10/4/2020
首輪なんて無粋だわ
「ヘぇ〜!カワイイじゃん!」
放課後、クルーウェルから突然呼び出されたケイトとヴィルは、それぞれ子犬を伴って帰路についた。サイエンス部の活動中に誤って犬になってしまう魔法薬を頭からかぶったルークとトレイは、それぞれ見事にゴールデンレトリバーと、テリア系の雑種の、それも生まれたての子犬の姿になってしまったらしい。先ほどから高いテンションでトレイの写真を撮り続けているケイトの横で、まだピィピィとしか鳴けないルークを片手で抱え、ヴィルは小さなため息をつく。クルーウェルの説明によれば、彼らは一日ごとに一年分ほど成長していき、犬としての寿命を全うした暁には元の姿に戻るらしい。大型犬のルークはだいたい二週間以内、中型犬のトレイはそれから数日後が目安との事だった。ものすごく正直に言ってしまえば、ヴィルは寮内の、しかも自分の部屋に、犬を入れたくはなかった。クルーウェルからは、犬用トイレやドッグフード、ノミ除け薬やリード、おもちゃのような歯ブラシ、それと大きなブラシ、などなどの一式も持たされている。自分の部屋の中で、犬とはいえルークがトイレをするなど、考えたくもなかった。
「トレイくんの寝てるところも、遊んでるところも、トイレしてるところも、マジカメにアップしてあげるからね〜!」
マジカメ映えとは一体何なのか。数時間前まで同級生だった(今も厳密に言うと同級生なのだが)子犬が可愛らしくて仕方がないと全身で盛り上がっているケイトを横目に、ヴィルは荷物を抱え直して鏡を潜った。
初日、ルークはよろよろと立ち上がり、ピィピィと鳴いた。ミルクを与えて、数分おきに注意を向ける。トイレをうまくできないでいるような雰囲気の時は、綿棒で肛門を刺激してやるらしい。これは子犬、ただの子犬、とヴィルは唱えながら、母犬よろしく世話をしてやった。ルークは図らずも、そして望みもしないまま、世界にその名を轟かせるヴィル・シェーンハイトに、綿棒であらぬところを撫でられたことのある男になった。よたよたと、それでも歩き回ろうとするルークの足をつつきながら、足が太い犬は大きくなる、とクルーウェルが言っていたのを思い出した。
二日目。ルークの身体は突然大きくなった。小さな子犬をタオルケットに包んで枕元に置いて寝たヴィルは、そのふさふさとしたしっぽで顔を撫でられて目を覚ました。成犬にはもう一歩足りない雰囲気の、けれど言動はもう犬だった。ワンと一つ鳴いた声が大きかったので、ヴィルは黙るようにと叱った。
「ちび時代ってこんなに短いのね。子役の撮影が難しいはずだわ」
ヴィルは早速、よくわかっていない顔をしたルークにリードをつけて、朝のジョギングに連れて行った。授業にも連れて行った。ルークは授業中、おとなしくヴィルの足元で伏せていた。興味を隠さないクラスメイトに、彼がルークだとは伝えなかった。事情があって預かっているの、とだけ繰り返すポムフィオーレ寮長に、誰が追求を重ねられるだろう。一部の者は何かしら気づいている様子だったが、釘を刺すまでもなく、関わらない事を選んだようだった。
三日目、ルークはしっかりとした成犬になった。太い前足に似合う大きく、がっしりとした身体に、ふさふさの、長めの毛。垂れた耳やしっぽはわかりやすく動くので、人間だったルークよりも、機嫌はわかりやすいかもしれなかった。もっとも、犬になったルークも常に楽しそうな足取りと表情で、そんなには変わらなかったけれど。外に出ればあちらこちらと歩き回り走り回る。他の生徒に襲い掛かったり噛み付いたりしないのは、少し意外だった。ルークはいつも、自らを狩人と称して憚らなかったので。
