よい夢を。また明日。

3/18/2023〜






「ど〜もっ!備前八丁です。よろしくおねがいしまっす!」

ニコッ!と音が付きそうな勢いで左右対称の八重歯を見せて、八丁はピースサインを作った。新学期が始まって一ヶ月、海外からの転校生だと紹介を受けた彼は、緑を震わせる木々を桜と気づかず、半ば自棄にになりながら、高校二年生となった。出会ったばかりのクラスメイトはにこやかに八丁を受け入れ、休み時間には気さくに話しかけてくる。無視されるよりは良いし、しばらくすればほとぼりは冷めると知っている八丁は、慣れない環境に慣れるまではと、背筋を伸ばして笑顔を振りまいた。そんな最初の一週間が、もうすぐ終わろうとしている。


八丁が転校した先は、裕福であったり、社会的地位が高かったりする家庭の子供が集まる場所で、生徒数は少なく、その教育の質の高さと共に、設備やセキュリティなどが平均よりよほど整えられた私立高校だった。寄宿舎こそ無かったものの、世が世なら貴族階級ばかりが通うような場所であっただろう。クラスメイトの半分ほどには車での送迎がついていたし、ごく少数とはいえ、家の都合で一ヶ月ほど学校に来ない者も居るらしい。この時代にあってまだそのような学校が残っているのかと八丁は驚いたが、何のことはない、需要があるところには供給がある、それだけの事なのだった。




つい数ヶ月前まで、八丁は、海の向こうで様々な家庭を転々としていた。フォスターケアと呼ばれる制度で、身寄りのない子供が里親や施設に期限つきで預けられ、もし運が良ければどこかの家庭で養子にしてもらえる。預け先の家庭なり施設なりに補償金が出されるその制度の中で、八丁は生きてきた。幼い頃に亡くした母親とは日本語で話していたのと、日系の個人店でちょっとしたアルバイトをしていたので、何とか母国語(なのだろうと八丁は思っているが、本当のところはよくわからない)を使えてはいる。

当時の里親の元を去る日が少しずつ近づいてきて、もしかしたら養子にしてもらえるかも、いやいやもうだいぶ大きくなってしまったし、これまでだって誰も保護者にはなってくれなかった、今回もきっとそうだ、…でも万が一——というようなことを考えないようにしていた頃、養子の申し出は全く知らない家庭からやってきた。どうやら八丁の父親は、日本に居たそうで、彼が亡くなり、八丁の存在がその親族に知れたらしい。わざわざ海を越えて八丁に挨拶にやってきたのは大変に美しい男性二人で、全てのものが大ぶりに作られているその国でも、決して小さくは見えなかった。何もかもが寝耳に水で、青天の霹靂で、虚をつかれた八丁はなんの心構えもできていないまま二人と引き合わされ、あれよあれよと数日間を過ごし、バイト先やよく行く店、少ない友人などを紹介したと思ったら、お前を引き取りたいのだと言われ、は、へ、と中途半端にしか音にならなかったハ行を繰り返し、そうこうしているうちに日本行きの飛行機に乗っていた。養子の申し込みは、それこそずっと待ち望んでいたものであったから、嬉しくないはずがなかった。どうやら同性のカップルであろう事も、何の問題もない。今まで預けられた先の中にも、同性のカップルは居た。けれど、突然にたった数日を過ごしただけの、生い立ちの全く違う相手に引き取られるというのは、意外というより却って怪しく感じられ、もしかして自分はこのままどこかへ売り飛ばされるのではと思った。何事も、心構えはしておくに越したことはない、と、八丁は愛想良く笑うその陰で、いざとなったら誰にどう連絡しようかと考えていた。

長い長いフライトを終えると、ビジネスクラスの座席では包みきれなかった緊張と警戒をバッグに仕舞い込んで、八丁は日本に到着した。預けていた荷物を受け取ると、保護者二人はそれらをカウンターに持っていった。ここから自宅に送るのだそうだ。そうして、ここから更にバスか何かに乗るのだと思っていた八丁は、しかし、到着ターミナルを出たところで待っていた車に乗せられた。ぴかぴかに磨かれたハイブリッド車で、手袋をした男性が開けてくれたドアから恐る恐る乗り込むと、車内もすっきりとした香りがした。保護者となる男の一人が助手席に、もう一人が後部座席、八丁の隣に座った。

「お疲れ様でございました。もうしばらくご辛抱願います」

運転手の男がそう言った。敬語や難しい日本語が苦手な八丁には意味を理解したか自信が無かったが、男がにこやかだったので、元気に笑って礼を言った。車は独特の電気音を鳴らしながら発進し、レーシングゲームかというような首都高速道路へと入った。八丁の隣ですやすやと眠る男を、助手席の男が笑って、八丁と彼はぽつりぽつりと会話をした。周囲の車との距離が近く、気が気でない八丁をよそに、乗り心地は穏やかで、車はスムーズに進んでいった。周囲の車との距離が少しずつ空き始め、視界に少し緑が増え、空が開けてきた頃、車は静かに止まった。運転手がエンジンを切ったので、ここで降りるのかとドアを開けようと手を伸ばすと、静かに、けれど力強く、ドアは外から開けられた。

「八丁様、お疲れさまでございました」

少し驚いて八丁が顔を上げると、八丁と同じくらいの年頃の少年が、ドアを開けて微笑んでいた。

「あ、えと…ありがと〜ございまっす…」

降りろという事だろうと理解して、八丁はバッグを両手で抱えたまま、車を降りた。そっと周囲を窺えば、運転手はドアを開けて、八丁の隣で寝ていた男を起こしている。八丁のドアを開けた彼はそのまま、助手席のドアを開けていた。

「お帰りなさいませ、大包平様」

「ああ、ただいま」

助手席から出てきた男は、少年に挨拶を返し、労りながら伸びをしている。この長い手足と大きな体を、随分と長い間、縮こまらせていたのだなと、現実逃避のようなことを、八丁は思った。

「鶯丸様、到着いたしました」

運転手は、眠っている男に声をかけ、肩に触れ、それからその肩を軽く叩き、少し揺らして、それから諦めたらしく、もう一度名前を呼びながら、肩を少し強く揺らした。

「んぁ、ああ、すまん」

そうしてようやく目を覚ました男は、車の中でできるだけ体を伸ばすと、まるでずっと起きていましたという顔で外に出てきた。

「すまんな八丁、ついつい寝てしまった。大包平が起きていたなら退屈はしなかっただろう」

「へっ、うん、全然…大包平の兄さんも気をつかってくれたし、窓の外見てるのも楽しかったよ」

「それはよかった」

話しながら歩き始める二人に、八丁はそろりそそりとついていく。ふと振り向くと、運転手は車のそばに立っており、八丁に気づくと柔らかく微笑んで頭を下げた。オジギというやつだと少し感動して、八丁もぎこちなく頭を下げた。それから前を向くと、先ほどドアを開けた少年が思いのほか近くに居た。

