青年は、一振の日本刀を前にして、生唾を飲んだ。
科学の発展にともない、ついに多くの人間が霊力とやらを有用できるようになったのは、どのくらい前の事だっただろうか。それまでは「特別な力を持った」者でなければコミュニケーションをとる事ができなかった曖昧な概念とも、今ではシステム化された訓練を受ければほとんど誰もが問題なく関係を築けるようになっている。各国に残っている古くからの習わしや伝承によって、地域ごとに現れるものは違ったが、それらの原料とでも呼ぶべきものがその地の人々の意識無意識の積み重ねであるとするならば、それは当然の事と言えた。
太平洋の淵にある小さな島国には、世界的に類を見ない長い歴史があった。その歴史の中に、つくもかみ、という概念が長く住んでいる。長い時間を経た物に、何らかのものが宿るという概念だ。霊力というものが普及する際、この国で最も普及した霊的存在がそれだった。歴史的遺物はもちろんのこと、それらを模した、降ろし形(おろしがた)と呼ばれる質のいいレプリカにも、本物に宿るもののコピーのような、子供のような、枝につく葉のようなものを宿らせる事に成功した今、それは人の形をしていたり、していなかったりする。宿るものは、降ろし形そのものの性質や、そこへ彼らを降ろした人間の意識に影響を受ける事がわかっている。色々な姿形をした彼らは、けれど共通して、降ろし主を主人と認め、それが当然であるかのように使役されることを喜んだ。
人間が、自分と同様、もしくはそれ以上の力を持つものを降ろし、使役するようになると、どうなるか。歴史はそれを幾度となく繰り返している。争いが起こるのだ。人間はもう一度、その過ちを犯しそうになって、けれどなんとも興味深いことに、自分たちよりもよほど知識や知恵のあるつくもかみ達に諭され、結局はあと一歩のところで何も起こらなかった。
そんな、綱を渡るような平和の中で、つくもかみ達は政府機関に管理されるようになった。全ての降ろし形にはIDが割り振られ、GPSが埋め込まれている。霊力を使えるようにする訓練を受ける者の数も、限られるようになった。つくもかみの力が悪用されないように、正しい心の持ち主を選んで訓練を行うようになったためだ。訓練を受けた者は、つくも神を使役し、国の治安を守り、人々がより安心して暮らせるように願った。
いつしか、つくもかみを使役する者は、審神者と呼ばれるようになった。古い古い言葉で、神託を解釈して人々に伝える者という意味らしい。世界を巻き込んだ争いを事前に食い止め、今ではつくもかみの力を借りながら治安維持に徹している彼らには、ぴったりの呼び名であっただろう。
ここに一人、審神者と呼ばれる青年がいる。
彼は審神者になる訓練を受ける前から霊力を持て余していた。古くから、こういった人間は一定数居る。幸いなことに、彼は幼い頃に訓練施設に預けられたので、特に事件を起こすこともなく、するりと審神者に育った。それもこれも、彼の存在に気づいた他のつくもかみが、その降ろし主に彼を迎えに行かせたためだった。そのつくもかみが、妖よりもより神に近いとされる、とある日本刀のつくもかみであったために、当時はここそこで噂になったものだ。つくもかみは彼を見つけると少し驚いたような顔をして、それから破顔した。青年も青年で、いつもおだやかに笑みを浮かべているくせに、その時ばかりは気色ばんでいたという。
訓練修了とともに無事に審神者になった青年は、慣例として、最初の降ろし形の申請をした。審神者になってから最初に持つ降ろし形は、ほとんどの場合、審神者が審神者でなくなるまで、パートナーとして共に仕事をする事になる。青年には迷いは無かった。日本刀と希望を書いて、提出した。
青年には、未来の前世の記憶があった。
そう言葉にすると少し不思議なのだけれど、彼の前世は未来にあった。きっと魂はこうして、時間の流れなど関係なくあちこちを行き来しているのだろうと思う。とにかく、彼には前世の記憶があった。
彼の前世は、刀剣男士と呼ばれる日本刀のつくもかみだった。どのくらいなのかはさすがにわからないが、いつかの未来、人間はやはり過ちを犯すのだ。霊力のみならず時間を遡る技術を手に入れ、つくもかみを戦力として、歴史を賭けての争いを長く続ける事になる。その頃には、審神者という職業は今よりももっと軍事めいていて、本丸という、どこか異空間のような場所で刀剣男士達と生活を共にしていた。
