さよならなきがお、またきてえがお

6/30/2017



(1)



仁ヶ里青江は、性根のきもちよい人間だった。

しかしだからといって、平々凡々な人生を過ごせるかというと、それはそうとも限らない。

人の世とはそのようにできている。


青江はその性質をあらわすように、容姿も美しかった。涼やかな目元に、湿度を知らずさらさらと流れる髪。優雅な頰の線に、整った配置の顔のパーツ。そんなわけだったので、子供の頃から、そして大人になっても、青江の外見は女性から人気があった。女の子のようだと褒められる事も多く、小学校でついたあだ名は「女男」。からかわれ、クラスメイトの女子に庇いだてされれば更に囃し立てられた。しかし見た目を裏切って、青江は頑固で好戦的だった。取っ組み合いの喧嘩をして母親が呼び出される事も数知れず、時には相手の家庭まで謝罪に行く事もあった。母親はそんな青江を厳しく叱る事はせず、ただ、呆れたように笑って、もっと上手くやりなさい、と諭した。

青江は喧嘩に勝つ事もあれば負ける事もあった。しかし元来負けず嫌いであったので、努力と研鑽を重ねて、必ず最後には勝利した。物腰は軽く柔らかく、拳は重くずっしりと。高校に進学する頃には、仁ヶ里青江はすっかり腕っ節の強さで有名になった。すると今度はそんな有名人に挑みたいという者まで現れた。青江は頑固で好戦的で負けず嫌いでプライドが高かったので、挑戦されれば全力で返り討ちにした。しかし、もともと性根のきもちよい人間なので、たまたまその場に居た幼稚園児が喧嘩に巻き込まれて怪我をしてしまった事をきっかけに、できる限り喧嘩を控えることにした。

だからといって生活ががらりと変わるかと言うと、そうでもなかった。一度酷く殴られて少し色の変わってしまった右目を隠すように伸ばした前髪や、前髪に合わせて伸ばした髪がトレードマークになってしまい、人の集まる場所へ行けば、相も変らず絡まれた。何だか色々な事が面倒臭くなってしまって、青江は通信制の高校へ転校した。両親は、まあやってみろ、とだけ言った。

それから青江は、通信制の高校で学びながら祖母の営む古本屋で店番をするようになった。バイトをしようと街に出てみれば当然のように絡まれたので、ほとぼりが冷めるまで、繁華街から少し距離のある住宅街で、ひっそりと身を潜める事にした。さすが斜陽産業と名高い紙の本、しかも古本屋だけあって、経営は芳しくは無かった。青江はインターネットを使った通信販売や宣伝を徐々に始め、高校の勉強とは別にそれらを学んでいった。青江が高校課程を修了し、卒業証書が明日届くだろうというような日に、祖母が他界した。数年前に先立った祖父と再会して、また仲睦まじくしているのだろうと思う事にして、青江は少しだけ泣いた。

古本屋をどうするかという話が出た時、青江はすぐに継がせてくれと頼んだ。そこには祖母との思い出があったし、生前に祖父と遊んだ記憶もある。青江の始めた希少本を探すサービスも少しずつ軌道に乗ってきていたし、そして何より青江は本が好きだった。本には先人の知恵や知識がたくさん詰まっていて、そして絶対に青江をからかわない。どんな容姿をしていようと、どんな些細な質問をしようと、本はただ、彼らの持ちうる全てを青江に与えてくれた。

結果として、古書店ビジネスと、店舗と、それから二階にある居住スペースが、青江のものとなった。

住宅街であるからか、本を売りに来る客も、買いに来る客も、それから通信販売で本を買う客も途切れる事は無かった。大盛況というわけでは無かったが、困窮するという事も無かった。店にある本を全てデータで管理する事も始めたし、希少本を探す人脈も広がりつつある。祖父母の代から店内は清潔に保たれていて、青江はそれをよく守った。昭和然とした「古本屋」の雰囲気を壊す事なく、けれどさりげなく小物を置いてみたり、ポップを作ってみたりもした。当初、両親は時々様子を見に来てくれたが、最近では安心したのか頻度が落ちている。


高校を卒業して本格的に古本屋業を始めて、気付けば数年が経っていた。

そんなある日、諸々の作業を終えた青江は、店の奥にあるレジ机に頬杖をついて、本棚越しに、何の気なしに道ゆく人々を眺めていた。平日も平日、火曜日の昼下がり。通りかかるのは女性が多かった。きっと、主婦が多いだろうと思う。このあたりは、高級住宅街とまではいかないが、一軒家の多い地域で、かく言う青江の本屋兼自宅も、小さいとはいえ二階建ての一軒家だった。身なりやスーパーの様子からも、それなりに裕福な層が住んでいると思われる。

ふと、通りのその向こう、青江の古本屋の丁度向かい側に目をやると、そこには小さな喫茶店があった。その喫茶店の存在には何となく気づいていたものの、青江は初めて、はっきりとその存在を認めた。そういえば、一度も入った事がない。見たところ、青江の店のように一軒家を改造したような作りになっていて、一階が喫茶店、二階が居住スペースになっているようだ。喫茶店の階には大き目の木枠の窓が並んでいて、けれど植え込みやカーテンで中の様子は見えなかった。年季の入った木のドアにはOPENと書かれたプレートがぶら下がっている。店の名前がわかるものは、そのドアの前にささやかに置かれた立て看板だけのようだ。青江からはその看板は横向きになっていて、書かれている文字は読めない。買い物に行く時や店の前を掃除する時などに目に入っていただろうに、全く意識していなかったので何が書かれているのかの記憶も無かった。目の前にあるのだから歩いて行って読めば良いのだが、青江は横着をしてスマートフォンを取り出した。地図アプリを呼び出し、現在位置周辺を拡大する。古書店仁ヶ里の向かいにある喫茶店は「喫茶 暴れ現世」というらしい。小洒落た外見や、入って行く女性達からは想像もつかない名前だった。もしかしたらそのミスマッチさ故に、記憶の奥の方へ追いやってしまっていたのかもしれない。

元来好奇心の強い青江は、いそいそと表へ出ると、店先のシャッターを閉めた。向かいの喫茶店に居ますと貼り紙をして、たった数歩で目的地へたどり着く。ドアを開ける前に見た立て看板には、見事な筆使いで力強く店名が書いてあった。正直に表現すると、居酒屋の看板のようだった。けれどそこから視線を上げれば目に入って来るのは、絵本に出て来そうな喫茶店の外見で、青江は面白くなってドアを開いた。


カラカララン、と、ドアにくくりつけられたカウベルが鳴って、それからキィと軋んでドアが閉まった。

「いらっしゃいませ」

ちらほらと客の入っている店内を見回していると、カウンターのあたりに控えていた店員が出迎えてくれた。ピシッと糊のきいた白いカッターシャツに、ピンク色のエプロンを首からかけている。にこりと笑う顔は、明るめの色の髪と、少々変わった形の眼鏡で隠されていた。

「お好きなところへどうぞ」

そう声をかけられる。見た目が柔らかいと声まで柔らかくなるのかもしれない、などと感じながら、青江は窓から遠い、奥まった席を選んだ。メニューを持った店員は、三歩ほど後ろを静かについて来た。二人がけのボックス席に、店内を見渡せるように座ると、テーブルの上に静かにメニューが置かれる。青江がぱらりとそれを開くと、表の看板と同じように力強い毛筆で、かわいらしいケーキの名前や、ドリンクの名前、軽食のオムライスやパンケーキなどといった単語が並べられている。