「お荷物をお持ちいたします」

そう言いながら両手を出してくるので、八丁は慌てて

「えっ、ダイジョーブ!ありがとねっ」

と笑って、バッグを抱きしめる腕に力を入れた。フライトの座席がビジネスクラスだった時点でうすうすと感じては居たが、どうやら引き取られた先はやんごとないご家庭のようだった。日本家屋、というジャンルの建物があるらしい事を、八丁は、映画やアニメなどでうっすらと知っていたが、彼は今、それを目の前にしている。垣根の一角にある門をくぐり、石畳の小道のようなところを歩いて、引き戸に辿り着いた。一部に擦りガラスの嵌め込まれた扉をガラガラと開けると、どこから光をとっているのか、やわらかく光る玄関が出迎える。靴が収納されているのだろう棚の上には、清々しい花が活けられていた。ジャパニーズイケバナというやつだろう。日本では家の中で靴を脱ぐことは知っていたので、八丁は保護者二人に倣って靴を脱いだ。そのまま歩き出そうとすると、

「こちらをどうぞ」

と、少年がスリッパを手のひらで指した。

「あ、ハイ…」

新品なのであろうそれは、ふかふかだった。

シャワーを浴びてくるという大包平と、一旦部屋に行ってくるという鶯丸と別れると、少年は八丁を連れて、家の中を一周した。トイレ、浴室、キッチン、客間、物置、大包平の部屋、鶯丸の部屋、二人の寝室、それから八丁の部屋。畳の部屋が多く、紙と木でできた壁も多い家の中で、八丁の部屋は硬い壁に硬いドアが付いていて、少し安心した。

「僕は平野と申します。八丁様の身の回りのお手伝いをさせていただきますので、何なりとお申し付けください」

八丁を自室へ案内すると、少年はそう言った。

「え…みのまわりのおてつだい?」

「はい」

「それって具体的に言うとどういうかんじ…?」

「そうですね…朝のご支度や、洗濯物の回収、お部屋のお掃除や…お飲み物やおやつのご用意、スケジュール管理のお手伝い、などでしょうか。…若輩の身ゆえまだ運転免許を持っていないので、お出かけの際は兄の一期…先ほど運転をしていた者が担当いたしますが、いずれ、僕も免許をとりますので!」

「いや、あ〜…」

八丁は、自分でできると言おうとして口を開き、けれど、平野がそれで生計を立てているのだとしたらいらないとも言えず、控えめにニコニコとしている平野に、誤魔化すように笑いかけた。

「平野…サン、は、年齢とか聞いてもいいの?」

「平野とお呼びください。八丁様の一つ下です。同じ学校ですので、八丁様の後輩ということになります。使用人としてもまだ見習いなので、お気づきの点はご教示ください」

「学校…」

「はい。再来週から登校予定です」

「明日からとかじゃないんだ?」

「制服を作りに行かねばならないのと、環境が大きく変わるのだから、休み休み、一つずつ、という鶯丸様と大包平様のお考えです」

「な、なるほど〜…」

はは、と力なく笑いながら、八丁はずっと抱えていた荷物をそっと床に置いた。制服。そういえばアニメで見たことがある。そんな事を考えながら、ふと壁にかけられていた時計を見ると、どうやら既に夕方を過ぎた頃のようだった。時差もあり緊張もあり、そして疲れもあり、八丁には今、時間の感覚は無かった。腹が減っているのかどうかもよくわからない。そんな様子を察したのか、平野が口を開く。

「もうすぐ夕飯の時間ですが、お加減はいかがでしょうか?」

「あ、ダイジョーブ!さすがにちょっと疲れてるけど、お腹空いたら寝られないからねっ」

緊張すると物が食べられない、というような、繊細なタイプではない。八丁は荷物を置くと、夕飯の時間までもう少し家の中を案内してほしいと平野に頼んだ。平野は最初の頼まれごとが嬉しかったのか、元気に返事をして、明るいうちにと八丁に庭を見せてくれた。




二週間で、八丁は制服一式を作ってもらい、学校指定の鞄や靴、教科書を用意した。時差ボケは何とか乗り越え、軽く風邪をひいたがすぐ治り、身の回りに溢れる日本語に触れるうちに大分日本語も滑らかになった。学校は、徒歩で行ける距離にあった。通学路は平野と同じなので基本的には一緒に登校することになり、けれど事前に何度か、実際に歩いてみた。学校から自宅と逆方向へ行くと、駅と商店街があるとの事で、八丁は近いうちに足を運んでみようと思った。

登校が始まると、一週間はあっという間だった。慣れない教科書での授業は、とりあえずついていけているのではないかと思う。そういえば鶯丸が、勉強に困ったら教えろと言っていた。教科によっては、知り合いに教えてもらえるだろうとのことだった。八丁はそれを、最後の手段だと思っている。自分でできることはとりあえず全部やり、できればそこで解決しなければならない。彼らは八丁を養子にしてくれたが、それだって絶対のものではないのだ。これまでそうしてきたように、八丁は元気に、問題なく過ごさねばならない。そういう在り方が、心身に染み込んでいた。


学校に通い始めて二週間目、そろそろ制服にも慣れてきた休み時間、八丁は突然、声をかけられた。

「八丁くん、今日俺らとお昼食べな〜い?」

降ってきた声に顔を上げると、同じクラスで席が近い笹貫と、見たことのない男子生徒が立っていた。

「こっちは肥前くん。1組」

きょとんとしたのがバレたのか、笹貫が紹介し、八丁も軽く挨拶をした。

「食べる食べる」

八丁は、誘われれば、予定がない限り頷くことにしているので、その誘いにも躊躇うことなく頷いた。

「イェ〜イ、じゃあ行こ!あ、おべんと?購買?」

「お弁当」

「イェ〜イ」

「イェ〜イ」

よくわからないが笹貫のノリに合わせてハイタッチをすると、笹貫はそのまま八丁の腕を掴んで立たせた。八丁が慌てて鞄から弁当と水筒が入った包みを掴むと、笹貫はその腕を引いて歩き出す。肥前はずっとむすっとして、けれど文句も言わずに横に並んだ。

「あ、肥前くんはそういう顔なだけで別に怒ったりとかはしてないからね〜」

「そういう顔で悪ィな」

そんなやりとりを笑いながら歩いていくと、ふと人通りが途切れた。すると笹貫と肥前は、その隙間を縫うように八丁を伴って屋上へ続いていると思われる階段へと足を踏み入れる。屋上があったのかと思いながらついていくと、肥前がポケットから鍵を取り出し、静かに屋上のドアを開けた。三人はするりと屋上へ出ると、開けた時と同じように、静かにドアを閉めた。

「屋上あったんだ」

八丁が言うと、笹貫がしぃ、と言いながら人差し指を立てる。

「立ち入り禁止だからね、ひみつ。どこで食べてたのって言われたら秘密って言えばいいから。ここみんな育ちがいいから秘密って言われたら大抵のことはふーんって言って終わってくれる」

