路地裏のクイーン
3/12/2016
リーゼロッテの赤ん坊が死んだ。
その日も、街は朝から忙しかった。馬車に乗り出かける者、客の靴を磨く者、店のドアを開け、看板を掲げる者。空は雲を伴った青で、風は少し暖かさを含み始め、花はつぼみを膨らませている。近所の者との挨拶、世間話のざわめき、遠くで新聞を売る声。市場には新鮮な肉や瑞々しい野菜が並び、果物をかじる者もいた。
フランシスはその足の踏み場も無いほどの日常の中を器用にすり抜けて、職場であるレストランへ向かっている。店は臨時休業だ。まだ暗い空のうちに、アントーニョが真っ白な顔でそう告げに来た。どうやって返事をしたのか、覚えていない。フランシスはどうして良いかわからずに、とりあえずの朝食をとるとふらりと自宅を後にした。目耳に入るもの全てがいつもとまるで変わりなく、個人にとっての大事件も、世界にとっては取るに足らない事なのだと、こんな時にこそ胸の辺りを強く掴まれたように感じた。
どのような気分であれ、歩き続ければ目的地には到着してしまう。フランシスは静かに裏口の鍵を開けた。アントーニョはいつも遅れて来るので、キィと扉を開けた先に誰も居ないのはいつもの事だ。けれど今は、昨日と変わらないはずのその様子が酷く冷たい。いつだって世界は、自分の心ひとつで、色も温度も、やわらかささえ一瞬で変えてしまう。フランシスはカーテンを開け、窓を開け、テーブルから椅子を下ろす。明るくなった室内は、けれどやはり、凛とした佇まいを緩めようとしなかった。フランシスはカウンターの一番端の席に座ると、頬杖と溜息をついた。
赤ん坊が死んだ。
アントーニョがぽつりとこぼした言葉を思い出す。その赤ん坊は、彼らの実の子ではない。ある日、アーサーが拾って来たのだ。子供好きなアントーニョとリーゼロッテは快くその子供を預かった。ほんの数日前の事だ。名前は、その日のうちに決まった。お星様通りのルールに則り、赤ん坊を拾ったアーサーと同じように、Aから始まる名前がつけられた。くりっとした青い瞳に、路上には珍しい金髪をしていた。その風貌はリーゼロッテの弟の一人、筋肉質なバーテンダーのルートヴィッヒにどこか似ていて、隠し子ではないかとからかったものだ。当然、リーゼロッテにも何の準備も無かったし、乳の出るはずもないので、慌てて大家の老婆に知恵を借りに皆で走った。大家に事情を話すと、どこかにとっておいたはず、と、孫が使っていたという肌着やブランケットを貸してくれた。赤ん坊は歯も生えていなければ首も据わっていなかったので、急いでアーサーとアントーニョの伝手を辿って、乳の出る女性を探し、少しで良いのでと頼み込んで分けてもらった。何も知らない赤ん坊は、あやされれば笑い、ミルクを与えられれば喜んで飲んだ。夜中でも元気に泣いたし、アントーニョの寝不足も、見ていて幸せそうだった。
何故、と、問うても仕方の無い事が、この世には山ほどある。
「よぉ、邪魔するぜ」
コンコン、と聞き慣れたノックの音に顔を上げると、戸口にアーサーが立っていた。出会った頃はなかなかキッチンに入って来ようとしなかったが、今ではするりと中へ入ってくる。アーサーはフランシスの隣に座った。
「死んだんだってな」
ぽつりとこぼされた言葉に、ああ、と曖昧に頷く。アーサーは、ぽん、とフランシスの背中を叩いた。
「リーゼロッテは強い女だ。これが初めてじゃない。乗り越えられる」
やけに確信めいた物言いをするアーサーに、フランシスは顔を上げた。どういうこと、と聞く前に、腹が減ったと言われてしまったので、フランシスはのっそりと厨房に立った。簡単にオムレツでも作ってやろうかと、卵を手に取る。数度、調理台に打ちつければ、卵の殻にヒビが入った。
「ねぇ」
片手で卵をボウルに落とし、二つ目の卵を手にする。
「一度では割れない卵も、何度も打ちつけたら割れるんだよ」
「そりゃ、割れた卵は治らないからな」