「ふふっ…」

思わず笑ってしまったタイミングで、テーブルに水の入ったグラスが置かれた。ご注文はお決まりですかと声をかけられ、青江はにこやかに店員を見上げる。

「おすすめは何かな?」

「梨の…ええと…梨の甘く煮たののタルトが、昨日からの季節のメニューです。コーヒーや紅茶とお召し上がりいただくと、美味しいです」

「…梨の、コンポートかな?」

「それです」

「じゃあそのタルトと、本日のコーヒーを一つずつ」

「かしこまりました」

注文をカウンターへ伝えに行くその背を見るために、青江は頬杖をついた。何事も卒なくこなしそうな外見をしておいて、コンポートという単語が出てこなかったり、おすすめを尋ねた時に酷く緊張していたり。名札をつけていなかったので名前はわからないが、あの店員も、それからあの力強い書体で書かれた店名とこの小洒落た雰囲気も、なんだか色々なものの外側と内側の組み合わせがちぐはぐで、青江はすぐにこの喫茶店が気に入った。そこへ加えて

「あの、梨の…コント…のタルトと、コーヒーを…」

と言う店員の声と、カウンターの中に居た背の高い美丈夫の

「あっはっは!コンポートだねぇ、はいよ!」

という大きな返事が聞こえてしまえば、青江はもっと楽しくなってしまう。よくよく見れば、客の何人かも、微笑ましそうにそんな二人を見守っていた。店内は、驚くほどに穏やかで、なんともあたたかい。

カウンターで用意される自分用のタルトとコーヒーを目の端に捉えながら、青江はスマートフォンを取り出すと、暴れ現世について検索をかけてみた。どうやらこの界隈では人気のある店のようで、写真付きのSNS投稿がいくつも出て来る。店自体のウェブサイトやアカウントは見つからなかったので、おそらくパソコンが得意な者が居ないのだろう。そう考えれば、達筆な看板もメニューも納得がいく。ちらほらと情報を拾い読みして、どうやらあの背の高い男が店長兼オーナーで、眼鏡の店員は居る時と居ない時があるらしいとわかった。ケーキやタルトを始め、軽食や、夜限定の居酒屋メニューはあの店長が腕を振るっているらしい。どうやら店長の酒好きは相当なもので、酒匠の資格に加え、酒ソムリエの認定も受けているとか。これは夜にも来てみる必要がありそうだ、と思ったところで、お待たせしましたと声をかけられた。

静かに丁寧に、青江のテーブルに梨のタルトとホットコーヒーが置かれる。白い食器には少しの汚れも無く、シュガーポットの角砂糖も、その鋭い直角を保っていた。添えられたカトラリーも磨きあげられていて、花の刺繍のしてあるナプキンの上で綺麗に並んでいる。

「どうぞ、ごゆっくり」

テーブルをきちんとセットできた事にホッとしたように言うと、店員は柔らかく笑って下がって行った。

青江はスマートフォンを脇へ置いて、きちんと手を合わせてから、まずはコーヒーを一口飲んだ。目の覚めるような美味さというわけではないが、香りも強く、丁寧に淹れられている事はわかる。それから梨のコンポートのタルトを一切れ口に入れた。しゃり、と、梨特有の歯ごたえがして、それから梨の香りがきちんとして、甘さもタルト生地の硬さも青江の好みだった。

店内をぼんやりと見回しながら、青江はタルトを食べた。青江の席からは古本屋は丁度見えなかったが、暴れ現世に居ると貼り紙はしてあるから大丈夫だろう。時折スマートフォンを取り出して心のままに情報収集をしながら、ぺろりと、気づけばタルトは無くなっていた。時計を見れば、時間はさほど経っていない。コーヒーもタルトも無くなってしまったので、長居をするのも悪いかと、青江は伝票を持って席を立った。それに気づいた店長がレジへ向かうのを見て、青江は尻のポケットから財布を出す。つつがなく会計を終え、釣り銭とレシートを受けとると、青江は店長に名刺を差し出した。

「実は僕、向かいで古本屋をやっているんだ。おいしかったからまた来るね。近いし、何か困った事があったらいつでも声をかけてよ」

「おや、そうなのかい?しばらくばあちゃん見なかったからオーナーが変わったのかねって思ってたんだよ」

「あ、知り合いだったのかい?お知らせしてなくてごめんよ、何年か前に亡くなったんだ。僕は孫」

「そうだったのかい…御愁傷様だったね。たまにお茶に来てくれてたんだよ。その時にちょっと話したくらいさ…ああ、そうか、その孫って事は、あんた、喧嘩番長の青江かい?」

「えっ」

「あっはっは!ばあちゃんがよく言ってたんだよ、あんたほんとに良い子なのに、売られた喧嘩は必ず買う上に負けず嫌いだからどんどん強くなっちゃって…ってね。なるほどねえ、あんたがねぇ」

店長は青江から名刺を受け取ると、少し懐かしむように親指で名刺を撫で、次郎と名乗った。思わぬ所から素性がバレていたものだ、と驚きはしたものの、次郎が豪快に笑うだけだったので、青江も取り繕う必要が無かった。

「いや…うん、まあ、お陰様で喧嘩は強いよ。その辺も含めて、何かあったら呼んでよ…といっても、次郎さんも強そうだけどね」

「まあね、アタシも腕には覚えがあるよ」

ぐっと力こぶを作って見せながら、そういえば、と次郎は眼鏡の店員を呼んだ。おーいと呼ばれてパタパタとやってきた彼の背を押すと、

「この子は亀甲、ちょっと変わった子だけど、あんたと年も近い…かな?まあ、仲良くしてやってよ」

と笑った。

「やあ、僕は仁ヶ里青江。向かいで古本屋をやっているんだ」

「亀甲貞宗といいます」

状況がよくわかっていない様子の亀甲に青江から名乗ると、亀甲は戸惑いながらもきちんと名乗った。その視線が少し泳ぐのを見て、青江は安心させるように笑みを深めた。喫茶店の店員なんかをやっていながら、彼は思いの外人見知りなのかもしれない。そう考えれば注文を取る時に緊張していた様子も納得がいった。

「大抵向かいに居るから、暇な時は遊びに来てよ」

青江は軽い調子でそう言って手を振ると、もう一度次郎に挨拶をして、再びカラカラランとカウベルを鳴らして店を出た。








(2)


すっかり暴れ現世を気に入ってしまった青江は、それから暇を見つけては踊るように通りを横切った。知らない誰かの投稿で読んだように、亀甲は大抵の場合店に居たが、まれに不在の日もあった。シフトの関係なのかと思っていたが、不在があまりにも不規則である事に気付く程度には、青江は暴れ現世に通いつめた。それとなく次郎に尋ねても、今日はおやすみだよと言われるだけで、気になった事は気が済むまで追求したい質の青江も、さすがに他人のプライベートを無理やり暴くような事はしなかった。

日を変え時間を変え、青江は暴れ現世を訪れた。昼の常連客と夜の常連客が全く異なる事は、すぐに知れた。昼間は女性の溢れるこの店内に、夜は仕事帰りのビジネスマンが多かった。稀に貸切にして飲み会を開くグループもある。夜の暴れ現世は、看板の書体に相応しい居酒屋だった。夜には亀甲の代わりに、日ノ本というこれまた大柄で堅気に見えない男が店員として入る事が多々あった。聞けば、酒ソムリエ認定講習で知り合ったらしい。日ノ本が居る夜は、次郎も日ノ本も、客と共にーーー下手をすると客よりよほど大量にーーー酒を飲んだ。当然のように青江も飲まされた。彼らは無理やり飲ませるような事はしないが、少し過ごしたかな、と思うくらいの、ふわふわと楽しい気分になる酒量を客ごとに把握するという恐ろしい技能を持っているようで、これまですました顔でしか酒を飲んでこなかった青江もとうとう、見知らぬ他の客に混ざって歌ったり踊ったりのどんちゃん騒ぎを経験する事となった。翌朝目覚めた時の、あの恥ずかしいような、くすぐったいような…しかし冷静に考えるとやはり恥ずかしい気持ちは、きっとこの先忘れないだろう。

