彼の小判で、僕に真珠を。
5/28/2016
きらめくシャンデリアが星屑を撒き散らし、毛足の長い絨毯がふんわりと酩酊を誘う。
壁際の椅子に腰を下ろして、宗三はレストルームから雇い主が戻ってくるのを待っていた。薫るような仕立てのスーツに手入れのされたオーダーメイドの革靴。耳元で揺れる大きな飾りも、全ては彼を引き立てるための演出に過ぎない。ふわふわと癖のある髪をやわらかな桃色に染めているのさえ、どこか気品を漂わせた。目元にも口元にもやわらかな曲線を描いて、細い指先がつまむシャンパングラスは大海に浮かぶ船のように揺れていた。
虚飾に塗れたこの宴も、あと一時間もせずに終わりを迎えるだろう。おそらくは宗三の雇い主も、今頃はその秘書に車の手配を命じているに違いない。
「よォ、隣いいかい?」
「ええ、もちろん」
ふと声をかけられ、流れるように返事をする。挨拶の代わりに視線をやれば、隣に腰を下ろしたのは比較的若い男だった。由緒正しい真っすぐな日本髪に、黒地にうっすらと同色のストライプの入ったスーツ。アクセサリーの類いは一切身につけず、薄紫のシャツがその瞳の色と合っていた。
「あんたが宗三かい?」
「ええ、そうです」
初対面で名を呼ばれるのは慣れている。要人の集まるパーティで桃色の髪を晒すような者は宗三くらいだ。それをトレードマークにしたのは彼自身で、こうして声をかけられる事も少なくなかった。
「噂通りだ」
「良い噂でしょうね?」
「はは、どうかな」
笑うと存外にかわいらしい。宗三は笑みを崩さずに、持っていたグラスを空にした。
宗三は、様々な場で要人のアクセサリーになる事を生業としている。
きっかけになったのは、学生時代に親戚に連れられて行った某社長とやらの誕生日パーティだった。同伴者必須と招待状には書かれており、けれど彼の妻はその前日に宗三の遠い従兄弟を出産したばかりだった。さすがに妻の同伴を諦めた親戚は、社会勉強にもなるだろう、と宗三を伴って出かけた。ごくごく普通の大学生だった宗三にとって、芸能人や政治家の集まる場に足を運ぶのは突発的なイベントそのもので、そしてそんな体験をするのはその一度きりのはずだった。
しかし、人生とはどう転ぶかわからない。
当時から桃色に髪を染めていた宗三はとにかく人目を引き、とある企業の社長に気に入られると、次のパーティに彼の同伴者として出席するというバイトを持ちかけられた。きちんとした服を持っていないからと断れば、ならば買ってやる、とそのままテーラーへ連れて行かれた。あれよあれよと服も靴も装飾品も見立てられ、いくつかの紙袋を持って帰宅した宗三は、そのままバイトだけを断るという事のできない程度には真面目さを持っていた。
その後はパーティに出席するたびに、誰かしらから声をかけられた。気づいてみれば宗三には得意客もつき、大学を卒業する頃には提示される報酬額も恐ろしいほど跳ね上がっていた。規則正しい生活が苦手な宗三は、そのまま、それを仕事にする事とした。宗三、というブランドはほぼできあがっていたし、貯金もそれなりに貯まり始めていたので、そこまでの不安は無かった。友人達には少し心配をされたが、まあ何とかなるだろう、と笑った。彼らとは今でもたまに飲みに行く。徐々に自分が一般平均から外れて行くのを感じながら、けれど宗三は、今の生活を存外嫌いではなかった。
洒落た衣装に身を包み、宗三はそつなく会話をこなした。見目の麗しさは当然のこと、雇い主を楽しませる振る舞いを磨いて行った。媚を売る事は決してせず、当然、身を売るような事もしなかった。報酬額も宗三から提示する事は決してない。依頼の日程が重なれば、単純に報酬額で優先順位をつけた。それまでの付き合いや人情に流される事は決してしない。手入れのされた血統の良い猫を一日だけ飼うような、贅沢な遊びとして自分を売る事を心がけ、そしてそれに見合う自分でいられるようにと精進を重ねている。
「俺っちは、薬研ってんだ。粟田口のもんだ」
「ああ、最近代がわりをしたと噂の」
「さすがよく知ってんな。そうだよ、俺っちが新しい総代さ」
粟田口と言えば歴史のあるいわゆる「組」で、なるほど、任侠の気配を色濃く纏う薬研の、隙のない着こなしの中で異彩を放つペイズリー柄のネクタイに納得がいった。一件華やかな世界とは無関係に見える彼らは、その実政治の裏側で汚れ仕事を請け負う事が多いと知ったのは、この仕事を始めてからだ。蛇の道は蛇、狼を束ねるのは狼にしかできないという事だろう。
「どうだい、俺っちに雇われねえか」
「ええ、いいですよ、日時はもう決まっているんですか?」
メモをとったり、携帯端末を取り出すような無粋はしない。次の仕事の話をしようとも、今この場は、他に主役と雇い主のあるパーティ会場なのだ。薬研は笑うと、口頭で電話番号を宗三に伝えた。宗三が心得たように頷くと、本日の雇い主が戻ってくる。薬研は軽く挨拶をして立ち上がると、そのまま去って行った。
翌日、宗三は薬研にテキストメッセージで名乗ってから、電話をかけた。もちろん仕事用の携帯電話からだ。薬研は電話にでなかった。メッセージを残して待っていると、程なくして折り返しの電話がかかってくる。宗三の客には多忙な者が多いので、そのやりとりも慣れたものだった。都合がよければ会って話そうと言われれば、宗三に断る理由は無い。指定された場所は高級住宅の集まる地域の喫茶店だったので、宗三はそれなりの、しかしラフな格好をして家を出た。
電車を乗り継いで目的地に到着すると、薬研は寛いだ様子でコーヒーを飲んでいた。大人しいグレーのカッターシャツに白いカーディガンを羽織り、フレームの細い眼鏡をしている。宗三が空き時間に調べた限りでは、薬研は宗三よりも三つほど年上のはずだったが、下手をすれば大学生にも見えた。
「お待たせしましたか?」
かしこまって挨拶するでもなく宗三が対面に腰を下ろすと、薬研は満足げに目を細める。
「いいや、待っちゃいねよ、焦がれちゃぁいたが」
「ふふ、お上手ですね」
会話をしながら、薬研はメニューを宗三に渡した。当然のように値段は書いていない。
「おすすめは何ですか?」
宗三は初めて訪れる店では、同席者におすすめを尋ねるようにしている。そしてそれが嫌いなもので無い限り、それを注文する。ハズレを引かないですむし、相手の好みもわかる。一石二鳥だった。
「ここじゃコーヒーしか飲んだ事がねえんだ」
「ではコーヒーを」
薬研にそう伝えながらちらりと彼のカップを見ると、薬研のコーヒーには少なくともミルクが入っていた。そのまま店内を見回すようにしてシュガーポットを視界の端で確認する。空いている席のセッティングと少し位置が変わっていて、きっと薬研のコーヒーには砂糖も入っているのだと知れた。宗三が店内に目を走らせている間に、薬研は宗三の分のコーヒーを注文してくれた。やや間をおいて、豆を挽く音、お湯の沸く音、コーヒーをドリップする音が聞こえてくる。ボリュームを抑えた音楽と、他の客のざわめきに混じった、宗三のためだけのコーヒーを準備する音だ。何だか少し、特別な気持ちになる。
しばらくすると、やわらかな香りを纏ったコーヒーカップが宗三の前に出て来た。一口そのまま味わうと、シュガーポットから角砂糖を二つ、ミルクポットからミルクを少々加える。音も泡も立てずにやわらかな茶色を作ると、小さなスプーンを一度カップの端につけてから、ソーサーに置いた。そしてもう一度カップに口を付ける。宗三好みの味になったコーヒーの香りは、けれど薬研の好みでもあるだろう。好ましい。
「おいしいですね」
「そりゃあよかった」
それまで不躾とも言える視線で宗三を見ていた薬研も、会話に促されるようにカップを手にとる。
「甘いのが好きなのか?」
「ええ、まぁ…嫌いではないですよ」
「ならケーキも頼むといい。ここのは美味いと乱…弟が言ってたからな」
「あなたは食べないんですか?」
「はは、俺っち甘いのはちょっとだけ苦手なんだ。ちょっとだけな」
促されてメニューを再び手にとりながら、おや、と宗三は内心で首を傾げる。やけに負けん気を主張しながらの発言だったが、甘いものが苦手だというのは本当だろうか。コーヒーには砂糖を入れたのだろうに。そんな疑問は顔には出なかったはずだが、薬研はおかしそうに笑った。
「俺のコーヒーにゃあ砂糖は入れてない」
「え?」
「試すような真似をして悪かった。あんたが甘党だってのは知ってたから、俺が砂糖を入れたように見せりゃぁお前さんも好きなだけ砂糖を入れやすいかと思ってな」
薬研の種明かしに、宗三はきょとんとしたあと、ころころと笑った。
「貴方が砂糖を使おうと使うまいと、僕は僕のしたいようにしますよ。お気遣いなく」
そしてその言葉を裏付けるかのように、近くの店員に声をかけ、ピンク色のケーキがあればそれを、と注文した。
「ピンクが好きなのか?」
それを見ていた薬研が面白そうに尋ねると、宗三はメニューを返しながら肩をすくめて見せる。
「もともと髪がピンクになったのは事故だったんです。美容師見習いの友人の練習台になったらピンクになってしまって。でもすごく似合うと言われたからそのままピンクにしてるんですよ。似合うと言われると気になるのが人情というものじゃありませんか…ピンクのケーキは大体苺かラズベリーなのでおいしいですしね」
それを聞いて、薬研は楽しそうに笑った。眼鏡の奥で、薄紫色の瞳がとろけている。
「いいねいいねぇ」
そのやわらかな視線はよく向けられるものだったが、宗三はいつまで経っても慣れる事はない。宗三の客はいつも彼をとことんまで甘やかしては、孫でも見るような慈しみを向ける。宗三が何かを欲しがれば惜しみなく与え、少し機嫌を損ねてみせればご機嫌とりのためになんやかやと手を尽くす。パーティに出席している間だけのその遊びは、宗三が主導権を握っているように見えて、その実雇い主のきまぐれに全てがかかっている。それを肝に命じ、宗三は毅然とした態度を崩さないようにと自戒を強めなくてはならない。落ちない城は落ちないからこそ惹かれるものだ。まして宗三の行うビジネスは、一歩間違えば容赦無く足元が崩れゆく。宗三はあくまでも冷たく華やかに光るアクセサリーとして、雇い主の隣で娯楽を提供し、自らを侍らせる者に優越感を与えなければならない。いついかなる状況であっても分をわきまえる事を忘れてはならない、分不相応は身を滅ぼすと、幼い頃から父や兄から諭されている。
