鏡には尋ねるな

11/2022




その部屋には時計が置かれていないので、肥前はいつも息を潜めて寝転がっている。一人の時の静けさは言うに及ばず、同室の朝尊がそこに在っても、彼は自室では意外なほどに静かだった。筆先が紙を撫でる音、安い墨の香り。時折すらりすらりと本の頁を捲る音がする。そんな涼しげな空気の中、

「肥前くん、僕は何に見える?」

唐突に頭上から降ってきた言葉に、肥前はその時が来たのを知った。


刀剣男士というものは、基本的な行動や知識、行動規範などというものを、ある程度持ち合わせて顕現するように作られている。多くの本丸に次々に喚ばれる幾多の彼らに、一から全てを教えていては戦どころではないからだ。本丸に配属される前に政府で働くこととなった肥前も朝尊もそれは例外ではなかったし、宮仕えをする刀剣には、一般的な知識や情報に加え、政府で働くためのあれやこれやも付与されていた。それこそ、彼らの全てに研修を行う手間を省くためだ。つくもかみという半ば妖術じみた存在であるくせに、その知識の授与は政府内ではインストールと呼ばれ、少なからず電子技術の干渉があるのかもしれなかった。一般的な刀剣男士用の情報パッケージは全ての刀剣にインストール義務があり、政府勤務刀剣はそれに加えて、それぞれの役割に対応した追加パッケージが割り当てられている。そして、政府の人間が作り出し、そして管理するパッケージの中には、肥前忠弘にのみインストールされるものがあった。それは、南海太郎朝尊に関するものだった。


戦が長引き、過去に生きる審神者にも助力を頼まねばならなくなった頃。政府は、刀工を元にした刀剣男士を顕現するプロジェクトを開始した。複数の刀の存在を統合して固めた男士や、物理を持たず、逸話のみを礎とする刀剣男士たちは既に存在していたので、その延長での位置付けだった。政府はまず、本丸で審神者を補佐できるよう、同時に政府で新しいシステムの開発や新規刀剣のサポートがしやすくなるようにと、刀剣の研究を行っていた刀工を選んだ。それが南海太郎朝尊だった。逸話を集め、練り上げ、形にする。刀剣男士とはそのように作られる。政府が第一に求めたのは、その知識や考察力、好奇心や探究心だったので、刀としての逸話や記憶は脇に置かれ、刀剣の研究家だったという刀工本人の逸話が集められた。新しい刀剣男士を確立する手順は既にある程度テンプレート化されているので、南海太郎朝尊の顕現もスムーズに行われるかと思われた。しかし、プロジェクトの進行は困難を極めた。彼らがそうと気づかずしようとしていたのは刀剣の顕現ではなく、死者の復活だったからだ。死者を呼び戻すことは、洋の東西、古今を問わず、あらゆる文化で禁忌とされている。禁忌となるものには必ず理由があり、死者との再会は、きっと、人の子には許されていない。幸か不幸か、政府の研究者達はそれに気づくことができた。大きな禍を生み出す前に、彼らは慌てて、南海太郎朝尊に「武市半平太の刀」という側面を追加し、それを補うようにと肥前忠弘の顕現を決めた。


「…なにが」

肥前は自分だけにインストールされた情報パッケージを腹の奥に隠し、寝転がって読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。朝尊はいつものように文机に向かって、何冊もの本を開いて書き物をしていたようだ。その手は筆を持ったまま宙で止まり、薄いガラスが切り取る世界で、その瞳はぼんやりと壁を見ている。薄暗い壁はあやふやな影をその身に貼り付け、朝尊を静かに見つめ返していた。

「いや…、」

「言えよ」

珍しく歯切れの悪い様子に、肥前は先を促した。


顕現後の刀剣男士には、個体差がある。先行調査員にインストールされるパッケージには、政府を疑わないこと、という項目が追加されており、朝尊が言い淀んだのは、口にしようとした内容が、きっとその項目に抵触したのだと思われた。この南海太郎朝尊は、その制限を守ることを一度は逡巡する個体らしい。それは審神者の影響かもしれないし、たまたまかもしれない。政府が個体差の生まれる原因を究明する手間を他の事へ割く事に決めたので、理由は今もわかっていない。人の子の個性だって、どこで発生するのかはまだわかっていないというから、きっと早々に諦めたのだろうと肥前は思っている。その個体に合わせた受け答えのフローチャートを、肥前は知識の奥からすぐに掘り返した。何千何万もの分岐を内包するその会話の指示書は、全体実装前に顕現された肥前忠弘があの手この手を駆使して築き上げた宝だ。その過程でおそらく何口もの南海太郎朝尊が失われ、きっと肥前忠弘のいくらかも消えた。全ての肥前忠弘は、それを知っている。


