浦島虎徹には記憶がある。とてもたくさんの記憶だ。誰のものなのか、もはやわからない。
覚えていたいものごとなど、ほんの一握りしかなかった。その一握りに、必死に縋り付いている。
全てを忘れてしまいたくて、全部知らなかった事にしたくて、けれどどこからを捨ててしまえばいいのかわからなくて、きらきらしたその一握りだけは捨ててしまえなくて、浦島虎徹は、
こどく
7/3/2021
蜂須賀虎徹だ。虎徹の真作の。俺はこの本丸の初期刀ではないが、かなり初期から役目に就いている。この本丸は少し特殊な任を負っていて、この本丸の刀剣達は皆、必要となる教育を受けている。
この本丸は、よく他の本丸から刀剣を受け入れている。所属刀剣を増やすとか、そういう事ではなく、それこそ星の数ほどにまで増えた本丸のいくつかで、意図的、もしくは突発的に壊されたり、捻じ曲げられたり、過度に疲弊させられたりしたものがやってきては、手入れでは治せないその不具合を時間をかけて治し、戦線に戻ったり、政府とやらの職に就いたり、あるいは刀解されたり、ごく稀に破壊されたりする。いずれも、ともすればその場に止まりがちなこころというものを労り、癒し、前でも後ろでも、横道にでも、一歩を踏み出す手伝いをしている。遺憾なことに、蜂須賀虎徹は比較的頻繁にこの本丸に訪れる。半数くらいが初期刀で、だいたい全員鬱々とした様子で訪れては、しばらく過ごした後に溌剌として戦場へ戻っていく。
この本丸では、訪れた刀剣と同じ刀剣が、世話係に任命され、状況に応じて選ばれたもう一振が補佐を任じられる。蜂須賀虎徹が訪れる時、補佐は大抵、長曽祢が勤める。俺たちはたぶん、比較的仲が良い。この本丸では、自身の抱える問題とは早期に向き合わされ、乗り越えさせられる。そうでなくては、この本丸に訪れるものたちに引きずられ、共倒れになるからだ。もちろん、向き不向きも、個体差もあるから、主に呼ばれて顕現した刀剣でも、他の通常の本丸に移籍したり、刀解されたものも居る。誰の選択も、どのような選択も、俺たちは受けいれなければならない。本丸の仲間であっても、他から訪れている仲間であっても。
この本丸に浦島虎徹がやってくるのは、珍しいことだったが、初めてでは無かった。前回は長曽祢が補佐に任じられたが、今回は俺になった。いつも主は、どうしても避けなければならない注意事項などは別として、やってくる刀剣についてほとんど何も教えてはくれない。自分の目で見て、自分の耳で聞いたことから判断をすべきだという方針からだった。だから俺たちは、ここを訪れては去っていく様々な刀剣達に何があったのか、彼らが話すことが無ければ知らないままだ。最初は少し腑に落ちなかったが、長くこの本丸にいると、それは必要なことなのだと思えた。
しかし今回、主は、やってくる浦島虎徹について、浦島と俺に、いつもより少しだけたくさん話をした。前の本丸で何があったのかの全ては知らないままだったが、浦島虎徹が、浦島虎徹では無くなってしまったことを聞かされた。その浦島虎徹は前の本丸で審神者を殺し、自らも折れようとしたが、自覚なく持たされていた御守に救われ(救われて「しまい」、と言うべきなのかもしれない)、その後はぼんやりと、意識があるのか無いのかわからないような状態でいるらしい。殺された審神者が名を縛る術を得ていたために、自ら名を捨てたのではないかと推測されている。けれど、当の浦島虎徹が何も話さないので、真相はわかっていない。浦島虎徹を浦島虎徹に戻し、刀解であれ破壊であれ、彼を本霊へとかえすこと、それが今回の理想的な終着点とのことだった。
ひとつ、審神者達がよくしている勘違いがある。疲弊しすぎたり傷つけられたりした刀剣男士のこころは、いびつになりすぎて本霊にはかえることができないというものだ。事実は全く違う。どんな形になろうと、俺たちはもといた場所へかえる。その結果存在に傷がつくとしたら、切り捨てるのは自らの欠片ではなく人の子のほうだ。俺たちは契約によって人の子と共闘しているに過ぎない。人の子への愛はあれど、それは無限のものではない。俺たちの主は、それをきちんと理解していた。俺たちが本霊へかえるために必要なもの、それはただ一つ、自分が何者であるかという記憶だけだ。