大して時間を置く事もなく、シンプルなプレートにやわらかな春の色をしたケーキがちょこんと乗ったものが静かに宗三の前に置かれると、薬研は頬杖をついて宗三に食べるようにと勧めた。宗三が丁寧な所作で一口目を口に入れると、それは苺でもラズベリーでも、時期遅れの桜の味でもなかった。けれど絶対にどこかで食べた事のある味で、フォークをくわえたまま、じっと残りのケーキを見つめる。ムースやプリンではない。スポンジとクリームが重なりあった、ショートケーキのような見た目にも見える。クリームは一番上がピンク色で、真ん中が白、一番下が薄い青だった。トリコロールのつもりだろうか。フルーツは一つも乗っていないが、ピンクのクリームの上にミントの葉が乗っている。薬研が何も言わずにただ宗三を眺めているので、宗三は遠慮なく二口目を食べた。しゅわりと口の中でクリームが溶けていく。やけに甘ったるい後味に、ようやくそれが何の味なのか思い出した。
「へえ!」
宗三は素直に驚くと、確かめるようにもう一すくい、ケーキを口に運ぶ。間違いない。幼い頃に夏祭で買ってもらった、あのわたあめの味だ。
「わたあめの味がします」
珍しいものを食べられた、と宗三が興奮気味に伝えると、薬研は笑みを深めた。
「気に入ったかい?」
「ええ」
「そりゃよかった」
薬研がそこでコーヒーを口にしたので、宗三もフォークを置いてコーヒーを飲む。それから一息つく仕草を見せながら、薬研の言葉を待った。
「食べ終わるまで待つぜ」
「いえ、どうぞ」
薬研はずっと、何をするにもゆったりとしていて、ありあまる時間を楽しんでいるように振る舞う。けれどその立場と状況を考えれば、非常に多忙である事に間違いは無い。宗三の客達が唯一惜しみなく宗三に与えられないもの、それが時間だ。彼らは一様に忙しい。
「そうかい」
薬研はそう言うと、ズボンのポケットに入れていたのであろうスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置く。
「お前さん、現時点で仕事の予定はいつ頃まで入ってるんだ?」
「おや、御存知かと思ってましたけど…僕の予定は報酬次第であなたの自由ですよ」
「長期の依頼でも?」
「長期というのは…クルーズとかですか?申し訳ないんですけど、船酔いするのでそういうのはお断りしているんです…」
今までも、豪華客船クルーズ同伴の依頼はいくつかあった。けれどこればかりはどうしようもない。船だけは無理だ。飛行機ならば平気なのだが。公園の手漕ぎボートですら、少し体調の悪い日には乗る事ができない。宗三が困ったように眉尻を下げると、薬研は笑いながら首を振った。
「そういう事じゃねえんだ」
薬研の瞳が、薄いガラスの向こうで流れ星のように一瞬だけ光ったように見えて、宗三は目をみはる。
「宗三、俺っちにずっと飼われる気はないか?」
「…?」
さすがにこんな依頼は今まで無かった。宗三が声も出せずにいると、薬研は心得たようにまた笑う。
「なぁに、今決めろとは言わねえさ。そうだな、明後日の同じ時間に、また此処へ来られるか?そん時に返事を聞かせてくれや」
そう言われ、宗三は何とか、わかりましたと頷いた。時間の猶予が得られたと理解すれば宗三もプロであるので、その日はそれから一時間ほど薬研と話をして、わたあめ味のケーキを楽しみ、店を出た。自分が動揺のあまり見逃したとは思いたく無いが、宗三は薬研がいつ会計を済ませたのか全くわからなかった。もしかしたら宗三の現れる前に、全ては終わっていたのかもしれない。
帰り道、電車に揺られながら、宗三は何も考えずに幼なじみの長谷部にメールを送った。真面目一辺倒な男で、お手本のような会社員をしている。きっと今も業務中だろう。
《飼われるってどんな感じですかね?》
返事が来る事は期待していなかった。気まぐれに長谷部に適当なメールを送るのはいつも宗三で、長谷部からは十回に一回くらいの割合でツッコミのような返事か、飲みに行く誘いか、可愛がっている甥っ子の写真が送られてくる。自分が一般的な人生を歩んでいる自覚は全く無かったが、飼われるという可能性を考えた事も全く無かった宗三の元へ、けれど予想を裏切って、長谷部からはすぐに返事が来た。
《正気か?警察か弁護士か病院なら紹介できるぞ》
悩みがあるなら聞くぞ、と言って来ないのが長谷部らしい。宗三はその専門職の羅列を噛み砕き、薬研から具体的な事を何も聞いていない事に気づいた。長谷部が知り合いに警察も弁護士も医師も居るというのなら、まあ、何とかなるだろう。持つべき物は友だなあと、宗三は笑った。向かいに座る老人が、うさんくさげに宗三を見ている。この髪の色も、電車内でスマートフォンを見ながらにやにやしている事も、働き盛りのような年齢をして平日の昼間から電車に乗っている事も、全ては宗三を宗三たらしめている。
《正気です。ご心配なく》
宗三がそう返すと、今度こそ長谷部からの返事は無かった。
翌々日、宗三は同じ場所に、同じ時間に足を運んだ。やはりというべきか、薬研は同じ席に座ってコーヒーを飲んでいた。前回と違うのは、隣にもう一人、鮮やかな水色の髪をした男が座っている事だろう。髪の色に反して地味なスーツを着ているその男は、どうやら薬研より少し年上に見える。誰だろうかと思いながらも、宗三は迷い無くテーブルへ近づいていった。
「こんにちは」
薬研ともう一人に声をかけると、水色の髪の男は立ち上がり名刺を差し出した。
「どうも、弁護士をしとります、一期と申します」
「弁護士さんでしたか、宗三です」
宗三は名刺など持たないので、礼だけ返しながら丁寧に名刺を受け取る。肩書きには顧問弁護士とだけ書かれていて、おそらくは粟田口組お抱えなのだろうと察せられた。
「申し訳ない、薬研が緊張のあまり詳細を何もお話していないと聞き、本日はこうして同席いたします」
「おいおい、いちにい…」
「薬研の兄です」
いわゆる組長であるのだろう薬研の頭を無理矢理下げさせながら、一期はそう言って自らも軽く頭を下げた。はぁ、と気の抜けた返事をした宗三の前に、美味しそうなコーヒーが出てくる。既にミルクが入っている所を見ると、おそらく砂糖も入っているのだろう。店員に目を向けると、先日も居た青年だった。
「申し訳ありません、盗み聞きをするつもりは無かったのですが…前回は兄がろくな説明もせず、大変失礼をいたしました」
前田と名乗った青年は、口ぶりからしてどうやら薬研の弟のようだった。なるほど、この店は、粟田口の管理する店だったのだ。とはいえまさか総代の弟が店員をしているとは驚いた。まだ学生のようにも見えるので、バイトなのかもしれない。前田は挨拶を終えると、もう一度頭を下げて店の奥へ戻って行った。丁寧な所作だった。
さて、と一息つくと、何かを言おうとした薬研を制して、一期が口を開いた。
「まずは詳細をご説明してもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします。僕も今日はまずそれをお尋ねしようと思ってたんですよ」
一期があまりにも真面目な顔をして言うので、宗三は努めて柔らかく笑った。一期は鞄からタブレット端末を取り出すと、そこへ箇条書きのようなメモを表示する。どうやら言い忘れがあってはならないからとリストにして来たらしい。
「こちらが、薬研からの依頼内容です。契約期間内の全てのパーティへの同伴、薬研以外の顧客からの依頼の辞退…つまり薬研の専属になって欲しいという事ですな。もちろん粟田口よりも多い報酬を提示された場合は、お報せくだされば差額分をお支払い致します。それから安全のために、本家屋敷内の一室での居住と、外出時の護衛同伴。現在お住まいの場所からの引越や解約に関わる費用も、全て粟田口が負担いたしますのでご心配なく。それから粟田口に関する機密情報の保持や、粟田口の経営に不利になるような言動の制限をお願い致します。報酬は月にこのくらいと、それからご自由にお使い頂ける薬研名義のクレジットカードをお渡し致します。その他何かご入用の物がございましたら、何なりとお申し付けください。ご質問はございますかな?」
一息に言い切るでも無く、意味有りげな間を持たせるでも無く、一期はすらすらと説明をしていった。提示された報酬の内容も、これまでの顧客に遜色が無い———どころか、上客と言う他ない。条件が良すぎて、少々警戒してしまう程だ。
「外出先や友好関係の制限などもあるんですか?それから、契約期間はいつまででしょう?」
宗三もメモをとる事はしなかったが、きちんと理解し、噛み砕いている。弁護士が絡んで来たという事は、おそらく内容の確認をした後に書面の取り交わしが行われるはずだ。一期による説明は、そんな安心感を宗三に持たせた。
「パーティなどの同伴以外のお時間は、ご自由にお使いください。ご家族ともご友人ともご自由にお会いください。ただ、先ほども申し上げました通り、他の方からのお仕事をお受けするのはご遠慮いただきたい。それと、外出される際は護衛を最低一人はつけていただく事になります。契約期間は…そうですね、最初から超長期でのお願いも不安かと思いますので、三ヶ月の様子見の後、一年ごとに契約更新でいかがですか?もちろん最初の三ヶ月間も、同じだけの報酬はお支払い致します。契約の途中破棄の場合は、契約終了日をお互い協議の上決定、その後は機密保持は守っていただく事になりますが、こちらからもできるだけ護衛等の提供をさせていただきたい」
「なるほど。携帯電話などの番号は今のままで良いですか?」
「はい、結構です。ただ、可能でしたら、薬研にだけで結構ですので、プライベート用の番号もお渡しいただければと。万一の事がありますので…ただこれは、契約内容というよりはお願いとなりますな。ですので、三ヶ月後に再度相談という形で構いません。薬研、いいね?」
「ああ」
淀み無く説明を続ける一期が不意に薬研に話を振ると、薬研は少しの否も無く頷いた。前回薬研に「飼われる」などという言葉を使われたせいで、よもや軟禁でもされるのではないかと危惧していた宗三だったが、一期に聞かされた内容は人道的だった。家族にも友人にも好きに会えるのであれば、これまでの生活からの変化も少ないはずだ。客が薬研一人になる事と、住む場所が変わる事くらいだろう。
「詳細はわかりました。契約開始はいつをご希望ですか?」
「だから一昨日聞いたんだ、あんた、この先いつくらいまで仕事が入ってるんだ?」
困ったように笑う薬研を見て、宗三はにこりと笑った。
「僕の予定はあなたの自由ですよ」
言外に契約成立を述べれば、意図に気づいた薬研はぱっと喜色を露にする。それを見た一期が耐えきれないとでも言うように吹き出すと、薬研は咳払いをしながらコーヒーカップを口に運んだ。