「おっと、なるほど、オッケオッケ」

話しながら三人で少し移動し、他の教室から見えにくい場所に腰を下ろす。

「こんな素敵なとこ誘ってくれてさんきゅ〜」

八丁が弁当の包みを広げながら言うと、

「こういう言い方アレだけど、はっちょん、庶民っしょ」

「俺らもそーなんだよ。色々成り行きでここの生徒になったけど」

「え!そう!俺も成り行き…突然のセレブ生活にとまどってるとこ」

「みんないい子なんだけどたまにちょっとやっぱ、感覚がよくわかんないとかあってさ。肥前くんは遅刻とか多いし俺ぼっちなこと多くてさ〜今後よろ〜」

「こいつはこいつで抜け道には詳しいから、なんかあったら聞け。俺には聞くな。あとこいつ地理は強えからテスト前は聞け」

「ちり…地図のやつ?」

「そうそう。ちなみに肥前くんは数学強いよ。はっちょんは得意科目ある?」

「俺はいちおう英語!でも文法はやばいかもしんない…」

「そういえば海外いたんだっけ?得意科目ばらけててお得じゃ〜ん!テスト前とか一緒に勉強しよ!俺やってみたかったそういうの!肥前くんはあんまりやってくれないから」

「俺は先生の世話で忙しいの知ってんだろ」

「先生?」

「肥前くん、保護者のこと先生って呼んでんの。怪しいよね〜」

「何がだよ」

なるほど、笹貫の言っていたように、肥前は別に不機嫌だとかという事ではないらしい。適当な話を適当なテンポで続けながら、天気の良い屋上で、三人はわいわいと昼休みを過ごした。八丁は久しぶりに、肩が軽くなったような心地がした。












初めての屋上で昼休みを過ごした後、八丁は、肥前や笹貫と親しく過ごした。類は友を呼ぶ、Birds of a featherとはよく言ったもので、三人は具体的にそれぞれの家庭や生い立ちの話をすることはなかったが、お互いになんとなく、色々あるのだろうなという事は察せられて、それそれが気楽に相手を思いやりながら、気さくに過ごした。相手のことを知らなければ気を遣えないという大義を振りかざして、とにかく他人の全てを暴こうとする者は散見されるが、それは単なる言い訳と好奇心だ、と八丁は思う。日々の生活の中で、相手の喜ぶことや嫌がることを知るのは、そう難しくはない。勝手なフィルターや先入観を持ってさえいなければ。八丁は自分のこれまでの成り行きを話してはいないし、それは笹貫も肥前も同じことだった。

肥前は、遅刻は多いが真面目で、あまりサボったりという事はしない。たまに休み時間に繕い物をしていたり、料理の雑誌を読んだりしていて、なんだか母親っぽいなと感じることがある。笹貫がぐだぐだとめんどくさい話をしても、片手間にであろうとちゃんと聞いていて、相槌を打ったり返事をしたりしている。保護者である「先生」とやらの世話係をしているようで、彼の世界はその「先生」を軸に据えて回っているようだった。

対して笹貫は、遅刻はしないが、こうして時々教室から姿を消していた。持ち物を基本的には丁寧に扱うくせに、大体の教科書はずっと学校に置き去りにされている。授業中の態度も悪くはないが良くもなく、席がどこであろうと、遠慮なく机につっぷして眠っていたりした。それなのに何故か、成績は悪くない。肥前とともに、テストの度に廊下に貼り出される順位表で、常に上位に名を輝かせている。本人曰く、飲酒や喫煙など、法に触れる事は今はやっていないとのことで、以前は手を出していたのかなと思った途端に、肥前が「でもこいつが一番背が高ぇし手足も長ぇんだよな」とぶすくれていたので、八丁は声を上げて笑ってしまった。



「ね〜、マック行こ」

学校生活にもそれなりに慣れてきたある朝、登校して教室に到着した途端に、笹貫が鞄を肩にかけたまま声をかけてきた。

「え?」

「全部俺のせいにしていいから一緒に行こ?ね?」

笹貫はそんなことを言いながら、半ば強引に、教室に入ってきたばかりの八丁の手を引いて歩き出す。たった今歩いてきた道を、今度は逆向きに進んだ。廊下も昇降口も、まだまだ登校したばかりの生徒で賑わっていて、鞄を持ったままの二人はそこに違和感無く溶け込んだ。屋上に連れて行かれた時もそうだったが、笹貫は、人の波の中を歩くのが上手い。するりするりと二人分の隙間を繋げて、あっという間に校門への道を作り出してしまった。

「肥前くんは今日も遅刻」

「そーなんだ」

「遅刻じゃなくてもあんまり付き合ってくれないんだよね〜でも俺今日がちで気分じゃないわけ」

「俺まだ日本の行ったことない」

「まじ?行こ行こ」

校門をするりと抜けると、笹貫と八丁は少し早足でその場を離れた。自分たちの他に生徒がいなくなってようやく、笹貫は八丁の手を離す。

「一応聞くけど…やっぱ後で怒られる?」

「まあね。そん時は俺が無理やり連れてったって言いなね」

「俺もマック行きたいしそこはいーんだけどっ…どんくらい…評価?下がるの?」

「うちは基本、テストの点数しか見られないっぽいから、俺も今んとこ注意でおわってる〜」

「あ、そーなんだ!」

笹貫がしきりに、自分のせいにしていい、と繰り返すので、八丁は何か罰でもあるのかと身構えたが、注意されるだけならばそこまで気にしなくとも良いだろうと笑った。保護者が呼び出されたりという事が無いのであれば、あとはどうとでも誤魔化せる。

「あ、でも補導ってのがあって」

「ほどー?」

「そ〜、警察とかいたら声かけられるかもしんない」

「そーなんだ…逃げたらやっぱ撃ってくる?」

「え〜?撃たない撃たない、注意されるだけだから大人しく話聞いた方が早いよ」

「基本話し合いなんだ」

「そ〜そ〜。お巡りさんたち、見た目ムキムキってわけでもないけど柔道とかでめっちゃ強いから、大人しくしといた方がいいよ。あと、学校だけじゃなくてたまに保護者に連絡される」

「ぐえ」

「素直に謝っとくのが一番トラブル少ない」

「間違いない」

そんなことを話しながら、二人は駅前の商店街に向かった。

この商店街は、八丁も一度二度歩いたことがある。平野に電車やバスの乗り方を習いながら、ぶらぶらと見て回ったのだった。その時に、某ファストフードのチェーン店があるのも目には入っていたが、平野が素通りしたので、八丁もそのまま前を通り過ぎたのだった。



