胡蝶の夢
1/7/2017
薬研藤四郎は、薬師をしている。
華やかで清潔な都市の麓、大きな人工島の足の裏で、菌糸のようにはびこり、苔のように茂る路地裏に、その店はあった。直射日光の決して差さないその層を、住人達は絨毯と呼んでいる。蒸気掃除機でもかけなければ汚れも落ちないし、ホコリが溜まり、ダニが沸く。毛足の長い絨毯のような生活区域の存在を、言い得て妙だと、薬研はいつも思っていた。
絨毯には、様々な者が住んでいる。ここで生まれ育った者、他の土地から流れて来た者、それから、天井と呼ばれる明るい場所から落ちて来た者。ありとあらゆるホコリが混ざり、埋もれ、かたまったり空気に乗って流れたりしながら、皆、生きていた。天井とは、絨毯の上に位置している人工の島のようなものの事だ。絨毯の上、何本かの柱に支えられた籠のような土台の上に、どこまで届いているのかわからない高さを持ち、いつも陽の光を浴びて輝いている。表面はつるりとしていて、その内部には美しく整然と街並が広がっているらしい。上に行けば行くほど、いわゆる「偉い人」というのが住んでいて、天井の仕組みを作ったり、管理したり、整えたりしているらしい。天井から絨毯への移動は、殆どの場合が一方通行だ。重力に従うように、上から下へ落ちるだけ。逃げてくる者もあれば、意図せず落ちてくる者も、あるいは他者に落とされる者もある。
天井と絨毯を行き来する方法はいくつかある。一番多いのは物理的に落ちてくる場合で、その殆どは絨毯に到着すると同時に絶命する。べしゃりと、道路に落としたアイスクリームのようになり、そのままだ。絨毯の汚れを掃除する者は滅多に居ないので、野良猫なり烏なり、またはそのような生き方をしている人の形をしたものであったりが、必要なものだけを持ち去り、あとは風化に任せるばかり。生存率の高い方法をとり、天井を支える何本かの柱のようなものを伝って下りてくる者もある。生きて絨毯へ着地した者は、そのまま絨毯の奥へ奥へと入り込み、そして他のホコリに紛れて暮らし始める。彼らはみな、一方通行の道を通る者だ。
ごくごく僅かながら存在する、天井と絨毯を行き来するのが、虫眼鏡と呼ばれる者達だった。彼らは時折天井から絨毯へ降り立ち、仕事をしては天井へ帰っていく。皺一つない制服を身につけ、それなりに武装をしているので、絨毯の中にあっても一目見ればそれとわかる。足しげく絨毯へ潜るわりに、決して染まる事なく天井へ帰って行く者達だ。
虫眼鏡達の仕事は、探しものだ。
それは天井から逃げ出した誰かであったり、追いやられた誰かであったり、盗み出された何かであったりする。
どのくらいの虫眼鏡が存在していて、どの程度絨毯を知っているのか、薬研はよく知らなかったし、特に知りたいとも思っていなかった。
炎寺には、営業時間というものが無い。
そもそもが陽も入らず、星も見えない場所なのだ。誰もが好き勝手に生きている。
炎寺には、時計もカレンダーもあったし、古ぼけたテレビもある。本日が何月何日で、今が何時何分なのか、というのはいつだって知る事ができたが、薬研はそこにルールを設ける事はしなかった。寝食のサイクルにだけは気をつけるが、基本的には客が来た時が営業時間となる。そんな事情を知っているので、二人の虫眼鏡は、今日も気軽に炎寺を訪れている。
「じゃまするぜ」
「薬研や、いるか」
時計によれば、午前十一時半を少し過ぎたところだ。薬研は昼食の準備をしようかと思っていた所だったが、まだ何も始めてはいなかった。指定の制服の上から真っ白なマントを被った鶴丸と、その美貌でもって光り輝かんとする三日月の二人は、まさか昼食を狙ってこの時間に訪れたわけでもあるまい。虫眼鏡の彼らは、天井へ帰れば清潔で安心で美味い食べ物が、いくらでも手に入る。
「やあじいさん共、腰痛の薬でも欲しいのかい」