やってきた浦島虎徹には、その記憶が無かった。無いのかどうかも、実は定かでは無い。彼はこの本丸に運ばれてきた時も石切丸に抱き抱えられていたし、目を開きもせず、かといって固く閉じもせず、自分から動くことは全く無かった。起きてはいないのだろうが、眠ってもいない。もう、ずっと。俺と浦島は、そんな浦島虎徹をできるだけ外の空気を吸わせ、陽の光を浴びさせている。浦島虎徹の滞在する部屋の前の濡れ縁に座り庭を眺めたり、背負って厩や畑を訪れたり。刺激的なものは避けたほうがいいだろうということで、道場や手入れ部屋、戦場とつながるゲートの近くなどは避けている。そうして、もうすぐ二ヶ月が経とうとしていた。
この本丸にやってくる刀剣で、しばらく何の変化もないことは全く珍しいことではない。なので、皆、慣れている。通りすがりにそれとなく声をかけたり、甘味を差し入れてくれたり。俺たちはそれらをありがたく受け取って、浦島虎徹の取り分を必ず残した。悪くなってしまうギリギリまで。
変化はいつも、突然やってくる。そろそろ景趣を変えようか、と、主が現世の季節に合わせて本丸の景観を塗り替えた。新しい景色は、薄紫の花が雨のように垂れるものだった。俺たちは浦島虎徹を抱えて、花が一番綺麗に見える縁側を借りて座った。ぶうんと音がして、どこからか蜂が飛んできた。虫は平気だが、別に本丸にまでいなくても良いのではないかと折に触れ思う。べつに、虫は平気だが。
浦島と、とりとめのない話をしながら茶を飲み、甘味をいただいた。
ふわりと、少し風が吹いて、高い位置でくくった俺の髪が、寄り掛からせていた浦島虎徹の鼻の頭を撫でた。
「……髪、」
蜂の羽音より小さな声だったが、それが浦島虎徹だとすぐにわかった。浦島は瞬時に口をつぐみ、俺に目配せをした。
「ん?」
俺が声をかけながら、肩のあたりを見ると、浦島虎徹ははっきりと目を開いていた。その青は見慣れた青とは違っていた。
「…手入れ、を、してもらった…のか?」
浦島虎徹はひどく疲れた声でそう言いながら、俺の髪に手を伸ばし、そして、触れずに手をひっこめた。
「きれいだ…高く、売れる…のは、当然だな…」
「…俺の髪は売られない。ここがどこだかわかるか?」
名前を、軽々しく呼んではいけないと言われている。名前を呼ばれると、自分は浦島虎徹ではないと暴れ出すのだと。
「どこでもいい…蜂須賀がきれいだから、あとはどうでもいい」
浦島虎徹は長い息を吐きながらそう言って、目を閉じた。俺は肩を抱いてやって、
「少し眠るといい」
一つだけ知っている、子守唄を歌ってやった。
浦島虎徹は、それから数日間眠っていた。今回は完全に眠っていたので、無理に起こしたり外に連れ出したりする事なく、寝巻きを着せて布団にくるんだ。寝返りも打たず、微動だにしなかったので、時々ひっくりかえしてやった。触れた身体はあたたかかった。
そんな彼は、ある朝に目を覚ました。その日は浦島と俺は二人ともその部屋で寝ていたので、三人で一緒に目を覚ました。浦島虎徹はひどく混乱した様子だったが、特に暴れたりという事はなかった。意識がはっきりしたので混乱しているのだとわかった。睡眠というのは偉大だ。主から教わってはいたが、俺は時々、本当にびっくりする。
俺たちは浦島虎徹に、ここがどこなのかを説明した。浦島が促すので、殆ど俺が話した。浦島はといえば、話を聞く浦島虎徹を、じっと見ていた。話が終わると、浦島虎徹は、再び何も話さなくなってしまった。けれどその目はきちんと開いていて、意識もはっきりとしているようだった。食事や風呂を少しずつ始め、少しずつ自分の足で歩かせ、そして、相変わらず庭を見たり厩や畑に顔を出したりしながら過ごした。俺たちは、辛抱強く見守った。
そうしてしばらく経った頃、いつかのように藤棚を眺めていると、遠征任務から戻った長曽祢が顔を出した。意識のある浦島虎徹を見て相好を崩し、声をかけようとした、その時だった。
「あんた、長曽祢虎徹だな」
「そうだ」
突然、浦島虎徹が立ち上がって、長曽祢に詰め寄った。浦島と俺も反射的に立ち上がるが、長曽祢がそれ以上を制した。
「虎徹の、贋作だな」
「そうだ」
「ということは、長曽祢虎徹は、元々の名じゃないな」
「まあ…そういうことになる」
