2/27/2016



空漠



夜中にふと目を覚ますと、ぼんやりとした月明かりが障子越しに室内を照らしていた。

その明かりだけでは視界は淡い濃淡のみで、宗三は目の前に持ち上げた自分の手の甲の、薄ら白く骨ばった皮膚が作る陰影をぼんやりと眺めた。

天井も障子も調度品も、どこのものかを咄嗟に思い出す事ができない。

こういう事が、たまにある。

音も光もささやかな宵の底で、そろりと身を起こした。

人の気配は無い。

静かに着物をはだけて胸元を見ると、こびりつくように刻印が刻まれている。

という事は今は、織田以後のどこかということだ。

首筋に手をやれば、右半分が随分と涼しい。すでに一度目の再刃もされているようだ。

という事は本能寺よりも後。

あとは自らの髪の色と瞳の色がわかれば、きっとここがどこなのか、当たらずとも遠からぬ答えが出るだろう。

魔王による磨上で無くしたものは体格。まるで、もう戦場には立つなと言われたかのよう。

本能寺で焼けたものは長かった髪。あたかも、失った恋を振り切るかのよう。

江戸で焼けた後に再刃されると、髪と瞳の色も変わり、もはや別人のよう。

そしてその身に変化が起こるたびに、無いはずの心が形を変えていったような気がする。

宗三はそろりと布団をめくり、静かに立ち上がる。

ぬるりと右足首を撫でるものがあり、反射的に目をやれば、濃い色の数珠が巻かれている。

はて、このような物に縁があっただろうか、と首を傾げながら、そもそもここがどこかも判らないのだと思い出した。

宗三は手近な障子に手をかけ、静かに静かに、そっと開く。

開いた先は濡縁で、これはまた、随分と外に近い場所に寝ていたものだと肩をすくめた。

廊下は障子を通さないだけ月明かりが強く、庭に降りれば髪の色もわかるだろう、と、宗三はそろりと部屋を出た。

遠く、水の音がする。

きっと鯉を飼っているのだ。有力者は錦鯉を好む。

靴脱ぎ石の上に草履は無く、宗三は裸足のまま石へ乗ろうとつま先を伸ばした。

「おう、どうした、目が覚めちまったか?」

途端、近くからかかった声に、ギクリと足を濡縁の上へと戻す。

慌てて声の主を探すと、いつの間にか、濡縁の端に戦装束の薬研がのんびりと座っていた。

「薬研…?」

おかしい。

今は少なくとも本能寺の後のはずなのだ。薬研が居るはずがない。

「あなたこそ、何をしているんです?」

もしかしたら、薬研ではないのかもしれない。

「さっき帰ってきたとこさ」

「帰ってきた?」

「京都の夜戦さ。はは、寝ぼけてんのか?」

薬研。京都の夜戦。帰って来たところ。

「ああ…まあ、そうですね…」

思い出した。

ここはどこでも無かったのだった。

本能寺を経た自分と、あの頃とは衣装の違う薬研がこうして会話をしていても良いのだった。

「ふふ…」

気づいてしまえば、先ほどまでの自分がおかしくて、宗三は思わず笑う。

不思議そうな顔で笑う薬研は、もしかしたら全て気づいているのかもしれない。

「おかえりなさい、薬研。目が覚めた時に一人だったから、ここがどこなのかよく判らなかったんですよ」

暗に薬研のせいだと拗ねて見せれば、心得たと言わんばかりの笑顔が返ってくる。

「そいつぁ悪かった。目が覚めたんなら、ちょいと待っててくれるだろ?ひとっ風呂浴びて、また来るさ」

「ええ、いいですよ」

「ありがとな」

薬研は、とん、と宗三のふくらはぎを軽く叩いて去って行った。

足音はしない。

薬研より遠くにあるはずの池の鯉の跳ねる音の方が、よほど現実味を帯びていた。

宗三は月明かりに淡く見えた自らの桜色の髪を無造作に掴み、放すと、着物の袷を直しながら部屋へ戻る。

開けたままだった障子は、閉じずにそのままにしておいた。

薬研が閉めるだろう。

きっと。

薬研とこうしてまた会えたという事は、刀は消えても霊魂のようなものはどこかに存在していたという事だろう。

きっと、人の子が黄泉だとか、高天原とか、なんだとかと呼ぶ、ここではないどこかなのだろうと思う。

薬研の御霊がどこから来たのか、宗三は聞かなかったし、薬研も語らなかった。

その場所があるのかどうかすら、宗三は知らない。

知らないほうが良いと思った。

冷えてしまった布団に潜ると、月が思いのほか眩しかった。

いつか、この、歴史修正主義者なるものとの戦が終われば、刀は、呼ばれる前の状態へ戻る。

薬研は消え、宗三は神社の本体へと戻る。

そしてまた、薬研の居ない静かな場所で、宗三左文字が朽ちる日を待つのだ。

