野良猫のウインク

11/14/2014




フランシス・ボヌフォアは、27歳の誕生日を二日後に控えていた。

友人に指定された薄暗いバーに、指定された通りの時間に到着し、カウンターの端の席で頬杖を付いている。建物の前の道を馬車が慌ただしく通り過ぎて行く。その音を聞きながら初めて訪れた店内を見回すと、フロアの中心が大きく吹き抜けた三階建てになっていた。二階と三階には、吹き抜けを囲むように廊下が張られ、そこには規則正しくドアが並んでいる。おそらくは、安価なアパートメントになっているのだろう。階下がバーでは、住人はさぞや五月蝿かろうと思うが、世の人々の経済状況は様々だ。ドアの並ぶ廊下の手すりに身を預けて、先ほどから何人かの男女が、バーを見下ろしていた。アパートメントに繋がる階段の入り口には、一人の男が立っている。背筋を伸ばしたまま、壁に体重を預けるその様子から、おそらくは見張りのようなものだろう。フロアに視線を戻せば、酒を飲む客も少なくない店内は、喧噪という程に喧しくなく、穏やかと表現するには賑やかだった。友人との雑談をする者、無言で酒を飲む者、囁くように猥談を始める者も居れば、フランシスのように手持ち無沙汰にしている者もある。

不意に。

目を覚ませとでも言うように、片隅に置かれた振り子時計が午後十時を告げる。

最後の鐘の音が余韻になる頃、店内が異様に静かであることにフランシスは気づいた。皆示し合わせたかのように口を噤み、ちらちらと同じ方向をうかがっている。フランシスもそれに倣って視線を流すと、どうやら階段のあたりに視線が集まっているようだった。何かあるのか、とフランシスが視線を上げる頃には、店内にざわめきが戻ってくる。その雑音をかき分けるように、見張りの男の横をすり抜けて何人かの男女がバーへ降りてきた。そのままうろうろと座席の合間を歩き回ったり、カウンターに席を見つけて腰を下ろしたりしている。

フランシスの隣にも、一人の女性が近づいてきた。よく手入れはされているが、残念ながらほつれを隠せない服。決して華美ではない化粧に乗せた色気。ごくごく自然に乱されている髪の一房。胸も足も、露出が過度なわけではない。けれどフランシスは一目見て、彼女が商売女だとわかった。彼女はフランシスを見るでもなく、一つ間を空けて、カウンター席に座った。足を組んで、気怠げに頬杖をつく。フランシスは、彼女との間に一つの空席がある事に少しだけ安堵して、そして、小さく溜息をつきながら友人を探した。彼が自分で指定しておいた時間に現れない事はいつもの事だが、今のフランシスは、切実に友人の登場を願っている。

フロアのあちこちを眺めてみれば、どうやら先ほど階段を降りてきた者は皆、そういった事を生業にしているようだった。なるほど。ここは一階がバーで二階と三階がアパートメントなのではなく、建物全体が娼館だったのだ。何という場所を待ち合わせに指定してくれやがったのだと心中で罵り、できるだけ誰とも目を合わせないように改めて顔を伏せる。自分の足下だけを無感動に眺めるフランシスの耳には、けれど、密やかな取引は聞こえてはこなかった。客も商品も、思い思いに話しかけはせず、じっと何かを待っている。そこには明確なルールがあるように思えた。おそらくフランシス以外の誰もが知っていて、フランシスだけが知らないルール。フランシスはそんな風に、自分一人が場違いであるように感じる事を酷く嫌った。そんな性質も合わさって、彼はどんどんと不機嫌へ落ちて行く。

すると、咎めるように、カツン、と音がした。フランシスが顔を上げると、先ほどまで空席だった目の前の席に、一人の青年が座っている。

「よぉ」

辛うじてアイロンがかかっている、色のあせたカッターシャツ。手編みのものであろう、伸びきったセーター。所々穴が空いたり、生地がほつれている木綿のズボン。ほんの少しヒールのある、くたびれた皮の編み上げブーツ。それらを纏って、大きな瞳と、それに負けない強い眉を持ち、箒のように固くて柔らかそうな髪を持った、痩せ気味の青年だった。

彼の発した一言が合図になって、それまで大人しくしていた客取りは途端に遠慮を消す。けれど下品な喧噪はない。おそらくはこの店は、ある程度のマナーのある、けれどあまり金のない者が、お上品なおままごとをしに来る店なのだ。声をかけられたフランシスは、無視するのも何だか気が引けて、どうも、と小さな声で返事をした。青年はカウンターにしなだれかかるように背骨を緩め、目元と口元でやわらかな曲線を描いた。

「誰か待ってんのか?」

「ああ、友人を待ってる」

「そいつってAから始まる名前のやつ?」

「…そうだよ」

「じゃあ俺だ」

「人違いだ」

「違わねえな。俺はこの界隈でイチバンなんだぜ。だから名前がAから始まるんだ」

「へぇ、でも俺が待ってるのは友人だって言ったでしょ?人違いだよ」

確かにフランシスが待っている友人の名前はAから始まるが、目の前の青年とは、確実に初対面だ。王様然として自ら名乗る通り、彼がイチバンなのだとしたら、おそらくは彼が今夜の客を定めるまで、他の娼達は大人しく待っていたのだろう。実力がものを言う世界での上下関係の大切さは、フランシスも知っている。とは言っても、何がイチバンなのかはわからない。売上なのか、腕っ節なのか、それとも他の何かなのか。フランシスは、心の中で友のの名を呼んだ。この数分で、もう何度目になるのか。数えたくもない。

「アントーニョ・ヘルナンデス・カリエド」

心の中で唱えた名前が、耳のすぐ近くから聞こえてきた。フランシスが驚いて顔を上げると、いつの間に距離を詰めていたのか、すぐ目の前に青年の首筋があった。

「聞いた事ねえか?『お星様通りのアーサー王』って」

質問を許されない雰囲気のまま重ねてそう囁かれ、フランシスは思わず天井を仰いだ。聞いた事はもちろんある。

この町のはずれに、倉庫の建ち並ぶ通りがある。治安が良くない事で知られているが、並んだ倉庫にかかげられた企業ロゴが星型を模しており、いつしかその辺りは『お星様通り』と呼ばれるようになった。何の星を求めてか、家を持たない大人や子供が、夜になると寝床を確保しにやってくる。その通りでは気を抜けば売られ、油断すれば奪われる。大人達はずる賢く隠れ、いつもボロボロの服を着た子供達が、物陰からじっと、日の当たる場所を眺めている。そんな通りのことだった。

『お星様通りのアーサー王』とは、いつからか聞こえ始めた野良猫の名前だった。遊びが巧く、手切れがよく、高嶺の花でもない。腹を満たしてやればすり寄ってくるし、従順ではないが愛嬌がある。喧嘩では負けを知らず、そして何よりも夜の具合が良いそうだ。アーサーというその名前を王に例え、岩に刺さって抜けない伝説の剣をも下品に連想させるのだろう。噂は密やかに、けれど強かに人の耳と舌を渡り歩く。そうして今に至るのだった。

「お前まさか」

「そう、俺がアーサーだよ。ここらのイチバンだから、名前がAから始まるんだ」

言いながら、フランシスの首筋にすり寄ってくるのを、フランシスはやや乱暴に遠ざけた。アーサーはそれを鼻で笑う。このバー、いや、娼館は、お星様通りからは少し離れている。なるほど、野良だった王は自らの国を手に入れ、寝具という騎士すら手に入れたのだろう。

