ここには星がない

9/27〜10/15/2022



路地裏でゴミ箱の中身を物色するその姿を見つけたのは、偶然だった。

長義は予備校の帰りで、その日は次の模試会場の説明とやらでいつもより少しだけ帰りが遅かった。これでもかと蛍光灯の輝くフロントから外に出るとあたりはもう真っ暗で、都会の空には星が無く、のっぺりと濁った紺色が頭上を覆っていた。電車に少し揺られて、改札を通り、いつものように歩き始めたところだった。この時間にはもう閉まっている小さな雑貨屋の裏、誰もいない路地裏。普段なら目を向ける事は無い。けれどその夜は珍しく誰かがそこに居て、明るい色の服を着ていたから、長義の注意はするりとそちらに向いた。初めて見る人物であるのに、どこか見覚えがあったので、きっと古い知り合いだろうと思った。


少し未来で、歴史をかけた戦があった。短くないこの国の歴史の中で、短くない時間、歴史の要所を通過したり、人の子によって逸話を得た刀剣たちは、鋼に宿った魂を奮い起こされ、人のわざによって刀剣男士という器を与えられ、その戦へと喚び集められた。長義もそのひとりだった。本丸と呼ばれる異空間で、審神者と呼ばれる人の子に束ねられ、彼らは戦い、そして勝った。人の身で過ごすことを覚えた刀剣たちの中には、人として生きてみたいと思うようになった者も多く、時の政府とやらは、どのようなわざを使ったものか、戦勝の褒賞として、彼らに人としての生を与えた。長義の居た本丸の刀剣たちは、審神者が過ごした時代へと生まれ直した。彼らには己の存在に関する全ての記憶があり、成長し、適当な年齢になれば、刀剣であった時に与えられていた見た目と同じになった。刀剣であった頃と違い、そこで成長は止まらず、人として老いていくのではあるが。


長義は学校指定の鞄を抱え直し、迷うことなく路地裏へと足を向けた。その人物は明るい髪の色をして、特徴的な癖っ毛を持っている。サイズのあっていない、暗闇でもそうとわかるほど薄汚れたジャージを着て、もう寒くなり始めるというのにビーチサンダルを履いていた。長義が近づいていくと、それに気づいたのか、彼はそそくさと路地裏の奥へ早歩きで移動し出した。長義は声をかけるでもなく舌打ちをして、その姿を追う。追いかけながら、スマートフォンで保護者に連絡をした。追跡対象から目を逸らすわけにはいかないので、慣れた指で通話ボタンを押す。

「はーい」

「すまない、駅に着いたところなんだけど、南泉を見つけた。南泉だとは思うんだが様子がおかしい。少し様子を見たいのでちょっと遅くなります」

「おっと、わかったよ。大丈夫だとは思うけど、夜道には気をつけてね。迎えが必要だったら連絡して」

「ありがとう」

こういう時、保護者が元刀剣だと話が早くて助かる。本丸で刀派ごとに兄弟のような扱いをされていたからか、長義の知る限りでは、元刀剣たちは縁のあるもので集まりやすく生まれているように思う。もちろん、長義だって全ての長船が身の回りにいるわけではないし、もしそうであるならば、先ほど見かけた彼だって、一人でゴミ箱を漁るような状況にはならないはずだ。しかし悲しいかな、理論と現実はいつだって噛み合わない。長義はスマートフォンをしっかりと鞄にしまって、目的の人物を追いかける速度を上げた。


曲がり角を一つ。それだけのことで、長義は相手を見失った。人の身は脆く、そして鈍い。あの頃に難なく行っていた索敵も、今はもうその精度を失っている。長義は足を止めると、ため息を一つついて息を整えた。あたりを見回すと、コンビニがあった。それで、ここがどのあたりなのかを理解する。長義はこの町で生まれ、育ってきた。予備校のフロント並みに光を発するコンビニの佇まいの、けれど裏手はぽっかりと暗い。長義はそっと、裏手に回った。かくしてそこには、先ほどまで追っていた人物が居た。裏口から出てきた店員から何かを受け取って、そして何かを渡して挨拶をしている。開けられたドアから漏れた光が、その覇気のない笑顔をこっそりと長義に見せてくれた。彼は店員に別れを告げると、受け取った物を抱えて歩き出した。長義はそれを密かに追った。


コンビニから少し歩いたところに、小さな公園がある。ブランコと滑り台があるだけの、土地に隙間ができたので公園のようにした、というような場所だった。花壇もなく、無機質なフェンスと少しばかりの植木に囲まれたそこが無人であるのを見て、彼はブランコに座った。長義は公園の入り口のあたりで、誰かと待ち合わせをしている風を装って、それをチラチラと見る。コンビニで受け取ったのはいくつかのおにぎりだったようで、ブランコを揺らすでもなく、彼はそれを食べた。ゴミはきちんとゴミ箱に捨てて、水飲み場で喉を潤す。街灯が少しずつ照らすその姿は、どこもかしこもくたびれていて、本物の野良猫のようだった。一心地ついたのか、彼はブランコに戻った。足を地につけたまま膝を曲げ伸ばしするだけの揺らし方をして、何をするでもなく、ぼんやりと地面を見ている。どうやらそのままそこに居座りそうな雰囲気を感じ、長義は物陰から出て彼に近づいていった。

「ねえ」

長義がブランコに近づくにつれて俯いていくその頭の、懐かしいつむじを見下ろしながら、長義は声をかけた。彼の肩が、ひどく緊張しているのがわかる。ブランコのチェーンを握る手はきっと冷たい。俯いたまま何も答えない彼にしびれを切らして、長義はその場にしゃがみこんだ。顔を覗き込むと、目を逸らされる。けれどその逸らされた目は、ふわふわの前髪から覗く、見覚えのある物だった。

「俺のことわかる?」

長義がそう言うと、彼はようやく、胡乱げに視線を向ける。長義の顔をちらっと見て、それから制服を見て、

「だれ」

とだけ低く小さく言った。

「俺は山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀だ」

長義は、刀であった頃の名を名乗った。彼が南泉一文字であるのなら、記憶は持って生まれたはずだ。彼は口を中途半端に開けて、それから閉じた。長義が根気よく待っていると、大きなため息をついた。何かを諦めたのかもしれないし、思い出したのかもしれない。

「お前には会いたくなかった」

どこかで聞いたような事を言い、彼はブランコを立つ。そのまま歩き出そうとするので、長義はそのパーカーの裾を掴んだ。

「まだ話の途中だぞ。どこに行くのかな」

「寝床だよ。お前もさっさと帰れ」

彼は歩くのを止めなかったが長義を振り払いもしなかった。それを良いことに、長義は少し強めにその腕を掴んだ。

「俺とお前の仲じゃないか。連絡先を教えてよ」

「ねえよそんなもん」

「無いことはないだろう」

「…ねえんだよ」

身体の中の空気を全部諦めるようなため息と共に、彼は言い、俯いたまま少しだけ振り返って長義を見た。

「今の俺には名前もねえんだ。連絡先なんかあるかよ」

「じゃあ猫殺しくんって呼ぶよ。寝床行くって言ってたけど、家はあるんだな?」

長義が腕を掴んだまま続けると、南泉は舌打ちをした。

「…まあ、ある」

その回答は、嘘ではないが、本当ではないなと長義にはわかった。家はあるが、寝床というのはまた別の場所なのだろう。

「これからどこに行くつもりだったんだ?俺も着いていっていい?」

「いいわけあるか、お前もう帰れよ」

あの頃に聞き慣れた、かわいらしい語尾はもうついていない。彼はもう、猫の呪いにはかかっていないのだと知れた。けれどその疲れ切った様子から、また別の呪いを受けているようにも見える。

「遅くなるって言ってあるから大丈夫。…俺の保護者、燭台切なんだよ。会いに来ない?」

「うるせえなあ…」

ここへきて南泉は、長義の手を強引に振り払った。

「おい!」

長義も負けじと、再びその腕を掴んだ。南泉はその手を、もう一度振り払った。

「わかんねえか?俺は別に、ここでお前のことぶん殴ったっていいんだぞ」

「それは別に俺だって構わないさ…ああ、学校のことを気にしてくれてるの?別にそのくらいどうとでもなる」

「お前なあ」

「きみたち」

長義が諦めず、南泉も少し苛立ってきた頃、周りの見えていなかった二人のすぐ近くから、穏やかな声がした。二人が弾かれるように振り返ると、警官の制服に身を包んだ男が立っている。

「こんな時間になにをしているのかな?」

「…小豆…長光…?あっ!猫殺しくん!!」

長義が警官の風貌に驚いたその隙に、南泉はするりとその場を去った。それを追いかけようとする長義の腕を、今度は警官が掴む。

「おやおや…おひさしぶりなのだぞ。署で話を聞くかい?それともここにする?」

「…ここで頼めるかな…」


公園の入り口に自転車を停めてあった小豆は、そのサドルに長義を座らせた。彼は長船ではあるけれど長義の身近にはおらず、どこで何をしているのだろうかと燭台切ともたまに話していたので、こうも突然に、しかもすんなりと出会ってしまうと、少し拍子抜けしてしまった。長義に尋ねられるままに話をする小豆によると、どうやら上杉は上杉で既にほぼ知り合っているらしく、その出会いは福祉施設だったらしい。様々な理由でとある施設にまず太刀の三人が集まり、そこから山鳥毛だけ引き取られていった。小豆は成長して警官になり、姫鶴は近くの高校で体育教師をしているらしい。彼らが高校生だった時には、赤ん坊の謙信が施設へやってきたそうだ。彼は今、小学生なのだとか。五虎退にはまだ会っていないと言っていたので、粟田口の一族と面識のある長義は、そのことを伝えた。五虎退も、今は小学生のはずだ。

世間話のような情報共有を終えると、長義は改めて小豆を見た。

「さっきの、南泉だろう」

「そうだね」

意図的に邪魔をされたのだと思ったが、小豆は何の含みもなく答えた。

「わたしは警官だからね。できることとできないことがあるのだ」

それに彼は、わたしのことは覚えていないようだからね。そう言って、南泉の去って行った方を静かに見る小豆に、長義は曖昧な相槌を打った。確かに自分も、名乗るまでは知己だとわかってもらえていなかった様子だった。

「わたしがこの辺りの配属になったのは二年前でね。その頃には彼はもう、ああいう生活をしていたみたいだ」

「山鳥毛のことも覚えてないのか?」

既に山鳥毛とのつながりが見えているのなら、どうして二年もそのままにしておくのだろうかと、声に少しばかり責めるような色が含まれてしまったのを見逃さず、小豆は困ったように眉尻を下げた。

「山鳥毛は…ゆくえふめいなんだ」

「え…?」

「さっき、彼だけひきとられていったと言っただろう?しばらくしてそのおうちが火事になってね、そこから先は、誰とどこにいるのかわからないんだ。姫鶴もわたしも、ずっとさがしている」

「…向こうだって探しているだろうし、今の時代、わりとすぐ見つかるものなんじゃないのか」

長義が複雑な思いでそう言うと、小豆はあの頃のように、穏やかに、けれど真意の見えない笑顔を向ける。

「きみだって、南泉とこれまでであえていなかっただろう」

そう言われると、どうしようもない。先程の南泉の口ぶりだと、彼はスマホを持っておらず––もしかして山鳥毛も、どこかでどうにもならないことになっているのかもしれない。長義は口を閉じた。

「…山鳥毛は刀だったころから、あまりひとめにふれることは無かったからね。きっとそのうち、ふらりとあらわれるのだろうと…わたしも姫鶴も、そうおもっている」

刀であった頃、消息を絶った小豆の身を案じたのは、山鳥毛や姫鶴であったと聞いている。守るべき歴史を見ていても思ったが、人の世の巡り合わせは、本当に、誰が仕組んでいるのかと不思議でならない。そうだね、と、祈りを込めて長義は言った。小豆は一つ間を置くと、さて、と長義に立つように言う。