もちろん、昼食を食べに暴れ現世を訪れる事の方が多かった。その日のおすすめメニューを亀甲に聞いて、いつもそれを注文した。青江は亀甲の昼休みの時間を把握すると、それを狙って昼食を食べに行った。亀甲はいつも店の一番奥の席で、賄いランチを食べている。そこへ相席させてもらって、次郎が運んで来るランチを食べた。はじめは緊張していた様子の亀甲も、何度か食事を共にすれば、徐々に打ち解けてくれた。

亀甲は、物を食べるのが遅かった。一口が小さく、よく噛んで食べている。ゆっくりと食事をする亀甲を眺めるのが、青江は嫌いではなかった。よくよく聞けば亀甲は青江より三つ年下で、未成年だった。だから夜は居ない事が多いのかもしれない。食べ物の好き嫌いは無く、驚いた事に喫茶店の二階で次郎と住んでいるらしい。どういう関係なのかと尋ねれば、長い沈黙のあとに「よくわからない」と返ってきた。なるほど、きっと複雑なのだろう。この春に高校を卒業して、この店で住み込みで働いているのだそうだ。あまり相手の事ばかり尋ねるのも気が引けて、青江も自分の話をした。喧嘩の仕方や、古本屋の経営の事、それから昔補導された時の事や、いつも神道関連の希少本を探してくれと依頼してくる客の事。学生時代、拳でばかり他人と語り合って来た青江には、亀甲と話をしながら過ごす時間がなんだか新鮮だったし、青江の話をじっと聞く亀甲の大きな目が、とても綺麗なすみれ色をしているのがお気に入りになった。


青江が暴れ現世に通い始めて数ヶ月経った頃、いつものように書店内の整備をしていると、向かいから次郎がやってきた。少し困ったように眉を下げていて、何事かと青江も表へ出る。

「急で悪いんだけど、あんた今夜時間あるかい?日ノ本の店で、店員が階段から落ちたとかで人手が足りないらしくて手伝いに行きたいんだけど、留守番頼めないかと思ってさ。店は閉めるけど、亀甲が多分夜に帰ってくると思うから」

「えっ、その店員さん大丈夫かい?留守番なんかお安い御用だよ」

「ありがとう〜!助かるよ!」

青江が快く留守番を引き受けると、次郎はホッと肩を下ろす。しかし、口元をむずむずとさせて、目元はまだ晴れない。

「何か…あるのかい?」

心配に思って尋ねると、次郎は青江を促して古本屋の奥へと進んだ。通りでおおっぴらにできる話ではないのだろうと、青江は素直にそれに続く。店の一番奥のレジ机まで進むと、次郎は一つ大きく息をして青江を振り返った。

「亀甲の、ことなんだけどさ」

「うん」

次郎は少し言いづらそうに口を開いた。何をどこまで話そうかと、考えている様子だった。青江はそれをじっと待った。自分が彼らの信頼に足る人間であればいいと、強く強く願いながら。




その夜。

青江は初めて、次郎と亀甲の家を訪れた。キッチン、ダイニングと一間になっているリビングルームと、それぞれの部屋が一つずつ、それから、風呂とトイレ。大きくはないが小さくもない喫茶店の広さをそのまま居住スペースに置き換えて見ると、それなりの広さになるようだった。もっとも、次郎は背も高く体格も良いので、広いと感じているかどうかはわからない。その次郎は青江にもう一度礼を言って、普段より少しきちんと身なりを整えて出て行った。

しんとした部屋の中で、アナログの壁掛け時計の音がささやかに響く。それに重なって、冷蔵庫の音や、通りを歩く人々の声が聞こえた。道を一つ挟んだだけだが、他人の家というだけで、とてつもなく遠くへ来たような心持ちがする。

青江は一つ息をすると、次郎の淹れていってくれたお茶を持ってソファに腰を落ち着けた。亀甲が戻って来る頃には、ソファでテレビを見ていてほしいと言われている。忘れないうちにとテレビを点けて、持ち込んだノートパソコンの電源を入れた。希少本を探すサービスの依頼は、今日は来ていない。続けてオークションサイトやSNSで古書の情報を漁る。これは日課になっていて、青江自身も、知らない本との出会いを楽しむ時間となっていた。色々な情報を流し読みしていると、夜9時にセットしたアラームが鳴る。青江はいつも、遅くともその時間頃までには、毎日最低一冊、店にある本の紹介をSNSに流していた。こんな本があります、この本の作者はこのような来歴を持ち、実は最近流行りのあんなものこんなものと接点があり、等々。存在を知らない本を読みたいと思う事は不可能なので、青江はこうして、マイナーであろう本の紹介を発信し続ける。そんな情報から興味をもった客が、実際に店舗を訪れたり、通信販売で注文したりと、購入につながるケースも少なくはなかった。

ーーー亀甲の、ことなんだけどさ。

ぼんやりとテレビ画面を見ながら、次郎の言葉を思い出す。彼は亀甲の保護者ではないし、恋人でもないし、兄弟でも親戚でも無かった。家族というほどのつながりでもなく、どちらかといえば面倒見の良い教師と生徒のような(実際亀甲は次郎から洋菓子作りを習っているらしい)関係なのだと、青江は勝手に思っている。きっともうすぐ、亀甲が帰ってくる。青江は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

ーーーいや、あんまりアタシが口出しすんのもあれだね。気になる言い方してごめんよ。ただ、帰って来た時に一人にしたくなくてね。だからほんと、あんたが居てくれたらすごく助かる。

結局のところ、何もかもを打ち明けられるよりもよほど信頼されているようで、青江はほっとすると同時に少し緊張した。


しばらく経つと、カチャンと控えめな音を立てて亀甲が帰ってきた。

「ただいま」

玄関で靴を脱ぎながらだろう、そう聞こえてきたので、青江もおかえりと返事をした。リビングへ入ってきた亀甲は、疲れているのか少しぼんやりとしていたが、青江をみとめるといつものように笑った。

「いらっしゃいませ」

それがいつも店を訪れる時とあまりに同じで、青江は少しおかしかった。亀甲は青江に断りを入れると部屋へ荷物を置きに行った。そしてすぐに部屋から出てくるとソファを通り過ぎてキッチンへ向かい、次郎の書き置きを読んでいる。

「お茶でも飲むかい?」

青江がソファの背もたれ越しにそう尋ねると、亀甲はぼんやりと視線をうろつかせた後、静かに頷いた。おや、と思いながらも、お茶を淹れようと青江がキッチンへ向かうと、亀甲は冷凍庫からアイスクリームを取り出しているところだった。

「仁ヶ里くんも食べるかい?」

「おや、いいのかい?」

「もちろん」

瓶の形の容器に入った二本組のそのアイスが少し懐かしくて、青江は楽しい気持ちで礼を言った。

熱いお茶をテーブルに置いて、亀甲はソファの隅っこに膝を抱くように座って、アイスに吸い付いた。反対側に座っていたであろう青江のパソコンやスマートフォンをちらちらと見ながら、がじがじと凍ったカフェオレを噛んでいる。青江もアイスをくわえながらソファに座り直して、もう一度ノートパソコンを膝の上に乗せた。話しかけようかと亀甲の方を向けば思いの外真剣な顔でアイスを噛みほぐしていたので、青江はしばらく無言でテレビを見ることにした。画面には、たわいもないランキング番組が流れている。青江はいつも、なんとなくテレビをつけっぱなしにして作業をすることが多かったので、その番組を聞いた事はあったが、きちんと番組を見るのは初めてだった。

「お仕事中だった?」

スクリーンセーバーになっているノートパソコンをちらりと見て、亀甲が囁くように尋ねた。もしかしたらこれを尋ねたくて、お茶を飲んだりアイスを食べたり、それからテレビを見てみたりしたのかもしれない。亀甲にはそういう、不器用というか複雑というか、何気ない一言を言うために酷く遠回りをするようなところがあった。最初は少しもどかしく思ったそんなところも、今では不思議と大切にしたいと、青江は感じている。