「金はもうもらってんだよ、誕生日おめでとう、フランシス」

「あいつ…!」

完全にしてやられた、と、フランシスは今度は舌打ちを隠さなかった。いくらなんでも悪ふざけが過ぎる。煮えくり返りそうになる頭を少し振ってみると、そういえば以前酔った勢いで、アーサー王に会ってみたいなどという話をしたような気がしてきた。そんな事を思い出してしまえば、フランシスは友人を憎めない。目の前のアーサーを見れば、にこりとにやりの中間のような顔で、面白そうにフランシスを眺めていた。

「…悪いけど帰るよ」

フランシスがそう言ってアーサーから手を離そうとすると、そっと、フランシスの手にアーサーが手を添えた。乾いた指先が、震えもせずに肌をなぞる。

「じゃあこういうのはどうだ?今日は俺の誕生日なんだ、遊んでくれよ」

ねだる仕草が、悔しい程に巧い。さすがだ、と変に感心しながら、フランシスは溜息をついた。

「誕生日なら尚更、大事な人と過ごすべきじゃないのか?」

「まるでお前が大事じゃないみたいな言い方するんだな」

「出会って数分で、どうして大事な人になっちゃうっていうの」

「赤ん坊が生まれるところを見た事あるか?股の間から出てきてすぐ、やつらは誰かしらの宝物になるんだぜ」

「…そうじゃない母親と赤ん坊だって居る」

「おっと、例えが悪かったか…。じゃあやっぱり、こうだな」

アーサーはフランシスの手の甲を撫でながら、切なげに首をかしげた。笑っているはずなのに泣きそうにも見えるその表情が演技であると、フランシスはわかっている。

「誕生日くらい、きれいなやつに愛されたいって思ったっていいだろ?俺、きらきらしたもの好きなんだ」

…フランシスは、わかっている。

今日がアーサーの誕生日である確率は非常に低い。どころか、ほぼゼロであろうこと。庇護欲を誘う寂しそうな視線も声音も、全ては嘘であろうこと。愛を乞い、フランシスにすり寄ってくるその仕草も空気も何もかも、おそらくは彼が生活費を稼ぐ手段でしかないのであろうことも。フランシスはわかっていた。

けれど、同時に彼は、臆病者の優しさも持ち合わせていた。もし、本当にアーサーの誕生日が今日だったとしたら、もし、本当に寂しがっていて、フランシスと夜を過ごしたいのだとしたら。そしてもし、万が一、アーサーが本当に、自分の愛を乞うているのだとしたら。

フランシスのその逡巡を、アーサーは見逃さなかった。肩を掴まれていた手をそっと外し、椅子を降りた。ふんわりと雲のようにフランシスの腕を掴んで、もう一度、フランシスの耳元に唇を寄せた。

「こんな、みんな見てる前で、俺のこと振るのかよ」

声の震えは、演技だろう。神の存在よりも確実なその可能性を、フランシスはわかっている。けれど世の中には、わかってはいても、抗えない事というのが存外あるものなのだ。

小さな溜息を了承と受け取ったアーサーは、フランシスの腕を軽く引いて椅子から立たせた。腕を組む事はせず、けれどするりと手を繋いでくる。フランシスがちらりとバーテンダーを見ると、彼は無表情のまま、グラスを磨いていた。浮かない顔を隠す事はできなかった。口をへの字にして、けれど手を引かれるままにアーサーに続いて階段へと近づいて行くと、そこにずっと立っている男がチラリと二人を見た。珍しい髪と瞳の色をした彼は、にやりと笑いながら眉を片方上げて見せた。アーサーはそれを鼻で笑って、フランシスを連れて階段を上って行った。


アーサーの部屋は三階にあった。階段から一番離れた場所で、いくつもの扉を通り過ぎた先にあった。「A」という文字のオーナメントがかけられたそのドアを開けて部屋に入ると、アーサーはフランシスの手を強く引いて部屋の中へ引き込んだ。後ろ手にドアと鍵をしめる音が聞こえる。舌なめずりをしそうな顔を見て、フランシスは泣きたくなった。

「もうここなら、みんな見てないから振ってもいいでしょ」

部屋を見回しながら、フランシスが言と、アーサーは無言でフランシスに近づいた。ベッドとクローゼットしかない質素な部屋だが、二つだけ置いてある小物は予想外にかわいらしい。クローゼットの隣のドアが開いていて、そこをチラリと覗くと、小さなシャワールームと、併設したトイレがあった。様々なものが危惧していたよりも清潔で、何とはなしに安心したその隙を、アーサーは確実に捕らえにくる。

「言ったろ、もう支払いは受け取ってるんだ。オトモダチの顔を立てると思って遊んでけよ」

アーサーは、じりじりと、フランシスをベッドの方へ追いやっていく。

「じゃあ、そのお金はお前の誕生日プレゼントとして受け取ってよ」

「誕生日プレゼントをくれるような知り合いはいねえ」

フランシスの足がベッドに触れ、それ以上後ろに下がれなくなると、フランシスは目に見えて狼狽えだした。アーサーは迷い無く近づいてくる。とうとう、足の絡まる位置で立ち止まったアーサーを避けようとしたフランシスは、ベッドに尻餅をついた。その両脇へ、アーサーはすかさず手をついて、腹筋を震わせて姿勢を保つフランシスを、容赦なく上から覗き込んだ。

「お星様通りのアーサー王だぞ、わりと有名だと思うぜ?」

アーサーは笑った。

「まぁ、お前にとっちゃただの薄汚い売女か」

自分を貶める言葉を、本当に楽しそうに吐いている。

「近くで見るとほんとにお綺麗だな」

フランシスが精一杯の矜持を保って、何とか逃げ出さずにいる様を、おそらくアーサーは笑っているのだろう。酷く腹が立ったが、何を言っても無駄な気がして、フランシスはただただアーサーを睨みつけていた。けれどおかまい無しに段々とアーサーの顔が近づいてくるので、フランシスは慌ててその顔を両手で掴む。

「アーサー、これがお前の仕事だってのはわかる。でも、本来こういう事は、愛してる人とするんだよ」

「愛してるよ」

間髪入れずに返ってくるこたえに、フランシスの両手に力がこもる。容赦なく掴まれているアーサーの顔が、少しゆがんだ。けれどその笑顔も視線も、少しも揺るぎはしない。

「フランシス、綺麗なひとみだ。髪からもいいにおいがする。やさしそうな頬だ」

「なに…」

「お前、あったかそうだ。でもここに来るってことは、どこか寂しいはずだ。俺が埋めてやるよ、何もかも」

からかうようでいて、誘うようでいて、けれどどこか優しい優しい声で、アーサーは言葉を紡いだ。耳を傾けてはいけないとわかっているのに、心が勝手に傾いていく。なるほど、大した手腕だ。同じような事を誰にでも言うのではないのだろう。おそらくは相手にあわせて、このアーサーという男は様々に変身するに違いない。出会ってから今までも、言動は一貫していない。無邪気に誘ってみたり、寂しげにしてみたり、かと思えば今は、母のようにフランシスを慈しんですらいる。

「有償だけど、愛は愛だ。お前が欲しがるぶんだけくれてやる」

穏やかにそう言ったかと思うと、アーサーは突然、フランシスの肩をベッドに押し付けて、太ももの上に膝を片方乗せた。完全に身動きがとれなくなり、フランシスが慌てて抗議の声を上げようとしたところで、アーサーがその口で、フランシスの口を塞いできた。言おうとしていた文句は鼻から吐息になって逃げていく。その代わりとでも言うように、じゅるり、とみずみずしい音が響いた。