「もうおそい。おうちはこの辺かい?それならおくろう。燭台切にもあいさつをしたい」

「でも、猫殺しくんが…」

「かれならだいじょうぶ。たぶん今日はこうばんで寝るとおもうから」

「随分と仲がいいんだな」

「にねんかけてね、やっとだよ」

肩をすくめて笑うその笑顔が昔と何も変わらなくて、長義も少し笑ってしまった。小豆は自転車を押して歩き出し、長義もその隣を歩き出した。長義の帰る先は、ここから歩いて二十分ほどの場所だ。随分近所なのに、見回り等で自転車を乗り回す小豆に今まで一度も会わなかったことに驚いていると、小豆は静かに、そんなものさとまた笑った。

「もしかしたらすれちがったことがあったのかもしれない。でも、その時がこないとおたがいに気づかないのだ」

その雰囲気に、長義は覚えがあった。仏道に関わりのある刀は、こういう物言いをする者が多かったように思う。それを言えば南泉だって、その名は禅僧に所以があったはずだ。

「…そういうものか」

「そうだよ」

道端に捨てそうになった言葉を、小豆は拾った。だから長義は顔を上げた。

「つまり、今がその時ということだな」

そうであるならば、そうであろう。長義は久々の心持ちで、腹をくくった。出陣など今生では縁が無く、まだ学生の身である長義に、それは本当に久々の呼吸だった。進路希望調査の紙に志望校を書いた時より、よほど気を張るものだと思った。

「きみはまだ高校生なのだから、そのあたりをふまえて、きちんと大人をたよるのだぞ」

小豆のその言葉が届いているのかいないのか、長義はああと返事をし、背筋を伸ばして力強く歩いていく。小豆は自転車を引いて、その後ろを着いていった。

住宅街といえど、都会の空に星は無い。長義の瞳は、それでも決意にきらめいていた。



長義の父親は、古美術商をしている。前の生では大般若と呼ばれる刀だった男だ。長義もまさか自分の生まれる先が大般若のところだとは思っていなかったし、大般若も長義を息子に持つ未来など微塵も考えていなかったらしい。けれど大般若は愛することも愛を伝えることも得意な質であったので、長義は父と母の下、すくすくと健康に育った。長義が高校生になる頃に、大般若は長義に、そろそろ少し離れても大丈夫かいと尋ねた。聞けば、長義が生まれるまでは母と二人で世界中を飛び回っていたのを、しばらく控えていたらしい。直接には言われなかったが、それが長義のためであったことは、自明の理であった。長義はもちろんと答え、一人暮らしになるのかと気持ちを整えたが、大般若は長義の返事を聞いた翌日には、燭台切を連れてきた。燭台切は、長義の母の弟で、赤ん坊の頃から面識がある。

「お前さんはしっかりしてるが、まだ未成年なんだよ」

大般若はそう言い、燭台切が引っ越しの準備をしようと言った。そのようにして、長義は燭台切の家で暮らすことになった。大般若と燭台切が知り合ったのは、婚約の報告にと大般若が燭台切の実家を訪れた時で、それまではお互いに、全く知り合わずに生きてきたと言う。けれど再会してしまえば、その上義理の兄弟とあっては、二人はすっかり、気の置けない仲だった。


燭台切の家は、一階がカフェになっていて、二階が居住スペースになっている。物件を探した時にそれしかなかったと彼は言うが、居住スペースはファミリー向けで、小部屋が多めに設けられていた。面倒見の良い彼のことだから、自分の姉が大般若と結婚した時には、こうなることがわかっていたのかも知れない。長義は燭台切の厚意を受け取り、その一室をもらうことになった。一階のカフェは、燭台切が経営している。彼は人間として生まれて意識を持った頃からずっと「おしゃれなカフェ」を営むのが夢で–––それはおそらく刀であった頃からの夢だったのかもしれない–––受験勉強をしながら料理教室に通い、経済学部に通いながら調理師の勉強をし、飲食店で働いて調理師免許の受験資格を得ながらホストをして資金を貯めた。持ち前の人の良さと、人当たりの良さと、それから面倒見の良さと、気前の良さと、ついでに顔と声の良さを存分に活かし、彼の信条であるかっこよさも忘れず、燭台切はその人脈と努力と実力と運を余すところなく注ぎ込んで、数年前にカフェを開業した。住宅街の駅近にあるそのカフェは、大盛況とまでは行かずとも、連日多くの女性客で賑わっている。テラスの一角にはプランターが並んでいて、ハーブや花が育てられていた。本丸にいた頃にも野菜作りにこだわりを持っていたようだが、人の世ではやはり、野菜はプロの農家に任せるのが一番良いと判断したと、いつぞやに聞いたことがある。長義は植物を育てるのが苦手なので、目につけばプランターに挨拶はするものの、絶対に余計なことはしなかった。燭台切はそれを見て、たまに笑っている。


小豆と長義が燭台切の家に到着すると、燭台切がカフェの裏手、自宅の玄関あたりで待っていた。道すがら、長義が連絡をいれたのだろう。相変わらず卒が無いと、小豆は思った。勤務中の小豆は、その日は連絡先だけ交換して、休みの日にまた訪れると告げて去っていった。長義は燭台切と夕飯を食べながら、南泉のことを話した。

「そっかぁ」

燭台切の相槌は軽かった。話をきちんと聞いてくれていることは分かっているので、長義は少し、気が楽になった。

「南泉くん、もし住むとこにこだわりが無いんだったら、うちはどうかな。部屋余ってるし。一時的でもいいしずっとでもいいし。学校も行ってなさそうなら職探しも大変だろうから、落ち着くまでうちでバイトしてくれてもいいよね。楽しそうだ。そうだな…最初はお給料なしでも住み込みで食費光熱費なしおやつ付きってすれば、彼にとってのハードルも下がるんじゃないかな?うちも大富豪じゃないけど、もう一人くらい養えるくらいの余裕はあるし、大般若くんが資産家だからいざとなったら頼ろう」

「いいの?」

「もちろん!知り合いが困っている時にできることがあるのにしないのは、かっこよくないからね」

「ありがとう、燭台切。この件だけじゃなくて色々と…この恩はいつか、猫殺しくんが返すから」

「はは、楽しみにしてるね!」

大般若も燭台切も、それからもちろん長義の母も、彼らは正しく保護者だった。恩を返せと強要することもなく、けれど返したいと言われたものは受け取る準備がある。長義はそれに感謝をし、そして、その恩を忘れたくないと思っている。


翌朝長義が登校すると、いつものように、同学年だがクラスは違う国広が駆け寄ってきた。

「おはよう本歌」

「おはよう、今日も元気だねお前は」

国広が長義を本歌と呼ぶのも、同級生たちはもう当たり前のこととして受け入れている。

「南泉に会ったのか?」

「なんでそれを…」

「小豆さんが教えてくれたぞ」

「小豆と知り合いだったのか!?」

「そうだが」

「何故言わないんだ」

「聞かれなかった」

「お前…まあいい。うん、南泉に会ったよ」

二人が話している時に、時折長義が声を荒げるのも、同級生たちは慣れていた。思えば山姥切国広は、人として育ってきたはずのくせに、よほど我が強いらしく刀であった頃と殆ど言動が変わらない。

長義と国広は、中学生の時、地域の球技大会で出会った。空手部だという国広も、文芸部だった長義も、それぞれの学校の応援席に居た。国広は長義を追いかけて高校の志望校を変え、猛勉強をしたらしい、無事に長義の同級生となった。国広の二人の兄は当然のように山伏と堀川で、彼らは今では登山家と大学生をしている。高校の入学式で、早々に長義に向かって本歌と叫んだ国広は、ひそひそと声の広がる周囲に向かって「俺は少し言動が特殊かもしれないが、悪い人間ではないので安心して欲しい」と言い放った。長義が呆れてなんだそれはと言えば、兄弟が自分を誰かに紹介する時にいつもそう言うからそういう事なんだと思う、と返ってくる。相変わらず真っ直ぐて、素直で単純で、かわいい写しだった。

「…小豆さんとは、去年、俺が売られた喧嘩を買ったら相手をのしてしまった時に会ったんだ。おまわりさんだから…」

長義が少しの間口を閉じたので、何を思ったか、国広は小豆との出会いを白状した。

「お前ね…」

「咄嗟のことで加減ができなかったんだ。全力でやってしまって、相手の肋骨が折れてしまった。人とは案外、脆いものだな…」

ちゃんとすぐに警察を救急車を呼んだぞ、と何故か胸を張る彼が、そもそも空手に興味を持ったのは、刀であった頃にテレビで見た、瓦割りというものをやりたかったかららしい。幼稚園の頃にどうしてもとねだった国広に、彼の父親は無理と知りつつ瓦を用意し、その結果、国広は腕の骨を折ったことがあるそうだ。国広がギプスをつけている間、父親は「自らに忍耐力が無いと、他からそれを強いられる事になるのだ」と説いたらしい。流石は山伏と堀川に動じず父親をしている男であるな、と、その話を聞いた時に長義は思った。まだ見たこともない人間で、顔も名前も知らなかったが。骨の治った国広はきちんと空手教室に通い始め、中学を出る頃には段をとって黒帯になっていた。基本的に、体を動かすことと戦うことが好きなのだろうなと長義は思っている。

「南泉はどうだったんだ?近くにいるなんて全然知らなかった」

「どうもこうも…逃げられてしまってまだよくわからない。お前も見かけたら、声をかけてごらん」

「うん、そうする」

二人の会話は、いつも、友人のようで、親子のようで、時々兄弟のようだった。そんな話をしているとホームルームの予鈴が鳴って、国広は自分の教室へ戻っていった。


長義は、正論が好きだ。なので、友人は少ない。写しのことを刀の頃から変わっていないと評しつつ、長義こそ刀の頃から殆どその言動は変わっていなかった。監査官の血が騒ぐのかなんなのか、見つけてしまった不正や不備を見逃すことができない質で、そんな長義を煙たがる者は多かった。そんな状況を長義自身が気にしたことはなかったが、大般若には一度だけ、学校が楽しいかどうかを聞かれたことがある。質問の意図が読めなかった長義は、首をかしげながらも楽しいと答えたのだった。長義に友人は少なかったが、居ないわけではない。家に呼んだこともあれば友人の家に行ったこともある。長義は目立たず、粛々と、人としての生を満喫していた。

しかし高校に上がって国広が同級生になると、目立つ国広がいつもまとわりついてくるので、長義も目立たざるを得なくなった。正論は好きだがその懐は広く、そして深い。ちくちくと姑のような事を言うかと思えば、聖母のような優しさを見せる。それまで衆人の目に届いていなかった長義の姿は、国広によって白日の元に晒された。その途端、女子生徒から告白される事が増えた。長義は全て、写しのせいだと思っている。国広は、自分が目立つ事を全く自覚しておらず、もしかしたら自覚しているのかもしれないが全く気にしない。国広も女子生徒から人気はあったが、それは告白されるとかそういう類ではなく、お菓子をもらったり耳寄り情報をもらったりというもので、長義はほんの少しそれが羨ましかった。絶対に本人には言わないけれど。

初めて女子生徒に告白された時、長義は雷に打たれたような心地だった。今は自分も人の子に過ぎないのだという事を、ようやく、身を持って知った。目の前で顔を真っ赤にしている女子生徒を前に、長義はその頭脳をフル回転させた。相手の傷が一番小さくすむ言葉を、記憶にある読書やテレビの内容から無理やり引っ張り出す。

ごめんね、俺、すきな子がいるんだ。

絞り出した言葉は、長義が思っていたより重みが出てしまった。その重みは相手に伝わったのみならず、長義の胸を下へ引っ張り、いつもピンと伸びているその背を少し丸めた。女子生徒が何を言ってどう去っていったのか、長義は覚えていない。ただ、刀であった頃にすきだった相手のことを、今もずっとすきなのだと、そう思い知ったのだった。



