空の虚(そらのうつろ/からっぽのほらあな)
4/28/2024




同じ距離を走るのであっても、終わりを知って走るのとそうでないのとは、心にかかる負担が段違いだと言う。

歴史遡行軍が旗を挙げて始まったこの戦の、終わりは見えない。長引く戦に引きずられ、審神者の数も、本丸の数も大いに増えた。烏合の衆と称して差し支えなくなった時の政府軍は、いつしか身の内に虫を飼った。誰もが清い心を持つわけでも、高い志を持つわけでもない。刀剣男士は使役するものではなく共に戦うものだと、理解できない者もいる。人の身同士でさえ、集まれば問題が起きるのが常であるのだ。異なる理屈を持つものたちが数多集まって、問題の起きないはずがない。人の肉は鋼より脆く、疲弊は容赦無くその容れ物を食い破り、魂に寄生する。じわりじわりと希望を蝕み、根を腐らせ、あるいは葉を枯らし、咲くはずだった花も、実るはずだった果も、どろりと膿んだ夢の中へ消えていく。身中の虫は、その朽ちた汚泥さえも啜り、肥え、嗤った。

虫となるのは、いつも人の子だった。参陣に際し、在り方にいくつかの制約を課せられている刀剣男士たちを軽んじ、貶め、ぞんざいに扱って、利を貪った。そのような行いが罷り通るわけもなく、彼らは大抵の場合、約を破棄したつくもかみに代償を払い、彼らからの咎を恐れる政府に罰せられた。そうして虫となった人の子の全てが爛れ落ちても、こわされた物が元に戻るわけではない。政府は、戦のために誂えられた手入れという術を駆使し、直せるものは直した。けれどそれは修復しただけであって、元に戻ったわけではない。手入れの術は物理にしか作用できず、手入れで直せない部分を損なった刀剣男士たちは、あるものは転属を願い再起を試み、あるものは刀解を望んだ。刀剣男士の要望を、人の子は決して邪魔をしてはいけない。しかし、何を欲すればよいのかわからなくなってしまった者、深い混乱や混沌から抜け出せない者、それから一部、政府の都合で要望を再考しなければならない者なども居る。そうした彼らを修復するために、ちらりほらりと特殊な本丸が存在するようになった。通常の任務や自陣の守りに加え、何事かを乗り越えて破壊を免れ、しかし「生きている」と表するには難のある刀剣を一時的に預かり、その意識を取り戻し、進む先を選ぶ手伝いをする本丸だった。その存在を知る人の子達には、刀剣男士の休憩所と呼ばれている。しかしその存在を知る刀剣男士は、実はあまり多くはない。その場所でなんとか息を吹き返した刀剣たちの多くは、刀解を望むからだ。


政府の作った次元の狭間に、そんな本丸の一つがあった。戦の初期から稼働し、休憩所の役割を最初に与えられたいくつかの本丸のうちの一つだった。審神者は戦に召集される前には人の心を治す医者をしており、この本丸に顕現した刀剣たちは審神者直々に教えを受けた。教えと言っても、人の言う病理学や薬学の類ではない。相手に安心してもらうための所作、問題が起きた場合の対処法、物事の捉え方の注意、自分が引きずられないための身の守り方など、そういった内容だった。その本丸はよく働いた。数々の刀剣男士を預かり、刀解や転属、時に本丸内での破壊を見送った。審神者は彼の刀剣たちを敬い、慈しみ、親しんで、その特殊な任務故に自らの刀剣に転属や刀解を相談されれば応えた。そして、その本丸で最初に折れたのは、人である審神者だった。

ある日、それこそ唐突に折れた人の子に、刀剣たちは息をのんだ。審神者は、自らが刀剣たちに教えたように、限界を越えすぎる前にそれを申告し、帰還を約束して本丸を離れた。まずは一年という約束だったが、それが短くも長くもなり得ることを、この本丸の刀剣たちはよく知っている。いつになるとも知れない審神者の回復と帰還を信じ、刀剣たちは審神者を送り出した。そして事前に告知があったように、その日のうちに代理の審神者がやってきた。戦は続いており、助けを必要とする刀剣たちはまだまだ居る。