「仕事というか、そのついでに趣味のネットサーフィンかな」

「ふうん」

亀甲は相変わらずアイスクリームの容器を噛みながら、じっと青江を見て微笑んだ。もうすぐアイスを食べ終わってしまいそうな青江は、ちゅる、と冷たい甘さを吸い込んで微笑み返す。何となく、ノートパソコンはテーブルの上に戻した。

「君はあんまりパソコンは使わないのかい?」

「人並みには使うと思うよ。でもあんまり見てると、目がちかちかするんだ…だからテレビもいつも、ラジオの代わりにつけてる」

「なるほどねぇ、僕もテレビはそんな感じだよ。そういえば休みの日とかは何してるんだい?」

亀甲は喫茶店で話をする時、なんだかんだで店員の顔をしている事が殆どだったから、青江もあえてプライベートの事は尋ねなかった。他の客の耳もあるし、次郎だって居る。おそらく亀甲はそういう事を気にするのではないかと、青江は思っていた。けれど今は次郎の、そして亀甲の家に居る。それはつまり、自分こそが相手のテリトリー内に居るという事であり、さらにこの場には自分と亀甲の二人しか存在していない。それは、亀甲にとって少しは話がしやすい環境なのではないかと、青江は思った。

「そうだな…でかけたり、お菓子を作ったり、あと本を読んだりするよ」

本と聞けば、青江はうれしい。

「いいねえ、うちは古本屋だから、ぜひ遊びに来てよ。今は何を読んでるんだい?」

嬉々としてそう尋ねると、亀甲はぱっと顔を輝かせた。どうやら読書こそが、彼の趣味だったらしい。

「次郎さんからもらった本だよ。持ってくるから、見るかい?」

目をきらきらとさせてそんな事を言われてしまえば、青江はうんうんと頷く事しかできない。亀甲は嬉しそうに食べかけのアイスをテーブルに置くと、そろりと自室へ入り、分厚い本を持って現れた。そわそわと床に膝を付き、静かに丁寧にテーブルの上に置かれたそれを青江が覗き込むと、それは酒類のカタログだった。確かに本ではあるが、古本屋で取り扱う事はまず無い。

「へぇ…こんなのがあるんだね」

ぱらぱらとめくってみると、一つ一つ丁寧に、商品名、価格、酒造や製造元、輸入元、蔵元、原材料から、名前の由縁、逸話、味、最適な嗜み方、相性の良い料理などが事細かに書かれていた。商品写真もなかなか美しい。

「あんまり字が多い本は得意じゃないから、こういう、写真とか絵がいっぱいのを読むよ。たまに次郎さんが、こういうのをくれるんだ」

亀甲はうれしそうにそう語る。食べかけのアイスクリームの存在は忘れてしまった様子で、物珍しげにカタログを読み進める青江をちらちらと見ていた。そんな亀甲に相槌を打ちながら、青江も少しずつ楽しくなってくる。

「お気に入りとかあるのかい?」

「あるよ!」

そわそわとする亀甲にもっと色々な事を話して欲しくて、青江は小さな質問をたくさんした。その途中で食べかけのアイスクリームの事も思い出させて、空になった容器はそっと手近なゴミ箱に捨てた。

ーーー帰って来た時に一人にしたくなくてね。

ふと、次郎の言葉を思い出す。亀甲は、今日はどこへ行って来たのだろう。次郎はそれを知っている様子だったし、きっとそれを尋ねる事は青江にはとても容易い。

「この日本酒の、かけ和紙と飾り紐がね」

けれど何となく、今はそれを明らかにする時ではないと感じて、青江は楽しそうに話す亀甲を見やる。ソファに座った青江からは、床に座った亀甲のつむじが見えた。

「うん、かわいいね」

「ふふ、仁ヶ里くんもそう思う?」

「うんうん」

亀甲がうれしそうに振り返ったのでつむじは見えなくなってしまったが、青江は笑みを深くした。普段は見えないつむじをこうして見る事ができたのは、亀甲が青江より低い位置に座ったからだ。青江が意図して彼より高い位置に移動したからではない。きっとそうやって、彼は彼のタイミングで、青江に少しずつものごとを晒していくのだろう。青江は決して気の長い人間では無かったが、亀甲に関しては待つ事は苦では無かった。

「なかなかに奥が深そうだ」

静かにそう告げると、亀甲は照れたように笑った。安心させるように笑い返しながら、君のことだよ、とは、青江は伝えなかった。








(3)


数日後、いつものように青江が暴れ現世の一番奥の席を陣取って亀甲とランチを楽しんでいると、珍しいことに、子供が二人、店に入って来た。誰もがそうするようにカウベルを鳴らして、けれど席を探すでもなく元気良く次郎に挨拶をしている。青江の目の前で亀甲がそちらを気にしたので、青江も彼らを見てみようと振り返った。亀甲の視線の先には、中学生くらいの少年と、小学校高学年か、中学一年生かという少年が並んでいた。次郎に促されるように青江達の方を見ると、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。

「知り合いかい?」

青江がそう尋ねたが、口の中のものを一生懸命飲み込もうとしている亀甲は慌てて頷くばかりで、喉を詰まらせそうにしている彼に水を手渡したり落ち着いてと声をかけたりしているうちに、少年二人はあっという間にテーブルに近づいていた。

「こんにちは!」

「こんにちは」

二人はまず、青江に挨拶をした。明るい笑顔を二つ並べて、子供らしく屈託のない声で。青江はそれがなんだかとても好ましく思えて、自らもにっこりと笑って挨拶を返す。そうこうしているうちにきちんと口の中を空っぽにした亀甲が、もそもそと横にずれて一人分の席を空ける。青江もそれに倣って、ブースの奥へと身を押し込んだ。

「仁ヶ里くん、従兄弟の物吉くんと、太鼓鐘くんだよ。二人とも、仁ヶ里くん」

席を空ける青江に礼を言いながら亀甲がお互いを紹介すると、子供二人は好奇心を隠さない様子で青江を見つめた。

「物吉貞宗といいます」

「俺は太鼓鐘貞宗!」

「僕は仁ヶ里青江だよ。…君たちみんな、貞宗くんなのかい?」

「ええ、僕たちの母親が三姉妹で…それぞれ結婚して苗字が変わったので、面白がって同じ名前をつけたんです」

「かっこいいだろ!」

青江が素直に疑問を口にすれば、隣に座った物吉と斜向かいの太鼓鐘から、明るく説明が返ってきた。へえ、と思って亀甲をちらりと盗み見れば、少し困ったような、楽しんでいるような、なんとなく曖昧な顔で笑っていた。

「暇だったから早めに迎えに来たぜ」

太鼓鐘が亀甲に食事の続きを促しながら言うので、青江は少しだけ首をかしげた。物吉は目ざとくそれを見つけ、青江に笑いかける。

「今夜、このあたりの夏祭の縁日なんですよ。三人で行くんです」

「へぇ、知らなかったよ」

もともと、青江は喧嘩を避けるために、人の多く集まる場所にはあまり近寄らない事にしている。夏祭りや縁日があるのならば、スーパーにでも貼り紙がしてあっただろうが、特に興味の無い青江は気にも留めなかった。

「もしご都合がよろしければ、仁ヶ里さんも一緒にいかがですか?」

「夏祭りねぇ…そういえば行った事無いな」

少しだけ、考えてみる。古本屋に引きこもって、数年が経っているから、きっともう、ほとぼりは冷めているだろうと思う。だがしかし、万が一、という事もある。

「お誘いはとても嬉しいんだけど、僕、けっこう絡まれるんだ。そうなると厄介だから、今回は遠慮させてもらおうかな」

「なんだ、仁ヶ里のにいちゃん、そんな事気にしなくて大丈夫だぜ」

「ええ、亀甲兄さんもかなりの確率で変な人に声をかけられますので」

急いで食べているが故に常に口に物が入っていて話に参加してこない亀甲を横目に、太鼓鐘と物吉は朗らかにそう言った。もしかしたら三人で縁日に行くのは、亀甲が二人の保護者役というよりは、二人が亀甲の保護者役なのかもしれない。見た目や年齢で役割を決めつけてはいけないのだと、仁ヶ里は改めて思った。