その日の夜、長義は一度家に帰って着替え、燭台切におにぎりを作って包んでもらうと、保温のできる水筒にあたたかいお茶を入れて家を出た。随分と様子が違っていたが、南泉だって昔と全くの別人ということはないはずだ。そうであれば、食べ物は有効な手段だと記憶している。長義は雑貨屋やコンビニの裏は通らず、真っ直ぐに公園に来た。ふたつあるブランコの、昨日南泉が座っていなかった方に座る。キイ、と金属の音をたてて、ブランコは軋んだ。夜の公園は静かで、道を歩く人影も少ない。しばらくそうして周囲を見ていると、ぺたぺたとビーチサンダルを鳴らして、南泉がやってきた。この公園に毎日現れるのかどうかの確証はなかったが、賭けに勝った気分で長義は口角を上げた。

「げ」

俯いて歩いているからか、かなり近づくまで、南泉は長義に気づかなかった。一音発して踵を返そうとする南泉の腕を、長義は素早くしっかり掴んだ。

「その反応はひどいんじゃないのかな」

南泉は盛大に舌打ちをした。

「何の用だよ」

「とりあえず話をしたいと思って。自分のご飯は持ってきたから、食べる間だけでも話そうよ」

長義がそう言うと、南泉は顔をしかめた。

「俺今日なんも持ってねえよ」

「そうなの?じゃあ俺のを半分食べなよ。時間も半分になってしまうけど…お前はそのほうが都合がいいんだろう?」

「勝手に決めんな」

「そう?燭台切のつくったおにぎりはおいしいと思うけど」

長義がそう言うと、南泉の腹が控えめに鳴った。どうやら燭台切のことは覚えているか、思い出すかをしたらしい。胃袋を掴むというのは、思った以上に強固な縛りなのかもしれない。長義は満足気に笑うと、南泉をブランコへ引っ張っていった。南泉が力なくブランコに座ると、長義はてきぱきと包みを開けて、二つの紙コップにあたたかいお茶を注いだ。おにぎりを一つと紙コップ一つを南泉に渡し、自分はお手拭きで手を拭いて、おにぎりの包みを開ける。そのままつやつやとした米の塊にかぶりつこうとしたところで、隣でぼんやりとおにぎりを見つめる南泉に気づいた。

「食べないの?おいしいよ」

長義がそう言っても、南泉は力の無い目でおにぎりを見つめ続ける。長義がその様子を見続けながらもおにぎりを食べ始めると、南泉が口を開いた。

「これがおいしいのは知ってる…。だからこれを食べたら、明日からいつもの飯がまずく感じそうだろ」

ぽそぽそと、南泉がそうこぼしている間に、長義はおにぎりを一つ、するりと食べ終えた。

「じゃあおいしいのを毎日食べるか?」

「は?」

「俺の保護者が燭台切だというのは昨日言ったね。その燭台切はカフェをやってるんだけど、そろそろ店員を雇おうかなって思ってるんだって。でもあんまりお給料は出せないから、猫殺しくんがいいならうちに住み込みで、三食おやつと昼寝…はついてるかわからないけど、とりあえず生活費をもつかわりに、タダ働きしてくれてもいいよって言ってた」

「燭台切って、そういう感じだったか?」

「燭台切の言葉が俺を通って出ていくとそうなる」

南泉は、何かを一生懸命考えているようだった。だから長義は、それを邪魔しないように黙って、二つ目のおにぎりを食べ始めた。


長義が三つ目のおにぎりを食べ終えて、一息ついてお茶を飲んでいると、南泉はようやく、ずっと眺めていたおにぎりに口をつけた。様子を伺うように小さくかじられた一口目を、ゆっくりしっかり噛んで飲み込むと、二口目からは大きな口でがぶがぶと、あっという間に平らげてしまった。長義は南泉の手から紙コップをそっと抜き取り、冷えたお茶を自分のコップに移すと、あたたかいお茶を改めてコップに注いだ。

「はい、お茶」

長義が紙コップを南泉に差し出すと、南泉は目を見開いて変な顔をした。

「…何だその顔は」

「いや…」

南泉は紙コップを受け取ると、何故か長義をうかがいながらそっと口をつける。

「あづ!」

よそ見をしていて多めにお茶が口に入ってしまったのか、南泉は短く叫ぶと舌を出した。

「まだ猫舌なの?あのかわいい語尾は消えちゃったみたいだけど」

「うるせえな…あったかいもんなんかシャワーの水くらいしか飲んだことねえんだよ」

南泉はそう言うと、手の中のお茶をじっと見た。長義は言いたいことがたくさんあったが、

「ふうふうしろ」

とだけ言った。南泉はそれを聞いて、そうだった、と短くつぶやいて、コップの中のお茶に息を吹きかけ始める。南泉の息に合わせて、湯気がコップから逃げていった。きっと南泉は、人として生まれてから、殆ど何も教わっていない。刀であった頃の、本丸で過ごした頃の記憶を頼りに、何とか生きている。熱いものは冷ますということすら、忘れかけてしまってる南泉から、長義は目を逸らさなかった。長義は正論が好きだ。そして今、長義が正論で殴りたい相手は、目の前の南泉であるはずもない。

「お茶だ〜」

おいしいおにぎりとあたたかいお茶で、南泉の声が柔らかくなったのがわかった。長義は内心ほくそ笑んで、けれどそれをおくびにも出さずに、

「人気のカフェ店長に指導をうけた、この俺がいれた玄米茶だからね」

と言って、冷えたお茶を飲み干した。


南泉はおにぎりを食べてお茶を飲むと、その夜は長義と別れて去っていった。燭台切の家に世話になることを一応は決めたようで、少ないながら私物をまとめてくるとのことだった。翌日の晩にまた公園で、と口約束をして、長義は気持ちもカバンも軽くなって帰宅した。帰宅してご機嫌な様子で水筒を洗う長義を見て、燭台切は静かに、

「明日会えたら、絶対に連れておいでね」

と言った。ホストや、様々な飲食店という職業を経た燭台切は、紙で交わした約束でさえあっさりと捨てる人間を少なからず見てきた。どんなささいな言葉でも、姿を消す口実になることも知っている。人間としてはまだ高校生の、しかも真っ当に育ってきた長義に、その事実を教える事は憚られ、けれど見てみぬふりもできずに、そうとだけ告げたのだった。案の定長義は、少し首をかしげ、けれど決意を持って頷いた。


翌日、暗くなった公園で長義がブランコを揺らしていると、果たして南泉はいつもの様子で現れた。

「…身軽に生きてる感じ?」

いつものように、パーカーのポケットに両手を突っ込んで、ビーチサンダルをぺたぺた鳴らして現れた南泉がどう見ても手ぶらで、長義は尋ねた。

「…今日ちょっと…だめだったから、明日また行く」

南泉は目を泳がせてそう言った。その肩が少し緊張していたので、長義はそう、とだけ返した。

「寝る時は俺のTシャツとか着ればいい。ないと思うけど万が一…万が一だぞ、小さかったら、燭台切のもあるから」

じゃあ行こう、と長義が立ち上がると、南泉はもごもごと顔を上げる。

「ほんとに…?」

「何を今更。燭台切がご飯を作って待ってるよ」

「え…」

「あ、もう食べちゃった?もしそうならデザートだけでも付き合いなよ」

「いや…食ってねえけど…」

「よかった。今夜は何かな…」

長義は呟きながら、なお立ち止まる南泉の手をとり、少し強引に引っ張った。

「お腹空いてきたから、早く行こう。話は歩きながらでも、食べながらでも聞くから」

南泉は小さく唸ったが、促されるままに歩き出した。南泉が何も話さずにいたので、長義も特には話さなかった。無言のまま、手を引き引かれ、住宅街を歩く。夕飯あたりのその時間帯は多くの人が帰宅していて、家々の窓はほとんど明るい。よくある衛星写真の、きっとあの、ちょっと明るい部分なのだろうなと長義は思った。一番明るいところは、きっと、繁華街とかそういう、いわゆる「眠らない街」なのだと思う。

「ここ、お前んちだったのか…」

数分歩いてたどり着いたカフェのフロントを見て南泉が言うので、長義は頷いた。そのまま裏手へ回って、居住スペースの玄関へ向かった。きちんと掃除のされている階段を上がって、長義は玄関の鍵をポケットから取り出した。ポーチライトが、二人を優しく照らしている。かちゃりと鍵の開く音を聞いて、南泉は突然、長義の手を振り払った。

「やっぱいい」

「は!?」

逃がすものかと、長義は素早く南泉の腕を掴んだ。その腕が少し震えていて、長義は一瞬、言葉に詰まる。

「帰るにしたってご飯食べてったら?せっかく来たんだから」

「いい…」

「何が」

「……」

「何が『いい』なの、猫殺しくん」

俯いて口を引き結ぶ南泉を、長義はしばらくじっと見ていたが、南泉に関しては比較的短気を見せる彼は、努めて静かに、穏やかに、もう一度その名を呼んだ。

「南泉、どうしたの」

「お…おれ…」

「おかえり長義くん、そしていらっしゃい南泉くん」

南泉が何かを返す前に、ガチャリと無慈悲な音を立てて、玄関のドアが開けられた。南泉は驚いて少しだけ飛び跳ねたが、こちらも驚いた長義がその腕をぎゅっと握りしめた。

「鍵があいたっぽかったのになかなか入ってこないから見に来ちゃったよ。玄関前で青春するのもいいけど、もう暗いしとりあえず入って入って」

颯爽と現れた燭台切は、頼りになるその力強い腕で南泉の背中を押して、半ば強引に中へ招いた。ささやかなウインクを送られ、長義も思い出したように動き出す。南泉は玄関でまた立ち尽くしていたが、逃すものかと、長義は後ろ手に鍵を閉め、チェーンをかけた。燭台切は、ちゃんと手を洗ってねと言い残し、おそらくキッチンへと消えていった。なかなか上がろうとしない南泉の俯いた顔を、長義はそっと覗き込む。

「どうしたの?」

一度驚いて緊張が解けたのか、先ほどより柔らかい声が出た。南泉は俯いたまま、それでも視線を長義に向けた。

「明るいとこあんまり…すきじゃない」

「…怖いの?」

「おちつかねえ」

「そう…ちょっと待ってろ」

長義は手早く、玄関の照明の明るさを調整した。ムードを大切にする燭台切のこだわりで、この家の照明のほとんどは、明るさや色を調整できるものになっている。殆ど使われたことのないその機能を、長義は何故それにしたのかと思っていたが、なるほど、いざと言う時に役に立つのだなと思った。

「このくらいでいい?」

長義が尋ねると南泉が首を横に振るので、明かりはもう少し控えめにされた。リビングへ続くドアの向こうも、それに合わせて少し暗くなるのが、嵌め込まれた磨りガラス越しに見えた。きっと燭台切が、さりげなく照明を落としたのだろう。

「どう?」

長義が尋ねると、南泉は小さく頷いた。よかった、と一息ついて、長義は再び南泉の手をとる。南泉はようやく顔を上げて、けれどもう一度、

「ほんとに…?」

と小さく尋ねた。長義がまっすぐに南泉を見つめ返してしっかりと頷くと、南泉は観念してビーチサンダルを脱ぐ。裸足の足を玄関の床につけようとして一回迷い、ぺたり、と置いた。

「あ、あとでちゃんと、掃除するから…」

「?何を?」

南泉が突然言うので、長義は首を傾げた。

「床」

「…なんで?」

「だって俺…こんな汚えのに、こんなぴかぴかの床…」

南泉の意味するところを、長義はおそらくきちんと理解した。理解はしたけれど賛同はできなかったので、あえてもう一度瞬きをした。

「気になるなら、先にお風呂入る?」

「は?」

「沸いてるかきいてみようか」

「そうじゃねえ」

「南泉」

長義は、南泉の手を強く引いた。勢いで、南泉はぺたぺたと廊下を歩き出す。

「俺も、雨の日にその辺で転んで泥だらけになって帰ってきたことがあるけど、別にいいんだよ。もし汚れたら洗えばいいし、君が気になるなら掃除すればいい。でもそれは後からでいいだろ。お風呂に入りたいなら止めないし、ご飯を食べられるなら食べようよ」