「注文の仕方って違うのかな」

「見た感じ一緒っぽい。カウンターで指差せるっしょ?」

「うん」

慣れない自動ドアにまだ少しびくつきながらも店内に入ると、流石に少し空いていた。並ぶことなく注文し、番号札を渡されることなく会計を終える。与えられている小遣いが、とてもありがたかった。プラスチックのトレイを持って、笹貫に促されるままに、上の階へ上がる。外から見えると補導されやすいからと、窓から遠い席に腰を落ち着けた。笹貫はごそごそと鞄から巾着袋を出すと、何故かそこからストローを取り出した。いる?と尋ねられた八丁は、意図が読めずにきょとんとする。

「くれるやつ、紙だよ。俺めっちゃストロー噛むから、プラスチックのやつ持ち歩いてんの」

笹貫はそういって、巾着袋の口を大きく開けて、中に入っているストローの束を見せてくれた。

「てか初マックなんだったら、まずはプラスチックのストロー使いな〜」

八丁が迷っていると、笹貫はそう言うなり、プラスチックのストローを八丁のドリンクに挿す。

「ありがと〜」

「いえいえ」

八丁はドリンクのカップに手を添えた。ぺこぺことした安っぽい感触が、とても懐かしい。笹貫がくれたパステルブルーのストローを咥えると、ちゅる、と中身を吸った。

およそ三ヶ月ぶりの、コーラの味だった。

「んん…」

忘れかけていた炭酸の刺激と、突き抜けるような甘さと、独特の、ちょっとツンとした香り。八丁はそのまま、一気にコーラを飲み干しそうになった。

「うめ〜!」

「すごい飲むじゃん…」

目を潤ませながら息をつく八丁を、笹貫は軽く笑った。

「や、今の家、お茶とかばっかで…甘いものっていったらアップルジュースかココアだもん…」

ここ数ヶ月送ってきた、日本家屋にふさわしい食生活を、八丁は思い浮かべた。さすがに肉が無いとか、和食しか出ない、というような事は無いが、味付けはどれも上品で、飲み物はお茶がメイン、たまにコーヒー。そのかわりとでも言うように、お茶であればありとあらゆる種類が揃っていた。どうやら、鶯丸の趣味らしい。さまざまなハーブティもあって、香りが甘いものもあるにはあったが、お茶はお茶。甘いのは香りだけで、砂糖が山ほど入っているわけでもなかった。

「自分で買っちゃだめなの?」

「ゴミ捨てんのがさ…俺じゃなくて…なんか部屋のゴミ箱とか回収に来られるから…」

「てかそもそも、禁止されてんの?」

「わからん…言われてはないけど、でもなんか…お茶を飲むのが当然みたいな感じで…」

「はっちょん真面目だね〜。買って飲んで、怒られたら隠せばいいじゃん」

「うーん…ここがあんのは知ってたから、いつか来よ〜って思って、あんまチャンスがなくてさ〜…んんん、ポテトもうめぇ〜俺はこの塩と砂糖で生きる…」

しみじみと言いながらポテトをつまみ、コーラを吸う八丁に、笹貫はあははと笑いながらも、よかったね、と声をかけた。


「おかえり」

八丁と笹貫は昼前には学校に戻り、その頃には登校していた肥前と三人でいつものように過ごした。久しぶりのコーラとポテトで満たされた八丁が帰宅すると、いつもは仕事場にいる鶯丸が玄関に立っていた。

「うわびっくりしたぁ、ただいまっ!」

突然の登場だったので驚きはしたが、心のどこかで予想はしていたのですぐに取り繕った。平静を装って靴を脱いで揃え、少しずつ八丁の足の形にへこんできたスリッパを履く。鶯丸は少し驚く平野に帰宅を促し、平野は丁寧に挨拶をして去っていった。

「学校はどうだ?」

鶯丸の問いには、咎めるような響きも、探るような含みもなかった。

「慣れてきた。新しいこと多くてたのし〜よっ」

だから八丁もなんの気負いもせずにそう答え、足元が整ったところで顔を上げ、にっこりと笑って見せた。

「そうか」

鶯丸はそんな八丁を見て、柔らかく目を細めた。見慣れないその笑顔に八丁が少しだけ目を瞠ると、今度は見慣れた笑顔が顔を覗かせる。今のはなんだったんだろうかと考えるより先に、

「やるなとは言わん。やんちゃは程々にな」

と言われて、八丁の背筋が伸びた。鶯丸が玄関に居たのはその件だと知っていたはずなのに、八丁は、ウッと息を詰まらせる。そんな様子を見て、鶯丸は笑いながら、八丁の肩を軽く叩いた。

「あの学校は、初犯はこうして連絡が来るんだ。好きにさせてやってくれと言っておいたから、ちょっとくらいの事ではもう連絡は来ないさ。連絡が来たのが俺でよかった。大包平は真面目なやつだからな、できるだけバレないようにしろ。バレたとしても、それはそれで面白いだろうがな」

ウインクをしながら言いそうな事を、鶯丸は言って、また笑った。彼の前髪は片方だけが長いから、八丁は鶯丸が本当にウインクをしているかどうかは分からなかった。触れられた肩がじんわりとあたたかくて、うん、と素直に頷くことしかできなかった。

「一緒にばかをやれる友は、大切にしろ」

やけに強く、鶯丸は言った。

「うんっ!それはもう!」

八丁は誓うように、元気に返事をした。




翌日、笹貫は学校に来なかった。無遅刻の彼は、サボることがあっても一度は教室までは来ていたので、八丁の心は少しざわついた。遅刻せずに登校していた肥前は、いつもそうするように始業前に八丁のクラスへおはようを言いにやってくると、不在の笹貫を察してその席に座る。

「多分ボコボコにされたんじゃねぇかな」

「え!それ大丈夫なの!?」

「あいつんち、確かなんか武道のあれかなんかで」

「ぶどう…」

「あー…空手とか柔道とかそういう」

「ああ!マーシャルアーツね!てか、そうなの?」

「わかる。見えねぇよな。意外と強ぇから、喧嘩売るなら武器持っとけよ」

「いや挑まんから」

すわ通報かと立ち上がりかけたが、肥前からもたらされた情報に、八丁は大人しく椅子に座り直した。

「なんかその…あんま家に居ないらしいんだけど、帰ってくるとしごかれるって言ってたぜ。そんで全身筋肉痛だって」

「うわぁ…」

「ま、明日には来んだろ」

そんな事を話しているとチャイムが鳴り、肥前は大人しく自分の教室に帰っていった。笹貫が居なくても、一日は始まり、そして進んでいく。それは誰が居なくても同じことだ。


昼休み、いつものように屋上で弁当を食べ、残りの休み時間をのんびりと過ごした。笹貫が不在だと会話もあまり多くはなく、だからと言って居心地が悪いわけでもない。肥前はいつものように、周囲で何が起きていても気にしませんといった顔をして料理雑誌を開いていた。空を眺めてうとうとしていた八丁は、なんの気無しにそれを覗きこんだ。美味しそうな料理の写真と、レシピが並んでいる。そろそろ日本の家庭料理も、その見た目から味が想像できるようになってきた八丁は、それらの料理も美味しいんだろうな、と思った。