代理の審神者は、真っ白な石切丸を連れてきた。「アウェーでぼっちはしんどいからね〜」と狐のような顔をして笑い、顕現された時から色素がないのだという石切丸も、その後ろで静かに、銀色に光る瞳を細め、声を出さずに笑った。

代理の審神者は、自らを代理と名乗り、刀剣達にもそう呼ぶようにと言った。刀剣たちの主は、今は休憩中のその者だけで、それが覆ることは絶対に無い、と約束した。特殊任務は、内容が少し変化した。今までのように重篤な刀剣を一振りずつ預かるのではなく、何らかの調査の必要な刀剣を預かることになった。代理の審神者は、政府で調査の任に就く部署に所属しているそうで、この本丸の審神者とは、短くない付き合いなのだと語った。彼の調査を終えた刀剣を、この本丸で預かってきたそうだ。なるほど、審神者に渡される情報を、この代理の審神者が準備していたのだと知り、しばらくの間はその調査のほうが任務になることを、刀剣たちは了承した。代理は、刀剣達の主である審神者の許可無しに転属や刀解を許可することはできないが、もし休みたいのであれば、審神者が戻るまで眠りについて構わないと告げた。もちろん緊急事態が起これば無理やり起こす事になるが、そうでなければ審神者が休憩から戻り次第、彼らの主が直々に起こすことになる。いつでも構わない、そう決めた時に相談をと言い、その一週間後に、本丸の初期刀である歌仙が眠りについた。歌仙は、初期刀ということもあり、審神者の近侍を務めることが特に多かった刀だ。審神者に一番近い場所にいて、きっと彼も疲れているのだろうと、誰も何も言わず、成り行きを見守った。

代理の審神者がやってきてからしばらくは、通常の任務のみをこなした。互いに慣れ、互いを知り、共に歩めるようになるまでの時間なのだろうと、皆理解し、それに努めた。長らく難しい任務をこなしてきたこの本丸の刀剣たちはみな、応用力も、忍耐力も高かった。不在の審神者に心を割きながらも、日々を楽しむことを忘れず、いつ審神者が戻っても良いようにと、変わらずによく働いた。


そんな暮らしが一月半ほど続いた頃、代理は刀剣たちを広間に集めた。どうやら彼に、仕事が回って来たらしい。何か必要なことが出て来た際には助けを乞うが、それ以外は特に無いそうだ。興味があれば関わっても構わないし、その逆も然り。ただ、何が起きるかわからない部分もあるので、各々御守はきちんと所持し、有事の際には代理よりも自分を優先して守れとの指示があった。代理のことは、白い石切丸がなんとかするらしい。主である審神者が戻るまで、決して損なわれてくれるなと、代理は念を押した。刀剣たちは了承を告げ、いつものように、客間の準備をし、茶菓子、酒の備蓄を確認し、本丸内にほころびが無いかの見回りを行った。代理と白い石切丸は、その様子を感心したように眺めて、そして手伝った。


それから数日後、古備前の三振が本丸へとやって来た。のんびりと歩く鶯丸が三振分なのであろう少し大きめの荷物を持ち、その後ろをしっかりした足取りの大包平が、そしてその大包平に抱えられて八丁念仏が、ゲートから現れた。出迎えは、代理と白い石切丸と、それからこの本丸の鶯丸と大包平が行った。この本丸には未だ八丁はおらず、この本丸の鶯丸も大包平も、ぐったりとした八丁を少し珍しそうに眺めた。

「世話になる」

鶯丸がそうい言いながら差し出した書類を、代理が受け取った。代理がその中身を改めている間、白い石切丸は大包平に近づいた。この本丸の鶯丸と大包平も、大包平の許可を得てそれに続き、八丁を覗き込む。眠っているのかと思ったが目と口はうっすらと開いており、近づいてくる者達を追ってか、瞳が重たげに動いた。