青年は、その本丸という場所で、日本刀のつくもかみとして生きていた。本丸で、彼はたくさんの他の日本刀と知り合った。知り合って、わかり合って、背中を預け合った。仲の良い刀も、特にそうでない刀も居た。そして彼は、密かに恋もした。恋は、秘められたまま終わった。青年とその刀にはあまり接点が無くて、なのに何故こんなにも恋しいのかも、どうしていいのかも、何もかもわからなかった。そんな記憶が、ずっとあった。幼い頃、日本刀のつくもかみを連れた審神者が目の前に現れた時、青年は決めた。審神者となって、片恋をしていた日本刀の降ろし形を必ず手に入れる、と。
青年は、一振の日本刀を前にして、生唾を飲んだ。
目の前の刀掛けには、名物 亀甲貞宗の降ろし形が鎮座している。記憶にある彼とは拵えが微妙に異なっていたが、その中身に寸分の違いも無いはずだ。降ろし形とは、そのようにできている。彼が欲しいと申請を出した時、話を聞いた件の日本刀のつくもかみは、わざわざ青年に会いにきた。今度は驚くこともなく、ただ笑って、そう来ると思っていたよ、と言った。
青年は、震える手を隠しもせずに、手順通りに降ろし形につくもかみを降ろした。顔も、服装も、記憶にあるものとはやはり少し違っていたが、心地よい目覚めのように開かれたまぶたの向こう、美しく透き通る瞳の色は同じだった。
「ぼくは、亀甲貞宗」
それから、陽だまりのようなその声も。青年は胸がいっぱいになってしまって、そっと亀甲貞宗の両手をとった。
「にっかり青江という刀を、知っているかい?」
「名前と噂は、聞いた事があるよ」
されるがままに両手を差し出し、尋ねられればすんなりと言葉を返す。そんな亀甲貞宗を潤んだ空気で包んでしまいながら、青年は言った。
「僕には、にっかり青江だった前世の記憶があるんだ…こんな事を言うと、頭がおかしいと言われるかもしれないけど」
「ううん、そういう事は、意外とあるみたいだよ。ぼくは人間ではないから、その辺は多分、ちょっと詳しいんだ」
亀甲貞宗は、ふんわりと笑った。
「亀甲くん、これからよろしく」
青年が、まっすぐに亀甲貞宗を見つめてそう言うと、やわらかな雰囲気の、けれど日本刀のつくもかみは、無垢な様子で嬉しそうに笑った。
「うん、こちらこそよろしくね、ご主人様」
前世の記憶では決して向けられることの無かったその呼称が、今は自分だけに向けられている。
青年は、一振の日本刀を前にして、叫び出しそうだった。
ぐるぐる巡るぐる
4/7/2018
一度の春を、逃すわけにはいかない。
亀甲貞宗には、前世の記憶があった。戦力として降ろされたつくもかみの身として、前世があるというのは少しおかしいのかもしれない。けれど亀甲貞宗には、この本丸に呼ばれる前に一度現世に呼ばれた時の記憶があった。あれはまだ、人類が空間とともに時間を操る術を持つ前のことだった。審神者と呼ばれる能力者たちは今のように軍隊めいていなかったし、依り代として使われた刀も、今よりもほんの少しだけ不安定であったように思う。戦力として呼ばれただけあって、今の身体は昔の身体よりもより強く、丈夫で、折れてしまう前であれば、手入れというものをしさえすればすぐに元通りに戻るようになっている。前世の身体はより人間に近くて、手入れもできるが自然治癒能力も備わっていた。おそらくは時間を行き来する関係で、「時間が経てば治る」という概念を、この身に備えることができなくなったのだろう。少しずつ、色々なものごとが異なっていて、けれど、色々なものごとは時が経っても変わらなかった。
亀甲貞宗がこの本丸にやってきたのはつい最近で、すでに多くの刀剣男士が顕現し、研鑽し、練度というものを上げていた。懐かしいような目覚めの感覚にまぶたを開けると、そこにはちょこんと小柄な男性が座っていた。霊力の宿る身を持つものは、初対面であっても、誰が自分を呼んだ者なのかがすぐにわかる。以前よりも身を縛る制約が強いのを感じながら、亀甲貞宗は名を名乗った。前回と同じように、自分は複製された依り代に降ろされた、無数に蓄えられた「亀甲貞宗」の魂の一つだった。必要な知識や記憶はあらかじめ持っている。これも、前回と同じだった。前回と違うのは、この本丸にいる日本刀の数だった。軽く五十は越えていて、他にも同じく貞宗を派とする短刀と脇差が存在していた。どうやら同じ刀派の者を兄弟として扱う習慣があるようで、亀甲貞宗は、太鼓鐘貞宗、物吉貞宗と兄弟になった。太鼓鐘貞宗を通じて、伊達に所縁のある刀達と、物吉貞宗を通じて、徳川に所縁のある刀や、粟田口一派と知り合った。亀甲貞宗はそうして、少しずつ、少しずつ、本丸に馴染んでいった。