重苦しく吐き出したフランシスの言葉に、アーサーは事も無げに返した。
「骨は折れた後ちゃんと治せば前より強くなるらしいぜ」
アーサーはつまらなそうに方眉を上げてそう言ったが、卵をかき混ぜるフランシスの横顔を見て、ふと、目を見張らせた。
「そうか、お前、ガキが死ぬのを見るのは初めてか」
そう言われ、フランシスの肩が僅かに跳ねる。
「…うん」
嘘をついても仕方がなくて、フランシスは素直に頷いた。
それからオムレツが出来上がるまで、キッチンには調理の音と、アーサーの鼻歌が響いた。話をする気分でもなかったフランシスにはありがたかったが、それがアーサーの気遣いなのかどうなのかまではわからなかった。ただ、黄色くどろりとしたといた生卵にふんわりとした形を持たせていく。調味料や焼きの案配は五感が覚えている。最後にソースをかけてパセリを添え、賄にしようと思っていた前日の余りのバゲットも切ってやった。カウンターにマットを敷きカトラリーを並べ、飲み水も出してやる。その真ん中へオムレツのプレートをコトリと置くと、アーサーから感謝の言葉が聞こえて来た。
「あの赤ん坊はな、お星様通りの近くにある教会から拾って来たんだ」
オムライスを食べ始めるのと同時に、アーサーが話を始めた。フランシスはキッチンに立ち、カウンター越しにそれを聞いている。
「赤ん坊ってのは、だいたい教会の前に捨てられる。その時にもし教会…っつーかなんか子供集めてるとこあんだろ、そこに余裕があればそこにやるし、そうじゃなけりゃ、ちょっとの金と一緒に教会の裏手に置かれんだよ。俺らはそういうのを拾っちゃ、金をもらうかわりにある程度までは面倒を見る。っつっても乳が出るわけでもねえし、だいたい娼婦の姉さん達に頼むんだけどな。人間ぽくなってきたら、喧嘩やなんかを教えてやるんだ。俺らが見つけた時にもう死んでるやつもいるし、腹減らして死ぬやつもいる。死んだやつは小さいガキが教会に持ってくと、またちょっとだけ金をくれるんだぜ。だからあそこには死体が転がってないだけさ」
アーサーはそう言いながらも、オムレツをぺろりと平らげた。
「トーニョも俺も、たまたまそん中を生き残っただけ。リーゼロッテだって同じようなもんだ」
事も無げに言いながら、空になった皿をひょいと出された。おかわりを寄越せという合図だ。フランシスはその皿を受け取りながら、自らの幸運を感謝した。少なくとも孤児院では、飢えや暴力で死ぬ者は無かった。病気や怪我で亡くなる可能性も、お星様通りよりはぐんと低いだろう。もう一つ卵を取って、割った。フレンチトーストを作ろうと、ミルクも出した。
ふと、思う。
アーサーも随分とフランシスに懐いたものだ。出会った頃は、こちらが何かをしてやるたびに、向こうからも何かを受け取らなければならなかった。見返りの必要ない施しは教会からしか受けない。そんなポリシーは、もしかしたら彼らの命のすくわれ方に由縁があるのかもしれない。それが今では、ふらりとこのレストランを訪れ、フランシスに食事をねだる。フランシスは変わらずにアーサーに読み書きを教えてやっているし、その見返りの恋人ごっこは、今でも続いていた。店の外で二人で会って食事をしたり、近くの丘までピクニックに行ったり。アーサーは根気よくそれらに付き合ってくれているが、その本心がどこにあるのか、フランシスはまだ知らなかった。
アーサーの腹が満たされると、二人はアントーニョの家へと向かった。そっとしておいたほうが良いのではないかと言うフランシスに、わかったお前が落ち込んだ時はそっとしておいてやるから今日は行くぞとアーサーが言った。もうすぐランチタイムになろうかという時間で、街の中は、朝とは異なる喧噪で満ちていた。その砂埃と咳払いの中、好きにさせるとすぐに裏路地に入ろうとするアーサーの腕を掴んだまま、フランシスは大通りを歩いた。空いている方の手には、見舞いにと蜂蜜の入った瓶を持っている。レストランからアントーニョの家へは、そんなに遠くない。ツーブロックも歩けば、すぐにアパートメントが見えた。一階の、大通りに面した一番北の部屋がそうだ。カーテンが閉められているのを横目に見ながら、二人は玄関へと回る。ノッカーを二度鳴らすと、しばらくしてアントーニョが顔を出した。
