溺れる僕は、彼に縋る
8/11/2016




パーティ会場の華と名高い宗三は、このところいつも真珠の耳飾りと髪飾り、ネクタイピンを身に付けている。どの粒も大振りで、うっすらと桃色がかった輝きは、溶け込むように宗三に馴染んだ。以前よりも少し落ち着いたデザインの、仕立ての上等なスーツを纏って、髪をゆったりと結っている。宗三を守るその柔らかな光沢の出処は、既に衆知のものとなっていた。

「宗三くん、粟田口の専属になったんだって?」

「ふふ、どうかお言葉にご配慮くださいね。輿入れしたんです」

そんなやりとりも、繰り返し続けて早数ヶ月。宗三は以前と変わらぬ笑みを浮かべて、やわらかな絨毯の上をふんわりと歩き、まっすぐに薬研の隣へと並んだ。


それこそ薬研が宗三を粟田口の屋敷に招いた頃から、様々な噂が多くの者を楽しませていたのを、宗三は知っている。粟田口に借金をしているのだとか、いや借金があるのは宗三の実家だとか、力ずくで脅されているのだとか、宗三が粟田口に弱みを握られているのだとか、なんだとか、かんだとか。人の口に戸は立てられず、そして当の薬研と宗三も何も言わなかったので、人々はパーティ会場でも、そしてその裏でも、想像力を駆使して薬研と宗三の事を話題にした。

奇しくも宗三が薬研の嫁になるという話が当人達の間でまとまったほんの数日後のこと。とあるパーティ会場で、以前から宗三を贔屓にしていた者から直接事情を尋ねられ、とうとう宗三の口から薬研の嫁になることを告げた。種々の噂が収まると思いきや、今度は色事方面に特化した根も歯も無ければ品格も疑われるようなゴシップが広まった。連れ立って催し物に訪れるたびに遠巻きに聞こえる囁き声を、薬研は酷く気にした。もっとも、それは粟田口組の体裁や面子といった方面ではなく、ただただ、宗三を悪し様に言われる事を嫌った。自分の大切なものを他人に粗雑に扱われる事を好む者は居まい。薬研が宗三を最初は経済力で縛った事は事実なので、組の者にも、しばらくは悪評が立つかもしれないとは言い含めてある。何かを言われたとしても、薬研のために堪えてくれ、とも。その危惧に反して存外皆心得たもので、特に要人の集まるパーティに出席するような面々は、粟田口組を悪く言うようなーーー言ってしまえば悪手を打つ事はなく、もとより寄る辺の無い身であった宗三について邪推するものばかりだった。

人々の集まる場所で、あからさまに冷やかす者もあった。社交の場でのやりとりともなれば宗三もプロであるので、そういった輩はうまく言い負かされては憮然として黙った。宗三も宗三で、挑発するでもなく返り討ちにするでもなくまろやかに場を収めた。今までは自分の身ひとつを守れば良かったが、粟田口に輿入れしたと公言している以上、少しも軽率な言動はできない。柔らかく微笑み、穏やかに笑いを誘い、会話の主導権を我が物とする。彼は今まで以上にその能力を駆使し、そして発揮した。裕福な者達にとって、他人の変化は手頃なエンターテイメントの一つだ。芸能人の熱愛報道よりも、目の前で煌びやかにグラスを傾ける桃色の髪の男の話を、彼らは好んだ。薬研も宗三も、自分の下した決断に後悔をするような男ではなかったし、誰に何を言われようとされようと、前言を撤回するつもりは微塵もない。宗三の両耳の下で揺れる大振りの天然真珠は、しかし人の声を遮る事は全く無かった。


正直に言うと、宗三は少し疲れていた。疲労というのはどうしようもない生理現象だ。休養という解決方法がおいつかない程度には、様々な噂に振り回されて、宗三は少し疲れていた。薬研はああ見えて血気盛んなところがあり、さすがに衝動のままに怒ったり手を出したりという事は無いが、パーティ会場で隣に立っていてヒヤッとする事が何度かあった。その原因が自分だと思うといたたまれない。薬研も宗三も良い大人なので、自己管理の仕方は身に付いている。薬研は時折「腹が立ったから発散してくる」と宣言しては道場に組の者を呼び出して取っ組み合いをしたり、ジムでただ黙々と自転車をこいだり、包丁を研いだり(これに関しては正直なところ宗三は少し恐怖を感じた)、部屋の掃除をしたりした。宗三も宗三で好きな本を読んだり、近所を走って来たり、映画を観に行ったり、長谷部と飲みに行ったりと、できる限りの事をしている。しているのだが、何だか少し、疲れていた。

昔から、噂をされる事には慣れている。神隠しにあった事も、その後の事も、パーティに行き始めた頃の事も、そしてまたその後の事も。噂をするというのは他人に興味があるという事なのだろうと、いつだったか長谷部が言っていた。そんな彼は根も葉もないうわさ話よりも根拠のある報告や考察をするのが好きなようで、同じ傾向を持つ宗三とは本当に相性が良かった。薬研に嫁ぐ事を伝えた時も、ただ一言、そうか、と言ったのみだった。特に何も言わなくても、困った時には長谷部に言えば良いのだと、宗三はどこかで思っているし、きっとそれに間違いは無い。

その日、気晴らしに長谷部を飲みに誘おうとふとカレンダーを見やった宗三は、これから二ヶ月ほど、出席するパーティの予定が無い事に気づいた。催し物や会食、パーティなどといったものは、関わっている業界が多ければ多い程、大小合わせればそれなりの数が開かれている。多くの兄弟を持ち、そのビジネスの場も多岐に渡る粟田口組の組長として、これまで薬研が顔を出す場所も決して少なくはなかった。特にここの所は粟田口の新しい縁者として宗三を紹介する挨拶回りも兼ねていたため、いつにも増して仕事は多かったように思う。消化しきれない疲れを感じるのにも納得がいった。

けれど、宗三の思考はそこで止まることはできない。この長い休みの出現は、薬研によるものである事は確かだ。イベントの出欠を決めるのは薬研であったし、そのスケジュール管理も、一期や乱とともに行っているはずだ。薬研はきっと、宗三が疲れている事に気づいている。きっとどこかで、疲れた様子を見せてしまったのだ。

それは、宗三にとって失敗を意味する。

いつ、どこで、どのように、気づかれてしまったのだろうかと、宗三はスマートフォンを机の上に投げ出して、部屋の隅に置かれたクッションに身を沈めた。記憶に新しいものから順に、パーティの様子を思い浮かべた。会話をした人々、話題の種類、その時の薬研の様子。宗三自身がどのように受け答えをしたのか。その受け答えは正しかったか。

今の仕事を始めた頃には、もっと頻繁に行っていた振り返りだった。慣れたと思って油断していたのかもしれない。これは長谷部と飲んでいる場合ではない。きちんと休息をとって、頭の中や心の中をクリアにしなければならないと、そう思った。アクセサリーとなるべき自分が、きちんと光り輝かないでどうするというのだ。

少しずつソファに沈んでいき、大きく深呼吸をする。

予定が無いのなら、少し遠くへ山登りかお参りにでも行こうかと逡巡していると、誰かがドアをノックした。

軽やかなその音にのそりと身を起こす。この部屋を訪れる者は限られている。

のったりとドアを開けると、予想通り薬研が立っていた。

「悪い、寝てたか」

宗三の顔を見るなりそう言うので、反省した傍から疲れた顔をしてしまったのかと、宗三は肩をすくめて笑った。

「いえ、ごろごろしていただけです」

取り繕うでもなくそう言うと、薬研の手が伸びてくる。遮る事なく好きにさせると、薬研は丁寧に宗三の髪を撫でた。

「寝癖がついてたぜ」

暖かいような気がするその指先が離れるのが、ほんの少し名残惜しかった。


薬研はすんなりと宗三の部屋に入った。同じ屋敷内に住んでいるのだからと、宗三はこの部屋を引き続き使っているが、お互いの部屋の行き来は以前よりもずっと増えた。宗三の部屋にも薬研のための大きなクッションが増えたし、盆栽に興味を示した宗三に薬研が贈った小さなサボテンもある。そのサボテンには、「お造り」という名前がついている。薬研が名付けた。鯛の刺身が好物なのだと、その時に聞いた。

