足止めしておきますから」

「こらこら、本人の前でそういう事を言うな…さすがの俺も少し傷つくぞ」

何故だろう、人になったからだろうか。以前ならばすっと落ち着かせることのできたはずの心を、ぼくはまだ御しきれないでいる。三人は何だかんだ言いつつ連絡先を交換していた。そしてぼくはとりあえず、にっかり君と帰る事になった。


とはいえ結局、寺務所に寄って江雪さんにも挨拶をしたので、にっかり君は坊主頭の江雪さんを見ることができた。それからホテルに寄って荷物をまとめて、チェックアウトをして、駅までタクシーを拾った。道すがら、にっかり君は彼のことを教えてくれた。実家は四国。大学進学と同時に上京して、現在大学二年生。ぼくに会えるかもと新宿を中心にバイトをしたり遊んだりをしていたら、周囲から何というかそういう認識を持たれつつあるらしい。政府の約束通り彼も不自由のない暮らしをしていたが、三日月さんのように大富豪というわけでもなく、ぼくのように極道というわけでもなかった。ぼくが通っていたクラブは一介の大学生が出入りできるような場所ではないので、今まで出会わなかったというわけだ。専攻を聞いたら、なんと医学部生だった。「身体についてよく知りたいじゃないか…臓器の事だよ?」と、懐かしいような言い回しで言われたけれど、医学部生というのはとても忙しくて勉強が大変だというイメージがある。にっかり君の事だから、いい感じにやっているのだろう。そんなにっかり君が何故信長くんの−−−左文字の寺に来たのかと言えば、三日月さんが突然現れて助けを求められたらしい。後で詳しく本人に聞かなければならないな、と思った。

駅に着いて指定席の切符を買って改札を通ってから、にっかり君に断って秘書くんに電話をした。スマートフォンの電源を入れた時点で、GPSにより居場所が伝わったと思う。これから帰ると伝えると迎えを寄こそうかと言われたので、友人と一緒なので新幹線で帰ると伝えた。誰と一緒にいるのかと聞かれ、そういえば、彼の今の名前を知らない事に気づく。

「あ…名前、なんていうんだい?」

小さな声で聞いたつもりだったけれど、電話の向こうの気配が少し鋭くなったのがわかった。ぼくは結構、過保護にされている。にっかり君はすぐに今の名前を教えてくれたけれど、秘書くんが電話を変われと言うので、ぼくはスマートフォンをにっかり君に渡した。

「こんにちは、にっかり青江だよ」

第一声で、彼はそう言った。ぼくは少しびっくりしたけれど、どうやら正解だったようで、それからにっかり君と秘書くんはしばらく何かを話していた。その隣で、ぼくは、にっかり君の手元で揺れる椎茸を見ていて、彼らの話はあまりよく聞いていなかった。

新幹線は空いていた。座席に座ると、いつもと違う眼鏡をかけて、マスクをした。にっかり君に、窓際に座ってもらった。そうしてにっかり君の方を見て話をすれば、通路から顔が見えにくい。スーツケースは所定の場所に置いてきたけれど、足元の鞄にはそれなりに色々入っている。ペッパースプレーとか、一見武器に見えない手頃な棒とか、そういう類だ。非常口の場所も確認したし、トイレもさっき見てきた。

「…きみ、本当にやくざの人なんだね」

にっかり君が不思議そうに言うので、ぼくは曖昧に笑うことしかできなかった。刀剣だった頃の記憶が戻っても、ぼくにとっては今の人生の印象の方が強い。人間として身を守る方法は、刀剣男士だった頃の身を守る方法とは、色々と違う。

「うん…色々あってね。聞いてくれるかい?」

「もちろんだよ」

新幹線がするりと走り出し、ぼくはこれまでの身の上をかいつまんでにっかり君に話した。最初は穏やかな雰囲気で話を聞いてくれていたにっかり君が、途中から少し険しい顔になってきたので、後半はアイスを食べながらになった。本当はお酒のほうが良いのだろうけれど、彼はギリギリ未成年だった。舎弟でもない未成年に、お酒を勧めることはできない。

一通り話終えると、にっかり君は木のスプーンをバキリと折った。若いからなのか、彼も鍛えているのかは良くわからなかったけれど、結構な腕力だなと思った。

「なかなか激しい人生を送っているようだね」

「そうだね…お陰様で…」

「うん、でも、三日月さんと会えてよかったよ。ここから先は安泰なんじゃないかな?」

「そうかい?」

「うん」

言いながら、彼はぼくの分も合わせてアイスのゴミを袋にまとめた。きちんと育ってきたんだな、と思った。刀だった頃の記憶があるのなら、そうそうおかしな人間にはならないとは思うけれど、例えばカバンのチャックをきちんと最後まで閉めるとか、衣類が清潔だとか、ちょっとしたごみくずをポケットにしまうとか、そういう所を見ると、彼のご両親はきちんとした方なのだろうなと思う。残念ながらぼくは、そうではない育ち方をしてきた人を、たくさん見てきたし、知っているから。