「おお、来たか、おおきにな」
そう言って二人を招き入れるアントーニョは、疲れこそ見えたものの、そこまで憔悴している様子は無かった。その様子にフランシスは少しほっとして、蜂蜜の瓶を渡した。
部屋へ入ると、窓の傍に籠が置かれ、その中に、この家の中で一番上質であろう布にくるまれた赤ん坊があった。そばには蝋燭が灯され、うっすらと香が燻らせてある。
「蝋燭とお香買うたら、棺買えんかった」
静かに、アントーニョが笑った。籠の横に、床に座っていたリーゼロッテも、つられて笑う。
「良いのですよ、顔は最後まで見えていた方が」
赤ん坊は静かで、少し冷たそうで、ただ眠っているだけのようにも見えた。リーゼロッテが、その頬をそっと、撫でた。泣きはらした目元が赤く潤んで、軽く結わえただけの髪がほどけかけている。アーサーがその様子を見ながら、けれど珍しく何も言わないので、フランシスも何も言わなかった。
どのくらいの時間が経ったのか、わからない。リーゼロッテが一つ息を吸い、そして吐き、立ち上がった。その場で髪を結い直し、簡単に身なりを整えると、アーサーを見る。
「さて、行きましょうか」
そう言う彼女の肩を、アントーニョがそっと抱いた。
籠は、アーサーが抱えた。顔まで全てを布で覆い、しずしずと家を出た。できるだけ裏通りを通って、四人はお星様通りへと向かって行く。フランシスにとっては、初めてのお星様通りだった。歩いている途中で、アントーニョがフランシスから蜂蜜の瓶を受け取った。お星様通りで高価な物を持つのは、それを守る事のできる者でなければならない。アントーニョは片方の手で蜂蜜の瓶を抱え、もう片方の手でリーゼロッテの手を引いた。
徐々に、人通りが減っていく。通りに面した窓も減っていき、ドアの周囲には鉄格子が設置されている建物が殆どになってきた。
「フラン、アーサーと俺の間にリーゼと並んで入り」
アントーニョがそう声をかけると、アーサーとリーゼロッテは慣れた様子で歩く位置を変える。
「ええか、絶対誰とも目ぇ合わせんな、何か言われても無視せえよ」
低い声でそう言われてしまえば、フランシスは頷く他ない。通り全体がなんだかガランとしていて、人の気配がしない。比較的安全な道を選んでいるのかもしれないが、それでもフランシスの肌は粟立った。誰も居ないのに、誰かに見られている気配がする。フランシスがそんな感覚に怯えている間に、四人は薄通りを決して通る事なく、教会へと辿り着いた。
古い様子を隠そうともしないその教会は、けれど、狭い庭を見る限り、丁寧に手入れがされているようだった。高い位置にあるステンドグラスが鈍く光っている。呼び鈴は無く、手の届く高さに窓は無い。アーサーが肩で体重をかけると、鍵のかかっていない扉は、重く開いた。四人は滑り込むように中へ入る。すると、一人の神父が椅子から立ち上がるところだった。
「おや」
お久しぶりですね、と笑う彼は、東洋人だった。フランシスにとっては、初めて見る東洋人だ。思わずまじまじと見てしまった。キクと名乗った彼はアーサーが抱きかかえているものを見ると、わずかにだけ表情を動かした。噂には聞いていたが、東洋人というのは本当に表情が変わらない。フランシスは少し感心した。キクは赤ん坊と、それから蝋燭と香を丁寧に受け取った。布をずらして、その顔を見ると、その額と頬に触れた。
「要りますか?『お駄賃』」
キクがそう言うと、アーサーとアントーニョは、肩をすくめて首を横に振った。
「これ、一緒にしてやって」
アントーニョはそう言うと、持っていた蜂蜜の瓶をキクに渡した。高価な食べ物だ。キクはそれも丁寧に受け取ると、籠の中にそっと置いた。