宗三はクッションを二つ、テレビの前に移動させて、ちゃぶ台をそこへ引っ張ってくると、冷蔵庫から冷えた麦茶を出してガラスのコップに注いだ。このコップは、宗三が買ってきた。以前はマグカップを使い回して何でもかんでも飲んでいたが、薬研に出すものであれば季節感も出してみたくなった。そんな心地は初めてで、そういった小さな一つ一つが、宗三には新しかったし、楽しかった。

出された麦茶に礼を言うと、薬研はカレンダーをちらりと見た。宗三は首を僅かに傾げて先を促す。

「粟田口の嫁としての挨拶も大体済んだし、これからしばらくお互いちょいと休憩しようと思う。最近大変だっただろ、ありがとな」

「ええ、僕もさっきそれに気づいて、何をしようかなと思ってた所だったんです」

氷を足さなかった麦茶は、ガラスのコップの中で、ゆっくりと室温に近づいていく。空調のお陰で、この部屋は暑くも寒くもない。

「もう予定は立てちまったか?」

「いいえ、まだ。一緒に旅行でも行きますか?」

「お前さんと二人旅ってのはえれぇ魅力的だな」

薬研はちゃぶ台に頬杖をついて、目を細めた。猫がゆっくりと瞬きをするようなその笑い方は、宗三のお気に入りの一つでもある。少し嬉しくなって存分にそんな薬研を見つめていると、ふと、薬研が口を開いた。

「もし良ければだが、二人旅の前に二人でやりたい事がある」

「何です?」

「初夜だ」

「…初夜」

夕飯の希望を尋ねられたから応えた、といった調子で薬研が言うので、宗三が咄嗟にできた事といえば、その単語を繰り返す事だけだった。薬研と宗三は二人とも男性なので、今のところ法的に籍を入れる事はできない。粟田口組長に嫁ぐとなった時点ですでに法との付き合い方は一般的なそれと少し異なる事はわかっていたし、薬研も宗三もそれを気にした事はなかった。籍を入れる事もなく、式を挙げるでもない。当人達の約束と周囲の証人によってのみ成立するその夫婦関係は、存外確固たるものであった。しかしだからと言って薬研と宗三が床を共にしたかと言えば、実はそうではなかった。それこそ乱や信濃に冷やかされる程度には何もなかった。睦み合いどうこう以前に、同じ布団で寝た事すら無い。薬研も宗三もお互いに何も言わなかったし、唇を交わす事があってもそれだけだった。

「…初夜ですか」

宗三はもう一度、呆然と繰り返した。

「そうだ。もちろん無理にとは言わねぇ」

「初夜ですか…」

宗三はもう、それしか言えなかった。

考えた事が無かったわけではない。興味のついでにと色々調べてみたりもしたし、いわゆるゲイバーという所に赴いて話を聞いてみたりもした。薬研が求めて来たら、と、覚悟はしばらく前に決めてある。ただ、宗三の頭の中では、ふといい雰囲気とやらに包まれた時にスムーズに流される、という想定であったので、こうも面と向かって宣言されると少し心の準備ができていなかった。薬研は急かすでも強いるでもなく、ゆったりと宗三を見ている。

これまでに行ってきた度重なるシミュレーションの結果、宗三は自分が薬研を腕の中に収めて揺りあやす事には少し違和感を感じている。何がどのように転がるにせよ、まあ、なるようになるだろうし、薬研はきっと酷い事はしないはずだ。宗三は薬研に向かって頷いた。

「別にかまいませんけど、一日二日で済むのでは?」

「ふふ、宗三、俺っちはな」

薬研が息を潜めて笑った。宗三と薬研の間には充分な空間があって、空調の効いたこの部屋には、過ごしやすい温度と湿度の空気が満ちている。それなのに宗三は、じわりと、汗をかくような心地がした。

「時間をかけて、お前さんを、『ひらく』んだよ」

そう宣言する薬研の瞳はいつになく甘く蕩け、そして強く光っていた。

「後戻りをさせるつもりはねぇが、無理を強いる事もしたくはねぇ。今夜また来るから、オッケーだってんならその時ドアを開けてくれや」

薬研はそう言うと宗三の頬を撫で、麦茶を飲んで部屋を出て行った。






その夜、宗三は部屋のドアを開けた。


そこには、寝間着姿の薬研が枕を抱えて立っていた。気軽な様子で部屋に入ると、とりあえずベッドに枕を置いて、薬研はクッションに座った。何をするでもなく二人で並んでテレビを見て、同じ布団に入った。

「…枕、持って来たんですね」

宗三の枕は綿入れだが、薬研の枕はそば殻が入っているらしい。枕が変わると眠れないのなら薬研の部屋へうかがいますと宗三が言えば、古来より夫は妻のところへ通うものだと返された。ぽつりぽつりと話をしているうちに薬研が眠ってしまったので、宗三も静かに目を閉じた。それが、一日目の全てだった。


翌朝宗三が目を覚ますと、薬研がじっと宗三を見ていた。寝起きにふさわしく朝もやのかかったような光を放って、朝焼けのような夕焼けのような紫色の瞳があたたかかった。薬研と目を合わせているうちに段々と意識がはっきりとしてきて、そうすると薬研と手を繋いでいる事に気づいた。強く握られているわけでもなく、重ねているわけでもない。羽毛を包むように、薬研のてのひらは宗三の指先を包んでいる。

「おはようございます」

「おう、おはよう」

指先がじんわりと暖まるのを感じながら、朝の挨拶を交わした。薬研は小さく笑うと、目を閉じる。

「寝るんですか?」

「うとうとするだけだ…」

宗三に返事をして、すんなりと、薬研は眠りに落ちた。まさか昨晩眠りに落ちたのはほんのすこしで一晩中起きていたのかという心配が頭をよぎるが、薬研の後頭部にしっかりとついている寝癖を見れば、単なる二度寝なのだとわかる。宗三はほっと、呆れたような息を吐いた。起きあがろうにも、繋がれた手を離せば薬研が目を覚ましてしまうような気がして、宗三はそのままぼんやりと薬研の寝顔を見た。こんなふうに誰かの寝顔を正面からまじまじと見るのは初めてに近い。弟がまだ小さかった頃、昼寝を見守った時以来ではないだろうか。絶世の美男ということはない。表情も言葉も乗せない薬研の顔は、電車に乗れば似たような雰囲気の人間がいくらかいるようなものだ。それなのにこの顔に薬研の感情が乗り、その声で巧みな言葉を発すると、もうそれは粟田口組長の薬研で、代わりなどどこにも居なくなる。それはなんだか、不思議だった。

それから一時間半ほどして、薬研は目を覚ました。二度寝の習慣の無い宗三はその頃にはすっかり退屈していて、音を消してテレビを見ていた。薬研のてのひらは宗三の指先に触れたままで、宗三は極力右手を動かさないようにした。