にっかり君は居住まいを正すと、少し真剣さを増した顔で目を覗いてきた。何だろうと思っていると、すっと顔を近づけて来たので、ぼくは慌てて身を引く。にっかり君は、ふふ、と笑った。

「君、三日月さんが好きって言ったよね」

「え?うん…」

そういえば、と思う。にっかり君とぼくは、本丸では懇ろな仲だった。生まれ変わりはしたけれど、そういえば別れてはいなかった気がする。ありとあらゆる、知人やドラマやミステリ作品で見かけた痴情の縺れが、サッと脳内に浮かんだ。にっかり君は、おそらく顔に出ていたのであろうそれらを、肩を震わせて笑った。

「何でそんな顔をするんだい?いいじゃないか、今回は僕ら、マブダチってやつになろうよ」

「ま、マブダチ…?」

「そう。親友って書くんだよ。楽しい時に笑いあって、苦しい時に助け合うんだ」

にっかり君の提案は、とても素敵だった。ぼくはとにかく友人が少ないから、そういう意味での憧れもある。

「素敵だね」

「そうだね。恋人とかパートナーとはまた違った素敵さが、きっとあるよ。付き合ってないから、別れないんだ」

「へぇ…」

目の前の未成年には伝える事はできないけれど、ぼくは、付き合いも別れもせず、SMクラブで出会って遊んだ人達の事を、少し思い出した。少し思い出したけれど、にっかり君が気づくといけないと思って、忘れることにした。

「三日月さんとはもう、一緒に寝たの?…単に布団でっていう意味じゃないよ」

「え?ええと…」

「…僕はまだ未成年だけど、大学生だし、刀だったし、そういう配慮はいらないよ」

「ええと…うん…」

にっかり君は思わせぶりな言い回しが得意なくせに、こういう時は意外とハッキリと聞いてくる。ぼくはあまり、こういう話題に慣れていない。嫌いとかそういうわけではなくて、本当に、慣れていないだけ。相手がにっかり君だから、もごもごしてしまいつつも、ぼくはそれなりに受け答えができていると思う。

「愛があるんだ?」

「…うーん」

「あれっ?」

「…人間ってね、きっと、そういう事をするのに必要なのって、愛じゃないんだと思うよ」

「…」

「…寂しいとね、けっこう、できちゃうものだよ」

ぼくは、人として生きて学んだ事のなかで驚いた事を、とうとうにっかり君に告げた。刀だった頃、人の身は、心の容れ物だという感覚がとても強かった。ぼく達は心で生きていて、身体はそれを支えるものだった。それを思い出した今、人として生きてきた記憶を辿ると、必ずしも、心が常に生きていたわけではなかったと思う。確かにこの身体は心の容れ物ではあるけれど、心が冬眠していても、疲れ果てていても、身体が生きている限り動き続けてきた。刀だった頃よりも心が疲労しやすくなったように感じるのは、もしかしたら、この身体が刀だった頃の人体よりも弱くできているからなのかもしれない。ご主人様はこんなにも弱い身体で守られた心で、あの頃のぼく達を支えていてくれたのかと思うと、なんてすごい事だろうかと思う。

「…さみしかったんだね」

改めてそう言われ、ぼくは曖昧に笑った。それは、両親を亡くした事なのかもしれないし、その後に起きた事なのかもしれないし、記憶が無いなりに、この世にご主人様が居ない事を知っていたからなのかもしれない。きっとにっかり君は、そういう全部を含めて言ったのだろう。

「あっ、待って。ということは」

「?」

しんみりしてしまったかと思ったら、にっかり君は突然慌て始めた。

「君たち、付き合って…ないのかな?」

「え?うん、付き合ってはいないよ」

尋ねられた事に答えると、にっかり君は信じられない物でも見るような顔でぼくを見た。

「…三日月さんは付き合ってるって思ってるみたいだったけど」

にっかり君の言葉にあまりに驚いてしまって、ぼくは一瞬、声が出なかった。

「…えっ!」

知らなかった。ぼく達はお付き合いをしていたのか。という事は、あちこち連れ回されたのはデートだったのかもしれない。気まぐれに買ってくれたのだとばかり思っていたこの椎茸も、もしかしてぼくが喜ぶと思って買ってくれたのかもしれないし、そうなってくると、どうしてぼくが椎茸を喜ぶと思ったのか気になってくる。