「もう腹空かしなや」
アントーニョは最後にそう言うと、赤ん坊の額にそっと口づけた。それに、リーゼロッテも続く。
「ごきげんよう」
その様子を、キクは静かに見ていた。フランシスの隣に立ったアーサーも、じっとしている。別れの挨拶が終わると、キクは籠を抱え直した。
「祈りを聞いて行かれますか?」
「いや、明日の準備せなかんし帰るわ。俺らは俺らで明日が来よる」
アントーニョがそう答えると、キクは引き留める事はしなかった。籠を抱えたまま微笑み続けるキクを残して、四人は教会を出た。帰り道は、行きよりも早足だった。アーサーの言う事には、教会から出てくる者が「お駄賃」を持っているのは衆知の事で、隙あらばそれを奪おうとする輩が多いのだそうだ。いくらアントーニョとアーサーが喧嘩に強くとも、今は女性であるリーゼロッテと、見るからに喧嘩に慣れていないフランシスが一緒に居る。避けられる面倒を全力で避けて、半ば駆け抜けるようにお星様通りを後にした。
フランシス達が見慣れた街並の景色にほっと息をつきながら溶け込むと、アントーニョとリーゼロッテは挨拶をして家へ帰って行った。フランシスは、アーサーを伴ってレストランに戻った。明日は店を開くのだ、アントーニョの分まで、仕込みをしなければならない。そんな事を冷静に考える自分が、どこか不思議だった。おそらくはアントーニョと、そして何よりリーゼロッテが、自分の足で力強く歩き、走り、前を向いていたからなのだろう。
「強い女性だね、彼女は」
手を洗い、エプロンをつけて、三角巾を被りながら、フランシスがぽつりとこぼした。アーサーは定位置となったカウンターの端の席で頬杖をついて、その様子を眺めている。
「誰だって最初から強いわけじゃねぇよ、最初の時は、俺らみんな、リーゼロッテも一緒に死んじまうと思った。あいつ二回、堕ろしたんだ。どっちもトーニョの子だったんだぜ」
「え…?」
彼ら夫婦は二人とも敬虔な信徒で、彼らの教義では堕胎手術は禁じられていたはずだ。決して同意の上ではあるまい。きっとそれは、弟二人を養わなければならないリーゼロッテと、それからアントーニョの、おそらくフランシスには想像もできない程の葛藤の末の決断だったに違いないのだ。それでも、いつだって感情は理性を裏切り、全てを食らい尽くすかのように暴走する。手術を終えて目を覚ましたリーゼロッテの手を、アントーニョが強く握っていた事を、フランシスはひたすらに願った。そして、その頃にはすでに二人で店を始めていたはずだが、それを一切フランシスに悟らせなかったアントーニョという男に、恐怖にも似た感心を覚えた。
「ま、お前も大概弱っちいが、俺の尻をおっかけるんなら強くなれよ、ダーリン」
アーサーはそう言って笑うと、いつもの通り気まぐれな様子で、ウインクをしながら出ていった。
一人になった厨房で、フランシスは玉ねぎを手に取る。慣れた様子で皮を剝いて、包丁を入れた。明日の朝には、リーゼロッテとアントーニョが、いつものように市場から新鮮な葉野菜や果物、肉や香辛料を仕入れてくるだろう。食材庫にはたしか、薫製にした肉も残っていたはずだ。明日のメニューを考えながら、フランシスの両手は軽やかに玉ねぎを切っていく。フランシスだって、最初からこのように料理が上手かったわけではない。卵だって片手で割れなかったし、先輩シェフの真似をして軽やかにみじん切りをしようとして、自分の手を切った事もあった。
人は生まれてから死ぬまで、数えきれないほどの「初めて」の事をする。
先日、何かの折に、アーサーに初めての客について尋ねた事があった。決して軽い気持ちではなかったが、好奇心があった事は否定できない。アーサーはフランシスのそわそわとした様子を気にもせずに、そう、その時はたしか鶏肉のシチューを出してやっていたのだったが、もりもりとシチューを平らげてバゲットをちぎりながら話してくれたのだ。