浦島虎徹の口から発せられているとは思えない内容に驚いた。驚いたが、平静は保たねばならない。変化が訪れる機会はそう多くはなく、そして、俺たちはその変化が、より良いものとなるように導かなければならない。
「あんたの本当の名を、俺にくれ」
浦島虎徹は、縋るように長曽祢の襟を掴んだ。
「俺は浦島虎徹だけにはなることができない。でも、誰かにならなきゃ終わることもできない。使ってない名があるなら、俺にくれ!」
「それはできない」
浦島虎徹の大声など、初めて聞いた。そしてそれを、いつもの長曽祢の声が、宥めている。
「他の誰かになることは、なにものにもできない。お前もわかってるんだろう」
浦島虎徹は、何かを叫ぼうとして、やめた。叫ぶために吸った息を、大きく吐いた。浦島虎徹は長曽祢から手を離し、ごめん、と小さく謝った。目を覚ましてからの彼は、一貫して理知的だ。それが、少しおそろしかった。
その夜、浦島虎徹と浦島から、改まって訪いを受けた。
「兄ちゃん、一個だけ、こいつをこのままの状態で、浦島虎徹にかえす方法がある。知ってるでしょ?」
「俺は、反対してる」
二人ともが俺の前に正座をして、真っ直ぐにこちらを見てきた。浦島の言っているのは、連結だ。連結には、制限がない。手で触れられる部分をとかし、手で触れられない部分を取り込む、そういうわざだ。確かに、無銘の状態の浦島虎徹を浦島に連結すれば、いずれ浦島が本霊にかえる時に、浦島虎徹も一緒にかえることができる。しかし、連結は『手で触れられない部分を取り込む』わざだ。取り込む際に、記憶も一緒に入ってくる。だからこそ連結は、未顕現の刀剣で行うことが、暗黙の了解とされている。
「俺が欠けることで、浦島虎徹が傷ついてしまうのはわかる。でも、俺はどうしても浦島虎徹にはなれない。俺は、こわい、名を持つ事は、支配されることだったから。この浦島虎徹ともたくさん話した。蜂須賀には言えないこともいくつもある。俺は浦島虎徹にはなれない。でも、記憶は、誰にも渡したくない、渡せない」
浦島虎徹は、いつになく必死に話した。その心中を、俺は充分に推しはかることができているつもりだ。この本丸を訪れる刀剣は皆、それぞれ、凄惨な経験を持っている。できることなら、彼の願いを聞き入れてやりたい。しかし俺は蜂須賀虎徹で、そうだとも、彼のいう通り、名を持つことで、支配されている刀剣男士のひとりだった。
「お前の願いを、聞いてやりたい。でも、主の命も、遂げなくてはならない。道があるのならば、そこを行く。でも、お前の嫌がることをするのも、主の本意じゃない。今、全てを決めなくてもいいだろう?」
俺は、できるだけ淡々と、そう言った。結論は、急がなくてもいいのだ。この本丸は、ある意味戦場だが、持久戦ばかりなのだから。
それから半月ほどして、浦島虎徹は浦島に連結された。結局、自分が浦島虎徹に戻ることはできなかった。連結を決意することも、苦渋の決断だっただろう。彼は、浦島と、俺と、それから主に、連結の後はくれぐれも大事にするようにと強く言った。主は浦島に、連結の危険をもう一度説明したし、浦島も浦島虎徹も、最終的に腹をくくった。
そして今、この本丸の浦島には記憶がある。とてもたくさんの記憶だ。誰のものなのか、もはやわからない。俺たちは、正しく、かの本丸で何が行われていたのかを知った。連結が記憶を引き継ぐと知っていた審神者は、破壊寸前まで追い詰めた刀剣同士の連結を繰り返した。摘発が遅れたのは、破壊の報告が殆ど無かったからだった。行われていたのは、記憶の蠱毒とも呼べるものだった。覚えていたいものごとなど、ほんの一握りしかなかった。その一握りに、必死に縋り付いている。全てを忘れてしまいたくて、全部知らなかった事にしたくて、けれどどこからを捨ててしまえばいいのかわからなくて、きらきらしたその一握りだけは捨ててしまえなくて、浦島は、
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主に呼ばれて顕現した刀剣でも、この本丸での任務に向き不向きも、個体差もあるから、他の通常の本丸に移籍したり、刀解されたものも居る。誰の選択も、どのような選択も、俺たちは受けいれなければならない。
~おわり~