四日目から八日目まで、ルークはヴィルと元気いっぱいに過ごした。ヴィルと走りに行き、もりもりとドッグフードを食べ、森へ連れて行ってもらってはヴィルが呼び戻すまで自由に走り回った。夜はヴィルのベッドの上で丸まって寝て、朝はヴィルが目を覚ますまでおとなしく待っている。ブラッシングしてやれば気持ちよさそうに腹を見せ、シャワーに入れようとすれば暴れた。呼べば駆け寄り、遊んできていいと伝えれば一人でどこかへ出かけていく。歯磨きは嫌いなようで、いつもヴィルはルークを両足と片腕で捕まえていた。どれだけ唸ろうが、ルークがヴィルに傷をつけるとは思わなかったし、ヴィルは常にルークよりも立場が上であるという姿勢を崩さなかったので、犬のルークにもそのあたりは簡単に理解できたのだろう。とても賢い犬だった。
ヴィルがヨガやトレーニングを始めると、ルークは不思議そうにそれを眺めていた。ある時、ルークは戸惑いながらもヴィルの隣で伸びをし始め、ヴィルはいつだったかにマジカメで見かけた動画を思い出した。思わず笑ってしまったヴィルを見て、ルークは楽しそうにしっぽを振った。それからは毎日、並んでヨガをした。
九日目と十一日目、ルークは少しずつ、老犬になっていった。食事量が減り、運動量が減った。顔も少したるんできて、よく見ればちらほらと白髪が目立つようになった。けれどそのキラキラとした瞳は変わらずにヴィルを見つめて、垂れた耳でヴィルの声を拾った。ヴィルは驚いた。たった十日、たった十日なのだ。一日で一年分の年をとるとはいえ、まだ十日しか経っていなかった。けれど、十日というのは、情が湧くのには十分すぎる時間だった。ヴィルはもう、ルークが部屋で粗相をしても何も気にしなかったし(もちろん片付けは念入りにするけれど)、メイクをした顔をべろべろと舐められて臭そうな顔をされてもただ笑うだけだった。制服についた毛も、文句も言わずにコロコロで取り除くし、カーペットやベッドも、ルークに今日あったことなどを話しながらコロコロと掃除した。犬の世話なんてできるかどうかわからなかったが、なんとかなった。犬というか、ルークなのだけれど。ルークは犬になってもあまり変わらなかった。毎日楽しそうで、好奇心旺盛で、ヴィルを興味津々に眺め続けている。ヴィルのイライラを察知すればフンフンと寄ってきてべろべろと手を舐めたし、ヴィルが勉強をしたり読書をしている時は静かにそれを眺めていた。自分が食べているものとは違うものをヴィルが食べていると興味を示したので、犬用にスムージーを作ってやったら、ひと舐めしただけでもういらないようだったのだけは、少し腹が立った。
十二日目、朝よろよろとしていたルークは、夕方には起き上がれなくなった。部屋の隅を選んで横たわり、弱い呼吸を繰り返している。ヴィルはその日はクルーウェルに事情を伝えて授業を全て休み、ルークのそばにいた。初日に使ったトイレシートを、ここへきてまた、使った。
「ルーク」
ヴィルが呼びかけると、ルークは目を開けた。頭を持ち上げ、立ち上がろうとするが、手足に十分な力は無いようだった。
「いいのよ、無理しないで。呼んだだけなの」
ヴィルは、どうしていいのかわからなかった。こんなにも心が落ち着かないことが、今まであっただろうか。ルークはその目にヴィルを映して、珍しくむにゃむにゃと鳴いた。ヴィルも、動物言語は履修している。
ヴィル、しあわせだ、おやすみ
ルークはそれだけ言うと、目を閉じた。ピィピィと、鼻が鳴っているのが、少しずつ、弱くなっていった。
「ルーク…?」
わかっている。ルークは別に、死んでしまうわけではない。元の姿に戻るだけだ。クルーウェルがそう言ったのだから、そうなのだ。けれどヴィルは、この十日あまりの事を全部、ここへきて全部一度に思い出した。初日の、トイレをするのにも手伝いが必要だった、ほんの片手に乗ってしまうようなサイズの子犬だったルークも、森で自由にさせていたら全身泥だらけになって帰ってきたルークも、夜中に苦しくて目を覚ましたらいつのまにかヴィルの真上で大の字になって寝ていたルークも、ぜんぶ、ぜんぶ思い出した。走馬燈とは、命を終わろうとしている者が見るものではなかったのか。ヴィルは、ルークが初めてヨガをした時に思わず笑ってしまったように、思わず涙をこぼした。気づいてみれば、ヴィルはいつも、一人で一番前を歩いていた。誰もヴィルに追いつけないし、少しでも歩を緩めた者は容赦なく置いていった。ヴィルはいつでも、置いていく側だったのだ。それをこの男は、今は犬だが、とにかくルークは、仮初の死によって、ヴィルを置いていこうとしていた。