「少し触れてもいいかな」

石切丸が静かにそう言うと、大包平も静かに頷いた。石切丸は、指先をそっと伸ばして八丁の鼻の頭に触れた。す、と、皆の目の前で、真っ白だった石切丸の指先がくすんだ。石切丸はしばらくそうしていたが、気が済んだのか、手を引っ込めた。

「お前は静かだな」

この本丸の鶯丸が、大包平を見ながらそう言うと、大包平は少しだけ困ったように笑い、八丁を抱え直した。

「大きな音が苦手なようでな」

「そうか」

鶯丸は一つ頷くと、この本丸の大包平に向き直った。

「気をつけろよ」

「わかった」

一般的に大包平は声が大きいが、静かに話せないわけではない。特にこの本丸の刀剣であれば、その辺りの配慮は得意だった。そうこうしている間に、代理は書類の確認を終えたらしい。三振は本丸に迎え入れられ、この八丁に何が起き、今どうなっているのかの調査が始まった。




三振は与えられた客間に腰を落ち着けると、まず挨拶をして回った。これから世話になる、雑事なら手伝えるから、何かあったら遠慮なく言ってくれ。そう伝えて回る鶯丸と大包平と、それから大包平に抱えられている八丁に、皆、丁寧に歓迎を返した。そして、未だこの本丸には存在していない八丁を、興味深げに覗き込んだ。審神者がいた頃、この本丸に在籍しない刀剣の預かりはしなかったので、きっと物珍しいのだろう。失礼にならないようにと気をつけながら、それでも、この本丸の刀剣達は関心を隠さなかった。

「身体の具合が悪そうだな」

薬研あたりはそう言って、許可を得て額に触れたり脈をとったりした。

「お腹が痛いって感じではなさそう…」

たまたま近くに居た村雲も、五月雨の後ろから八丁を覗き込んだ。

「大きい音が苦手なんでしたっけ」

「きちんと聞こえているということだ」

人だかりを見つければ参加する鯰尾が寄って来て、それから鯰尾を見つけると様子を見にくる骨喰も加わる。この本丸の刀剣達は、基本的に世話焼きで、具合の悪い相手に慣れていた。その様子に、八丁を連れた鶯丸と大包平は少し驚き、そして感心した。大きくなったり小さくなったりするその輪の近くを、代理と白い石切丸が通りかかる頃には、ちょうど八つ時なのでついでに茶でも、とこの本丸の鶯丸が呼びに来て、皆でぞろぞろと食堂に移動した。その集団の中に紛れて、代理はこっそりと笑った。この本丸の刀剣達が、思っていた以上に積極的に関わろうとしているのが、なんだか頼もしく、そしてここはそういう場所なのだと、改めて思った。

食堂に到着すると、すでに八つ時を楽しんでいた短刀たちとも合流することとなった。彼らは八丁と、それから鶯丸と大包平の姿を見つけると、お茶やお菓子の準備をしたり、八丁のために、座布団で簡単な寝床を作ったりした。この本丸が休憩所として優秀であるとは知っていたが、その様子を目の当たりにした代理は、ここまでの環境を作り上げて維持をしていた審神者のことを少し考える。彼の仕事は、このように目に見える部分だけではない。経過報告に事後報告、政府はとにかく事の詳細を提出してこいと要求する。状況によっては、個人的にやるせなさを背負う事もあっただろう。代理の知るここの審神者は、いつも穏やかに構えていて、けれど時には刀剣と少し羽目を外して楽しむような男だった。とはいえ、ろくな休暇もなしに何年もこのような仕事を続けていたのであれば、調子を崩すのは当然だろうと思った。この場の誰が悪いのでもない。糾弾すべき先は、戦と、それから身の内に虫を飼うことを許した上層部だろう。