「音出して見ていいのに」

薬研は目を覚まして一番にそう言った。そしてそのてのひらは、少し強めに宗三の指先を握った。

「明日からそうします」

宗三は薬研の手を握り返す事はしなかったが、そのてのひらを、内側からそっと撫でた。

着替えを持ってくるのを忘れたらしい薬研は、しばらく布団の中でもぞもぞしていたが、意識がはっきりとしてくると一旦自室へ戻っていった。宗三は目覚ましを使わなくても毎朝すんなりと目が覚めて起き上がる方なので、薬研が起き辛そうにしているのを少し意外に思った。すっかり目が覚めた宗三は手早く着替えを済ませ、テレビの音量を上げた。ニュースキャスターが、熱中症予防を呼びかけている。宗三は一旦空調を止めて、窓を開けた。せめて一日に一度くらいは、空気を入れ替えたい。カラカラとガラスを避けてベランダへ出ると、セミの声がした。冷蔵庫から出した飲み物のように、全身にしっとりと汗をかく。暑い時に汗をかくのは健康な証だ。一つ伸びをすると、宗三は部屋の中へ戻って行った。

薬研が簡単に整えたベッドを見ると、そば殻の枕が斜めになったままだった。なんの気はなしに、それをまっすぐに整える。ついでに布団も整え直した。冷蔵庫から麦茶を出して、適当なマグカップでゆっくりと飲む。いつの間にか政治の話に移ったニュース画面の左上が、薬研との待ち合わせまであと五分という時刻を告げている。宗三は携帯電話をポケットに入れて、部屋を出た。薬研がキッチンで、朝食を用意して待っている。



そんな夜と朝を、七つほど過ごした。宗三は目が覚めた後は小さな音を出してテレビを見るようになったし、薬研はいつも宗三の目覚めを見守ってから二度寝をした。日中はそれぞれ好きな事や必要な事をして過ごした。とても穏やかな一週間だった。こんなにも毎日誰かと同じ布団で眠る事は、宗三は初めてだった。最初は少しばかり緊張していたのだと、今ならわかる。朝、目が覚めると薬研が優しく宗三を見ていて、右手はいつも暖かくされていた。宗三の目の前で薬研はいつもむにゃむにゃ言いながら目を閉じて、眠った。とても穏やかな、夜と朝だった。なので、宗三は全く気づかなかった。日に日に宗三の指先を握る薬研の手が強くなっていった事に、宗三は、全く気づかなかったのだ。七回目となる早朝、まだ眠っていた宗三は寝返りをうって、目を覚ました。右手が少しだけ引っ張られた感じがした。ふと目を覚ますと、薬研に背を向けていた。両手は自分の胴体の前に揃っていて、右手の先だけが少し暖かかったが、すぐに左手と同じ温度になってしまった。宗三は息を飲んで、そっと、振り返る。自分の背中の向こうで、薬研がいつものように宗三を見つめていた。

「おはようさん」

寝起きの少し乾いた声でそう言う薬研の左手の先は、布団の上に投げ出されている。

宗三はくるりと身体を反転させていつものように薬研に向き合うと、薬研と手を繋いだ。

「ちゃんとつないでて」

それまで包み込まれるだけだった宗三の手が、薬研の手をしっかりと握っている。いつも宗三が目を覚ます時間より少し早くて、宗三はおはようとも言わずに半分夢を見ているようだった。

「どうせだから、もっとこっちに来な」

幼子が母親にねだるように手を繋いでいてと言う宗三にもぞもぞと近寄って、それから宗三の事も引き寄せて、薬研はその両腕の中に宗三を収めた。繋いでいた手を離された宗三は不満気に唸るが、どうやら眠気の方が勝っているらしく本格的に文句を言う事はない。二人の間で折り畳まれた長い宗三の両腕を、薬研は器用に自分の背中に回させると、ふうと一息ついて宗三を抱え直す。宗三はしばらくもぞもぞとおさまりの良い場所を探していたが、薬研がゆっくりその背を撫でてやると、徐々に眠りに落ちていった。

よしよし、あったかくてきもちいいなぁ

薬研が吐息だけでそう言うのを、宗三は耳元で聞いた気がした。そう言われるとそんな気がして、宗三はあたたかくてきもちのいい気分で眠った。

そして、あたたかくてきもちのいい気分のままで目覚めると、薬研が宗三の背中をゆっくりと撫でていた。その瞳は閉じられていて、起きているのかどうかはよくわからない。いやに近くで薬研の寝息を感じるなと気づいたところで、宗三は自分の居る場所に気づく。粟田口の屋敷内、宗三に与えられた部屋の、ベッドの上、布団の中、そして薬研の腕の中だった。一瞬何が起こったのか理解できず、自分も薬研に腕を回している事に気づいて焦った。ギクリと身体を強ばらせ、腕を抜いていいのかわからず変に力を入れたり抜いたりしていると、薬研が目を開けて笑った。

「どうした?」

「いえ…予想外の展開になっていてあの…」

もごもごと言葉を探す宗三の背をぽんぽんと叩いて、薬研は腕を解いた。

「おはようさん」

そう言って宗三の頬に口づけをした。

「お、おはようございます…」

宗三は呆然と、不自然に両手を伸ばした姿勢のまま挨拶だけをする。薬研はまた笑って、布団から出た。二日目以降は忘れずに持って来ている着替えを済ませ、寝間着を畳んでベッドに置く。宗三は未だ呆然として、その様子を見ていた。すっかり身支度を整えた薬研が宗三を振り返っても、宗三は布団の中でもぞもぞとしていた。こうして布団の中から薬研が起きるのを見るのは初めてだった。布団の中はちょうどよく暖かい。昨晩もエアコンは順調に働いて、寝苦しいはずの夜をさらりとしたものにしてくれた。

薬研の髪は本当に真っすぐで、多少の寝癖は手で撫でるだけで直った。それがとても羨ましい。顔を洗ってくるからと洗面所へ向かう薬研の背中は、その髪のようにもう真っすぐになっている。Tシャツにジーパンという至って普通の服装で、強いて言えばTシャツの趣味が薬研らしかったけれど、短い袖から伸びている腕が意外としっかりとしているのを宗三は知った。微かに背中に残っているその感触が、何故だか頬を熱くする。

薬研は思っていたよりも硬かった。それはそうだ。いざという時のために筋トレも鍛錬もそれなりにしているのを宗三も知っているし、何よりこれまでに勝ちくぐって来た喧嘩や啖呵の数が違う。宗三を優しく撫でていた手で、きっと誰かを傷つけた事だってあるはずだ。しかし不思議と、宗三はその事を怖いとは思わなかった。一週間ずっと宗三の指先を握っていたそのてのひらは、宗三を甘やかしこそすれ脅かす事は無い。

薄い布団を集めるようにして一緒になって丸まっていると、顔を洗った薬研が戻って来た。布団にうずめていた顔を極力上げずにちらりと窺うと、前髪が少し塗れていた。ヘアピンだってヘアバンドだって宗三の物が洗面所には置いてあって、使っても良いと告げてあるのに、面倒だからと言って薬研は一度も使わない。どうせ真っすぐな髪で、癖っ毛の宗三の苦労などわからないのだ。

「宗三?具合でも悪いのか?」

あまりに起きようとしない宗三を今度は心配して、薬研はそっとベッドに腰掛けた。覗き込むようにして顔を見ようとすると、宗三はますます丸くなる。

「薬研…」

「ん?」

「今なら何でもできそうな気がします…」

やっとのことで宗三がそう言うと、薬研は笑った。

「いいね、いいねぇ」

その声があまりに楽しそうで、宗三は恨めしげな視線を薬研に寄越す。薬研はその頭を優しく撫でて、宗三の好きな、猫の瞬きのような笑みを浮かべた。

「時には勢いも大事だが、『もう一口食べたい』って思う量で食事を出すのが三ツ星シェフ、ってな」

そう言われてしまえば仕方がない。宗三は諦めて、もそもそと起き上がった。

その日は何だかおかしかった。薬研はいつものようにやる事があるからと、朝食の後には姿を消した。読みかけの本の続きを読もうと宗三も部屋へ戻ったが、どうにも内容が頭に入って来ない。大きなクッションに細長い身体を折り畳んで沈めて、タブレット端末を床へ置く。朝からずっとぼんやりとしていて、それは十中八九薬研のせいなのだけれど、だからといってずっとその事を考えていたいわけではないのだ。決して。