数歩分の廊下は、すぐに終わる。リビングへ行く前に洗面所へ寄って、燭台切の家らしくシンプルに整った洗面所で、なんだかいい香りのするハンドソープで手を洗った。南泉は自分の手をくんくん嗅いで、不思議そうな顔をする。それから長義がリビングに続くドアに手を伸ばすと、手を繋がなくても逃げなくなった背後の南泉から、緊張が伝わってきた。それに気づかないふりをして、長義はドアを開けた。


リビングは、玄関より明るかったが、洗面所よりは少し穏やかだった。燭台切と長義の暮らす家が、そこにはあった。柔らかそうなソファに、木製のテーブル。テレビと、それから色々なもの。カーテンは落ち着いた紺色で、家具は木のものが多かった。本丸で燭台切が好んでいた家具やインテリアとは少し違うそれに、彼もあの頃とは少し違うのだと、南泉は思った。それが伝わったのかわからないが、燭台切がダイニングテーブルに料理を並べながら笑った。

「僕の姉が長義くんのお母さんでね、長義くんが生まれてよく遊びにきてたから、家具を変えたんだ。ガラスのテーブルは割れると危ないし、ソファはカバーが洗えたほうが便利でね。テーブルもチェストも、角が丸いでしょう?最初はカバーを付けてたんだけど、長義くんてばすぐとっちゃってたから、大般若くんと僕で削ったんだよ」

「大般若…?」

「俺の父だ」

突然出てきた名前に南泉が怪訝な顔をすると、長義がするりと言った。

「おま…大般若から生まれたのか!?」

「…生まれてきたのは母親からだけど」

「まあ、そうなんだろうけどよ…」

「俺もびっくりしたし、大般若もびっくりしたと言っていたし、燭台切もびっくりだったらしいよ。ちなみに今は、父と母とで色々なところにいるみたいで、それで俺は燭台切おじさんの世話になってるんだ」

つらつらと家族について説明していた長義は、南泉をテーブルにつかせ、自分も椅子に座りながら、ちなみに、と続けた。

「俺が家具のカバーをとっちゃってたのは、まだ赤ん坊の頃で、意識がはっきりしてなかった頃だからね。意図的じゃない」

「お、おう…」

いつの間にか席につかされていた南泉は、色々な状況を整理しながらも、なんとか返事を絞り出した。ちょうどいいタイミングで、燭台切がエプロンを外しながら食卓へ向かってくる。食卓の上に並ぶ白米と、味噌汁と、それから肉じゃがと唐揚げ、簡単なサラダを見て、長義はさすが燭台切だな、と思った。同級生の女子生徒が、手料理について話していたのを思い出す。きっとこれは、南泉の胃袋を掴むための品揃えなのだろう。

「さ、食べようか。いただきます」

「いただきます」

「…い、ただき、ます…」

燭台切と長義が手を合わせたのを見て、南泉も慌てて手を合わせた。きっとこれも、今思い出したのだろうなと、長義は頭の片隅で思った。忘れているものは思い出せばいい。知らないものは、学べばいい。

「今更だけど、アレルギーとかある?」

燭台切がそう尋ねると、呆然と料理を眺めていた南泉は首を傾げた。その様子が、たまに長義が見せるものとそっくりで、燭台切はなんだか微笑んでしまう。

「あれる…ぎー…」

「食べたり触ったりすると調子が悪くなるもののことだよ」

知らない単語なのだろう事がわかって、燭台切は噛み砕いて説明した。南泉はしばらく記憶を辿って、けれどおそらく全ては理解していない様子で答えた。

「…わかんねえけど、たぶん大丈夫…」

「よかった!さ、召し上がれ」

燭台切に促され、南泉は箸をとった。とったはいいが口をへの字にして動きが止まったのを、唐揚げを口に入れようとしていた長義が不思議そうに見やる。

「どうした?」

「はし…使ったことねえ…」

「大丈夫、昔使ってたじゃないか。すぐ思い出すよ。ほら、最初はこうやって持って…」

箸を睨むようにしていた南泉に、長義は大した事じゃないよと言い、昔本丸で学んだ時のように、南泉に箸の持ち方を教え始めた。燭台切は静かに席を立って、スプーンとフォークを用意する。きっと、南泉が箸を使えるようになるのは今日ではない。けれどそれは、今日ではないというだけで、近いうちに必ず訪れる未来なのだ。

案の定、箸で唐揚げをつまもうとして指を攣らせた南泉に、燭台切はフォークを渡した。

「いいとこまで行ってたよ!とりあずお腹が空いてるだろう?今日はこれで食べよう」

南泉はうん、と小さく頷いてフォークを受け取り、唐揚げに刺した。まだ食べてもいないのに、衣がじゅわっとなるのを見て、南泉の頬が少し赤くなる。その様子をこっそり観察しながらも、燭台切と長義も食事を再開した。二人の視界の端で、南泉が唐揚げを口に入れた。一口噛んで、南泉は、

「あづ!!!」

と叫んだ。長義は少し笑ってしまって、

「ふうふうしろ」

と、一日前にも言ったことを繰り返した。


長義がぺろりと平らげたのと同じ量の夕食を、南泉は少し残した。明日食べるから包んでもいいかと尋ねる南泉に、明日は別のご飯があると言って、長義はその残りもぺろりと食べた。なぜか南泉に信じられないものを見るような目で見られたが、長義が頬を膨らませながら「何かな」と言えば南泉は首を横に振った。

食後は、長義が南泉に教えながら、二人並んで皿を洗った。スポンジを繰り返し握ると出てくる泡が気に入ったようで、南泉は頬を赤くして何度も繰り返していた。三人分の食器は、少なくはないが多くもない。お腹が落ち着くくらいの時間をかけて、一つの食器も欠けることなく、皿洗いは無事に終わった。それから三人で、お茶でも飲みながら話をしようとしたが、南泉が何を気にするのか、床にしか座りたがらなかったので、まず風呂場に押し込んだ。使い方はわかると言い張るので、長義がバスルームを軽く説明して着替えを用意しに自室に戻ると、南泉はものの数分で風呂場から出てきた。慌てた長義がそのあたりにあった衣類を適当に掴んで脱衣所に向かうと、ほかほかにもいい香りにもなっていない南泉が、所在無さげにタオルにくるまっていた。濡れるとぺちゃんこになる髪は相変わらずで、タオルの隙間から見える肌にはいくつかの傷跡があった。長義はそれらを一旦保留にして、南泉からタオルを奪い取ると風呂場へと追いやった。それから自分もズボンの裾を捲り、袖も捲って後に続く。混乱している南泉を小さなプラスチックの椅子に座らせ、問答無用にシャワーから湯を出す。

「おぶっ!何すんっゲホッ」

「君ね、風呂の入り方を忘れてるんだったらそう言いなよ」

長義は南泉に頭から湯を被せ、ずらりと並ぶ何種類ものシャンプーボトルから適当に一つを選ぶと、咽せている南泉の髪を両手で洗い始めた。

「…色々ありすぎんてよくわかんなかったんだよ…」

「…ここは燭台切の…しかも元ホストの燭台切が切り盛りする家だからね。身だしなみを整えるものはそこらの専門店並みに揃ってるんだ」

「ヘックシ!」

「ごめんね、これだと匂いがきつかったかな?明日は全部匂い嗅いでみて、好きなのを使えよ」

「…わかった…」

長義の好きな香りを選んだつもりだったが、突然の香料に南泉はくしゃみをした。しばらくしたら落ち着いたようで、そうすると今度はしきりに鼻を鳴らしている。その肩口や腕、背中を、長義はちらりと見た。刀だった頃に比べて、全体的に薄い感じがした。自分だって戦うための筋肉はもうついていないが、それにしたって、背丈に比べて頼りない。刀だった頃は自分よりも若干、ほんの少しだけ、ちょっとだけがっしりとしていたくせに。人間となった今、その身体を作るのは日々の食べ物や行いなので、この家で燭台切のご飯を食べて、下のカフェで働いていれば、いずれはもうちょっとマシな身体になるだろう、と、長義は思い、それが自分の願いだと思った。

「流すよ。目つむって」

「ん」

声をかけて、再び頭から湯をかける。たった一回のシャンプーだったが、心なしか、髪の色が明るくなったように感じた。きっと気のせいだろうと思う。自分が洗ったという事を、きっと自分で実感したかったのだ。

長義はそのまま、南泉の髪をコンディショナーで整えて、それからこれまたいくつか並ぶボディソープの中からお気に入りのものを使って南泉に身体の洗い方を教え、全身から泡を流すと湯船に浸かるように指示した。南泉は抗う気力もないのか、不気味なくらい大人しく従って、それが長義を上機嫌にも不機嫌にもした。長義が洗い場にしゃがんで、湯船に浸かった南泉をまじまじと眺めていると、ようやく不満げに、南泉はじろりと長義を睨む。

「んだよ」

「いや、猫殺しくんだなあと思って」

長義が思ったままを言うと、南泉は変な顔をして目を逸らす。その頬の血色が少しずつ良くなっているのを見て、長義は南泉を湯船から引き上げると、脱衣所でタオルにくるみ、着替えを渡してやった。長義のTシャツとスウェットは今の南泉にはちょうどよく、むしろ少し余裕があった。長義は、リビングで待ち受けている燭台切のもとへ南泉を追いやった。カフェで働くのなら、燭台切と二人で話すことも必要だろう。長義は脱衣所のドアを閉じると、濡れている服を脱いで、自分の体をちらりと見回した。どこにも、派手な傷跡も、小さな火傷の痕のようなものも無い。長義はため息を一つついて、カラリと浴室のドアを開けた。



南泉は、漢字があまり読めず、そして世の中の事をあまり知らなかった。店で働く前に、しばらくは読み書きの勉強と、それからテレビを見るようにと言われ、今日も大人しくそれに従っている。長義が学校に行っている間は、燭台切の買ってきた漢字ドリルをしたり、理科の資料集なんかを読んだり、テレビでやっている算数や社会の番組を見たり。それから食事や掃除や、とにかくそういった「暮らす」ということを燭台切から教わった。

南泉が勉強をするのはカフェのカウンター席の端っこだった。流石に昼時や夕飯時など、営業が忙しい時間帯はリビングで過ごしたものの、燭台切は燭台切で南泉から目を離すとふらっと出て行ってしまうのではないかという懸念もあって、座席の許す限り、南泉はカフェで時間を過ごした。空いている時間帯にやってくる老夫婦や、赤ん坊を連れてランチをしにくる若いママ達、友達同士の大学生や、住宅街には珍しいサラリーマンなど、カフェには様々な客が訪れた。最初は挨拶どころか俯いてろくに顔も上げなかった南泉だったが、燭台切に叱られたり、それを客が宥めたりとしているうちに、段々と顔を上げ、挨拶をするようになった。南泉がカウンターの端に居座るようになって一ヶ月ほど経つと人見知りもおさまったようで、初日に比べて緊張が解れているのが、燭台切にもわかった。


南泉が自分の荷物を持ちに行くのに、長義は学校があったので、燭台切が付き添った。散々抵抗した南泉だったが、燭台切の押しには勝てず、結局は小さなアパートへと燭台切を連れて行った。自宅は一階なのだと言いつつ南泉は階段を上がり、二階にある部屋のドアを小さくノックした。すると、中から女性が出てきて、南泉を見て挨拶をし、それから燭台切を見ると、慌てたように南泉の腕を引いて部屋に入れ、素早くドアを閉じて中から鍵をかけた。あまりの早技に燭台切が呆然としていると、中からなにか話し声が聞こえ、それから控えめにドアが開かれた。

「ごめ〜ん、なんか事件かと思った」

女性が燭台切に軽く謝っている間に、南泉は部屋の奥からジャージを持ってきた。聞けば、自宅に私物を置いておくと持っていかれてしまうので、この部屋に置かせてもらっていたそうだ。南泉が女性に燭台切を紹介し、これからはこの人の世話になることになった、と伝えると、女性はほっとしたように、よかったね!と笑った。燭台切はようやく自己紹介をして、カフェをやっているのでよければ来てくださいと名刺を渡した。