よく熟れた桃にかぶりついているようだと、フランシスは思った。口の中が甘く溶け、お行儀の悪い果汁が口元を汚していく。暴力的に甘い一口目を飲み込んでしまえば、そこにある二口目を拒む事ができない。

「もっと、ほしいだろ?」

声になりそこねた空気が熱を持って耳に届くと、フランシスはとうとう、観念した。



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「よっ色男!昨夜はお楽しみやったかな〜?」

翌日の午後、フランシスがディナーの仕込みのために厨房に立っていると、遅刻魔でもある友人ーアントーニョが声も高らかに裏口から入ってきた。その声を聞くなり、フランシスは激情に任せて、近くにあった玉ねぎを投げつける。

「おっまえ!!!ほんっと!!!!!やめてくれる!!!!????」

このまま憤死してもおかしくないのではないかというほどに顔を真っ赤にして肩を怒らせ、頭巾を被っていなかったら髪から何から逆立っているのではないかという形相で、フランシスは叫んだ。アントーニョが友人でなく、そして二人の職場であるこの小さなレストランのオーナーシェフでなければ、拳の一発や二発、蹴りの三発や四発は遠慮せず叩き込んでいるところだ。しかし店が開けないような事態になっては、お互いに大変に困る。当のアントーニョはへらっと笑いながら玉ねぎの皮をむき始めた。

「会ってみたいて言うてたやん」

「言ったけど!」

「ええやん、お前男もいけるやろ」

「いけるけど!」

「いっつも無難な子ぉばっか選んで、無難に付き合うてすぐ無難に別れるやん。たまには気分転換で強烈なの味わっとき」

「そりゃあもう強烈だったけど!!!」

沸騰する直前のやかんのように、しゅうしゅうと湯気を出すフランシスを見て、アントーニョは悪びれるでもなく笑った。この男の、この意味のわからないほどの愛嬌は、何度彼を救ったのだろうか。いい加減なお調子者に見えて、その実、町を歩けば柄の悪い男達がサッと道を開けるのだから、人というのは見かけで判断してはいけない。

「そいや、ギルちゃん見た?」

「…誰?」

「階段とこに誰か立っとらんかった?プラチナブロンドで、赤っぽい目ぇしたやつ」

特徴を言われれば、あの馬鹿にしたような笑顔を思い出す。フランシスが不機嫌を顔に乗せると、アントーニョは肩をすくめて笑った。

「うちのお嫁さんの弟なんや。嫌わんといてな」

彼は、その妻の話になると、いつもこうして少しはにかむ。フランシスは気にした事が無かったが、どうやら彼女が娼館の出だという噂は本当なのかもしれない。アントーニョの結婚については一悶着も二悶着もあったというが、その渦中に居た時ですら、アントーニョはそれをフランシスに気づかせなかった。ある日、とんでもなくだらけた顔で美しい女性を連れてきたかと思うと、心底嬉しそうに妻だと紹介したのだ。フランシスはそれはそれは驚いたが、幸せそうな二人を、心から祝福した。

「リーゼロッテさんは元気?」

ギルちゃんとやらの顔を頭から追い出しながら、フランシスは尋ねた。すると、途端にアントーニョは相好を崩す。

「心配せんでも元気やで!この店がやってけるんも、お嫁さんのおかげやしな」

「はは、違いない」

アントーニョと話しているうちに、フランシスの怒りは段々と薄れてきた。下ごしらえのために自分も玉ねぎを手に取る。アントーニョの連れてきた美女は、笑うと砂糖菓子のように甘やかなくせに、ひとたび財布を握らせたら右に出る者は居ないという程の節約家だった。けれど単にケチというわけではなく、良い食材を見れば惜しみなく仕入れてくる。食材の見極めに妥協の無い彼女が、値切り界の奇才であるアントーニョと連れ立って市場に行くようになり、レストランの財布は安定しはじめ、しかも料理の評判は徐々に上がってきているのだった。

彼女の事を思い浮かべて、アントーニョもご機嫌になったのだろう。ふんふんと、調子のいい鼻歌が聞こえてきた。ツンとする鼻をすすりながら玉ねぎを刻み、ふと、フランシスはアーサーの事を思い出す。全く、昨夜は良くも悪くもとんでもない目に合ったが、不思議と心は凪いでいる。アーサーは、宣言した通りにフランシスを甘やかした。惜しみなく愛を囁き、誕生日を祝う歌さえ歌ってくれた。そうやって、「まるで本当に愛しているかのように」フランシスを扱った。それが嘘だと知っていながら、フランシスはそれを信じた。フランシスが逃げるように部屋を出るのをさえ、アーサーは優しげな眼差しで見守っていた。

彼は本当にプロなのだと、フランシスは思う。フランシスの得意料理は菓子全般だ。レストランではデザートとして振る舞われる事も多いそれらは、直前まで食べていた食事を引き立て、客がレストランを去る時にも、かすかに口元で香り、食事の記憶が甘く柔らかなものとなるように、と願いと計算を込めてある。アーサーがフランシスを見送る視線は、まさにデザートのそれだった。おいしかった、というその記憶に、やさしくされた、という印象を付け加える。

「そういえば」

ふと、フランシスは思い当たる事があり、切ったタマネギをボウルへ入れながら口を開いた。

「こんな出費、よくリーゼさんが許したねぇ」

「あー…」

珍しく、うなるような声が返ってきて、まさか無断での出費だったのか、とフランシスが心配すると、アントーニョは困ったようにヘラリと笑った。

「お前も知っとるやろ?お嫁さんの噂。あれほんとの事やねん。しかも俺らあの店で出会うたし、アーサーとも知り合いなんや」

いきなりの告白に、フランシスは思わず包丁を置いた。心が乱れている時は、刃物は手から離すに限る。

「あ、そう」

まな板の上に置かれた玉ねぎを見ながら出した声は、ポットパイのパイ生地を破った時に出てくる湯気のようにぼんやりとしていた。

「ほんで、まあ値切るやん?せやけど向こうも生活かかってるやんな?そういうわけでもうすぐ飯食いに来んねん」

「あ、そう…」

「せやねん」

ふぅん、と相槌を打ちながらもう一度包丁を持とうとして、フランシスは俊敏にアントーニョを振り返った。

「は!?お前今なんて言った!?」

「せやねん?」

「その前!」

「もうすぐアーサーが飯食いに来んねん。お前のプレゼントなんに悪いけど、何度かタダで食わしたってな〜」

ははは、と笑うアントーニョに、フランシスは今度は包丁を投げそうになったが、ぐっとこらえる。あ、そう、ともう一度返事をして、フランシスは心を落ち着けようと、今度は卵を割り始めた。

「安心せぇ、店開けとる時間は来るなて言うてある」

コンコン、カシャン、コンコン、カシャン、とリズミカルに聞こえる卵の音に紛れて、アントーニョの声が静かに聞こえてきた。お互いに背を向けているので、どんな顔をしているのかは見えない。見えないが、ただ明るいだけの表情ではないのだろう事は、その声音から読み取れた。

「そういう事じゃない、トーニョ」

リーゼロッテとの事も、アントーニョの生まれや育ちも、フランシスは良くは知らない。アントーニョだって、フランシスが孤児院で育った事や、姉代わりだった女性を十数年前に亡くした事を知らないのだ。けれど何も知らずにいても、何もわからない訳ではない。

