泥の中で息を吸う
8/3/2019
そういえば、つい先頃にやってきた真田の槍が、三河武士の命の使い様はある種狂気じみているとこぼしていた。曰く、主君の見せる夢を骨の髄から信じ、自らがその礎となる事を微塵も疑っていないと。主君を生きて逃がすただそのために、夥しい数の屍が積み上がろうと、そしてその中に自らが埋もれていようと、それを名誉とするのだと。名誉といえば、本多の槍が(彼の前の主も立派な三河武士であったわけだが)、言葉にして諭すこと無いその喉の奥で、背の傷は恥、と心得ているのも知っている。彼らの逸話の生まれたのは、将たる者が誉れのために命を使う、そういう時代の終わり頃だった。
豊前は、そんな事を、思い出したいわけではなかった。
目の前にある背中の真ん中から突き出している槍の穂が、自分の胸に触れるか触れないかの距離だった。ピシリと嫌な音が鳴って、目の端でぐっと柄を握る手に力が入って、そして抜けた。
「桑名!!」
叫んだのは松井だった。豊前は声も出せずに、瞬きもできずに、動く事も、息を吸うこともできないまま、目の前で人の形が砕けるのをただ見ていた。口が、その名を呼ぼうとして、失敗した。篭手切が破壊した槍は、一拍遅れて霧散した。瞬間、砕けたはずの形が光って、元に戻った。豊前は目の前の胴を引き寄せ、抱えた。いつの間にか敵部隊は壊滅していて、部隊長の篭手切が帰還準備を整えていた。
「…ぅ、ど、したん」
抱えていた桑名が、身じろいだ。
「手ぇ…、震えとるやん」
桑名は笑った。乱れた前髪から、珍しく瞳が覗いていた。
そんなことのあった翌日には、桑名はいつものように畑にいた。御守も、手入れも、その力を余す所無く発揮し、桑名にはもう引っ掻き傷一つ無い。天気も良く、季節も頃合いで、桑名が畑に出ない理由が何一つ無かった。御守が使用されることなど滅多に無い本丸なので、報告書やらなんやらと煩雑な処理はあったものの、人の身というものは、器が元気になれば心も元気になる便利なものらしかった。
きちんと整備されている畦道、雑草の抜かれた畝。化学薬品も使っておらず土は健康で、風が吹けばふんわりと香った。念の為あまり重労働はするなと言われているので、桑名は木陰に座って畑を見ていた。平和だ。戦国と呼ばれる時代、それでも民が守りたかったものが全て整っている。きっと、いのちと呼ばれるものさえ。
桑名はそっと、自分の腹を撫でた。槍で貫かれた痛みよりも、震えていた豊前の腕の冷たさが染み付いているようだった。伝える事などするつもりは無かったし、気づかせるつもりも毛頭無かった。どんな覚悟で隣に居るかなどとは。槍の向かう先が豊前でなかったとしても、きっと同じ事をしていた。それはきっと、心身に染み付いた、願いと呼ばれるものだろう。言ってしまえば、全ては成り行きだったのだ。豊前は、遠征に出ている。桑名が手入れ部屋に入っていた間、少し元気が無かったと聞いている。戻ってくる頃には、いつも通りの豊前だろう。それでいい。
桑名はもう一度、腹に触れた。
あの時、嫌な音が身体中に走ったのは覚えているが、それ以外はよく覚えていない。人は眠りに落ちる瞬間のことを自覚できないと言うから、きっとそういう事なのだろう。ふと気がついた時には、自分を抱える、慣れた腕があった。豊前の手が震えていた事など後にも先にも無かったから、どんな顔をしているのかと思って、覗き込んだ。豊前は、どんな顔もしていなかった。ただ、信じられないような物を信じなければならないような、そういう顔をしていた。ああ、やっちゃったなと、思ったことははっきりと覚えている。
そもそもおそらく、豊前は自分が誰かに置いていかれる未来など、欠片も想像した事が無かったのだ。昨日までは。だから松井がふたりの事について豊前をつついても軽く笑っていたし、自由に振る舞うふりをして、そっと周囲を見守っていたりした。そして豊前は、今日も明日もこれからもずっと、きっと、そうし続けなければならないのだ。豊前をりいだあと呼ぶ篭手切は、同じようにあいどるを夢と呼ぶ。夢とは、いつか覚めるものだ。豊前が夢の中にいるうちは、ただ、夢だけを見させてやりたかった。だから何もかも、黙っていたというのに。豊前は、桑名が一度消えたのをその目で見て、いずれ自分が桑名に与えるものを知ってしまった。そしてその震える手を笑った桑名の瞳を覗いて、桑名がもうとっくにその覚悟でいたことに気づいてしまっただろう。桑名はきっと、豊前の世界を変えてしまった。
陽が傾き始めた頃、豊前が遠征から戻ってきた。軽く片付けを終えて着替えたあと、畑の側でうとうととしていた桑名のところへやってきた。
「おい、もーすぐ日が暮れるぞ」
「ん〜…そうやね…」
桑名の長い前髪は、こう言う時に便利であり不便だった。豊前からは桑名が起きようとしているのか寝直そうとしているのかわかりづらいし、桑名には起きようか寝直そうか迷う時間ができる。どこかで蛙が一つ二つ鳴いたあと、結局、桑名は伸びをして立ち上がった。
「ずっとここにおったんか?」
「天気が良かったからね」
作業をしていたわけではないので、桑名は手ぶらのまま歩き出す。豊前は周囲をそれとなく見回してその隣を歩き出した。いつもならすぐに繋がれる手が、触れそうで触れなかった。ので、桑名は豊前の手をとった。
「あれ、もう震えとらんやん」
桑名がそう言うと、豊前は一瞬、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「ったりめーだろ」
それから怒ったようにそう言って、桑名の手をぎゅっと握った。
「なん?そういうの憮然とするって言うんよ…あ〜、豊前だけに」
「なんじゃそら」
そんな事を言いながら手を繋いだ。本丸に近づくまでしばらくは、きっとそのまま歩いていく。
豊前は審神者の刀剣で、気前のいい男で、機微に聡い仲間だ。酒に強く馬が好きで、その膝枕は硬くてちょうどいい。手は暖かい時と冷たい時があって、刀剣男士だけあって握力は強い。そして今日からは、桑名と一緒に、泥の中で息をする。桑名はそれを、まだ喜べない。ただ、繋いだ手に、そっと謝罪をこめた。
~おわり~