口頭での契約成立の三日後、宗三はアパートを引き払って粟田口の屋敷へと引っ越した。用意された客間は個別の洗面所とトイレ、風呂がついていて、それまで宗三の住んでいたアパートよりも広い。台所と洗濯機は屋敷にある物をいつでも使っていいと言われている。部屋のドアには鍵もついていて、宗三はほっとした。あてがわれたのは二階の部屋だったので庭には通じていないが、大きな窓と、その先にはベランダがついている。物干竿を置けそうな広さなので、明日にでも買いに行こうと思った。もともと置かれていたベッドとソファの他には、段ボール箱がいくつか置かれただけの部屋を見回し、宗三はふと一日を振り返る。
その日、昼過ぎに粟田口の門をくぐった宗三は、その足で大広間へと通された。そこには既に、粟田口の関係者であろう者たちが勢ぞろいしていて、時代劇でしか見た事の無いような広い和室に階級や年齢ごとなのであろう順番で大勢の男達が鎮座する様は壮観だった。ざわついていた部屋に薬研が入った途端、風を起こしながら全員が立ち上がり、頭を下げた。宗三がそれに面食らっている隙に、薬研がおうと応えて腰を下ろすと、またもや空気を動かしながら、彼らもどさりと腰を下ろした。それから薬研は一同をぐるりと見回して、口を開く。
「いいか手前ら、この人が宗三、俺っちの大事な客人だ!くれぐれも粗相のねぇようにな!」
パーティ会場や喫茶店で聞いていたのとは違う、腹からの声というものだろうか。よく通る、力の入った薬研のその言葉には、野太い数々の「はい!」という返事がこれまた大音量で返って来た。なるほど、世の中にはまだまだ知らない世界があるのだと、宗三は何だか感慨深かった。
それから、薬研の兄弟の一人である厚という男が経営している引越業者が宗三の荷物を運んで来た。さすがに荷造りは一人でしたし、荷解きも一人でやらせてくれと言ってある。大きな家具は揃っていると聞いていたので、人を駄目にすると話題の例のクッション以外、大物は運んでいない。その荷物の少なさに、薬研にも厚にも驚かれた。
宗三は細々とした物を持つ事をあまり好まない。
雇い主から渡された衣類や装飾品の類いは、パーティが終われば全て雇い主に送りつけている。いちいち受け取っていては置く場所がいくらあっても足りないし、それを理由に何かを求められるのも嫌だった。この仕事を始めた頃は、しつこく色々な物を押し付けてくる客も居たが、宗三は根気強く押し返し続けた。あまりにも酷い時には仕事を断ったりもした。返されるのが嫌ならば買い与えるなという態度を貫くのは疲れたが、一年ほどそれを続けていれば、無粋をしようとする客も殆ど居なくなった。継続は力なり、というやつだ。
誕生日やクリスマス、年末年始など、イベントにかこつけて何かを送ろうとする者達ももちろん居た。宗三がどれだけ個人情報を隠しても、ある程度の地位を持つ者にかかればそんなものは開示されているのとほぼ同じだ。学生の時から変わらず安アパートに住んでいると知られた時にはマンションを買われた事もあったし、出かけようと外に出たら新車が用意されていた事もある。そして宗三はそれがどれだけ面倒な手続きであっても全て白紙に戻してきた。その甲斐あって、様々な手続きについては少し詳しくなったと思う。法学部卒の長谷部にも、何度か相談をさせてもらったし、実家の寺を継いだ兄を頼った事もある。人生おしなべて運は良いのだ。それに関しては自信がある。
皆への挨拶の後、宗三に屋敷を案内してくれたのは信濃という青年だった。年齢は前田と同じくらいだろうか、自らを自宅警備員だと称し、わかりやすく屋敷の造りを教えてくれた。宗三は屋敷内での行動を制限されていない。見られて困る部屋には鍵がかけられているので、鍵の開いている部屋は自由に入って良いとの事だった。だからといって、好奇心のみであらゆる部屋を覗こうとは、宗三は思わない。同じように、自分の部屋もできるだけそっとしておいてほしかった。
広間、粟田口兄弟の部屋の並ぶ離れ、洗濯室、共用の浴室、庭、裏庭、車庫、ジムなど、一体どこの旅館かというような屋敷を歩き回り、信濃は最後に宗三を台所へと連れて行った。
「ここにはいつも誰かしら居るから、何かあったらここに来るといいですよ」
そう言いながら、二つある冷蔵庫の説明をした。一つは食事用に前田と、平野という者が管理している冷蔵庫。こちらには触ってはいけないらしい。もう一つはかなり大きなもので、誰もが使う冷蔵庫とのことだった。食べられたくない物には名前を書く決まりなので、名前の書いていない物は勝手に食べて良いと言われた。宗三に与えられた客間には小さな冷蔵庫も備え付けられているので、安全を優先するならそれを使えとも。なるほど、大きな家族が一つ屋根の下で暮らしている、その生活感に溢れた屋敷だった。宗三にも兄と弟があるが、三兄弟は揃って普段は穏やかで、食べ物の奪い合いやトイレの競い合いなども、緊急時を除いてした事が無い。なんだか今更、運動部の寮にでも入ったような気分になった。
ベッドに腰掛けてぼんやりとしていると、何者かがドアをノックした。鍵はかけていなかったのでどうぞと返事をすると、静かに扉が開かれる。
「今いいか」
静かな様子で、初めて会う青年が顔を除かせた。
「まだ何も片付いていないのでお茶も出せませんが…どうぞ」
「余計な気は回さなくていい。邪魔をする」
青年は骨喰と名乗った。もう一人、今は出かけているが鯰尾という者と二人で屋敷内で宗三の世話をする、と自己紹介をされた。どちらか片方はほぼ常に屋敷に居るので、何かあったら呼んでくれ、と携帯電話の番号を二つ渡された。ちょっとした外出の際の護衛を務めるのもその二人との事だった。おそらくはこれから一番世話になるのだろうと、宗三は丁寧に挨拶をした。取り急ぎ入り用の物は無いかと尋ねられたので、翌日買い物に行きたいと伝えると、短く是と返ってきた。夕食はどうするかと聞かれたので、周囲を散策がてら外へ出たいと告げると、これまたすんなりと頷かれる。どうやら本当に自由にしていいのだとわかり、宗三は少しだけほっとした。一人暮らしに慣れてしまっていると、大勢での食事は少し気を張ってしまう。骨喰は礼を言う宗三をじっと見つめると、出かける時に声をかけるように言って部屋を出て行った。
一息ついて視線を巡らせれば、窓からは美しい夕日が見える。
とても不思議な感じがした。
今更のように事の大きさを理解したのかもしれない。宗三はこれから、少なくとも三ヶ月はこの部屋を拠点とする。昨日まで寝起きしていたアパートでもいつも近所に人の気配はしていたが、このような大きな屋敷に大勢が共同生活している、というものではなかった。
そして何よりも。
今まで宗三の客であった者達は、地位や権力を持つ者達だった。当然のように少なくない部下や秘書を持ち、ビジネスパートナーやライバルが居た。けれど、宗三が広間で目にしたような、大勢の者から『心酔されている』者は居なかったように思う。薬研の存在の有無で彼らは人生が変わるのだろうと感じた。突然現れた宗三に対しても、薬研が一言「俺の客だ」と告げるだけで敬意を払ってくれる。きっとあの様子では、薬研に声をかけられれば喜び、褒められれば心底誇らしく感じるのだろう事は想像に難くない。お前の見てきたものは人間の上辺に過ぎないのだと言われているような気分に、勝手になってしまう。宗三はそれを理解しているし、そういうものだと割り切っている。そうでなければあの手この手で籠絡しようとしてくる者達を振り切る事はできない。
気分を変えようと立ち上がり、一つ伸びをすると、軽く空腹を感じた。食欲があるのは健康な証拠だ。宗三は渡されたばかりの電話番号を仕事用の端末に登録して、骨喰に連絡をした。それからこの辺りの地図を検索し、めぼしい飲食店を探す。程なくして骨喰が部屋を訪れた。返事がもらえるかどうか少し不安だったが、おすすめの店を尋ねながら、財布をポケットに突っ込んで部屋を出る。慣れない鍵でねぐらの安全を確保して廊下を歩き出すと、骨喰はようやく口を開いた。
「何が食べたいんだ?」
予想通りの返事といえばそうとも言える。宗三は少し考えてから、ラーメンが食べたいと伝えた。骨喰は少しだけきょとんとしたが、ラーメンならば五分ほど歩けば店があるからと教えてくれた。玄関に辿り着くと、そこで待っている者が居た。鯰尾と名乗った青年に宗三も挨拶をすると、きれいに並べられた宗三の靴を指差される。
「宗三さん、一足で良いんで、常にここに置いといてもらえます?何かあった時にすぐ外に履いて行ける物が無いと不便なんで。一応この辺に散らばってるサンダルとかは自由に使ってもらって大丈夫なんですけど、たまに水虫のやつ居るんで気をつけてくださいね。宗三さんの靴は誰も履くなって言ってあるんで大丈夫です」
「ええ、わかりました」
骨喰とは真逆に次から次へと言葉の出てくる鯰尾に返事をしながら、宗三は履き古したデッキシューズに足を突っ込む。仕事でもなければ、服装には最低限にしか気を遣わない。さすがにスウェットで出歩く若さはもう持ち合わせていないが、普段から革靴を履くような趣味でもなかった。
「で、どこ行きます?」
もそもそと靴を履き終えて引き戸に手をかけると、鯰尾が好奇心を隠さずに聞いてきた。
「ポチのところのラーメン屋だ」
いつの間にかきちんとスニーカーを履き終えた骨喰が宗三の代わりに答えると、鯰尾は素直に元気に驚いて見せた。
「ラーメン!宗三さんラーメン食べるんですか?」
その様子に、宗三は笑ってしまった。
「だめですか?五郎らーめんとかもたまに行きますけど」
大盛りで有名なチェーン店の名を出せば、鯰尾は更に大きな声を出した。元気な子だなあと思って眺めていると、骨喰から喧しい、とお叱りが入る。宗三はその様子を見て、とうとう声を上げて笑う。
「僕だって至って普通の庶民ですよ。ラーメンが食べたい時はラーメンを食べるし、コンビニの唐揚げを食べたい時はコンビニで唐揚げを買います。ここにいる間も、仕事以外は好きにして良いんでしょう?今日はラーメンを食べます」
そう宣って玄関の戸をガラリと開ければ、外はだいぶ暗くなっていた。骨喰に道案内を頼んで歩き出す。ポチというのはラーメン屋の隣の家が飼っている犬を骨喰が勝手に呼んでいる名前で、本当の名前はわからないらしい。鯰尾の話も、時々差し込まれる骨喰のコメントも、宗三を全く退屈させなかった。賑やかにしながら、けれど二人は宗三の一歩前と一歩後ろを付かず離れず歩いている。無邪気な様子をしているが、二人はやはり宗三の護衛をしているのだな、と知れた。どれだけ親しくされようと、彼らは宗三の友人ではない。わかっていた事だ。そしてその方が、宗三にとっては気が楽だった。
