「亀甲や、じじいと茶でもどうだ?」
そう声をかけると、その亀甲は何の抵抗もなく縁側へと出てきた。そこへ座れと言えばすぐに腰を下ろし、その近くへ俺が持ってきた盆を置けば、すぐさま茶と茶菓子を整える。そうして、「よし」を待つ犬のようにこちらを見る。ただ、その瞳に満ちているのはいつも、期待ではなく諦めだ。俺はそれが、少しせつない。
亀の綱渡り
1/9/2019
俺が三日月宗近の一振として顕現されたのは、少し特殊な本丸だった。特殊と言っても、見た目は何の変哲も無い。敷地があり、建物があり、審神者とこんのすけが居て、そして俺たち刀剣男士が居る。戦に出て、遠征に赴き、田畑や馬の世話をしながら、ままごとのように暮らしている。では何が特殊なのかといえば、この本丸には、時折他の本丸から刀剣男士が寄越される事だろう。彼らは皆一様に、こころという部分に何らかの不具合が生じていて、手入れでは直せないそれを、この本丸で治すのだ。俺たちの主は人の心を治す専門の医師だそうで、こうした本丸は他にもいくつかあるらしい。不具合が生じる原因もいろいろとあるようだが、要するにこころというものは、外からの干渉を内部に取り入れる事で変化し、育っていくものだ。そこに不具合が生じるのは、外から入ってくるものに問題があるか、内でそれを取り扱う流れにうまくいかない箇所があるかだろうと思う。俺はながく存在してはいるが、こころというものについて考えるようになったのはこの本丸に来てからだ。それまでは興味が無かった。しかしこの本丸に顕現したからには、そのような事を言ってはいられない。傷ついた者を憐れむのでもなく、過度に庇護するのでもなく、丁度良い手助けをしてやるのが俺たちの役目の一つであるからだ。当然、刀剣あがりの俺たちにそのような技があるわけもない。そのためこの本丸に顕現する刀剣は皆、一つの重大な学びを得なければならない。
この本丸では、俺たちはある程度まで成長すると、主に呼ばれて問答をする。
主は問答を通して、俺たちに色々な感情を経験させ、そしてこころをというものをギリギリのところまで追い詰める。向き合いたくないものと向き合い、それについて主に全てを白状しなくてはならない。主はただそれを聞き、何度も何度も「なぜ」と問う。なぜそう思ったのか、なぜそう言ったのか、なぜそう行動したのか、なぜ泣くのか、なぜ、なぜ。俺もやったが、戦場で重傷に追い込まれるよりもよほどきつい。主の目の前で自らの傷を探り、晒す。主は決してその傷を抉らず、ただ、手当てをしてくれるのだ。そうして俺たちは強くなる。こころがではなく、こころを守る技術を得るのだ。それは他の本丸から寄越される刀剣男士への対応をするためでもあり、そして彼らからこの本丸や自分自身を守るためでもある。引きずられては元も子もない。あくまでも俺たちの役目は、主を守り、仲間を守り、歴史修正主義者なるものを滅することにある。この本丸は、その役目を果たすのが難しい刀剣に手を貸す、それだけなのだ。
俺がこの本丸に訪れ、そして主との問答を終えてしばらくした頃、俺は初めて他所の三日月宗近の世話をした。他から寄越された刀剣男士の面倒を見るのは、同じ刀と、その補佐にもう一振という決まりになっている。自分のことは自分が一番よくわかるし、こころというものが癒しを得るためには、他のこころの手助けが必要だからなのだそうだ。自分で言うのも複雑だが、この本丸には、三日月宗近は比較的頻繁にやってくる。驚くほど全てを割り切って明るく去っていく俺もいれば、信じられないほど鬱屈して刀解を望んだ俺もいた。どの三日月宗近の考えも、俺には理解することも、納得することもできた。主との問答が鍛錬となっていたので、どの三日月宗近との会話も、やりとりも、時には苦痛ではあったが一線を引き、俺は自分も仲間も守る事ができている。
そして今、俺は、亀甲貞宗の補佐をしている。この本丸に亀甲貞宗が寄越されたのはこれが初めてだ。うちの亀甲が主との問答を終えたのが数ヶ月前だから、受け入れ態勢が整った、ということなのかもしれない。亀甲とは比較的付き合いの長い俺が、補佐に選ばれたというわけだ。