「そういえばさ」

「あ?」

「肥前はその先生とやらのお世話してんじゃん」

「…まぁ、そうだな」

「なんか俺もさ、家に…お世話係みたいな人居て」

「ふーん」

「でもその子、この学校の一個後輩で」

「平野だろ」

「知ってんの?」

「知り合いではねぇけど、毎日一緒に登下校してんじゃねえか」

「それはそう…。てかそうじゃなくて、俺がききたいのはさ…」

ペラリと、肥前がページをめくったタイミングで、八丁が一旦、口を閉じた。少し待っても言い淀んでいるので、肥前は、雑誌から顔を上げて視線で先を促す。

「なんかその…児童労働…とかじゃないの?日本ってそういうの大丈夫なの?」

八丁が意を決してそう言うと、肥前はとても変な顔をした。

「え、ごめん、何?だめな質問?」

「お前…結構めんどくせぇな」

「ごめん…」

「別に怒ってねぇよ。ていうか俺はそういう難しい事はよくわかんねぇから、そういうのは笹貫に聞け。でも、俺は好きで先生の世話してるっつーか、やっぱ一緒に住んでるやつが生活力無かったらそうなんだろ。お前に生活力が無いとは思わねぇけど、平野だって好きでやってんじゃねえの?」

「そうなのかな」

「本人は何て言ってんだ」

「わかんない。きいた事ない」

「じゃあまず本人に聞け」

「たしかに…そーだねっ!ありがと肥前〜」

「おー」

八丁にはまだ、誰に何を尋ねていいかがよくわかっていない。自宅にいるより、こうして学校で肥前や笹貫と話している方が、よほど気楽だった。変な事を言っても笑いながら教えてくれるし、多少手がかかる説明も、比較的きちんとしてくれる。学校での、この時間があるから、八丁は家でもきちんと笑っていられる。


天気の良い日の屋上は、光に埋もれていた。輝くコンクリートの床と、ふわふわの空を眺めていると、どうしたってあくびが出てしまう。ここですとんと眠りに落ちても、肥前はきっと気にしない。チャイムが鳴っても八丁が起きなければ、ため息をつきながら起こしてくれるだろう。穏やかな風が吹いたのを合図に、八丁は目を閉じた。










備前の家は、老舗の製茶問屋なのだそうだ。八丁は日本茶業界に疎かったが、簡単に言えば農家の収穫した茶葉を仕入れて、茶屋の希望にあわせて小売用の茶葉に仕上げる職人が働く場所らしい。古い歴史を持つその家の三男に生まれた鶯丸と、八丁のようにある程度大きくなってから家に迎えられたという庶子の大包平の二人は、今は陶芸家をしていて、各種茶器や、茶菓子用の食器を作っている。八丁も住んでいる屋敷の奥には仕事場と釜があり、八丁も見せてもらったことがある。二人のマネージャー兼ハウスキーパー長のような仕事をしている一期は粟田口という家の出で、粟田口は備前とは古い付き合いらしい。品質の良いものを作る備前は、しかし商売や生活が少し苦手で、粟田口が茶葉の売買や流通の拡大、財産管理などといった部分を補っている。もともとは粟田口が備前の家の下人だったことから、現代においてもその名残で粟田口の者は一歩引いた態度をとりがちだが、備前は備前でおおらかな気質を受け継ぎ、今も両家の関係は良好に続いている。


「おはようございます」

毎朝、7時15分きっかりに、平野は八丁の部屋のドアをノックする。正直なところを言うと朝が得意ではない八丁だが、電波時計もかくやという正確さで朝を告げる平野に合わせて、なんとかそれまでに身支度 を済ませる生活が続いていた。少しずつ季節が移り、少しずつ雨が多くなってきても、平野は時間ぴったりにやってくる。

八丁は、慣れない湿気に辟易しながらも、笹貫の言っていた「夏はまじでやばいよ」という言葉に怯えている。夏は好きだが、まとわりつくような湿気にはまだ馴染めていない。なんとか6時半に起きて、前の夜に平野が用意していった制服一式に着替え、顔を洗って身なりを整え、平野のノックを待った。朝の手伝いはいらないと、まだ、言えずにいる。朝に限らず、自分には手伝いは必要ないと、早く言いたかった。朝はギリギリまで寝ていたい。

平野に伴われてダイニングテーブルにつく頃には、鶯丸と大包平は既に朝のお茶を飲んでいる。一期と平野に給仕されるままに朝食をとり、歯を磨いて弁当を受け取り、それから家を出る。食事はいつも鶯丸と大包平と三人でとる。八丁は、それが好きだった。この家ではコーヒーの香りを嗅ぐことは滅多に無く、鶯丸と大包平はいつもお茶を飲んでいた。八丁は少しずつ、お茶の種類を覚えていったし、好きなお茶、そうでもないお茶の区別もつくようになっていった。鶯丸などはいつも「うまければなんでもいい」と言うが、その実さすが製茶問屋に生まれ育った彼の舌は肥えている。そしてそんな彼らと飲食を共にする八丁の舌は、本人の預かり知らない所で育てられていた。


笹貫の言葉を借りれば、夏は「まじでやばかった」。溺れるような梅雨が明けたかと思うと空が高くなり、セミの鳴き声なのか耳鳴りなのかよくわからない目眩を抱えて、陽炎のゆらめく道を歩くこととなる。朝夕はそれでも少しは涼しいと皆言うが、カラリと晴れて朝夕は肌寒くさえなる夏しか知らなかった八丁は、とにかく意識を保つので精一杯だった。静かで高性能なクーラーは部屋を快適な温度や湿度に保ってくれるくせに、眠っているのだか疲れ果てて力尽きているのだかよくわからない夜を過ごし、明るくなればとりあえず起き出してお茶を飲んで、ぼんやりしながら朝食を食べた。徐々に覇気を失くしていく八丁に、鶯丸も大包平も、一期も平野も心を配った。水分と塩分をたくさん摂ることと、炎天下で過ごさないこと、気分が悪くなったら早めに誰かに言うことなどを言い含め、けれど彼らに気候をどうこうする力はありもせず、八丁は工夫やコツを学びながら、それでも毎日を過ごさねばならなかった。


そうしてなんとか教室に辿り着き、なんとか一日を過ごして、なんとか家に戻る生活をしながら、夏の長期休みが少しずつ近づいてきた。部活の存在しないこの学校では、夏休みには補修や追試などが課せられていなければ、八月の終わりまでは完全に休みとなる。幸い、毎度の勉強会の甲斐あってか、八丁たち三人には何の追加課題も無い。それもあってか、梅雨が明けた頃から、笹貫が夏休みに海に行こうとしきりに繰り返している。その日も、昼休みに屋上などという苦行は趣味ではない三人が教室で昼休みを過ごしている間、取り付く島もなく断る肥前の隣で、八丁は、浜に打ち上げられたクラゲのように力なく机にへばりついて、生返事を絞り出していた。