前世の亀甲貞宗の主は、不思議な雰囲気の青年だった。彼は、降ろし形に降りた亀甲貞宗に告げた。前世の記憶が、あるのだと。彼はその記憶の多くを語る事は無かったが、ほつり、ほつりと零したそれらを拾い集めてみれば、おそらく彼が居たのはこの本丸というシステムのある時代だったのだろうと知れた。彼は、にっかり青江の記憶を持つと言っていた。にっかり青江なら、この本丸にも存在している。霊剣としても優れていて、目立たなくとも多くの者から頼りにされている事は、すぐにわかった。なるほど、彼が大脇差なのだとわかってしまえば、前世の主が、常に脇差を帯刀していたのもわかる。きっと、一番使いやすく身になじんだ大きさの物だったのだ。彼はいつもその脇差と、亀甲貞宗を履いた。あの頃、降ろし形となる刀はつくもかみが持つのでは無く、いつも主が持っていた。つくもかみは降ろし形と同じ刀を履いていたが、それは物理の理を越えた刀で、つくもかみにしか持つことができず、そして振るうことができない物だった。今はこうして、しっかりと重さのある依り代を自分で帯びている。それが何だか、そわそわとした。
亀甲貞宗は、すぐににっかり青江に興味を持った。興味を持ったけれども、歴史的に深い所縁もなく、共通の近しいものも居なかったので、直接会話をする事はほとんど無かった。もし機会があったとしても、亀甲貞宗は極力自然な様子でそれを避けた。にっかり青江が自分を見るたび、亀甲貞宗は前世の主を思い出した。
彼は、とても優しくて、とても暖かかった。人の身に慣れない亀甲貞宗に、色々なことを教えてくれた。花の香りも、おいしそうなご飯のにおいも、爽やかな石鹸のかおりも。晴れた日の青い空も、夕方の赤い空も、砂をこぼしたような星空も。人間という身体の暖かさも、硬さも、弱さも、強さも。心というものが身体という容れ物を得る喜びも、不便も、戸惑いも、なにもかも。亀甲貞宗は主に寄り添って、共に戦い、共に生きた。人間の身体というのは朽ちてしまうのがとても早くて、亀甲貞宗にとって、主と過ごした数十年は、まるで一度きりの春のようだった。心を交わし、ついには身体を交わした。晩年の主が、一度だけ話してくれた。刀だった頃に亀甲貞宗に恋い焦がれ、けれどついには想いを打ち明けることもなく、彼らは役目を終えて依り代から離れたと。だからきみを選んだ、きみの事をもっと知りたかったんだ。そう言って、優しいしわの刻まれた顔をほころばせた。彼は最期まで幸せそうに生きて、亀甲貞宗に感謝のきもちを、言葉を、溢れるほどの愛とともに贈り続けた。亀甲貞宗は年を取ることが無かったが、人間である主は年をとった。そしてあっという間に鬼籍に入った。そして亀甲貞宗も役目を終えて、いつになく満たされた気持ちで降ろし形から去ったのだった。
この本丸のにっかり青江は、もしかしたら亀甲貞宗の前の主の前世かもしれないし、違うかもしれない。それはわからない。けれど一つだけ確かなのは、にっかり青江は、亀甲貞宗の前の主ではないという事だった。亀甲貞宗との記憶も無く、ましてや、人間でもない。更に付け加えるならば、これは亀甲貞宗の事情ではあるのだが、あの頃には無かった赤い縄が服の下で自分の身体を飾っていて、何がどうなってこうなってしまったのかはわからないが、亀甲貞宗はその秘密を知られまいと、常にそわそわとしている。同じ刀剣男士としての今のほうが、もしかしたらお互いを深く知ることができるのかもしれないが、それ以前に、亀甲貞宗の今の主は、にっかり青江ではなかった。
彼の前世の主によれば、この本丸でにっかり青江と共に過ごす時間は、彼の生まれ変わりと過ごす時間よりも随分と短いはずだ。前の主はいつも、亀甲貞宗と出会えて幸せだと言ってくれていた。彼には是非とも前世の自分と出会い、そして、幸せになってもらわねばならない。そしてそのために本丸での亀甲貞宗は、軽率ににっかり青江と仲を深めるわけにはいかないのだった。
一度の春を、逃すわけにはいかない。
今はまだ咲く時ではない。
物陰からの気配を受けて、亀甲貞宗の心の中で、今日もつぼみは膨らみ続けている。