「そうかい?そういう事なら、ご一緒させてもらおうかな。僕は喧嘩は強いから、そこは安心してくれていいよ」

「なんだそれ!かっこいいな!」

「そう言ってもらえると、僕達も安心です」

太鼓鐘と物吉がそう言うのを、亀甲はほっとしたように見ていた。そんな亀甲を見て、青江もほっとした。


いくら何でも迎えに来たのが早すぎたということで、太鼓鐘と物吉は、古書店仁ヶ里で青江と一緒に亀甲の仕事が終わるのを待つ事になった。青江が彼らを奥の和室へ招くと、きちんと靴を揃えてから、彼らは畳へと上がった。レジ机の奥の、休憩室のように使っている小さな部屋だ。祖父母の代からある、丸い、絵に描いたようなちゃぶ台に、子供達のために麦茶を出し、戸棚からかりんとうを出してやった。

「ばあちゃんちみたいだ」

太鼓鐘はそう言うと、物珍しげにかりんとうに手を伸ばす。変な遠慮は無いが、育ちの良さは、座り方や食べ方でわかる。

「今日は学校は?」

「今、夏休みですよ」

本日が平日であったように思ったので尋ねると、事も無げにそう返って来た。

「ああそうか…そういえばそうだね」

宿題はもう終わったのかい、とからかってやろうかと物吉の方を見ると、彼はその大きな瞳で、じっと青江を見ていた。おや、と太鼓鐘に視線を移すと、こちらも同じく、かりんとうを噛み砕きながらも青江を見ていた。

「仁ヶ里のにいちゃんは、亀甲のことどう思う?」

「え?」

子供というのは難しい質問をいとも簡単に投げかけるものだと思う。おそらくは、その好奇心が純粋なものであるがゆえに、隠すべき疚しさを持たないのだろう。登場時から酷く丁寧な物腰の物吉でさえ、太鼓鐘を嗜める様子は無い。

「うーん…どう、と言われても…」

透明な二対の瞳を前にして、青江は口元に手を当てて考える仕草をした。どう、とはどのような意味で尋ねられているのだろうか。質問者がある程度の大人であれば、隠そうとしたところである程度質問の声音に意図がにじみ出てしまうから、そんな時はその意図を汲み取って適当な回答をすれば良い。けれど今回はそうもいきそうにない。好奇心の対象が、青江であるのか、それとも亀甲の方であるのかすら、青江にはわからなかった。

「真面目で、すごく…優しい子だと思うよ」

いい子だと思うよ、と言いかけて、青江はそれを飲み込んだ。その言葉が適切なのかどうか、少し迷ったからだった。きっと相手が大人だったなら、すごく気を遣うよね、と付け加えていたと思う。物吉の視線が少し色を変えたところをみると、おそらくそれは気づかれただろう。

「そ!真面目なんだよなぁ」

太鼓鐘はさくさくぽりぽりとかりんとうをかじっている。青江が視線を投げかける事で先を促すと、太鼓鐘のかわりに物吉が口を開いた。

「真面目すぎるところがあると、僕達は思うんですよ」

「なるほどねぇ」

そう言われれば、青江は様々な事に納得がいった。店のおすすめメニューを尋ねた時に今でも見せる一瞬の躊躇は、本当にそれでいいのかどうかという逡巡。よく噛んでものを食べるのも、子供の時に教わった事を律儀に習慣化したのだろう。次郎から与えられたものであれば、酒のカタログであろうと隅々まで読み込み、何か尋ねたい事があってもすぐには口にせず、本当に尋ねてもよいかどうか考えあぐねている。服装だっていつもきちんとしていて、それこそ高価なブランド品だとか、そういう物は身につけていないけれど、シャツにはアイロンがかかっていて、おそらくエプロンにもアイロンがかかっているだろうと思う。飲食店であることを気にしてか爪はいつも短く切ってあるし、笑顔を絶やすことがない。

「仁ヶ里さんは亀甲さんに猛烈アタック中とうかがったんですけど」

「えっ?」

つらつらと考え事をしていると、物吉がとんでもない事を言い出した。確かに否定をするつもりはないが、そこまで激しく主張をしていたつもりもない。というより、誰がそんなことを。心当たりは、次郎しか居ない。

「縁日、お二人にした方がいいですか?」

「もしそうなら、俺らは適当なとこでいなくなるぜ」

「いやいやいや」

次郎がどのような伝え方をしたのか全くわからないが、こうして気を遣われてしまうと、彼らも亀甲の血縁なのだなと、少し思ってしまう。

「もともと君たち三人で行く予定だったんだろう?僕はほら、ここに住んでいて亀甲くんとはいつでも会えるし、縁日なんて行った事がないんだ。みんなで行けたら助かるんだけど」

青江が慌ててそう言うと、そうですか、と物吉が静かに言い、太鼓鐘は笑った。

「というか、次郎さんがそんな事言ったのかい?」

縁日も確かに大切な話題ではあるが、青江はそれよりももっと気になってしまったことを尋ねた。すると物吉は涼しい顔をしてにこりと笑う。

「いえ、言ってません」

「次郎ちゃんじゃないぜ、俺らがカマかけただけ」

なかなかどうして、純朴そうな顔をして、目の前の子供達は曲者のようだ。青江は少しふてくされて、けれどそれを誤魔化すようにかりんとうに手を伸ばした。

「亀甲兄さんは、変な人に絡まれたり、付きまとわれたりするのが得意なんですよ」

さくり、と黒糖の甘みが口の中に広がるが、焦がしたそれは少しだけ苦味も含んでいる。物吉は困ったように笑うが、青江はその笑みの意味を知っている。亀甲の心配をしているのだ。

「だから、さっき相席してた仁ヶ里のにいちゃんの事、もうちょっと知りたかったってだけ」

いつのまにか太鼓鐘の視線も、真剣なものに変わっていた。

「さっきの、二人で行きたいって言われたら、尾行するつもりだった」

「亀甲兄さん、なかなかノーと言えないんですよね」

「そうそう、それでいっつも貧乏くじ引いちゃってさ。ようやく家も出たってのに」

「貞ちゃん」

流れるように亀甲を語っていた二人は、物吉が太鼓鐘の言葉を遮ることで口をつぐんだ。おそらくは、まだ青江に許されていない部分なのだろう。そう察して、青江も話題を変えるのに協力してやる。

「まあ…僕も普通の人かどうかって言われたら、あんまり普通ではないかもしれないね。ただ、犯罪行為や迷惑行為はそこまでしていないつもりだけれど」

全くしていないとは言えない自分に、青江は少し焦った。ちらりと余裕ぶって目の前の二人を見やれば、二人はまた笑っていた。亀甲を含め、この貞宗三人は本当によく笑うと、青江は思う。三者三様、全く雰囲気の違う笑顔で、なかなかに個性が豊かだった。