粟田口の屋敷での生活は、意外にも穏やかだった。引っ越しの翌日に買い物に出かけた宗三は、洗濯物を干す組み立て式の物干竿と、掃除用具、それから小さなテレビを買った。引っ越す前に使っていたテレビは、長谷部に譲った。持って来ても良かったが、それなりに大きな物だったので、荷造りや荷解きが面倒だった。その点長谷部に譲れば、引き取りに来いと言うだけでよかった。長谷部は長谷部でちょうどテレビが壊れかけていたらしく、満足げに礼を言ってテレビを持って行った。骨喰と鯰尾はまた二人揃ってついてきて、買い物は賑やかだった。二人は部屋にテレビの線が引かれているかや、窓の大きさ、壁の広さ、カーテンレールの種類など、宗三の部屋の造りを熟知していたので、宗三は思いつきでテレビを買う事もできたし、気に入ったカーテンも見つけたのでそれも買って帰った。
荷解きと部屋のアレンジは二日程で完了した。テレビも問題無く映るし、浴室や洗面所も使いやすく、水漏れ等も無い。近くにスーパーを見つけたし、台所を借りる事も、数日もすれば慣れた。宗三は用事のない時にはテレビやインターネットであらゆるニュースを読みあさり、気になる本も片っ端から電子書籍を購入して読んだ。宗三はこう見えて、知識や情報を得るのが好きだ。インターネットや図書館、その他あらゆる手段で何でもかんでも情報を集めては、自分の中できちんと分類して理解し、見えない部分にも当たりをつけていく。今となっては半分仕事のような物だが、好奇心に任せて好きに読書や情報収集ができる生活は宗三にとってとても満足だった。かといってずっと家の中に居るかというとそうでもなく、気まぐれに出かけてはコーヒーショップに居座ったり、電車に延々と乗ってみたりする。商店街、繁華街、デパート、ブティック、市場、公園。宗三はふらふらとどこへでも出かけたし、骨喰と鯰尾は、必ずどちらかが付き添った。宗三の引っ越しに合わせるかのように忙しくなった長谷部とは、お互いに状況が落ち着いたら飲みに行く事になっている。そこにもきっと、どちらかが付いてくるのかもしれない。もし二人が未成年だった場合は、薬研にそれとなく相談しなければなと思った。
粟田口へ越して来て十日目、薬研から、暇なら遊びに来いとメールが来た。鯰尾に案内されるままに薬研の部屋へ足を運び、宗三は初めて薬研の部屋へ入った。おそらく寝室は別にあるのであろうそこは、プライベートな応接室という様子だった。少しカジュアルなソファが二つとテレビ、大きなサボテン、それから大小様々な鉢植えが気まぐれに並んでいる。薬研はパーカーとジーパンという格好で、ソファの上にあぐらをかいて何やら読み物をしていた。宗三も呼ばれてそのまま来てしまったので、似たような服装だ。薬研は宗三を招き入れると、鯰尾を下がらせた。入れ替わるように、前田がコーヒーを運んでくる。宗三の前に置かれたカップには既にミルクが入っていたので、きっと砂糖も入っている。前田に渡されるカップの中身は、いつだって美味しい。
「どうだい?居心地は」
「寮みたいで新鮮です。夜は静かだし眺めも良いし、皆さんよくしてくださいますよ」
「買い物に行ったって聞いたが、カードは使わなかったんだな」
「そりゃあ、必要経費と私物の区別くらいつけますよ」
「はは、そうかい」
渡されているカードを使わなかった事に関して、薬研は驚いた様子も、不満に思っている様子も全く無かった。そのことに、宗三は少しほっとする。仕事として要人のアクセサリーとなる事と、人生を囲われる事は違う。宗三はこんな仕事をしているくせに、自由を制限されるのが心底嫌いだった。
「そういや、ポチのところのラーメン食いに行ったんだってな。美味かっただろ」
「ええ、ネギとニンニクが山盛りですごく美味しかったです」
「次は俺っちも一緒に行きてえな」
「ご随意に。僕は貴方から仕事が来なければいつだって暇ですから」
もしかしたらこの屋敷内で、あのラーメン屋の店名を覚えているのは宗三だけなのかもしれない。骨喰も鯰尾も、屋敷内でちらほらと言葉を交わした誰もかれも、そして果ては薬研まで。あの店の事は『ポチのところの』ラーメン屋であるらしい。なんだかそれがかわいらしく思えて、宗三は笑みを深くした。薬研はそんな宗三をいつぞやのように柔らかい目で見つめていたが、ふと、瞬きをして話題を変える。
「来週、一つ会食の予定がある」
「ええ、わかりました」
皆まで言われるまでもない。会食やパーティへの同席が、宗三の仕事だ。当然のように頷くと、薬研は興味ありげに首を傾げてみせる。
「あんた、着物は着られるかい?」
「着物ですか。着られはしますが…持ってません」
ああ、これは着物を仕立てられる流れだな、と思いつつ、持っていないものは仕方が無いので宗三は正直にそう答えた。実家は寺であるし、後学のためにと茶道華道を嗜んだ事もある。きちんと着物を着た場合お手洗いに行くのもコツが要るので、経験しておいてよかったと、宗三はこっそりと安堵の溜息を漏らす。
「というわけで、流れ的に察してるとは思うが、着物を作りに行こうぜ。これから時間あるか?」
「もちろん」
誘われれば、宗三は何の葛藤も無くすとんと頷く。予定は本当に何も無い。あったとしても、雇い主である薬研の最初の誘いなので、おそらくはこちらを優先させただろう。薬研は宗三が頷くや否や立ち上がると、宗三を伴って部屋を出た。そのまま共用リビングまで行くと、そこに居た骨喰に車を出してくれと声をかける。出かけるらしいと察した者が、慌ただしく誰かを呼びに行った。自分に護衛が付くのと同じように、薬研も決して一人では外を歩けないのだ。
しばらくすると、鳴狐という青年がやってきた。どうやら薬研のボディガードらしい。ひどく無口で、肩に狐のぬいぐるみを乗せている、独特な雰囲気の青年だった。鳴狐に続くように華やかな美女がやってきたと思ったら、乱と名乗る薬研の弟だった。前田のいた店のケーキを褒めたのが彼だろう。薬研に見立てを任せるととんでもない着物になるだろうから、と同行してくれるようだった。それを聞き、宗三は初めて薬研と言葉を交わした夜を思い出す。あか抜けたスーツと洒落た薄紫のシャツに身を包み、ペイズリー柄のネクタイで首元を引き締めていた。あれが彼の趣味だと言うのなら、確かに少し不安だった。宗三は基本的に雇い主が着ろと言うものを着るが、ごく稀に、もの申したい場面にも遭遇する。そういった場合にはさりげなくコメントをするのだが、大抵の場合は流されてしまうのだった。
スーツで現れた鳴狐は、しばらく姿を消したかと思うと、パーカーにコットンパンツという服装に着替えて戻って来た。薬研の服装に合わせたのだろう。この場の誰も何も言わないので、鳴狐の肩に狐のぬいぐるみがずっと乗っているのも、乱が女物の服を着ているのも、当たり前の事なのだろう。財布は持たなくていいと言われたが、玄関には例のデッキシューズしか無いので、宗三も一度部屋に戻って、無難なスニーカーを見繕う。申し訳程度に髪を整え、肩掛けの小さな鞄に財布と携帯電話を突っ込むと、部屋に鍵をかけて玄関に向かった。
宗三が玄関に到着すると、廊下にずらりと人が並んでいた。少し驚いて立ち止まると、廊下の先、玄関で靴を履いた薬研が笑っている。手招きされるままに何となく腰を低くして廊下を進み、靴を履く。カラリと鳴狐が戸を開けると、薬研は一度振り返った。
「出かけてくる!留守を頼んだぜ!」
「いってらっしゃいやせ!」
薬研が何かを言えば、必ず威勢のいい返事が返ってくる。宗三にはまだ慣れない日常だったが、何だかすこし気持ちがよかった。そう感じるという事は、宗三は自分で思っている以上に体育会系なのかもしれない。そんな発見も、薬研に雇われなければする事は無かっただろう。
骨喰の運転は安全そのものだった。急ブレーキも急発進もなく、助手席に座る鳴狐も口を開かない。車そのものも、いかにもな黒塗りの外国産を想像していたが、最近流行のハイブリッド車で色はスカイブルーだった。ただ、ガラスにはスモークが張られ、簡単には中が見えないようになっている。乱によれば、日焼けも防止できるUVカットのものであるらしい。車内で宗三は乱の質問攻めに会い、笑い話を交えながらあれやこれやと話しているうちに、目的地に到着した。
奥まった場所にあるその呉服屋は、知る人しか知らないといった風情で、さすがの宗三も初めて訪れる場所だった。骨喰がドアを開け、薬研が気安い様子で中へ入る。乱に促されて、その後に宗三も続いた。
「あら親分さん、いらっしゃい」
奥から出て来たのは歳を重ねた女性だった。愛嬌を隠さずに薬研を迎え入れると、後に続いた宗三を見てあらあらと笑う。
「随分な綺麗どころを連れて来たじゃないの」
「だろう?この人のを仕立てて欲しくてな」
「はいはい、任せてくださいな。それじゃお兄さん、ちょっと来て頂戴」
薬研とそんな会話を交わすと、女性は宗三を採寸室へと手招いた。オーダーメイドのスーツは何度も作った事があるので、採寸も慣れているつもりだったが、スーツの時よりも簡単に終わった。それが着物のせいなのか、ここの仕立て屋の腕なのかは、宗三にはわからない。
採寸室から出ると、薬研や乱は既に反物を広げていた。薄紅から深紅、桃色から紫まで、そのあたりの色が中心になっていた。生地を見ながら唸っているのはもっぱら乱で、薬研はそれをただ眺めている。宗三がその輪へ加わると、乱が早速、宗三の肩に反物をいくつかかけはじめた。
「うーん、やっぱり派手な色より、落ち着いた色の方が似合うよね」
「宗三にゃ何だって似合うだろうさ」
「はいはい、ちょっと黙っててね」
されるがままの宗三の前で、二人はそんな会話を先ほどから繰り返している。最終的には、宗三は何が出て来ようとも、着ろと言われた物を身につける。薬研が望めば、ペイズリー柄の着物だって着こなして見せる意地はあるが、乱の好みは宗三のそれとどうやら似ていて、宗三は心底ほっとした。どうせ良い物を作ってもらえるのであれば、自分の好みに合った物の方が気分がいい。とっかえひっかえ反物を引っ張り出しては唸っている乱に全てを任せていると、ふと、薬研と目が合った。途端にとろりとその薄紫がゆるむのを見て、宗三は何だかむずがゆい気持ちになる。今までの客は歳の離れた者が多かったので、孫を見るような目で見られても特には何も感じなかったが、それが歳が近いというだけで、何かがひっかかるような気がした。