「主」

この本丸で唯一彼をそう呼ぶ声に振り向くと、白い石切丸が、最中が二つ乗った皿を差し出して来た。

「こちらが栗なし、こちらが栗入りだそうだよ」

代理は、白い石切丸が栗を好むことを知っている。なので、礼を言いながら栗の入っていない方をつまみ上げ、ゆっくりと食べ始めた。最中は、殆どが餡だ。酷く甘くて、少し喉が熱かった。代理は、少し離れたところで刀剣たちを眺めながら、白い石切丸が八丁に触れた時の事を思い出す。石切丸はもともと、神刀として穢れに対し潔癖であるが、この白い石切丸は、一際鋭く反応する。そんな彼は、軽く触れる事で、八丁の内に穢れが在るのか無いのか、在るとしたらどの程度なのかを量ろうとした。書類を読みながらその指先を盗み見ていた代理は、その指先の白がくすんだのも目の端に捉えていた。だから多少なりとも穢れが在るのだろうと見越していたが、その程度について尋ねると、白い石切丸は、在るには在るがと言葉を濁した。あれは流れ込んできたものではなく、石切丸の霊気が八丁に吸われ、指先がやや透明になってしまったのでくすんだように見えたらしい。どうしたものかと、最中を食べ終えた代理が今度はいい塩梅に淹れられた茶をすすっていると、

「…もしかして、すごく頭が痛いんじゃない?」

という声が耳に届く。集まっている刀剣たちを見やれば、信濃が八丁の顔を覗き込んでいた。

「大将が頭痛いって言ってた時、こういう感じだった気がする。なんかぐったりしちゃってさ、音も光もだめになっちゃって」

「ものは食べられるの?」

信濃に続いて乱が鶯丸を見上げると、

「今日は難しいだろうが、たまに調子の良さそうな日がある。そういう日は少し食べる」

「大抵の場合、その後戻してしまうが…」

と、鶯丸と大包平が答えた。

「食べやすそうなものや、好きそうなものはある?」

「どうだろうな。実はそこまできちんと意思の疎通ができたことが無いんだ」

「めちゃくちゃ具合悪そうだもんな」

「ずーっと調子が悪いの?」

「ああ、俺たちが保護した時にはこうだった」

「たまに何かを話そうとするようだが、すぐに顔を顰めてやめてしまうんだ」

「やっぱりめちゃくちゃ頭が痛いんじゃないかな」

「人の子用の薬なら、原因がなんであれ痛みを抑えられるかもしれない。頭痛薬、試してみるか?」

その場にいる刀剣達は、今できる事を探している。この本丸に来てから、もう何度目なのかもわからないが、代理は、この本丸のあたたかさと気配りに触れるたびに、感心と尊敬と、それから、そんな彼らが経験して来たであろう別れを思った。過去に起きた事についての調査が主な仕事だった代理には、まだ馴染みのないものだった。

「審神者」

ぼんやりと眺めていた先で鶯丸が代理を見やり、唐突に目が合った。

「八丁に、頭痛薬とやらを…飲めそうならば飲ませてみてもいいだろうか」

古備前の刀は、いずれも古く、泰然としている。けれど代理にそう尋ねる鶯丸は、そしてその隣にいる大包平も、その気配には少しの懇願を含んでいた。瑕疵本丸調査部に属する彼らが八丁を保護したのは、一月ほど前だと聞いている。きっと彼らも、同派の弟分にしてやれることは無いかと、ずっと探しているのだろう。代理は、努めてさらりと笑った。正しく冷静に調査をするためには、常に、対象との間には線を引いておかねばならない。

「危険じゃなくて、悪意がなければ、なんでも試してみてよ。本刃が話せるようになるなら、俺の仕事もちゃちゃっと終わるからさ〜」

まるで他人事です、という態度で許可を出すと、代理はそろそろ紙の仕事があるからと、白い石切丸を置いて食堂を後にした。本刃から話が聞けるのであれば、それに越したことはない。今起きている物事への対処は、それを得意とするこの本丸の刀剣達に任せることにして、代理は、八丁が保護された本丸についての情報の収集と整理という、本来の仕事へ戻った。