「ここにはどんな人だって来て良いんだって、店を開く時に決めたじゃない。まぁ…お金払ってくれればだけど」

世の中には、様々な事情を抱えた、色々な人が居る。生活のために大声では言えないような仕事をしていたり、出身地や肌の色で差別をされたり。重いものを背負い込んで顔を上げる事ができない者や、更正しようにもつまはじきにされる者。どんな状況であれ、みな、必死に今日を生きている者ばかりだ。けれどどんな事情を持っていても、おいしいものを食べる権利はある。アントーニョとフランシスの開くレストランには、ドレスコードも、ゲストコードも無い。きちんとした対価を払えば、おいしくてあたたかい食事を、誰だって食べる事ができる。

「まぁな、食い逃げは許さんわな」

アーサーがどのような仕事をしているにしろ、彼は一生懸命生きて、自分で稼いでいる。その彼が店に来るのは、何ら問題無いのだ。無いのだが。

「俺が気にしてるのはさ…」

「よーアントニョン!来てやったぞ!」

噂をすれば何とやら、フランシスが懸念を口にするその瞬間に、派手な音を当てて裏口の戸が開いた。びくりと驚いて思わず手に力が入ったが、辛うじて卵を握りつぶす事はなかった。

「ドア壊すなよ、うちも貧乏やねんから!それとちゃんとアントーニョて呼べや!」

「ははは、あん時の屁なんです仮宿、って覚え方、最強だろ」

「こん畜生!去ね!」

フランシスが卵の心配をしている隙に、ケラケラと笑うアーサーの声がして、アントーニョが皮をむいた玉ねぎをアーサーに投げつけていた。フランシスはそっと顔を伏せ、無駄な抵抗を試みた。しかし予想していた通り、アーサーはすぐにからかいの矛先をフランシスに向けてきた。

「おっ、なんか見た事ある奴が居る」

いやらしい声音がフランシスの耳を撫で、アーサーがにんまりと笑っているのが想像できた。

「なんだ、お前ここのやつだったのか」

油の切れたブリキの人形のようなぎこちなさでフランシスが裏口を見ると、アーサーは玉ねぎで遊びながらも、室内には一歩も入っていなかった。それが少し意外で、けれど何と声をかけてよいのかもわからず、味付けを間違えた料理を味見した時のような顔をする他ない。

「せっかく来たけど、早すぎや。ちょお待っとき、何か作ったる」

その様子を笑いながらアントーニョが鍋を出し始めると、アーサーは玉ねぎをアントーニョに投げ返した。

「いや、今日はいい。昨日こいつ帰んの早かったからさ、その後飲み比べに参加して勝ったはいいけど、今なんか食べたらすぐ出てくる!はは!笑えるだろ!だからもったいねーから明日食うわ」

アーサーは馬鹿みたいに笑っているが、そんな酷い状態なら出歩くなと、フランシスは少し思った。アントーニョは何でもない事のように笑い返して、そうか、なら待っとるわ、と鍋をしまっている。結局フランシスを冷やかしに来たのか、と身構えていると、アーサーはポケットから、くしゃくしゃになった紙を数枚取り出し、これまたアントーニョに投げ渡した。

「今日はこれ渡しに来てやっただけ。じゃあな!」

それだけ言うと、少しふらつく足取りで、アーサーはドアも閉めずに去って行った。立ち寄った嵐を追いやるように、フランシスは静かに裏口の戸を閉めた。結局アーサーは、一歩も建物には入らなかった。それが少し気になって、けれど気にする事なのかどうかよくわからず、何とかしろとでも言うようにアントーニョを見た。アントーニョは、受け取った紙を丁寧に広げている。よく見ると、手紙のようだった。

「何それ?」

「これか?ギルちゃんと、あともう一人弟がおんねんけど…バーテン覚えとるか?えらいムキムキの…」

「うーん…ひたすらグラス磨いてた奴なら見た」

「多分それや。その二人からの手紙やな、リーゼ宛の」

言いながら丁寧に手紙を畳み直し、アントーニョは自分のズボンのポケットへしまった。会いに来ればいいじゃない、と言うのは簡単だが、その実現が簡単ではない時もある。フランシスはふうん、と曖昧に相槌を打って、卵を割る作業に戻っていった。




---



明日食うわ、とアーサーが言ってから、三日が経った。フランシスはつつがなく誕生日を過ごし、リーゼロッテの作ったケーキを食べ、アントーニョが手に入れて来た悪くないワインを飲んだ。

その日も開店準備のためにレストランへやってきて、エプロンをつけ、じゃがいもの皮でも剥くか、と芋を一つ手に取った。しゅるしゅると慣れた手つきで芋を裸にしていくと、だんだんと心が凪いでくる。アーサーは今日こそ来るのだろうか、それとも、来ないのだろうか。手紙を投げて寄越した翌日にアーサーが現れなかった事を少し気にしていたら、アントーニョはそれを笑っていた。「あいつの『明日』いうんは次会う時いうことや」と言われ、ああ、そういう事なのね、と、意識の隙間にストンと収まった積み木のおかげで、フランシスは焦るでもなく、おびえるでもなく、アーサーが食事をしにくるのをアントーニョと待っている。

一通り皮をむいて、ぷかぷかと水に浮かぶジャガイモを見やると、フランシスは包丁を置いて、肩を鳴らした。今日はまた遅いようだが、そろそろアントーニョも来るだろう。思い浮かべた途端に裏口に人の気配がして、遅いと文句を言ってやろうと振り返った。

「よっ」

開きかけたフランシスの口は、すぐに閉じられた。そこにはアントーニョではなく、記憶が確かならばギルちゃんとやらが片腕を上げて立っていた。

「おっ、どっかで見たぞ…そうだ!四日前にアーサーと居たやつだな」

ケセセ、と少し乾いた笑いをこぼして、腕を組んで入り口の壁にもたれる。何かにもたれた姿勢をとるのが、彼の基本なのだろうか。

「…何か用?」

フランシスが冷たい声を出すと、彼は厨房を見渡した。

「アントーニョは?」

「まだ来てないよ」

「あいつ自分とこでも遅刻魔なのかよ」

「…ところでお兄さん、名前は?ギルちゃんて呼べばいい?」

「やめろ。俺様にはギルベルトという崇高な名がある」

「あっそ、ギルちゃん。トーニョならもうすぐ来ると思うけど、中で待ったら?」

アーサーもギルベルトも、ドア付近が好きなのだろうか。じゃがいもの処理を続けながら、フランシスは努めて素っ気なく、ギルベルトに声をかけた。ギルベルトはその様子を小さく笑って、ドアの外を見回した。

「いや、ここで…あ、来やがった」

「いや〜遅くなってしもた〜ってギルちゃん?どしたん?」

相変わらず、登場と同時に賑やかになる男である。フランシスが聞き耳を立てるまでもなく、二人の会話はしっかりと聞こえてきた。

「アーサーが、自分の代わりに飯食って来いって言うから一応来たんだけどよ」

「何や、まだ具合悪いんか。…ほんまに酒か?」

「いや、酒じゃねえと思う。まあ風邪ならそのうち治るし、治らなかったら死んじまうかな」

意外と面倒見が良いかと思えば、さらりと現実を隠さない。遠いところにあると信じたいものほど身近に溢れ返り、すぐ側にあってほしいと願うものほど、遥か彼方に輝くものだ。

「とりあえず来たけど、俺このままブラブラして帰るから、あいつ元気になったらなんか食わしてやってくれ」

「せっかく来たんや、うち寄れや。昨日が納期やったから今日あいつゆっくりしとると思うで」

「…いや、俺だけ会うのもルッツに悪い。今度にする」

「相変わらず真面目なブラコンやな」

「お前が言うな!」

じゃれあうように言葉を交わすと、ギルベルトはさらりと、風のように去って行った。どうもここ数日裏口に現れる客は、別れを惜しむ事をしない。というか、ギルベルトは本当に、何をしに来たのだろうか。アーサーへの義理を通し、アントーニョに少し顔を見せる、きっとそれだけのためなのだろうけれど。