「ま、必要に応じて色んな事をする時もあるじゃん」

「困った方というのは、総じて視野の狭い方だとお見受けしますが、仁ヶ里さんはそんな事なさそうだと思います。自信を持ってください」

「ああ、うん、ありがとう」

「ところで」

青江が少し戸惑いながら笑ったところで、物吉と太鼓鐘は姿勢を正した。

「縁日で、二人にした方がいいですか?」

思わず青江は、むせてしまった。大人相手であれば大抵の人間は軽くあしらって流す事ができると自負していたが、目の前の二人の子供の相手は、そう簡単には行きそうにない。

「いや、いいよ」

変なところに入ってしまったかりんとうのかけらは、それでも甘さを感じさせている。落ち着くためにお茶を飲んで、ふうと息をついた。

「何かあった時、人数が多い方がいいだろう?」

涙目になりながら何とかそう言うと、物吉と太鼓鐘は、ほっとしたように肩を下ろした。きっと彼らも、亀甲と縁日に行く事を楽しみにしていたに違いないのだ。

「ところで、何時に待ち合わせなんだい?亀甲くんと」

出かける用意など何もしていない青江が尋ねると、一時間ほど先の時間だと返ってきた。もしかしたら早く来過ぎたというのは亀甲への理由で、本当は、どこかから青江の存在を聞きつけて、人となりを見に来たのかもしれない。そんな事を思ってしまう程度には青江は大人で、そしてそれを簡単に見破られてしまう程度には、物吉と太鼓鐘は子供だった。







(4)



夜空に溶けて消えた花火を見送って思い出したのは、神社関係の希少本探しを頻繁に頼んでくる顧客の言葉だった。

幸せになりたいと願うのは、強くなりたいと願うのと同じ事なのかもしれないね。

青江は後ろ手に玄関の鍵を閉める。彼の名は、三条石切丸と言う。一度も支払いが滞った事のない上客の一人で、見つけ出した本は必ず自分で店に訪れて受け取っていく。それなりに付き合いも長く、世間話程度に店内でお茶を出した事も何度かあった。いつも真っ白い髪の隙のない男を傍に連れていて、知り合ってはいけない相手かと警戒していた事もある。彼は神社関連の仕事をしていると名乗り、けれど神主ではないと笑い、とはいえ神社に全く縁がないとも言えないと嘯いた。いつもゆったりと歩き、声は穏やかで、会話の途中であっても店先でスズメが鳴けばそちらに意識をもっていかれてしまうような、そんな男だ。小狐丸と名乗る白い男は、いつも一歩下がってにこにことしている。おそらく石切丸はやんごとない身分で、小狐丸はその護衛とか目付役とか、そういった役割なのだろうと青江は勝手に思っている。

一つ深呼吸をして、青江は靴を脱いだ。


初めての縁日は、それはもう楽しかった。太鼓鐘が次から次へと食べたいものややりたい事を追い、物吉がそれを御しながら適当に買い物をして、亀甲はそんな二人とはぐれないようにそれぞれの服の端を掴んで歩き、青江はそのすぐ近くを歩いていた。青江が少しでも何かに興味を示せば物吉が説明してくれたし、太鼓鐘は亀甲に物を食べさせながら自分もたくさん食べていた。幸いな事に絡まれる事も無かったし、誰も迷子にならなかった。夜とは言えまだまだ暑い季節で、具合の悪くなる者も無く、わたあめや焼きとうもろこしを食べて、よくわからないが渡されたゴム紐付きの水風船で遊びながら歩いた。

夜も八時近くになり、小学生の太鼓鐘も居るということで帰路についた。二駅ほど離れた所にある彼らの家にそれぞれ送り届けて、青江は亀甲と電車に乗った。

「君のご実家も、あのあたりなのかい?」

青江の問いに、大した意図は無かった。亀甲は素直に頷いた。

「近くて安心だね」

「うん」

何気なく言葉を返したつもりだった青江は、亀甲が笑って頷いたのを見て、その嘘に気づいた。確信は無い。けれど、青江は自覚のある以上に物事の機微に聡かった。亀甲の頷きに違和感を感じたところで、電車が大きく揺れた。青江は少しだけバランスを崩したが、亀甲は何事も無いように立っている。

「このあたりで、いつも揺れるんだ」

大丈夫?と見つめられて、青江は照れたように笑った。

この区間の電車に、乗り慣れているのだなと思った。そういえば昼間に、太鼓鐘が亀甲の家について何かを言っていた気がする。邪推ならいくらでもできるだろう。けれどほんの少しだけ潔癖なところのある青江は、本人から聞きもしないのにあれこれと想像を巡らせる事はしたくなかった。電車の中には、縁日帰りの人々が何人か居たようで、誰かが落としてしまったのだろう水風船が足元に転がってきた。それを拾いながら、青江は流れるように話題を変えた。


これまで、好奇心はいつも青江を助けた。喧嘩に負けない方法も、古本屋を立て直す方法も、何でもかんでも気になる事は片っ端から調べて、学んで、応用してきた。けれど相手が人である場合、興味を持ったからという理由だけでなんでもかんでも暴いていいものではないだろうと青江は思う。思いながら、ようやく歩き出す。洗面所へ直行し手洗いうがいを済ませ、冷蔵庫で冷えた麦茶を飲む。暗闇に強い青江の目は、縁日で覚えた色とりどりの光を今も映しているようで、部屋の中がいつもと少し違って見える気がした。きっと、浮かれているのだ。亀甲が嘘をついたのだと気づくのは、普段の亀甲が嘘をつかないからではないかと気づいたからだ。今頃、彼は何をしているのだろうかと、考えを巡らせそうになる。あまり無遠慮に他人の生活を妄想するものではないと思うのに、次郎に縁日の事を報告しているのであろう亀甲の様子が頭に浮かんでしまった。お土産にと買っていたわたあめは、次郎の酒の肴になっただろうか。太鼓鐘がかき氷を食べて舌を青くしたとか、物吉がくじ引きで米を引き当てて持って帰ったとか、青江が金魚すくいで惨敗したとか、そういう話をしているのだろうか。

青江はふと、一人で笑った。

これは好奇心ではなく、恋なのだ。全て知りたいと思うのは興味ではなく、きっと専有欲と呼ばれるものだ。

ーーー幸せになりたいと願うのは、強くなりたいと願うのと同じ事なのかもしれないね。

石切丸の言葉をもう一度思い出す。誰かを幸せにしたいと願う事も、おそらくは強くなりたいと願うのと同じ事なのだろう。

青江は翌日も、暴れ現世へ昼食を食べに行くだろう。そしていつものように他愛のない会話を亀甲と交わす。けれど強くなりたいと願う青江は、そこから一歩を踏み出さなければならない。その「一歩」の踏み出し先が重要なのだ。謝った場所へ足を置けば、そのまま青江は奈落へ落ちるだろうし、下手をすれば亀甲の足元までもを崩してしまう事になる。それは、よく知りもしない上級生から呼び出しを受けた時よりよほどおそろしく感じた。



翌日、心意気も新たに暴れ現世へ昼食を食べに行こうとしていた青江は、突如現れた石切丸によって出鼻をくじかれた。突然訪れたと言っても、石切丸から頼まれていた本を入手した旨を連絡した数日後であったので、全く不自然では無いはずだった。青江がそれをあえて「突如現れた」と感じたのは、そのタイミングの良さと話の内容故だった。石切丸は青江から商品を受け取り、小狐丸がいつものように支払いを済ませるのを見届けると、レジ机の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。青江は潔くランチを諦めて、三人分の茶を淹れた。その背中に、石切丸が声をかけた。

「焦るのはよくないよ」

え、と青江は振り向いた。もしかしたら、声に出していたかもしれない。石切丸はレジ机の向こうで、いつものように穏やかに笑っている。その瞳が、全てを知っているとでも言わんばかりなのも、いつもの事だった。

「昨日、縁日に来ていただろう」

「ああ、うん…行ったけど…」

「たまたま見かけてね」

「ふうん」

コトリ、と湯呑みを二つ、レジ机に置くと、大男二人は丁寧に礼を述べて口をつけた。二人はどんな季節であろうと熱い茶を好む。青江が探るように石切丸を窺うと、彼は楽しそうに笑った。

「縁結びが趣味なんだ。あまり深く考えないで聞いてほしい」

「…わかった」

石切丸の真意が見えないのはいつもの事で、彼が何をどこまで知っているのか何の手がかりも無いのはいつもの事だ。けれど、それなりに信用に足る人物であるとは、青江は思っていた。