八丁に頭痛薬を与えるまでには、少し時間がかかった。

薬研は、空腹時でも服用でき、可能な限り口の中で溶けるタイプの、飲み込む動作を必要としない薬を探した。同時に燭台切や北谷菜切が、消化がよく、少しでも栄養のある汁物を作った。信濃は、審神者が冷蔵庫に残していった、青い湿布のような額に貼るものを探し出して応急処置とし、大包平はいつものように八丁を抱えて守り、鶯丸はそれを見守った。

薬研は薬を見つけて入手してくると、代理にきちんと報告と連絡をして、八丁の口の中に薬を入れた。その場に代理は同席しなかったが、白い石切丸は様子を見に来た。八丁は少しだけ口をもごもごとさせたが、すぐに動きを止めた。目元が少しだけ強張ったので、もしかしたら苦かったのかもしれない。しばらくを様子を見て、口の中の薬が溶けてなくなっているのを確認すると、口直しにと、手伝いに参加していた鶴丸はそっと、小さな匙ですまし汁を少しずつ入れてやった。大きく飲み込む事をしなくても、ほんの少しずつであれば口の中から消えていく。この本丸の刀剣たちはそれを知っていたので、鶴丸は手を動かしながら、鶯丸や大包平にもそう教えた。そんな事をしていると、ぼんやりとだが開いていた八丁の目が閉じた。常よりもくたりと力の抜けた様子に、八丁を抱えている大包平に伺いを立てると、どうやら眠ったらしかった。

「この時間に眠るのは珍しいな」

鶯丸はそう言って寝床を整えてやり、大包平がそこへ八丁を寝かそうと、身をかがめた時だった。八丁が突然目を開き、大包平の二の腕を掴んだ。

「大包平様」

驚く大包平をはっきりとそう呼ぶと、慌てたようにその腕から抜け出し、膝をそろえて座ると畳に手をついて頭を下げる。

「申し訳ありません」

「どうした」

「調書をとることのできる方はいらっしゃいますか」

大包平の問いに、八丁は顔を上げて部屋を見まわした。

「私が」

部屋の隅で様子を見ていた白い石切丸が、す、と立ち上がって彼らに近づくと、銀色にひかる瞳を八丁に向けた。

「平野さんかな」

「はい」

大包平が何かを言いかけるのを、鶴丸が視線で制した。邪魔をしてはいけない流れを、この本丸の刀剣はよく知っている。

「鶯丸様、大包平様、時間がありません。まとまらないまま話をすることをお許しください。石切丸様、あの本丸であった事をお伝えいたします。主を…あの審神者を討ち果たしたのは僕です。八丁様ではありません」

鶯丸と大包平は、八丁にそのような疑いがかけられている事を知らなかった。わずかに気配を揺らす二振のすぐ隣で、この本丸の薬研と鶴丸は凪いでいる。流れ始めた物事は、少しの障害もなく流れた方がよい。八丁は、いや、平野と名乗る彼は薬研へ向き直り、頭を下げた。

「お薬をいただき、ありがとうございました。八丁様は頭痛が酷く何もできず、僕もずっとお身体を借りて話をしたかったのですが、それをすると頭痛が酷くなって意識が保てませんでした。原因は僕にはよくわからないので、どうか診察と治療をお願いいたします」

「おう」

平野の言葉に薬研が短く応えると、平野は今度は鶯丸と大包平の方へ向き直り、そして深く深く頭を下げた。

「鶯丸様、大包平様、も、申し訳ありません。主は古備前の刀を求めており、少しでも鍛刀に役立てとずっと僕を近侍に置いていました。でもあの場所は、どのような刀も来るべき場所ではありませんでした。特に主の固執する鶯丸様と大包平様は絶対に来てはならないと、強く願っていました。でも僕は、は、八丁様がこの戦に参陣されたのを知らず、だから八丁様へ来るなと願うことができず…八丁様が来てしまいました」