宗三はついに深い溜息を吐いて、両手で顔を覆った。

自分の心の動きを観察する事を、宗三は比較的頻繁に行っている。どんな言葉を浴びれば、またはどんな仕草をされれば自分がどのように反応するのかを知る事は、パーティでそつなく振る舞うプロとして大切な事でもある。感情そのものに振り回されていては、収まる場も収まらない。そういえばなんだかんだと、自己反省の時間もきちんととっていなかった。

今はクッションに触れているその背中は薬研のてのひらを嫌というほど覚えているし、軽くまとめられたその髪も薬研の指先をこれでもかというほど記憶している。誰かに同じようなことを言われれば、宗三は即座にそれは恋だと言うだろう。だから宗三は、それは恋だと自分に告げた。

ここまではっきりとそれを自覚した事は、今までは無かった。学生時代に何度か、告白されて女性と付き合った事はあったし、人並みに経験を積んで来たつもりではあったが、それらは所詮「付き合い」だったのだと、今なら思える。恋というのは危険なものだ。人々が振り回されるのがよくわかる。どれだけ理性を働かせていても、それは薄まる事がない。

今日はやけに暑い。宗三は空調の設定を見直すが、それはいつも通りだった。


夕食を終えて、少しテレビを見てひといきついた時分。それがいつも、薬研が部屋に訪れる頃合いだった。結局一日中悶々としていた宗三は忘れかけていた疲労もしっかりと思い出して、早々にシャワーを浴びてベッドの上でごろごろとしていた。薬研が来るのでなかったら、きっとさっさと就寝してしまっていただろう。室内灯とテレビをつけたまま、なんとか意識を保とうとうとうととしていると、薬研がやってきた。ノックに宗三が返事を返すと、薬研はドアを開けて入ってくると、後ろ手で鍵をかける。ベッドの上で半分眠っている宗三を見つけると、薬研は部屋の灯りを消して、それからテレビを消した。完全な暗闇になる前に、部屋の隅のコンセントに差し込まれた小さなランプが灯る。まだ眠気もそんなに無いだろうにベッドに近づくと、宗三の身体の下から掛け布団を引っ張り出し、宗三にかけ直してやりながら自分もその中に入る。

「よしよし」

薬研は宗三に寄り添うと、朝にそうしていたようにやんわりと宗三を抱いた。あたたかいてのひらが、また、宗三の背を大きくゆっくりと撫でる。

「違うんです…ちょっと疲れてるだけで…」

むにゃむにゃと、宗三は甘いろれつでそう言った。何が違うのだろうかと薬研は思ったが、うんと頷いただけだった。夕食もいつも通り大盛りを平らげていたし、どうやら体調が悪いというような事はなさそうなので、本当に疲れているのだろうなと思った。宗三は薬研を抱き返す事はせず、丸くなるようにして眠りに落ちた。背中は撫でられてあたたかいし、軽く触れ合っている額もなんだか心地が良かった。

翌朝、幾分かすっきりした心持ちで宗三が目を覚ますと、目の前には胴体があった。驚いて身を起こそうとすると、自分が何かを抱き枕のようにしている事に気づく。頭が回転するよりも先に直感が働いた。

「よく眠れたか?」

頭の上の方から満足げな声が聞こえるが、宗三は顔を上げられない。

「…おかげさまで」

おずおずと薬研の腰を抱え込んでいた腕を自分に引き寄せて、それからその左足にがっちりと絡めていた両脚を解いた。無愛想を装ってもぞもぞと動く宗三の耳に、薬研の穏やかな笑い声が聞こえた。何かを言い返したいが、適切な文句が思い浮かばない。

「おはよう」

薬研はそんな宗三にはおかまい無しに、柔らかくその額に口づける。宗三は存外、この朝の薬研の口づけが嫌いではなかった。きちんと目が覚めているのに、もう一度目を閉じて布団にくるまってしまいたくなる。

「おはよう…ございます…」

どうも昨日からうまくいかない。ちらりと時計を見ると、いつも宗三が目を覚ます時間だった。夏の暑さとは別に、身体がほかほかとしている。

「疲れはとれたかい」

「え…?」

「寝入りばなに疲れてるって言ってたぜ。ここんとこ忙しくさせたからなぁ。疲れってのは一息ついたら出てくるらしいからなぁ」

「はぁ、そうですか…」

宗三はもうなんと言えばいいのかわからずに、曖昧に返事をした。薬研は宗三の髪を混ぜるように指先を立てて頭一撫ですると、布団から出ていった。今日は宗三も一緒にベッドを出る。立ち上がるとぐっと伸びをして、細長い身体を更に長くして見せた。そのまま左右に身体を曲げたりねじったりして解すと、テレビをつけた。いつものニュース番組を流しながらクローゼットを開ける。適当なTシャツとランニングパンツを探し当てながら身に付けて、タオルを持って洗面所へ向かう途中、麦茶を一杯飲み干した。

洗面所では、薬研が歯磨きをしていた。宗三に気づくと一歩右へ避けて場所を作る。宗三は置いてあったヘアバンドで髪をとめて、まずは顔を洗った。化粧水を軽くはたきながら、じっと鏡を見る。クマも無いし、瞼が腫れたり、どこかが赤くなっていたりという事もない。異常無しだ。歯ブラシを手にしようとして、隣に薬研がいる事を思い出した。どうにも最近隣にあることが多くて、ついうっかりとしてしまう。薬研の目の前で鏡を見ていたのかと思うと少し恥ずかしくなって、宗三は慌てたように歯ブラシに歯磨き粉を出した。二人して歯ブラシを口につっこんでしまえば、会話は無い。しばらくしゃこしゃこと歯を磨きながらお互いにチラチラと盗み見合って、譲り合って口を濯いだ。そこから二人して髭をあたって、サッパリしてベッドを整える。サッパリついでに少し走ってくる、と宗三が告げると、薬研はおうと返事をした。薬研は扉の前で一度振り返る。

「今夜は勝負パンツはいといてくれよ」

爽やかにそう言い放って、部屋を出て行った。


勝負下着なるものが世に存在する事を、宗三はよく知っている。しかし自分がそれを持っているかどうかと言うと、答えはノーだった。細身のスーツを着た時にラインが出ないもの、スポーツ用のものなど、用途によってならば何種類かの下着は持っている。ある意味勝負下着だが、薬研が意味している物とは異なるだろう。

宗三は走りながら、ずっと下着の事を考えていた。

買いに行った方が良いのだろうか。誰かに相談するべきか。長谷部にはこんな話はしたくない。話題を振る事事態はやぶさかではないが、長谷部の下着の好みを聞かされるのは今は遠慮したかった。昔の事を思い出してみたところで、宗三はあまり下着に興味は無く、その中身か外側にばかり気を向けていたので、よく覚えていない。稀に見る、ピンチというやつだった。無言で走り続ける宗三のすぐ後ろを、骨喰と鯰尾が走っている。彼らに尋ねてみようかと、一瞬だけ思った。ほんの一瞬だけだ。結局宗三はその日、出発してから屋敷に戻るまで、一言も話さなかった。