結局それから小一時間ほどかけて乱が選んだ反物は、紅が強めの紫色のものだった。羽織は藍色に近い深い紫になった。ついでにと薬研が扇子も見繕って来たが、黒地に金で「天晴」と達筆に書かれたそれは乱にあっけなく却下され、薄い桃色に桜の散った柄の扇子が選ばれた。そのやりとりを見て、乱が居なかったらいったいどんな着物になっていたのかと、宗三は少し肝が冷える。にこにこと一行を見守っていた女性に着物が仕上がったら屋敷へ届けてくれと頼み、その日はそれで帰路についた。
出来上がった着物は宗三によく似合った。長めの髪を一つにくくり、呉服屋の女性が「ご縁の記念に」と贈ってくれた飾り紐を結い付けた。着物が届いたその日に買い求めた足袋と草履をはいて、着物に薫き込めたのと同じ匂い袋を袖に入れる。懐紙代わりのハンカチを懐に入れ、あとは手ぶらで部屋を出た。玄関で待っていた薬研は深い藍色の着物と袴を着ていて、紋さえ入っていなかったが同じ色の羽織を羽織っていた。宗三を見るなり目を輝かせて
「すげえな、あんた!」
と、よくわからないが感動した事は充分に伝わる賛辞を贈ってくれた。どうも、と軽く礼を言って同伴者を見れば、いつもの骨喰と鯰尾は見当たらない。その代わりにとでもいうように、鳴狐と一期、それから厚が黒いスーツに身を包んでいた。当然のように廊下には何人もの男達が並んで立っていて、物々しさに宗三が片眉を上げると、薬研が笑った。
「まぁそう心配しなさんな。もしあんたが相手を怒らせちまっても心配いらねえからな。あんたはあんたでいつも通り好き勝手してくれりゃいい」
「そうですか、言われなくても好き勝手にはしますけど…」
言いながら草履を履くと、鳴狐が引き戸に手をかける。ああこれはまた薬研が声をかけるのだろうなと察した宗三が隅へ身を寄せると、薬研がそれに気づいて宗三の肩をぽんと叩いた。
「いってくる!」
「いってらっしゃいやせ!」
着物を買いに出かけた時よりも何となく気合いが入っているように感じる。今日はどこへ行くのだろうかと、今更になって気になってきた。思い返せば、今までは安全のために、どのようなパーティに行くのかは必ず事前に情報を得て、それが実在するパーティである裏付けをとっていたし、大抵の場合は現地または雇い主の宿泊施設が集合場所だった。そんな宗三の揺らぎを知ってか知らずか、薬研は迷いなく屋敷を出て行く。慌ててそれを追いかけると、敷地前に止まっていたのは黒塗りの高級車だった。
「ほんとにこういうのに乗るんですね」
宗三がしみじみと言うと、薬研がまた笑う。
「ステレオタイプってのは便利でな、こういう格好してこういう車に乗ってりゃ、大抵の一般人は避けてくれるのさ」
使えるものは何でも使うさ、と言いながら、鳴狐がドアを開けた後部座席に滑り込む。宗三は反対側へと回り込んで、こちらは一期がドアを開けてくれた座席へ座った。静かに丁寧にドアが閉められ、大人しい様子で二人が運転席と助手席へ座ると、車は静かに動き出す。
「そういえば、貴方の事は何て呼べば良いんです?」
流れ始めた景色に目を滑らせながら、宗三はふと、これが薬研への初めての同伴だと気づき、いつも確認する事を薬研にも尋ねた。持ち歩くアクセサリーに自分を何と呼ばせるかは様々で、雇い主の性質や性癖が垣間見える。この質問をするのを、宗三は楽しんでいた。
「ん?普通に呼んでくれて構わないが…」
「じゃあ薬研さんでいいですか」
「ああ、何とでも。呼び捨てでも良いんだぜ?俺っちの舎弟ってわけでもねえし」
「じゃあこうしましょう、三ヶ月のお試し期間中は薬研さん、その後は薬研。その両方に会う方に、仲良くなった感を見せられますよ」
「はは、いいねいいねぇ」
薬研があまりにもあっさりしていたので、宗三はそう決めた。今まで、あだ名で呼んでくれと言われたり、ちゃん付けで呼んでくれと言われたり色々としてきたが、薬研が一番真っ当な答えを返してきたように思う。生業はこんなにも堅気でないのに。それが少しおかしくて、宗三は満足気に微笑んだ。
「ところでどなたと会うんです?」
「ああ、これから、三条っつう組の総代連中に挨拶に行く」
「三条…?聞いた事がありませんね」
「はは、いくらあんたと言えど聞いた事は無いと思うぜ。本当の大物ってのは、表には出てきやしねえのさ」
今まで渡り歩いたパーティや会合で、薬研や先代の粟田口組長を見かけた事もあるし、その名を他人から聞いた事は何度もある。他の組の名前や情報も、それなりに耳に入ってきていたが、三条という名を、宗三は一度も聞いた事がなかった。薬研によれば、どうやら相当古く大きな組織のようで、枝葉は大きく日本中に茂っているらしい。ただ、その根の奥深いところに属する者しか「三条」を名乗らないため、自分の属している大木が三条である事を知らぬ者の方が多い。そんな、漫画か小説かといったような団体の代表五名に、これから会いに行くという。
「へえ」
あまりの現実感のなさに、ついつい興味無さげな声が出てしまった。宗三は慌てて口元を押さえて薬研を窺い見る。薬研は宗三のそんな様子を見ていたようで、ぱちりと目が合ってしまった。
「ま、心配すんな。どっちかというと俺っちが謝んなきゃいけねえんだ」
「え?」
「今日は代替わりの挨拶に行くんだが、こないだうちのもんがちぃっとやらかしちまってな。詫びにあんたを見せろって言って来たんだ。そうすりゃチャラにしてくれるって話だ、すまねえな」
今度は薬研がばつの悪そうな顔をするので、宗三が笑った。
「なんだ、そんな事…良いんですよ、春を売れとか言わない限り、好きに連れ回してください」
「んな事ぁ絶対に言わねえよ、安心しな!」
薬研が言うと、まるで本当の事のように聞こえた。宗三は今までそうした約束を何度もして、そのうちの何度かは守ってもらえなかった。宗三はいつもそれを事前に察知し、その時点で契約破棄としてきた。幸いにも実際に何かが起こった事は無い。ただ、そういった事が無理矢理に起きてしまった際にどうするかという準備は事細かに整えてある。粟田口では特に、腕っ節では適わないであろう者達が山ほどいるのだ。最悪の場合、宗三からしばらく連絡が無かったらどうにかしてくれと、長谷部にも頼んである。
「あら、頼もしいですね」
何度も何度も繰り返したフレーズを、薬研にも使って、宗三は笑って見せた。
宗三と何かを約束し、そして一度でもそれを破った雇い主は、その後どれだけの報酬を積んでも宗三が再び仕事を受ける事はない。きっとそれは薬研も知っているはずだ。どうかそんな別れをしなくて済みますようにと、宗三はそっと思いながら、流れ続ける景色へと視線を戻した。
宗三が粟田口の屋敷へ引っ越してきてから、半年ほどが経った。お試し期間の終わった宗三は、何の不満も見せずに一年契約へ同意した。それに薬研がどれだけほっとしたのかを、宗三は知らない。
三条との会合は、さすが宗三と言うべきだろう、何事もなく無事に終わった。嬉しい誤算もあった。先方にえらく気に入られてしまい、粟田口へ折に触れて届け物がされるようになったのだ。宗三が贈り物を受け取らない主義であるのは先方も熟知しているようで、日持ちのしない生菓子ばかりが気まぐれに贈られてくる。さすがの宗三も、送り返した場合は悪くなった菓子が向こうに届く事を危惧して、素直に受け取る他無かった。生菓子についてくる脅迫文のような一筆箋も、おそらくその役割をきちんと果たしている。三条からは直接薬研に電話もかかってきて、変な物は八百万の神に誓って入れていないので宗三と茶を楽しめと言付けられた。そこまでされて反抗するほど、薬研も宗三も子供でも考え無しでも阿呆でもなかったので、三条から菓子が届くたびに、平野がお茶を点てては、わざわざ和室で着物を着て、ささやかな茶会を楽しんでいた。最初こそ少しおそろしい気がしていた薬研は、けれど本当に何の裏も無いのだと気づいてからは、宗三との時間を作り出してくれている三条に感謝している。しかしながら、三条が何をどこまで気づいて、あるいは知っているのか、薬研は内心穏やかではない。
三条との会合を終えてからは、パーティの招待状が届くたびに、都合がつけば薬研は宗三を伴って出かけた。気まぐれに着物を着せてみたり、スーツを拵えてみたりと、宗三を飾る事に関しては薬研よりも乱のほうが楽しんでいるようだったが、宗三もそれを嫌がってはいないようだったので好きにさせた。華やかな場所へ連れ出せば、宗三はここぞとばかりに大きく咲いた。誰に振られるどんな話題であろうと、そつなく盛り上げた。薬研が宗三と長期で契約を交わしている事に関してよく思わない者が現れれば、相手も薬研も立ててさりげなく場を濁した。一度、手を上げられてしまった時には、薬研をとっさに庇って宗三の頬が赤く腫れた。宗三はわざと飲み物を薬研のスーツにこぼしながらよろめき、頬を押さえてむっとして見せ、そしてすぐに薬研のスーツが塗れた事に気づいた素振りをみせ、そのまま薬研を連れてレストルームへと下がった。
「ああいう場では、手を上げた者がその場に残されるのが一番気まずいんですよ」
宗三はさらりとそんな事を言いながら薬研のスーツをぬぐい、クリーニング代は経費で出ますか?などと尋ねて来た。宗三が平手で打たれた事で完全に頭に血が上っていた薬研だったが、宗三のそんな様子に毒気を抜かれて、会場に戻る頃にはすっかりもとの冷静さを取り戻していた。きっとそれも宗三の仕事のうちだったのだろうと気づいたのは、その夜屋敷に戻って宗三と別れ、湯船につかって一息ついた時だった。宗三というのは、まったくもって恐ろしい男だ。
そんな事があっても、宗三は宗三のまま、何も変わらなかった。薬研はそれをとても好ましく思ったし、宗三の人となりを更に尊敬するようにもなった。
ただ、少し困った事もあった。
最初の一月が終わろうとした頃、宗三から一期に家賃について相談があった。何の不自由もなく住まわせてもらっているのだから、せめて家賃はきちんと支払いたいという申し出があったのだ。舎弟に部屋を与えるのと同じ感覚で何も考えていなかった薬研は、深く考えずに「なら宗三が好きな額を振り込んでくれ」と、宗三用に口座を作って一期経由で口座番号を渡した。その情報を渡した時に宗三が嬉しそうだったので、一期と薬研はほんの少しだけ怪しんだが、危惧は予想外の形で裏切られた。宗三は薬研が思っていたよりも随分と大きな額を、薬研の口座へ振り込んできたのだ。慌てて薬研が問いただすと、宗三は涼しい顔で言った。
「僕の仕事は薬研への同伴ですよ。何もしていない分のお代をいただくわけにはいきません」
働かざるもの、食うべからずです。
