この本丸にいる者は、多かれ少なかれ、聞いた事があるはずだった。心が折れるその音を。それはいつも唐突に訪れる。足音も気配もさせず、常にぴたりと背中に張り付いている疑心が、突然目の前に躍り出る。そして大声で笑うのだ。ほらみろ、お前にはなにもできないのだ、と。差した指で、疲弊した心を突く。擦り切れたそれは、いとも簡単に折れてしまう。
組み盃を返せ
9/12/2022(初出 8/17/2021)
空の心配りも、木々の労りも、惜しみなくはあるが、おそろしくきまぐれだ。風の抱擁も、土の扶翼も、得られることは僥倖であると、忘れてはならない。
よく晴れた日だった。やわらかい日差しが皆を照らしていた。風はせせらぎのように、木々のさざめきをちろちろと運んだ。掃除のされた清らかな敷地に建てられた、ゲートと呼ばれる通り道、そのそばに、きらきらと光るものがこぼれていた。穏やかな審神者を主とし、落ち着きをその質とする本丸は、未曾有の緊張の中にあった。突いた蜂の巣を、みな、身の内になんとか押し留めている。
「なに、どーゆうこと」
顕現したばかりで人の身の生活すらままならない姫鶴一文字は、心を隠すことはできても、抑える事はまだできなかった。長い髪を怒気と混乱で膨らませて、先ほどまで人の形をとっていたそのきらめきに、手を伸ばす事すらできずにいる。
「…どういう事だって聞いてんだよ!」
顕現したばかりで人の身の生活すらままならない姫鶴は、顕現した先の本丸のことを、まだよく知らなかった。
長引く戦、増強される人員。刀剣男士を率いる審神者は、その数を星の数ほどに膨らませている。人が増えれば、皆が同じ場所に向かって、同じように進んでいくのも困難となる。怠けようとする者、個人の欲を満たそうとする者、疲弊する者、我を失う者、道を外れる者、それからそもそも、道を歩んでいなかった者。誰もが清い心を持つわけでも、高い志を持つわけでもない。刀剣男士は使役するものではなく共に戦うものだと、理解できない者もいる。人の身同士でさえ、集まれば問題が起きるのが常であるのだ。異なる理屈を持つものたちが数多集まって、問題の起きないはずがない。時の政府はそれを見越していたのか何なのか、身体能力をはじめとしたあらゆる能力の劣る人間への干渉を、刀剣男士にある程度禁じる約を施した。
その結果、何が起きたかといえば、人の身勝手に振り回され、与えられた心身を虐げられ、疲れ果て、立ち尽くす事しかできなくなるものが少なからず現れた。刀剣男士は、人を模してつくられている。見える傷は手入れで治るが、見えない傷は自ら治すしかない。心を与えられて数年の彼らにそれは難しい。そのために、そういった刀剣たちを受け入れ、共に過ごすための本丸がつくられるようになった。審神者も刀剣も、知識や適正が必要となるその本丸は、助けを求める刀剣の数に対して、あまりにも少ない。姫鶴の顕現した先は、そういった本丸の一つだった。
とある山鳥毛が、たすけを必要としていた。この本丸の山鳥毛は、そして則宗、日光、南泉も、役目に必要な教育を終えていたが、姫鶴はまだ、学習も終えていなかったし、この本丸が刀剣を保護している場面も出会ったことがなかった。審神者はその気性を鑑み、この本丸への受け入れは危険だと判断した。すんなりと、その山鳥毛は、他の本丸への滞在が決まった。しかしその前に、一度でいいので元気にしている一文字の者たちを見たいという希望が寄せられた。幸い、この本丸には姫鶴を含めた全ての一文字が揃っていたし、現在保護滞在している刀剣もいなかったので、刀剣たちとも協議の上、審神者は承諾の返事をした。
本丸の皆がそれぞれの日課をこなしている、よくある一日だった。ある者は畑で精を出し、ある者は馬と戯れていた。日和もよく、気持ちよさげに洗濯に夢中になっているものもいた。厨では夕食の支度とともに八つ時の準備が進められていた。そんな穏やかさの中、一文字の刀剣たちは山鳥毛を出迎えた。この本丸の山鳥毛は、審神者と共に少し離れた物陰から、それを見守っていた。姫鶴には、労りを持って接するようにとだけ伝えられた。山鳥毛は、くたびれた様子で訪れた。きちんと刀を履き、けれど薄暗い影を背負っていた。南泉が客間へ案内しようとしたのを、やんわりと断ったようだった。ゲートの前にぼんやりと立って、山鳥毛はしずかに面々を見渡した。則宗、日光、南泉、そして姫鶴。サングラスを外して、その赤い瞳で彼らを撫でた。
赤は、魔除けの力を持つとされる。目元や口元に紅を差すのも、その穴から悪いものが体内に入らないようにという願いがかけられている。山鳥毛が、願いを、同門に与えたのに、少し離れた所で様子を見ていた審神者も気づいた。優しい刀だ。道を見失ってなお、他者の幸いを願っている。
この本丸にいる者は、多かれ少なかれ、見た事があるはずだった。心が折れるその刹那を。それはいつも唐突に訪れる。足音も気配もさせず、常にぴたりと背中に張り付いている疑心が、突然目の前に躍り出る。そして大声で笑うのだ。ほらみろ、お前にはなにもできないのだ、と。差した指で、疲弊した心を突く。擦り切れたそれは、いとも簡単に折れてしまう。
山鳥毛は、ふと、思い出したようにその場で砕け散った。