「はっちょんだけが頼りなんだよ〜肥前くん絶対海行ってくれないもん」

「んぁ〜〜〜〜海暑そ〜〜〜〜〜〜」

「きもちいよ〜!だって水だよ、海って」

「お風呂だって水じゃん…」

「あれはお湯」

「いや無理っしょ…俺…ジャパンの夏初心者だからほんと…」

八丁とて、海は好きだ。ビーチのすぐ近くに住んでいた時期もある。だが何故だろう、今年はもう、とにかく動きたくなかった。涼しいはずの室内でさえ、身体が重い。

「…お前、大丈夫か」

勢いのない八丁のため息を聞いて、さすがに肥前が声をかける。それにつられて、笹貫がそっと八丁の頬に触れた。

「…保健室行っとく?」

「ほけんしつ…?」

「そ、布団ある静かなとこ」

「深刻なあれじゃねーよ、こいつも眠いってだけでたまに行く」

笹貫と肥前は、お互いに目配せをしながら静かに続けた。八丁ができるだけイレギュラーを起こさずに生活したいタイプである事は、これまでの付き合いでわかっている。窓を突き抜けて刺さるセミの声を遮って八丁に届いた二人の言葉は、甲斐あってか、少し魅力的に響いた。

「そっか〜…ちょっと寝てこよっかな…」

「行こ行こ」

八丁を促しながら、笹貫と肥前も席を立つ。階段で足をもつれさせでもしたら一大事になりかねない。二人に見守られながら八丁は立ち上がろうとし、そのままかくんと膝を折った。

「えっ!?」

一番驚いたのは八丁で、先ほどまでのだるそうな気配はどこへやら、暑さも忘れたような顔で呆然と座り込んでいる。

「わぁ、びっくりしたね〜!一回横になろ〜」

「は?え?」

笹貫はのんびりと言いながらも、慣れた様子で八丁の頭を支え、その肩をそっと押した。

「きもちわるい?」

「や、全然…」

「ちょっと失礼〜」

されるがままに床に横たわって、未だに呆然としている八丁の目の下を親指で引っ張った。

「え…なに?俺…しぬ?」

「だいじょぶだいじょぶ、生きよう〜」

「びっ……くりした〜!……え、何?」

「多分だけど、足が寝てたんじゃん?」

「そんなことある?」

「色々あるっしょ〜」

八丁が混乱に身を置いているのを良いことに、笹貫は何事かとこちらを気にするクラスメイトたちにひらひらと手を振り、八丁のカッターシャツのボタンを一つ、外した。そうしてしばらく、目を丸くする八丁の胸元を優しく叩いていると、肥前と共に担任教師が教室に入ってきた。八丁が座り込んですぐに教室を出て行ったのは目の端に見えていたが、さすがの足の速さと、きっと運良く、その辺りの廊下に居たのだろう。

「夏の始まりを感じるのである」

体育教師でもある担任は、床に寝かされている八丁のそばに膝をついて笑った。

「気分悪いとかは今のところないみたい。貧血でもなさそう」

笹貫がそう言うと、担任はまず笹貫の肩を叩いて、それから八丁をゆっくりと起き上がらせた。そのまま慎重に立ち上がらせた八丁がきちんと立っていられるのを確認すると、八丁に背を向けてしゃがむ。

「え?」

「階段もあるからな、背負っていこう。抱き上げる方がよいならばそうするぞ」

そう言われ、八丁が隣の笹貫をちらりと見ると、笹貫はどうぞとその背を両手で指した。こういうものか、と腹をくくって、

「あっ…じゃあ…失礼しま…っす…」

八丁は教師の背に恐る恐る手を伸ばした。熊のような男だとは思っていたが、実際に背負われて立ち上がられると、視界が思いの外高くて驚いた。筋肉は熱を発するというがその背も熱くて、揺るがない足取りで八丁を背負ったまま階段を降りていく様子に、単純にすごいと思った。

二つ階を降りて少し歩き保健室の前に着くと、肥前と、今度は養護教諭が待っていた。肥前はニンジャというものなのかもしれないと、八丁はぼんやりとした頭で思った。背負われて揺られている間に、なんだかだるさとも眠気ともつかないものがまとわりついてきていて、それを察したのであろう担任の教師は八丁をベッドまで背負っていくとそのままその上に下ろした。八丁はそこで、いつの間にか上履きが脱がされていることに気づいたが、ついてきた笹貫が八丁の上履きをベッドのそばに揃えて置いたのを見て、笹貫もニンジャかもしれないと思った。

昼休み終了の予鈴が鳴って、担任の教師は養護教諭と何か話して去っていった。養護教諭は八丁の様子を見て少し話をすると、肥前と笹貫に教室に戻るように言ったが、笹貫はへらりと笑って、八丁の寝ているベッドの周りのカーテンを閉めた。

「涼しくてきもちいいっしょ」

「うん…ここがほけんしつ?」

「そ」

「日本の夏はやべえからな、気ぃつけろ」

「今そのやばさを感じてる」

肥前はそれを聞くと少し笑って、八丁の鞄を持ってくると言って保健室を出ていった。

「かばん…?」

「先生が家に電話するって言ってたから、ちょっとしたらお迎え来ると思うよ」

「え!だいじょぶですけど!」

反射的に起きあがろうとする八丁を軽く押し返して、笹貫は声を潜めた。

「家だとゆっくりできないかんじ?」

カーテンの向こうに居る養護教諭に聞こえないように囁かれたその言葉は、けれど八丁にはこれでもかとハッキリと聞こえた。ぎくりと肩をこわばらせる八丁に何を思ったのか、笹貫は曖昧に笑った。それを見て、八丁は慌てて口を開く。

「大丈夫。俺ちゃんと一人の部屋もらってるし、騒がしいとかそういうのもない。クーラーもめっちゃいいやつついてて涼しい」

「ふーん?」

「いやまじ、大丈夫」

「ならいいけど」

笹貫が肩をすくめたところで、本鈴が鳴った。養護教諭が何も言わないのを良いことに、笹貫は肥前が鞄を持ってくるのを待つことにしたようだった。八丁はホッとして、改めてサラサラとした枕に頭を預ける。

「夏は好きだと思ってたんだけどね〜」

目を閉じると、口から恨み言が溢れてしまった。しまったと目を開くと、笹貫が笑っていた。

「夏生まれっぽい顔してるもんね」

「夏生まれだよ〜この肌もさ…夏強そうじゃない?」

言いながら、両手を目の前に伸ばす。日本では目立つほどに濃い色のその肌を、不思議な気持ちで見つめた。

「まあ確かに?」

「…ママが日本人だったから、父親がそっちなのかと思ってたけど…父親が日本人なんだったら、あの人本当はママじゃなかったのかも…」

なんだかだるくて、眠くて、本当は外に出してはいけない言葉が、胸の内から逃げていった。こんな事を言われても困るよね、と笹貫に言おうと目を向けると、笹貫はまっすぐに八丁を見ていた。