「そうだったんだ…」

いや、それは後でも良いとしよう。



それからぼくは、にっかり君に、三日月さんとの事を詳しく話さなければならなかった。にっかり君は話を聞くのも聞き出すのも上手いから、ぼくはただ、促されるままに話して、聞かれた事に答えていった。東京駅に到着すると、未だ呆然としていたぼくはすっかり事情を把握したにっかり君に手を引かれて新幹線を降りた。外の空気を吸うと、少し冷静になった。迎えの車は近くに来ているとの事だったけれど、出かける時にクリーニングに出した衣類をまず引き取りに行った。駅から少し歩いた裏路地にある、実家系列のクリーニング屋だ。にっかり君をどうするか迷ったけれど、とりあえず連れて行って若いのに顔を覚えさせる事にした。変に隠すよりも、その方が安全なのではと思ったからだ。綺麗になったスーツを受け取って、多めの代金を渡し、おいしいお酒でも飲んでと言付ける。いわゆるお小遣いみたいなものだ。くれぐれも薬物などには手を出すなと釘を刺して、店を出た。

「…白いスーツとか、ほんとに着るんだね」

手の中のスーツを見て、にっかり君が少し引き気味に言うのを聞いて、ぼくはまた、笑ってごまかすことしかできなかった。

「若いのが…若いっていうのは年齢が若いっていうかぼくの舎弟っていう意味なんだけど、ええと…ネットか何かで、『白いジャケットは汚れが目立つからワンパン必殺の猛者しか着ない』って見たらしくて…ものすごい熱意で勧められたから、とりあえずたまに着てるんだ…」

「きみ…ワンパン必殺の猛者なのかい?」

「うん…長引くとほら、サ…警察とか来ちゃうから…あとほら、あんまり弱いと示しがつかないっていうか…ンフフ…」

「へぇ…結構大変なんだねぇ、組長の息子さんも」

にっかり君はそう言って、面白そうに笑った。彼のこういうところは、刀だった頃から何も変わっていない。


それからぼく達は、迎えの車に乗ってぼくの実家へ向かった。秘書くん−−−大般若くんは始終にやにやしているし、改めて顔を合わせる義父と義母−−−大倶利伽羅くんと燭台切くんにはどのように話をすればいいのかよくわからなかった。それからいつも義母の料理を手伝っていたのは小豆くんだったし、この分だとどこかに小竜くんや謙信くんも居るに違いないと思う。ぼくは少し落ち着かなかったけれど、そこはにっかり君が居てくれたおかげで何とか馴染む事ができた。昔からずっと、周囲とのコミュニケーションに関してはお世話になりっぱなしだ。

気づいてしまえば素直に懐かしいと思える味の料理を一緒に食べて、にっかり君は明日も学校があるからと帰って行った。もうずっとにやにやしている大般若くんとにこにこしている小豆くんが下がった後、ぼくは改めて、大倶利伽羅くんと燭台切くんに感謝を伝えた。あの時路地裏で拾ってもらえていなかったら、今頃ぼくはどうなっていたのかわからない。こうして記憶を取り戻す事もなかったかもしれないし、もしかしたら、何だかんだで生きていなかったかもしれない。自分が生きているという事を、今まであまりきちんと考えた事がなかったけれど、面白い事に、人ではなかった頃の事を思い出してから、人として生きている事がとても貴重な事なのだと感じる。ぼくはあまり話すのが上手な方ではないけれど、これはきちんと伝えなくてはならないと思って、時間はかかってしまったけれど、大倶利伽羅くんと燭台切くんにそのような話をした。二人はいつものように、父と母の顔で話を聞いてくれて、それから、過去のことを思い出してもぼくは彼らのこどもだから、今まで通りで良いと言ってくれた。なんだか本当の父と母のような気がしてぼくはきもちがいっぱいになって、何度も何度も、心からお礼を告げた。

一夜明けると、三日月さんが東京に戻って来た。

実家から自宅へ戻ろうとしたぼくの前に颯爽と現れ、ぼくはそのまま車に乗せられて三日月さんの家に連れていかれた。三日月さんはいつものようににこにことしていなくて、ぼくは、美人の真顔というのものが本当に恐ろしいものなのだということを知った。おそろしかったので、ぼくはずっと、黙っていた。そういえばにっかり君が、三日月さんはぼくとお付き合いをしていると思っていたと言っていたのを思い出した。三日月さんは、信長−−−宗三くん(今思うと今生の名前は運命を感じる)からぼくの話を聞いたかもしれない。宗三くんのそのあたりの行動方針は、残念ながらぼくには予想できない。車内の空気は張り詰めていて、そんなに遠くないはずの三日月さんの家に、永遠に到着しないのではないかとすら思った。戦場のほうがまだ楽に息ができていたと思う。

ようやく到着した三日月さんの家は、いつも通り豪邸で、お手伝いさんが一人居た。いつ来てもにこやかだから気づかなかったが、よく見たら平野くんだった。道理でいれてくれるお茶が美味しいはずだと思った。