やってきた亀甲は、そわそわと落ち着きが無かった。おっとりとした亀甲ばかりを見慣れていたから、少し驚いた。その亀甲は、完璧主義というのだったか、服のしわ一つ、茶菓子の傾き一つ、何かがきちんとしていないと気づいてしまえば、もうそれが気になってしまって仕方なく、他のことがおろそかになってしまう。それは茶を淹れる時に茶器で音を立ててしまったとか、持っていたものをうっかり落としてしまったりだとか、彼の中の合格点で事が運ばなかった時も同様だ。その亀甲にもそんな自覚はあるようで、落ち着かない自分を落ち着かせようと必死になるあまり、余計に他のことがおろそかになってしまって、結局は震えながら謝罪をして席を外す、という事が多かった。席を外した後にはいつも、どこからともなく現れるうちの亀甲が付き添っている。亀甲貞宗というのは健康体であっても少し扱いにコツが要る刀であるので、本人に任せるのがよいのだろうと思う。とにかくそんな様子なので、彼は戦場に出る事ができない。顕現された本丸は解体され、亀甲自身は次の主を探したいと考えているそうだが、そのためには、日常生活はともかくとして戦場に出られるようにならねば、俺たちの存在意義とやらが揺らいでしまう。あの亀甲貞宗は、そのためにここへ来た。亀甲貞宗というのは基本的に真面目な考え方をするので、あの亀甲はここへ来た目的を達成しようと日々努力を怠らずにいる。そんな彼は、自分が何事をもうまくできない事を常に気にしているようだ。歩き方一つ、言葉の受け答え一つ、果てはおかずを食べる順番の一つ一つまで、世の中には正解があり、自分にはそれがわからないと信じ込んでいる。真面目が過ぎるとこうなってしまうのかと、俺はやはり、少し驚いた。
部屋に下がった亀甲が、うちの亀甲と何を話しているのか、俺は知らない。知らないが、亀甲たちの様子を見るに、のんびりではあるが何事かは変化していっているのだと思う。前の主に嫌われたからと纏う事を怯えていた例の秘密とやらも、どうもうちの亀甲が少しずつ慣らしていっているらしい。俺としてはそこは関係ないのではないかと思ったりもするのだが、亀甲貞宗のことは亀甲貞宗が一番よく知っているので、彼が必要だと言うのなら必要なのだろう。まあ、急ぐ必要はない。空に浮かぶ月だとて、欠けるだけで半月、また満ちるまでには一月がかかるのだ。一呼吸するのに一月かかるようなものだろう。大切なのは息をし続けることだ。それは、生きているということだから。
亀甲を縁側に誘い出して、二人で腰を下ろして、少し経った。茶は、飲みやすい温度になっただろう。その亀甲は、じっと湯気を見ている。この世界の、あらゆる事に気付くまいとして。
「亀甲や」
「…なんだい?」
湯呑みを手に取りながら呼べば、そわりと周囲を見渡してから、自分の事かと返事をする。この亀甲は、声をかけられ慣れていない。俺は茶をすすりながら、庭を見た。もうすぐ春が来る。それを、植木も池も、石ころさえも知っているように見えた。けれどきっと、この亀甲はそれを知らない。
「お前のところに、俺はいたか?」
「うん、居たよ」
隠しても仕方のない事なので隠しもしないが、俺は自分のことに一番興味がある。だから、ずっと聞いてみたかった事を尋ねた。
「お前のところの俺は、何をしていた」
この亀甲がどのような場所でどのような扱いを受けていたのか、俺は知らない。うちの亀甲も、よくは知らないだろう。主はそういった事を殆ど話さない。ただ、少し変わった刀が来るから、皆でしばらく世話をしてあげて、とそれだけを言う。他の人間が不具合と呼ぶその状態を、主は決してそう呼ばない。少し変わっている、少し疲れている、少し怒っている、少し悲しんでいる。いつもそういう言葉で紹介するのだ。それ以外のことは、自分で尋ねよ、と。
「三日月さんは」
亀甲が、視線を上げたのがわかった。いつも俯いているその瞳が、俺を見ている。
「綺麗で、強くて、完璧だったよ。ご主人様も、三日月さんの事をとても大事にしていたんだ」
その声はうちの亀甲と同じでやわらかくて涼やかで、けれど何の感情も含んではいない。羨望や、嫉妬さえ。
「でもね、ご主人様を斬ってしまったんだ…命を奪うまではいかなかったけど」
「そうか」
そうだろうなと思う。俺は亀甲とはそれなりに付き合いが長いし、相性もまあ悪くない。のんびりしたところも気に入っているし、俺とは違う方法で色々なものを見ているから、話をするのも楽しい。その亀甲をこのような有様へ追いやるような輩を、俺は好むことは無いだろう。
「なんでだろうね…」
ぽつりと、本当に本当に小さな声で、亀甲がそう言った。俺の知る限り、この亀甲は疑問を口にした事がない。これは変化だ。要するに、生きているということだ。
「教えてやろう」
俺は庭を見るのをやめた。亀甲貞宗が、俺の瞳を気に入っているのは知っているから、瞳を合わせて覗き込んでやった。目論見通り、亀甲の視線は俺の瞳の中の月をなぞる。
「気に入らないから斬った。けれど、刀剣男士になる時に人の子と交わした『審神者を斬り殺さない』という約束のために、命は奪わなかったのだ」
亀甲は、大きめの目をもう少し大きくして息を飲んだ。その瞳が澄んでいるのをようやく見られた。この亀甲は大丈夫だ。本当によかった。
「…それだけ?」
「ああ」