「あ?俺の初めての客?そうだな、客っつうか…まだ盗みで何とか食ってた頃だな、ある日突然オッサンに適当なとこ連れ込まれて金もらったあれだな」
アーサーはそう言いながらもぐもぐと食事を続け、そして突然笑い出したのだ。
「まあでも、俺そん時紙の金なんて知らなくてな〜!意味も分からず座り込んでたらすぐにリンチされてとられたけど、トーニョにあれがけっこうな金だって教えてもらってからぼこぼこにして倍の金奪い返してやったよ!」
アーサーはその後、アントーニョとタッグを組んで喧嘩をした様子を臨場感溢れる様子で語った。喧嘩もそうだが、紙幣を知った事と、結果的に男性から支払われた倍以上の額を手に入れた事が相当楽しかったようで、その夜はずっと、機嫌が良かった。
フランシスは時々、アーサーの語る日常と、自分の慣れ親しんだ日常との違いに怖くなる。実際にお星様通りを歩いてみて、ここしばらく隠れていたその恐怖が明らかに顔を出していた。ありきたりの言葉を使うとするなら「住む世界が違う」とでもなるのだろうか。好意としての食事を受け取ってもらえるようになっても、気まぐれに遊びに来てくれるようになっても、全く別の価値観の上に生きているアーサーがフランシスの事をどう思っているのか、よくわからない。初恋などとうの昔に済ませているし、だからこそ、アーサーの一挙一動にそこまで一喜一憂などしない。きっとこれは、恋に対して強くなってきたという事なのだろう。けれど、アーサーのような野良猫を相手にするのは、フランシスは初めてなのだ。
鼻先を、炒めた玉ねぎの甘い香りがくすぐった。もうこのくらいで良いだろう。大きめの鍋に水を張り、火をつける。すると、裏口をノックする音が聞こえた。この店の扉をわざわざノックして、更に中からの返事を待つ知り合いなど、数えるほどしか居ない。ギルベルトか、ルートヴィッヒだ。時計を見れば、なるほど、彼らの職場の開店までは、まだ随分と時間がある。リーゼロッテのところへ行くついでに寄ったのだろう。フランシスは大声で返事をすると、急いで手を拭いてドアを開けた。
「邪魔をする」
果たして、そこに居たのはルートヴィッヒだった。店でグラスを磨いている時と同じように真面目な顔をして、筋肉質な背中をすっと伸ばして立っていた。
「すまないが、四人分の食事を用意してもらえないだろうか?ある物で構わないし、支払いもきちんとする」
落ち着いた声でそう言うので、フランシスは困ったように笑った。
「いいよ、ちょっと待ってな」
ルートヴィッヒを店内へ招くと、彼もカウンター席の端へと座った。皆、端が好きなのだな、と何となく思う。食材を揃え、料理を始めながら、フランシスはルートヴィッヒに声をかけた。
「お代はいいよ、こんな日くらい」
「しかし、この店ではツケと食い逃げは許されないと聞いている」
どこまでも真面目な男だ。フランシスはもう一言何かを言おうと、ルートヴィッヒを振り返った。すると、アイスブルーの瞳がまっすぐにフランシスを見ていた。
「それに、これは悲しい事だが、特別な事ではない」
抑揚無くそう告げられると、フランシスは、曖昧に相槌を打つ事しかできず、黙々と料理を続けた。人は必ず死ぬ。それは「いつ」そうなるかの違いだけなのだ。ルートヴィッヒはアーサーと同じ場所に立っているのだと漠然と感じ、フランシスは少し揺らいだ。まるで自分だけが、崖に張られた危うい綱の上を歩いているようにさえ感じた。アントーニョもリーゼロッテも、おそらくはギルベルトもルートヴィッヒも、そしてアーサーも、揺るがない地面の上を歩いているように見える。けれど、とフランシスは思う。きっと彼らも、フランシスのように綱の上を歩いていて、けれどその足取りが揺るがないだけなのだ。先ほどアーサーに言われた「強くなれ」という言葉が、急に重みを増したように思えた。