それから南泉は女性と少し話をしたかと思うと、今日は大丈夫そうだと言いながらアパートの階段を降り、先ほど自宅だと指さした部屋へ向かった。まずはドアに耳をつけて、それからドアノブへと手を伸ばす。鍵はかかっていないようで、南泉は静かに静かにドアを開けると、そろりと、盗みに入るかのように中へ入った。燭台切が待っていると、南泉がすぐに戻ってきて、キィと鳴らしてドアを開けた。気になるなら入ってもいいと言われて燭台切が中へ入ると、そこには、何もなかった。キッチンには濁ったガラスのコップが置いてあって、椅子が一つある。テーブルは無かった。一間の部屋は畳敷で、そこにもやはりテーブルや、座布団などは無かった。テレビも無く、いくつかの紙屑のようなものと、タバコの空き箱、灰皿の代わりにしているのだろう、ワンカップのガラスの容器、ビールの空き缶、汚れた布のようなもの(衣類かもしれない)、それから、破れたふすまが閉まりきっていない押し入れがあった。燭台切が何も言えずに立ち尽くしていると、押し入れの奥で何かをやっていた南泉が、一枚の写真を持って出てきた。

「これ、俺の母親…だと思ってこの写真持ってるけど、違うかも」

南泉はそう言って、照れたように笑った。燭台切が写真を見せてもらうと、ずいぶん色褪せていて、端が少し焦げていた。写真の中で、女性が赤ん坊を抱いて笑っていた。

「美人だね」

燭台切は、それしか言えなかった。

「だろ〜」

それでも南泉は、大事そうにポケットに写真をしまって、二人は燭台切の家に帰った。


燭台切は写真立てを買って、南泉の写真を南泉の部屋に飾った。南泉が腰を据えた部屋には、ベッドや机、カーテンが既にあって、クローゼットの中にはチェストも準備されていた。いつ誰が来てもいいようにと、部屋にはとりあえず一式を置いておくという燭台切のポリシーによるものだった。南泉は最初こそ床で寝たりもしていたが、今ではきちんとベッドで、布団にくるまって、夜間に寝ている。

南泉がこの家へ来た当初、彼は完全に昼夜を気にしないで生きていた。辛うじて、時計の読み方は上の階の女性に習ったと言っていたが、時計自体は公園にあるものしか見たことが無かったらしい。太陽の位置や、道を歩く人の様子で、家に帰るタイミングを探していたと南泉は語った。南泉の自宅は昼間は誰もいないことが多く、夜は父親が寝に戻ったり、戻らなかったりする。鉢合わせをしてしまうと大変な事になるので、南泉はいつも、上の階の女性や、近くの部屋の住人に、部屋が空かどうかを確認してから自宅のドアを開けていた。帰宅はしたものの誰かがいる場合は、南泉はそのまま、またふらふらと出かけていった。一番よくいるのは公園で、それは、夜間のその公園には誰もいないからだった。南泉は路地裏を歩いてゴミ箱を漁ったり、公園でぼうっと夜を見つめたりして時間をつぶし、寒かったり雨だったりすると、たまに話しかけてくる警官のところへ行って屋根を借りたりしていたそうだ。小豆の言っていたとおり、どうやら南泉は、小豆のことをそうだと認識してはいないらしい。それならばと、燭台切と長義は、南泉が思い出すまでは何も言わずにおこう、と決めた。


週末には、長義にショッピングモールへ連れていかれ、衣類や身の回りのものを揃えた。南泉は初めて乗る電車に異様に緊張していて、途中で長義は何度も降りるかと尋ねたが、十分も乗っているとすっかり慣れたようで、そうなると今度は窓の外の景色に釘付けになっていた。多くの人で賑わっている目的地に到着すると、南泉は再び緊張した様子になったので、長義は手をつないでやった。長義が知っている店を紹介しながら連れ回せば、最初は冷たく強張っていた南泉の手も、少しずつ暖かく、柔らかくなった。どんな服が好きなんだと長義が尋ねても、南泉は「なんでもいい」としか答えず、それでも長義がこれはどうかあれはどうかと質問し続けると、南泉は少しずつ苛立ってきて、最終的には低い声で「わかんねーっつってんだろ」と、大声を出すでもなく静かに、堪忍袋の緒を切った。長義はそれを聞いて、そうか、と返す。

「今まで服はどうやって選んでたの?」

「くれるっつー奴からもらってただけだから、選んではねえよ」

「なるほどね…ということは、俺が選んだものをお前にあげたら、お前はそれを着るんだな?」

「………」

「猫殺しくん?そういう事だよね?俺が選んでいい?」

「…や、俺…選べるように勉強する…から、今日は色々見せてくれ」

「それでこそだ」

長義ににっこりと微笑まれ、南泉は少し、俯いた。

南泉が非常に勉強熱心であることを、長義は燭台切からも聞いていたし、たまにカフェの前で鉢合わせする常連客との世間話でも聞いていた。そしてその姿勢を、本当に尊いものだと思っている。


南泉が燭台切の家に来たばかりのころ、長義は、再会したあの日に見た光景を思い出し、南泉に尋ねたことがあった。コンビニの裏口で店員から何かをもらい、南泉も何かを渡していた、あの時の事を。その後、南泉が公園でおにぎりを食べていたから、店員が余った食べ物を南泉に渡していたのだろうとは思ったが、南泉が何を店員に渡したのかがよくわからなかった。聞けば南泉は、道で拾ったりして集めた小銭を、店員に渡していたと言う。理由を聞けば、少し黙り込んだあとに、南泉は俯いた。

「…捨てるぶんをもらってたのはわかってた。でも、自分がゴミ食ってるとは思いたくねえだろ」

だから、少しだけでもいいから小銭を渡して、『たべもの』を食べていると思いたかった。そう言う南泉を、長義は思わず抱きしめそうになって、けれど、まだその時では無いと理性を総動員した。

「俺は君のこと、本当にすごいと思うよ。同情とかじゃなく」

「なんだよ…きもちわりいな」

「だって…多分だけど猫殺しくん、何かを盗んだりとか誰かをカツアゲしたりとかも、してないだろう?」

長義が静かにそう言うと、南泉は、フンと鼻を鳴らした。

「俺は一文字の刀だったんだぞ。そこまで落ちたら、お頭に顔向けできねえだろ…。昔のことはあんま覚えてねえけど、それだけはずっと、忘れねえようにと思って」

震える声でそう言われてしまえば、長義は、

「そう」

とだけ返した。言葉の限りを尽くして敬意を表したかったが、きちんと伝わるかどうか不安だった。だから、何も言わなかった。


燭台切のカフェの、カウンターの端っこで、南泉は、熱心に勉強をした。ある程度漢字が読めるようになって、色々な客とも話せるようになって、カフェのメニューを覚え、どの料理がどのメニューなのかを覚えた南泉は、ある日、エプロンをつけてカフェに立った。エプロンには「見習い」と書かれた手作りの紙のバッヂが付いている。これは、前の晩に長義が作ったものだった。お世辞にも綺麗にできているとは言えなかったが、長義なりの応援なのだと燭台切に言われれば、南泉はしぶしぶそれをつけた。エプロンをつけた南泉の姿を見て、老夫婦やママ友会のメンバーは、「あら!」と微笑んだ。つっかえつっかえで注文をとり、震える手で給仕をする南泉を、常連客は見守ってくれた。会計はまだ燭台切が行うので、みな、支払いの際に南泉を褒めた。燭台切は密かに、「tip」とラベルのついたメイソンジャーをレジの近くに置いていて、何人かの客は、南泉への心付けをそこへ入れた。お釣りで受け取った小銭がそのままそこへ入る事も多く、カランカランと鳴るその瓶の存在を南泉が知ったのは、南泉が見習いサーバーになってから一ヶ月が過ぎた頃だった。

「はいこれ」

すっかり慣れた様子で閉店作業を終えた南泉が、いくらか満ち足りた顔で入口の鍵を閉め、窓のシェードを下ろし、エプロンを脱ごうと背中に手を回した時、燭台切はその瓶を南泉に差し出した。

「…?」

きょとんと燭台切を見上げる南泉には、柔らかい声が返ってくる。

「お客さんが南泉くんにって入れてくれたお金だよ」

「え!?でも俺、お給料無い…よな?」

「これはお給料じゃなくて、チップだよ。南泉くんの仕事を気に入った人が入れてくれるんだ」

「ちっぷ…」

そういえば、この前見た映画でそんなようなものが出てきていた気がするが、これがそれなのか。南泉はそんな事を思いながら、まじまじと瓶を見た。

「小銭だと嵩張っちゃうかな、両替しようか。小銭はあっても困らないからね。お釣り用に」

何も言えずに手を後ろに回したままの南泉の前で、燭台切はレジを開け、小銭を数えて、そのうちのいくらかを紙幣と交換した。それをまた瓶に入れて、南泉に差し出す。

「え…」

「受け取って!来月からは、ちゃんとお給料も出るからね」

「…え?でもおれ、ご飯もらってる…」

「それはそれ、これはこれ。子供のうちは、それでいいんだよ」

「俺…子供なのか?」

「漢字が読めなくてお箸が下手なうちはね」

南泉は戸惑いながらも、燭台切の押しに負けて、瓶を受け取った。

「君が働いて得たお金だよ」

燭台切のあたたかい視線に耐えられず、南泉は、久しぶりに俯いてしまった。

そうこうしていると、居住スペースと繋がっている階段の向こうから、長義の声がした。いつもより終業が遅いので、何かあったのかと思ったらしい。燭台切はそのよく通る声で返事をして、カフェの照明を落とした。

「さ、帰ろう」

そう言って階段を登り始める燭台切を、南泉は慌てて呼び止めた。

「ありがと…」

きらきらとした目で、南泉は絞り出すように言った。それを受けて、燭台切がとびきりの笑顔で

「明日からもよろしく頼むよ!」

と言ったので、南泉は、何度も頷いた。



物事は、転がり始めてしまえばなかなか止まる事はない。


南泉は燭台切のところへやってきて、勉強を始め、見習い店員になり、常連客からのチップをもらい、それから見習い店員としての初めての給料を得ると、それを持ってコンビニへ向かった。週末だったので、長義は嫌がる南泉を宥めすかして押し切って、その後ろを着いていった。南泉と長義がコンビニの店内に入ると、長義も見たことのある従業員がレジ番をしていた。初めて南泉を見かけた夜、南泉に食べ物を渡していた店員だ。きっと南泉は、彼のシフトを知っている。南泉は、化粧品の棚からピンクのマニキュアを選び、お菓子の棚と睨み合ってチョコレート菓子を手に取ると、それをレジに持っていった。店員はにこやかに会計をしてくれた。

「…俺、知り合いのところに住まわせてもらって、ちょっとだけ働いてる…」

他に客のいないことを確かめてから南泉がそう言うと、店員は、そう、とほっとしたように笑った。

「いつも食いもん、ありがとう…これ、お礼…」

南泉はもごもごと言いながら、会計の終わったチョコレート菓子を差し出した。店員はそれを受け取ると、ちょっと待ってて、と言って一旦奥へと姿を消した。なんだろうかと南泉が大人しく待っていると、彼は小さな封筒を持って戻ってきた。その封筒を、南泉に差し出す。

「これ、君の。小銭は両替させてもらったけど…増やしたり減らしたりはしてないよ」

「え…?」

「俺もね、前に金無くて家賃も滞納してさ、親切な人に飯もらってたことあるんだよね。仕事見つかってお礼に行ったら、いつか誰かに同じことしてやれって言われて。だから君にご飯買ってた。やっぱ育ち盛りの子にはちゃんとしたもの食べてほしいじゃん、コンビニ飯がちゃんとしてるかどうかはあれだけど…。ゴミ食ってると思いたくねえって金持ってきた時、言おうか迷ったけど、言ったらもう来なくなるかもって思って黙ってたけど、君が食べてたのは全部、俺が買った新鮮なご飯だよ。それでこれは、君が集めてきてた金。勝手に貯金してたんだ。俺、金が増えてくの見るの好きでさ」