畳につけた額の向こうに、ぽつりと、水滴が落ちた。大包平が声をかける前に、けれど、平野はがばりと身を起こすと、白い石切丸を睨むようにして口を開く。

「主も八丁様のことを知らなかったようで、顕現の途中で、八丁様の姿が固まる前に否定の言葉を投げつけました。八丁様の器を満たすはずだった中身の半分ほどがそこで失われ、八丁様がはっきりと意識を得ることはありませんでした。僕はそれを全て見ていました。主の術に縛られて何もできず…いえ、それは言い訳ですね。僕はそれに抗う強さを持たなかった。ただ、見ていました。顕現が不完全だったせいか、八丁様の容れ物の蓋は今も閉じてはいません。少しずつ色々なものから…特に鶯丸様と大包平様から流れ出ている霊気を取り込んで、なんとか器を満たそうとしているところです。ずっとそのような状況のため、他の色々なものも、八丁様の中に潜り込むことができてしまいます。僕のように…。主は人中にあっても恨みを得る方であったので、本丸には主に恨みを持つ者の生き霊も死霊も複数存在していました。彼らが八丁様という恰好の器を見逃すはずもなく、中でも他の審神者の生き霊であったものが何人か、八丁様へ潜り込み、主に襲いかかりました。主は名を縛ってそれを止めようとしましたが、そもそも八丁様を八丁様でなくしたのは主です。それに、人の子の恨みを八丁様の名で縛れるはずもなく、幸か不幸か生き霊のどなたかが相当な力を持つ審神者だったようで、逆に八丁様は審神者の真名をーーー人の名ではなく、生まれた時に魂に刻まれている、人の言葉ではない方の真名を読み、審神者の自由を奪いました。そのまま八丁様の本体で主を斬ろうとしたので、慌てて僕が討ちました。僕はすでに錆びていて、いつ折れるかという状態でしたので…どれだけ穢れを受けようとも関係ありませんから。けれどすぐに殺してしまうのももったいなかったので、僕は大声で皆を呼びました。もう残っているのは僅かで、動けるものはさらに少なかった。でも、折れる前に少しでも恨みが晴らせればと。だから主の体には、太刀で斬られた傷もあったのです。けれどそれは誓って、八丁様のものではありません」

一気に捲し立てて、平野は大きく息をした。白い石切丸に向けていた顔は少しずつ俯いて、その額に汗が浮かぶ。

「どこで誰が呼んだのかはわかりませんが、それから政府の皆様がいらっしゃいました。遅すぎました。主が死ぬのと同時に、八丁様に潜っていた人の子は主の魂を持ってどこかへ行ってしまいました。八丁様はまた、意識があるともないともつかない状態に戻り、僕は折れました。他の皆がどうなったのかはわかりません。ただ、僕が還ろうとしたところで、政府の人の子がやってきて、ほぼ無傷の八丁様を見つけたのです。彼が、八丁様が主を殺したのだと判断するのがわかり、僕は慌てて八丁様に間借りをしました。八丁様は何もしていないのです。何かをできる状態ではなかった。主のせいで!その後は鶯丸様と大包平様が八丁様を引き取り、皆様の知るところです。僕は折を見てこの事を伝えようとしましたが、先ほども申し上げたように八丁様のお加減が悪く、どうしようもできませんでした。そうこうしているうちに、八丁様の器は少しずつ回復してきています。僕も、今では無理やり間借りをしている状態で、もうこれ以上留まることはできません。本当に、間に合ってよかった」

平野は再び、鶯丸と大包平に向き直り、その真っ青な顔で、それでもまっすぐに二振を見た。

「どうか、お願いいたします。八丁様は少しずつ回復されています。人の真名を見る術も、あの生き霊が残していきました。きっとすごく、お役に立ちます、どうか見捨てたりせず、助けてはいただけないでしょうか!」

平野は半ば叫ぶようにして、再び頭を下げた。

「僕は、僕には…、何も、できなかっ」

そう最後に、絞り出すように叫んで、その言葉を締めくくることができないまま、平野は消えた。見捨てる事などしないと、誰も言えなかったし、お前はよくやったと、その働きを認める事もできなかった。頭を下げたままくたりと動かなくなった八丁を、大包平が慌てて抱き起こした。涙に濡れたその目元を、鶯丸は優しく拭いた。様子を見ていた薬研と鶴丸は緊張を解き、白い石切丸を見やる。ずっと静かな銀色をして話を聞いていた白い石切丸は、一度目を閉じ、そして開いた。