シャワーを浴びて朝食をとって、それから宗三がした事と言えばネット検索だった。二十一世紀というのはありがたいもので、誰かに尋ねにくい事もこうして自分で調べる事ができる。軽い気持ちでラップトップの電源を入れ、今まで男性用の勝負下着についてなど調べた事のなかった宗三は少しわくわくしながら検索を始めたが、数分後には静かにブラウザを閉じた。世の中には実に様々なアイデアが溢れているものだなあと感心する。おそらく薬研が求めているのはああいった奇を衒ったものではない。…と思いたい。宗三は大人しくクローゼットを開けて、下着を入れてある引き出しを開けた。付け焼き刃はやめて、その中から選ぶ事にした。それからその引き出しの奥に閉まってある小箱を、おそるおそる取り出す。花柄のかわいらしい箱と紫色のリボンでラッピングされているそれは、少し前に薬研が数日間屋敷を留守にした間に三条から贈られて来たものだった。少し日持ちのする焼き菓子と同封されていて、薬研が帰って来てから、その焼き菓子はいつものように二人で食べた。一筆箋は二通同封されていて、一通はいつも通り薬研と宗三に宛てたもので、もう一通は宗三にのみ宛てられたものだった。

『何事も最初は勇気が要るものだ』

流れるような達筆でそう書かれた意味がよくわからず宗三が箱を開けると、シリコンでできた不思議な形の物体が入っていた。これが何なのか、薬研はわかるだろうか。しかし、三条がわざわざ薬研の留守中に宗三宛に届けさせた物なので、軽々しく薬研に尋ねてはいけない気がした。仕方無く宗三はそれの写真をとって、画像検索をかけた。その時の衝撃に比べたら、勝負下着の検索結果などかわいい物だったと思う。ついでに下準備の内容も軽く学んでラップトップの電源を落とした記憶が、まるで昨日の事のように思い出される。思い出してしまえば、どうがんばってもそれを使う気にはなれなくて、そっと引き出しの奥に戻した。

手持ち無沙汰で、かといって外出する気にもならず、宗三はクッションをテレビの前に移動させると丸くなって身を沈めた。テレビをつけて、そういえばとスマートフォンを確認する。メールとメッセージがいくつか来ていたので返事をしてふと日付を見た。特に何の日という事もない、ただの平日だった。けれどきっとこの日付を、死ぬまで忘れないだろうと、そう思った。




気づけば夜になっていた。宗三は自分が浮かれているのか緊張しているのかよくわからなかったが、普段の冷静さを欠いている事だけはよく理解していた。ならば勢いで済ませてしまおうと、シャワーを浴びるついでに最低限の下準備なるものをした。腸内洗浄については、以前セレブの間で健康法として流行った事があり、興味本位で一度だけ試した事があったので、何となく済ませる事ができた。しかし宗三にできたのはそこまでだ。あとは選び抜いた下着を身に着けて、寝間着にしているTシャツとスウェットをいつものように着た。歯磨きをしながら鏡を見ると、やけに潤んだ瞳の自分が映っていた。恥ずかしい。思わず目を逸らして、ごまかすように歯を磨いた。

口を濯いで、テレビの前でくつろぎ始める頃には、宗三は少し落ち着いてきた。よくよく考えれば宗三は薬研に恋をしているのだ。喜びも期待も不安も、全ては発生して然るべき感情なのだ。だとすれば、そこから逃げるよりもそれを受け入れて落ち着きを持ったほうが得策というものだろう。肌の相性が合わないというのなら、それ以外で努力をすればいいだけのこと。それが全てなのではなく、それは全体の一部にしか過ぎないのだ。薬研がそこにどれだけ重きを置くのかを、宗三はまだ知らない。何かが起きたというのなら、その時に対処すればいい。つらつらとそんな事を考えていると、だんだんと腹が据わって来た。数日間放り出したままだった本の続きを読もうと、タブレット端末に手を伸ばす。

その途端、聞こえてきたノックの音に、宗三の心臓は飛び跳ねた。

一瞬前の落ち着きを無視する身体を必死に落ち着かせて、宗三は返事をせずにドアを開ける。いつもと変わらない様子で、薬研が立っていた。未開封の酒瓶を片手で持って、ゆらゆらと揺らす。

「飲むか?」

「…じゃぁ、ちょっとだけ」

扉の向こうとこちらでそんな会話を交わして、薬研は部屋へ招かれた。ドアにきちんと鍵をかけて、宗三は小さな食器棚からぐいのみを探し出す。陶器のそれは、いつだったかに薬研が持ち込んで来た物だった。飾り気は無いが、手によく馴染む形をしている。

ぐいのみに注がれたやわらかなオレンジ色の酒は、その名の通り、まろやかでしっとりとした桃のリキュールだった。ラベルを見れば、不死鳥の名を冠したリキュールブランドが書いてある。薬研がそうと知っていたのかどうかはわからないが、宗三が飲んでみたいと思っていた酒の一つだった。

ゆっくりと一杯を味わうと、宗三は甘くなったその唇を舐めた。すぐ隣から、刺すような視線が激しい自己主張をしている。

「宗三」

名を呼ばれて振り向きながら食器をちゃぶ台へ置くと、視界に薬研が映ったかと思った瞬間に自分で舐めたばかりの唇をぺろりと舐められた。そのまま口づけをされるでもなく、薬研は至近距離で宗三を覗き込む。

「うまかったか?」

「え、ええ…」

問いかけられて答える事で、宗三は自分が息を止めていた事に気づいた。深く酸素を吸い込んで、目の前の薬研にぶつけないように静かに吐いた。薬研は、その様子をじっと見ていた。逸らせずにいるそのあめ玉のような瞳の向こうから、じわりじわりと熱が伝わってくる。宗三がもう一度息を止めてしまう前に、薬研はふふと笑って立ち上がった。開けたばかりの酒瓶にきちんと栓をして、冷蔵庫へ入れる。テレビを消して、それから部屋の灯りも落とした。部屋の隅で仕事を始める小さなランプが、何だかとても明るく感じた。薬研は優しく宗三の腕をとって立つように促し、ベッドへと誘う。抵抗する理由などなくて、宗三は大人しくそれに従った。


薬研は宗三をベッドの端に座らせると、身をかがめて口づけた。ごくごくわずかな音を立てて、それはくっついたり離れたりする。さすが体内に取り込む物を選り好みする器官だけあって、唇はその感触を如実に宗三に伝えたし、舌が触れ合えばその温度を感じた。ふと首の後ろが暖かくなって、それが薬研のてのひらだと気づく。口元にばかり集まってしまう注意を散らすように、薬研は宗三の襟足をゆっくりと撫でた。いつの間にか閉じてしまっていた目をうっすらと開ければ、まつげがどこかに触れて、促されるように薬研も瞳を覗かせる。先ほどやたら明るいと思ったルームランプは本来の暗さを取り戻していて、今は薬研の瞳の色は良くわからない。ただ、漠然と、二人とも頬は赤いのだろうと思った。

「やめて欲しかったら、すぐ言え」

「…え?」

息継ぎをするように、薬研が言う。

「蹴ったり、殴ったりも、していい」

見上げる薬研は優しく微笑んでいるのに、縫い止めるような視線をそのままに舌なめずりをする様子に、宗三の背筋は粟立った。

「…わかり、ました」

ベッドについていた手が、知らないうちに布団を握りしめている。鏡を見るまでもない、きっと今、はしたない顔をしているだろう。

宗三の返事に満足そうに目を細めると、薬研は宗三を奥へと促して自分もベッドへ乗り上げた。いつもと位置が逆なのを宗三が気にする前に、さっさと定位置へと移動していく。二人はベッドの上に座ったまま、暗闇に火を灯すように唇を分け合った。