「泣きたい気持ちというのは、涙にして外へ出してあげないと、どんどん身の内へ溜まっていってしまうものなんだ」

てっきり亀甲の話になるのだと思っていた青江は、突然の話に瞠目する。しかしすぐに、これは亀甲の話なのだろうと気づいた。

「そうやって、内側がいっぱいになってしまうとね、他のものが入っていく隙間が無くなってしまうんだよ。いくら東京の満員電車が乗車率100%を超えるといっても、やはり物理的な限界はあるだろう?それと同じ事だね。君の気持ちを内側へ入れてもらうためには、まず、詰め込まれているいらないものを外へ出してあげないといけないよ」

石切丸はそう言うと、ゆっくりと茶を飲んだ。その所作はとても美しく、飲み物を啜る音など全くしない。青江はその様子を見ながら、たった今投げられた言葉について考えた。おそらく石切丸は、今はまだ時機ではないと言っているのだ。何故ならば、穏やかな好青年に見える亀甲の内側が、涙になれない泣きたい気持ちでぎゅうぎゅう詰めにされてしまっているから。

涙になれない、泣きたい気持ち。

「…僕に、いじめっこになれと言っているように聞こえるね」

思いの外硬い声が出てしまって、少しひやりとする。石切丸は気分を害した様子もなく、声を立てて笑った。

「うれし涙という言葉もあるだろう?」

青江の瞳から鱗がぽろぽろとこぼれ落ちるのを見届けて、石切丸と小狐丸は帰っていった。

「…なるほど?」

一人になった店内で、青江はようやく呟いた。時計を見ればもう夕方に近づいていて、ランチ営業と居酒屋営業の間にある、亀甲の昼食の時間は終わっていた。

「なるほど」

店の中から暴れ現世の佇まいを見つめながら、青江は瞬きをした。焦っていた事にも、自分は気づいていなかった。性急に一歩を踏み出そうとした事こそが、誤った一歩だった。さすが縁結びを趣味としているだけあって、石切丸の言葉は青江に道を示してくれた。しかし。

相手にうれし涙を流させるというのは、かなり難しいのではないだろうか。

やろうと思ってすんなりできる事ではないだろうなと、青江は思った。けれど、諦めるわけにはいかない。青江は、勝ちたい相手には必ず勝ってきた。それは、勝つまで挑み続けたからだ。負けず嫌いで頑固な自分を、少しだけ誇らしく思い、青江は、そうしてようやく、冷め切った茶を飲んだ。







(5)


思えば言葉というものは、覚えているようで忘れてしまって、忘れたはずがふと思い出されたりするものだ。早朝、青江は本棚の埃を払いながら、壁画のような背表紙の大群を眺めた。本には一つ一つタイトルが付いていて、それから作者の名前が書いてある。例えるならばそれは個人の名前と親の名前のようなものだろうか。出版を出産に例えるとするならば、古本屋とはどのような場所なのだろうか。墓場と言うには目の前の本の山はまだまだ現役で、次の読者との出会いをじっと待っている。

石切丸が古書店仁ヶ里を訪ねて来てから、あっという間に数週間が経ってしまった。

目の前に並ぶ古本たちが新しい出会いを得るのと、青江が亀甲のきもちを涙にすることができるのと、どちらが早いだろうか。考えても仕方のない事を、青江はこうして考えてしまう。亀甲とは相変わらず、よく一緒にランチを食べるし、外出から戻る亀甲を次郎の部屋で出迎える事も増えた。けれどまだ、青江は亀甲の部屋へ入った事が無かったし、亀甲が古書店仁ヶ里を訪れる事もなかった。毎日、朝が来て、夜が来て、また朝が来る。何もしていないのに、本棚には埃が溜まる。エプロンをつけてハタキをかける作業はもう慣れたもので、猫を引きつけそうなその布切れの動きも、青江の心を動かす事は無い。青江が何もしなくても続いて行く変化があるように、青江が何をしようと先へ進まない物事がある。じれったいという気持ちは、すぐにどこかへ行ってしまった。試されていると感じた事もある。衝動に任せて力押しをしそうになった事もあったし、苛立ちが悲しみに変わる事もあった。自分には何もできないのかという無力感とも戦ったし、枕に顔を押し付けて叫んだ事だってある。一人で自宅に居る時、青江は自分に奇行を許した。長い髪を細かく細かく三つ編みにした事もあるし、意味もなくキュウリを桂むきした事もある。考えすぎてはいけないと思いはしても脳は勝手に物事を考えてしまうし、心は焦っていく。けれど煮詰まり過ぎた状態というものは、泡がはじけるように突然ふと霧散したりするものであるので、青江はこうして、半ば悟りを開いたような心地で本棚にハタキをかけているのだった。

決着を焦るから、穏やかでいられないのです。

いつだったか、喧嘩の極意を年上の従兄弟に尋ねた時に言われた事を思い出す。なるほど、それは全ての物事に通じるのかもしれない。

ふと物音がして通りを見やると、亀甲が暴れ現世の看板を出しているところだった。いつものようにアイロンのかかったシャツを着て、ピンクのエプロンをつけている。カウベルを鳴らしながら店の扉を開けるとドアストッパーで固定し、店の中へ戻って行って看板を両手で持ってまた出てくる。必ず体の左側から横歩きで外に出て来て、いつもの位置に看板を下ろすとその周りを一周する。今日も異常なしのようで、そうするとわざわざしゃがんで、手でドアストッパーを回収して店の中へ入り、ドアを閉める。最後に、内側にかかっているプレートをひっくり返して「OPEN」にする。

すっかり見慣れてしまったその一連の流れを今日も本棚の陰から眺めて、青江はため息をついた。これでは、物吉や太鼓鐘からストーカー呼ばわりをされても言い逃れが難しい。せめて亀甲が青江に気づいて見て見ぬ振りをしているのならば良いのだが、おそらくそれは無い。亀甲は青江に気づけばきっと挨拶をするし、見られていると知っていたらもう少し緊張した様子になる。

青江は気合を入れようと何もない空間に数回拳を繰り出すと、自分の店の開店準備を進めた。


そしてその日、古書店仁ヶ里はとても暇だった。

午前中の来客は全くの無し。問い合わせも、希少本の捜索依頼も、間違い電話も、セールスコールさえ無かった。ここまで何も無いと逆に不安になるほどで、青江は、緩みそうになる気持ちをなんとなく引き締めようとする。けれど青江の中の糸という糸がなんだかふわりと宙を漂っていて、青江は諦めて時計を見た。もうすぐ、亀甲の休憩の時間だ。今日も今日とてランチを食べに行こうと、レジ机に座ったままだった腰をあげると、遠くでカランと、カウベルの音がした。なんの気もなしに暴れ現世のエントランスに目を向けると、何やらお盆のような物を持った亀甲がこちらへやってくる。何かあったのかと慌てて表へ出れば、亀甲がそわそわと駆け寄って来た。

「どうかしたのかい?」

「今、忙しいかい?」

「君のとこに食べに行こうと思ってたところだよ」

「よかった、食べ物は持ってきたから、ちょっとお邪魔してもいいかな…」

「もちろん」

青江にとっては全く想像もしていなかった展開で、けれど否やを言うはずがない。青江は亀甲をレジ机の奥へ通した。先日、物吉や太鼓鐘とかりんとうをかじった部屋に、ようやく、亀甲が足を踏み入れた。亀甲は持っていた物をちゃぶ台の上に置くと、かけられていた手ぬぐいをめくった。そこから、二人分のパスタが現れる。ふわりと広がるガーリックとチーズの香りに、青江の腹が鳴った。飲み物は持って来ていないようだったので麦茶を出しながら亀甲の正面に座る。