すっかりじゃがいもを切り終えたフランシスは、大きな鍋を火にかけた。



---



それから更に数日が過ぎた、ある日の夕方、ふらりとアーサーが現れた。少し血色が悪く、髪も以前にも増してボサボサで、フランシスは気まずさも忘れてアーサーに椅子を勧めた。アントーニョがすぐに鍋を取り出して、ミルクを温め始める。

「お、生きとったか!座って待っとれ、なんか作ったる」

「えらい目にあったぜ」

アーサーは、厨房とテーブルフロアの境目に置かれた椅子に座り、背もたれとカウンターに体重を預けている。疲れたようなその姿勢が彼に似合わなくて、フランシスは玉ねぎの皮を剥きながら、目の端でアーサーを見ていた。

「何や拾い食いでもしたんやろ」

「まぁ拾い食いはしたけど、俺の腹はそんくらいじゃどうにもなんねえよ」

「まさかお前」

「薬はやんねえって」

ま、風邪だろ、と力なく笑ったアーサーは、アントーニョにしきりに空腹を訴えた。食欲があるのなら、きっとすぐに回復していくだろう。フランシスは少しだけ安心して、肩の力を抜いた。

「フランシス」

ふと名前を呼ばれ、フランシスは何、と振り向いた。会うのは殆ど二回目だが、アントーニョやギルベルトのせいで、感覚的には充分に知人となっている。視線を渡した先で、アーサーはだらしなくカウンターに腕を投げ出し、その上に置いた顔がフランシスの方を向いていた。

「なあ、また来いよ」

あの日、部屋を出るフランシスを見送ったのと同じ目と声で、そんな事を言う。心が一歩、バランスを崩したのを感じるが、まだ転ぶまでには至らない。どう返したものか、とフランシスが口を開けずに居ると、鍋に向かい、背を向けたままのアントーニョが笑った。

「なんや、気に入ったんか」

「ああ、嫌いじゃない」

背後から、カツン、と、木べらで鍋をかき混ぜる音がした。フランシスは肩をすくめて、意地悪く笑う。

「気が向いたらね」

適当な事を、気楽に口にした。

何だか、そんな風に適当に誰かをあしらう事が酷く久々に思えて、少しおかしかった。

「俺そんな高くねえじゃん」

「値段は…知らないけど、敷居が高い」

「ふうん、へたれなんだな」

「俺は誠実な男なの」

「俺の客、結婚してるやつたくさんいるぞ」

「他人がどうとかじゃなくて、俺が、誠実な男なの」

「へぇ、変なやつ」

普段は全くマイペースなアントーニョが、今日に限って会話に紛れ込んでこない。ただ、ご機嫌にリゾットを盛りつける音は、カチャカチャと聞こえて来た。漂ってくるおいしそうな湯気と、食器を並べる音。ほい、とアーサーの前に皿を置きながら笑うアントーニョと、うまそうだ、と目を輝かせるアーサーに、フランシスも何だか気分が上向きになってきた。一通りのものが目の前に並ぶと、アーサーは祈りも捧げずにスプーンを手に取る。自らの習慣と違うからといって、フランシスもアントーニョも、それを咎めはしない。けれど、はふはふと追い立てられるように食べ始めるアーサーを笑って、ゆっくり食べなとコップに水を注いだ。


「あ、そういえば」

一度おかわりをして腹の満ちた様子の彼は、皿を下げようとフランシスが近づくと、子供のように笑ってポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。アントーニョは、アーサーをフランシスに任せて開店の準備をしている。それが意図的なものなのかどうか、フランシスにはわからないし、どちらでも構わなかった。

「なに、また手紙?」

「ちげーよ、ほらこれ」

アーサーが紙を広げると、そこには慎重に書かれたであろう、けれど残念ながら震えるミミズのような文字で、アーサーの名前が書いてあった。フランシスが首をかしげると、アーサーは少し誇らしげに顔を上げた。食後だからか、頬がさきほどよりも赤い。

「俺、自分の名前書けるようになったぜ!」

褒めろと全身が言っていて、フランシスは思わずアーサーの頭を撫でた。見た目よりも柔らかな髪が、素直にくしゃりと手の中でまぜられる。

「すごいじゃん」

フランシスは、何の裏もなく褒めた。アーサーの年齢は知らないが、読み書きを習うのは良い事だと思う。実を言えば、アーサーが文字を読めない事は知らなかったが、それはそれ、これはこれだ。初対面は最悪だったが、友人として接してみれば、アーサーというのは何とも庇護欲を誘う、不思議な青年なのかもしれない。

「もう手本を見なくても書けるから、これやるよ」

「はは、こんなくしゃくしゃなのいらねえよ」

「そうかよ、次にくれって言ったってやらねえからな」

「はいはい、じゃあせっかくだからもらってやる」

フランシスにとってはただのくしゃくしゃの紙だが、きっとアーサーにとっては、なかなかに誇らしいものなのだろう。子供ができたらこんな感じかな、と思いながら、フランシスは受け取った紙のしわを丁寧に伸ばした。

「いつかお前の名前も書いてやるよ」

「老後の話?」

「バカ、すぐだよすぐ」

「はは、ほんとかよ」

笑いながら、フランシスはふと、気楽だな、と思った。癖のあるどころではない出会いをして、なしくずしにあれやこれやをした。その後二度と会わないと思っていたから、変に取り繕ったりしなかった。意図せず相手を否定してしまわないように、少し気を遣いはしたが、そのくらいだ。店の外に出ても、アーサーは変わらなかった。だからフランシスも、態度を改めることはしない。本当なのか嘘なのかわからないような適当な事を言い合い、打ち返されてくる言葉を、更に打ち返す。

「お前の名前書いてやったら、感謝のしるしに遊びに来いよな」

「ちゃっかりしやがって。酒くらいなら飲みに行ってやってもいいよ」

フランシスがそう言うと、アーサーはにんまりと笑った。店に来てしまえばこっちのものだ、とか何とか考えているに違いない。フランシスが無言で食器を下げると、アーサーは、しばらく頬杖をついて、皿を洗うフランシスと、魚を開くアントーニョを眺めていた。姿を現した時よりも幾分か伸びた背筋に、ほっと息をつく。フランシスのズボンのポケットの中で、カサリと乾いた紙が笑った。


しばらくして、アーサーはふらりと、裏口から帰って行った。店を開くまでにまだ余裕がある時間で、けれど切りのいいタイミングでもない。少しいぶかしむと、アントーニョはいつものように笑った。

「あいつ、金関係以外の文字はわからんねん。時計も読めんし、この店が何時に開くとかも知らんのとちゃうかな」

ふうん、と曖昧に、フランシスは返事をした。読み書きができて、時計も読めるフランシスには、アーサーがどのような感覚で生活をしているのか、あまり想像ができそうになかった。けれど、店で鳴っていた振り子時計を思い出す。あの娼館の二階や三階に住む者にには、時計を読める者は少ないのかもしれない。だからこそ、音で開店を知らせるのだろう。