「…政府くんも主くんも、もともと欲しかったのは僕に詰め込まれた知識なのではないかと思ってね」

朝尊は学者を自称するだけあって、その頭脳の作りは物事の探究に向いている。存在の根幹が一個人である朝尊が、その疑問に辿り着くのは必然とも言えた。本丸に配属されたあとでさえ、自分は刀工の逸話から生まれた存在だと話している男だ。だからこそ、朝尊の配属される本丸には、必ず肥前が配属される。刀剣男士としての肥前は朝尊のためにつくられ、朝尊から目を離すなと、心鉄に折り込まれている。

「ふうん?」

肥前が短く相槌を打つと、朝尊は筆を置いた。けれど壁を見つめたまま、肥前には背を向けている。

「僕は…刀のつくもかみなんだろうか」

「話をするときは相手の顔を見ろ、先生」

肥前が寝転んだままそう言うと、ようやく朝尊は振り返って、畳の上の肥前を見下ろした。その顔は常と何も変わらず、感情の読み取りづらい瞳を、さらに眼鏡の奥に隠している。

「僕には刀としての逸話が無い」

「武市半平太の刀だっただろう」

「とってつけたように言われてもね」

「その腹は」

腹と言われ、朝尊は自らの腹を見下ろす。視線の先で、少ししわのついた内番着が、ツンと澄ましていた。

「俺の首のは以蔵が、先生の腹のは武市が、元の持ち主だったっつーしるしだろ」

「…でも、僕が切った腹じゃない」

「俺だって以蔵の首は切ってねえよ」

「ふむ」

肥前は、注意深く朝尊を見る。以蔵は人一倍臆病で、だからこそ些細な機微をよく読んだ。それをある程度与えられているのは、戦のためだけではない。朝尊はしばらく何かを考え込んで、きっと彼なりの結論を得たのだろう。ふと霧が晴れたような顔をして、その瞳が光を返した。

「そうだね。僕は刀だ」

「そうだよ」

肥前は、朝尊をじっと見続ける。その言葉に嘘がない事を、今度は肥前が納得しなければならない。いそいそと書き物に戻ろうとする朝尊を、肥前は呼び止めた。彼にインストールされたフローチャートは、ここで終わりではない。一番大切な項目が、まだ残っている。

「人ってやつは、鏡を見ながら『お前は誰だ』って繰り返すと、どうにかなっちまうらしい。俺たちは刀だが、人の身を写して刀剣男士をやってるからな、いくら好奇心があってもやるんじゃねえぞ」

「へえ」

本来ならば、要らぬ知識を与えて好奇心を呼び起こすのは得策では無い。しかし朝尊の場合は、他の状況でその知識を得て、肥前の静止も間に合わずに試行に移るという可能性を、潰しておかなければならなかった。

「先生は若えから実感はねえかもしれねえが、鏡っつーのは古くから呪具の一つだ。無惨に破壊されたくなけりゃ、絶対にやるな」

「わかったよ」

「約束しろ」

「いいとも、約束しよう」

肥前は、つよくつよく、床の上から朝尊を覗き込んで、念を押した。

「何かあったら俺に聞け。俺は鏡なんぞよりよっぽど先生の事を知ってる」

朝尊はその様子を訝しみながらも、

「頼もしいね」

と応えて笑った。

「約束しろ」

「わかったよ、約束する」

言い募る肥前に何の疑問も抱かず、朝尊はまた一つ、約束を重ねた。鏡も呪具であるが、言葉もまた、使いようによってはまじないの道具となる。肥前はうっそりと、その胸の一番奥で笑った。


書き物に戻り背を向けた朝尊を目の端にとらえ、肥前は漫画雑誌を開き直した。最初の一回は何事も難しいと言うが、一度辿り着いた思考はもう、彼の意識の片隅から消えることはない。これから先、朝尊がどのような切り口で疑問を口にしようとも、肥前には答えの準備がある。それこそ、顕現をするその以前から。

本当のところがどうであれ、建前では必ず、彼は刀剣のつくもかみであらねばならない。初期刀が人の子を審神者たらしめるために在るように、肥前忠弘は南海太郎朝尊を刀のつくもかみとするために在る。そういう契約を、政府と交わした。何もかもが政府のいいようにつくられているこの本丸で、しかし、紙と墨の気配の濃いこの部屋で、くくられた髪の垂れる背をちらちら見ながら過ごすのは、とても心地がいい。それさえも政府のもたらしたものであってたまるかと、肥前は思っている。


死者との再会を、きっと人の子は許されていない。けれど、刀剣男士は御守によって破壊を免れる事を許されている。それこそが朝尊が刀である証拠だと、その事実を突きつける日が来ない事を肥前は今日も願い、そして、きっとそれが叶わない事も知っていた。

その部屋には時計が置かれていないので、肥前はいつも息を潜めて、けれどいつか来るであろうその時のために、静かに静かに息をしている。






~おわり~