「宗三、腕を」

不意に薬研にそう言われ戸惑うと、薬研は宗三の両腕をとって自分の背中へと回す。

「お前さんがしがみついていいのは、俺っちだけだ」

酷い独占欲を隠しもせず、薬研は告げた。そして宗三が返事をする間も与えずにその口を塞ぐ。もはや触れるだけでは済まされないそれはとてもあたたかくて、きもちがよかった。薬研の両手は、宗三の首の後ろと背中を優しく撫でている。ここ数日ですっかり慣れてしまったそのあやし方のせいで、宗三の背骨は徐々にその頑なさを失っていった。あれほど薫った桃はすでにどこかへ消し飛んでいて、宗三がひたすらに食んでいるのは熱だけだった。食事をする時のように鼻で息をしようとしているだけなのに、何だかうまくいかなくて、不規則な吐息は気まぐれに声を含んだ。いつもハキハキと声を張る薬研もそれは同じようで、唇が離れるたびに、消えてしまいそうな吐息で宗三を褒めた。そんな風に褒められてしまうと宗三はもっと息をするのが下手になって、酸素を求めて喘いだ。このままでは酸欠で意識を失うかもしれない、とは思わなかった。宗三の理性は薬研によってゆっくりと確実に手懐けられてしまったようで、今は彼の足元で大人しく眠っている。苦しいのにきもちがよくて、でも何とかしてほしくて薬研の名を呼んだ。

「…いいねぇ」

うっとりと、薬研は言った。声音と、視線。それからずっと宗三を抱えて放さない両腕と、やさしくてあたたかいてのひら、やわらかな唇からちらりと覗く歯。思うままに息をしたいのに、宗三の呼吸は震えて、どこもかしこも熱を持ち始める。

「…なに、これ…」

激しく振り回されているわけでもないのに自由にならない自分自身が少し怖くなって、宗三はすっかり熟れた唇を噛んだ。薬研は宗三をぎゅっと抱き込むと、そのままころんと横になった。そば殻の枕が、しゃん、と軽やかな音を立てて床へ落ちる。

「言ったろ、お前さんを『ひらく』ってな」

耳たぶに触れながら、薬研の唇が言葉を紡いだ。途端、全身の肌が騒ぎ出す。思わず息を飲んで、枕に助けられながら薬研の肩に額を押し付けた。

「なぁんにも気にしなくていい。思ったことを言って、してほしいことをねだって、なるようになっちまいな」

「…っや、げん、」

「大丈夫だ、何がどうなっても、俺っちがしっかり抱いてるから」

じわじわと、その声が空気を通して、肌から宗三へ染み込んでいく。薬研のシャツをこれでもかと握りしめる事しかできない宗三の背中を宥めるように撫でていた薬研の手が、背骨をなぞるようにして直に触れた。息を止めている事はもうできなくて、宗三は震えながら強く息を吐いた。喉の奥がひきつって、涙が出てくる。泣きたいわけではないはずだった。何をしても許されるのだと、思考の預かり知らぬ所で理解した。自覚などという時間のかかるプロセスを無視して、宗三は理解したのだった。

「よしよし、きもちいいなぁ」

薬研は赤ん坊をあやすような事を言いながら、背中を辿って宗三のシャツをたくし上げた。腕を抜くためには宗三の協力が必要だったが、当の宗三は泣きながら薬研にしがみついている。謝りながら片腕ずつ脱がせてやると、すんすんと鼻を鳴らしながら、宗三は何とかシャツを脱ぎきった。薬研はえらいえらいと宗三を褒めて、少し身体を起こして自らのシャツも脱ぐ。宗三の物と合わせてベッドの端へ避けようとしたところで、細長くて容赦のない腕がにゅっと伸びて、薬研を捕まえた。

「おっと」

引かれるままにバランスを崩してボスンと倒れ込むと、宗三がぎゅうと絡み付いてくる。薬研の足に触れる腰元が熱くなっていた。

「勝負パンツ、はきましたよ」

蕩け落ちそうな瞳を何とか薬研に合わせて、宗三は言った。

「そいつぁ楽しみだ」

薬研は笑って、少しだけ冷えてしまったその唇にかぶりつく。触れ合う肌の面積が増えれば増えるほど、意識の捉える世界は狭くなっていく。つい先ほどまで、部屋の中のあらゆる物の位置や状態を把握していたというのに、宗三はもう、枕と布団と薬研の事しかわからなかった。遠慮の欠片も無く口の中を舐め回して、撫で回される。薬研が宗三のスウェットを脱がそうとするのに合わせて宗三が仰向けに寝転ぶと、すかさず薬研が覆い被さった。お互い脱がせやすくなったところで、薬研のズボンを焦らすようにじわじわと下ろした。ウエストのゴムが、前でひっかかる。

「はは、俺っちも、勝負パンツなんだぜ」

宗三に腰を浮かせろと促しながら、薬研は口ではそんな事を言った。言われるままに宗三が薬研の下着に目をやると、なんとも見事な錦鯉が刺繍してある。暗闇でもわかるその光沢から言って、絹糸だろう。腰元をぐるりと取り囲むように二匹、まるで生きているかのような、素晴らしい出来映えだった。

「ふっ…」

宗三は思わず笑ってしまった。

「どうだ、かっこいいと思ったんだが」

薬研は気を悪くするでもない。宗三のスウェットの腰紐を解いていた手を止めて、自分の下着の鯉を撫でる。その手に、宗三が手の甲で触れる。そのまま少し横へずらせば、その鯉に凹凸をつける熱に触れた。

「かっこいいけど、気が散ります…」

さわさわと撫でられる感触に、薬研は喉を鳴らす。

「そいつは悪かった」

機嫌をとるように宗三の顔の真横に手をついた薬研が宗三の唇をはうはうと噛めば、宗三はすんなりと両腕を薬研の背に回して腰を浮かせる。心得たとばかりに、今度は薬研がもぞもぞと宗三のスウェットを下げた。宗三の唇を楽しみながらうっすらと目を開けて、二人の腹の間を覗き込む。何の変哲も無い、無地のボクサーに見えた。

「…暗くて、よくわからないかも」

宗三は冷静さを装う事をやめた息で、薬研に告げる。

「あなたが、最初に買ってくれた着物と、同じ色なんですよ」

紅が強めの、紫色の。

「気に入ってたか、あの着物」

「ええ、とても」

「…よかった」

薬研が心底ほっとしたように言うので、宗三も何だか安心した。ねっとりと肌を滑る視線をすべて吸い込んで、宗三は降りてくる牙へ向かって柔らかく口を開く。こんな風に、唇の触れる前から口を開いた事などなかった。ズボンを脱がせていた事など忘れて、宗三の両腕は薬研の首に回る。吐息と唾液の混ざり合う傍で、普段は不器用な薬研が、手際よく二人分の衣類を片付けている。無事に二人とも下着だけになってしまえば、薬研はてのひらの代わりに唇と舌で宗三を撫でた。顎、首、肩、腕を辿って、指先。時折軽く歯を立てながら、そしてその手は下着越しに宗三の急所を撫でさすりながら。どれだけ飲み込もうとしてもこぼしてしまう熱い息とそれに乗る声を気にして、宗三の腹に力が入る。薬研はそれを目敏く見つけると、再び宗三の唇へと帰って来た。両手をそっとつないで、そのまま大きく開かせる。

「ほら、宗三、心も身体も全部ひらいちまいな、きもちいいぞ」

酷く難しい事を、あまりにも簡単に要求する男だ。

「言ったろ、しっかり抱いててやる」

そんな事を甘く甘く、砂糖を含みすぎて重くなった声で言うと、薬研は宗三の首もとに顔をうずめた。差し出される首を軽く噛み、無防備に晒された腹を撫でる。次世代を担うはずの生殖器さえ、熱を持った薬研のそれに押さえつけられていた。

「…っは、ぁ」

下着が濡れ始めたのがわかる。命の全てを薬研に握られているというその事実を認識できないままに、宗三の意識は夜に溶けた。

部屋の中にはごそごそという衣擦れの音と、二人分の熱い呼吸。時計の秒針だけが控えめに規則正しいリズムを刻んでいるが、宗三の耳にも、薬研の耳にも、その音は届いていない。遠慮なく宗三をまさぐっていた薬研の手は、酷く丁寧に宗三の下着を脱がせた。すると唐突に動きを止めたので、宗三はいつのまにか閉じていた目を開く。薬研が身を起こして何かを探していた。このタイミングで探さなければいけない物など、いかに十人十色と言えども限られている。