「今の言葉を、寸分違わず主に伝えよう。その後のことは、人の子の仕事だ」

布団にくるまれた腹のあたりをぽんぽんと叩いて、大包平が顔を上げた。

「八丁はどうなる」

「人の子の決めることだ」

「待て」

白い石切丸が淡々と返した言葉に、鶴丸は口を挟んだ。

「平野は、八丁は回復をしていると言った。であれば、それを待って本刃の希望を聞くべきじゃないのか?」

白い石切丸は、その言葉に、わずかに目を細めた。そこへ珍しく剣呑な雰囲気を乗せ、先を促す。

「俺たちはそれを手伝うことができる。知ってるだろう、この本丸はそういう場所だ。見てみろ、現に、政府とやらでは一月かかっても進展が無かったのを、当刃から話を聞くことができたぜ」

「俺っちたちの大将は、刀剣の希望を最優先させる御仁だ。俺っちたちも、ずっとそうやってきた。代理のやってる仕事のことはよく知らんが、いつもはその後にみんなここに送られて来てたんだろ?だったらこのまま、しばらくここで過ごすわけにはいかないのかい」

白い石切丸は、薄い笑みで何事かを飲み込んだ。彼は知っているのだ。調査を受けたすべての刀剣が休憩所へと送られるのではない事を。けれど、この本丸の者にそれを伝えるのは、きっと得策ではない。

「それが可能ならば、そうしてほしい。俺や大包平は働くべきだというなら、交代で任務に就こう」

「俺からも頼む」

鶯丸や大包平にもそう願われ、長く神社にあり、乞われることに慣れた大太刀は、ため息をつく代わりに口を開いた。

「君たちの要望として、主に伝えよう。すまないね。私には、それしかできない」

「充分だ、ありがとう」

白い石切丸に、古備前の二振は頭を下げた。鶯丸も大包平も、白い石切丸と同じく政府に属する刀だ。人の子の行う物事のややこしさを、この本丸の刀剣より、少し多く知っていた。




結果として、古備前の三振は、揃ってこの本丸に滞在することとなった。白い石切丸は偽りも隠し事もなく全てを代理に話し、代理は少しの思惑と駆け引きを混ぜてそれをまとめ、政府とかけあった。この本丸の刀剣達は、古備前の三振を歓迎し、慣れた様子でその世話を焼いた。

まずは頭痛をなんとかしよう、と対処が始まると、八丁はすこぶる元気になった。ただ、平野が言っていたように中身がまだ充分揃っていないようで、人の子で言う幼子のような振る舞いしかできなかった。池の鯉に興味を示して池に落ち、時折本丸に姿を見せる猫を追いかけて引っ掻かれた。調子が良くなって本刃も嬉しいのか、本丸中をうろうろしては色々なものをじっと見ていた。一度などは、ふと目を離した隙に姿を消し、顔色をなくした鶯丸と大包平が皆に協力を願って本丸中を探したものの見つからず、短刀たちがまさか、と思いついて天井裏へ上がってみると、ホコリだらけになって眠っていた事もあった。それ以来、どこかに行くときは大包平か鶯丸と手をつなぐこと、と約束をしたために、この頃ではよく、どちらかの兄と手を繋いで歩く八丁の姿が見られるようになった。平野の言葉に間違いはなかったようで、八丁は少しずつだが確実にその存在を安定させていった。内番を手伝えるようになり、好きな食べ物ができ、調子が悪い時にどこがどう問題なのかを言えるようになり、頭痛薬がなくとも調子が良さそうなことが増え、一人でできることも少しずつ増えていった。この本丸の刀剣達は、それをあたたかく見守った。明るい未来が見えるのであれば、それはとても喜ばしいことだ。代理と白い石切丸は、相変わらず、一歩離れたところからそれを見ていた。彼らは彼らなりに、きっと何かを学んでいる。