三日月さんはぼくを彼の部屋の隣の部屋へ連れて行った。客間の中でも、親しい者を通すのだと言っていた部屋だ。促されて、座布団に腰を下ろすと、机を挟んで向かい側に三日月さんも座った。ぼくは何をどのようにして口を開けば良いのかわからなくて、舌が乾くのを感じた。すると、三日月さんは、突然頭を下げた。

「えっ」

「すまなかった」

「えっ、どうしたんだい…?」

更に謝罪が聞こえてきて、ぼくは困った。謝らなければならない心当たりはぼくの方にしかなかったし、三日月さんの無表情があまりに怖かったので、てっきり怒っているのだと思っていた。説明を求めると、三日月さんは眉をハの字にして顔を上げた。美人はどんな顔をしても美しいなと思う。

「はしゃいでいたのだ…俺は、お前の都合や気持ちも考えずに、連れ回したり、いろいろしたりしてしまっていたな。左文字やにっかりに叱られてしまった」

しゅん、と肩を落とす三日月さんは、なんだかかわいらしかった。

「その…亀甲のことがな、その…すきだったのだが、気づいたのがそなたがにっかりとくっついた後でな。今度こそと思って、にっかりより先に見つけねばと必死だった。それでようやく見つけたものだからその…わーっとなってしまってな…」

視線を落としたまま、もごもごと続ける姿には、天下五剣だった頃の鋭さは無かった。もしかしたら天下五剣だった頃からこういう一面はあったのだけど、ぼくが知らなかっただけなのかもしれない。

「その…」

三日月さんは言い澱みながら、ちらりとぼくを見遣った。正直に言って、かわいい。今ぼくは、きっと出会ってから初めて、三日月さんに機嫌をうかがわれている。その事が、ひどくうれしかった。

「亀甲や、じじいとお付き合いをしてはくれぬか。俺は、すぱだりなるものを目指すぞ」

「ふふ、別にスパダリにならなくてもいいんだよ」

三日月さんの言葉がおかしくて、それからとてもうれしくてこそばゆくて、ぼくは思わず笑ってしまった。

「ぼくはまだ三日月さんのことをよく知らないし、きっと三日月さんもぼくのことをよく知らないだけなんだと思う。まずは相手を理解することから、全ては始まるんだよ」

「…そうだな。本当にそうだ。亀甲は昔から、そう言っていたな」

三日月さんがほっとしたように笑うので、ぼくも、よろしくお願いしますと告げた。


それから数日して、仕事を終えてビルを出ると、久しぶりに三日月さんが立っていた。

「亀甲や、明日は休みだろう?でえとをしないか」

もう平安生まれの刀ではないはずなのに、いつまでも横文字が苦手そうだった。刀の記憶を持って生まれて、我が道を貫いて生きてきたものの、刀の記憶を持たないぼくに合わせて必死で勉強したのだと言っていた。今となってはぼくにも記憶があるのだから、好きな物言いをしても問題は無い。問題は無いけれど、そこにはきっと、ぼくのために慣れない言葉を使う、愛しさとよばれるものも無いのだろう。

「いいよ、どこに行くんだい?」

きっとまた、大般若くんからぼくの予定を聞いたんだろう。そのうち、三日月さんを考慮した予定を組まれそうな気がする。三日月さんはスパダリを目指すと宣言する前からそうであったように、車のドアを開けてくれた。ぼくはもう、迷わず座席へ身を滑らせる。

「亀甲は、どこに行きたいのだ?」

高級車の扉を丁寧に閉める衝撃と音が、三日月さんの静かな声に邪魔されて、何も聞こえなかった。

「…え?」

初めて尋ねられたその問いは、聞き違いかもしれないと思った。三日月さんは、ただでさえ整った顔をやさしく綻ばせて、ぼくを見ていた。

「俺が行きたい場所へは散々付き合ってもらったからな。亀甲は、俺と行きたいところは無いのか?」

どうやら聞き間違いではなかったようで、運転手さんも、白い手袋をハンドルに乗せたまま、じっと指示を待っている。ぼくはもう一度聞き返しそうになって、なんとかそれを飲み込んだ。三日月さんは、そんなぼくを柔らかく見つめて、静かに待っている。

ぼくは、三日月と名乗るとんでもない美人と出会った、会員制のSMクラブの名を告げた。

三日月さんは、少し目を丸くした。ぼくは、シートベルトを締めたまま置かれていた三日月さんの手に、指先だけでそっと触れた。


「知りたいんじゃないのかい?ぼくのこと、もっと」

今は月の無い三日月さんの瞳に、何かがきらりと光るのを、ぼくは、見た。









〜おわり〜