なるほど、寺が実家だというだけあって、今時珍しくそういった教育が行き届いているようだった。情報の口止め料だと多目に受け取らせようとしても、今までの客の情報もその額内で守られているからと、宗三は決して受け取らなかった。宗三の仕事の一回あたりの金額は大体知っていたので、月々支払っている額からそのぶんが差し引かれている事は、毎月きちんと確認するようにしている。宗三は月に一度仕事があれば、贅を求めなければ充分に生活ができる。そしてパーティというものは、案外頻繁に催されているのだ。故に宗三は今まで、欲しいと思った本は惜しみなく手に入れ、水光熱費を気にする事なくテレビやパソコンやエアコンを使い、気になる展覧会や美術館を見つけては足を運んで来た。薬研はそんな宗三の暮らしを知っていたので、パーティに行かなくてもそれができるようにしてやりたかった。それが長期契約を持ちかけた理由の一つでもある。しかしそれが叶わないと知った今、薬研にできるのは、これまで通りの頻度で宗三に仕事を与える事だけだった。つまり、薬研の外出への同伴である。
正直に言おう。薬研はパーティの類いがあまり好きではない。
粟田口組長の代替わりが決まってから、薬研ば挨拶や勉強を兼ねて様々な場所へ連れて行かれた。断る事も逃げる事もできないその状況も相まって、もともと苦手であったパーティをはっきりと嫌悪するようになってしまった。組の奴らはいい。素直で単純で、多少血の気は多いがこちらも迫力を見せればすぐに大人しくなる。世話をしてやれば懐くし、つれなくすれば寂しがる。かわいい男どもだ。たくさんいる兄弟には弁護士から女装バーのママまで居るが、性根の真っすぐな者が揃っている。身内贔屓だと言われるかもしれないが、このご時世、下手な一般人よりもやくざ者のほうが、よほど根が正直なのかもしれないとさえ思っていた。そんな薬研がパーティで目にするのは、ただただきらびやかな空気だった。実力者同士がビジネスの話をする大切な場所でもある事は深く深く理解している。この場での話し合いだけで片付く案件が少なくないことも知っていた。しかしなぜこんなにもチカチカした場所で腹の探り合いをしなければならいのかと、終わった後にいつも痛くなるこめかみを押さえていた。
そんなある日、いつものように先代に連れられて赴いた先で、薬研は宗三を見かけた。ピンク色の髪をやんわりと結って、細長い手足を見せつけるようなシルエットのスーツを身に着け、儚げな笑顔で首を傾げながら、隣の男に何やらを話しかけていた。男が胸元から何かのケースを出して宗三に渡すと、宗三はそれを持ってふわふわと会場内を歩いて行く。薬研は無意識にそれを追った。取引の類いであれば、このあたりは粟田口の縄張りだ、放ってはおけない。そんな言い訳を自分にしていただろうが、単に宗三をもう少し眺めていたかったのだ。宗三は少し離れた別の男性に近づくと、こんにちは、と柔らかく声をかけた。先ほど渡されたケースは名刺入れだったようで、そこから名刺を一枚取り出すと、丁寧に渡す。耳を澄ませば、二人の会話が聞こえて来た。
—今日はこの方の同伴で来てるんです。前に探してましたよね?ほら、どこぞの流通を持ってる…
—おお、宗三。相変わらず仕事熱心だなぁ。お前がここへ来たという事は、先方も乗り気なんだろう?是非紹介してくれ
—ふふ、乗り気かどうかは保証できませんけど、紹介ならしてあげます
—うまく行ったら礼をしよう
—いりませんよ、今日の僕の雇い主は貴方じゃありませんから。貴方の意向はどうでもいいです
—ははは、まったくこいつは…
笑いながら、二人は宗三に名刺入れを渡した男の方へと歩いて行った。宗三。その時に薬研にわかったのはその名前と、どうやら誰かに同伴してこのパーティに来たらしいこと、それから要人同士の仲介のような事をしているらしい事だった。もう少し後をつけようとして、薬研は先代に捕まった。結局その日はそれ以上宗三に近づく事はできなかった。
その日の帰り道、薬研は先代に宗三の事を話してみた。先代は当然のように宗三の事を知っていた。いつも着飾って誰かしらの隣に立ち、望まれるままに知り合いの紹介をしたり、何もせずにただ立っていたり、雇い主の客の機嫌をとったりというような事をしているらしい。薬研の興味はますます膨らんだ。好奇心は猫を殺すかもしれないが、薬研を生かす。薬研は宗三について調べた。爛れた生活をしているのかと思えば、贈り物は絶対に受け取らない、自らねだったものであっても買い与えられた物は全て必ず返却する、壁の薄い安アパートに住んでいて、免許はあるが車は持っていない、好きな食べ物は某ファストフード店のフライドポテト、というよくわからない素性だった。ますます気になって更に調べてみると、実家はなんと寺であった。大きくも小さくもない、ごくごく普通の寺だった。
薬研はその行動力を発揮して、一度、その寺を訪れた事がある。それはまだ宗三を遠くから見ているばかりの頃だった。自分でもどうかしていると思いながら、気づけばその寺に到着していた。
そこには物静かな歳若い住職と、受験生くらいだろうか、もう少年ではないが青年にはなりきれていない、いわゆる思春期真っ盛りであろう年頃の男児が居た。挨拶をすると墓参りかと尋ねられ、違うが少し話がしたいと言えば本堂横の居間のような所に通された。鳴狐を外に待たせ、薬研はそこで江雪という宗三の兄と、小夜という宗三の弟と話をした。宗三は適度に実家に戻っているようで、二人とも、宗三の仕事の事も生活ぶりもよく知っていた。仲の良い兄弟のようだ。ご両親はと尋ねると、数年前に交通事故で亡くなったと返って来た。江雪の住職としての初めての仕事は、両親の弔いだったらしい。薬研はそれに関しては上手い言葉が見つからず、素直にそう言って同情を示した。長居をする気も無かったので、最後に薬研が素性を名乗ると、江雪は何を察したのか小夜に席を外させた。
「なるほど…、合点が、いきました…」
江雪はぎちりと数珠を鳴らし、静かな、けれど強い視線で薬研を刺した。
「宗三を…囲うおつもりなのですね…」
「え、いいのかい?」
何の回り道も無く尋ねられ、薬研は少し驚いた。まだ声もかけてはいないが、江雪に心のうちを見られた気がした。
「宗三がそれでよしとするのであれば…私からは、何も…」
宗三も既に立派な社会人であるし、少し話したところでは、薬研の事は悪人には見えない、と江雪は静かに言った。
「ただ…宗三に害を成すような事があれば…貴方が敵に回すのは人だけではないかもしれません…」
江雪は先ほどから、強い否定もしなければ強い賛同もしない。ただ真っすぐに薬研を見て、その言葉を聞き、語っている。その言葉の意味を薬研が尋ねる前に、江雪は先を続けた。
「あの子は…七つの時に一度、神隠しにあっていますから…」
かみかくし。
その五文字を、薬研は口の中で繰り返した。都会から離れた地域では、二十一世紀になってもたまにあるという噂だけは聞いた事がある。集落の中での犯人探しを曖昧にするために使う方便であると、薬研は心のどこかで思っていた。けれど江雪の話によれば、夏祭りの夜、一家で出かけた近所の神社で、母親と手を繋いでいたはずの宗三が、ふと両親の注意が逸れたその一瞬で消えてしまったのだという。江雪は奇しくもその様子をしっかりと見ていた。両親が視線をどこかへやった途端、宗三が誰かに呼ばれたように振り返り、つないでいた母親の手が少し緩むと、宗三の手はそのままするりと離れてしまった。声をかける隙もなく、宗三はそのままざわめきの中へ消えてしまったのだという。江雪はその時、十で、小夜はまだ赤ん坊だった。宗三が居なくなった事に気づくと、母親は取り乱した。父親もそれをなだめながら、皆で必死に宗三を探した。両親に何を聞かれても江雪は、ただ、消えてしまったとしか答える事ができなかった。それからちょうど一週間後、夏祭りのあった神社で、宗三は見つかった。あの夜に着ていた浴衣を汚すでも無くそのまま着て、露店で買ってもらったヨーヨー風船を手に提げていた。神主に見つけられた宗三はすぐに保護されて、無事に家に帰って来たのだという。怪我もなく、健康状態も良好で、何があったのか本人に聞いてもにこにこと笑うだけだったそうだ。何事もなく宗三が戻って来たので、父親も江雪もほっとした。ただ、母親はそれから少し変わってしまった。一度無くしたと思ったからだろうか、宗三をとにかくどこへも行かせなかった。学校行事での遠出はことごとく欠席させ、家族での旅行もしなかった。宗三が中学生、高校生になっても厳しい門限を設け、宗三が少しでもそれを破ろうものなら心を乱して泣いた。当然のように、宗三は学校で孤立してしまった。極力当たり障り無く学校で過ごし、帰宅後は家の中で大人しくしている。母親はそんな宗三に気づきながらも、再び宗三を失う事を恐れた。幸いだったのは、宗三が携帯電話やパソコンを与えられていた事だろう。幼稚園からのつきあいである長谷部はその頃両親の都合で遠方で暮らしていたが、宗三は文明の利器を通して連絡を取り合う事ができた。けれどそんな宗三も、大学入学をきっかけに両親を説得し、実家を離れて都会へ出たのだという。そしてそのしばらく後に両親を亡くし、そしてパーティ会場へと連れられ、後は薬研の知る通りだ。きっと彼が「自分の好きなようにする」事にこだわっているのは、そういった生い立ちがあるからなのだろう。
「私には、霊感のようなものはありませんが…それでもあの子が、何かに愛されているのはわかります…。そうして貴方と出会ったのも、何かのご縁なのでしょう…」
江雪はそう言うと、話は終わりとばかりに、微かに、本当に微かに笑った。
感慨深い。
薬研は宗三を見かけてから今までの事をつらつらと思い出していた。宗三の事は法に触れない範囲で調べたし、パーティ会場で見かければ目で追った。宗三のアパートの周りをうろついてみたり、長谷部とやらと飲みに行った先に紛れ込んでみた事もある。とうとう乱に「ストーカーみたいで怖い」と言われ、そんなつもりの無かった薬研はえらく衝撃を受けた。他の兄弟に聞いてみても概ね同じような答えが返って来たので、薬研は腹をくくって、宗三を雇う事にしたのだ。そして組長交代の挨拶の席で、薬研は組の者へ声高に宣言した。
「俺っちはこれから、惚れた奴を何とかして手に入れるつもりだ。かなりの金を使う事になるだろうが、俺っちが今まで稼いだのを使うからそこは心配しないでくれ。まぁ、どっかから色ボケと揶揄される事もあるだろうな。だけど信じてくれ、こりゃぁ未来への投資だ。いいか、俺っちの惚れた相手はすげえ奴なんだ。近いうちにこの屋敷に連れてくるから、どうか俺っちに恥をかかせるような事だけはしてくれるな。いいか、特に相手は男だ。間違っても『姐さん』なんて呼ぶんじゃねえぞ!」