「今日はなんだかお客さんがすごく少ないから、仁ヶ里くんちに行って来たらって次郎さんが作ってくれたんだ」

さすが喫茶店で働いているだけあって、亀甲は手際よくちゃぶ台の上をセットしていく。きちんと畳まれたナプキンの上に磨かれたカトラリーを並べ、青江の出した麦茶のコップの下にコースターを敷いた。青江は相槌を打ちながら、その様子を見ている。おそらく今日の亀甲は、自分に何か話がある。それは、そわそわと青江に話しかけた時点でわかった。けれどいつものように亀甲は遠回りをするだろうから、青江はそれを待つ。

小さくいただきますをして、二人はパスタを食べ始めた。少しだけ冷めてしまったパスタは、それでも十分おいしかった。パスタを一本ずつフォークに巻きつける亀甲を見ながら、青江は食事の速度を合わせるためになんでもない話をする。亀甲は一生懸命に相槌を打ちながら、休む事なくパスタを食べ続けた。珍しく慌てているような様子に首を傾げながらも、青江はうまい具合に、亀甲と同時にパスタを食べ終えた。亀甲は口の中のものを全て飲み込んで、麦茶をこくりと飲んでから、ほ、と一息をついた。それから一度、口を開いて、閉じる。青江は笑顔で少し首を傾げて見せて、先を促す。

「もうすぐ、次郎さんの誕生日なんだ」

「おや、そうなのかい」

「プレゼントをね、考えているんだけど、なかなか決まらないんだ」

「そういうのって一生懸命考えると、難しいよね。とりあえず話してごらんよ、誰かに言うと整理できる事もあるよ」

言いながら青江は、まさに、自分の煮詰まった状況も、誰かに相談してみようと閃いて、少しだけ気持ちが軽くなった。

「ケーキ…とかは、次郎さんが作った方が美味しくできてしまうし、お酒…は、何を選んでも正解であり不正解な気がしてしまうんだ…」

「うんうん」

「ちょっと変わったお菓子とか、普段あんまり食べないお菓子とか…花とかもどうかと思ったんだけどいまいちこれだと思えなくてね」

「なるほどねぇ」

話し始めてしまえばどうやら本当に思考の迷路に深く迷い込んでいたようで、あのお店のどんな物とか、テレビや雑誌で見かけたそんな物とか、日ノ本から聞いた次郎の好みだとか、次郎本人から聞いた話だとか、亀甲にしては珍しく、次から次へと言葉が出て来た。ほろほろとこぼれていくそんな言葉の一つ一つに、確かに亀甲の気持ちはこもっているから、青江は優しく相槌を打って全てを受け止めた。

そして、ふと、気づく。

まるでそれが合図であったかのように、亀甲は一息をついて、お茶を飲んだ。どう思う?と尋ねるように、おそるおそる上げてくる視線までを全てすくい上げて、青江は頬杖をつく。

「お菓子やお酒や花も良いと思うんだけど、せっかくなんだし何か形に残る物をあげたらどうだい?」

先ほどから並べられたプレゼント候補は、食べ物や生物といった、時間が経てば無くなってしまう物ばかりだった。それが偶然なのか意図的なのか、青江にはわからなかったが、もし青江が次郎の立場であったなら、数年後にも手元にあって、それを見るたびに亀甲を思い出すような物が欲しいと思ったのだ。次郎だって、亀甲の事を我が子のように思わないまでも、弟や何かのように可愛がっているところがある。きっと喜ぶはずだ。言葉にしてみると、どうにも素敵な考えのように思えて、青江は満足げに目を細める。どうかな、とその柔らかな視線を向けた先で、亀甲は、驚いたように口を少し開けて、目をぱちくりとさせていた。

「残るもの…」

「うん、大事な人からもらった物がいつまでも手元にあるのって、嬉しいだろう?」

「だいじな…ひと…」

何がひっかかってしまったのかはわからないが、呆然と青江の言葉を繰り返す亀甲に、君のことだよ、と青江は告げた。

ほろりと、亀甲のそのきれいなすみれ色の瞳から、何かが落ちた。

青江はびっくりしてしまって、思わずそれを凝視する。ちゃぶ台の上に、小さな小さな水溜りができていた。

「あ、ごめん…」

亀甲が慌ててナプキンでちゃぶ台を拭くのを見て、青江はその手に自分の手を重ねた。

「今、どんな事を思ったんだい?」

問い詰めるような口調になってしまわないように細心の注意を払って、青江はできるかぎりの優しい声を出した。俯いたままの亀甲の名を呼んで顔を上げさせ、少し覗き込むようにして目を合わせる。一度そうしてしまえば、亀甲の瞳はみるみるうちに潤いを増した。

「あの…ごめん…」

「大丈夫、大丈夫」

亀甲は必死に泣き出すまいとしていて、けれど青江はこれが好機と亀甲に手を伸ばす。小さなちゃぶ台は、いとも簡単に青江と亀甲を引き合わせてくれた。隣に並んで肩をくっつけて、青江は亀甲の背を撫でた。本当なら抱き締めてしまいたかったが、それをしてしまえばおそらく、突然のことが苦手な亀甲は逃げてしまうだろうと思った。

「…何か、嫌な事を言ってしまったかな?」

ずるい言い方だと思いつつ、青江は尋ねた。

「ううん、違うんだ、ちょっと、あのね…」

泣くのを我慢している者を泣かせるためには、無理矢理にでも声を出させるのが良い。喉の奥がひきつるほどに、息を止めることができないからだ。思惑通りに亀甲から言葉を引き出し、青江は続きを待った。そんな青江に見守られて、亀甲は眉をしかめる。いつも優しげな曲線を描いている口元は、今は震えていた。

「なんて言ったらいいのか、わからないけど、」

「うん」

「に、仁ヶ里くんがそうやって言うから、ほんとなんだと思って」

「うんうん」

いまいちよくわからないながらも、青江は柔らかく頷いて、亀甲の背をゆっくりと撫で続ける。とうとう眼鏡をずらしてナプキンで顔を覆ってしまった亀甲の、頭もついでに撫でてやる。ひきつるように震える肩を感じながら、青江も必死に考えを巡らせる。なるほど、順を追って会話をつなげてみれば、次郎が亀甲の事を大切に思っていると、青江がそう言ったために、亀甲はそれが本当の事だと思って、泣いている。

「そうか、次郎さんが君のことを大事に思ってるって実感して、うれしくなったんだね」

「うん」

確かめるように言えば、素直に肯定が返ってくる。よかった、嬉し涙だった。あやすようにひっそりと肩を抱けば、亀甲は震えた。うめき声一つ漏らさず、乱れる息をすべてナプキンに包んで、亀甲は泣いた。そんな事で、とは、青江は思わなかった。そんな事が、亀甲にとっては一大事なのだと思った。ぐずりと鼻をすする気配がしたので、手を伸ばせば届くところにあったティッシュの箱を、ちゃぶ台の上に乗せてやった。

しばらくそうして泣くと、亀甲は鼻をかんで、眼鏡をかけなおした。

「ごめんよ…」

なおも謝罪を口にする亀甲は、けれど少し晴れやかな雰囲気をしていて、青江は肩を抱いていた腕に力を込める。今この瞬間に生まれた亀甲の内側の隙間を、青江は余すところなく、自分の気持ちで埋めてしまいたい。

「ねえ、僕もね、きみのことが大好きだよ」

仁ヶ里青江は、性根のきもちよい人間だった。しかしだからといって、平々凡々な人生を過ごせるかというと、それはそうとも限らない。人の世とはそのようにできていて、だからこそこうして亀甲と出会い、葛藤と忍耐と渇望の末、光り輝くすみれ色の視線を、とうとう独占している。

青江はその名の通りににっかりと笑うと、未だ言葉を探して戸惑う亀甲の唇を奪った。

「泣いていても、笑っていてもね」

亀甲は息を飲んで頰を赤くして咽せて、そしてまた、ほろりと涙をこぼして笑った。




〜おわり〜