フランシスは自棄になって、手早く四人分の食事を用意すると、野菜の入っていた箱にテーブルクロスを敷き、そこへ料理を詰めた。それなりの重さになったそれを、ルートヴィッヒは軽々と持ち上げ、代金を払い、深く礼を述べて去って行く。背中は真っすぐ伸びていた。彼は嘘をつかないし、素直で、正直だ。その背中が雑踏に紛れるまで見送って、フランシスは、仕込みを終えたら、アーサーに会いに行こうと決めた。
ーーー
「よぉ」
十時を報せる鐘の音からやや遅れて、アーサーはフロアへと降りて来た。彼はいつものように部屋の端から端まで視線を巡らせ、バーカウンターに座るフランシスを見つける。バーではルートヴィッヒが、いつものようにグラスを磨いていた。階段のそばに、ギルベルトも立っている。
「また来るかもと思ってたけど、今日来るとは思ってなかった」
アーサーはフランシスの隣に腰掛けると、ちらりとルートヴィッヒを見やった。心得たもので、ルートヴィッヒはすぐにエールを二つ、テーブルに並べる。アーサーと店の外で会うようになってから、フランシスは店には訪れなかった。苦いような、甘いような思い出が脳裏にちらつく。店の中は前回来た時と何も変わらなかった。
「だめだった?」
「俺はいつだって歓迎する」
カツンと、ブリキのカップを触れ合わせ、二人はお互いを窺いながらエールを飲んだ。
「ただ、お前はこういう時、ほっといてほしい奴だと思ったからさ」
カップから口を離したアーサーが、少し戸惑ったように口を開く。おそらく、アントーニョとリーゼロッテをそっとしておこうと言った時の事を覚えていたのだろう。アーサーのそんな様子を見たのはそれが初めてで、彼にもこんなふうに気を遣う事があるのか、とフランシスは少しだけ驚いた。
「よく考えたらさ、俺、ほっとかれて大丈夫なほど強く無かったんだよ」
驚きはしたが、正直に白状した。するとアーサーは、呆れたように、けれどとても優しく笑った。
「仕方ねぇ奴だな」
アーサーは二人分のエール代をカウンターに置くと、フランシスの背を撫でながら階段へと向かった。
フランシスには、アーサーがフランシスをどう思っているのか、やはりよくわからない。けれど自分アーサーをとても大切に思っている事、そしてたまにどうしようもなく甘えたくなる事を、嫌というほど知っている。危うい綱の上を歩き続けるには、今はそれで、充分だった。
翌日も、街は朝から忙しかった。馬車に乗り出かける者、客の靴を磨く者、店のドアを開け、看板を掲げる者。空は雲を伴った青で、風は少し暖かさを含み始め、花は咲き誇るその時をじっと待っている。近所の者との挨拶、世間話のざわめき、遠くで新聞を売る声。市場には新鮮な肉や瑞々しい野菜が並び、果物をかじる者もいた。
フランシスはその足の踏み場も無いほどの日常の中を器用にすり抜けて、職場であるレストランへ向かっている。今日もアーサーは来るだろうか、もし来たら、デザートをすこしオマケしてやってもいい。考え事をしながら歩き続けると、すぐに目的地に到着する。フランシスは静かに裏口の鍵を開けた。ドアを開けると、キッチンが静かにフランシスを待っていた。カーテンを開け、窓を開け、テーブルから椅子を下ろす。きっともうすぐ、アントーニョが、リーゼロッテと仕入れた野菜や肉を持ってやって来るだろう。彼らは昨日、赤ん坊を亡くした。けれど今日も生きる。そしてまた、強くなっていくのだろう。
「ごきげんよう、フランシス」
凛とした声にフランシスが顔を上げると、箱を抱えたアントーニョの隣に、リーゼロッテも立っていた。手には花束を持っている。
「おはよう、今日も美人だね」
「おはようさん」
フランシスが挨拶を返せば、アントーニョが割り入ってきた。
「市場の方が、お花をわけてくださいました。こちらに活けてもかまいませんか?」
「ええよな?」
フランシスは笑って頷くと、しまってあった花瓶をとりに行く。
このレストランの誇る強く美しいクイーンの頼みを、断ることのできる男はこの場にはいなかった。
おわり