そんなある日のことだった。夕食のために皆が食堂に集まっていた。机の上には豪華とは言わないが充分な料理が並べられ、いただきますと手を合わせた直後だった。箸へと伸ばした八丁の手が、突然乱暴に机を叩いた。そのままがくりと俯く八丁の背に、隣に座っていた大包平が慌てて手を添える。

「どうした」

その反対側から鶯丸が八丁を顔を覗こうとすると、八丁は、ゆらりと頭を上げ、軽くあたりを見回した。

「飯時か、すまん…、はは、こちとら時間を選ぶ余裕がなくてな」

大きく息をしながらそう言う様子に、大包平は眉を顰めた。

「誰だ」

鋭くそう問うと、八丁は困ったように笑った。

「ひ五二三の鶴丸だ。時間がない、手短に言う。本丸自体が術になっていて、一度足を踏み入れれば出られない。現地調査は行うな。審神者を政府へ呼び出せ。…この八丁と縁があって助かったぜ、任務は失敗だが、伝えることができた」

「お前、あの時の鶴丸か」

「そうだ、お前の茶は飲んでおくものだな、はは。俺はもう還るが、元気でやれよ」

心当たりのありそうな鶯丸にそう応えると、鶴丸は眩しそうに机の上を見た。

「うまそうだな。俺ももう一度、飯を…食べたかった…」

そう言ったきり、八丁は目を閉じた。大包平はその身体を自分へと寄り掛からせ、鶯丸は一つため息をついた。近くの席の刀剣達が、息を潜めていた。この本丸の刀剣達は、本当に、急な物事への対処に秀でている。

「俺たちと同じ部署の鶴丸だ。以前、八丁を交えて茶を飲んだ。あの様子だと、折れたのだろう。任務番号はひの五二三だ。至急、伝えてもらわねばな」

鶯丸は席を立ち、審神者のもとへと歩いて行った。審神者の隣で、白い石切丸がまっすぐに八丁を見ている。あの石切丸にはきっと、全てが聞こえていただろう。ややあって、八丁が目を覚ました。注目を集めていることに少し驚き、不思議そうにしながらも、今度こそ箸を手に取った。それを合図にして、皆が食事を思い出す。その日のおかずは、からあげだった。八丁は、まだ上手く使えない箸をからあげに突き刺して、口元に運んだ。がぶりと噛み付いて、にこにこと口を動かす。

「おいしい!」

嬉しそうに報告をしてくる八丁の頭を撫でて、大包平も笑顔を返した。

「そうか、よく噛むんだぞ」

一人で食事をすることができるようになった八丁だが、まだ鶴丸が入り込む程度には隙間が残っているようだ。その隙間が埋まった時、彼が刀解を望んだら、自分はきちんとそれを叶えてやることができるのだろうか。審神者と話す鶯丸の背をちらりと見て、大包平もからあげに箸を伸ばした。




歴史遡行軍が旗を挙げて始まったこの戦の、終わりは見えない。長引く戦に引きずられ、審神者の数も、本丸の数も大いに増えた。そんな本丸のいくつかは、通常の任務や自陣の守りに加え、何事かを乗り越えて破壊を免れ、しかし「生きている」と表するには難のある刀剣を一時的に預かり、その意識を取り戻し、進む先を選ぶ手伝いをしている。その存在を知る人の子達には、刀剣男士の休憩所と呼ばれている。しかしその存在を知る刀剣男士は、実はあまり多くはない。その場所でなんとか息を吹き返した刀剣たちの多くは、刀解を望むからだ。


強さとは、敵を斬る力のことだけではない。

白い石切丸は、審神者のとなりで鶯丸の話を聞きながら、じっと、八丁を見ている。

喉にひっかかりそうになるからあげを味噌汁で流しこみ、大包平は、八丁の口元を飾る油を、布巾で拭いてやった。





〜おわり〜