今まで坊ちゃんだの若だのと慕っていた次期組長に真摯にそう言われ頭を下げられては、仁義を通さない者は無い。宣言通りに薬研が宗三をこの屋敷に住まわせ始めてからも、誰もが宗三を特別な客人としてもてなしたし、宗三の人となりを知ってからは兄さん、と呼んで慕った。晴れてストーカー予備軍から卒業した薬研だったが、いざ宗三を屋敷に住まわせると、そわそわとしてしまい、なかなか宗三に会いに行けなかった。乱にも、後藤にも散々笑われた。屋敷のセキュリティを任せている信濃に宗三の案内をさせたが、それが終わるとにやにやとした笑みを向けられた。
第三者はどうとでも思っていればいい。薬研は今、負けられない戦いをしているのだ。恋という難しい戦いを。
なぜそんな事をもう二時間も考えているのかといえば、昨夜、長谷部と飲みに出かけた宗三の護衛をしていた骨喰からの報告があったからだ。
「薬研と飲みに行ってみたいと言っていた。だが友達ではないから誘えない、とも」
半年ほど同じ家に住み、何度も共に出かければ、いくら何でも赤の他人のままではいられない。それは薬研の計算のうちだったが、こういう流れになる事は少し予想外だった。薬研は宗三に自由にしていて欲しかったから、極力、雇い主として顔も出さず、宗三の日常に口も出してこなかった。けれども今こうして思い知っている。パーティ会場でもその外であっても、宗三は気ままに振る舞っているように見せて、その実周囲の者を細かく観察し、機嫌をうかがい、「特別な野良猫を侍らせている」という優越感を他人に抱かせている。それこそ本当の意味でわがままに振る舞っているのは、幼なじみである長谷部に対してだけだろう。長い時間をかけて作り上げられた関係は、恐ろし程に強い。薬研は嫉妬こそすれ、宗三にそういう友人が居る事に少しほっとしていたし、長谷部とは今後も仲良くやっていてほしいと思っている。
ただ、自分を前にしても、同じように気安くしていてほしかった。そのためには雇用関係を間に置いてはいけないという事はわかっていたし、いつまでもこの長期契約を続ける事もできないのだろうとは思っていた。宗三から、飲みに行ってみたいと思われている。これ以上の好機があるだろうか。薬研は勝機を見つけるのが上手い。若くして組長となったのも、薬研に全てを任せて引退できる、と先代が安心できたからだ。そんな薬研でも、緊張する時はするのだ。薬研自身でも、新鮮な発見だった。しかし薬研は知っている。気を揉んでいても何も解決などしない。行動あるのみ。自分は粟田口組長、薬研なのだ。
「よし!」
腹を決めてしまえば、薬研の行動はいつも早い。のしのしと廊下を歩いて、宗三の部屋を訪れた。外出していない事はわかっている。ノックをすれば、すぐに中からはあいと返ってきた。
「おや、どうしました?」
宗三はドアを開けた先に薬研を見つけると、少し驚いた様子だった。それはそうだ。仕事の話をする時は、薬研はいつも宗三を部屋に呼びつけていた。
「よお、今晩ヒマかい?仕事じゃぁねえが、飲みにいかねえかと思ってな」
「…骨喰に聞いたんですね?」
はははと笑いながら何とか薬研が平静を装って言うと、宗三は肩をすくめた。咎められているわけでもないのに、薬研は焦る。
「まあ、そうなんだが…正直俺っちも飯に誘ってみたかったんだ。けど誘っていいもんかどうかわかんなくってなぁ…だめか?」
こんな風に自分の言い分に自信が持てないのは、いつぞやに隠していた赤点のテスト用紙を一期に発見された時以来だ。宗三はそんな薬研の様子を見て、上機嫌に笑った。
「良いに決まってるでしょう?もう夕方ですし、出ましょうか」
「えっ」
「だめですか?」
「だめじゃない!荷物をとってくるから玄関で待っててくれ」
宗三は首を傾げるのが上手いと思う。宗三の動きに合わせてふわふわと動く長い前髪が、首を傾げる方向によって顔を隠したり晒したりする。この世の誰もがそれを計算だとわかっていながら、薬研のようにこうして振り回されるのだ。
先ほどまでの葛藤はどこへやら、薬研は慌てて部屋に戻り、財布と携帯電話だけズボンのポケットに突っ込む。どこからともなく現れた鳴狐が玄関まで付いて来た。玄関に辿り着くと、宗三は既に靴を履いて待っていた。薬研がスニーカーの紐を結ぶのを見下ろしながら、にこにことしている。
「どこに行くんですか?」
「お前さん、この辺で気に入りの店は見つけたかい?」
「ふふ、ええ、そこに行きましょうか」
靴を履いて立ち上がりながら、薬研はいつもの癖で廊下を振り向く。そこには鳴狐の他には誰も居なかった。なんと気安い外出だろう。護衛無しというわけには行かないが、何となく軽く感じる足で、薬研は屋敷を出た。
目的地まで何も言わずに付いて来てくださいと宗三が言うので、薬研はそれに従った。宗三が最近見てみて損をしたという映画の話を聞きながらぶらぶらと歩き、薬研は途中で、彼らがどこに向かっているか何となく気づいた。きっと薬研が気づいた事に宗三も気づいただろう。恐ろしく他人の機微に聡い男だ。けれど二人とも何も言わず、もちろん鳴狐も何も言わずに、彼らはそのまま歩き続けた。数分も歩けば、犬の鳴き声が聞こえる。辿り着いた先は「ポチのところの」ラーメン屋だった。
「いつか一緒に来ようって約束しましたもんね」
そう言って微笑まれてしまえば、薬研には何も言えない。大人しく暖簾をくぐった。
宗三は大盛りのラーメンを食べた。小洒落た料理を上品に食べる姿しか見た事の無かった薬研は、宗三の食べっぷりに驚きつつも、少しもつゆをはねさせたりもやしを落としたりしない宗三に感心してしまった。ラーメンと餃子、それから炒飯を分け合って食べて、三人は店を出た。満腹である。宗三はその細い身体のどこに収めたのかと思うほどに山盛りの料理を食べていた。鳴狐は隠しもせずに目を丸くしていたが、薬研は誰かがたくさん物を食べる様子を見るのが好きだ。この人は生きているのだな、と安心する。
ラーメン屋を出た二人は、再び宗三の案内で歩き始めた。さすがにラーメン屋に長居はできない。今度はどこへ行くのか、少し予想ができなかった。腹ごなしにと数分歩くと、宗三は薬研の知らない道へ入った。この辺りは粟田口の屋敷も近いので薬研にとっての危険な裏通りなどは無いし、宗三にも骨喰か鯰尾がついているので問題は無い。が、今までもこうして平気で裏路地を通っていたのだろうかと少し心配になる。鳴狐も居るし、薬研にも喧嘩の心得はある。万一があっても屋敷から人を呼べば良いので、薬研はとりあえず何も言わずに宗三についていった。
裏路地を通って一度建物に入り、コンビニを通り抜けた先にある階段を上がる。すると、小さなバーが現れた。隠れ家的なんとかというやつだろうか。表札のような小さな看板が出ているのみで、宗三がどうやってこの場所を見つけたのか、想像もつかない。
「ここです」
宗三はそう言いながら、民家と言われればそうとしか見えないドアを開けた。カラン、とドアベルが鳴るのをくぐって、宗三は進んで行く。薬研と鳴狐を後ろに伴って店員に声をかけると、そのまま奥の個室へ通された。外観からは想像もつかないほど、店内は広い。鳴狐は個室の中をぐるりと見回した後、外に居るからと薬研に言い残して部屋を出た。
「何飲みます?」
タブレット端末を操作しながら、宗三が尋ねる。メニューを見ながら、薬研は適当にビールを選んだ。宗三は何を飲むのかと見ていれば、何やらカクテルを注文したようだ。そうだった、宗三は甘い物が好きなのだ。そう思い出してしまえば、三条からの和菓子に途端に悔しさを感じる。程なくして、ドリンクが運ばれて来た。小さく乾杯をして、口を付ける。口の上についたビールの泡をぺろりと舐めとると、宗三がそれを見て笑った。
それから二人は、何でもない話をした。薬研の育てている花やハーブ、盆栽のこと。好きな食べ物。薬研がしている仕事。薬研の兄弟のことや、先代のこと。いつの間にか自分ばかりが喋らされている事にふと気づいて、薬研はやられた、と宗三を見る。我に返れば、実に上手く杯を重ねさせられていた。宗三もそれなりに飲んでいたが、薬研は知っている。宗三はワクなのだ。
「あれ、気づいちゃいました?」
宗三はといえば、悪びれるでもなく笑う。
「鳴狐さんがいるから、潰しても大丈夫かと思ったんですけど、さすがですね」
本当に、おそろしい男だ。今更ながら、いつも宗三と飲みに出かけている長谷部とやらの許容量が気になってくる。きっと彼も、相当の酒豪に違いない。
「俺っちを潰してどうする気だったんだい?」
「別に何もしませんよ。ちょっと聞きたい事があっただけです」
「はは、怖いねぇ!まぁ、もうだいぶ手遅れだからな、何でも聞いてくれや」
今更気を引き締めようにも、もう無理だ。薬研は諦めてそう言った。宗三はぐっと自分のグラスを空にすると、前髪を耳にかけながら笑った。
「あなた、僕の事とくべつに好きなんでしょう?」
あまりに自信満々に言うので、薬研はおかしくなって吹き出してしまった。
「はは、否定はしない」
霞のかかる頭での、精一杯の駆け引きだ。薬研には自分の勝機が見えていなかったが、敗北の気配も感じていない。宗三はそんな薬研を見ると、心底満足そうに笑った。
「きっと貴方が思っているより、僕の持っている手札は多いんですよ。声をかける前に身辺を調べられていた事も、パーティで何度か遭遇している事も僕は知っているし、兄に会ったのも知っています」
「!?」
やんわりと自らの行いを暴露され、薬研はさすがに少し酔いがさめた。宗三は薬研の様子に気づいているだろうに、おかまい無しに先を続ける。
「老後の夢は樹齢千年の盆栽に鋏を入れる事だっていうのも、本当はパーティが嫌いだっていうのも、薬剤師の資格を持っている事も、実は長谷部の職場を一度覗いた事があるのも、みーんな知っていますよ」
ここまで来ると、薬研は酩酊している場合ではなかった。宗三はそんな薬研を安心させるように、楽しそうに笑った。
「心配しないでください、趣味で集めた情報ですから」
「はは、趣味、かい…」
「長谷部にね、言われたんですよ。奥さんも居ない、女性の影もない、お前にポンと大金を出すような若い男がいるとしたら、気が狂っているかお前に惚れているかのどっちかだ、って。最初は前者だと思ったんですけど、どうも正気のようだから。僕の事が好きなんだなって思えば、時々向けてくるくすぐったい視線も理解できるってもんですよね」
宗三はグラスの中の氷をストローでつつく。冷たい音が、薬研の頬を熱くした。今までずっと嫉妬を向けて来た長谷部に、今ばかりは感謝した。
「はは、参ったねぇ。それでお前さんはそれを俺に言って、どうするつもりなんだ?」