「怖いこととかあった時に、助けて!って思い浮かべる人が、ママだよ」

やたらとすんなりそんな事を言うので、八丁は

「じゃあやっぱり、ママだ」

と、言いながら、なんだかすとんと納得した。遠い親戚だという備前の家から連絡がきて、鶯丸と大包平と会い、それからずっとずっと、喉の奥の方にひっかかっていた呪いが、すんなりと解けた心地だった。きっと、こんなにも簡単な事だった。いや、簡単な事にしてしまえるタイミングが、きっと今だったのだ。

「笹貫のママはどんな人?やっぱ背高いの?」

眠気に襲われながら、それでも気になった事をむにゃむにゃと口にすると、笹貫はまた笑った。

「俺はかーちゃんはよく知らないから、思い浮かべるのはパピーよ」

「ぱぴー?子犬?」

「おとうちゃんのこと」

「あ〜、ダディね…」

笹貫が、少しずつ声を小さくしていく。

「はっちょん眠そ〜。なんか今なら何聞いても答えてくれそうじゃん」

「そんな事ないし」

「好きな子とか聞いちゃおっかな」

「も〜…いないし……」

八丁はなんとかそれだけ絞り出して、ゆっくりと、けれど抗えない眠りに落ちた。




八丁が目を覚ますと、朝の9時23分だった。

「は」

思わず気の抜けた声が出たが、まだ頭にはかすみがかかっている。起き上がって辺りを見回すと、自分の部屋のベッドの上で、寝巻きにしているTシャツとハーフパンツを着ていた。帰宅の記憶も、着替えた記憶も無い。外は明るく、セミも元気に鳴いている。恐る恐るベッドから降りると、足にはしっかり力が入った。ホッと息をついて、もうすっかり八丁の足の形を覚えたスリッパを履き、そっと、自室のドアを開けた。日本家屋特有の、少し薄暗い板張りの廊下が、いつものように静かにそこにあった。八丁はそろりそろりと廊下を進んで、軋む階段を極力音を立てないように降りた。ダイニングルームに続く間口から中を覗くと、鶯丸がテーブルで新聞を広げていた。そっと引き返そうとした瞬間、鶯丸は顔をあげ、ぱっちりと目が合ってしまう。

「おお、起きたか」

鶯丸は八丁を手招きし、八丁がまごまごと席につくのを横目で見ながら手早く湯を沸かし、氷を一つ落としてぬるくて薄いお茶をいれた。

「ありがと…」

「よく眠っていた。腹は減っているか?」

鶯丸の問いに、八丁の腹が控えめに返事をした。はは、と笑った鶯丸が、トーストくらいならできるはずだ、と言うので、八丁は慌てて、自分でやるからと食パンをその手から奪った。

「俺…あの…着替え…とか…どう……」

タイマーをセットしてカチカチと音のし始めるトースターを背に、八丁は気まずさを押さえ込んで何とか状況を把握しようとした。おそらくだが、眠っている間に迎えが来て、眠っている間に帰宅し、眠っている間に衣類を交換してもらって、起きるまで眠っていたのだとは思われる。それに納得できるかどうかはまた別の問題として、とりあえず何が起こったのかを知りたかった。ふむ、と口元に手を当てて考え込む鶯丸を、八丁はじっと待った。チン、と軽やかな音を立てて、先にトーストが焼き上がる。

「まぁ、細かいことは気にするな」

冷蔵庫からバターを取り出しながら、鶯丸はそう言った。

「いや…俺ほら…日本語でなんだっけ、そう、思春期だよ!気になるじゃん…細かくない…からっ…!」

バターを受け取って、バターナイフでトーストに塗りながら、八丁はしどろもどろと主張する。すると鶯丸は、すんなりと謝罪した。

「そうか、それはすまない。お前にとっては大切な事なんだな」

「えっ!急にそう言われるとあれだけど…」

「昨日はとりあえず、連絡が来た時には大包平は泥だらけだったので、俺が迎えに行った」

「うぇ!?鶯丸さんが!?」

「俺も運転はできる」

「あ、うん、…ありがと…お手数おかけしました…」

「それこそ細かいことだ、気にするな。それからとりあえず、お前の部屋に寝かせておいたんだが、全然起きなくてな。ちょっと心配したがすやすやと寝ていたのでそのまま寝かせておいた。着替えは平野が気を利かせたんだと思うぞ。俺も大包平も、流石にベルトと靴下はとったが他はそのままにしておいた。今朝もよく眠っていたので、学校には休むと伝えた。好きなだけ休むといい」

八丁は礼を言って、トーストをかじった。久々にぐっすり眠ったからだろうか、ここのところ感じていただるさは大分消えている。

「もうすぐ夏休みだし…なんかだいぶ元気になったしっ!明日は学校行く〜」

「そうか」

そう言って、鶯丸は笑った。その柔らかい目元と口元に、八丁は覚えがあった。初めて学校を抜け出した日、玄関で待ち構えていた彼が見せた顔だ。八丁の八重歯に、トーストの耳が当たって、サクリと音がした。

「ね〜、それ…」

「なんだ」

鶯丸に返されて、八丁は自分が声に出してしまっていたことに気づく。慌ててトーストをかじって時間を稼ぎ、なんでもないと逃げるか、大人しく先を続けるかを急いで考えた。言葉に限らず、起きてしまった事を取り消すことはできない。そこからどう繋げるかこそが大切なのだと、短いながらも、これまでの人生で学んできた。

「どういう…顔?」

「顔…?」

「最近たまに変な顔する」

「…大包平と比べられても困るが、俺も顔だけならいけめんだと聞かされてきた。それを信じていたが…」

珍しく、鶯丸が戸惑ったのを見て、八丁は、慌てた。確かに、大包平は目を見張るような華やかさのある容姿をしているが、鶯丸とて、静かに滲み出るタイプの美しさを持っている。

「違う違う、違います、顔の作りとかじゃなくて」

「まぁ、何事にも好みはあるからな」

慌てている八丁の目の前で、鶯丸が勝手に思いついて納得し始めてしまう。

「鶯丸さんは美人だよっ!それは間違いない!!そうじゃなくて〜」

「?」

「うーん…」

八丁は、トーストを食べ進めた。鶯丸は、待っていてくれる。それを、もう知っている。

「わかった。どういう感情…?って聞きたかったの」

「…と、言うと?」

「なんか時々、変な顔で俺のこと見る…じゃん…鶯丸さんも大包平さんも……てかなんか俺がめっちゃ自意識過剰みたいじゃない!?わ〜!この話なかったことにできたりする?」

「できなくはないが、しないでおこう。大事なことだ」

珍しく、本当に珍しく、鶯丸が大事なことだと言うので、八丁は口を閉じるしかなかった。数分前にうっかり声を出してしまった自分を、心中でひたすらに罵るが、何をどうしたところで、過去を変えることなどできるはずもなかった。いつの間にか下げてしまっていた視線を恐る恐る上げていくと、鶯丸は、やはり柔らかく、けれど真っ直ぐと八丁を見ていた。鶯丸は八丁を見つめながら考え込んでいたが、