すくなくとも十数年、薬研は青年になれないあたりの子供の容姿でいるので、大人の姿をした者をとかく年寄り扱いして揶揄う。絨毯という場所は、あらゆるものに満ちている。化学薬品、汚染物質、呪い、物怪、エトセトラ。「平均値」の存在しないこの場所では、目の前にあるものが全てであり、そしてその全ては驚くべき事ではない。
「俺達はこう見えて鍛えてるんだ、ギックリ腰になんかならないさ」
「俺はこのあいだなったぞ」
「…驚いた、君でもギックリする事があるんだな」
「ははは、まあ、じじいだからな」
鶴丸と三日月は、勝手知ったる様子で店先のテーブルに移動する。炎寺は薬屋だが、少人数ならくつろげるようにもなっていた。炎寺に足しげく通う二人にとっては、慣れ親しんだテーブルと椅子だった。
「で、何の用事だい」
腰を落ち着けた二人に茶を出すでもなく、薬研は尋ねる。二人はちらりと目配せをすると、鶴丸が口を開く。
「実は、一日だけ人を預かっちゃもらえないかと思ってな」
「一日だけでいいのだが」
「断る」
やんわりと話し始めた二人をピシャリと遮って、薬研はシッシと手を振る。
「うちは託児所じゃねえぞ、そういうのは長谷部にでも頼むんだな。用が無いなら帰った帰った」
長谷部というのは、炎寺の近くで雑貨屋を営んでいる男の名だ。植物を育ててみたり、拾って来たがらくたを分解したり組み立てたりしてできた物を、売ったり使ったりしながら生活している。少々無愛想なところがあるが面倒見が良く、性根の真っすぐな男だった。文句を言いながらでも、一日誰かを預かるくらいならば引き受けてくれるだろう。
取りつく島も無い薬研の様子に、鶴丸は溜息をつく。やれやれ困ったと笑う三日月に視線を送り、三日月に口を開かせた。
「そやつがなぁ、宗三に会いたいと言っておるのだ」
「宗三に?」
「前に一度、会うた事があると言っておってな。薬研も会った事があると思う」
「本来なら1時間やそこら時間をもらえば良いんだが、なんせ向こうとこっちの行き来なんでな、一日かかっちまうってわけだ」
鶴丸と三日月は、畳み掛けるような話し方はしない。ただ、口を挟む隙を決して作らないまま、穏やかに続けた。
「報酬ははずむぜ」
「もちろん、そなたらの望む形で支払おう」
宗三というのは、薬研と一緒に住んでいる男の名前だ。
天井へ連れて行けば即座に精神の異常を診断されるであろう言動をしているが、絨毯ではそのような事は些細な、それこそ個性の一部と見なされている。何が正しくて何が正しくないのかなど、絨毯の中では基準が定まっていないのだ。
宗三はいつも、彼の方法でのみ現実を見ている。
彼にとって覚えるべき事は個々の絶対的な特異性のみであって、例えば今日に対しての明日、という事象を理解する事はない。何年の何月何日、のように、その二十四時間に名付けられた数字によって「日付」を理解し、予定を立てる事はできても、また明日、と言われればそれを理解する事ができない。宗三は「明日」という日を迎えた事がないのだ。一晩寝て起きて、日付というのが変わると、それは明日ではなく今日になる。宗三は「明日」を経験した事がなく、それ故に「明日」というものが何なのかを理解する事ができなかった。そのようなわけで、宗三が「また明日」と言われて返す言葉は、いつも「さようなら」だった。決して宗三が体験する事の無い「明日」に会おうと言われても、それは永遠の別れをのみ意味するのだ。
そんな宗三が炎寺で何をしているのかと言えば、特に何もしてはいない。薬研と共に同じ家に住み、同じ空間で暮らし、隣同士の人生を生きている。家からは滅多に外に出ないが、常に屋内に居るというわけでもない。長谷部ともなんだかんだで友情を育んでいたようだし、炎寺の近くに住む者とは顔見知りでもあった。
ただ、稀に違う世界に生きる日があるので、そういう時には薬研が世話を焼いてやらねばならない。