「ギルちゃんと弟さんは手紙を書けるんだね」

「ああ、あいつらな。育ちはええらしいわ」

「そうなの?」

アントーニョとの付き合いは短くない。話したくない事であればはぐらかすだろう事を知っているから、フランシスは疑問をそのまま口にした。アントーニョは笑った。

「うん、運命のいたずら的なんがなかったら、俺なんか一生顔も見れんような人を嫁にもらってもうたわ」

「お前ほんと運良いよね」

その運命のいたずらが、幸運な場合とそうでない場合がある。フランシスから見て、アントーニョは決して悪い男ではない。いや、恥ずかしいから絶対に言いはしないが、充分に良い男だと思う。リーゼロッテがアントーニョの妻になった時、フランシスは二人の将来について何も心配を感じなかった。彼女はこれから、間違いなく幸せになるだろうとすら思った。けれど、そこへ至る経緯や事情は、必ずしも光に満ちたものではなかっただろう。

「ほんまやな」

アントーニョは、珍しく神妙な顔をして、噛み締めるように笑った。かと思うと、ふと、フランシスを見る。

「そういや、アーサーのやつ、誰に字習っとんのやろ」

「え、ギルちゃんとかじゃないの?」

「だったらそう言うやろ」

「…そう?」

アーサーに文字を教えたのがギルベルトでないとするなら、高確率で客ということになってしまいそうだと、フランシスは思った。それを裏付けるかのように、

「そういやちょっと前に、学者ひっかけたとか言うてたな」

と、アントーニョがトマトを煮込みながら言う。プレゼントだとか言って聖書持ってきやがった、読めねえし興味もねえ、とアントーニョに押し付けてきたらしい。幸いというべきか否か、アントーニョもリーゼロッテもクリスチャンだったので、その聖書はありがたくいただいたそうだ。いつかアーサーが返せと言ってきたらすぐに返せるように、大切に本棚に並べてあるという。本のお返しとして、アーサーにはリーゼロッテの焼いたパンを渡したらしい。なので、アーサーとしては、もう聖書の存在など忘れているだろう、とアントーニョは続けた。

「ふうん」

思いのほか不機嫌な声が出て、フランシスは驚いた。食いついてからかってくるかと思ったアントーニョは、思い切り含みを持たせて笑っただけで、テーブルのセットをしに厨房を出て行った。食器の汚れを確認したり、レモンを切ったりし続けながら、フランシスは誰に言うでもなく、別に気にしてないし、と口元をもごもごとさせた。

気にしてない、気にしてない。

心の中で唱えるたびに、どんどんと気になってくる。

人の気持ちというものは、そういうものだった。



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それからしばらく、アーサーは店に来なかった。フランシスも、もちろん娼館を訪れる事は無い。ただ、窓枠に囲まれた景色が夏から秋になっていくのを追いかけた。玉ねぎやじゃがいもの皮を剥いたり、魚を焼いたり、シチューを煮込んだりしながら。チョコレート細工も、焼き菓子も、そういえば毎日作っているのに、結局アーサーがここへ来て食べたものといえば、アントーニョの作ったリゾットだけだ。ふとそんな事に思い当たるが、決して、その事実を気にしてなどいない。フランシスは、今日もアーサーの事を思い浮かべては慌てて頭から追い出す、というサイクルを繰り返す。すでに、日課のようになっている事に、そろそろ自分でも気づいている。

来ないと言えば、ギルベルトもあれ以来姿を見せていない。アントーニョとどのくらいの付き合いがあるのかは知らないが、あの日まで、フランシスはギルベルトにもアーサーにも会った事は無い。けれど二人とも、店の位置をよく知っているようだったし、アントーニョとも親しげにしていた。もしかしたら、フランシスのいる時間を避けて尋ねて来ていたのかもしれないし、客として食事をしに来ていたりしたのかもしれない。一旦開店してしまえば、フランシスは厨房で慌ただしく動き回り、アントーニョは料理を運んだり会計をしたりと忙しい。テーブルが5つとカウンター席の小さな店だが、おかげさまで客足は途絶えない。

そんな風に、お昼近くに目覚め、夕方までには厨房に入り仕込みを始めて、夜中過ぎまでレストランを回し、後片付けを終えた深夜に帰宅する、という毎日が、季節に乗って巡って行った。


その日、フランシスは家賃を払いに出かけていた。いつもにこにこ現金払い、封筒に入れたそれを大事に懐に抱え、けれど少しでも意識すればスリに合う確率が高まるので、いつものように新作のメニューを考えながら、何の事はない昼下がりを歩いていた。街中の様子はいつもと変わらない。道ばたで靴を磨かせている紳士や、早足で歩く青年達。郵便配達の青年や、時計屋の店先で立ち話をするご夫人達。無事に大家の事務所に到着し、封筒を渡す。目の前で中身を改められて、はい、たしかに、と老婆が笑えば、フランシスもほっと胸を撫で下ろした。

「お前さんは綺麗に住んでくれてるからね、わたしも嬉しいよ」

もう何年も同じ部屋を借りているので、家主とはすっかり顔なじみになっている。家賃を支払いに来たついでにお茶をごちそうになるのも、ここ数年は毎回のことだった。家賃を期日までに払えなくて、口約束しかできなかった時期もあったが、面倒見の良い老婆はフランシスを信じ、部屋から追い出すような事はしないでくれた。フランシスは、今でもその出来事を大切な思い出として持ち歩いている。母を知らないフランシスにとって、それは数少ない、「母」との思い出だった。

「そうそう、アントーニョは元気かい?」

尋ねられて、フランシスはうん、と答える。部屋を紹介してくれたのは、アントーニョだった。二人は、今よりも随分と若く幼かった頃、隣町のレストランで住み込みで働いていた時に出会った。陽気だが厳しい料理長は二人を息子のように扱い、育ててくれた。年齢が近かった事もありすぐに仲の良くなった二人は、そのレストランで様々な事を学んだ。読み書きもそこで習った。料理長が引退し新しいチームができる時、二人はそのレストランを去り、今の場所に新しい店を構えたのだ。レストランの仲間や新料理長、それから先代の料理長は、生意気だなんだと言いながらも、盛大に祝ってくれた。そしてレストラン開店準備のためにフランシスが食材の仕入れルートを開拓している間、アントーニョは不動産屋や町の役所などを回っていた。レストランの店舗を紹介してくれたこのおばあさんが、ついでに、と格安のアパートメントも紹介してくれたのだ。

「元気元気。あいつの奥さん、会った事ありましたっけ?」

「ああ、あるよ。優しそうな子だったねぇ」

アントーニョは結婚を機に、少し大きな部屋に引っ越した。リーゼロッテは仕入れの後は、家で裁縫の仕事をしている。

「ほんと、あいつにはもったいないくらいの女性だよ」

フランシスがしみじみとそう言うと、老婆は耐えきれずという風に笑った。

「お前さんは所帯は持たないのかい?」

「うーん…こればっかりは、相手のある事ですから…」

「ふふ、まぁ、焦らない事だよ。いくら澄ました顔をしててもね、ある日突然、気になる人と出会うもんさ」

「はは…」

人生の先輩の言葉は、不思議と説得力がある。ほんの少しだけ、砂糖のひとつぶほどには自覚のあるフランシスは、曖昧に笑ってごまかした。老婆はそんなフランシスを見て、くしゃくしゃの顔の皺を深める。目尻に、からすの足跡がくっきりと浮かび上がった。

「誰か気になる人が居るなら、さっさと手に入れな。誰かにとられたり、もう会えなくなってしまってからでは、遅いんだよ」

今度こそ、全てを見透かされているような気持ちになって、フランシスは困ったように眉をハの字にした。

「そうだね」

目を伏せて笑って、暖かい時間に少し浸る。それから老婆といくつか他愛の無い話をして、事務所を去った。

帰り道、身に受ける風が冷たくて、もうすぐ冬なのだと思った。道行く人々も肩をいからせ、早足になっている。すっかり日が短くなり、少し薄暗い。街灯がぼんやりと、ホットミルクのように辺りを照らしていた。稀に、どこの店にも属さない娼婦が街頭で客引きをしている時がある。この寒さでは、彼女達も辛いだろう。