よく晴れた日だった。やわらかい日差しが皆を照らしていた。風はせせらぎのように、木々のさざめきをちろちろと運んだ。掃除のされた清らかな敷地に建てられた、ゲートと呼ばれる通り道、そのそばに、きらきらと光るものがこぼれおちた。
「なに、どーゆうこと」
顕現したばかりで人の身の生活すらままならない姫鶴一文字は、心を隠すことはできても、抑える事はまだできなかった。長い髪を怒気と混乱で膨らませて、つい先ほどまで人の形をとっていたそのきらめきに、手を伸ばす事すらできずにいる。
「…どういう事だって聞いてんだよ!」
姫鶴は、人の姿を得てまだ数日の刀剣だった。この戦には義があるのだと、上杉の者らしく、やや潔癖な信条を持ってここに居る。その姫鶴の目の前で、破片であったきらめきは空気に溶けていった。やわらかな風が、ふわりと全てをうやむやにしてしまう。
「落ち着け」
則宗が制するが、姫鶴は険しい顔のまま、ぎりりと歯を鳴らした。
「この本丸は、こういう場所なのだ」
山鳥毛が、審神者を伴って物陰から歩み出た。その姿を見て、姫鶴はほんの少しだけ、顔を上げる。山鳥毛は、ゲートの前にかがんで、まだ少しだけきらめいている地面を撫でた。
「…誰にも、言うことは無いと思っていたが、この戦に参じるにあたり、守るべきものを守るため、一つの約を結んだ」
山鳥毛は顔を上、そこに揃っていた一文字の面々を見渡し、少し離れた場所からこちらを窺っている上杉所縁のものたちをちらりと見やった。
「もしも義に反する行いをしようとすれば、その刹那に自壊する、と」
山鳥毛は、一文字の頭でもあるが、上杉の秘蔵の刀でもある。彼の守るべきものは、きっと、人や物だけではない。同じく上杉を拠り所とする姫鶴には、それが痛いほどわかった。だからといって、目の前で砕け散った山鳥毛のことを、納得もできなかった。山鳥毛は憮然とした姫鶴に、困ったように笑いかけた。
「だからこそ、小鳥が無事だ」
自壊した山鳥毛が、本当は何をしようとしたのか。それはこの本丸の山鳥毛にもわからない。けれどあの山鳥毛は、この本丸の山鳥毛の隣で様子を見ていた審神者を認識し、砕ける直前に、一瞬であったが目を向けていた。赤は、魔除けの力を持つとされる。魔とは、善を妨げ、悪を為すもの。あの山鳥毛にとって、人の子は「魔」であったことだろう。
「皆の元気そうな姿を見て、安心したのではないか。だからこそ恨みに負けたのだ」
審神者を労り、山鳥毛はそう続けた。
「でもあの人、」
「私たちは、人ではない」
何かを言いかけた姫鶴の言葉を、珍しく、山鳥毛は遮った。色のついたガラス越しに、沈みゆく赤色が、輝く青色を照らす。
「人ではないから、こうして、こころと一緒に折れてしまうのだ」
山鳥毛は、言い聞かせるように言うと、何も言えずに立ち尽くす姫鶴の手を引き、日光と南泉に茶と茶菓子の用意を頼み、則宗と目線を交わして部屋に戻っていった。きっと、姫鶴を宥めるためだ。そしてそれは、審神者への気遣いに他ならなかった。
一部始終を、審神者は政府に報告しなければならなかった。山鳥毛の受け入れを他の本丸に託した経緯から、姫鶴の育成計画までを含めた、全てを。こんなことを、もう六年間も続けている。本丸には刀剣が増えた。皆、よくやってくれている。中には役目に耐えられず、もしくは様々な事実を受け入れられず、望んで刀解されていったものも居た。この本丸に訪れる刀剣全てが、意気揚々と前線に戻るわけでもない。
「主、失礼するよ」
歌仙が、暖かい茶と小さな饅頭を盆に乗せて、審神者の部屋を訪れた。初期刀である彼は、誰かがいなくなった日はこうして、暖かい飲み物と甘い食べ物を運んでくる。その別れが門出であっても、刀解であっても、破壊であっても。人の身というものは、冷えると心にも不具合をきたすという審神者の教えから、歌仙なりに心を砕いているのだった。審神者は、歌仙に礼を言って、部屋の茶器でもう一人分、茶を淹れた。その一連の流れは、儀式のように、この五年間、続いている。
審神者が饅頭を齧ると、中にはほんのりと甘いこしあんが入っていた。
「どうだい?小豆が作ってくれたんだよ」
歌仙が、包むような声をかけた。審神者は、かじった分だけ饅頭を口にいれたまま、息を吸って、吐いた。感情を滲ませもせず、いつもの笑顔を浮かべ、しかし目を伏せた。ぽつりと、誰も見たことのなかった雫が落ちた。審神者は、その大きくも小さくもない手のひらで、目元を覆った。
「…はぁ、」
この本丸にいる者は、多かれ少なかれ、居合わせたことがあった。心が折れるその刹那に。それはいつも唐突に訪れる。足音も気配もさせず、常にぴたりと背中に張り付いている疑心が、突然目の前に躍り出る。そして大声で笑うのだ。ほらみろ、お前には何もできないのだ、と。差した指で、疲弊した心を突く。擦り切れたそれは、いとも簡単に折れてしまう。折れてしまうが、審神者は人であるので、その場できらきらと空に溶けはしなかった。
「あるじ」
呼びかける歌仙に、審神者は力なく笑って見せた。
「歌仙、ごめん」
謝ることなど何もないはずの審神者は、もう一度ごめん、と繰り返し、深く頭を下げた。
~おわり~