一番大変だったのは宗三が魚になった一日だった。水の中でしか息ができないと、宗三は朝目を覚ました途端に床の上でのたうち回った。風呂に水を溜めてその中に入れてやると落ち着くのだが、宗三の身体は人間のそれであるので、もちろん水の中で呼吸はできない。にも関わらず、安心したように思い切り水を肺へ入れて、宗三はそのまま意識を失った。薬研は慌てて宗三を風呂から引きずり出し、水を吐かせ、何とか呼吸を取り戻させた。しかしそうやって意識が戻ると、宗三はまた、水の中に居ない魚がそうであるように呼吸ができなくなって、浴場の洗い場でのたうった。薬研は仕方なしに、その日は一日、意識に霞がかかる薬をつくって、夜になって宗三が眠るまで、絶えずそれを飲ませ続けた。
そんな手間をかけながらどうして薬研が宗三と暮らしているのか、二人はどのようにして出会ったのか、実は鶴丸も三日月も、二人の事情は全く知らない。気にならないでも無かったが、いつだって二人は、もっと即物的な目的を持って炎寺を訪れている。安全な場所での休憩時間、おいしいお茶、世間話。虫眼鏡としての職務を全うするために、どれも欠かせないものだとは、三日月の言である。そして何よりも、この絨毯にあって、物事の真偽を確かめる事のできる貴重な存在が、宗三だった。
宗三は、世界に対する優れた認識能力を持っている。
ある意味、優れすぎていると言えない事もない。それは魔法と言うには科学的で、察知というには度が過ぎていた。その希有な能力は、探し物が仕事である虫眼鏡には、喉から手が出る程に羨ましいものだった。
薬研の店には、鶴丸や三日月以外にも、虫眼鏡が訪れる事がある。見つけた物が探していた物であるのかを宗三に確かめに来るのだ。そうして、宗三の望む報酬を置いて行く。それは日によって金銭であったり、食べ物であったり、その時に虫眼鏡達が持っていた物であったりする。この絨毯において、紙幣だとか硬貨だとかいうものはおよそ価値を持たないので、宗三がそれを欲しがるときは、虫眼鏡達は最近では手持ちの貴金属を置いて行くようになった。
「こんにちは」
薬研が苦い顔をして黙っていると、不意に、上の階と店を繋ぐ階段を降りてくる者があった。宗三だ。時計を見ればもうすぐ正午で、規則正しい生活を心がけている炎寺の昼食の時間だった。この日の宗三は比較的落ち着いていて、自分が人間である事を理解していた。だから衣類も身につけているし、髪も整え、二足歩行をし、言葉を使ってコミュニケーションをするために、挨拶もした。
「やあ宗三」
「息災そうで何よりだ」
鶴丸と三日月は、軽く手を上げて挨拶する。薬研が何かを言うより先に、三日月がうつくしい顔をしてわらった。
「にっかり青江を覚えているか?」
その名を、薬研はしっかりと覚えていた。以前はこの店によく訪れていた、虫眼鏡の一人だ。そういえば最近見ていない。思い出してしまえば、僅かながらの懐かしさすら感じる。
「にっかり青江」
宗三は階段を下りきって、薬研の後ろへ立つ。今しがた聞いたばかりの他人の名前を繰り返す。
「そういう名前の虫眼鏡なら、以前炎寺に来た事があります」
「そいつが宗三に会いたいと言ってる。どうだ、時間を作っちゃくれないか」
軽く頭を下げながら鶴丸が言うと、宗三は薬研を見て首をかしげた。
「時間を作る?」
「にっかり青江と宗三が会う約束をするって事だ」
宗三にとって時間とは流れるものであって、作り出すものではない。宗三はその独自の世界の認識方法を持つが故に、人々の言い回しを理解できない事がある。そんな時は、薬研が宗三のわかる言葉に置き換えてやるのだった。
「炎寺は薬研の場所なんですから、あなたが決めます」
「薬研」
再びの断りを入れる前に、三日月が静かに薬研の名を呼んだ。薬研が振り返ったその先で、静かに頭を下げている。報酬は弾むと言っていた。一日くらいは良いだろう。薬研はそう思い直して、渋々了承の意を告げた。
それから数日が経ったある日、鶴丸と三日月は約束通りにっかり青江を伴って炎寺を訪れた。彼らが店の戸を開けると、珍しく店先に薬研が居た。カウンターに腰掛け、何やら読み物をしていた。その膝の上、正確にはカウンターの上を陣取って、宗三がのびのびと寝転んでいる。
「すまんが、今日は猫になった」