「…本当に?」
「俺のことは俺が一番わかる。俺はな、気に入らないものにいつまでも従うほど、忍耐強くはないのだ。お前が思うほど完璧でもない。まあ、美しさには自信はあるがな」
俺の目の前で、亀甲の気配が揺れた。経験上わかる。これは、良い方の揺れ方だ。
「亀甲や、じじいがもう一つ教えてやろう。皆が当たり前のような顔をしてやっているように見えるから忘れてしまいがちだが、そもそも、生きるというのそれはそれは大変な事なのだ。うまくいかないことの方が多い。完璧なものなど存在しないぞ、俺もそうだ」
「…そうなの?」
「そうだ。そして皆、完璧ではない自分を楽しんでいるのだ。次に何をやらかしてしまうのか、わからないからな。どこぞの鶴ではないが、予想できる事ばかりではつまらん」
「…ぅ、ん…」
亀甲は、小さく小さく相槌を打った。きっと俺がよくわからない事を言ったので、一生懸命に理解しようとしているのだ。亀甲貞宗の、好もしい性質の一つだ。俺は茶と茶菓子を亀甲に勧めた。亀甲は、素直に茶菓子を食べ始める。しばらく食べ進めたところで、風が吹いた。どこからか舞って来た落ち葉が池に浮かぶ。その葉が気になったようで、亀甲は全ての動きを止めてしまった。その目は忙しなく泳いでいる。急に全てが解決することなど無い。俺は亀甲の食べかけの茶菓子をそっと受け取った。俺は食い意地が張っているので、遠慮なくそれを食べた。
その亀甲が無事に本丸を出ていったのは、それから三月ほど経った頃だった。俺が思っていたより、よほど早かった。少し寂しそうな、けれど晴れ晴れとした顔で、政府の者とやらに連れられて出て行った。出陣も遠征も内番も問題なくこなせるようになったし、例の秘密とやらも身につける喜びを思い出したらしい。茶をこぼして思い詰めることや、会話の途中で何かに意識を持っていかれる事もだいぶん減った。全く無くなったわけではないし、きっと、全く無くなることはこの先も無いだろう。起きてしまった事をなかったことにはできないが、壊れてしまったものを心を込めて修繕すれば、元どおりとまではいかなくても、本来の用途に足るものへと直すことができる。俺たちはなんだかんだで刀だ。形や名前、逸話や由来が少しくらい変わっても、俺たちが刀であることは変わらない。そして亀甲は、磨上も知っている刀だ。その時々の自分にできる精一杯を、誠実に行っていく、その美徳を持つ刀なのだ。
亀甲が去った夕方、縁側で茶を飲んでいると、見慣れた亀甲がやってきた。目配せをして隣に座り、しばらく並んで庭を眺めた。
「たまに誤解をされてしまうんだけど…」
前触れもなく、亀甲が話し始めた。そういう刀なのだ。こちらに気を配りつつ、自分の流れをうまく添わせてくる。
「亀甲貞宗というのは、無条件に主人を愛する刀ではないんだ。与えられた愛を、返す刀なんだよ」
だから愛されないと、何をどうしていいのかわからなくなって、ああなっちゃうんだ。
亀甲の声はやわらかくて涼やかで、複雑な感情が含まれているように感じた。亀甲が、見た目と中身に齟齬のある性質を持つのは知っているし、けれど見た目通りの性格であることも知っている。永い、友だ。
「お前だけではあるまいよ」
陽が傾いて、少し冷えてきた。
「与えられたことがないものを、他の誰かに与えることなどできんさ。よいものも、わるいものもな」
去って行った亀甲は、酷く落ち着かず所在無さげではあったが、なにかを悪く言うことも、思うことも無かった。なにかを好きと言うことも、欲しがることも、疑問に思うことも最初はなかった。きっと、知らなかったのだろう。心を向けられたことも、興味を持たれたことも、なかったから。ただ、目の前で愛される三日月宗近を見て、それから捨て置かれる自分を見て、愛されたいと思うこともなく、そういうものだと受け入れてしまった。完璧でなければならないという思い込みは、あるいは、彼を顕現した審神者が持っていた思い込みなのかもしれない。刀であった頃とは違い、俺たち刀剣男士は、意外なところから影響を受けることがある。
亀甲は笑った。
見慣れたいつもの笑い方だった。
亀甲は隠し事が得意だから、こうやって笑顔を向けられると、俺にはもう何もできない。だが、心配はしていない。この本丸には、亀甲と心と情を交わすものがある。今夜あたり、そのものと酒でも飲むのだろう。きっと、彼は亀甲を上手に労ってくれるはずだ。
亀甲は手短に挨拶をして、立ち上がった。やってきた時と同じように、静かに去っていく。その背筋も、足の運びも、揺らぎなく、しっかりとしていた。たとえそれが見栄であったとしても、よいことだと思う。
歩いているうちに、その強さは本物となっていくだろう。
それは、よいことだ。
とても。
〜おわり〜