それを思えば、薬研の烏の行水など、瞬き一つのようなもの。


ゆっくりと目を閉じた宗三が次に目を開くと、すでに穏やかな朝になっていた。

閉じられた障子のこちら側、同じ布団の中で、薬研が健やかにいびきをかいている。

宗三はたまらない気持ちになって、ついにその色違いの瞳から、色も音もない透明な叫び声をこぼした。






曖昧模糊


「…酔って、みたいですね…」

ぽつりと落とされた宗三の声は、広間に広がる死屍累々たるありさまに、静かに静かに受け止められた。

「何だい、残ってるのはあんただけかい?」

膝の上で熱くなっている薬研の顔を扇子で軽く煽いでいると、次郎太刀が酒瓶を片手ににじり寄って来る。

返事の代わりに宗三が杯を差し出すと、次郎太刀は容赦無くなみなみと酒を注いだ。

宗三は軽く礼を言って、もはや部屋の中の空気と同じ香りしかしないそれに口を付ける。

「そういや、あんたが酔ってるとこは見た事がないねぇ」

真っ赤な顔でそう次郎太刀に、宗三は涼しい顔で笑った。

「ええ…僕も酔った事がありませんから…。この様子じゃ、明日の朝は地獄絵図でしょうね…」

古くからの知り合いの間では有名な事だが、宗三はその華奢な見た目に反して酒に強い。

飲んでも飲んでも何も変わらない、いわゆるワクという類いだった。

水か茶かというような調子で酒を飲んでも、意識もハッキリしているし、翌日に引きずる事も無い。

もちろん千鳥足にもならないし、飲み比べで一人勝ちをした後も、やれやれ、と溜息をついて何の変わりも無い。

今も、涼しい顔で酒を飲みながら、散らかった肴を箸でつついている。

隣で飲み始めた次郎太刀も、機嫌は良いが相当に酔いが回っているようで、ついに、宗三の隣でごろんと横になった。

「おやまぁ」

床に近くなった次郎太刀の視界に、宗三の膝で寝息を立てている薬研の顔が入った。

真っ赤な顔でうっすらと汗をかいて、襟元を緩めて口を中途半端に開けている。

時折、宗三の起こす風に気持ち良さそうに顔を動かして、口元をもごもごとさせてはまた寝入っていた。

「こっちは完全に潰れてるねぇ」

次郎太刀は心底楽しそうにそう言うと、薬研の頬を指先でつついた。

薬研は少し唸ったが、何事も無かったかのように眠りへ戻る。

あはは、と、次郎太刀が笑った。

部屋の中には、酒気と、唸り声と、誰かの歯ぎしり。

しゃんと座っている者は宗三だけで、見慣れた風景に苦笑を禁じ得ない。

「…かわいそうなくらい酔わないね、あんたは」

次郎太刀がしみじみと言うと、宗三は曖昧に笑った。

「楽しそうな仲間達を見るのも、よいものですよ」

特に翌朝の重苦しい呪いの雰囲気ときたら。

宗三は鈴を転がすように笑いながら、なおも杯を空にした。

その杯を再び満たしながら、ふと、次郎太刀は、宗三から全く酒の気配がしない事に気づく。

あれだけ飲んでおきながら、香りの一つもしない。

部屋に満ちた、あらゆる酒の匂いのまざった空気の中で、自分の鼻が利かないだけかと、先ほどまでは思っていた。

しかし、ここまで近くに来ると、どうやら本当に、宗三からは酒の香りがしなかった。

「ねぇ、あんたさ…」

次郎太刀が口を開こうとすると、宗三の膝の上で、薬研がううん、と伸びをした。

どうやら目を覚ましたようだ。

うっすらと開いた瞼の向こうでは、熟れた瞳が瑞々しく光っている。

「…おお?」

目を覚ますや否や、薬研は枕にしていた宗三の足をまさぐる。

宗三がそれに笑って答えると、ようやく事態を把握したのか、よろよろと起き上がった。

「おわったのか」

「ええ、僕もそろそろ引き上げようかと思っていたところです」

「おお、おくっていくぜ」

薬研がその男気を見せようとよろよろと立ち上がろうとしながら、きょろ、と当たりを見回す。

おそらくは、水を飲みたいのだろう。

それを見た次郎太刀が、水を探そうと起き上がろうとするその隣で、宗三は持っていた杯を薬研に渡した。

「おいおい」

次郎太刀が嗜めようとするより先に、薬研は礼を言ってその杯を空にした。

ふう、と細く吐く息からは、酒気が感じられない。

何がなんだかわからない、といった様子の次郎太刀に、宗三は空になった杯を差し出した。

「少し、ここへ注いでみてください」

次郎太刀が言われた通りに酒瓶から杯へ酒を注ぐと、宗三はそのまま、杯を次郎太刀に渡した。

「僕たちは、人のこころを受けながら生まれるものですから…彼らの望むふしぎな効果を持つ事もあるんだと思いますよ。ほら、青江なんかも、置いておくだけで厄よけになるとか何とかでしょう?」