少しだけ申し訳なさそうに薬研が言うのを聞いて、鶴丸はあからさまにがっかりして見せた。にっかりと三日月は面白そうに笑っている。宗三はとりあえず寝間着のようなものを身に付けているものの、安心しきった猫がだらしない姿勢で床の上に伸びているそのものといった様子で、たれん、としていた。よほど熟睡しているのか、三人が物音を立てながら椅子に座っても、もぞりと動いただけだ。
「宗三、ちょっとどいてくれ」
薬研が立ち上がろうとして宗三の頭を撫で、その肩をぽんぽんと叩くと、宗三は伸びをしながら身体を起こす。両手をついたままカウンターの上を移動しようとして、ふと、テーブルの辺りを見たかと思うと、驚く程俊敏な動作でカウンターの向こう側へ飛び降りた。
「宗三?じいさん方とにっかり青江だぞ」
薬研が、カウンターの向こう側を覗き込みながら宗三に声をかける。けれど宗三はうんともすんとも言わず、物音一つ立てはしない。警戒しているのだ。猫が未知のものと遭遇した時のように。
「どうした?長谷部にだって愛想良くしてたってのに…」
薬研がそう言いながらカウンターの向こうへ行こうとするのを、意外にもにっかりが止めた。
「いいよ薬研くん、久しぶりに顔が見られて僕はうれしかったけど…きっと彼の初めてなんだよ。…僕と会うのがだよ?」
ああ、このいやらしい話し方を、薬研は知っているし、実際に聞いてしまえば懐かしかった。
「前にも会ったと言っていなかったか?」
ひょうひょうとしたにっかりを訝しんだのは、鶴丸だった。にっかりは肩をすくめて笑っただけだ。ただ、宗三に会えた事に満足したよだった。結局その日は、虫眼鏡の三人が帰るまで、宗三はカウンターに隠れていた。薬研と二人きりになった店内で、再び寛ぎ出す宗三を甘やかしながら、薬研は少し、気味が悪かった。
翌日、宗三は人間に戻った。朝食をとりながら、薬研は前日にあったことを覚えているかどうか宗三に尋ねた。以前は仲の良さそうにしていたにっかりに対して、まるで初対面のように警戒していた、という話もした。宗三は綺麗に焼けた目玉焼きに醤油をかけながら、何でもない事のように言った。
「だって僕、あの人に会うのは昨日が初めてでしたよ」
「そうか…にっかり青江には会った事があるって言ってたなかったか?」
「ええ、会った事があります」
宗三左文字は嘘を言わない。
薬研はそれをよく知っているし信じているので、少し混乱をしてしまった。
宗三は目玉焼きと醤油をぐしゃぐしゃに混ぜると、白米の上に乗せた。いいにおいがする。
「天井では、いろんなものを複製できるんですよ」
宗三が何の重みも持たせずに放った言葉は、随分遠回りをして薬研の意識に届く。
「洋服も、食べ物も、生き物も、記憶も。でもまだ複製できないものもあるみたいですね。きっと、魂という種類の部品でしょう」
薬研は、静かに箸を下ろした。しかしその視線の先で、宗三は美味そうに、醤油と卵と白米が混ざったものを食べている。
ーーー…きっと彼の初めてなんだよ。…僕と会うのがだよ?
ふと甦るにっかりの言葉に、彼は自分がどういう存在なのかを知っていたのだと気づく。きっとそれを確かめるために、宗三に会いに来たのだ。そしてそれを確かめて帰って行った彼の心の内は、どんなものであっただろう。
宗三が天井の何を知っているのか、何故それを知っているのか、そしてどのように魂とやらを見分けているのか。それを知る事は誰にもできない。おそらく宗三自身にさえも。
「聞かれなかったから言わなかったけど」
黙り込んでいる薬研をちらりと見て、宗三は珍しく話を続けた。彼の語る世界が単なる妄想であると一蹴する事は酷く簡単で、それをすればいとも簡単に安寧を手に入れる事ができる。けれど薬研はそれをしない。彼もまた、天井の一部を知る者だからだ。
「三日月はずっと三日月ですけど、鶴丸は昨日ので五個目ですよ」
宗三左文字は嘘を言わない。
炎寺(ほのおじ)と呼ばれるこの小さな店に立ち寄る時には、その事を忘れてはいけない。
~おわり~