「ルーク」
他に言葉を知らないかのように呼べば、ルークはうっすらと目を開け、閉じて、クゥと鳴きながら長い息を吐いた。
「ルーク!!」
ヴィルは思わず、ルークの身体に覆いかぶさった。成犬となったルークは重く、手軽に抱き上げることはできない。訳の分からない喪失感に揺さぶられるまま、ヴィルは呼吸をやめたその身体にしがみついて泣いた。
ボワン
場違いなほど間抜けな、やわらかい爆発音がして、ヴィルの下で冷たくなりかけていた身体からふさふさの毛が消え、あたたかさが戻った。
「…ん、おや?」
すっかり人間の身体に戻ったルークは目を開けると、きょろりと辺りを見回し、すぐ側に座るヴィルを見つけるとがばりと身体を起こした。
「ヴィル!どうしたんだい?!そんなに頬を濡らして…ああ、本当にキミは美しいな!涙でメイクが崩れていてなお、そこにえもいわれぬ情感がある!ボーテ!!ハッ、でも今はそれどころではないね!どうしたんだい、毒の君、何か私にできることはあるだろうか?」
人間の形をしたルークは、すっかり元のルークだった。元どおり、生きている。ヴィルは更に涙を流しながら、けれど大きなため息をつきながら立ち上がった。
「まずは服を着てちょうだい」
「オーララ!なんてことだ!どうして私は全裸なんだい?!一体何が…そしてここはヴィルの部屋じゃないか!更に…ヴィル、これは…?」
「それはトイレシートよ」
「トイレシートだって?!」
「全部説明してあげるからとにかく服を着て。ほら、ここに一式あるから」
珍しく狼狽するルークを目の当たりにして、ヴィルは思わず笑ってしまった。ルークはそれを見て、今は無いしっぽを振った、ように、ヴィルには見えた、ので、一つため息をついた。
急いで身なりを整えるルークを背にして、ヴィルも急いでメイクを整えにかかった。
「ルーク、アンタね、サイエンス部の実験か何かを失敗して、十日間ちょっと犬になってたのよ」
お互い、身を整えるのに時間がかかるのはわかっているので、ヴィルはメイクをしながら口を開いた。
「犬に?それはまた興味深いね」
「全く…アタシがどれだけ世話してあげたと思う?」
「メルシー!私はやんちゃだったかい?」
「どうかしら。アンタも知らないアンタの事を、アタシが知ってるっていうのは気分がいいわ」
「ヴィル…」
本当に珍しく、ルークは困ったような声を出した。もしかしたら今回ばかりは副寮長の座を失うのかもしれない、という殊勝な事を考えているのかもしれない。ヴィルはルークのしっぽが徐々に下がっていくのを感じながら、メイクを直し終えた。
「アンタは一つだけ、どうしても許しがたい事をしたわ」
いつものように整った顔で、いつもより少しだけ潤んだ瞳のまま、ヴィルは振り返った。そこには、帽子こそ無いものの、見慣れた人間のかたちのルークが、初めて見るかもしれないような、緊張した面持ちで立っていた。ヴィルは立ち上がり、つかつかとルークに歩み寄った。身長とヒールの分、天に近い場所からルークを見下ろす。ルークは、少し硬い笑顔を浮かべて、まっすぐにヴィルを見つめていた。
「アタシはいつも、一番前を歩きたいの」
「心得ているとも」
ヴィルは、思い出したように涙を一粒落として、がばりとルークを抱きしめた。
「アタシより長生きしなさい」
「えっ」
「返事は」
「ウィ、ウィ」
ルークは、そっとヴィルの背に手を添えた。ヴィルの服が、前面だけ犬の毛だらけになっている事に気付いたが、ルークは何も言わなかった。
おわり
後日、犬の姿のトレイのありとあらゆる姿(おはようから次のおはようまで、ありと、あらゆる、様々な姿だ)がマジカメにアップされているのを見たルークは、写真の一枚も残さなかったヴィルに、跪いて感謝を伝えた。当のトレイはと言えば
「俺、けっこうかわいいじゃないか」
といつもの笑みを浮かべていたとか、いなかったとか。