「は…?」

「なんか健康そうになってまじよかったよ!俺にできることなんてほとんど無いからさ…まじで、よかった」

これ、ありがとな、またなんか買いに来いよ。そう言ってチョコレート菓子を両手で持って揺らす声が少し湿っていて、南泉はもう一度お礼を言って、きちんと頭を下げた。


その後二人は、南泉の住んでいたアパートに向かった。二階の、世話になったという女性の部屋のドアを叩いて、出てきた女性にマニキュアを渡す。それを受け取る女性の爪はきれいなピンク色に飾られていて、長義は少しおどろいた。南泉はなんだかんだ、気の配れる男なのだ。もしかしたらコンビニ店員も、チョコレートが好きなのかもしれない。女性はマニキュアを受け取って、こちらは隠すことなく涙を流した。

「やだぁ〜うれしい〜!息子が初任給で化粧品買ってくれたぁ〜」

そう言って南泉の頭を撫でて、褒めちぎった。

「俺はあんたの息子ではない」

南泉がそう言いながら照れたように笑うと、

「何言ってんの〜?おねしょの世話もしてあげたじゃん」

と返ってきて、南泉は慌てて長義に向き直ると

「ちっちゃい頃の話だからな!!!!ちっちゃい時の!!!!!」

と声を張り上げた。長義は思わず笑ってしまって、女性もそれを見て笑った。


南泉はそれから、今度は商店街でお惣菜を売っている個人経営の店に行くと、コロッケを一つ買った。そこでも、住む場所と仕事を得たと伝え、ありがとう、とコロッケ二つ分の支払いをした。店先の初老の女性はやはり涙ぐんで、結局コロッケを三つくれた。また来てね、今度は違うのも食べてみてね、という声に元気に頷き、南泉と長義はコロッケを食べながら歩いた。

南泉の小さな恩返しの旅は、その日一日続いた。長義は大人しくそれについて回った。路上で生活をしているのだろう男性、スナックを経営しているらしい女性、スウェット姿でぶらついている若者。誰も彼もが南泉の近況を喜んで、また顔を見せろと笑った。南泉が、ぼろぼろになりながらも誰かに助けられていたことも、それを南泉が全て覚えていることも、長義は、とてもすてきなことだと思った。


南泉は最後に交番へ行って、コンビニで受け取ってきた封筒を提出した。それを手にした小豆は困ったような顔をして、うーん、と唸った。

「もとは小銭だったのだろう?ずいぶん前にひろったもののようだし、りょうがえもされてしまったし…わたしが言ったことは内緒にしてほしいのだけど、もらっておいたらどうかな」

小豆は、同僚であろうもう一人の警官の前で、堂々とそう言った。南泉がもう一人のほうをちらりと伺うと、彼は何も聞いていませんという顔で目を閉じたので、ありがたく、そうすることにした。

「俺、知り合いのところに住まわせてもらって…」

と、南泉は言いかけ、ふと、顔を上げた。小豆はいつも通り、穏やかな顔をして立っている。

「…あ…小豆…?」

南泉が驚いたように小さく叫ぶと、小豆は笑った。

「うん。おもいだしてもらえたようだね」

「嘘だろ…なんで気づかなかったんだ…」

「そういうものさ」

「そういう…」

南泉は、ハッとして長義を振り返る。長義は、呆れたようにため息をついた。

「俺は最初会った時に気づいたよ」

「なんで言わねえんだよ」

「あの頃はそれどころじゃなかっただろう」

衣食足りるというのは偉大だね、と長義が続けると、南泉は小さく唸った。かと思うと、突然、顔を青くして息を飲んだ。

「あ、小豆…ってことは、お頭とは、もう、知り合ってん…だよ、な?」

「それが…昔は一緒にいたのだけどね、いろいろあっていま彼はゆくえふめいなんだ」

小豆が困ったようにそう言うと、南泉は、大変だ、と唇を震わせる。

「お、俺…お頭のこと知ってる…」

「え!?」

「お頭ずっと、外に出してもらえないとこで、変なやつと住んでるぞ!」

「何だって!?」

南泉の言う人物が山鳥毛ではなかったとしても事件の可能性があるとして、先程まで置物のように振る舞っていた小豆の同僚も、さすがに話に加わってきた。警官二人はさっと南泉を椅子に座らせると、メモを取りながら南泉の話を聞いていく。

「まずさいしょに…彼はぶじなんだね?今すぐいったほうがいい?」

「無事だ。変なやつではあるけど、お頭のことだいじにしてる。ペットみてえにだけど…」

「場所は?」

「…俺住所とかそういうのわかんねえから、連れてく。家がいっぱいあるとこ」

「その一緒に住んでる者というのは、武器を所持していたり?」

「わかんね…会社で働いてるとは言ってたけど…」

会社といっても色々あるからね、と、長義は思わず口を出してしまい、南泉は唸った。監査官だった頃の名残か、南泉に質問をする警官二人に混じって色々と尋ねてしまいそうなのを、必死に抑えている。それでも少し落ち着かなくて、燭台切に連絡を入れようと、一旦外に出た。長義が燭台切に電話をかけて、今の状況と、少し遅くなる旨を伝えると、燭台切はいつもの調子で気をつけてね、と言った。

「何かあったら呼んで。僕こう見えて、喧嘩強いんだ。お巡りさんがいるんだったら大丈夫だとは思うけど、お巡りさんだとできないこともあるからね」

「うん、わかった。ありがとう」

刀であった頃から燭台切は頼もしかったが、保護者としても頼もしいものだと、長義は思った。

長義がひとつ深呼吸をして署内に戻ると、話が一段落したところのようだった。小豆は帽子をきちんと被って、もう一人の警官と何かを話していた。南泉に尋ねると、これからその家へと行くことになったそうだ。いそいそと署を出て、小豆はいつもの自転車を裏から出してきた。


南泉の案内で歩く道を、長義は知っていた。数時間前に通った道だったからだ。やけに遠回りをするのだなと思いながらも何も言わずに歩いていたのだが、実は南泉はその家にも寄ろうとしたらしく、けれど窓が閉まっていたので通り過ぎたのだと言う。南泉によると、山鳥毛はたまに窓から外を見ていて、そういう時は南泉を家に入れてくれる事があるらしい。けれど窓が閉まっている時や、開いていても山鳥毛が窓際に居ない場合は、一緒に住んでいる男が家にいる時なのだとか。南泉が山鳥毛に出会ったのはずいぶん前で、南泉も小さかったが山鳥毛も中学生か高校生ぐらいだったらしく、刀剣だった頃の面影はあったものの、身体の大きさやそういったものが全く違っていたのもあり、それから南泉は南泉で生きるの必死でそれどころではなかったのもあり、先ほど小豆を思い出すまでは山鳥毛に全く気づいていなかったらしい。

「あの窓」

しばらく連れ立って歩いていると、南泉が、マンションの三階の角部屋、少し小さめの窓を指さした。小豆と長義が窓を見上げると、窓は閉まって、カーテン越しに部屋が明るいのがわかった。

「その、ともにすんでいる男というのと会ったことはあるのかい?」

「ない…。でも一回だけ、廊下ですれ違った事はある」

「どんなかんじだった?」

「…あんまよく覚えてねえ…俺、下向いて歩いてたし…」

「きにすることはない。きみの安全がいちばんだからね」

俯く南泉の背に、小豆はやさしく手を添えた。さてどうするかと、小豆がもう一度窓を見上げると、ちょうど、窓が開いた。

「南泉」

小豆が慌てて声をかけ、南泉も窓を見る。と、中から誰かが窓際に近づいた。部屋の明かりを背にしていてその顔はよく見えなかったが、彼は迷う事なく南泉達が立っている辺りを見ると、少し驚いたような素振りを見せる。

「お頭だ」

南泉が小さな声で言うのと同時に、彼は少し待てというように手のひらを見せて部屋の中へ戻って行った。

「たぶん入れてもらえる。ちょっと待て」

「そうなの?」

南泉の言葉に少しそわそわし始める小豆を横目に、長義がそう尋ねると、南泉は神妙な顔で頷いた。

「お頭んち、カメラとか盗聴器はついてないらしいんだけど、ドアの開閉とか全部記録されてるんだって。お頭にもGPSついてて外に出たら怒られるって言ってた。多分いま電話してて、そしたら入れてもらえると思う」

「…どういうことかな?」

眉を寄せて尋ねる長義に応えたのは、小豆だった。

「よのなかには、いろいろなにんげんがいるのだ」

警官の姿をした小豆にそう言われてしまうと妙な迫力があって、長義は納得していないながらも口を閉じた。そうこうしていると先程の影がもう一度窓際に現れて、南泉に向かって手招きをした。南泉は大きく頷くと、小豆と長義を連れてマンションのエントランスに向かい、慣れた様子でパネルを操作する。おそらく山鳥毛が中から開錠したのだろう、ガチャリと音を立ててエントランスが開くと、彼らはエレベーターは使わず、階段で三階まで上がった。

「エレベーターはカメラついてっから…」

南泉が小さくそう言うのを、小豆と長義は黙って聞いていた。早足で廊下を歩き、はドアを小さくノックする。呼び鈴を押すと、やはりカメラが起動するそうだ。山鳥毛は玄関で待っていたらしく、ドアは直ぐに開いた。挨拶もそこそこに、南泉は小豆と長義の手を引いて中に入る。山鳥毛はすぐにドアを閉じて施錠をした。

「まっすぐリビングへ行ってくれ」

足を止めようとする小豆と長義の、南泉は手を引き、山鳥毛は背を押した。

「いつまでも玄関に居ては怪しまれるのだ」

山鳥毛が困ったように笑うと、小豆も長義も慌てて歩き始めた。


四人がリビングに入ると、山鳥毛はやはり素早くドアを閉じる。ふうと息をついて、テレビをつけた。部屋の中は整っており、清潔で、何の変哲もないリビングルームだった。南泉もふうと息をついて振り返ると、小豆が山鳥毛の顔を両手で掴み、まじまじと目を合わせているところだった。南泉は少し気まずくなって長義の後ろにそっと隠れようとしたが、長義に阻まれて横に並ぶ事で落ち着いた。

「ぶじだったのだな」

「ああ」

「これは…」

山鳥毛の、刀であった頃の刺青を思わせるような皮膚の引き攣りを、小豆はそっと撫でた。

「幼い頃に火事にあってね。その時の火傷のあとだ」

「そうか…そのかじのあと、なにがあったんだ。姫鶴もわたしも、ずっと山鳥毛をさがしていた」

「おそらく、その火事のどさくさで、誘拐を…されたのだろうな。病院で目を覚まして、退院してからはずっとここにいる」

南泉の知っていたことも、知らなかったことも、山鳥毛は静かに話した。彼をさらってきた男のことが未だによくわからないこと、外に出してもらえない代わりに、山鳥毛が望むものは惜しみなく与えられたこと。暇を持て余していたので、通信教育や参考書で一通り勉強したあとは、オンラインで取得可能な資格を片っ端から取得している途中であること。人の身体は放置しておくとよくないらしいので、気晴らしにひたすら筋トレをしていたこと。ランニングマシンもあるらしい。

「なぜにげなかった」

「子供の身では、逃げたところでどうにかなるものではないと思った。そろそろ資格も増えてきたし、どうしようかなと考えていたところだ。どうやら子猫も、きちんとした生活を手に入れたようだしな」