腹を冷やす震えから自分を守るように腕を組み、早く店に行こう、とフランシスも足を早めた。


店に着くと、アントーニョが店先に立っていた。フランシスを見ると、ホッとしたように近づいてくる。

「どしたの?」

「すまん、今日だけちょっと店閉じてええか?」

「え…ああ、良いけど、何があったの」

「うん、…詳しくは中でな」

いつもと変わらないような様子で、少し辺りを気にするそぶりを見せるアントーニョに、フランシスの気配もざわつく。促されるままに、臨時休業と書かれた紙の貼られた入り口を通って店内へ入った。アントーニョが、すぐにカチャリと鍵を閉める。すると、ガタン、と上の階から音がした。店の上はアパートになっていて、そこへ続く階段は、店とは反対側にあり、フランシスはその住人と会った事は無い。けれど、こんな風に大きな物音を聞いたのも初めての事だった。

「上の人どうしたんだろうね」

何か会話を始めたくてそう言うと、アントーニョがばつの悪そうな顔をした。堪忍な、と話し始めるアントーニョに、急激に嫌な予感が膨らんでくる。

「実は、上の階も俺が借りとんねん。店と関係無いから今まで黙っとった」

「え、そうなの?」

「うん。そんでな…実は時々、アーサーとかが来たりしとる」

「…は?」

「あんな、まあこの際やからぶっちゃけるけど、俺も『お星様通り』出身なんや。アーサーともガキん頃からの付き合いで、まあなんていうか、ほっとけんとこがあるっちゅうか」

「…うん」

今更アントーニョの出身地を聞いても、特には驚かない。案外面倒見が良く、情に厚いアントーニョが、長い付き合いのアーサーを放っておけないというのもわかるし、そもそも、ストリートの兄弟達は、強い絆で結ばれていると聞いたことがある。フランシスは、アントーニョという人間を、一緒に商売をする程度には気に入っているし、信用している。今更何を聞いたところで、評価を変える必要は無い。

「あいつの客なぁ、たまに困ったのがおんのや。あいつの客に限ったことや無いけども、男やと思うと容赦がないんかな…腹とか手足とか、酷いと首んとことかにでっかい痣作っとる時があんねん。俺らはいつもそういう客はやめえ言うてるんやけど、聞く耳もたへん。あ、ギルちゃんらな、一応見張りというか、警備員みたいのしてんねん。勝手に上の階行こうとする客のしたり、部屋でなんかあったら叫べば助けに行くんやって。けどアーサーの奴…一度も助けを呼んだ事無いねんて」

フランシスは、相槌を打つ事しかできない。今まで、暴力やら娼館での事件は、噂で聞いた事はあっても、決して身近なものではなかった。それが突然こうして、知り合いの話として聞かされているので、どのように受け止めたらよいのか、準備不足でうまく処理できない。

「そんで時々、見かねたギルちゃんが連れてくんねん。そういう時は上の階に放り込んでるんや。店が終わるまで大人しくしとったら、飯食わしたるから、て言うて。あいつ、見返りがちゃんとあれば大抵のことは受け入れるやつやから」

けどなあ、とアントーニョが天井を見上げると、再び、ドタン、という音がした。話から察するに、今日は暴れているのだろうか。

「あいつ、お前の事えろう気に入っとるようやから、お前からも言ってやってや。客は選べて」

頼むわ、と困り顔で頼られれば、フランシスも否とは言えない。例え頼まれていなくても、アーサーの話を聞いてしまっては、フランシスには無視をするなどという選択肢は残されていないことを、彼は不本意ながら自覚している。

「わかったよ」

フランシスが頷くと、アントーニョは心底ほっとした様子だった。肩から力を抜き、こっちや、とフランシスを案内する。いつもの裏口から外へ出て、裏口にはしっかりと鍵をした。ぐるりと建物の周りを回って、外に付いている頼りなげな、はしごを斜めにかけたような階段を上る。建物の中に入るのに一つ鍵をつかい、廊下の奥の個室に入るために、更に二つの鍵を使った。


ドアを開けると、床に置かれたマットレスに、ギルベルトがアーサーを押さえつけているところだった。その少し離れたところに椅子が倒れていて、先ほどの音はこれだったのだろうと予想がつく。現れたアントーニョとフランシスに、ギルベルトは安堵の溜息をつき、アーサーは目をぱちくりとして息を飲んだ。しかしすぐに、好戦的に笑う。

「なんだよ、数で来んのか?」

ギルベルト一人にも、決して勝てている様子ではなかったが、アーサーは臆する事無く目をぎらつかせる。その片頬が、赤く腫れていた。

「ちゃうちゃう、いつもの交渉や。明日の朝までここで大人しくしい、飯は作ったれるかわからんけど、こいつ貸したる」

「え」

先ほどの話と微妙に違うような気がして、フランシスは一瞬驚くが、まあ、レストランも臨時休業だし、と頷いておいた。アーサーはと言えば、少し考えたそぶりを見せたが、ギルベルトを押し返していた腕から徐々に力を抜く。それを見てギルベルトがアーサーから手を離し、やれやれと息をついた。マットレスの上でくたりと力を抜いたアーサーは、に、と笑う。

「わかった、いいぜ」

「じゃあフランシス、悪いけど、頼むわ。その辺のもん、何でも使てかまわへんから」

アーサーが了承の意を告げれば、アントーニョは、汲み置いてある水や、転がっているフルーツを差して言った。ギルベルトは椅子を立て直し、肩を回しながら帰り支度を始める。二人はそのまま部屋を出て行った。外から二つの鍵をしめる音が聞こえ、それが終わってしまえば部屋の中は静まり返る。

フランシスは羽織っていたジャケットを脱いで椅子にかけ、そのままその椅子に座った。すぐ近くのテーブルに肘をついて、アーサーを見る。彼は目を閉じていた。

「そのほっぺた、どしたの」

とりあえず気になった事を尋ねてみると、

「べつに、ちょっと」

と、珍しく的を得ない答えが返ってくる。

「言いたくない事はやんないほうが良いんじゃない?」

「何だよ、俺に飢え死ねって言ってんのか?」

「そうじゃないよ、でもさ」

そこで言葉を切ると、アーサーはうっすらと目を開けた。僅かな隙間からちらつく光が、フランシスを刺す。

「もしそうやってお前の事殴りながら愛してるとか言うやつが居るなら、そいつはお前の事、愛してないかもよ」

愛には色々な形があるので、一概には言えないかもしれない。けれど、特殊なケースを除き、一方的に暴力を振るう場合は、彼ないし彼女が愛しているのは自分自身に過ぎないのではないかと、フランシスは思っていた。

「当たり前だろ」

反論が返ってくると思いきや、アーサーはすんなりと肯定を投げて寄越した。

「俺が客からもらってんのは金だ、愛じゃねえ。愛ってのは俺が売ってるもんだ」

自信満々にそう言われ、納得しそうになる。いやいや、けれど、そうではない。何か言葉を発しようとするフランシスの脳裏に、初めて会った夜、アーサーが囁いた言葉がちらついた。