そうにこやかに告げると、よろける薬研を支えながら立ち上がり、部屋を出て行った。

開けたままにされた襖の向こうから、夜の空気がゆっくりと流れ込んでくる。

次郎太刀は渡された杯に口をつける。

それは、紛う事なき、ただの水だった。

なるほどねぇ。

次郎太刀は面白くなって、一人で笑い出した。

次郎太刀の記憶が確かならば、薬研は最初に少し、手酌と次郎太刀からの酌で飲んだ他は、宗三から酌を受けていたはずだ。

おそらく、薬研が飲んだ酒の殆どは水だ。

よくよく思い出せば、酷い酒宴の翌日、いつも涼しい顔をしているのはあの二人だった。

宗三はワクだとして、薬研は翌日に残らない体質なのかと思っていたが、どうやらどちらも違うらしい。

顔が赤くなるだけでそれほど酔っていなかったのだろうし、早々に宗三の膝を占領する事で周囲を微笑ましい気分にさせながら、自分は酒宴から退場し、のんびりと宗三と楽しんでいたのだろう。

次郎太刀は、宗三が水にした酒を飲み干した。

天下人の手を渡った刀は、酒という危険な存在からも、持ち主を守った事があったのかもしれない。

素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した神代から、酒は有用な武器でもある。

「怖いねぇ、戦国の刀は」

身体の大きさや腕力の強さだけが生き残る道ではないのだと、次郎太刀はしみじみと心に刻んだ。

部屋を見回すが、意識を保っているのは、とうとう次郎太刀だけだった。

彼はとても良い気分になって、自分で自分を酔い潰すまで飲み続けたのだった。





境界


自我が芽生える、というのは、世界と自分を明確に分かった、という事だ。

例えば宗三左文字ならば、その身に魔王の刻印を刻まれた時に。

薬研藤四郎ならばその身が薬研を貫いた時に。

それまであいまいだった「個」が、他の全てからハッキリと切り離されたのだった。

人の赤子が母親の腹から出てくる時のように、突然、その目は光を映し、その肺が息を吸った。

何者でもなく、大きな何かの一部だったものが、一つの小さな「個」となった。

眠りに落ちる瞬間を誰も自覚していないのと同じように、宗三も薬研も、自我の芽生えた瞬間の記憶は無い。


畑仕事を少し休憩して、宗三と薬研は腰を下ろして握り飯を食べていた。

目の前に広がる畑は、毎日交代で手入れしているだけあって、青々と育っている。

まほうびん、というらしい不思議な竹筒から熱いままの茶を湯のみに注ぎ、らっぷ、だとかいう透明な紙に包まれた握り飯にかぶりつく。

「うまいな」

「ええ…」

ほどよく疲れた身体に、優しい塩味がじんわりと広がる。

握り飯を一つ食べ終えた宗三が、指についた米粒をじっと見つめた。

「…このあいだ、主に聞いたのですけど…現世には、ちきゅう、という名前がついているのですって」

「へえ?」

「僕たちを作った玉鋼も、主達を作っている何かも、もともとは全部ちきゅうの一部だったらしいですよ」

「そうなのか」

青い空を、鳶が横切った。

きっとあの鳥も、ちきゅうとやらの一部だったのだろう。

「主も僕たちも、生まれる時にこう…握り飯から米粒が離れるみたいになるんですって」

宗三の言わんとしている事がいまいち読めずに、薬研は首をかしげながら隣に座る宗三を見上げた。

「…だからひとりだと寂しさを感じるんだそうですよ」

宗三はそう言って笑うと、指についた米粒を舐めとった。

宗三左文字という刀は、何の含みも無く笑ったとしても、どこか寂しげな印象になる。

その、柳のように垂れた眉のせいだろうか。

それとも、桜吹雪を思わせる髪のせいだろうか。

薬研はそんな宗三を安心させるように静かに笑って、次の握り飯を手に取った。

「じゃあ、俺達は別々の米でよかったな」

新しい握り飯から、二粒、米を指にくっつける。

それを宗三の目の前でつぶして見せた。

「ほら、焼けたりなんだりで溶けてくっついちまったら、また一人になっちまう。俺っちもお前さんも居なけりゃ、他の誰を探したって寂しさなんか消えねぇだろうさ」

宗三は呆れたように、ふふ、と笑った。

その竦めた肩は機嫌のいいしるしだと、薬研は知っている。

「いいんですよ、全部食べてしまえば、腹の中でまた、全部一緒になるだけです」

いつか、刀の姿をとっている玉鋼が土に還った後には、宗三は宗三ではなくなり、薬研は薬研でなくなり、二人はちきゅうの一部に戻るのだ。

薬研は指先で潰れた米粒をぺろりと食べた。

「じゃあ、俺っちが俺っちで宗三が宗三の間に、存分に楽しなねぇとな」

薬研はそう言うと、美味しそうに握り飯を食べ始めた。

「…そうですね」

宗三は笑って、薬研の湯のみに茶を足してやった。