山鳥毛は、南泉を見て満足げに微笑んだ。

「お頭、俺…」

南泉は、その場に突然膝をついた。

「お頭のこと思い出せてなくて本当にごめんなさい!」

額を床に擦り付ける勢いで頭を下げ、実際にゴチンと音がしたのを聞いて、山鳥毛は慌てて南泉に駆け寄った。

「それどころでないのは分かっていた。物事には順序があるのだ。子猫が気にすることではない」

「お頭〜」

「しばらく姿を見なかったから心配していた。子猫こそ、無事でよかった」

山鳥毛と南泉のやりとりを、どこか懐かしさを感じながら長義は見ていたが、ふと視線を動かした先で無表情で立っている小豆を見つけ、長義は慌てて山鳥毛に声をかけた。

「山鳥毛、小豆は見ての通り警官なんだ。あなたをここから保護できる。どうする?」

長義がそう言うと、山鳥毛は少し考え込んだ。

「小豆、自首をすると、少し刑が軽くなるとテレビで見たんだが、本当か?」

「…ばあいによるかな」

「そうか…。彼は少し変わった人間ではあるが、なんだかんだ養ってもらった恩がある」

「山鳥毛、いまのきみはにんげんだ。十年、十五年というのは、とてもながい」

小豆が嗜めるように言っても、山鳥毛は微笑むだけだ。二人はしばらく見合っていたが、小豆が折れた。片手で目元を覆って深い深いため息をついて、どうしたいんだ、ともう一度聞いた。

「今から彼に電話をかけよう。自宅に警官が居ると伝える。きっとすぐに帰ってくるから、それをもって自首扱いにしてほしい」

それを聞いた小豆は最後の抵抗を試みたが、山鳥毛はやはり静かに微笑むばかりだった。


山鳥毛が電話をかける前に、「ここから先は未成年に見せるものではない」と、長義と南泉は家に返された。徒歩での道を、二人は静かに歩いた。陽はすっかり落ちて、夕飯の時間は過ぎている。どこかから漂ってくる食事の匂いに、ぐう、と長義の腹が鳴った。

「…腹が減ったな」

長義が素直にそう言うと、応えるように南泉の腹も鳴った。

「今のは返事?」

「たまたまだよ!」

「ふうん」

今日の夕食は何だろうかと、きっと二人ともが考えていた。燭台切の作る食べ物は全てがおいしい。それを二人は、とてもよく知っている。

それからまた、二人は黙々と歩いた。色々な事があった一日だった。もうすぐ家に着くだろうという時、ふと、長義が隣の南泉に目を向けると、南泉は俯いて歩いていた。

「おい、顔を上げろ」

再会したばかりの頃を思い出して長義は少し焦って、わずかに尖った声が出てしまった。南泉は短く返事をしたがその顔は上がらず、長義は足を止めた。

「そんな様子で帰ったら、燭台切が心配する」

柔らかい声になるようにと努めてそう言うと、南泉も足を止め、ぱっと顔を上げた。

「心配する…?」

「当たり前だろう。山鳥毛のところに行く前に、燭台切にはおおまかな事と遅くなることを伝えたんだ。大局だけ見れば今日はいいことしか無かったじゃないか。しゃんとしろ」

長義がそう言うと、南泉はぶすっとした。無表情なばかりだった頃を知っているので、長義にはそんな南泉のこともかわいらしいとしか思えなかったが、今は喧嘩をしたいわけではないので黙っておく。

「いいことしかなかった…か」

「違うのか?猫殺しくんは今までお世話になった人に挨拶ができたし、小豆のことも思い出して、山鳥毛だってこれから社会復帰していく」

「…確かに、そう言われるとそうだな」

「猫殺しくんはこれから美味しいご飯を食べて、お風呂に入ってテレビを見て寝る」

「うん…」

「それで明日は日曜だから、カフェだろう?」

「うん」

「俺は明日は模試だけど、三時くらいまでには帰るよ。それで、カフェが混んでたらいつもみたいにちょっと手伝う」

「ん…」

「…どうしたんだ、何か心配ごと?」

少しずつ元気の無くなっていく返事を聞きながら、長義は俯いていく南泉の顔を覗き込んだ。南泉はうつむいたまま、相変わらずぶすっとしていて、心配事があるというよりは、おそらく自らの何かに納得がいっていないのだろうと思った。長義はそのまま、次の言葉を探さずに、南泉の言葉を待った。もう一度、腹が空腹を訴えたが、それは無視した。

「…お頭は」

「うん」

ようやく南泉が口を開いたので、長義はすかさず相槌を打つ。

「資格とかそういうの、ちゃんとやってたんだなって思って」

「うん」

「おれは…漢字すら読めなくて、なさけねえ…」

心底言いたくなさそうに、南泉は絞り出した。その真面目さを、長義は好んでいる。

「お前ねえ」

好んではいるが、ため息をついて見せた。

「環境や状況が全く違うのに行いを比べても意味なんか無いだろう」

「…かもしれねえけど!」

「じゃあ聞くけど、とりたい資格でもあるのか?」

「…いや…どういうのがあるかも…知らねえし…」

「はあ」

長義はわざとらしくため息をつくと、南泉の手を引いて歩き出した。空腹時に言い争うのはよくないと、燭台切から言い聞かされている。

「お前はまず、やってみたいこととか、行ってみたい場所とか、食べてみたいものとか、見てみたいものとかを探しなよ。せっかく衣食住の心配がなくなったんだから」

「……」

「一生カフェで働いたって、働かなくたっていいんだ。自分が何ができて何ができないかは、やってみたいことをとりあえずやってみたらわかってくる」

「そういうもんか…?」

「そうだ」

「そうか…」

 長義は、ぐいぐいと南泉の手を引いて歩いた。もうあとほんの少しで、燭台切の食事にありつける。

「そうか」

掴んだ手の先で、南泉がようやく顔を上げた気配がして、長義は少しだけ、肩の力を抜いた。

色々な事があった一日だった。南泉にも、長義にも。物事は、転がり始めてしまえばなかなか止まる事はない。動き出した先が明るい方でよかったと、長義はこっそりと思った。



「生まれてきてよかった、と思ってみたい」

そろそろ何か、やってみたい事は見つかったかと尋ねた長義に、南泉はそう言った。絶対に笑うなと言われなくても、笑うことなどできなかった。受験生になってしまえば本格的に、ひたすらに戦い続けなければならなくなる。辛うじてまだ始まっていない春休みが終わる前に、長義は南泉の願いを叶えてやりたかった。ここ数日、授業を受けながら、家で皿を洗いながら、参考書を開きながら、カフェの手伝いをしながら、長義はどうしたものかと考えている。

「本歌、何か悩み事でもあるのか」

そんなある日、国広が声をかけてきた。国広は気遣いはできるが、使う言葉はいつも最短ルートを通る。わかりやすいそれを、長義は嫌いではなかった。

「…笑わずに聞けるか?」

「誰かの悩み事を、笑ったりはしない」

「…お前はそういうやつだったね」

教室で話すことでも無いからと、その日二人は帰り道に寄り道をした。慣れないファストフード店の窓際の席に、ポテトを挟んで座り、ドリンクの蓋にストローを刺す。なかなか話し始めない長義を急かすでもなく、国広は黙々とポテトを食べた。しばらくして、長義が窓の外を見ながら口を開いた。

「どういう時に、生まれてきてよかった、って思う?」

「?毎日…今だって思っている」

投げかけるまでにえらく時間のかかった問いかけに、しかし答えは即座に返ってきた。

「…だろうね…聞く相手を間違えたよ」

「その…鬱々とした気分が深刻なら、早めに専門の医者にかかったほうがいいと聞いたぞ」

「俺じゃない、猫殺しくんだよ」

「誰であってもだ」

「違う、そうじゃなくて、猫殺しくんが、生まれてきてよかったと思ってみたいって言うから、どうしたらいいかと考えているんだ。しにたいとかそういう事じゃない」

「そうか…」

流石に言葉が足りなかったかと長義が慌てて話を続けると、国広はあからさまに安堵した。それからまたポテトを口に運ぶ。

「ものすごく美味しいものを食べるとか…」

「俺たちは、燭台切の料理を毎日食べているんだぞ」

「うちのご飯もおいしいが、それは素直に羨ましい」

「そうだろうとも」

ポテトをもごもごと食べながら、国広も窓の外を見る。そうしてしばらく、店内のざわつきだけが聞こえていた。

「…俺では力になれない。山伏の兄弟にきいてみよう」

国広は潔くそう言うと、カバンからスマートフォンを取り出した。

「あまり大ごとにしないで欲しいんだけど」

「任せてくれ。山伏の兄弟は、ちょうど今帰ってきているんだ」

少し不安を覚えながらも、長義は一旦黙った。目の前でメッセージアプリを操作する国広に、画面を見せろと言おうかどうか迷っていると、国広は自ら画面を見せてきた。

<兄弟、人の子というのは、どういう時に生を実感するんだ?>

そう送られたメッセージを見て、長義は少し、面食らった。確かにこれなら、長義の相談だとはわからないだろうが、山伏は、末の弟が突然人生について質問してくるという事態に何も思わないのだろうか。堀川派の三兄弟であるし、どうやら彼らの父母も中々にどっしりと構えた者たちであるようだと辛うじて思い出し、長義は開きかけた口を閉じた。画面を見ていると、あまり間を置かずに既読マークがついた。

「…山に登っている時、とか返ってこないだろうね」

少しだけ、長義は懸念を口にした。

「それは大前提だから、多分大丈夫だ」

「そう」

長義はまだ、彼らの−−−特に国広が参加している時の会話の流れや、その元となる彼らの思考回路を、完全には掴めていない。おそらく今後も、掴むことは無いだろうとは思うが、少なくともまだ、理解への努力を捨てようとは思っていなかった。

山伏からの返事は、しばらく返ってこなかった。少し時間がかかっているなと国広がこぼし、明日でもいいよと長義が返すと、デフォルトのままの通知音が鳴って、スマートフォンの画面が明るくなった。スイスイと、国広はアプリを表示する。

<生きていることを実感するという意味では、死を感じた時であろうな。自分の存在を肯定するという意味なら、誰かの役に立って感謝をされたりという場合であろう。ただただ感動するという事であれば、圧倒的な何かを目の当たりにした時ではないか?例えば、天気の良い山頂で見る星空などはものすごいのである>

丁寧な内容が表示されて、長義は感嘆した。さすがは、人としての国広が生まれた時から相手をしているだけの事はある。

「星か…」

「助けになれたか?」

「ああ。山伏にも厚く感謝を伝えておいてくれ。お前も、ありがとう」

「うん」

嬉しそうな顔をして山伏への返信を打ち込む国広をぼんやりと見ながら、長義はもう一度、星ね…とつぶやいた。


山伏の言う通り、山頂から見る星空というのはさぞ迫力のあるものなのだろう。しかし長義はまだ高校生で、南泉を連れて登山をするとなると、不可能では無いだろうが中々に難しいように思った。登山というのはきちんとした装備が必要であると聞くし、夜空を見るためには山で夜を過ごす必要があるだろう。登山ではなく満点の星空を見る方法は無いかと考えた長義は、プラネタリウムの存在を思い出したが、プラネタリウムを見て、生まれてきてよかったと感じるかといえば、少し疑問を感じる。きっと山伏が言っていたのは満天の星空ということではなくて、自然の作り出す、世界の大きさみたいなものだろうと思った。そんなことを考えながらソファでテレビを見ていると、隣にふわりと燭台切が座ってきた。