———有償だけど、愛は愛だ。お前が欲しがるぶんだけくれてやる

フランシスは面倒くさそうに溜息をついた。もちろん面倒くさいからではない。価値観の違いを認め、それに少し悲しくなったからだ。

「本当の愛っていうのは売り物じゃないよ、お金では買えない」

「じゃあ偽物って呼べばいいだろ。買うやつは買う。俺は金がもらえて、飯が食える。薪が無くても布団がぬくい。良い事尽くめじゃねえか」

「…だけどたまに殴られるんでしょ」

「普通に生きてたってたまに殴られるだろ?」

「そういう時は金をとるんじゃなくて殴り返すだろ」

「お前見かけによらず野蛮だな」

「俺はやる時はやる男です」

ははは、と、アーサーは声を上げて笑った。ごろんと寝返りを打って、少し離れた位置に座るフランシスを見上げてくる。

「約束、おぼえてるか」

少し自信なさげに、アーサーが尋ねてきた。何の事だと一瞬迷ったが、ああ、あれか、と思い当たる。

「お前が俺の名前書けるようになったら酒飲みに行くってやつ?」

「そうそれ」

答えてやれば、アーサーは嬉しそうに笑った。

「ちょっと前に学者サマをひっかけたらさ、そいつ殴るタイプのやつだったんだ。でも追加の金がねぇってんで、字を教えてくれる事になった。今日、そいつが来る予定だったんだよ」

演技なのか本心なのか、やはりフランシスにはわからなかったが、アーサーが言わんとしている事は察した。

「お前の名前、もうすぐ書けるようになる。ちゃんと飲みに来いよ」


正直に言うと、驚くほどぐっと来た。

フランシスは、なんだか胸のあたりがぎゅっとなって、頭部の血流が活発になったのを感じた。ここしばらくずっと否定していた、自分の内側にあるふわふわの物を、とうとう、認めざるを得ない。むふふ、と嬉しそうに笑ってマットレスの上にまるまったアーサーのつむじを眺めながら、必死に言葉を探す。

「そいつともう会わないって約束に変えてくれたら、明日にだって行くよ」

「それだと割に会わない。お前は一回来て終わるし、俺は客を一人無くすうえに字も習えなくなる」

さらりと返されて、フランシスはぐうと唸る。このアーサーという男は、頭の回転が変に良い。

「じゃあ、俺が字を教えてやるよ」

半ば自棄になってフランシスがそう言うと、アーサーがガバッと身を起こす。

「え?」

「いやならいいけど」

アーサーが心底意外だという顔をするので、フランシスは少し身構えた。その視線の先で、アーサーが笑う。

「あはは!いいなそれ、なんかいい気分になってきた!」

よくわからないが、いい気分になったのならよかった、と、ほっと息をつく。そんなフランシスに気づいてか気づかないでか、アーサーは少し声を落とす。

「それで?俺は何をすればいいんだ?」

「え?」

フランシスとしては、その学者とやらと会わないかわりに、自分が字を教えると言ったつもりだったのだが、アーサーの中では違ったらしい。もしかしたら、客は新しくとればよいものだが、読み書きを教えてくれる対象はあまりいない、という事なのかもしれない。「ちゃんとした見返り」があれば何でもするとアントーニョは言っていたが、アーサーにとっての等価基準を、フランシスはまだ学びきれていなかった。

「うーん」

フランシスは唸った。正直な気持ちを言うなら、アーサーに字を教える事に、下心はあるにはある。けれどそれは、対価を求めるというよりは、特別なものがほしいという類いのものだった。すぐには無理でも、アーサーには、人が無償で与えることのできるものがあるのだという事を伝えたい。今の彼のように、与えられるものの価値と自分の価値を、常に秤にかけるような生き方は、何だか切ないとフランシスは思う。思うが、人の価値観というものはそれぞれで、それを覆す事は自らにしかできない。フランシスはアーサーの物のとらえ方や考え方を変えたいとは思わないが、それを理解したいと思ったし、アーサーにも、自分の世界を理解してほしいと思った。

「お前、一晩いくらなの」

ストレートに聞けば、素っ気なく値段が返ってくる。本人が再三にわたり高くないと言っていただけあって、本当に、手のとどく値段だった。偶然手にした一夜を思い出して、そんなの安すぎる、と憤りそうになったが、おそらくそれこそが、アーサーがイチバンで居続ける理由でもあるのだろうと思い当たる。けれどそもそも、彼の一晩の値段設定など、フランシスが口を出すような事ではないのだ。

「じゃあ、こうしよう」

今日という日は、おそらくは神様が与えてくれたチャンスなのだろうな、と思った。全てのカードが手の中にある。

「とりあえず、その学者さんともう会わないっていう約束をしてくれるなら、まずそのぶん、明日お前の店に行く」

「わかった、約束する」

食いつくように即答するアーサーに、フランシスは内心、ほっとした。

「それから、お前に文字を教えるかわりに、時々俺とデートしてよ」

「は?デート?…って何するんだ?」

「そうだな、買い物行ったり、飯食ったり…?とりあえず二人でゆっくりするんだよ。それで、たまにうちに泊まるの」

「うーん…ま、いいぜ」

アーサーは少し考えるそぶりを見せたが、最終的にはニカッと笑ってみせた。あまりに明るい笑顔だったので、フランシスもつられて笑う。

「それから」

「あ?まだ何かあんのか」

今度は何だと少し不機嫌になるアーサーに肩をすくめて、フランシスは思わせぶりに頬杖に乗せる頬を傾けた。

「こないだお前にもらった、名前書いた紙があるでしょ。あれのお礼をまだしてないから、もしお前が寒いなら、今夜添い寝してやるよ」

含みを持たせてそう言うと、アーサーはにんまりとした。それからマットレスの上を転がり端へ寄ると、

「いいな、それ。今度客に使う」

と囁くように言った。



---



翌日、アントーニョに事情を話して、レストランを少し早めに切り上げさせてもらった。例の鐘が十回鳴り終わるまでに、バーへ辿り着かなければならない。アーサーだけでなく、あの店に居る他の人々の仕事具合にも関係してしまうのだ。できるだけ遅刻はしたくない。

あの日と同じようにカウンターの端の席に座ると、はあ、と息を整えた。店内は相変わらず、穏やかな照明の下、ざわざわとせわしなく、そわそわと落ち着かない。チラリと階段の方を見れば、ギルベルトが少し驚いたような顔をしていた。それにひらりと手を振って、グラスを磨くバーテンダーに視線を移す。なるほど、確かにムキムキだった。へえ、この二人と、リーゼさんが兄弟なのか、と、似ている部分を探そうとすると、振り子時計が鳴り始める。しん、と静まるフロアのルールを、今日はフランシスも知っていた。あの日、気まぐれに遅れて降りて来たアーサーは、今日は一番に降りて来た。迷う事なくフランシスの目の前の席に腰を下ろして、うっとりと笑う。

「よぉ」

「どうも」

その返事が合図であったかのように、アーサーはカウンターに体重を預ける。

「誰か待ってんのか?」

「うん」

「そいつってAから始まる名前のやつ?」

「そうだよ」

「じゃあ俺だ」

いつかのやりとりを繰り返す。ふふ、と震えるアーサーの頬が少し暖かそうな気がするのは、もしかしたらフランシスの妄想なのかもしれないし、現実なのかもしれない。

「アーサー、愛してるよ」

「俺も、愛してるよ」

少なくとも片方は真実である言葉を交わし、二人は席を立つ。

階段に差し掛かり、ギルベルトが道を空けた。彼が何かを言いかけるのを、アーサーが視線で遮る。

そのウインクが何を意味するのか、フランシスは、まだ知らない。








おわり