「…っ薬研、ベッドの下に、ある、から…」

「え?」

何とか届く位置にあるその太ももを震える指先で撫でれば、一瞬ぽかんとした薬研は弾かれたように動いた。言われた通りにベッドの下を覗き込んで、それらしい包みを手にする。紙袋を逆さにして中身をベッドの上にばらまけば、果たして、コンドームもローションも揃っていた。さすがにサイズまでは分からなかったのだろう、何種類かのパッケージが静かに出番を待っている。

「宗三」

困惑したように名を呼ばれて、焦れったさに涙が浮かぶ。そうだとも。これらは全て、宗三が買ってきた。ネット通販をして万一誰かに郵便物が渡ってしまわないように、骨喰や鯰尾にも内緒で、口の堅そうな鳴狐に護衛を頼んで、店員に変な顔をされながらも、少し遠くの薬局で買ってきた。潤み始めた感情を即座に察知して、薬研は慌てて宗三をあやした。

「ありがとな」

こぼれる前に涙を口で吸い、頬を合わせた。そのまま引っぱり起こして自分に凭れさせると、宗三はすぐにしがみついてきた。その長い脚が、するりと薬研を捕まえる。薬研は片手で宗三の背を撫で、もう片方の手は必要品の包装を破った。さすがに全てを片手ではできなかったが、指にコンドームをかぶせると、ローションを手にとる。

「さわるぜ」

宗三は頷くことはせず、薬研の肩を噛んだ。何も纏わない宗三の熱は、触れている鯉の刺繍の微かなざらつきも、その向こうにある薬研の形さえも拾った。背後でぬるりと薬研の指が、ゆるゆると背骨の延長上をなぞった。ぞわ、とする。急所を晒して快感を得る性癖は持っていないと思っていたが、違ったのかもしれない。宗三は一つずつ丁寧にひらかれては薬研のものになっていくそこかしこを持て余して、むにむにと薬研の肩に吸い付いた。

「…自分でさわったのか?」

想定よりもやわらかくなっていたようで、薬研が尋ねる。ついでとでも言うように、その指先が入ってきた。

「ンぁ、…らった、だけ…」

宗三は、自分でべしょべしょにした強い肩に額を押しつけた。きもちがいいのかどうか、身体はよくわかっていない。けれど、服を脱いで身体を開かなければ誰も触れる事のない場所に薬研が触れているのだと思えば、頬も耳も吐息も、かっかかっかと沸騰する。

「…びようほ、ぅに、っあるんですよっ…」

「そいつは知らなかった…中もいじったのか?」

ゆっくりと奥へ進みながらやわやわと探られて、宗三は首を横に振った。もうわかっている。準備の悪さを叱られることは絶対に無い。薬研には素直に、あるがままを伝えればそれでいいのだ。

「上出来だ」

ほら、薬研は満足気に笑みを深めて、宗三の耳元に口付けてくれる。

「今日は、さわるだけ」

「え…?」

「いきなり全部はできねえさ。今日はせっかく初夜なんだから、きもちいいことだけしような」

とろとろと、薬研の声が耳から入ってくる。それはどんな菓子よりも甘く、どんな温泉よりも熱く染みた。息をしようとして、子犬が甘えるような声が出た。もう何もかもがままならなくて、宗三はとっくに諦めている。背骨をまっすぐにすることも、きちんと呼吸をすることも、自力で座り続けることすら。薬研は宗三の前も後ろも触った。いくらか親しみのある快感を与えられながらも、背中を撫でてくれない事が不満で、ぐずるように鼻を鳴らせば、薬研は自分だって息が上がっているのにやさしくやさしく、どうしたと尋ねてくる。けれど宗三は、声に言葉とう形を与える事ができなくて、震えそうになる両腕で、前を触っていた薬研の腕を自分の背中に回した。薬研は宗三の望みにすぐに気づいて、すぐにゆっくりと背中をさすり始める。満足してうっとりと息を吐くと、薬研が笑った。きっと、かわいいなとか、甘えん坊だなとか、そういう事を思っているのだろう。そう思えば、宗三も少しおかしくて、小さく喉を鳴らした。

「…っ」

笑った拍子に、薬研の指先がどこかをかすめて、ひくりと全身が強ばった。薬研は確かめるようにもう一度だけそこをつついて、宗三が跳ねるのを見て指を引き抜いた。宗三は顔を上げて、ほっとしたような、とまどうような視線を薬研に投げる。薬研は手袋の用に使っていたそれをさっさとくず入れに投げ入れて、宗三に唇を贈った。

「あとは、今度な」

大した事はされていないはずなのに宗三の全身はくたくたに蕩けていて、薬研が何を言おうとただ頷くしかなかった。相変わらず片手では宗三の背中をなでながら、薬研は鯉の下着をずらした。お互いが、何の邪魔もされずに触れ合う。すこしくすぐったくて、じんとした。

「一緒にさわるか?」

額を合わせながらそう言われると、もうそうする他無い。宗三は返事の代わりに薬研の口元をれろりと舐めて、ひたすら背中に縋っていた腕を片方、二人の間に滑り込ませた。手の中に二人分の熱を握り込んでしまえば、ここから先に何をすればいいのかくらい、もう分かっている。不意に、ぐっ、と背中を押されて、何が起きたのかを理解する前に目を閉じた。魂を吸いとろうとでもしているかのように口を塞がれて、思わず手に力が入る。息をうまく吸えなくて、だから何も言えなくて、喉の奥から漏れてくる鳴き声だけが全てだった。

背筋を寒気が駆け上って、宗三はたまらずに薬研の口づけから逃げて、目の前の首筋を強く噛んだ。

「いっ…」

突然の痛みに上がった声が合図になったように、二人は息をつめた。音の無い花火が、目の奥で散った。


宗三は薬研の首筋から歯を離し、すっかりあとのついてしまったそこを舐めた。薬研の唇がこめかみに押し付けられて、顔を上げる。お互いに目を少し開けたまま、整わない息を飲み込み合った。徐々に交わりを浅くしていって、最後にはちよちよと小鳥のような音が立った。宗三はすっかり力が入らなくて、まぶたさえもその長いまつげの重さに耐えられないと訴えている。ずるりと、薬研を巻き込んで布団に倒れ込んで、大きく息を吐いた。

「おやすみ、宗三」

あたたかい声がすぐ傍で聞こえて、宗三はそのまま、眠ってしまった。





翌朝、目を覚ますと、すぐ近くで薬研が眠っていた。いつもはそのやわらかい瞳に見守られて目覚めるので、何だか不思議だった。すうすうと穏やかな寝息を立てて、しっかりと宗三と手を繋いで眠っていた。布団はかけられていたが、お互いに何も着ていない。辺りを見回してみると、いつの間にか、宗三と薬研の勝負パンツが、洗われて干されていた。ハンガーに洗濯バサミで吊るされて、そのハンガーはカーテンレールにひっかかっている。朝の光の中で見てみれば、薬研のそれは、黒地に金一色の刺繍だった。乾くのにも時間がかかりそうだが、乾燥機には絶対に入れられないだろう。そんな事を考えながら視線を薬研に戻すと、花が咲くように目を覚ますところだった。ふんわりとそのまぶたが開いて、いつもの紫色の瞳に見つめられる。宗三は、目と鼻のあたりが熱くなった。