「最近、何か考えてるみたいだけど、どうしたの?」

南泉は、風呂に入っている。このタイミングを、わざわざ選んだのだろう事は明白だった。長義は、燭台切のそういう心遣いに、いつも感謝を感じている。

「うん…」

「進路?」

時期的にだろう、燭台切はあたりをつけてそう尋ねたが、長義はきょとんとして、首を横に振った。

「進路は悩んでないよ。ずっと言ってたように、法学部を目指しているんだ」

「そう。長義くんなら大丈夫だと思うよ」

「ありがとう。最近考えてたのは、その…」

「うん」

言い淀む長義を柔らかく見つめて、燭台切は相槌を打つ。こういう時長義は、燭台切を指名した女性は、たとえ数時間だったとしても、きっと幸せだったんだろうなと思った。

「高校生でも行けるような場所で、星がすごくきれいな所はないかなと思って」

長義が素直にそう言うと、燭台切はぱっと笑顔になった。

「なんだ!デートの話?そういうのなら任せてよ!前の仕事で散々調べたし色々な所に行ったからね、僕、詳しいよ!」

「いや、デートというか」

「南泉くんと行くんでしょ?星なら、すごく素敵なところがあるよ!車でしか行けないから僕がついてっちゃうことになるけど…保護者同伴なら夜でも問題ないし」

「う、うん」

楽しそうに話を進めていく燭台切りに慌てて頷く長義の耳に、パチン、と、燭台切が指を鳴らす音が入ってきた。どうやら何かを思いついたらしいが、本当に指を鳴らす人間もいるのだと、長義は少し驚いた。

「そうだ、からちゃんを誘ってもいい?そしたらダブルデートみたいになって気まずくないでしょう」

「からちゃん…大倶利伽羅か?見つけたの?!」

「うん!ついこないだね。なかなか居ないなあと思ってたら、ご両親の都合でずっとイタリアに居たんだってさ!大般若くんから連絡があって、先月日本に戻ってきたらしいんだ」

「イタリアに…」

あの大倶利伽羅が、ピザとパスタとオリーブオイルの国に…。一体どのような大倶利伽羅になったのだろうかと想像を巡らせそうになるが、とりあえずそれはまた今度にするとして、という燭台切の声が、長義を現実へ引き戻した。

「南泉くんに綺麗な星を見せてあげたいんでしょう?いつにする?」

「いつでも。俺も猫殺しくんも、知っての通り夜は暇だからね。燭台切と大倶利伽羅の予定に合わせるよ」

「楽しみだねえ!お弁当も作ろうね」

うきうきとスマートフォンを持って自室に入っていく燭台切を見送ると、長義は自分の幸運に改めて感謝をする。いつもそうだ。誰かしら、何かしら声をかけてくれる。それが決して当たり前の事ではないことを、長義は、絶対に忘れずにいようと思った。


長義の周囲には、思い立ったら即行動!というタイプの人間が多いように思う。星を見に行く予定はすぐに決まり、その数日後には、燭台切りの運転する車が山道を走っていた。

「2時間くらいかかるから、寝てていいよ」

と言われ、車に乗るのに慣れていない南泉は、最初は窓の外を眺めていたものの、いつの間にかすやすやと寝息を立てている。燭台切は運転も上手く、カーブの多い山道でも、後部座席が激しく振られる事は殆どなかった。助手席に座る大倶利伽羅は、燭台切が話しかければ応え、たまに水筒からお茶を差し出したり、菓子の個包装を開けて燭台切の口の中に入れたりと忙しかった。その様子を、これがイタリア帰りの大倶利伽羅か、と眺めていた長義もいつの間にか眠ってしまって、ふと、車の停まる感覚と、着いたよ、という燭台切の声で目を覚ました。まだ眠っている南泉を揺り起こし、暗いから足元に気をつけて、あまり遠くに行かないようにと言う燭台切に返事をしながら車外へ出る。そこは山中湖の駐車場のようで、しっとりとした水の匂いが辺りを包んでいた。

「猫殺しくん、目は覚めた?」

「んー…」

目をこすりながら低く唸る南泉の手を引いて、長義は車から少し離れた。燭台切と大倶利伽羅は、車に並んでもたれかかって、長義達に背を向けて話している。伊達の刀は、やはり伊達男なのだなと、長義は思った。

長義は南泉の手を引いて、近くにあったベンチに連れて行った。そこに南泉を座らせて、自分も腰をおろす。

「目が覚めたなら、上を見ろ」

「んァ?」

長義の声に、あくびをひとつ終えた南泉は、空を見上げる。

そこには、嘘のような星空があった。

「おぁ…」

南泉は、間の抜けた声を出して、口を閉じるのも忘れて目を見開いた。それを満足げに見届けて、長義もようやく、顔をあげる。降り注がんばかりの星空には、奥行きがあった。星々は、ちらちらと瞬いている。自分の見ているものは、この世界という存在の中の、ただ、見えている部分にすぎないのだと、長義は思った。この星空の奥の奥にもまだ星はあったりなかったりするし、もっと、それこそ山伏が登るような山から見る夜空は、明るかったり暗かったりするのだろう。二人はしばらく、呆然と、ただ星を見ていた。


「山姥切」

「ん?」

不意に名を呼ばれ、長義は南泉を見た。南泉は、変わらずに星を眺めている。

「人は死ぬと、星になるっていうのは、ほんとか?」

その声で、長義は、直感的にわかってしまった。けれどまずは質問に答えようと、頭の中の引き出しを無理やりに開ける。

「物理的には、違う。でも魂とかそういうのに関しては、俺はよくわからない」

「そうか…まあ、だよな」

「…誰か、亡くなったのか?」

尋ねてもよいのかわからなかったが、長義は、尋ねた。

「俺の、かーちゃんと、いもうと」

「え…」

「俺の持ってる写真、あれ、俺がすっげえちっせえ時に撮ったやつで、あれが、かーちゃんと、いもうと、の、はずだ。あれ撮ったすぐ後くらいに、赤ん坊が突然死んで、かーちゃんが俺と心中しようとして、俺は生き残って、かーちゃんは死んだ。クソ男はそんときどっかほっつき歩いてて、警察もしばらく連絡がとれなかったらしいんだけど、とうとう見つかって、俺を病院に迎えにきて、それで家に帰ったあと、俺すげー殴られた…。かーちゃんは包丁でがんばったんだけど、もしあの時、俺が…南泉一文字がその手にあったら、俺だって一緒に死んだし、なんなら俺らじゃなくてクソ男を斬れただろって思った。でも俺はもう、南泉一文字じゃねえから」

南泉は、相変わらず星空を見つめていて、けれどほろりと、その瞳からも星屑をこぼして、それから目を閉じて俯いた。

「俺は南泉一文字じゃねえから、あの野郎を斬ることもできなかったし、かーちゃんといもうとをどうにもできなかった。刀じゃねえ俺は、猫の呪いが無いかわりに」

南泉は、顔をあげて長義を見た。

「できることがなんにも無い」

それは、この長い歴史の中で、長義が初めて目にする南泉だった。自信のかけらも、自尊心のかけらも無く、悔しさに塗りつぶされた瞳からはほろりほろりと諦めが流れ出していた。

長義には、言いたいことが山ほどあった。それこそ頭上に広がる星の数をも凌ぐ勢いで身の内に渦巻く感情を、けれど、一気に言葉にして、外に出す方法を、長義は知らない。南泉の父親だという男を責めるのは容易く、報復だってしようと思えばいくらでもできるだろう。けれどそれに割く手間も時間も、もったいないように思った。ただ、何もできないと泣く南泉に、それは違うと言いたかった。

「刀であっても、人であっても、できることもできないこともある」

長義は、ポケットに入っていたペーパーナプキンを、南泉に差し出した。車内で燭台切の弁当を食べた時に渡されたもので、辛うじて未使用だ。

「俺たちはもう刀ではないから、できる事というのが、身体の成長によって著しく制限されている。人というのは、最初からできることが多いわけじゃない。成長とともに、できることが増えていくんだ。審神者だってそうだっただろう?最初は陣形の一つも覚えられなかったくせに、最後には博打のような大立ち回りをこなしていた」

長義の話を聞きながら、ぶうと音を立てて、南泉は鼻をかんだ。

「きみも、今は読める漢字だって増えたし、箸だって使えるようになったじゃないか。皿洗いも上手になったし、もうレジだって打てる。山鳥毛だって、お前がいなかったらどうなっていたかわからない。きっと今なら、例えばあの二階のお姉さんが襲われていたりしたら、お前は腕力でそれを救うことだってできる」

真摯に語る長義の言葉を聞きながら、南泉はひとつ、しゃくりあげた。

「人は死ぬと、星になるのかって聞いたよね」

「うん」

「きっときみのお母さんと妹さんは、星になってもならなくても、きみのことを大切に思っていると思うよ。あの写真、二人とも、すごく優しい顔をしてる。きみが撮った写真なんだったら、あれはきみに向けられた愛情だよ」

「…そうか」

「そうだよ」

再びぐずぐずと泣き出した南泉に、長義は追加でペーパーナプキンを渡した。南泉は鼻水を拭きながらも、きらきらとひかる星空を、ずっと眺めていた。


「そういや、なんで星を見に行ったんだ?」

帰宅し、大倶利伽羅を送ってくるという燭台切を見送ると、もうすっかり落ち着いた南泉が長義に尋ねた。長義は、もう星空の魔法は解けたのだと悟って、盛大にため息をついた。

「…猫殺しくんが『生まれてきてよかったって思ってみたい』って言うから、どうかなと思ったんだよ」

「お、おお…そーだったのか…ありがとな…」

長義が照れを隠しきれなかったのにつられて、南泉も少し照れ臭そうに礼を言う。長義はなんだか居た堪れなくなって、ぽつぽつと言葉を続けた。

「俺ももうすぐ受験生になるから、今のうちじゃないとと思って。あ、受験生ってわかる?」

「なんかすげー勉強すんだろ」

「そう」

「…そういやお前、何になるんだ?勉強しないとなれないなんかなんだろ?」

「検察官か弁護士になろうと思って…知ってる?」

「この前燭台切が見てたテレビで見たぜ。異議あり!ってやるやつだろ」

「…まあ、そうだね」

長義が否定をしないでいると、南泉は、ふうん、と言いながら何かを考える素振りを見せた。何にせよ、どこか元気を感じるその姿に長義は満足することとして、燭台切が戻る頃に準備ができるようにと、風呂のスイッチを押した。今日の一番風呂は燭台切だと、南泉と話して決めてある。

「弁護士がいいと思うぜ」

ぴ、と人差し指の先で電子音がするのと同時に、背後から南泉の声がした。

「え?」

長義が振り返ると、南泉が笑っていた。

「お前は誰かを守る時のほうが、土壇場でつえーからな」

何の含みも、憂いもない声だった。南泉のそんな声を聞いたのは、人として生まれてから初めてのような気がして、長義は、そうかもね、と返事をしようとしたのに、

「猫殺しくん、すきだ」

という言葉がぽろりと飛び出して行った。

「は?」

南泉は、ぽかんと口を開けた。長義は、自分も驚いて、目を見開いてしまったが、こうなってしまってはもうどうにもならないと、瞬時に腹をくくった。

「まあ、そういうことなので…」

腹はくくったが、考えはまとまらなかったので、そう言って自室に逃げ込もうとした。

「待て」

歩き出そうとした長義の腕を、南泉が素早く掴んだので、長義は思わず舌打ちをした。南泉が言葉を続けようと息を吸ううのと同時に、玄関で物音がした。燭台切が帰ってきたのだ。南泉は、長義の手を引っ張ったまま、玄関へ向かった。ちょっと、という長義の抵抗は、あまり効力がなかった。南泉が燭台切に、ちょっと散歩に行ってくると告げると、何を察したのか、燭台切はとてもいい笑顔になって、もう遅いから、早く帰ってくるんだよと言い、長義に向かってグッと親指を立てて見せた。違うんだ、と言いたい長義は、けれど片手を引かれたまま靴を履くのに必死で、相変わらずビーチサンダルの南泉は既にドアから半分外に出ていて、燭台切はにこやかに手を振っていた。

数瞬の後、カチャン、と音を立てて、長義の背後でドアは閉まった。南泉に腕を引かれて、階段を降りていく。

「で、何だって?」

階段を降り切ったところで、南泉が振り返った。長義は思わず、空を仰ぐ。住宅街の空に星は無く、のっぺりと濁った紺色が頭上を覆っていた。

「くそっ!」

ここにはあの満天の星はないはずなのに、視界はこれまでになくきらめいている。

南泉は、長義の腕を離さなかった。そして長義は、南泉の手を振り払うことはできないのだ。

きっと、ずっと。





〜おわり〜