薬研が半ば自棄になりながらそう問うと、宗三は氷をつつくのを止める。
「薬研、あなたは、かみさまというのを信じますか?」
驚くほど凪いだ瞳だった。パーティ会場でさえ、宗三のこんな様子を見た事は無い。
「まあ、信じたり信じなかったりだな」
嘘をついても仕方がないので、薬研はそう答えた。
「僕も最近まで、あんまり信じてなかったんですけどね」
個室内には先ほどから、宗三と薬研の二人きりだ。二人ともが黙ってしまえば、大人しい音量でジャズが流れている事に気づく。宗三はしばらく黙っていたかと思うと、つまんでいたストローから手を離して、机の下に下げた。話の途中で手を隠すのは、少し緊張している証拠だ。宗三もそう知っているだろうに、きっと手を出している事に落ち着かなかったのだろう。
「実は昔、神隠しに合った事があるんです」
「へえ」
どうやら江雪から聞いた話の内容までは知らなかったらしい。薬研は相槌をうち、先を促す。
「これはきっと、生涯貴方にしか話さないと思うのでそこは喜んでいただいて良いんですけど」
どうやら宗三は、言葉を続ける事を躊躇っている。これも、薬研が初めて見る宗三だった。薬研は静かに続きを待った。宗三は何度か口元をむずむずとさせた後、一つ息をついて笑った。
「もちろん神様に連れて行かれていたわけではないですよ、人間の男の人です。けど別に、何をされるでもなく一週間、ちやほやされて終わりました。たくさんお菓子ももらったし、その家には大きな犬がいて、その犬がとても面倒見が良くて、たくさん遊んでくれました。その一週間の事は秘密だよと言われたので、子供だった僕は素直に秘密にしてたんです。別に秘密にしなくて良いんじゃないかと気づくくらい成長した頃には、もしかしてあれは変質者だったんじゃないかと思うようになりました。もしかしてというか、まあ、良質な、というと変ですけど、変質者が子供をさらって愛でただけだったんじゃないかなって。そうすると何だかその話をするのも恥ずかしくて、結局今まで誰にも言わなかったんですよ」
「そりゃ…何と言えば良いのかわからんが、何事も無くてよかった」
江雪の話と合わせて考えるに、宗三の母親が宗三を半ば閉じ込めるようにして生活させていた時、宗三は宗三で色々と思う所があったのだろう。中学高校の頃といえば、ただでさえ色々と思う所が出てくる時期である。宗三の胸の内はどれだけ荒れたのだろうかとも思うし、その時期に宗三を支えたであろう長谷部の存在に感謝した。
薬研の言葉に、宗三は曖昧に笑った。
「それがね、薬研。少し前に、その男の人と再会したんですよ」
続けて聞かされた言葉に、薬研は驚きを隠せない。辛うじて大声を上げる事は避けられたが、そのかわり薬研は盛大に咽せて咳き込んだ。宗三が慌てて水を差し出してくれたが、とりあえず息を整え、先を促す。
「ほら、貴方との最初の仕事の、三条さんの」
そこまで聞いて、ああ、続きを聞くのが怖い、と薬研は思った。思ったが、まだ治まらない咳を無理矢理我慢しているので、黙って聞いているしかない。
「あの五人」
「五人ともか!」
「ええ、小狐さんは居たかどうかわからないんですけど、あの大きな犬がそうだったのかも」
「犬…」
もしそれが本当なら、きっとそれは犬ではなくて狐だっただろう、と薬研は思った。
「薬研、もしかして神様って居るのかもって僕が思ったのは、あの人達、僕が七歳だった頃と見た目がなんにも変わってないんですよ…どう思います?」
「どうって言われてもな…最近じゃ整形技術も進んでるしなぁ。それぞれ先代と瓜二つっていう説もありじゃねえかと思うが」
「…ね、薬研、気づいてますか?僕が最初に考えたときもそうだったし今話しててもそうなんですけど、僕たちはこうして、昔の彼らと今の彼らが同一人物かっていう事を気にするんですよ。何故か、昔僕を連れて行ったのは彼らだっていう事は疑わないんです」
宗三にそう言われ、薬研の酔いは完全にさめた。これ以上は考えたくない。
「まあそれは置いておくとしても」
「置いておくのか」
「僕が気にしているのはそこじゃないんです。あの一件が無かったら、僕はきっと今みたいな生活に落ち着いてないと思うんです。そうしたら薬研と出会う事もなかったし、三条の方々に会う事もなかった」
「…ああ」
「僕が家に帰される時に、言われたんですよ、『案ずるな、また会おうぞ』って。『愛い童よ、そなたの縁は我らが預かろう』って。ずっと意味が分からなかったんですけど、こうなってみると怖くて」
「ああ、怖えな…」
「あなたは気づいてないみたいですけど、三条さんから頂くお菓子は、どれもこれも縁結びを模した物なんですよ」
「まじか」
「まじです」
宗三の言う通り、薬研は全く気づいていなかった。雅な事に疎いという自覚はある。言われてみれば確かに、結んである飴や餅、紅白の饅頭、二枚貝の形の菓子など、確かに縁起が良さそうなものばかりだ。
「それで、これまでの話を全て総合すると、薬研、三条さんの正体が何であれ、貴方を僕に紹介してくれてるって事になるんですよね、つまり、そういう意味で」
「お、おう」
「それで、貴方は僕の事好きじゃないですか」
「お?…おう」
「つまりあとは僕の心次第なんですよ」
宗三はそう言うと、空になったグラスから氷を口の中に入れ、ガリリと噛んだ。もしかしたら宗三も、それなりに酔っているのかもしれないと、薬研は思った。
「なんですけど、あなたって僕のお客様なわけじゃないですか」
「え?ああ、まあ、そうだな」
「僕、お客様とそういうの嫌なんですよね…」
宗三がそう言って目を伏せる様子に、薬研の目は光った。勝機だ。いつだって突然訪れるその光を、薬研の瞳は決して見逃さない。
薬研は不意に自分のグラスを空にすると、静かにグラスを置いてまっすぐに宗三に向き直る。
「わかった、それが問題なんだったら、宗三、俺っちの嫁になれ!それなら問題ねえだろう!」
自分で言っておきながら、何がどう問題無いのか、薬研にもよくわからない。だがこういうのは勢いが大切だと、いつぞや乱が言っていた気がする。感情論になるのならば結局、大切なのは理論ではないのだ。宗三は驚いたように顔を上げて、その先に強い薬研の瞳を見た事だろう。
「なる…ほど?」
「言っとくが、俺っちの嫁は大変だぞ。パーティやなんかもそうだが、組の奴らの面倒も見てやんなきゃなんねえ。綺麗な事ばっかじゃねえし、しんどい事もあるだろう。けどな、お前さんの事は絶対に俺っちが守り抜いてみせるし、退屈させねえと思うし、願い事は何だって叶えてやる!どうだ!」
宗三の見せた一瞬の戸惑いに、ここぞとばかりに薬研は畳み掛けた。そんな薬研の目の前で、宗三の顔が、見た事もない色に染まっていく。やたら暖かそうになった宗三の頬の上で、綺麗な色の目が揺れていた。
「いいかも」
うっとりと宗三が言うので、薬研は確信した。勝利だ。
その夜、結局薬研は酔い潰れた。宗三と鳴狐に引きずられるようにして屋敷に戻った記憶は、当然ながら薬研には無い。翌日昼近くに酷い頭痛を抱えて目を覚ますと、薬研は自分の部屋で寝ていた。ベッドサイドのテーブルに水が置かれていたので、遠慮なく飲む。なんだか部屋の中が酒臭い気がして窓を開けようとしたが、あまりの不調に起き上がれなかった。辺りを探って携帯電話を探し当てると、鳴狐を呼んだ。今は一期の呆れたような声も、乱の好奇心に満ちた声も聞きたくない。ややあって、静かにドアがノックされた。唸り声で返事をして入室を促すと、静かにドアが開かれる。違和感を感じて視線をやれば、そこに居たのは宗三だった。
「…そ」
驚いて名前を呼ぼうとして、声と一緒に何かが出て来そうで咄嗟に口を閉じる。宗三は笑って、また静かにドアを閉めると、枕元でしゃがみ込んだ。
「どうぞ」
静かにさし出されたのは、薬研には縁のないと思っていたシミ消し用の市販薬だった。宗三の意図がわからず薬研がじっとそれを見つめていると、宗三は笑って、錠剤を二錠手に出した。
「これ、うまく使うとすごく効くんですよ」
騙されたと思って、と言われたので、薬研はとりあえず促されるままに飲んでみた。宗三は部屋の窓を少し開けると、水を持って来ますねと言って部屋を出て行った。たった今何が起きたのかを理解しようとする前に、頭痛に耐えきれずに目を閉じた薬研は、そのまま再び寝入ってしまった。
次に目を覚ますと、体調はかなりスッキリしていた。伸びをしてベッドから出て時計を見ると、午後三時を少し過ぎたところだった。手早くシャワーを浴び終わる頃には、意識もだいぶはっきりとしてきた。丹念に歯を磨くと、曖昧だった昨夜の記憶が、少しずつその輪郭を確かな物に変えて行く。夢だったのかもしれない。けれどきっと、夢ではない。薬研は清潔なシャツとジーンズを身につけると部屋を出た。宗三の部屋へ向かおうとして、途中で会った信濃に宗三はキッチンだと告げられる。そうかと返して今度はキッチンに向かったが、今度はそこに居た厚に宗三は居間だと告げられた。最近では、宗三は屋敷の居間でたまに寛ぐようになったのだ。そこに居る者とテレビを見たり、たまに、まだ高校生の博多の勉強を見てやったりしている。歩き回っているうちに、薬研はだんだんと落ち着いてきた。居間へ入ると、宗三が一人でテレビを見ながらトーストをかじっていた。
「よォ、隣いいかい?」
「ええ、もちろん」
声をかければ、すぐに答えが返ってくる。薬研は遠慮なく宗三の隣に腰を下ろして、ソファに深く沈んだ。まずは、薬の礼を述べる。
「昨日の記憶、あります?」
「もちろんだ」
宗三から揶揄うように言われて、薬研は即座に頷いた。宗三はそれからしばらくさくさくとトーストを食べていたが、綺麗に食べ終わると、自分でいれたらしいコーヒーに口を付けた。
「薬研」
「ん?」
「真珠が欲しいです」
「え?」
宗三から何かが欲しいと言われるのは初めてで、思わず聞き返してしまった。宗三はくすぐったそうに笑う。
「今まで色んな人が色んな石をくれましたけど、真珠をくれた人はいないんですよ。けっこう好きなのに」
「はは、真珠であんたを飾るとなると、一粒二粒じゃ足りないだろうからな」
薬研がそう言って笑うと、宗三は笑みを深くする。
「願い事は何でも叶えてくれるんでしょう?」
その時の宗三の声はどこで聞いたどんな音楽よりも柔らかかったし、その瞳はどこで見たどのシャンデリアよりもきらめいていた。
「あんたほんと、たまんねぇな」
そう言って薬研は、この世の幸せを全て手に入れたかのように笑う。難しい事や面倒な事は後で考えれば良い。
薬研は促されるままに、笑みを崩さないその唇にそっと口づけた。
〜おわり〜