「慈しみだな」

と、どこかすっきりしたように言った。

「いくつしみ?」

「いつくしみ、だ」

八丁があまり馴染みのない言葉の意味を聞き返すと、ふと廊下が軋む音が聞こえて、間口に大包平が現れた。

「鶯丸、この前欲しがっていた釉薬だが…」

大包平にしては控えめの声でそう言いながらダイニングに入りかけたところで八丁の姿を見つけると、

「おお、起きたか」

と、鶯丸と同じことを言った。それが少しおもしろくて、八丁はそこにあったはずの緊張を忘れて笑った。

「起きました。おはよっ」

「ああ、おはよう。どれ」

大包平はそう言うと、検分するように八丁の額に手のひらを当てたり、頬を揉んだりした。おそらく冷水で洗ったばかりなのだろうその手はひんやりとしていて、八丁の頭にかかっていた霧を少し払ってくれた。

「すっきりした顔をしているな」

「うん、めっちゃ寝たし」

「何よりだ」

大包平は最後に八丁の頭を撫でて、そして柔らかく笑った。あ、と八丁が思うと同時に、側から鶯丸の声が飛んでくる。

「なるほどな」

「何がだ」

慣れない者には威圧的に聞こえがちな大包平のまっすぐな声を、けれど八丁は既に怖くないのだと知っている。それより今は、鶯丸の言葉に心当たりがあって、できることならさっさとこの場を去りたかった。少し、恥ずかしい。きっと鶯丸は大包平の顔を見て、中断されていた会話へと戻って行ったのだ。

「大包平、慈しみというものを説明できるか?」

「慈しみ?」

「ああ」

大包平は、口元に手を当てて考え込んだ。この二人は、見た目も振る舞いも正反対のように見えて、毎日の節節にふとこうして同じような仕草をする。きっと長く、お互いの近くに居たのだろうと八丁は思った。

「そうだな」

言いながら、大包平は自分の両手のひらを並べて眺める。

「こう…手で触れる時に、なるべく手のひら全部で、やさしくつつむようにするような心だと思う」

その言葉を聞いて、八丁がわかるような、わからないような胸のうちを持て余しているすぐ隣で、鶯丸が軽やかに笑った。

「今やったようにか」

たった今、大包平が八丁の頬を揉んだように。

「まぁ、そうだな」

じわじわと顔が熱くなるのを、八丁ははっきりと感じた。きっと今日目を覚ましてから、一番はっきりと、くっきりと、しっかりと。当の大包平は何の迷いもなく鶯丸に肯定を返し、それがどうしたと言わんばかりに首を傾げている。

「あは…」

八丁が笑ってごまかすことにすると、大包平はもう一度八丁の頭を撫でて、お前がよくわからんのはいつものことか、と鶯丸に告げると、お茶の準備を始めた。そろそろ軽くシャワーでも浴びようかな、と八丁が一歩足を引こうとすると、大包平が振り返った。

「そういえば、夏休みには海に行くそうだな。水着は持っているのか?」

「へっ、えぇ!?」

「笹貫くんが言っていたぞ」

鶯丸の言葉に、八丁は力無い大声を出しながら、こういうのを、外濠を埋める、と言うんだなと思った。断り続けていたし、笹貫も無理強いはしない人間だから、せめて今年は無しになったものだとばかり思っていたが、なるほど、八丁が海が嫌いというわけではないことを、きっと笹貫は見抜いている。向こうの方が、一枚上手だったということだ。

「あっ…そう…なのかも…?まだ決まってない…と、おもぅ…」

「三人で行くと言っていた」

「あ、そうなんだ…」

どうやら、肥前も頭数に入っているらしい。半ば他人事のように言いながら、なんだかんだ少し楽しみだな、と感じる自分に気づいて、八丁は諦めて笑った。

「必要なものや欲しいものはちゃんと言え」

「あ、うん、ありがとう…」

折に触れ言われる言葉が、今日は何だか柔らかく聞こえた。少しくすぐったい。水着は持っていたはずだが、確認しなければと思っていると、鶯丸が

「まぁ、最悪下着があれば何とかなるからな、気負うことはない」

と言い出した。八丁が息をのんだ隙に、大包平が肩をいからせる。

「鶯丸!下着と水着は全くの別物だ!気負う気負わないの問題ではない!」

大包平は決して粗暴な人間ではないが、とにかくよく通る声をしている。その上に、日々土を捏ね陶器を練り上げる作業で鍛えられた身体から放たれる声は、とても大きかった。

「そうか?あまり変わらんと思うが」

大包平の声がどれだけ大きくても、鶯丸がつられて大声を出すことはない。八丁は、それが少しありがたかった。目の前で大きな声をたくさん出されるのは、あまり得意ではない。

「八丁、こいつの言うことは聞くな。高校で水着を忘れて、下着で水泳の授業を受けようとした男だ」

そんな八丁の性質を見抜いているのだろう、少し声を落とした大包平に、八丁は取り繕うのも忘れて胡乱気な視線を鶯丸に向けてしまう。鶯丸はおおらかだとは思っていたが、正直、そこまでだとは思っていなかった。

「その後どうするつもりだったの…」

「半日くらいノーパンでも、死にはしない」

けろりと涼しい顔で言う鶯丸に、八丁は曖昧な返事を返すことしかできない。

「履いているか履いてないかなんて、ズボンを着ていたら関係なくないか?」

「大ありだ馬鹿者!下着を履いていない時にチャックの閉め忘れでもしてみろ、猥褻物陳列罪だぞ!」

「それってなに?」

「公の場であられもない姿を晒す犯罪のことだ」

「要するにモロ出し罪だな」

「鶯丸!青少年の前だぞ、言葉を選べ!」

「あはっ!」

思わず、八丁は声を上げて笑った。大包平が言葉遣いや振る舞いに気を遣うのはいつものことで、鶯丸が気楽にやれと適当な事を言ったりやったりするのもいつものことで、ここ数ヶ月ですっかり見慣れたはずのやりとりが、けれど今日は、やけに身近に感じる。

「わかりやすかっただろう」

鶯丸は、彼曰くの、慈しみのこもった笑顔を八丁に向けた。

「外では使ってはいけない言葉だからな!」

大包平は、苦虫を噛んだような顔で念を押す。

「は〜い」

八丁は何とか返事をして、気の済むまで笑った。

きっと、外では今日も重い暑さがセミを叫ばせていて、耳鳴りと目眩がアスファルトの上で踊っている。けれどこの家の中で、八丁は、ぬるいお茶を飲んで息をして、トーストを食べて笑った。夏休みには、友人と海に行く。緩んでしまいそうになる涙腺は、しかし、次に平野に会ったら最初に、着替えの件を話さなければという使命感によって、緊張感を保っていた。