「…おはよう」

薬研はそう言いながら、宗三の目元を吸った。

「おはようございます」

意外とすんなりと声は出て、同時に涙も鼻水も出てきた。

「どうした」

「…知らないんですか?胸が一杯になると、収まりきらない分は水になって外に出てくるんですよ」

「はは、そうなのか」

酷く優しい声で薬研が言うので、宗三はそのまま、しばらく泣いた。


宗三が落ち着くと、交代でシャワーを浴びた。さすがに少し全身が重かったが、記憶を辿ってみても、無理な体勢もしなかったし、突然全てを暴かれる事もなく、問題無く動く事ができた。先にシャワーを終えた宗三が冷蔵庫を開けると、昨夜の桃のリキュールの隣にローションとコンドームが入っていた。そういえば、昨夜途中で、薬研がきょろきょろとしていたのを思い出す。どうやら薬研もそれなりに緊張なり興奮なりをしていたのだろうと思うと、じんわりと、心と呼ばれるものがあたたかくなる気がした。いつまでも冷蔵庫に入れておくのもどうかと思い、宗三はそれをちゃぶ台の上に出しておいた。今はひんやりとしているが、薬研がシャワーから出てくる頃には室温になっているだろう。

それから宗三は、カーテンを開けた。干されていた下着は、洗面所に移動してある。なぜあんな目立つ所に干したのかと聞けば、薬研は少し照れたような顔をして、浮かれてたんだ、と答えた。予想外にかわいらしい所のある事は、すでによく知っている。

窓から見えるのは、すっかり見慣れた、いつもと変わらない景色だった。世界がこんなにも穏やかなのだと、知らなかった気がする。空が上のほうにあって、地面が足元にある。太陽が眩しくて、蝉は今日も、これでもかと鳴いていた。その太陽の高さに気づいて時計を振り返ると、すでに午前十時を回っていた。薬研がシャワーから出て来たら、ブランチを食べにでも行こうと思った。

「はーサッパリサッパリ!」

上機嫌が服を着て歩いているのかというような様子で、薬研が浴室から出てきた。さっそくちゃぶ台の上に置かれた品々を見つけて、大げさに驚いている。

「宗三、これどこにあった?」

ばつの悪そうに聞いてくる薬研に、宗三は咄嗟に答える事ができなかった。Tシャツから覗くその首に、痛々しい歯形がついていたからだ。心当たりが、ものすごくある。

「…宗三?」

黙ったまま目を泳がせた宗三を心配そうに見やった薬研は、その一瞬後には全てを悟ったようで、ンフ、とすけべに笑って見せた。

「ブランチを食べに行きませんか、って誘おうとしたんですけどね」

「おう、行こうぜ。襟のついてるのに着替えてくる」

「…痛くないんですか、それ」

「全然。さっき鏡見てウオ!?ってなった、はは」

薬研は宗三からタオルを借りると首からかけた。それからちゃぶ台の上に置かれていた諸々を、ベッドの下の紙袋に入れる。そうして部屋の中が昼間の様子を取り戻すと、着替えるからと部屋を出て行った。

ついていっても良かったが、宗三はぼふりと、クッションに腰を下ろす。見上げる天井は、昨日までのものと何も変わらない。このクッションだって、それこそ粟田口の屋敷に越してくる前から、ずっと何も変わらないのだ。ふとカレンダーを見上げれば、まだまだ休みは残っている。実家へ行ってみるのも良いかもしれない。聡い兄は会えば全てを察するだろうし、純朴な弟にも、いつのまにか良い相手ができていたりするかもしれない。そう考えると少し楽しみで、顔は笑みを形作るのに、何故か一緒に目が潤んだ。

ずっと、誰かと手を繋ぐ事が嫌いだった。それが原因で振られた事も何度もある。けれどどうしても、繋いだ手が離れるその瞬間の、そわりと空気が入ってくる感覚が怖かった。七つの頃に行ったあの夏祭りで、いとも簡単に解かれた母親の手を、ずっと、憎んでいた。何故もっとしっかりと握っていてくれなかったのかと、何度も思った。誰かと手を繋ぐたびにそれを思い出して、よくない気持ちになった。

どうせこの手は、解かれてしまうんだ。そんなふうに拗ねて、いじけていたのかもしれない。だから宗三は、誰かと手を繋ぐ事は嫌いだった。

だった、のだ。

それがどうした事か、無性に薬研と手を繋ぎたい。薬研はきっと、しっかりと、宗三と手を繋いでいてくれると思った。人はそれを愛だとか信頼だとか呼ぶのだろうし、そうなのかもしれない。その他大勢に向けての分かりやすさを求めて言葉を探す事は、しかし宗三には必要なかった。ただ一人、薬研にだけそれが伝わればいい。そしてきっと、もうとっくに伝わっているのだろうと思った。

クッションに沈んで丸くなってすんすんと鼻を鳴らしていると、着替えた薬研が帰って来た。いつものようにノックをして、宗三の返事を待って部屋に入ってくる。ポロシャツの襟で、首は綺麗に隠れていた。丸まっている宗三を見つけると、すぐにその傍に膝をつく。

「どうした、出かけるのはやめるか?」

「薬研、あなた…僕に何をしたんです?」

質問に、質問で返してしまう。数日前の宗三ならばそれを気にしたが、今の宗三はもう、何も心配をする必要がない。

「とかしたんだよ」

さらりと甘い台詞が返って来て、宗三は柄にもなく照れてしまう。

「なんで…そんな事ができるんです…?」

「そりゃぁ、宗三が俺っちの事を信じてるって、信じてるからさ」

柔らかくて甘い声でそう言うと、薬研はそっと、宗三の頬に口づけた。それが子供をあやすような仕草だったので、宗三は仕方無くごきげんになってやる。

「全部冷蔵庫に入れちゃったくせに」

「あんなに色々隠し持ってるとは思わなかったぜ」

これ以上何かを言うと分が悪くなりそうで、宗三はくふ、と笑って顔を上げた。薬研と一緒に立ち上がる。うーん、と一つ伸びをすれば、いつもの細長い宗三に戻った。財布とスマートフォンをポケットに入れ、クローゼットから靴を出す。長い廊下を進んで玄関に辿り着くと、いつものように鳴狐が待っていた。ベッド下の秘密を知る、薬研以外では唯一の人間だ。鳴狐が何も言わないので、宗三も何も言わない。そういう距離感で良いのだと、きちんと理解をしている。

そういえば、クローゼットの引き出しの奥にしまわれた小箱の存在を、まだ薬研に告げていない事に気づく。ひたすらにしまいこんでいたが、薬研とならば適切な対処方法も考える事ができるだろう。焦る必要はどこにもない。今は腹を満たすことの方が先決だった。

靴をはくと、薬研と一緒に廊下を振り返った。数人の者に大声で見送られる事にも慣れて来た。薬研の嫁となってからは、宗三も一言挨拶をしてから出かけている。大家族の一員になったようで最初は新鮮で、それから少し不安になって、最近では僕がしっかりしなくてはという責任感のようなものが出て来ている。

「行くとこは決まってんのか?」

家を出てから尋ねる薬研に、宗三は笑った。いつだって自信満々のくせに、時々驚くほど何も考えていない。そういう所が愛おしかった。

「この前ワッフル屋さんを見つけたんです。サラダやウインナーとのセットもあるから、薬研も楽しめると思うんですけど」

いかがですか、と尋ねる前に、よしそこに行こうと満面の笑みで言われてしまった。それからするりと手をとられて、ぎゅっと握られる。あっ、と思う暇もなく手を引かれて、宗三は歩き出した。店がどこにあるかも知らないだろうに、と思うとおかしくなってきて、遠慮なく声を立てて笑う。

パーティ会場の華と名高い宗三は、Tシャツにコットンパンツ、くたびれたスニーカーを身に纏って、夏の日差しの中を笑いながら歩いた。その耳元では、今日も真珠が揺れている。






~おわり~